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わたしが思う、勉強する理由。【往復書簡】

こちらはお互いが出したテーマに沿って書く鮎太さんとの「往復書簡」になります。
公開交換ノートみたいなものですから、
覗き見して楽しんでってくださいな。

…わたしがすーんごく長い間、止めておりましたが。
鮎太さん、めちゃくちゃお待たせして申し訳ありません…!!

ちなみにこれまでのやり取りはこちらになります↓


「人はなぜ勉強をしなければならないのか。」

鮎太さんに問われたとき、わたしは頭を抱えました。その問いに答えるにあたり、クラスのある一人の子どもの存在が大きく立ちふさがったからです。

「勉強する理由」、それはこれまで小学校の先生として年月を重ねる中で、目の前の子どもたちの発達段階に応じて、散々伝えてきました。

わたしの言葉や働きかけに対する反応の大小はあれど、子どもたちはみな彼らなりの頑張りを返してくれていました。
関わった子どもたちの成長はわたしの先生としての自信に繋がりましたし、日々の授業の実践や関わりは、彼らに必ず届くものだと信じて疑ったことがなかったんです。

ところが、初めてただ一人、どうしても何をやっても届かない相手が現れました…。

目の前のたった一人の子どもの気持ちを勉強に向かせることが出来ていないのに、「勉強する理由」を語るのは、まさに机上の空論。今の状態で、子どもたちが勉強する理由を語るのはなんだか傲慢に思えました。

この子に何らかの変化が現れるまでは、書けないな…。
この往復書簡のテーマは、鮎太さんからもらった「宿題」として、申し訳ないけれど、ちょっと時間をもらおう…。

なんて、言っている間に長い時間が流れ、「いつでも大丈夫ですよ。」なんて温かい言葉に存分に甘えまくり、ついつい後回しになってました!
重ね重ね、すみません…!!

わたしが思う勉強する理由について書く前に、その子について話します。

当時担任していた子のうちの1人、けんくん(仮名)。

授業はやりたくない。つまらない。
全身でその思いを表現するように、気が進まないときには、机につっぷしているか他のことをしています。
また、宿題も一切やってこようとしません…。

彼は学力が高いわけじゃなかったけれど、文字を認識しにくい、数量の概念を捉えるのが難しいといった学習障がいがあるというわけでもなさそうでした。

去年やおととしの担任の先生に彼の様子を聞いても、ずっと今のような状況のようだったようです。

彼にとって、課題内容や宿題の難易度が高いから嫌なのかと、別の簡単なものを用意しました。
また、負担が多くならないよう量を減らしたりもしました。
解く手助けになればと、マーカーでヒントを書き入れもしました。 

でも…どんなサポートをしようが、彼はおかまいなしに課題や宿題をやろうとしないんですよ…!!! 

そんな態度を叱ったときだけは、ちょっと手を付けることもありましたが、一向に続きません。

もはや、「先生」という存在に対して不信感を抱いているのかな……。
あまりにも頑なな態度にそう思ったこともありました。
でも、休み時間は今はまっている遊びや好きなキャラクターのことなど、笑顔で話しかけてくるし、たまに折り紙で作った作品をプレゼントしてくれるし、嫌われているわけでもなさそう…。 

これまで担任してきた中にも、学力や学習意欲がかなり低い子はいましたが、みんな、それなりの成長はありました。
何とかして、これからのためにも彼に基礎学力をつけてあげないと…!

わたしのチャレンジが始まりました。

「勉強することは、立ちはだかる困難に立ち向かうために身に付けなければいけない力がたくさん鍛えられるんだよ。」

「勉強することで、これまで過去の人が発見してきた知識を、これからに繋いでいけるんだよ。」

「正しいやり方で頑張れば、必ずできるようになるんだよ。」

集団に対しても、彼個別に対してもそう、事あるごとに根気強く伝え続けました。
先ほど書いたようなサポートも続けました。

他の子どもたちはやる気を出すようになった子がいても、やっぱり彼には何も届いていないようだったんです…。

「嫌でもやらなあかんことはやらなきゃだめ。これから先ずっと嫌なことから逃げ続ける人間になるの?けんくんはそんな人間になりたいの?」
なんて、嫌な言い方をしてしまうこともありました…。


でも、ある日ふと思ったんです。

今」を生きる子どもである彼にとっては、大人になる遠い「未来」なんてどうでもいいし、響かないんだな、と。

まず、子どもたちに声掛けするときにまず「勉強」という言葉はやめました。

「勉強」とは、「強いて、勉(つと)める」誰かに強制される、やらなきゃいけないこと、ではなくて、子どもたちにとってやりたくなるようなことであって欲しい。
「勉強」という言葉を使う代わりに「学び」と言うようにしたんです。

学びたくなるのはどんなときなんだろう。
シンプルでした。
「やりたい」のは、楽しいから。
親や先生など身近な大人に「褒められたい」もあるのかもしれない。褒められたいのは、褒められると「うれしい」から。
「楽しい」からやる。「うれしい」からやる。

もちろん、学校という場において、楽しかろうがそうでなかろうが「やりましょう」と指示されたことは、きちんとこなせる子どもたちはたくさんいます。

けれど、どうせやるなら楽しいと思えた方が身に付くに違いない…!

正直、全部の授業で「できた!」「面白い!」「なるほど!」と、目の前の子どもたちの心をそう動かすことは難しいです。

けれど、一人でも多くの子どもたちにそう感じてもらえるよう、「この授業は楽しいだろうか。」そう考えながら、発問や流れ、声掛けを考えるようになりました。

そうして日々が過ぎ、約1年と数ヶ月経ったある日、けんくんが初めてノートに自分の考えを書いたんです!!

短い文章だったけれど、自分からやろうと思って言葉を紡いだことに驚きました。

「なんでやろっかな、って思えたん?」

後から、そうけんくんに聞いてみると、

「これなら面白そうかなって思ったから。」

そう、ぽそりと言った声を聞いたとき、やっと届いた!と心底うれしくて心の中で繰り返したガッツポーズ!

わたしが思う1番の「勉強する理由」は、
できなかったことができるようになる喜びや新しいことを知る楽しさ、そういった気持ちを知るため。

学ぶこと、学び続けることによって、これまでとは違う視点で物事を見れるようになったり、新しい人間関係ができたり、と世界が広がるかもしれない。

できることが増え、自己有用感が上がったり、周りの人に貢献できることが増えるかもしれない。

でもそれは結果であって、たとえそういったものが得れなくたっていいと思うんです。
学んだことで「面白い、楽しい」って心が動いたことに価値があるのかな、とわたしは思っています。

それは大人になって仕事等で必要に迫られて行う、「勉強しなければいけない」理由には、当てはまらないのかもしれない。
でも、大人になってからも、楽しいからって理由で学び続けている人は人生を自発的に楽しんでいる気がします。

「学ぶことって楽しいよ。」って子どもたちに心から言えるように、何歳になっても好奇心を持って学び続けていたいなあ。



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遅くなりましたが、やーっと書きあげられてなんだか、すっきり!笑

わたしからのお題は、
【これまで食べて印象深かったものとその思い出】でお願いします。

ふふ、食欲の秋、ですし…!

いえ、わたし季節関係なく食べることを愛しているので、フードエッセイというか、誰かが食べ物について書いた文章が大好物なんです。

すごく待たせてしまった分、何か月だろうと何年だろうといつまでも待ちますからね―――!


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