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『歌われなかった海賊へ』

逢坂冬馬の「歌われなかった海賊へ」を読んだ。「同志少女よ、敵を撃て」を読み、面白かったので期待して読んでみた。「同志少女よ」は題名と書籍の表紙の絵で内容が推察出来たが、今回は全く見当がつかない。「同志少女よ」は第2次大戦のソ連の話だが、今作も同じく大戦中のドイツでの話だ。でも、「海賊」もそうだが「歌われなかった」もすぐには意味が掴みにくい。

この物語はドイツ敗戦間近の小さな町で3人の若者が「エーデルヴァイス海賊団」を組織するところから始まる。初めエーデルヴァイス海賊団は作者の創作かと思ったが、どうも大戦中のドイツで散発的に反ナチの青年たちが集まり名乗った組織のようだ。この物語の3人も、ナチズムに対する反発をそれぞれが抱えている。

主人公は父親が総統を揶揄したことを密告され死刑に処せられた「犯罪者の息子」のヴェルナー。彼を組織に誘ったレオンハルトは父親が一代で財を成した資産家の息子だが、男性に心を寄せる性向をもつ。親衛隊将校の娘エルフリーデは実の親がジプシーという隠された出自を持っている。そして彼らはナチスの考えによれば「健全なアーリア人種」以外のユダヤ人、ジプシー、同性愛者、障がい者、反政府分子に相当し、「処分」されるべきものである、という共通点がある。

この3人がある日、町から外に伸びる線路の先に強制収容所があることに気づき、途中の鉄橋を爆破することを計画する。新しく仲間となった通称ドクは連合軍の不発弾を利用して爆破を試みる。また、幼いフリッツも計画に加わる。連合が迫る中、彼らは鉄道爆破に成功するが、、、。

主人公の青年たちの目から見れば、町の大人たちはナチを信奉するにせよ、迎合しているにせよユダヤ人のように虐げられている人たちを見殺しにしている存在だ。大人たちの心の内どうであっても行動が伴わなければ、彼らにとっては同じことだ。それに対して主人公たちは命をかけて行動する。

戦後になって、「あの時は仕方がなかった」、「そうするしかなかった」というような言い訳がドイツに限らず、日本でもあったろうし、恐らく強制収容所の中でさえもあっただろう。正義を貫き通した者達から見ると、これらの言い逃れは許されないものだと思う。この小説にはそういった厳しい視線が感じられる。

ただ、我が身を振り返ると、この作品の主人公達のように正義を貫く事ができない弱い自分がいる。そして間違いなく大多数の町の大人達と同じ側にいる。そう考えながら、少なからず罪悪感を持ちつつも言い訳をしながら生きる人間の心の内を見つめ、その弱さにも寄り添う眼差しが同時にあったほうが、自分にとっては救いがあるように思えた。

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