1年生に、なれるかな。(1)

はじまり

私の3番目の子、ここでは本人の自称に従って『ウッチャン』と呼びますけれど、その子が重い心臓病を持ってこの世に生まれて来たのは5年前の冬のことでした。

ウッチャンの産まれてくる少し前、ウッチャンのちょっと不思議な形の心臓を、シロウト目にはまったく「鳥取砂丘の砂嵐や…」としか思えない白黒の中に動脈血と静脈血だけが赤と青に色付けされたエコー画像で診断して、産まれてすぐに始まる治療の予定図を描いてくれた、パディントンベアによく似た面差しの新生児科のドクターは

「3回の手術を終えれば、オリンピックには出られませんけれど、きっと普通の子のように生きてゆけますよ」

うんと優しい言い方と表情でそう仰ったもので、私は先生のその婉曲を過分に含んだ優しさ成分100%の言葉を「よし、ほんなら3回頑張ればいいねんな」と、とても単純に言葉通りに理解して「とにかく3回、3回やから」と唱えながら頑張ってきたものの、先天性疾患に関わる諸々はどの子でもそんな単純にはいかないもなんですよ奥さん。

そのウッチャンは赤ちゃんの頃、口から栄養の一切を摂ることができなくて、鼻から細い管を使って昼夜の別なく3時間おきに1時間かけてミルクを流し込んでいた。私はその時期すっかりくたびれていて、毎日もうろうとしたアタマで「これ…鼻から牛乳というやつでは」と常に嘉門達夫のことを想っていたし、1歳前に受けた最初のカテーテル検査、足の付け根からワイヤーを入れてそれを心臓に差し込みますなんて言葉にするとえらい痛そうな検査で、うっかり心臓を止めてこっちも軽く心停止しそうになり、1歳半からは在宅酸素療法を始めて、そういう紆余曲折ののちに3歳でやっと辿り着いた3回目の手術を終えて2年と少し、5歳になったウッチャンは病気のある子にしてはすらりと背が高く、とてもお喋りで、滅法気が強い女の子に育ちました。

そして現在、ウッチャンは今も在宅酸素療法、透明なホースからシューっと流れる医療用酸素を鼻から吸い、お薬は必ず1日3度、風邪や肺炎が流行れば家から少しも出ないで引きこもり、お散歩でちょっとの距離を歩くだけで酷く息切れをして顔色と指先が青紫色に変色し、それゆえに看護師さんとリハビリの先生の訪問は途切れることなく週1回ずつ、そんな風に思っていた「普通」とは少し違う感じで暮らしています。

そんなウッチャンが、来年とうとう小学校に行くことに。

春、色とりどりにぴかぴかのランドセルを背負った小学1年生というものは本来、4月の空を桜色に覆うソメイヨシノのように晴れやかに嬉しい存在なのでしょうけれど、元気なお子さんとは少し違った諸条件をいろいろと体に備えて、多分酸素の機械を背負って小学校に進学することになるウッチャンを抱えた私は今から「で…小学校ってこういう子は一体どうしたら」と今から頭を抱えているところ。ウッチャンの小学校への道程を具体的にどうしたらいいのかは誰も教えてくれないし、『うちに入れてあげますよ』と言われたから『あらどうもー』と入学させてそれで万事オーケー、何とかなるってものではないだろうし。

障害や疾患のある子の小学校入学は、地図なしに未知の、それも標高3000m級の山をひとりで登るようなもの、それか誰も見たことのない大陸を、航海図なしに帆船で目指すようなもの。

出典:わたし

…ってなんで私に誰も言うてくれへんかってんやろか。というのが今の私の正直な気持ち。私は今最高に小学校が、市の教育委員会が恐ろしい。

それで私はこの1年、一体どうやってこの小さい人をうちから徒歩5分、すぐそこの公立小学校に入学させるのか、そこにはどんな険しい山があって谷があるのか、その道のりを文字にして残しておこうと思ったのでした。書いておけばきっとずっと忘れないし、書き残すことを課しておけば、それなりにたゆまずに小学校までの道のりを歩けるのではないかなと思ったもので。

