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スイセイのこと 4

☞8

『スイセイが僕の面倒をみているのではなくて、僕がスイセイの面倒をみている』

それは僕の中では純然たる事実だったけれど、それでもどうしても立場を逆にしないといけない事が起きる時が稀にある。

僕が3年生になった春頃から、お母さんは、地方に住んでいる若い農業や漁業、あとは酪農なんかに従事している人たちと野菜や、主にその地方の小さな工場や工房で作られた加工品を、インターネットや小さな即売会を通じて紹介して販売するという企画、そういう仕事にかかわる事になって、お母さんには新幹線や飛行機を使う距離の移動をする機会が増えた、それは日帰りが少し難しい位の距離だ。

「この件ではマリちゃんがこの企画の顔だからできたら私と一緒に現地に足を運んでもらいたいのよ、カイセイ君の事もあるから、あんまり無理は言えないんだけど」

サカイさんがお母さんと会話しているのを事務所の隅で聞いていた僕は、それなら僕が1人で留守番をするので問題ない、お母さんは好きな仕事を好きなだけすると良いし、その間僕は勝手に家にあるものを食べて、勝手に学校に行き、夜まで勝手にこの事務所かスイセイの家で過ごして、勝手に1人で家に帰って眠るから大丈夫だよとお母さんとサカイさんの間に入って伝えてみたのだけど。

「あのねえ、カイセイ、それは駄目よ、いくらアナタが年の割にしっかりしていて、色々な事に動じない子だからって流石に小学3年生の子どもを1人で家に置いて、泊まりの出張はさせられないの、夜に子どもをひとりぼっちにして親が家を空けると言うのはね、絶対にしちゃいけない事なのよ」

そう言ってサカイさんは僕を諭したし

「大体カイセイを放っておいたら、キッチンのカゴから食パンだけ取り出してもそもそ食べて、あとお水を飲むだけで『食事おしまい』って済ませて、夜はお布団の上を本だらけにして明け方まで好きなだけ本を読んで寝るの忘れちゃうじゃないの、それは駄目よ」

お母さんは僕の簡素な栄養の摂取の仕方と粗雑な就寝方法を問題にして、僕が1人で何日も留守番をする事を絶対に許可しなかった。サカイさんはこの頃、2人の娘のうちひとりは外国に、もうひとりは国内だけれど遠くに住んでいて「1人暮らしって、ちょっと寂しいものね。娘達がいなくなったらどんなに静かでせいせいするかと思ったんだけど」と言って、また以前飼っていたのと同じマルチーズ犬を飼い、今度はその犬にリコッタと名前をつけて一緒に暮らしていた。そのリコッタは自分の出張の間はペット用のホテルに預けるという、それなら僕もそのペット用のホテルに預かってもらえばお母さんは安心して仕事に行けるだろうかと言うと、サカイさんは

「カイセイは、方向は明後日なんだけど、そういうとこ、本当に健気よねえ」

と言った、そうかな、僕は割と本気なんだけれど。僕は、犬や猫と過ごす方が人間と過ごすよりも得意だ、何しろ犬や猫は向こうから僕に話しかけてきたりしないし。そうしたらそこに、明け方の海でひたすらアイドルの女の子を撮って、それをそのまま直ぐにデータ入稿して「送信終了30分で向こうが構図がどうとかアウトフォーカスがどうとか言いよって、ホンマ大変やった、そんなん撮った後に言う事かアホ。そんな注文いまさら聞けるか言うて昼過ぎまで喧嘩してたから俺は今、死ぬほど眠い、そんなに腰の細さが問題か、あの娘があと10㎏太ってても被写体としては全然どうも無いわ、むしろ俺はガリガリの女なんか嫌や」とぶつぶつと僕にはよくわからない文句を呪文のように呟きながら「頼む、5時に起こしてくれ、次はスタジオにおばあちゃん撮りに行かなあかんねん」と言って、事務所の応接用のソファに合わせて体を小さく折り曲げて死体のように眠っていたスイセイがあくびをしながらお腹をぼりぼり掻いて僕とサカイさんとお母さんの所にやって来て、こう言った。

「そんなん俺の家に泊まっといたらええやん、カイセイが来たら、しらたまも喜ぶ」

僕はスイセイがこう言い出すまですっかり忘れていたけれど、スイセイは一応成人で、僕の保護者の代理をする事が出来る人間なんだった、それが適当な事なのかはまた別にして。お母さんはそのスイセイの申し出を「スイセイだって今日みたいに明け方から仕事があることも結構あるし、泊まりで地方に行くこともあるじゃない、それでそれが私の出張の予定と被る事もあるでしょう、それに何より悪いし」と一旦は断ったけれど

「マリさんと俺のスケジュールを管理してんのはサカイさんの事務所なんやから、そこは何とかなるんちゃうかな、ねえサカイさん」

とスイセイが言い

「アンタのスケジュールはしたくて管理してる訳じゃないわよ」

そうサカイさんが言い返したけれど、そのスイセイの提案はそこに居る大人3人と僕の間で何となく了承され、たまに発生するお母さんの出張の時に、僕はスイセイの家に泊まるという決まりが何となく出来た。

それで、梅雨の明けかけた7月上旬の蒸し暑いその日、お母さんは東北の海沿いの小さな町に出張で、僕は学校の後、スイセイの家に泊まりに行く予定になっていた。お母さんは僕にスイセイに迷惑をかけちゃだめよ、あと新鮮なお魚を買って来るからねと言っていたけれど、僕は魚介類にはあまり食べられるものが無いので、ありがとう、でも僕はあまりそういうものは食べられないと思うから、それはスイセイとしらたまにあげよう、あと僕はスイセイに迷惑をかけられた事はあるけど、迷惑をかけた事は多分無い、そう言って旅行用の小さなスーツケースを持って駅に向かうお母さんを見送った。

