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ことりと僕とにいちゃんと鳩 5

☞1

僕が11歳になり、にいちゃんが18歳になったその年の冬は、本当に色々な事が起きた。良い事も悪い事も、何もかもが突然発生してそして嵐のように僕達の元を去って行った。嵐はいくつもの清新で美しいものを僕の前に運び、そしていくつかの大切なものを僕の前から持ち去って行った。そういううねりみたいなものの中にある冬だった。

まず、琴子の苗字が変わった。正確に言うと、琴子が12歳の時のものに戻った。

「パパの方のおばあちゃんの養子になった。まあ形だけね。だから私はパパとは血縁上では親子だけど書類上は兄と妹になるの。パパの戸籍はまだ男のままだから。これで人生3回目の氏姓変更、もう自分が誰か分からん、絶対入試で名前書き間違える自信ある」

琴子には高校2年生の終わりあたりから、父である鳩太郎さん、今の鳩子さんがかつて妻子を棄てて突然失踪し、挙句性別を男から女に変えてしまった事で完全に縁切りを言い渡されていた実家の和菓子屋の『鳩屋』から、琴子を養子に欲しいという話が出ていたらしい。勿論形式的な物だと琴子は言った。

「今、あの最高に面倒くさい親戚縁者が近隣にひしめくパパの実家で暮らすなんて嫌だもん。もしそれをするなら、あの連中が死に絶えてからね。それに私、次は暫くパパと暮らす予定だし」

その縁組は琴子を祖母宅に家族として迎えたいという事ではなく『出来ればいずれ琴子にこの店を引き継いでもらいたい』という意味合いのものだった。鳩子さんを副社長から解任した後に副社長に就任し、先代の死去により現在は社長になっている鳩子さんの弟には子どもがいなかった。だから琴子は今あの老舗にとってたった1人の孫娘、末裔という事になる。これに当然、鳩子さんは反対した。

「あの家に戸籍の上だけとはいえ琴子を戻すなんてあたしは絶対賛成できない。これはすべてあたしの不徳の致すところだけれど、あの家ではあたしは幻の珍獣みたいなもので、もう居ない事にされている人間なのよ、お母さんなんかあたしを呪ってるわよきっと。実際『お前なんか産まなきゃよかった』があたしとの離別の日の最後の言葉なのよ。そのあたしの娘である琴子が今更あの家に戻って将来的に店を引き継ぐなんて、例えおばあちゃんが良いと言っても周囲がどう言うと思う?あの会社はもう株式会社で株主の皆さんの物なの。昔の一家で小商いをしていた田舎の和菓子屋じゃないの。アンタのおばあちゃんはなんにも分かってない、今は血縁がどうとか言う時代じゃないのよ、1人の経営者の双肩にはね、全従業員の生活がかかっているの」

鳩子さんはこの件ついては、経営者としても、父親としても絶対に賛成できない。必要ならあたしが実家に行ってお母さんに話をつけると言ったらしい。そして琴子の母親である駒子さんも

「ママは、なんでも琴子の思うようにさせようと思って琴子を育ててきたけどね、今回琴子がおばあちゃんの家の、戸籍の上だけにしたって養子に入る事を受け入れようと思っている理由がママが再婚する事に関係してるなら、絶対やめて。ママはね、それはかなり強引な方法で琴子の事を作って産んだけど、ママの人生に琴子がいない方が良いなんて思った事は一度もないんだからね、ママの人生で琴子を産んだ事実は絶対必要で凄く大切な事なの」

以前琴子が僕に言っていた通り、琴子が高校を卒業してから駒子さんは再婚する予定になっていて、その時未成年である娘の琴子は、あと数年は学生であると言う身分を考えると、再婚相手の戸籍に一緒に入籍する方が適当で、実際そうする予定になっていた。でもその事を琴子が実は気にしているのなら、駒子さんは再婚事体を止めてもいいとまで言い出したらしい。