まあ平たく言えば、サボり癖のある私が己に課したケツたたきと言うヤツで。

年長さんになった今年は、ウッチャンが年少児だった頃よりも、年中児だった頃よりも世界はほんの少し落ち着きというものを取り戻しているし、全登園日の半分程度しか登園できなかった去年や一昨年とは違って、今年はきっと週5日、毎日幼稚園に通って、そうしているうちに徐々に体力がついて、それで他の子ども達と同じように運動とか水遊びなんかができるのじゃないかなと私は思っていたんですよ、だってウッチャンは『重症』と呼ばれる心疾患児にしては妙に元気な子であるのだし。

だからウッチャンの担任のO先生、実はこの先生はウッチャンの9歳年上の兄が年中だった時の担任で、頼りがい満点、すらりと背の高くて立ち振る舞いのとてもきれいなベテラン教諭なのだけれど、その先生に私は

「できるだけ他のお友達と同じ体験をして、同じ思い出を作ってあげたいんです」

とお願いしていた。ウッチャンはこの先、すくすくと成長してもっと体が大きくなってゆけば、そもそも健康な人とは全然違う

「静脈血が心臓を通らずに直接肺に流れ、動脈血のみが心臓を流れます」

なんて何度聞いても私には「それで一体どうやって生きて…」と未だにちょっと理解不能な循環を、それも外科手術で無理やり人工的に作り上げることでやっと生きているもので、いずれ大人になればその無茶な循環が破綻してゆくとまでは言わないけれど(言われた気もするけど)、やはり体のそこかしこに、心臓以外の肝臓とか腎臓なんかに不具合が出てくるものだから、だったらせめてまだ体が小さくて、人工的に作られた循環がこの子の体を支え切れている今くらいは、好き放題の毎日をやらせてあげられないものかと。

そうでなくても、ウッチャンはこれまで何十回も病院に入院をして、散々痛くて嫌な思いをしているのだからそのくらいのことはしてあげたいな、それくらいはしても良いだろうと思ったもので。

でもついこの前の木曜日、新学期が始まって4日目のこと、朝ウッチャンを自転車で幼稚園に送って急いで自宅に引き返し、洗濯物などを片付けてさてこの隙にひと仕事と思ったら、幼稚園から電話があった。

「スミマセンお母さん、ウッチャンがなんだか元気がなくて今、保健室にいるんですけど、顔色が悪くて、Spo2を図ったら83%ってところで、指先が氷みたいに冷たいので暖かくして再計測はしてみますけれど、どうしましょうか」(※チアノーゼ系心疾患児であるウッチャンのSpo2は88~90%いかないくらいが平常値)

それは担任のO先生で、ウッチャンに活気がいまひとつで心配ですという連絡だった。丁度気候の安定しない春の始めのこと、前日がまるで初夏のような陽気と日差しだったものだから、その日は制服のニットのベストを着せないで登園させたら、存外お外の風が冷たかった、それで体が冷えてしまったのだと思う。

もともと体温を調節することがとても苦手なウッチャンは、すっかり活気がなくなって、ぜんぜんお喋りもしないしなんだか「スンッ…」って状態になってしまったんだそう。

それで私が電動自転車を断ち漕ぎの爆速で迎えにゆくと、ウッチャンは保健室で少しだけ給食を食べた後に即吐いてしまったらしく、保健室にあるだけのひざ掛けとか毛布でぐるぐるの簀巻きにされて「突然こんなこと言ってごめんね、実は明日、世界が終ります」とか言いそうな、ひどくしょんぼりした白い顔で保健室の小さなベッドにちょこんと座っていた。

