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予定は未定。

わたしは、予定を立てるのが好きだ。
否、むしろ立てないと落ち着かないという方が正しい。

学生時代、テスト前にはドリルの○ページから〇ページ。○○を重点的にやる日。など細かくノートに書き記した。
そして完了したものに罫線を被せること、そして+α出来たことを書き足すことに優越感を抱いていた。

今なお、その習慣は健在であり、仕事専用の手帳には同じようにその日や今週やるべきことを細かく書き出しており、終えるたびに罫線を引いている。

そしてプライベート用の手帳でも、その週の目標ややりたいことをいくつか書き出し、週末にどのくらい達成したかを振り返っている。そしてその振り返りを月ごと、1年ごとなど節目節目で行っている。



20代後半から30代前半というのは、あらゆる面で人生の転換期でもあるのだろう。

これまで描いていてきただろう道をいったん捨てて、また違う道に進むことを決意した友人を何人も何人も見てきた。

また、久しぶりに顔を合わせる友人とは、相手の近況を知るのに、前と同じ仕事であるとも限らなくなっているので「今は何してるの?」から始まるやり取りがお決まりになっている。

すっかり大人になった我々は、よっぽど親しくない限りは、直接の言葉しかりSNSでの言葉しかり、焦りや苦悩といった負の感情を表にしないことも知っている。

存在してはいるが目にすることがない「月の裏側」は誰にでもあるとわかっている。
わたしが目にしているのは、その子が意図的に見せようとしている一部分かもしれない。

しかしそれでも、「行ってきます。」とその子が眩しい笑顔で走り出す瞬間が記憶の中では鮮明で、わたしは純粋な祝福とエールの言葉を送りながらも、その背中に羨望の感情を抱かざるを得ない。


夢は叶う。

自分にいくらでも可能性を描けた頃は、純粋にうなづけた六文字。

飲み込むのに、つっかかりを覚えるようになったのは、いつからだろうか。
安定や現実との折り合いを真っ先に考えるようになったのもいつからなんだろうか。


願いや夢は、元々の能力と、積み重ねた経験と努力、そして出会う人とタイミング、それから運。様々な要素が複雑に絡まり合って、紡がれてゆく。

自分の中で完結するものではない以上、叶う保障はどこにもない。力の限りを尽くしたとて、叶わないかもしれない。

それでも時間という制約の中でも、やりたいと思ったらそこに向かって走り続けるしかないのだし、無我夢中になっていたい。

今週は◯時間取り組もう、今週はこれをしよう、来週はあれしよう。
せめて、自分でコントロールできることくらいは着実にやっていこうと思う。


走り出してまだ数年、決して長くはない期間だが、やってきて良かったと心の体温が上がることがいくつもあった。
それらは、いずれも思い描いていた絵にはなかったものだ。


当初描いていた夢とは多少形は変わったとしても、走り続けた者だけが見える景色があると信じている。

自分の可能性を身限るのはまだ早い。


今日は、明日は、今週は、来週は、来月は。
ノートにびっしり詰まった文字を眺めながらも、わたしは思うのだ。


ー予定は未定だ、と。





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