学校は、相変わらずだった。僕は、今ままでも、そしてこれからもそうであるように、自分からは発言をする事を極力避け、給食は炭水化物のみを摂取し、休み時間はやっぱり持参した本を読んでいて、同級生たちは僕を遠巻きにしながら、たまに授業中に僕に消しゴムのカスや、小さく丸めたプリントの切れ端を投げてきたり、掃除のときに、黒板消しを突然僕の目の前ではたいたりしていた。僕の主治医のタチバナ先生は「君が不快だと思った時は、まず教室を出る事」と僕に指示をしていたけれど、僕はまずこの同級生たちの行為と態度が自分にとって不快なのかどうかが分からない、というより、僕は目の前で起きている事象と、それに対して本来持つべきなのかもしれない感情が頭の中で上手く接続されない、それは僕の感情というものがもともとそういう構造をしているのか、それとも本来起こるべきではなかったバグみたいなものが脳内に発生しているからなのか、それが僕にはよくわからなかった。

僕は病院で『定期健診』という名前の雑談をするための日に、その僕の想っている事をタチバナ先生に伝えると「うん、それもまた、今の君の在り様ではあるんだけれどな」と言ってタチバナ先生は少し考え込んでしまった。

怒りと不快と不当、その感情はそれぞれ同じものなんだろうか。

僕は、スイセイが、地震で自分以外の家族全員を一度に亡くしたことを僕に教えてくれたあの日以来、同級生が僕の目の前で、もしくは僕の背後で、僕に小さな嫌がらせと目される行為を行うだびに、『それが僕にとって不快なのかそうでないのか』という事と一緒に『それは一体僕にとって不当なのかそうではないのか』という事を考えるようにしていたのだけれど、その2つともがよく分からないまま、もう1学期が終わろうとしていた。

そしてその日の午後、1学期も終盤だからと学校内をいつもより念入りに雑巾がけをするという予定になっていた掃除の時間に、僕が1人で階段の手すりを出来るだけ丁寧に拭いていると、突然、頭上から水が降ってきた。僕は、自分が屋内にいるはずなのに結構な量の水が僕に降り注いだというその状況がよくわからなくて、あたりをぐるりと見回してみた、もしかしたら天井に突然大穴が空いてそこから水が降り注いできたとか、そんな可能性もない訳ではないから、スイセイの家の天井からだってついこの間、大きなムカデが降って来た事があったし、その少し前には「天井の隙間からネズミ降ってきた、どんくさすぎか、それにしらたまは何しとんねん、ネズミて」とスイセイが言っていたから。そう思って自分の首を左右に振ってあたりを確認してみると、同級生の3人が僕のいる階段から5段上の階段の踊り場で掃除用のバケツを手に持ってにやにやとしながら、僕にこう言った

「悪い、手が滑った」

(それは嘘だ)

僕は瞬時にそう判断できた。バケツの水を、1人の人間を狙って確実にぶつけてくるのは確実に故意によるものだ。手が滑ったからと言って、それなり重みのある筈のバケツ一杯分の水が階段の中腹に居る僕にこんな勢いよくかかる訳が無い。僕はこの時、小学生だったスイセイがバケツの水を同級生から掛けられて、それに対して渾身の暴力で応酬したという話を思い出していた。

『お前が不当だと思えば、それが即ちお前の怒りだ』

僕は今、あの踊り場で僕の事をにやにやと見下ろしている同級生に怒りを感じているんだろうか、それはよくわからないけど、何もしていない人間に雑巾をすすいで汚れた水を頭から掛けるのは正しい行為ではないと思う、そしてその対象になった僕は、今多分不当な目にあっている筈だ。そう思った僕は、そのまま階段を上ってそのバケツを持ってにやにやとしたままこちらを見ている同級生の前に立って、その首謀者と目される1人に顔を近づけてこう言った。

「バケツの水を突然、故意に、明確な理由なく、人に掛けると言う行為は、不当だと僕は思う。不当だと僕が思う事は怒りで僕には反撃の権利があると、僕の知り合いが言っていたので、僕は君に反撃したいと思う」

普段ほとんど喋らない僕が、びしょ濡れのまま近づいてきて言葉を発した事に対して、そこにいた3人はにやにやした表情のまま「何言ってんのこいつ」「手が滑ったって言ってんじゃん」「やべえ」と口々にそう言い、僕の目の前の1人が僕の肩を強く押した。

この時、その場所が平面だったら、僕の体には何も起きなかったのかもしれない、でも僕は階段の踊り場に居て、そしてそのすぐ後ろは階段で、しかもその階段は同級生たちが思い切りよく撒いたバケツの水で濡れていた。僕は肩を強く押された弾みで足を踏み外して滑り、階段の一番上から一番下まで滑り落ちた。

そこから僕には目覚めるまでの記憶が無い。

☞9

僕が目を覚ました時に、まず僕の視界に飛び込んできたのは、見たことの無い白い天井と、その天井をぐるりと囲むように天井からぶら下がる鈍色のカーテンレールとそこに接続されて垂れ下っているクリーム色のカーテンだった。僕はその視界に入っているすべての物をじっとよく見て、少し考えてから「病院みたいなところだな」と思った。そして次に僕の耳に男の人の怒鳴り声が飛び込んで来た。