「ウッチャンが食べられるって言うので、少しだけ食べさせたんですけど、いけなかったですね、すみません…」

先生はこちらが恐縮するくらい謝ってくださって、私は逆に申し訳なかった。というのもウッチャンは寒さにとても弱いのに加えて、週に5日間、連続して幼稚園に登園できたことがこの2年で数回しかない。その上、4月というのはどの子も新しい先生に新しい友達に新しい教室、全部が新しい中でどきどきそわそわしている時期で、循環機能の脆弱さに反して肝が太いことにかけては主治医の折り紙付きのウッチャンも、緊張で疲れていたのだと思う、私の見込みが甘かった。それなのに自転車の後ろの座席に座ったウッチャンが

「ママ、シンパイかけてごめんねえ…」

なんて本当にすまなそう私に謝るもので、私はあとちょっとで切腹するところだった。

(いいんだよ、だってそれはお母さんが「毎日4時間、半日程度しか通っていない幼稚園にせめて週5日通えなくてどうして小学生になれようか、あなたにはできるはず」なんて無謀で勇み足な、希望的観測を捨て切れてなかったのがいけなかったんだから)

そう、ウッチャンが小学校に入るには、宅酸素療法を続けたままの、医療的ケア児の状態で、それだから酸素の機械を小学校に手配しないといけないとか、校庭に出る時や移動教室の時には誰かに酸素ボンベを持ってもらわないといけないから補助教員をとか、学校看護師を配置してほしいとか色々大変な諸手続きと相談があるのだけれど、それ以前の問題として、ウッチャンには体力がなさすぎて週5日、みんなと全く一緒に4時間だか5時間だかの授業を受けることがきっと難しい。それを忘れていたというよりは、あまり考えたくなかったのでしょうね、私は。

だって世の中のおおかたは大体週5日制で回っているのに、うちの子はそれができないんですよとなったらどうなるのかを、週5日、毎日元気に登校することはできても、クラスの決まりとか学校の不文律のようなものをちっとも守れず、群れからはみ出してしまうタイプの子をひとり育てて、ことあるごとに「お母さんが何とかしてください」と学校から鬼電をもらってきた私何となく予測できたものだから。

たとえ文部科学省のHPの『病弱・身体虚弱に応じた教育的対応』に「子供一人一人の教育的ニーズを踏まえ、健康面や安全面等に留意しながら指導しています」とか「身体面の健康維持とともに,病気に対する不安感や自身の喪失などに対するメンタル面の健康維持のための学習を行っています」なんて明示されていたとしても、

「親にすら『この子のこの状態は一体何がどうしてこうなってんのよ』と皆目わからない子の対応を、この子を初見であるところの学校がそんなフレキシブルに対処できるものなのか」

それが全く「そんなん、絵にかいた餅じゃろ」とまでは言わないけれど、少しひねくれたことを思ってしまうというか、大体は「壁にあたってからまたきてくださいねー」という感じの対処療法、それか結局全部が「お母さんお願いします」に集約されてしまうのやろなと思っていて、だから秋にあるはずの就学相談で「いやうちの子、酸素以外はほとんど他の子と変わらないですよー」と私は言い切りたかったのだと思う。

しかし現実問題、ウッチャンは現時点で、マラソンを走れますとか25m泳げますとか跳び箱5段を見事にジャンプできるんですとかそれ以前に(これ全部やったらあかんやつ)、そもそも家から進学する予定の小学校の、徒歩5分ほどの通学路を自力で一度の休憩もいれずに歩き切ることができない。


「ウッチャンが幼稚園の他のお友達よりずっと疲れやすいっていうのは、ウッチャンが常態的に酸素に繋がれていて、そのせいで運動をしにくい環境にあって年齢相当の体力がついていないってこともあるんですけれど、ウッチャンの持っている肺循環では体内酸素が不足していて、筋疲労が他の子より出やすいからってこともあるんですよ、筋肉を動かすには酸素が必要ですから」

