【対談】踊るピングドラム考察 りんごとはなんだったのか?

『踊るピングドラム』は2011年7月8日 から12月23日まで放送されたアニメである。全24話。
兄弟である高倉冠葉と高倉晶馬の妹の陽毬は、病気によって余命わずかとなっていた。兄弟は妹の願いに応え、自分たちにとって想い出の場所である水族館へと出かけるが、そこで陽毬は倒れ、搬送先の病院で息絶えてしまう。覚悟していたこととは言え、ただ悲嘆に暮れるばかりの兄弟だったが、彼らの目の前で突然、水族館で買ったペンギン型の帽子を被った姿で「生存戦略!」の掛け声と共に陽毬は蘇生した。ペンギン帽子を被っている間に限っては、陽毬は、別人格「プリンセス・オブ・ザ・クリスタル」に変わる状態になっていた。そしてプリンセスは、陽毬を助けたければ、ピングドラムを手に入れろと兄弟に命じる。

【考察の経緯】

この考察は、筆者(62b)と友人Yが『少女革命ウテナ考察 1〜2』の話をしている途中、『踊るピングドラム』についての考察に波及したため、それをまとめたものである。
なお、Yも筆者劇場版を観ていないので劇場版は考察には入れていない。会話しているうちに考察が広がっているので、会話形式となっている。

前回の記事『【対談】少女革命ウテナ考察2 薔薇の花嫁=魔女とは』の続きとなるが、直接的に繋がる内容ではなく考察を踏まえた内容となる(未読でも内容自体には差し支えない)

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○りんごとはなんだったのか

Y「話ずれちゃうんだけど、ウテナの棺とピンドラの箱って似てるよねって思った」

62b「ピンドラの箱ってあのカンバとショーマが閉じ込められてた?」

62b「りんごが落ちてるやつ」

Y「それ」

62b「あの箱未だに解釈が定まらないのよ」

Y「そうなのよ」

62b「なんだろう、あのタイミングでりんご(=他人のことを想って死んだ人間へのご褒美)があるって、あのときカンバとショーマは生きてたのか?というか全て概念なのか?と言う謎がね」

Y「りんご=他人のことを思って死んだご褒美ではないんじゃない?」

Y「りんご=x(愛なのかなんなのかよくわからんが何かの象徴)という前提があって」

Y「他人のことを思って死んだご褒美としてxがもらえた、というわけで」

Y「物語に出てくるりんご全般が自己犠牲によるご褒美というわけではないのかなって」

62b「りんごの解釈が定まってないからあれだけど、なんとなくわかるよ」

62b「りんごは愛そのものなのか、愛によって死んだ人へのご褒美(愛では無いなにか)なのか。そのへんが定まらないと言うか、愛って言っちゃえば早いんだけど」

Y「もらえる条件がいくつかあって、その条件の中の一つに自己犠牲による死がある的な。そうゆうわけでも無いと思う。もっと概念的なもの」

62b「りんごを得ることにどんな意味があるのだろうって、カンバとショーマが閉じ込められた箱を見るとかなり現実的な食糧というか」

Y「はい!思いついた!」

Y「りんご=*レゾンデートル」

*レゾンデートル
英語:raison d'etre

自身が信じる生きる理由、存在価値を意味するフランス語の「raison d'etre」をカタカナ表記した語。他者の価値と比較して認められる存在価値ではなく、あくまで自己完結した価値を意味する。

welbeo辞典(2023/11/1)
https://www.weblio.jp/content/レゾンデートル


62b「ほほう」

Y「りんごがあると生きられる=存在理由」

62b「でもかなりいい線いってる気がする」

Y「私が思ったのは『運命の果実を共に食べよう』これ大事な気がして、いや大事なのは明らかなんだけど」

Y「ピンドラの世界観としてさ、誰かに選ばれないと存在できない(何者にもなれない)という世界観があるじゃない?」

Y「りんごっていうのは、誰かにもらうもの」

62b「つまり存在理由…ってコト!??」

Y「運命の果実を共に食べようっていうのは、お互いを認め合おうというかなんというか。あの世界において子供たちは親から捨てられると「透明な存在」になるわけで、それが存在理由の抹消=死とも取れる」

62b「でも、りんご(=存在理由)を分け与えられることで、生存できる。つまり生存戦略…」



Y「いまーーーじーーーーーーん!!!」

62b「生存戦略ーーーーーーーーー!!!」

〈すごくスタンプ合戦〉

Y「(落ち着く)そうなるとさ、命とか愛っていう解釈があるのもわかる」

62b「存在理由だものね」

Y「だって存在理由って命とニアイコールだし」

62b「愛と解釈することもできる」

Y「ピンドラ的には人から愛されることが存在理由だから」

○りんご=自己犠牲のご褒美説

Y「(ちなみに)りんごは自己犠牲による死へのご褒美というのは?」

62b「第一話の子供達のセリフで、それそのものは銀河鉄道の夜的な解釈なんだと思う」

62b「銀河鉄道の夜で、りんごが出てきたのは自己犠牲によって死んだ子供たちに与えられたものだから(正確にいうと、ジョバンニやカムパネルラも貰ってたけど)」

62b「で、面白いのは銀河鉄道の夜では、りんごはそれぞれ違った香りがするとかなんとかで、まぁ美味しいは美味しいらしいけど、人によって違うらしいんだよね。それがなんか引っかかってた」

