見出し画像

価値観のモノサシと向き合う

おっと、油断すると間が空いてしまう。
けど、書きたいと思ったときにだけ書くがちょうどいい。

さてさて、
今日なんとなく書きたいなと思ったことを。

「普通」ってなんだろう?

最近、「違いを認め合うと個性が響き合う」みたいな言葉を目にすることが多いんだけど、本質的に理解できている人ってどれくらいいるのかなと思うのね。

ここで言う「違い」の反対は、「同じ」というよりも「普通」とか「標準」といった意味合いなのかなと思うんだけど。

ちょっと聞きたいんだけど、普段の生活の中で、「普通」って言葉をよく使ってたりしない?

「普通○○だから」
「普通に考えたら○○だよね」
「みんな○○だよね」
みたいな。

この「普通」という言葉の意味ってWikipediaによると。

普通(ふつう)とは、広く通用する状態のこと。
普通の『普』は、「あまねく」「広くーう」を意味する字である。
「出る杭は打たれる」「能有る鷹は爪を隠す」ということわざや、宗教史における異端への残害に象徴されるように、社会の中で特別な者や奇異な者は時に袋叩きに遭い、普通であることや平庸であることが求められる。
しかし、単に平庸であることは、「ありきたり」「没個性」「長所を持たない」「存在感が小さい」といった厭わしい意味で捉えられることがある。

一方で、1980年代前半のテレビ番組でも使用された「良い子、悪い子、普通の子」という表現や、近年の若者言葉における「普通に良い」というように、「一定基準を満たしている」「問題が無い」「短所を持たない」といった好ましい意味で使用されることもある。
例えば、言葉のジェネレーションギャップを歌い上げる『これってホメことば?』という歌にも「フツーにおいしい」という表現が取り上げられている。これらの「平均的」「正常」の外にも、「平然と~を行う」「日常のように~を行う」という意味で「普通に~を行う」というように、広く『平』や『常』の口語として『普通』を使用する者も増えている。

とある様に「普通」という言葉自体の捉え方が、
・ありきたり
・没個性
・長所を持たない
・存在感が小さい
・一定基準を満たしている
・問題が無い
・短所を持たない
・平均的
・正常
・平然
・日常

といったように様々な意味だということが解るよね。

そして、それは時代背景によってや、扱う人によっても「普通」の価値や捉え方が変わってきていると思うのね。

僕は今35歳なんだけど、僕が子供の頃からの成長過程で感じてきたのは、「普通」とか「標準的」であることが美しいとか正しいってい考え方が一般的だった時代から、徐々に「個性」とか「自分らしさ」を大事にする時代に変わってきたという感覚なのね。

でもそれは、年齢が変わったり、あとは親の価値観が変わることや、深くかかわる人の世代、人生経験によって「何を大事にするべきか」とか、「何を判断基準として採用しているのか」って違ったりするんだよね。

と、ここまで書くと自分が採用している「普通」っていったい何なんだって思わない?

だから、多くの人ってそんな風に時と場合と人によって変容しやすい「普通」って言葉を使って、○○は普通じゃないとか、○○は普通◇◇だとか、そんな風に「判断(ジャッジ)」しているに過ぎないってことが解るよね。


「普通」とは、「価値観のモノサシ」である

要は、「普通」ってそもそも何?って問いに対して言うならば、個人が個々に作り出した「価値観のモノサシ」だったりするんだよね。

そして、そんな「価値観のモノサシ」で測り合う・測り合おうとする

だから、他者との間に悩みとか摩擦が生じるんだよね。

これぞ、『ザ・戦うマインド』

価値観のモノサシが違うからこそ戦争や侵略、迫害といったことも地球上の歴史を見てみても現れているよね。

要は、その『ザ・戦うマインド』を持っていないか?
自分の「価値観のモノサシ」に相手を当てはめようとしていないか?
相手に自分の「価値観のモノサシ」を押し付けようとしていないか?
ってことなのね。

そして、その「価値観のモノサシ」も
・自分自身がどんなモノサシを持っているのか
・そのモノサシをいつから、どんなキッカケで持つようになったのか
・そのモノサシが自分に本当に合っているのか
・そもそもそのモノサシで測る必要があることなのか

に気付いていない人は多いんじゃないかな?

で、そんな気付いていない人たち同士で、
「価値観のモノサシ」で測り合う・測り合おうとする

もう結果、

泥仕合でしかない!

 「うわ、最悪だぁ・・・」(笑)

スタンプ必要?

違いを認めると見えてくるもの

つまり、「普通」=「共通」ではないということ。
持っている「価値観のモノサシ」は一人ひとり違うということ。

そして、その「価値観のモノサシ」は
◆言葉の意味・解釈
◆ヒト・モノ・カネに対する価値観
◆予測と行動パターン
◆倫理・正義・文化・愛
など、列挙しきれないほどの多くのモノに対して、一人ひとり違うモノサシが存在しているということ。

そして、「違いを認め合うと個性が響き合う」という言葉の真意を武蔵なりにまとめてみると、(というかこれは僕が考えている信念的な部分かもしれないんだけど)

違うこと、善でも悪でもない。

ただ、あなたと違うというだけ。

ただ、違うという事実を認めればいいということ。

違いを理解しなければいけないということではない。

あなたの普通を相手に理解させる必要もない。

「ただそうなんだ、違うんだ。」という事を認め合って、

互いが納得できる道・答えを探せばいいだけ。

そしてその道・答えは、互いにとっての正解になるだけで、

世の中にとっての正解・不正解も関係ない。


そして、

そんな「違うこと」に悩んでしまうのならまず先に、

自分が採用している「普通」がどこから来るのか?

なぜそう思うようになったのか?

なぜそれがあなたにとっての「普通」なのか?

本当にそれがあなたにとっての「普通」なのか?

と、自分に問いかけてみて貰えたらいいのかなと思う。


そうするとその先に、

「個性」が見えてくるからこそ、

その「個性」同士で共鳴し、

響き合う事につながっていくから。


スタンプしたいようにすりゃいい

と、そんな自分の「普通」と向き合いたい、

自分の「価値観のモノサシ」を視える化したいという方におススメしたいのが、僕が行っている「脳吐」だったりする。(最近そればっかり。笑)

要は、「価値観のモノサシ」って自分の「本音」とか「本音の振りしたもの」だったりするので、そこと向き合えば、「自分らしさ」というものにも気付けるんだよね。

だからこそ、脳吐を広めていきたいなと思うんです。

あ、脳吐って何?って方は、コチラを読んでみてね。


以上、武蔵でしたー。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?