「筋肉に…酸素が?」

これはこの前、普段ウッチャンを担当している訪問リハビリの理学療法士さんが怪我をして、しばらく代打で来てくれることになった理学療法士の先生が、たまたま小児のリハビリを専門でやっている先生で、ウッチャンの現状を聞いて本人の様子を見て「なぜこの子がこんなに疲れやすいのか」ということを明確に示してくれた時の会話で、私は目からうろこがころりと落ちたと言うか、この先はこの子の親として福祉と医療制度と学校教育法と循環器の仕組みと、更に筋肉についてまで学ばなあかんのかと慄いたけれど、「ハァ、そういうことか」と物凄く合点がいった、その時に

(なんですか?筋肉って鶏むね肉とゆで卵とプロテインをあげておけばいいんじゃないんですか!?)

とは流石に「この人、アホの子では…」と思われてしまうので言っていないです。

「体内の酸素は体内でまず脳に優先的に供給されるんですけれど、ウッチャンはそもそもチアノーゼ系の心臓疾患児で、術後もその状態がほとんど改善されないまま体は順調に大きくなっている訳ですから、脳に行ってしまった酸素の残りは普通の子よりうんと少なくなります。結果筋疲労が他の子より早く、強く出るのは致し方ないことなんです。でも例えば運動をするとして、ウッチャンは運動機能自体は何の問題のない子ですし、性格的にも皆と同じことをやりたがるでしょうから、幼稚園の体操の時間はみんながやっている時間の6割程度で切り上げるとか、そういう考え方で『なんでもやらせてあげる』ってことはできると思うんですよ」

これまで、運動制限つきの疾患児が健康な子ども達と育つ中で立ちふさがる壁を「量の調整」で乗り越えるということを、その量をきちんとした数字で示すことを明確に言葉にした人はいなかった、それから先生が続けて

「歩くと、やっぱり息って切れてきますか?」

と聞くので私は

「切れますねー、ちょっとそこのドラッグストアに買い物に行くのに『歩ける』って言うから連れて行っても、結局途中から歩けなくなって、そうしたら私が酸素ボンベごとこの子を抱っこするんですけど、それももういい加減重量的に限界です」

正直にそう申告した。うちから一番近いドラッグストアは徒歩5分のところにある。それについこの前の春休み、温かな春の陽気に誘われて、猛烈に動物と触れあいたくなって奈良まで鹿に会いに行ったら、ウッチャンの「ウッチャンもう歩けない」が奈良到着直後に炸裂して、私は近鉄奈良駅から東大寺までの道のり、18㎏の人をずっと抱っこして歩く羽目になった(その距離約2㎞)、そして危うく腰が死にかけた。

それは「奥さん、おせんべいくださあい!」なんて無邪気な顔で集まって来るかいらしい春の鹿を2,3匹捕まえて、ウッチャンを乗っけた台車か何かを引いてもらおうかと思ったくらいで、辿り着いた東大寺では、私が息切れして大仏様あるところの釈迦如来に世界平和を祈願する余裕も無かった。

「でしたら、電動車椅子の導入は就学時に考えてみてもいいかもしれません」

「車椅子って、こういう子だからいずれ、大人になる頃には必要になるのかなあとは思ってはいたんですが、今ですか?しかも電動?小学1年生とかかから?」

「遠足や学校行事のことを考えると、検討してもいいんじゃないかなと思いますよ。交通ルールを理解していて操作が覚えられれば、低学年からでも利用している子はいます。車椅子なら酸素ボンベを誰かに持ってもらわなくても自分で運搬できますし」

確かに、私がなかやまきんに君でもなければだっこでこの子をあちこち運ぶのはいい加減もう限界だし、誰かの手を借りなくても一人で長い距離を移動できるというのは、ウッチャンにとって良いことなのかもしれない。実のところ通学路を「しんどくて歩けない」と言われたら、本人とランドセルと酸素ボンベを丸ごとコールマンのキャンプ用カートで運ぼうかと思っていた。