スイセイの声だ。

「だから!その水掛けたとかいう本人をここに呼べ、バケツの水ぶっかけられて階段の最上段から一番下に突き落されんのが子ども同士のふざけ合いなワケないやろ、カイセイがふざけて階段から落ちるようなヤツか、大体あいつは普段から学校でほとんど誰とも喋らんねやろ、友達とふざけ合いなんかするかアホ、ええかげんせえ、頭打って死ぬ事もあるんやぞ、そうなったら誰がどう責任とるんや、代わりにアンタが死ぬんか!」

僕は、「病院みたいだな」と思った視界の中の天井がやっぱりどこかの病院のもので、あの時、階段から落ちて、それで僕は今病院に来ているんだなという事は数秒かかって理解できたものの、それでどうしてスイセイが病院の廊下で怒鳴り声をあげているのか、それがよくわからなくて、また暫く考えてから、そう言えば今日はお母さんが東北の小さな町に出張に出かけていて、僕は放課後スイセイの家に泊まりに行くことになっていて、それでそれが適当かどうかはさておいて、今日はスイセイが僕の保護者の代理だったんだという事を少し時間を置いてから思い出した。きっと出張中のお母さんに学校から電話があって、そのお母さんを経由して、すぐに僕の所に来られる距離にいたスイセイに連絡があったんだ。スイセイはサカイさんとか他の人の仕事の電話に全然出ない事でよくみんなに怒られていたけれど、何故だかお母さんの電話にだけはちゃんと出るらしいから。

スイセイは、僕が階段から落ちて病院に運ばれた事で相当頭に血が上ってるらしく、かなり巻き舌になってしまっている。スイセイがああなるとお母さんかサカイさんしか止められないのだけれど、生憎2人とも今日は出張だ、スイセイは、少し前に僕が学校の事を話した時に同級生や担任の先生の事を「俺がまとめてシバいたる」と言っていたし、これは良くないと思ってベッドから体を起こそうとしたら、カーテンの外側に居たらしい誰かが布団の衣擦れの音で僕が起きている事に気が付いた。それは僕の様子を見に来ていた看護師さんで、その看護師さんはベッドの外周をぐるりと囲っているカーテンを開けて「起きられる?大丈夫かな」と言いながら背中を支えて僕の上半身を起こしてくれてからこう言った。

「おとうさーん、息子さん起きましたよ」

おとうさん?スイセイが?僕は普段から、子どもみたいな人間だと思っているスイセイが僕の父親だと勘違いされている事実にとても妙な気持ちになった、スイセイが僕のお父さんだとしたら僕の毎日からは平穏とか静寂とかそういう物が一切消え去って、喧噪なとても大変な物になってしまうんじゃないだろうか。でも看護師さんが廊下で多分、学校の先生に対してこの一連の出来事についての怒りを凄い勢いでぶつけているスイセイに僕が起きたと声をかけてくれたので、さっきからこの病棟中に響いていたスイセイの怒鳴り声はピタリと止まり、代わりに大股で廊下を走る足音と「走らないでくださいね」というどこか聞きおぼえのある男の人の声が聞こえてきて、それから

「カイセイ!」

スイセイが撮影に行くときに着ている誰かに貰ったと言う黒いTシャツ、それに汚いデニムといういつもの恰好で病室に飛び込んできて、そのまま僕がいる病院のベッドの上に靴を脱がずに膝から上がって来て、僕のことを抱きしめた。

「大丈夫か、頭痛くないか?俺が誰か分かるか?1たす1はいくつや?すまん、お前みたいな喧嘩もでけへんひょっちいヤツに反撃せえとか言った俺が悪かった、俺は明日マリさんの前で切腹する」

スイセイは僕を抱きしめたまま自分の左の肩にすっぽりと収めた僕の頭部を力を入れずにそうっと撫でた、僕はいきなり部屋に飛び込んで来て僕を抱きしめたスイセイのいつもくしゃくしゃで伸ばしっぱなしの固いくせ毛が顔に当たるのが少し痛かったけれど、それについては何も言わずにされるがままになっていた。

「頭は後ろ側と、あとは肩が少し痛い、後頭部にたんこぶが出来てるみたいだ。君はスイセイ、1たす1は2、僕は別にひ弱な訳じゃない、喧嘩というものをした経験が無いだけだ、あと別に切腹はしなくていいと思うお母さんはそういう痛そうなのが苦手だから」

僕が抱きしめられたままの恰好でスイセイのさっきの質問に順番に答えると、スイセイは僕の頭の後ろで噴き出した「カイセイは、階段から突き落とされといて何でそんなに冷静なんや、ほんでまた口の減らんやつやなオマエは」と言って今度は僕の両肩を掴んで自分の体から少し離して僕の顔を覗き込み、そしてちょっと笑ってから、大声で病室にいる僕とスイセイ以外の誰かにこう聞いた。

「この子、起きたし、元気そうやし、もう連れて帰っていいですか?」

「うーん…レントゲンとCTは特に異常無いけど、小学校の10段ある階段の一番上から落ちて頭部と肩の打撲…頭部の打撲はわかんないからなあ…カイセイ君はここから家近いんだっけ」

僕は寝ている間に色々と検査をしたらしい、僕のいる部屋には看護師さんともう1人、紺色の服の上から白衣を羽織ったお医者さんらしい人が来ていて、僕の検査の結果がプリントアウトされているらしい用紙を覗き込んでいた。その人は僕が毎月一回雑談をしている児童精神科医のタチバナ先生だった。

「僕、帰ろうと思ったらどうしてだか救急に呼ばれちゃってね、8歳の男児、頭部打撲、先生の患者さんです来てくださいって。僕脳外科じゃないんだけどなあって思って行ってみたらカイセイ君が搬送されて来ていてびっくりしたよ、頭、痛いかい?」

