技の指導は本当に必要か

『New体育論』シリーズで紹介している体育観は、今持てる能力でゲームを楽しませることを基本のコンセプトとしているため、多くの領域に重要なヒントを与えることができていると感じている。しかし、体育が抱えている命題の一つである「技能面の指導」に関しては、十分な答えを用意できていないのではないかと考えた。

その理由は、複数の方から同じような質問が寄せられたからである。
・New体育論的な考えでは、逆上がりの指導はどのように行いますか?
・高学年では〇〇跳びを指導するようになっていますがどうしていますか?
など、そのほとんどが「器械運動」に関連する内容である。

たしかに従来の体育観でいえば、器械運動単元ではその学年に対応した「技」が段階的に設定され、毎年その技術の獲得のために練習するといういかにも算数的な学習活動が展開されてきた。その学年に指定された「技」を身につけることが無条件にゴールとして掲げられ、完全に技能主義的な体育であることは疑うまでもない。

器械運動単元が目指している「今はまだ身につけていない技能」を中心とした授業設計は、New体育論が謳っている「今持っている技能」を中心とした授業設計と相反するものであるが、ならばそこに明確な対案が提示できなければならない。そこで本稿において、このような「技の指導」に対して一つの提案をすることを目指す。

「要求される能力」と「供給できる能力」

今回は「技能」をテーマとして扱うため、はじめに「技」について定義することから始めたい。やや遠回しな表現になるが、すべての運動は、その主体(運動する者)に一定の運動能力を駆使することを要求している。例を挙げると、「歩く」という運動は、二本足でバランスよく自立する能力や、リズムよく下肢を動かす能力などを要求している、となる。そして、これに対応する能力を主体が有しているときに初めて、「歩く」という運動は実現されることになる。しかし、生まれたばかりの赤ん坊のように二本足で自立する能力を持たない主体には、「歩く」という運動は実現できない。つまり、運動から「要求される能力」を、主体が自己の身体を以て「供給できる」ときに、その運動は可能となる。

さらに、運動が主体に「要求する能力」は、①一般的な運動能力(筋力・持久力・バランス感覚など)と②種目特定的な運動スキル(協調のタイミング・特異的な関節稼働など)に分けることができる。したがって、実際にその運動が可能な場合は、①運動能力と②運動スキルの両方を「供給」できているということになる。

できる「動作」とできない「技」

実現したい「運動」とそれを実施する「主体」との関係をこのように定義した。では、「技」とは一体何なのか?私は次のように定義する。

動作:要求された能力を十分に供給できる運動
技:要求された能力を今持てる能力では供給しきれない運動

簡単にいえば、今の能力で十分できる運動が「動作」であり、今の能力では実施できない運動が「技」である。上記の例でいえば、ほとんどの人にとって「歩く=動作」であり、生まれたばかりの赤ん坊にとっては「歩く=技」である。

体育の器械運動は、指定された運動がその子にとって「技」であることが前提とされ、すなわち初めの時点では実施に必要な運動能力または運動スキルが足りていないという前提に立つ。ここで、足りていないのが「①運動能力」なのか「②運動スキル」なのかで大きく話が変わってくるのだ。

「技」から要求された能力を供給できない状態には、次の3パターンがある。

A:種目特定的な運動スキルが足りない
B:一般的な運動能力が足りない
C:どちらも足りない

A:種目特定的な運動スキルが足りない

例として、鉄棒の逆上がりで考えてみる。このパターンでは、一般的な運動能力は足りているが、逆上がり特有の動きをするためのスキルが身についていない状況を意味する。つまり、筋力や柔軟性が十分にあるが、足を振り上げる感覚や上体を”起こす”感覚がわからないという場合である。このような場合は、逆上がり特有の運動感覚さえつかめれば、いつでも逆上がりができるようになる。だからこのパターンに関しては「反復練習」が最適なアプローチとなる。