実際、電動車椅子にはウッチャンのように運動機能には問題がないけれど、循環機能に問題があるって人や、神経の病気なんかで長時間歩くのが難しい人も乗っている、そもそも誰が乗ったっていいんだよな必要ならば。まあ登校班でちょっと目立ってしまってお友達に「なんでそんなん乗ってんの?」とか死ぬほど聞かれそうではあるけれど。

それで私はまずはウッチャン本人に、いずれ遠からぬ将来、電動車椅子というちょっと未来っぽいモビリティを使ってみたいですかと、聞いてみた。

「あのさあ、ウッチャンはさあ、幼稚園の他のお友達より疲れやすいやん?お散歩も途中までしか行けなかったり、この前奈良に行った時もさあ…だからもう少し大きくなったら自分でブーって運転できるカッコイイ車椅子に乗ってみるのはどうかなってハナシがあるのやけど、どう?」

するとウッチャンは、ふふふと笑ってこう言った。

「エーッ、ウッチャンべつにコッセツなんかしてないよォ」

口が達者になったとはいえ、まだ世界のほんの一部の、小さな欠片しか理解していない5歳児は、車椅子は怪我をした人だけが乗るもんだと思っていたらしい。あんたじゃあ大学病院に入院する時しょっちゅう同室になって、あの輝くように素敵な笑顔をこちらに向けてくれるY君(生まれつきの病気で歩けないお兄ちゃん)は常に骨折してる子やとでも思ってたんか。そしてウッチャンは自分が他の子と比べて格段に動きがゆっくりで、すごく疲れやすくて、園の近くの公園へのお散歩もよく途中離脱していることを「なんかうちってみんなと違うよな…」とは思っていなかったってことなのか。

ウッチャンはまだ自分が人と違う、ちょっと珍しい病気の子だというのをいまひとつ理解していないらしい、そして車椅子利用の要件は骨折に限らないってことも。

それで、本人に少しずつ自分自身のことを知ってもらうということも含めて、今ウッチャンが一体どれくらいのことができて、どのようなことはしない方がいいのか、感覚的にではなくて数値的に算出するのにウッチャンを一度、体力と循環機能の限界を見るための『負荷試験』の実施可能な病院へ一泊入院に出すのはどうかしらんと言ってくれたのものこの代打の先生で、人生の節目節目にいつも助言と手助けをしてくれる人がどこからともなくやって来るのは、ウッチャンが色々と大変な心臓と引き換えに神様から貰った「もってる」ところかもしれない。

今のところの問題は、大学病院とは別に通っている、より専門性の高い病院の方の検査入院の予定が全く決まらないということで、既に2ヶ月待っているそこでの検査を終えてみなければ、この1年の治療と通院の予定が決まらない、負荷試験のための入院も。

ウッチャンの肺高血圧と中心静脈圧と側副血行路と右房にあえて開けた穴、その他色々な問題が一切解決しないままの術後2年は、私にとってはとても長かった、その上それがまだなーんにも解決していないのだから。

2年前のあの時、手術中に色々と問題が起きて、それで予定外の術式を採択してその後も随分と危ない目にあったウッチャンは、産まれる前に新生児科の温厚なパディントン先生が言っていたような良い経過は辿っていない、多分この先も。

でもこの1年は多少のことがあっても「あたし達ってカワイソウ…」なんて悲観と悲嘆にとっぷりつかっているような状態にはなれない、絶対に。だって1年なんてきっとあっという間だし、秋には就学相談だってある、お兄ちゃんは受験生でお姉ちゃんは中学生のなる準備があるし、あとウッチャンはランドセルの色も「ピンク、水色、あやっぱりピンク」ときてまだぜんぜん決まっていない。

それにウッチャンの業界では、手術を何度も乗り越えて5歳までを生きて、そうして6歳で小学校に入る予定があるというのは、それだけでちょっとしたキセキのようなことなのだから。

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