Y「カンバとショーマは自己犠牲による死でリンゴをもらえた」

62b「すごく正確にいうと、銀河鉄道の夜においてそのりんごを貰った子供たちは自己犠牲っていうけど、本当は自己犠牲じゃなくて、乗っていた船が沈没したんだけど、」

62b「そこにいた保護者(家庭教師)が「他の親子連れを押し退けてでもボートに乗ることはできない」って思い込んで、そのまま船が沈んだっていう」

62b「自己犠牲というか、自己犠牲を勝手に押し付けた大人に巻き込まれたって感じなのよ」

Y「なるほど、ピンドラにも通ずるものがあるね」

62b「そのへんが「りんご=ご褒美」ってのも、なんだろう、苦難を乗り越えた先にあるご褒美なんかなっていう気がしないでもない」

62b「で、そのご褒美を、片方にしか与えられなかったそれをカンバとショーマは分け合った」

62b「でもさっきの『りんご=存在理由』って解釈はすごくいい線行ってると思ってて、つまりカンバとショーマは存在する理由を分け合ったってことで」

62b「そうやって存在理由を分け合う(運命の果実を分け合おう)って言うのが、運命の乗り換え(悲劇的なテロの回避)に繋がっていくって、すごい示唆的だよね」

Y「わぁぁ!すごい!きてる!」

Y「ショーマパパがさ、「何者にもなれない者たちで溢れかえっている世界」を憂いているじゃない」

Y「そんで、その時に、うろ覚えなんだけど「誰より稼ぎがいいだとかそんなくだらないことばかり」とかうんちゃらかんちゃらいってたと思うんだけど」

Y「レゾンデートルって『他者の価値と比較して認められる存在価値ではなく、あくまで自己完結した価値を意味する』なんだよね(上記参照)」

62b「へええ、でもそうやってレゾンデートルレゾンデートルいうてるやつほど絶対他者との相対的な価値に縛られてる気がする」

Y「わかる」

62b「オウムの地下鉄サリンテロも、孤立した大人たちがカルトにハマってなっちゃったって言われてるわけで、悲劇的な暴力を回避する方法が「存在理由を共にする」っていう」

62b「なんか、すごく単純だけど全てに当てはまるテーマなのかなと思うけど」

Y「なんか愛がある話だよね」

62b「なんだろう、そこに気付くまですごい遠回りするんだけど、でもそこに辿りついたときの感情は、言葉だけでは辿り着けない境地なのよ」

Y「なんか今こうやって話してて、薄ぼんやりと感じてた物語のテーマの芯が掴めた気がする」

Y「そんな中で細かいところを言うのも無粋なんだけど、ショーマはなんでりんご持ってなかったんだろ」

62b「実際カンバは「陽毬のために」っていう動機で動いてたけど、ショーマは結構モジモジしてて、存在理由的に考えるとカンバの方があるっちゃあるんだよな」

62b「あの箱の話って概念的なものだから、カンバもショーマも子供の頃の見た目だけど実際はあの当時(高校生?)の時なんじゃないかって思ってる」

62b「陽毬を失いかけて存在理由を失いかけてるカンバとショーマが、カンバはなんとか存在理由を見つけたものの、ショーマはそれがなくて、カンバがそれを分け与えたんかなって」

○ピングドラムとはなんだったのか

Y「じゃあピングドラムってなんなんだ?」

62b「ピングドラムがなんだったのか本当にわからない。結局りんごだったのか?と思ったけどそうでもなく」

62b「もしかして「運命の果実を分け合おう」という言葉そのものがピングドラムだったんかな。だから、桃香の日記にある(かもしれない)って言ってたのかな」

62b「ボクはなんで最初にあの日記の中にピングドラムがあるって言われてるのかずっと不明だったんだけど、桃香の呪文そのものがピングドラムだとしたらその謎は解けるかなと思う」

62b「まぁじゃあ桃香って何者やねんって話にもなるからなんとも…」

Y「それを受けて思ったんだけど」

Y「あの運命日記は黙示録なんじゃないだろうか。もしくは聖書みたいな」

Y「桃香はイエス・キリストのような現人神で、ある意味ではサネトシもそう。
だからあれは桃華とサネトシの宗教戦争的な、そんな構図でもあるのかなと思った」

Y「なんで運命日記を黙示録と思ったかっていうと、神は信じる者には平等に愛を与えてくれる存在だから」

Y「つまり桃香はまさに神のような存在で、家族のような身近な他者から愛されなかった(存在理由=りんごを与えられなかった)人にも愛を与えることができる→それはサネトシも一緒」