B:一般的な運動能力が足りない

このパターンでは、逆上がり特有の運動感覚はすでに身についているが、そもそもの筋力等が足りなくてできないという状況を意味する。このような場合は、腰を支えたり補助板を使うなど、何らかの「補助」を受けていれば成功できる可能性が高い。しかし、そもそもの運動能力の不足が問題であるため、逆上がりを練習しても逆上がりは上達しないという問題に直面する。腕力なのか、脚力なのか、不足している運動能力を見極めて、それを高めることで「逆上がりができる体つくり」というアプローチをとることが求められる。

C:どちらも足りない

一般的な学級ならば、このCパターンに属する子は必ずいることだろう。体格が未発達だったり、肥満傾向で身体を操作するだけの十分な筋力や柔軟性がなかったりする場合が多いのではないか。このように体格的なディスアドバンテージを抱えている子は、逆上がり特有の運動スキルも持たない場合がほとんどである。このような場合、率直にいって「逆上がりにチャレンジすることは無謀」である。生まれたばかりの赤ん坊に歩行ができないことと同様に、逆上がりをするための身体のレディネスが整っていないため、この場合は「逆上がりができる身体になるまで時期を待つ」のが最善である。

「運動スキル」より「運動能力」を高める

以上の3つのパターンに対する検討を踏まえると、クラス全員で逆上がりができるように練習しようという算数的な体育授業がいかにそぐわないかがわかるだろう。「逆上がり」という特定の運動を反復練習することで獲得できるのは「逆上がり特有の運動スキル」であり、これは逆上がりが要求する能力の②と対応する。しかし、これによって救われるのはAパターンの子だけであり、①一般的な運動能力が不足している子にとっては決して有効なアプローチとはいえないのである。つまり、単元を通してその「技」が要求する運動スキルをインスタントに獲得しようとする授業が蔓延しているのである。

しかし、本来高めたいのは「運動能力」の方であるはず。ならば、どのようにそれを高めることができるのか。ずばり、コオーディネーショントレーニングである。コオーディネーショントレーニングとは、今の能力でできる運動を駆使して多様な運動感覚を養い、総合的な運動能力を高めることを目指すものである。本稿の言葉の定義を用いれば、「動作」としてできる範囲の運動を多様に経験しながら、その「動作」の範囲が自然と広がっていく(単元前は「技」だったものが、単元中に「動作」に含まれるようになる)ことを目指すということである。この考えは、まさにNew体育論のベースとも合致する。

「技」の習得はゴールにしない

鉄棒運動も跳び箱運動も、今行われている授業のほとんどが特定の技の習得を目指すものである。それらは、「能力的に届かない運動をちょっと背伸びしてやってみよう」という授業だといえる。もちろん集団の中には背伸びをしなくてもすぐにできてしまう子もいるとは思うが、一定の子には「背伸び」を強いることになる。そして、上記で示したように、この背伸びを強いられる子は運動能力が不足している子でもあるのだ。

上達とか克服というのは日本の学校教育が大好きなセリフだが、運動能力的に難しいとわかっていながら、わざと手の届かない課題にチャレンジさせるという鬼のような指導で、子供たちが楽しさを感じられるわけがない。身体の発達には個人差があり、同じ年齢でも身体の発達段階を示す「生物学的年齢」は最大5歳程度異なるともいわれている(小学2年生でも身体の発達段階でみれば5歳~10歳程度は混在していると考えられる)。2年生のうちは身体が未発達だっただけで、3年生になってやってみたらすんなり逆上がりができてしまった、なんてことも少なくないのである。

だから器械運動も「今できる運動の範囲で多様に動く」で十分なのではないだろうか?全員が同じ「技」を獲得しにいくのではなく、各自が「動作」としてできる範囲で運動し、「技=難しくてできない運動」だったものが自然と「動作=難なくこなせる運動」になるまで待つということも大事なのではないか?この提案が現場に広く受け入れられる日を願うばかりである。

最後までお読みいただきありがとうございました。

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