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進む為に、吐き出す

僕は今、女性(特にママ)を対象にして、超感覚を使ったカウンセリングやコーチングを通したサポートを行っています。

今思うことを、ここに吐き出していこうと思います。
これは、僕自身の今の素直な気持ちを整理するという目的のためにも書いているので、長文でまとまりもないかもしれません。
ここに書いている内容は、僕が体験談を通して気づいてきたことであると同時に、同じ様な想いを抱えている誰かに伝えていきたいことでもあるので、今後、要所要所をまとめ直して記事にしていこうと思っています。

荒削りの草案だと思って、興味あれば読んでみてください。

母という病

1986年3月15日
愛媛県は松山市にて一家の長男として生を受け、父は、地元では有名な海鮮珍味業者社長の三男坊、母は自宅で個人ピアノ教室を営んでいました。

僕は、マイペースな性格で、幼稚園の頃から同学年の周囲のペースには馴染まないタイプだったり、ある意味多動を疑われるほど、落ち着きがないタイプだったらしい。
お喋り好きでずーっと喋り続けていた為、親からはよく「あんたは、口から生まれてきた。」と言われることも多かったです。
うるさく喋っていたのも今思えば、構って欲しい、注目してもらいたいという純粋な子供心だったんだと思います。

反面的に母は、厳しい性格で、子供の頃から褒められた記憶よりも、指摘されてきた記憶の方が多く残っています。
『経験が人を育てる』という信念を持っていて、ありとありとあらゆる習い事や、体験学習的なことを沢山経験させてもらってきました。
幼少期から多くの人と接点を持てたことや、多くの体験をさせてもらった事は、今に活きている面も大きいので、とても感謝しています。

でも、『始めたからには続けなければいけない』という重圧があったのも事実で、「行きたくない」→退会した習い事も多く、その度に「根性がない。継続性がない。通わせ甲斐がない。お金の無駄。」といった言葉で否定されてきました。
そんな中でも、ヴァイオリン教室とお絵描き教室と水泳教室だけは、小学校高学年まで続けて通っていて、楽しい面もあったと思うけれど、今になって思うと、リサイタルやコンクール、競技会で『入賞したら褒めてもらえるから』という理由が大きかったんだと思います。

その後、中学進学と同時期に、両親が離婚し母の実家である岡山へ妹と3人で転居し、母子家庭生活がスタートしました。
母はピアノ講師ではなく、医療事務として病院務め。
自分も今親だからこそ思いますが、働きながら育ち盛りの兄妹を育てていくのは、本当に大変だったと思います。
でも、この頃から僕や妹に対する指摘の最後に「父親に似て」というワードが出てくるようになり、子供ながらに傷付いてきたという経験もあります。
中学高校時代は、思春期だったのもありよく親子喧嘩していた様な気がします。(あまり記憶がない)
それも、素直になれない僕のコミュニケーションの一つだったんじゃないかな、と今になって思います。
当時母は、家のことを完璧にこなし何不自由ない生活を送らせてもらっていました。ですが、高校生になった頃から、別のパートナーを見つけ活き活きとしていく母を複雑な心境で見ていた記憶が残っています。
一度、「俺達のことももっとちゃんと見てほしい」ってメールで本音をぶつけた記憶も残っています。

その後、東京の私立大学進学と同時期に、母は千葉在住のパートナーと再婚し、千葉での家族4人の生活がスタート。
その頃には、母のパートナーへの感情は特に何も感じていませんでした。
僕はというと、大学生活スタートと同時に、同郷の彼女と兵庫と千葉の遠距離恋愛もスタート。
この頃の彼女との交際に対して、母からの風当たりは、相当酷かったのを覚えています。
きっとなんでも管理したがる母の目の届かない所で行われている、息子の恋愛が気に入らなかったんじゃないかなと思います。
そんな重圧もあったり、同じように彼氏をコントロールしたがる彼女だった面もあって、板挟み的な恋愛に疲れ果て2年で別れました。

そんな別れの直後、20歳を迎えた頃に、“とある方”との出会いから、超感覚(スピリチュアル能力とか第六感、霊能力)といった能力を自分でコントロールして扱えるようになりました
生まれつき超感覚の一つ『エンパス』を持っていたということや、扱いきれていなかったことも、このとき気づかせて貰いました。