「少し。ここ、大学病院なんですか」

「そうだよ、ここは三次救急…この地域の救急車の殆どが集まってくる所だからね、君、学校で階段から落ちて搬送されて来たんだよ、救急車に乗ったの、覚えてないかい」

「全然」

「そうか、脳震盪を起こしてたからね、まあ普通に会話できているし大丈夫かな、君の家は病院からはそう遠くないんだよね、それなら今日は帰宅してもいいよ、もし、万が一夜中に気分が悪くなったとか吐いてしまったとかいう事が起きたら、すぐに病院に連絡してください。ええと今日はお母さんじゃないんだね、その…お父さんじゃない…貴方は…」

「スイセイ」

僕はスイセイが余計なことを言う前にタチバナ先生の質問に答えた、スイセイが普通のちゃんとした大人と話をすると結構な割合でややこしい事になるということを経験的に知っているからだ。でもタチバナ先生は、僕がスイセイの事を紹介すると、僕の隣に座っていたスイセイの方に向き直って「ああ、そうか君が」と言ってそれからこう言った

「初めまして、小児科医のタチバナです、普段、外来でカイセイ君を担当しています」

先生が急にあらたまってスイセイにきちんとした挨拶をしたので、スイセイはちょっと慌てて座ったまま頭を90度位下げ、結果、土下座しているみたいな恰好になって「あ、ハイ、どうも」と言った。タチバナ先生は僕にその病衣を着替えて帰る準備をしておいてもらえるかな、君の着替えとか荷物はそこだよと言ってベッドの横にある細長い机の上にある紙袋を指さして、僕はスイセイさんと少し話がしたいから、この人、ちょっと借りていいかなと言ってスイセイを手招きしてどこかに連れて行ってしまった。

だからこの先は、スイセイが病院に持ってきてくれた服に着替えた後に、担任の先生が僕のランドセルを病室に持ってきて「今日の事はまた改めてカイセイ君のお母さんの方にご連絡しますから」とスイセイに頭を下げている時にスイセイが

(クソババア)

と口パクで言っているのを「スイセイ、クソババアとかはそういう事は言わない方がいい、スイセイは35歳でもう大人なんだから」そうたしなめてから救急外来の清算窓口で病院の会計を待っている間にスイセイから聞いた事なんだれけど、スイセイはその時にタチバナ先生からこんなことを言われたらしい。

「君の話をカイセイ君からよく聞いていましてね、それで貴方の作品も拝見しました、あの葬儀に参列している人達の顔を映した、あのほとんど表情の無い遺族の白黒の写真。それでその写真と、カイセイ君が普段話してくれる貴方の様子にあまりにもギャップがありすぎて、これは一体どういう方なんだろう、一度会ってみたいなあと思っていたら、今日たまたま貴方が僕の目の前に現れたものですから、今、ちょっとカイセイ君の前から連れ出したんです、まあ僕の個人的な興味です」

「貴方は今少し様子を拝見しただけでも、とても直情的というか、感情豊かな方のようだ、僕が見た貴方の作品が内包していた途方もない虚無みたいなものとはまるで正反対だ。そして親子ほど歳の違うカイセイ君をとても大切に思っているんですね、あの子は感情の発露や物事の感じ方が特殊な、すこし難しい子ですが、貴方はそれを含めてとても彼を大切な存在だと思っている、それは、どうしてでしょう」

どうしてでしょう、と聞かれてスイセイは凄く困ったと言う、それは僕もわかる気がする、スイセイはどちらかというと長考するという事の少ない、脊髄反射だけですべてを判断して行動しているタイプの人間だから、いつも分からなければ分からないと考える前に即答する。でもスイセイはこの時、スイセイにしてはとても珍しく一生懸命考えて、それでこう答えたらしい。

「俺にはそう難しい事は分からへんのですけど、写真とか、人によっては絵を描くとか、文章を書くとか、とにかくでもなんでもええんですけど、そういう真っ白い場所にイチから何かを写したり描いたり作ったりする作業て、結局、自分の空洞と向き合う事やからちゃいますか、俺は、今先生の目の前にいる自分が先生の目にどう映っていようが、本来、空洞です、がらんどうです、なんも無い」

「だから、カイセイも先生みたいに俺の写真を見て『無味乾燥な白黒写真』やと言うたんですけど、それが正解なんやと、俺は言いました、あいつは普段、ずっと黙ってるけど、そんで自分でも自分の事がようわからんて言いますけど、俺なんかよりずうっと感情も感受性も豊かなヤツやと、俺は思いますけどね」

そのスイセイの答えを聞いたタチバナ先生はとても嬉しそうにスイセイに握手を求めてきたそうだ、思えばあの先生も結構変わっている、僕の周りにはふつうじゃない、変な人が多いのかもしれない、僕も含めて。

「そうなんだよね、彼、とても感受性の強い子なんだよ、ただそれが上手く言葉や表情に繋がっていないだけなんだ、そして世界をとても面白い方向から捉えてる、僕はね、以前カイセイ君から『お母さんの事務所にスイセイと言う変な人が来た』って話を聞いた時に、そのスイセイという人、貴方とね、カイセイ君は本質的に似ているんだろうねと言ったんだ、カイセイ君はそれに全然同意してくれなかったんだけど、やっぱりよく似ているよ、真逆で似ているというか、貴方には僕が言っている事、分かってもらえるかな」

