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あさちんの子。

あさちんは年に数回連絡をくれる私の数少ない友人であり、かつての高校の同級生だ。

あさちんはその昔、華奢で小柄でくるりとカールした睫毛に縁どられた大きな瞳にふんわりとした癖毛の、とにかくとても可愛い女の子だった。

高校を卒業後、県内の地元国立すら冬は険しい山と雪に阻まれて通学不可能になる土地柄のためクラスの半分は県外の、東京、名古屋、大阪あたりに進学する地元で、その地域の地主というか横溝正史の小説に出てくるような旧家の2人姉妹の長女だったあさちんは「女の子がひとりで都会に出るてとんでもない」という両親の言いつけを守り、家から通える地元の短大に進学した。

「あさちんは成績がいいし、特に英語なんか超できるのになんか、もったいない」

あさちんが自分の進学先の関西に一緒に行ってくれたらどんなに心強いだろうと別れた彼氏ばりに未練がましい私に、だって親がさあと笑うあさちんは、別に両親が取り立てて底意地が悪いとか、異様に厳しいとかそういう家庭の子ではなく、今から20年程前の北陸の田舎に割とよくあるタイプの家庭の女の子だった。

とにかく交通の便が悪い土地柄なもので、偏差値の高低より自宅から近いか否かで高校を選び、模試の成績や本人の希望ではなく実家から通えることを第一条件に次の進学先を選び、そうして親が「うちの子をちょっとひとつよろしくお願いします」と地域の有力者に頼んで用意した地元企業に就職する。

あさちんもまた短大を出た後、その流れで地元のホテルに就職した、担当部署はフロント。あさちんが就職した頃まだ京都の大学生だった私は、帰省中に何度かあさちんの働く姿をひやかしに行ったことがある。のんびりとした田舎のホテルでは、そこにスタッフの同級生がやってきてフロントでちょっと世間話をしていても誰も特に怒ったり咎めたりしなかった。

真っ白なボウタイブラウスに黒いベストとすっきりとしたタイトスカートを纏って髪の毛をくるりとまとめた20歳のあさちんが赤い御所車柄のカーペットにじゃらりとしたシャンデリアに飾られた、お世辞にもスタイリッシュとは言い難いベタな観光ホテルのフロントに立っていると、そこだけがザ・ペニンシュラ東京というか、まるでフロントの妖精がいるように見えた。手元の銀色のボールペンをさっと振るとそこにきらきらと魔法の粉が撒かれてルームーキーが出てきそうな、そんな感じ。

(鄙にも稀なるって、ああいうのを言うのだな)

私はそう思ったものだし、実際、休暇中に京都の私のアパートに遊びに来たあさちんと四条河原町あたりに繰り出すと、学生風の男の子たちがしょっちゅう声をかけてくるので大変だった。

「なあどこ行くん、いま暇?めっさ可愛いない?」

でもそういう男の子達にもあさちんは北陸訛りまる出しで「なーん、友達とおるがでいいがです」と屈託なく微笑むもので、先方はいつも「今なんて言うたん」とぽかんとしていた。

あさちんは、立山を臨む土地の清浄な空気の中に生まれ飛騨高山を源流とする清流に磨かれ冬の険しい雪に守られ育まれた、正真正銘、天然ものの『良いお嬢さん』だった。

私がそう思うということは、普段あさちんの周りにいるホテルのお客さんや同僚や通りすがりの誰かも全く同じことを思うということで、あさちんは22歳で地元で古くから商売をしている家の跡取り息子で、12歳年上の旦那さんに見初められてあっと言う間に結婚、23歳で男の子を産んだ。

人生のなにもかもが後手後手に回って「これ一体どうしたら…」ともがいていることが常の私からすると、まるで星の光のような速度で人生の2大イベントを駆け抜けたのだった。

そんなあさちんの華燭の典には私も招待を受けて出席したけれど、新婦が若ければ新婦友人も大体皆若く、しかも全員が山吹、浅葱、薄紅、紅梅の華やか振袖姿で、披露宴の招待客は多分200人超。あれは今思い出してもちょっと壮観だった。町そのものも、県民性も、人々の暮らしぶりも大体がつつましく大変に地味であるのに、どういう訳か冠婚葬祭と仏壇だけは異様に豪華という土地柄らしく、とても豪華な結婚式と披露宴だった。