元々は、母が好きであったスピリチュアルという世界
子供の頃からそういった類の話や、波動教室、ヒーリングといった場に連れられていくことも幾度となくありました。
幼少期は特に気に留めてもいなかったのですが、父と離婚し母子家庭になり、思春期を迎え、環境の変化についていくのがやっとだった時期に、母から聞く『スピリチュアル話』と『母自身の矛盾』に違和感を感じ、『スピリチュアル』というものに、一種の嫌悪感を抱いていました。
(もちろんスピリチュアルに傾倒し、現実世界を疎かにしていかれる方も、多く見て来たからこその違和感も未だにありますが。)
きっかけをくれた“とある方”というのも、この母を通じての縁だったりします。
その後、3年ほどカウンセラー・ヒーラー的な活動も、母と知人男性と3名体制で行っていて、この時の経験が今の礎になっていたりします。

でも、当時は学生で、世間知らずだし、社会も知らないし、結婚や育児経験もない、『ただの若者でしかない』という自己評価もあって、能力を使ってどれだけクライアントが求めるヒントを提供できる身であっても、未熟さから自己否定に繋がる部分もあったので、活動を辞め就職する道を選択しました。

就職先は、とある有名企業の下請け卸問屋で、営業として7年間全国を飛び回ってきました。
そこでは、それなりに仕事内容や人間性などを評価されてきていたと自負していますが、社内体制の変化や、人員不足によるライフワークバランスは、あまりいいとは言えない職場環境でした。

母の再婚生活も実は2年で終わっていて、就職後も家族3人での生活をおくっていました。
社会人になってからできた彼女と、色々あって結婚一歩手前までいったのですが、ここでも母と彼女との気が合わず、最後は板挟み状態で別れることに。
これをきっかけに高圧的な母に危機感を覚え、独り暮らしを始め、自活生活をスタートさせました。

その1年後に、今の妻と出会い同棲、結婚、出産を経験。

職場環境、子育て環境、当時90を過ぎて独り暮らしの祖母のことを考え、岡山へUターン移住することに。

もちろん、母とともに。

岡山で再就職し、次男が生まれ、2年半で就職先の岡山事務所が閉鎖となり、退職。
それを機に予てからの目標であった独立。

見知らぬ土地で子育てに奮闘し、ママ友トラブルから体調を崩した妻を間近で支えてきた経験から。
独立時は、『ママのための居場所を作る』という目標を掲げ、そのために何をしなければならないのかを模索し続けていました。
その目標自体には、純粋な妻への愛情が動機になってはいましたが、今思うと自己顕示欲も強く秘めていたと思います。

いずれにせよ、自分の信念に沿った仕事をしていくと考えた結果、副業的に行ってきたカウンセリング業を本格始動していくことになりました。

その後、祖母が他界した事や、経済的なことも考え、母と僕の家族5人での同居も始まり、案の定うまく行かない共同生活も始動。
その反面、日々の生活の中から、こうして過去の全てを振り返り『内観するきっかけ』を得てこれたのも事実ではあります。

今になって再認識したこと。

内観を進めていく中で気づいたことだけれど、僕の潜在意識には、この仕事をしているのも、結局は母の影響であり、母の為にしている側面があったんだと思うんです。
正確に言うと、僕が母に認めてもらう為だったと言った方がいいかも知れない。
かと言って、特段何も評価もないし、報告も全くしていないけれど、自分のメンタルが落ち込んだ時は、常に何か結果を出している姿を見せなきゃいけないとか、監視されているんじゃないだろうかといった脅迫観念めいたものも湧き出てくることもありました。

今までの人生を振り返ってみて、『母に認めてもらいたい』という一心で生きてきたんだと言うことに気付いたんです。
そして、強い強迫観念を育んできてしまっていたんだということにも。

それに気付けたのは、母だけでなく、実は妻や息子の存在も大きい。

妻や息子に対する愛情

妻とは、出会って8年、結婚して7年。
言い合いはあれど大きな喧嘩もなく、普段から本音で語り合える同士でもあります。
最近は、お互いが支えになってきた関係から、ちょっとずつ共栄し合える関係へと、パートナーシップを育んできている感じです。
純粋に妻のことを愛しているし、妻も僕のことを愛しているのも十二分に認識できていて、妻と居ることが僕にとっての一番の幸せだと感じられる。
そんな存在だったりします。