「全然」

「そっかあ、でもそうなんだよ、カイセイ君は、先天的に感情の発露、内面の感情を表に上手く表面に出すことができない、それで他人の目にはとても虚無的な人間に見える。そして多分…立ち入った事を言ってしまうかもしれないけど、貴方は本来、直情的で感情の豊かな方だけれど、後天的に虚無的なものを纏う事になった、これまでに突然何か大切なものをいっぺんに無くした事があるとか、そういう喪失経験からくるものだと僕は思うのだけど、それが写真という媒体を使うと可視化されてしまうんだね」

タチバナ先生は嬉しそうにスイセイにそんな話をしたらしくて、スイセイは賢い人の言う事は俺にはようわからんけど、俺の写真の事、わかる言うて褒めてくれたし、ええ人なんちゃうかと言っていた、それで2人は最後

「俺にはそういう難しい事はわからんのですけど、カイセイ、あいつはええヤツです、俺は好きです」

「そうだよね、彼、とてもいい子なんだ、僕もとても好きだな」

と言い合って、その会話の終わりにスイセイはタチバナ先生から

「貴方と話せて楽しかったよ、もしよかったらまた病院に来てよ」

そう言われたらしくて、スイセイは

「なんか飲みに誘うみたいに『病院に来てよ』って言われたからつい『わかりました、ほしたら、また』って俺も言うてもうたけど、よう考えたら俺が小児科にかかる事なんか普通無いやんけ、俺はアホか、ほんでもあの先生面白いな」

と言って笑った。

それで救急外来の会計窓口で支払いをする時に、なあカイセイ、オマエ、救急車乗ってレントゲン撮ってCTとか言うん撮って、コレってなんぼかかんの、俺、あんま金無いねんけど、いや払ったるで、ほんでもウン十万円とか言われたら今、ちょっと厳しいんやけど。と言いながら、薄いお財布の中身を数えていたスイセイは、それを見ていた会計窓口の人に「大丈夫ですよお父さん」と笑われていた、スイセイはお父さんじゃないのに。

「スイセイ、落ち着いた方がいい、お金なら僕も持っているし、今の世の中では子どもは病院にかかってもそんな大金は必要ないシステムになっているんだ、大丈夫」

そう言って僕は自分のランドセルから、お母さんに「もしかしたらちょっと怪我をしたり熱が出たりして病院にかかる事もあるかもしれないからね」そう言われて預かっていた自分の医療証と保険証と500円を出した。

タチバナ先生は、僕とスイセイの一体どこが似ているなんて思っているんだろうか。

☞10

スイセイは、病院からスイセイの家に帰る途中「カイセイ、お前バケツの雑巾洗った水かけられて、ほんでそのまま救急車乗ったんやろ、ほしたら風呂に入らなあかんな」と言って、僕をお風呂屋さんに連れて行った、僕はこれまでそういう所に殆ど行った事が無かったから、別にいいと言ったけど、スイセイは

「カイセイ、凄い残念なお知らせなんやけどな、俺の家は今、風呂が壊れとる」

わざと深刻そうに僕に小声で告げて、僕を古い銭湯に引っ張って行って、そこで僕の頭や顔や体を力任せに洗って、ちょっと熱い湯船にざぶんと着けた後、タオルで僕の事をごしごし乱暴に拭いて髪の毛を先頭の脱衣所に備え付けれている少し焦げ臭いにおいのする赤いドライヤ―で乾かした「なんぼ7月でも髪の毛濡れてたまま外出たら風邪ひくからな」と言って。僕は以前、サカイさんの家で飼われているマルチーズのリコッタのトリミングについて行った事があるけれど、なんだかそんな感じで、僕は自分が犬になってしまった気がした、僕は人間なんだけれど。それにスイセイのドライヤーのかけ方はとても乱暴で、いつもニコンのカメラを構えている大きな手のひらで僕の頭を必要以上にかき回しながら熱風をあてるものだから、結果、僕の髪の毛は妙な跳ね方に仕上がってしまって、僕はスイセイの頭がどうしていつもああも鳥の巣みたくぐしゃぐしゃになっているのかその秘密を知った気がした。

「よし、ほしたら飯食うて帰るぞ」

僕の頭を強引にくしゃくしゃに乾かしておいて、スイセイは自分の頭は適当に拭いて全然乾かさずに元々のくせ毛が余計くるくるになってしまった頭のまま、次は食事に行くと言った。それで僕を古い居酒屋さんに連れて行ったけれど、それこそ僕は食べられるものが少ないし、あまり無理に食べると吐くこともあるし、それは無理だよと言ったけれど、スイセイは大丈夫やと言って僕のシャツの襟足を引っ張るみたいにしてそのお店の中に連れて入って、その小さなお店の6席程の狭いカウンターの中にいたおばさんとおばあさんの間くらいの歳の女の人に

「おかあさん、この子、ホラ前言うてためっちゃ偏食の、この子にラーメン作るからそこ俺に貸して」

と言い、何故かそのお店のカウンターの内側にある小さな厨房に自分の大きな体を押し込むみたいに入って、僕が唯一食べられるサッポロ一番のみそラーメンを作った

「マリさんがこれは絶対カイセイが食べられるもんや言うたから、ここ数日、ちゃんと練習してんで、ここでビール飲みながら。これ、ネギは最初から抜いたるから、モヤシ5本食うのは譲歩せえよ」

スイセイが狭いお店の狭いカウンターの中の厨房で、体を折り曲げるみたいにして作ったラーメンはお母さんの作ったものよりは幾分か水分量が少ない気がしたけれど、僕はそれを食べる事ができた、ちゃんとお母さんが作ったのと同じ味だ、お母さんはほんの少しだけショウガを足すとカイセイには食べやすいみたいと言っていたから、きっとそれをスイセイに教えたんだ。