そしてあの時まだ22歳だったあさちんは確かにとびきり可憐ではあったけれど、成人してもまるで少女のような童顔に、うんと華奢な手足の花嫁はなんだかすこし痛々しいような、そんな印象があったのは今も私の脳裏にしっかりと残っている。

(結婚て、自分にはひとつも想像できない)

当時の私は大学を出た後もさらにまだ学生生活を続けることを既に決めていた中途半端なモラトリアム系大学4回生で、結婚も、伴侶も、家も、子どもも、すべて遠い最果ての場所にあって現実感のひとつもない絵空事だったし、ついでに言うとモラトリアム系大学生の私の学生生活は25歳まで続いた。

だからあさちんが28歳で

「たぶん離婚することになると思う」

突然そんな連絡をしてきた時、その頃やっと社会人3年生だった私は、地縁でガチガチに縛られている上に、個人情報が超高速で向三軒両隣に伝播する、良くも悪くも人と人との距離の近すぎる土地であさちんが結婚して、地元に根付いた商いをしている古い家で男の子を産んで、その子を連れて離婚するということが一体どういう意味と覚悟をもつことなのかということをいまいち理解することができず

「…お、おう、大変だね」

としか言ってあげられなかった。


あさちんの息子君は、ちょっとだけ普通の子ではなかった。

3歳で平仮名、カタカナの50音に加えていくつかの漢字を読み書きし、世界の国旗の大体を暗記し、数字があまりにも好きで乱数表のようなものを毎日せっせと作成していたらしいあさちんの息子君は、最初のうち旦那さん、もとい元旦那さんとそのご両親にも「これは将来が楽しみだ」と喜ばれていたのだけれど、いざ入園した幼稚園で、団体行動が一切できなかった。

並べと言われると園庭に逃げ、みんなで歌いましょうと言われるとピアノの音がうるさいと怒り、プールの時間に一度水に入ると降園時間になってもそこから出ようとしない、無理に引っ張りだそうとすると癇癪を起して泣いて暴れる、そして泣き出すといつまでも泣き止まない。

今ならしかるべき医療機関やこども支援センターのような場所に相談してみてはどうでしょうかとか、園の方で加配の先生を1人つけて配慮をしますとか、そういう話になりそうなあさちんの息子君の行動も、当時はまだ「お家でしっかり言い聞かせて」という家庭での躾けの範疇に問題を矮小化されてしまう時代だった。田舎のごくのんびりとした地域だったというのもあるかもしれない。

そしてそんな地元はイオン王国と呼んでもいい、巨大なイオン・ショッピングセンターが各所に城のごとく立ち並ぶ土地でもあり、息子君はそこに連れて行って3秒目を離すと忽然と姿を消し何時間探しても見つからず、警察のお世話になったことが何回もあったのだとか。

「ぜんぜんじっとしとらんが…」

あさちんが困り果ててそう言うのを、当時まだ何も知らなかった私は、やんちゃな男の子って大体そういうもんではないのと思って聞き流していた。あさちん、ほんとうに、ほんとうにすまなかった。

そうなってくると、最初は賢い子やわと喜んでいた元旦那さんもその両親も

「これは、ちょっとおかしいのでは…」

と言い出し、最終的には

「こういう子はウチの血筋にはいないからアンタの遺伝」

という話になってゆくのはどうしてだろう。

悪いのは全部女親のせいという昭和的ムーブは令和の今も割とまんま存在しているんだぜと時折人から伝え聞くけれど、とにかくあさちんはそれを言われてブチギレたらしい。20歳のあの頃まるでフロントの妖精ように可憐な娘だったあさちんは28歳の母親になったある春の日、息子君のことを「オマエに似てバカだ」と元旦那とその両親に嗤われ、とうとう怒りに任せてヤマザキ製パンの白いお皿をまとめて床に叩きつけた、ひとり春のパン祭り。

