遺書

 物騒なタイトルですが深刻な話では無い散文ですのでご安心を。

 さて、先日ツイッターをだらだら眺めていた時に何年前のパソコンを使っているかという話を見掛けたので、そういや私のパソコンっていつ買ったのかしらと確認したら11年前。

11年前!!

 うわービックリした。人間なら小学五年生か六年生くらいじゃないの。
大きくなったわねー私の事覚えてるかしら?小さい頃よく遊んであげたんだけど。

閑話休題。

 いつ止まってもおかしくないと言うか、実際に今まで危ない事は何回かあったのよね。
昨年リフレッシュしてからはFusionが使えなくなったり。いやー致命的だった。
そんな話はさて置き、いざパソコンが動かなくなったら私はどうなるの?と。
インターネット上の私、つまりろくまること602eという存在が丸ごと停止する訳だから、これは死ぬ事と同じよねって。

「そんなおおげさな」と思われるかもしれないけど、私の活動ってスマホではどことも繋がって無いからね。

 と、そういう事を考えていわゆる”インターネット遺書”を書いた事を思い出したって訳。

三年前にトラブルが発生した時ね。
改めて読み返すとそうね。
遺書と言うには内容が無さ過ぎる。
いやそれはこの記事にも言える事だけどさ。

 内容としては”私が活動停止して困る人はいないな!ヨシ!”しか書いてない。
子供用ビニールプールのように浅くて薄っぺらい、それが私よ。
しかし実際、私が居なくても世界は進んでいく訳で。
誰が困る訳でも無い。
「なら私必要ないんじゃね?」という病み方をする時もあるけれど
「じゃあ好き勝手やって問題無いじゃんやったぜ!」と考え直しては前を向いている。

 その好き勝手やってる私を見て、誰かが刺激を受けたり
「あ、創作活動ってこれでいいんだ」って思ってくれればいいなーなんて事も考えちゃうけど、これも過ぎた夢ね。

 ただ、誰も困らないってのはそれだけ誰とも親密になれなかった証左でもあるので、そう考えると私が活動停止する事は
”インターネット孤独死”とでも言うのか、寂しいヤツだったんだなーとは思う。

 いつか私が活動を停止した時に、また誰かがコレを読み返してくれるかしらね?
いや読み返さなくていいや。さっさと忘れちまえ。
アンタ、これ読んだら今日は早く寝なさいよ。

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