「ぼく、卵乗せる?煮卵あるよ」

カウンターの中から、このお店のスイセイが「おかあさん」と呼んでいた女の人が僕に聞いてきた、でも僕はゆで卵とか卵焼きをあまり食べない、というか卵に興味が無い、だからいらないと言うとスイセイがそれを貰うと言った。

「おかあさん、それ俺貰うわ、そんでビール貰ていい?」

「そこから勝手に出しなさい」

そう言われて、カウンターの内側にある厨房の出入り口、カウンターの下にある猫用のドアみたいな小さな出入口から這い出してきたスイセイは、今度はカウンター席の真後ろ、お店の入り口の横に置いてある縦長のガラスケース、瓶ビールやオレンジジュースが並んでいるそこから大きな瓶ビールを1本勝手に出して、勝手に栓を抜いて、勝手にグラスについで飲んだ。自分の家みたいだ、スイセイはどんな場所でも自分の家みたいにふるまう、スイセイの一種の才能だ。

僕は、こういうお店にもほとんど来た事がないので、なんだか珍しくて、スイセイの作ったラーメンを少しずつ食べながら、カウンターの上にずらりと並べられているお菜の盛られた色とりどりの大皿とか、僕のすぐ後ろのテーブルで将棋を指しながらお酒を飲んでいるおじさんとおじいさんとか、少し日に焼けた和紙に毛筆で『たこわさ』と書かれている壁のお品書きの文字なんかをくるくると眺めてから、カウンターの中のその「おかあさん」の顔をもう一度見た、「おかあさん」は僕と目が合うと、すこし微笑んで

「食べられる物が少ないんだってね、でも大丈夫よ、ウチの息子もあんた位の時は全然食べなかったから、それでもちゃんと大人にはなったわ」

そう言って、カウンターの中から僕の髪をそっと触った、3年生なんだってね、大人しくできて偉いわねえと言って、僕はさっきから気になっていたのだけれど、僕はこの「おかあさん」の顔をどこかで見た事がある、どこだろうか、僕は一度見た物も人もあまり忘れたりしない。

「あ、そうだ」

僕は自分の記憶を5秒くらいで掘り起こして頭の中に記憶されている画像と、目の前の「おかあさん」の顔を照合した。

(葬列の写真の中の一枚にいた人だ)

そうだ、スイセイが撮ったあの白黒の写真、『葬列』という題名のついたあの一枚の中にいた人の顔だ、あの写真には色がなくて、そしてその写真の中に閉じ込められていた「おかあさん」には全然表情が無くて、その視線は虚空、何もないところを見ていた。それで今、僕の目の前で微笑んでいるこの人と全然印象が違ったからすぐに気が付かなったのだけれど、あの人だ、だから僕はその「おかあさん」に

「だれか死んだの」

そう聞いた、スイセイは僕のその一言を聞いて

「カイセイ、何言うとんねや急に」

と驚いていたけど、その「おかあさん」は

「ああ、あの写真?スイセイの撮ったやつ見たの?おばさん、すごいみすぼらしい顔してたでしょう、イヤよねえあんなので賞撮りましただなんてさ、あれ、息子の葬式だったの。30手前でまだ結婚もしてないのに、急に病気で死んじゃってさ、病気が分かった時、若いから早いですよってお医者さんに言われてたけど、本当に3ヶ月くらいであっという間に死んじゃったの、その子のお葬式の時の写真」

「哀しかったわー、一人息子だったのよ、お店やりながら育てて学校行かせて、そこそこちゃんとしたところに就職してさあこれからって言うときにね、あっという間に病気に持っていかれちゃって、ああアタシの人生何だったんだろう、あの子だってあんなに若いのにどうしてなんだろうって思ってお店閉めて泣いて暮らしてたら、この子、スイセイがこんな写真撮った、これコンクールに出すけどいいかって聞いてきて、冗談じゃないわよ、息子の葬式で泣きわめいてるアタシの写真なんてそんなみっともない物と思って見せてもらったら、アタシ、もう本当に表情も何にもないこの世の終わりみたいな顔してて、逆に元気でたの、アタシは本当はこんなんじゃない、ああこんなんじゃだめだって、おかしいでしょ」

「ぼくにはふつうの人間の『哀しい』がよくわからないんだけど、おかしくはない、あと僕は「おかあさん」は、今の表情があって色がついている状態の方がスイセイの写真よりずっといいと思う」

僕の頭の中に、突然ぽこんとポップアップしたようにその感情と感想は表れ、そしてそれは脳内に発生してからタイムラグをほとんど持たずにとても自然に僕の口から言葉として滑り出て来た。僕にはとても珍しい事だ、でも僕はその時本当に目の前の色のある世界の中にいる「おかあさん」の方が、スイセイの無味乾燥な白黒写真の中の「おかあさん」よりずっといいものに見えたんだ。

「アラ、ありがと、いい子ね」

「おかあさん」は嬉しそうに笑って、僕にじゃあコレは飲めるかしらと言って、小さなオレンジジュースの紙パックをくれた、僕は果汁100%のものなら飲むことができたので、『果汁100%』と表記されているそれを、ありがとう、いただきますと言ってそれを受け取った。