「あああそうけ、じゃあアンタらの言うこのバカな息子はアタシだけの息子ってことで、あたしはこの子と出て行きますよッ!」

そもそもそういう「こんなアホな子はうちの子やない」のような文言を平気で口にする人達は日常的に「おまえがこんなことをするから」もしくは「しないから」と言わなくていいことをいくらも言っていただろうことは、今の私になら容易に想像できる。そしてそういう普通よりちょっと育てにくい我が子を毎日神経を研ぎ澄ませて、うっかり死なせないように、お友達を傷つけないように、この子を得意なことを最大限伸ばせるようにと必死に守り育てている親にとって、本来はもうひとりの親であり保護責任者であるはずの人間からの

「全部お前のせい(だから、俺は関係ない)」

という意味合いの言葉は、何にも勝る暴言だということも、今ならとてもよく分かる、それにあさちんはずっと耐えていたのだ。

でも当時の私にはそれが少しも分からなかった。それが理解できたのは、あさちんの息子君によく似た気質の自分の息子を産んで育てることになった、ずっと後になってからだ。

「あの時はあさちんの窮状を共に泣き、共に怒り、あの旦那をあさちんの実家の山に埋めるなどしてやらなくて本当にすまなかった」

私がそれをあさちんに伝えられたのは、つい最近のことだ。

あさちんはその後、結構な期間揉めはしたものの息子君の親権を獲得して離婚、そうしていろいろと難しいところはあるけれど、それでも抜群に頭の切れのいい息子君を、実家からも元旦那さんの家からも遠く離れた土地でひとりで育てた。

そのあさちんが、最近私に連絡をしてきて

「息子が大学を卒業したらやっと身軽になるかなと思ったがやけど、それがさあ…」

というので、あさちんは老いたりといえどもまだまだうつくしい45歳であるのだし、私と違って手のかかる小さな子どももいない、ということは伴侶となるような誰か素敵な人でも見つけたのかな、そして再婚でもするのですか、そうですか、と聞くと

「保護犬を引き取ることになったが!」

など弾んだ声で言う。あさちんは柴犬くらいの大きさの茶色くて瞳のくるりと大きなワンちゃんを引き取り、その子を新しい家族にして一緒に暮らすのだそうだ。それで私が

「あんた昔、息子君が独立して自由になったら、もう生き物を育てるのなんて絶対嫌だって言ってへんかった?」

と聞いた。私の記憶が確かなら、あさちんは息子君が一番大変だった15年ほど前(小学生になったくらいの頃だったかな)、丁度私が1人目の子を妊娠している頃に、あたしはコドモなんてこの子ひとりで沢山だ、もう生き物なんか人間どころか犬も猫もメダカすら育てられないと言っていたはず。しかしあさちんは

「そんな昔のこと忘れた、第一犬は可愛いし、守りたいし、育てたい」

のだそう。3秒目を離せば命の保証のない、恐ろしいほど手がかかる息子君をひとり親として死なせることなく無事育て、やっと肉眼でとらえられる距離に育児のゴールテープが見えてくると、あの頃に培った手がかかりすぎるほど手のかかる存在を守り育てる能力が(俺はまだまだやれるぜ)とあさちんをせっつくのだそうだ。

私は犬なんて生き物はとにかく三度のご飯より大好きなので、あさちんがそのワンちゃんと暮らし、時々その子の世にもかいらしい姿をLINEなどで送ってくれることについては大歓迎なのだけれど、それにしたってアンタさあと私が言うと、あさちんはひひひと笑って恐ろしいことを私に言った。

「アンタもね、今手元にいる一番小さい娘ちゃんの手が離れたら、わかるよ」

いや、分からへんわ。

と言いたいところだけれど、実は大変恐ろしいことに、末の5歳の娘が赤ん坊のころ程は手のかからなくなった今、うちではワンちゃんも猫ちゃんも、賃貸住宅であるという性質上飼ってはいけないのだけれど、今年になってベランダにじわじわと花やハーブや小さな木の鉢が増え続けている。

育てたいのだ。

小さくて弱くて途方もなく手がかかり、それでも少しずつ枝葉を伸ばしてゆくいのちを、ただ眩しいばかりの柔らかい生き物を育てることは、一度やってしまうと多分癖になるのだと思う。

あさちんは来年から人生で初めてひとり暮らしをするらしいけれど、もう既に手元に引き取った茶色い毛玉と、たいへん楽しそうに暮らしている。

あさちん、それひとり暮らしって言わへんのやで。

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