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英語と、おとぎ話のつれづれ

英語の交換日記をしている。それが50ノートを超えたらしい。1ノート3往復だったと思うので、150回やり取りしたのか。
英語の先生をしている方のTwitterで知り、なんとなくスタートさせたけれど、よく続いたものだ。たいしたことでは無いのだけど、自分を褒めたい。

これをやり始めた時は、英語は本当に全く上達しなさすぎて諦めていた。外資系に勤めているのに、もう英語は苦痛で無理だからと、カミングアウトして恥ずかしながら異動までした時だ。英語見た瞬間に、泣きたくなるわ、サヨナラーとなるくらいひどく苦手だった。

病気をしたこともあって、何もかもやらなくなって、散歩と図書館と美術館が友達、みたいな日々で、英語をまた勉強しようと思ったのは自分でもかなり意外だった。
古本屋で中学高校レベルの参考書を買ってきてコツコツやり、大学入試レベルまで来た時に、やっぱりこのまま参考書をやるより、受験もないから書きたいことを書けるようになった方が良いかも、と言うことで添削コースみたいなのを探していた時に見つけた。

個人的には本の話やニュースについてなどを書いていて、あまり勉強してる感がないので気に入っている。急ぐ道でもないので、単語帳作ったり、間違えた箇所をストックして見直したりもしていない最低の生徒だ。同じ間違いはするわ、毎回単語は調べまくるわで、ものすごい上達スピードは遅い。でもそれやり始めるとまた嫌いになりそうだから、と言い訳して緩く続けている。細く長くだろうか。別に盛り上がりも、フィナーレもないけど淡々と。

宣伝ぽくなってしまった。

最近セラピーの話は書いていないけど、紆余曲折、ブチ切れたりをへて、今なんとなく落ち着いている。

自分自身について、注意を向けてひたすら話す、という時間は、苦痛もあるが、重要な時間となりつつある。最近自分のやり方、生き方みたいなのを見つめ直すようなきっかけを得て、そのような話をしている。

自分のさまざまなやり方、生き方が、(この表現が合ってるとも思わないけれど、今は思いつかないので暫定的に)とてもおとぎ話的なものだったな、と思う。めでたしめでたし。その後は幸せに暮らしましたとさ。まるでどこかにゴールがあるかのような。そこにゴールがあるから無理もする、我慢する。なんとなくそういう感じ。幸せに暮らしましたとさ、に到達するまで頑張ります、みたいな。

生きていくなかで、ゴールなどなかったりする。ここまでやれば、ここまで到達すれば、あとは楽になります、もう大丈夫です、みたいなものはない。それは当たり前なのだけど、なんとなく体と頭に染み付いていたのは、いつか、幸せに暮らしましたとさ、に至れるというおとぎ話だ。

多分語られないだけで、おとぎ話にもその後がある。その後の生活。桃太郎は鬼退治して帰ってきて、その後の生活があったはずだ。鬼退治したそのあと仕事は何してたの?とか。おじいさんと、おばあさんの介護問題とかも出てくるだろうし。

英語の日記を淡々と続けてみて、私のおとぎ話的生き方よりも、この英語のやり方が生き方としては良い気がした。語学もいつか何もしなくても、ペラペラで読み書きも困らない日なんて来ないし、日々苦痛ではないことを細く長くやり続けていくとこで、力を保っていき、育まれるものなのだろう。他の勉強でも同じくだ。学べば学ぶほどわからない。ゴールなんてない。

やりたくない事も、苦手な事も何度も何度もトライしてきた。それはそれで良いのかもしれないけれど、それは本当に必要か、克服しなきゃダメなものですか?客観的にやった方が良いけれど、それをやる事で苦しくなって折れるなら、それは自分にとってやらない方が良いことだ。

客観的にやった方がいいけど、やりたくないことには片目を瞑り、続けることに努める。

おそらく生きていくこともそういう事なのだろうか、など、英語が続いている理由を考えて、いろいろ想いを巡らせてしまった。

おとぎ話を卒業して、持続可能な私に変化していく。

こう書くととても幼稚な話だ。
でも自分の中では大きな発見だったし、大切なことなのだと思う。

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