でも僕の中には、自分を愛してくれる存在、自分を認めてくれる存在として、母親像を重ねている面も少なからずあったと思います。
特に子供が生まれてからは。

二人の息子の事も溺愛しています。
でも、長男に対してどうしても強く当たってしまう自分がいたのです。
超感覚的にも、長男とは今世初めて出会う関係という面もあるけれど、それ以上に気になってしまう。
純粋に息子の事を『愛しているし、愛したい』という想いもあるのに、何故か許せないし、今現状を認められない
それは、過度な期待があるからか?と最初は錯覚していました。
ですが、そうではなかったと気づいた、いえ、気づかないふりをしていたんだと思います。

僕は、自分自身が母に注意されてきた様に、そのまま息子に指摘している自分に気づいたとき。
そして、その指摘を妻に否定されたことが、ショックだったんです。
もちろん妻が正論だと冷静に判断できるし、子供に寄り添う思いからの否定なのも、十分理解しています。

自分の中の正義(自分が母を通して得てきた正義)を否定され、息子に寄り添う妻の姿から、息子に嫉妬の心すら芽生えてきていました。
自分にも似ている息子だからこそ、彼に自分自身を重ね、自分は認めてもらえなかったのに、この子は母親に味方してもらえているという醜い嫉妬の心だったと思います。

それからというもの、息子の一挙一動が気になり始め、全てを見張って一個一個指摘していく様になり。
もうホント、自分が母にされてきたそのままを息子に対してやってしまっている。
一番息子の気持ちが解る存在なはずなのに、寄り添えないどころか、親という権力を持って、弱い者いじめをするだけの存在でしかなかったなと、今振り返ってみて思います。

気付き、その先へ

で、そうやって内観していくと、気付いたことがあります。

自分のすべての言動に対して、『他者の評価軸』が凄く深く植え付けられていたんだということ。

それは、子供としては親という絶対的権力者によって生み出された、生きていく為の『法律』となってしまっていたということ。

でもそれは、今の自分を縛る『呪縛』でしかないということ。

そして、それは、母や妻や息子が呪縛を解いてくれる訳でもなく、自らが解いていかない限り解けないものだということ。

こういった思考の癖や心理的弊害のことは『愛着障害』と言われており、精神科医で作家の岡田尊司氏の書籍などから、知識として学んできていたのですが、最近になってようやく腑に落ちた感覚があるんです。

それも、
自分の本当の想いをこうやって言語化できるようになったから。
自分の想いに、自分自身が気付き、寄り添えるようになったから。

ある意味、過去の僕は、こんな深いところまで開示もできなかったと思います。
見てくれやカッコばかりを気にして、自分がどう映るかばかりに目が行き、表面だけを取り繕うなんてことも、とても良くありました。

今までもクライアント様にも、愛着障害や親との関係性についてもじっくり向き合い、寄り添ったカウンセリングは行ってきましたし、解決へと導いてきました。
ですが、自分自身への寄り添いが全然足りてなかったなと、今になって思います。

かといって、母のことを恨んではいません。
母と僕の関係の様に、祖母と母も同じ愛着形成を辿っていたんだということを、生前の祖母と母のやりとりからも気付くことができました。

だからと言って、誰が加害者でも、誰が被害者でもないと、僕は思います。
そう、母は悪くない。
そして、母を責めるつもりもない。
なぜならそれは、母なりの精一杯の愛だったし、それに精一杯応えようとしてきた結果が、今なんだと認識できるから。

だからこそ、
僕は、
親を超える

自分が愛する人たちの為に、
本気で、
親を超えていく。

そう、決心しました。

自分が自分の想いに、ちゃんと寄り添う。
自分で自分の評価軸を見直し、ちゃんと育む。
自分で自分をちゃんと褒めてあげる。

それを繰り返していくこと。
それを積み重ねていくこと。

そんな姿を家族や、友人に見せていくこと、
クライアント様に語っていくこと。

それが僕の歩んでいく道なんだと思います。

今まで受け取ってきた多くの愛と

感謝と共に。


ここまで読んで頂いた方へ。
長文かつまとまりもない文章にお付き合い頂きありがとうございました。

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