「オイ、お前何だかんだ言うてお世辞とかも言えるんやんけ」

スイセイは面白そうに僕の頭を撫でまわしたので、やめてよと頭を振りながら

「スイセイ、僕は、今日、同級生に水を頭から掛けられて、はじめて、怒りという言葉と感情がつながったかもしれない、ほんの少しだけど、そう思う」

そう言ってみた、僕は前にスイセイが言っていた不当だという事と怒りという事が少しだけ頭の中で繋がったような気がしたよと。そうしたら、小さなグラスに手酌でビールを継いでいたスイセイは、僕の方をじっと見た、そうするとスイセイは手元を見ていない事になって、結果、グラスからビールがあふれた。そしてあああ俺のビール、勿体無い、と言ってグラスからはみ出した泡を大事そうにすすってからこう返してきた。

「どうしたんやカイセイ、お前、頭打って何かおかしなったんか」

「タチバナ先生は異常ないと言ってたけれど、それはどうだろう。でも僕は、感情というものを言葉では知っているけど、その感覚がよくわからない、例えば、タチバナ先生は不快だと思えば退けと言い、スイセイは不当は怒りだと言うだろう、でも僕はそのどれもが全部よくわからないんだ、だから、自分の外側で起こる事に対して何も感じないのはふつうと違うのか、だから僕はふつうの世界で異分子になるのか、それってそんなにいけない事なのか、そういう事を考えながら毎日暮らしているんだけど、今日、少し繋がったような気がする」

だから、ありがとうスイセイと僕は言い、スイセイは僕の顔を不思議そうに眺めていた。

「あの、タチバナ先生、おもろい先生な、お前のこと『とても感受性の高い子なんだよ、ただそれが上手く言葉や表情に繋がっていないだけなんだ』ていうてたけど、アレか、カイセイの頭の中で、自分が見たり聞いたりする事と、その後自分がそれをどう考えるか、それを繋ぐ全部コードがブチブチにちぎれとるとかそういう事か」

「分からない、じゃあスイセイは自分の頭の中がどうなっていると思うの」

僕がそう聞くと、スイセイはグラスに残ったビールをぐいっと全部飲み切ってから即答した。

「多分俺はお前とちごて、感じる事、感受性とか感性とかいうんやろか、それと感情の回路みたいなもんがものすご直線的に短くぐるっとまとめて繋がれとると思う、しかも、嬉しいとか楽しいとか哀しいと腹立つかそういうのが全部一本まとめてや、もうぐちゃくちゃに」

「スイセイのデスクのパソコンの配線みたいに?」

最近になってスイセイは写真のための機械類を置くためのデスクを、どうしてだか、事務所の僕の席の横に作ってもらって、そこに自分専用のパソコンとか、モニターとか、事務所の複合機とはまた違う、大きな専用のプリンタとかを持ち込むようになった。サカイさん曰く「本人が捕まらないならもう事務所に置いておくしかない」ということらしい。それでその機械類の裏の配線が本当に茹ですぎて絡まったスパゲティみたい複雑怪奇に絡まっていて、スイセイはそれを更にほぐしもしないで一本のバンドでぐるっと纏めていた。それである時僕はそれがあまりに気になってスイセイが何かの作業をしている時に、一度全部抜いてきれいに直そうと思い立ってまず一番太い一本を引き抜こうと試み、スイセイに「カイセイ、それだけはマジで勘弁してくれ」と真剣な顔で止められたことがあった。

「せやな、うるさいわ。でも、これ割と困るねんで、俺、仕事でエライ先生に会う事あるやろ、たとえばその人が七三どころか九一分けおっさんやったとするやん、ほんでその人と話してて空調の風がな、こうフワーっときてその髪がめくれ上がってそのハゲが露出した時にや、もうええ大人やったらハラに力入れて我慢すんねやろうけど、俺、そういうの止められへんくて、指さして笑ってまうねんなあ、ねえねえ、めっちゃおもろい事になってますよって。それで一度菓子折り付きでサカイさんが謝りに行った事あるもんな」

それは覚えている、スイセイが事務所の居候の大型犬から、通いの大型犬になった頃に、子どもの食に関するデジタルパンフレットを作る事になったサカイさんが、そのための写真をスイセイに依頼したんだ、行政と大きな広告代理店の絡む案件だから絶対そそうのないようにしてよ、とスイセイを連れて行って先方を会って10分で怒らせた、あんな男、才能が無かったら今すぐここから叩き出してやるとサカイさんはものすごく怒っていた。

「でも、カメラ構えたら、例えばそのハゲのおっさんかて、俺の被写体や、そのひとの人生とか来し方とか、あと家族とか、何を大事に生きてはるんやろとか、あの目じりの皺の感じは、今は緊張してはるけど本当はよう笑わはるひとなんやろかとかそいうのがちゃんと静かにそこに見える、だから例えば風ふいて髪の毛がふわーってなってハゲが露出しても、メイクの子に「アレ直して来て」て普通に言えんねん。ファインダーを通した時、初めて俺は世界を普通に冷静に見られてるんやろな、俺の中にある空洞とかそういうのもひっくるめてな、それが分かる迄は苦しかったわ、今でも苦しいけどな、だって誰が俺の中の空洞なんか見たいねんとか思うやん、それに俺が思てる世界なんか全然うまい事写真に撮られへん、しかももうからへん、ほんでサカイさんには叱られる」

「それって楽しい?」

「楽しいで」

僕らはいつか交わしたことのある会話を、もう一度繰り返した。

でもオマエも今日ほんのり怒ったんやったら、この先、俺はカイセイにも怒られたりするようになるんやろか、イヤやなあ、サカイさんだけで十分やねんけど、そう言ってカウンターの後ろの冷蔵庫からもう一本ビールを持ってきて栓を抜いたので僕は