Y「運命日記に書かれている呪文は神に捧げる祝詞のようなもので、ある意味装置のような。その文句自体に意味があるわけではない。だから、苹果ちゃんの言った台詞(実際には苹果ちゃんは運命日記に書かれていた呪文を言ったかはわからない。けれど、その呪文に込められた意味を理解してるから自分なりの言葉で言い換えることができた)でも運命の乗り換えが発動した」

Y「桃香もサネトシも、あの事件をきっかけに神としての力が衰えた(お互いの介入により桃香もサネトシも真の意味で人々を救えなかったため)。それは宗教という*大きな物語の崩壊を意味すると思う」

*大きな物語
読み方:おおきなものがたり

社会全体で共有され価値観のより所として依拠されるイデオロギーの体系。フランスの哲学者リオタールが「ポストモダンの条件」で提唱した概念。

リオタールはモダニズム(近代主義)が世を席巻した時代を「大きな物語が存在していた時代」と位置づけ、大きな物語が崩壊した後の時代を「ポストモダン」と位置づけた。

weblio辞典参照(2023/11/1)
https://www.weblio.jp/content/大きな物語

Y「だから、ゆりも多蕗も自分にとっての神=りんご(存在理由)を与えてくれる者を失った」

Y「高倉家の子どもたちもそう。子どもにとって最初の神は親だけど、あの子たちにはその親がいなかった(それぞれ色んな理由で。子どもたちだけになる前も親として存在はしているけど不在であった)。だから、あの子たちはお互いにりんごを分け合わないといけなかった。

Y「つまり、物語の冒頭では苹果ちゃんもゆりも多蕗も、りんごを桃香という神懸り的な存在に求めていた。でも神としての桃香は死んでしまい、教典をなぞることでしかその威光を感じることができなくなった」

Y「でも、苹果ちゃんはストーリーを通して、桃香に与えられた者ではなく、自分の中にりんごを見つけることができた(高倉家にもらえた?)。だから、運命の果実を共に食べようという呪文を発動することができた」

Y「ということを思いついた」

62b「なるほど…大きな物語の崩壊はすごく腑に落ちる。特に現実においてオウム事件があった頃、共同体幻想の崩壊(大きな物語の崩壊)があったとされているから」

62b「サネトシは歪んではいるものの世の中を救おう=神になろうと思ってたわけで、本当の神である桃香はサネトシの凶行を止めようとした。だけどサネトシの思想を求める民衆も多かったんだろうね、だから本当の神である桃香と相打ちになった」

62b「サネトシの教団は『透明な存在になる子供=存在理由を失った者の死』を憂いていた。この場合の死は多分社会的に何の価値もない、いらない存在になること」

62b「桃香も透明な存在になりかけたゆりを助けたように、一人一人助けてはいたのだと思う。だから人々を救おうとする気持ちは桃香もサネトシも同じなんだろう。サネトシはかなり歪んでいたけど…」

62b「多蕗とゆりにとっては桃香は自分に存在理由(りんご)をくれた神そのもので、それがなくなったことを認められなかった。ゆりは桃香の復活、多蕗は復讐によって存在理由を見つけようとした」

62b「でも最終的に『桃香はいない』ことを互いに認め合うことで、ゆりと多蕗は存在理由を分け合うことができた」

62b「これはなんというか…宗教でもあり、大きな物語の崩壊による共同体幻想の喪失を認めるまでの過程だなとも思う」

62b「でも思ったのだけど、『桃香とサネトシの死=大きな物語の崩壊』ではなく、むしろ大きな物語が崩壊した後に桃香とサネトシという神様のような者が現れて、それに縋ったカルト宗教のような気もする」

62b「まさしくオウム真理教は大きな物語の崩壊後、孤立した若者たちの拠り所、存在理由を与えてくれる場所であり、心のセーフティネットになったみたいに」

62b「人々を正解に導いてくれる大いなる神(大きな物語)は既に無くて、みんなが桃香やサネトシのような代理神を求めていたのではないか」

62b「で、何が言いたいかっていうと、結局サネトシも桃香もいなくなって、大きな物語が復活するでも無く、結局は人間同士が存在理由を分け合って生きていくしか無いよねっていう、ピンドラってそうゆう話でもあるのかなと」

○何者にもなれない者たちに告ぐ

62b「ボクはピンドラ観る前から「きっと何者にもなれないお前らに告ぐ」って言葉に、「何者にもなれないことが何が悪いんだ」って思ってたのだけど、きっと何者にもなれない=存在理由を得られないことが、死んだと同等に扱われる時代もあったのだろうと思う。今もそうかもしれないけど…」

62b「何者かになる=存在理由を得るために、誰かを傷付けたり破壊したりする人たちもいたのだと思うのだけど、そんなことをする必要はなくて、ただ隣にいる人に存在理由をわけるだけで破滅的な運命を乗り換えることは可能なんだと、ピンドラはそうゆうことを言いたかったのかなって思った」

Y「その解釈は私大好きだな。とても救いのある物語だ。私たちが社会で生きてくにはそんな物語が必要だと思う」

参考
http://www.zenseikyo.or.jp/manabou/yomimono/wakamono/problem/03.html

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