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巨匠・新藤兼人~鬼と出会った夏

日本映画界の巨匠・新藤兼人監督が鬼籍に入られてから、今年5月で11年になる。
早い。もうそんなに経つのか・・・。

私はたった一度だけ、ご本人にお目にかかったことがある。
四半世紀ほど前、中国地方の小さな島で。
町おこしの一環で公募したテレビドラマ脚本コンテストに入選し、表彰式へ招待されたのだ。

当時私は20代後半、関西で脚本家を目指し勉強していた。
初の最優秀賞受賞。作品はドラマ化されるという。
暑い盛りの8月の午後、胸はずませて島へ渡った私だったが、役場へ顔を出すと「表彰式は盆踊り大会の前に行うから日暮れまで待って」とのこと。近くに時間をつぶせるような店もなくどうしたものかと途方に暮れていたとき、優しく声をかけてくれた人がいた。

「あなたも一緒においでなさい」

それが新藤兼人監督。脚本コンテストの特別審査委員長で、町が用意した夕食会場へ向かわれるところだった。

「先生、それはちょっと・・・お料理が・・・」

困惑する町の職員。しかし監督はにこにこ笑いながら、きっぱり言い切った。
「構わんさ。ぼくのを一緒に食べればいい」

それからは、まるで夢のような時間。 
町が監督のために用意した超豪華な宴席。いくら受賞者といえ、関係者にとって私は明らかによけいな存在。
(せっかく監督のために用意した料理なのに・・・)
ひしひしと感じるお偉方たちの冷たい視線に、なんとも肩身が狭い。
だが監督だけは一向に気にせず、隣に座らせた私にせっせと自分の料理と酒を勧めてくださった。
「ホラ、この魚も食べなさい。天ぷらもうまいよ」

当時新藤監督は70代後半ではなかったろうか。よく食べよく飲む健啖ぶりに感服したが、輪をかけて驚いたのが、気さくで偉ぶらないお人柄。

「君のシナリオはね、悪くはないが人間が描けていない。生身の人間の息づかいが伝わってこないんだなぁ」

「セリフをきれいにまとめようとしちゃいけない。言葉にならない余白が大切なんだ」

「脚本は難しい。ぼくだって一作書くのにどれほど呻吟することか」

一介の素人にすぎぬ小娘に対し、その拙い作品について懇切丁寧にアドバイスしてくださったばかりか、脚本や映画製作にかける思いを、わかりやすく深い言葉で熱く語ってくださった。
天下の大監督が、である。

(なんてすごい方なんだろう・・・)
全身震えるような緊張と感動に包まれ、料理の味などロクにわからなかった私。
そのときだ。
監督の眼を見て、ハッとした。
(この眼、何かに似てる・・・)

ちんまりした黒い瞳。子どもの頃拾って遊んだ木の実にも似ているが、別の何かを思い出させた。
(何だろう、何だっけ・・・?)
語り続ける監督の眼をひしと見つめながら考えていた私は、心で「あっ!」と叫んだ。

(そうだ、鬼! これは鬼の眼だ)

温厚な笑顔のなかの瞳。そこには独特の光が宿っていた。日本刀の切っ先のように鋭く、ときには問答無用で斬り捨てるようなすさまじい煌めき・・・。

それはまさに〝もの作りに命を懸ける鬼の眼〟。
監督の半生については著書や作品のビデオで予習してきたが、あの瞳には私のような若輩者には想像も及ばぬ、激動の人生を泥水にまみれながら生き抜いてきた人間だけに宿る光――のようなものが浮かんでいた。
私のような一般人には優しく温かでも、脚本執筆や映画撮影の現場では妥協せぬ厳しさを孕み、ギラギラした妖炎を浮かべるのだろう。

(怖い・・・)
私は背筋がゾッとし、同時に形容しがたい感動を覚えた。

その後の表彰式では、新藤監督から賞状と握手をいただいた。その手は力強くて温かく、ほほえむ鬼の眼も穏やかで優しかった。

現在私は50代。30代後半で故郷へ戻り、脚本から児童文学へ転向。童話やエッセイの公募で入選を重ねてはいるものの、目指すプロにはなれていない。

ご存命のときも、そして亡くなられてからはさらに頻繁に、新藤監督の〝鬼の眼〟を思い出す。あの優しくて怖い瞳は私の心にくっきりと刻印され、生涯消えることがないだろう。

脚本と児童文学。ジャンルは異なるが、『一からものを書く・創る仕事』である。

「書きなさい。生身の人間をじっくり見つめて、地道に書き続けなさい」

厳しい光を宿した瞳で、そう励まされているような気がするのだ。

たった一度の忘れられない出会い。
新藤兼人監督からいただいたかけがえのない贈りもの――鬼の眼。

無名の素人にすぎぬ私だが、その贈りものを支えにこれからも書き続けていく。
そして必ず、夢を実現させるのだ。
それが亡き新藤兼人監督への――唯一の恩返しだと思っている。


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