「スイセイ、もうこの1本でやめた方が良い、しらたまが家で待ってるから」

と言った

「それ、怒りか?」

「違う、適切な忠告だ」

僕の感性と感情の配線はいつかだんだんとつながっていって、僕はふつうの人間になるんだろうか、そうしたら僕の今生きている世界は何か変わるんだろうか。

その日、僕は、スイセイが作ったラーメンをきちんと最後まで食べて、そのお店の「おかあさん」がくれたジュースを飲み、スイセイがビールを飲んでハムカツを食べてお店にいたおじさんと野球の話をしている間に、僕の後ろで将棋を指していたもう一人のおじいさんと将棋を指した。おじいさんは僕と指した2局中、2局とも負けて「なんだよ坊主めちゃくちゃ強いなと」嬉しそうに僕の頭を撫でて、坊主なんか食うかと聞いてきたけど、僕はもうお腹は一杯ですと言ったら

「よし、そんなら坊主のお父ちゃんに俺が奢ってやろう」

と言ってスイセイのビール代を払ってくれた。それで今日、これで3回僕のお父さんに間違われたスイセイは

「おっ、ご馳走さんです」

と言って喜んでいた。でもスイセイは僕のお父さんじゃないし、もしそんな事になったらきっと僕はすごく大変だと思う。

☞11

本格的な夏が来てから秋までの間、スイセイは写真の仕事が急に忙しくなって、その夏休みの間、僕はよくスイセイの家で一匹で留守番をしているしらたまの様子を見に行ったり、あとは実は意外と年を取っているらしいしらたまを冷房の効いていない家に置いておくとしらたまの体に良くないと獣医さんから聞いて、スイセイが泊りがけで撮影に行って家に居ない時にはしらたまを僕の家で預かる事が多くなった。お母さんもしらたま君が熱中症になったりしたら可哀相だからそうしましょうと言って、しらたまが家に来るのをとても喜んでいた、お母さんは猫が好きだ。そうしたら、どうしてだか、僕の家にスイセイもよく居着くようになった。

猫は家につくというけど、スイセイのこれは一体何だろう、別にいてくれてもいいんだけれど、何しろスイセイは大きいので、僕のそう広くない家の、そう広くない部屋にごろりと転がっていられると割と邪魔だ、それに日本のマンションの規格に身長が全然合っていないのでしょっちゅう部屋の鴨居に頭をぶつける、一日に何回もだ、大丈夫だろうか、家が傷まないだろうか。

それでその日、スイセイの留守に僕とお母さんが預かっていたしらたまを迎えにうちに来ていたスイセイは、僕が通信教育の教材を解いているローテーブルの前にあぐらをかいて座り、しらたまの両脇をかかえてしらたまを縦に伸ばしながら「なあ、猫って餅かって言う位伸びよるよなカイセイ」というどうでもいい事を僕に言うふりをして、ずっと僕に何か言いたそうにしていた。

この頃、僕はスイセイに関してだけは、僕に対して何を考えているのか、何かして欲しい事があるのか、それとも何かをして欲しくないのか、それがほんの少しわかるようになっていた、これはタチバナ先生が僕とスイセイが似ていると言っていた事と関係しているんだろうか、あまりそうだとは考えたくないけれど。それで僕は

「スイセイ、しらたまが嫌がってるよ、あと、何?」

「何て、何?」

「何か僕に言いたい事があるのかな、と思って」

「オマエ、感情の接続状態が悪いワリに、勘は働くんか」

「スイセイが分かりやすすぎるんだ」

しらたまは、スイセイがあまりにもしつこく自分の両脇を抱いたまま、自分の体を伸ばしたり縮めたりするのに辟易して、フゥと鼻を鳴らしてからスイセイの手の甲を、しらたまにしては珍しく強めに噛んでソファの上に逃げて行ってしまった。

「イテッ!なんやしらたま、飼い主にむかって」

「しらたまはスイセイの唯一の家族だろう、飼い主じゃない」

「あー…そのことなんやけどなぁ」

「何」

「俺、結婚することにした」

僕は、それまでずっとスイセイの顔に視線を向けずに、ずっとテキストの数字を見ていたけれど、スイセイが突然『結婚する』と言い出したので、スイセイの方に視線を移した、結婚すると言ったスイセイは、いつもよりかなり顔色が変だった。

「スイセイ大丈夫?顔が赤い、風邪?」

「そんな事無いわ、あとアホは風邪ひかへん、それと、俺が結婚する言うとんねんぞ、相手が誰とか聞けへんのか」

「特に。そういうの、聞いた方がいいの」

「おう、聞け」

「じゃあ、誰」

スイセイは自分から聞けと言ったくせに、僕が相手について聞くとどうしてなのか、両手で頭を抱えるようにして俯いて、スイセイにしては珍しく長考するような姿勢に入ったので、僕はスイセイが何かを言い淀んでいる間テキストを進めておこうと思って、僕もスイセイと同じように俯いてテキストに印字されている小さな数字を見た。そうしたら、スイセイはその俯いた姿勢のまま、これもスイセイにしてはとても珍しくすごく小さい声でこう言った。

「…マリさんや」

「マリさん?どこの?」

僕がスイセイの口から漏れ出た「マリさん」という名前からその人物が特定できなくて、スイセイにその人はどこの誰か、僕の知っている人かと聞いた。『マリ』は女の人によくある名前だ、第一、僕のお母さんだって『マリ』だ、そうしたらスイセイはさっきよりもっと小さな声でこう言った

「…だから、その、カイセイのお母さんの『マリさん』や」


僕は、この日、生まれて初めて、少し驚いた。

☞5に続きます(近日公開します)

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