「なんか話がややこしくなってきた。しかもそれがさ、彼氏とママが結婚したら、ママは単独で彼氏の戸籍に入籍して、私とママは一旦別戸籍になるんやって。それでもし彼氏とママと私を全部同じ戸籍まとめるなら私もママとは別に彼氏の戸籍への入籍届を出した上で、扶養とか相続とかそういう権利の発生の為に更に彼氏と養子縁組しないと実子と同等の扱いにはならないって。そんな回りくどい煩雑な事しないといけないって何?それなら私がどこに養子に行って戸籍をどうしようと同じことじゃない?大体戸籍って何よ?家族ってそういう書類ありきのもんなの?愛は?情は?もう超めんどくせえ、戸籍制度死滅しろ!」

そう言って琴子があのいつもの無人駅の自動販売機の前で眉間に深く皺を寄せて頭を掻きむしっていたのを僕は覚えている。僕は琴子に

「琴子はおばあちゃんの養子になってもいいと思ってるの?それでいつか、あんな大きな会社の社長さんになりたいの?」

そう聞いた。僕は琴子が大胆不敵なのも、豪快なのも、それでいて情のある優しい性格なのも、そして何より珠算検定1級と暗算検定4段を持っていて金勘定がもの凄く得意で自分の家である料理屋の帳簿は実はほとんど琴子が管理している事もすべて知っていたけれど、鳩子さんの実家の経営している会社はちょっとそれとは桁と規模が違う。でも琴子はこともなげに僕にこう言った。

「ウンそう。資本金9000万、年商100憶、直営店35店舗、社員数1200人、アレ全部そのまま私が貰いたいの。あんなの、やりたい人間がやればいいのよ。パパだって琴子の思うように生きなさいっていつも言ってる。パパはあの店の相続とかその手の権利をもう全部放棄しちゃったし、この前養子縁組の件でウチのお店に弁護士さんとパパの弟の英次郎さんが来た時にね、英次郎さんが言ってたけど、英次郎さんは本当はお店の跡なんか継ぎたくなかったって、大学院でもっと勉強していたかったんだって。英次郎さんは大学の哲学科で美学っていうのをやってたの。ヴィドゲンシュタインだったかな、難しくて私には全然わかんないけど。物静かで優しくて凄くいい人よ、そして経営者には全然向かない人。パパの実家はね、みんな我慢と無理ばっかりしていびつでギスギスしてるのよ、そういうのって不毛じゃない?」

鳩子さんの弟を使者として、琴子の養子縁組の申し出があってしばらくしてから、この話の返答は自分が直接が祖母に伝えたいと言って父の失踪のあの日から12年ぶりに鳩子さんの実家、琴子の祖母の家に足を踏み入れた琴子は、広大な鳩子さんの実家の母屋に今は1人で暮す祖母と小学生の時以来の対面を果たした。そして琴子が表層だけはとても清楚で美しい18歳の女の子に成長した姿を見て、目元に微かに涙を浮かべながら琴子の白い手を包むように優しく握る祖母に向かって、琴子は祖母の手をしっかりと握り返しながら、まず一言目にこう言った、祖母の目を真っ直ぐに見て。

「おばあちゃんは、パパの事が嫌い?もう我が子として愛せない?男だったのに女になっちゃった変な生き物だから?このお店を棄てて自分の思うように生きる事にしたから?私はね、自分が男の子だと思って産んだ子が実は私は女の子だったのって言って、ある日突然妙にデカイ女になって現れた事がおばあちゃんみたいな『母親』っていう種類の人間にとってどういう類の驚愕で絶望なのかは、全然分からない。でもね、パパが、鳩太郎が鳩子になっておばあちゃんの前に現れた6年前にパパの事を『あんたなんか産まなきゃよかった』って『気持ち悪い』っておばあちゃんは言ったんでしょ?その事だけパパに謝ってあげてくれない?あんなこと言ってごめんねって。だって『産まなきゃよかった』って死ねって事だよ、おばあちゃん」

それがこの養子縁組を自分が受け入れる、私からのたったひとつの条件だと琴子は言った。

「パパと分かり合ってくれなくていいし、パパの、おばあちゃんから見たら奇妙でしかないあの生態を理解なんかしてくれなくていいの。でも、私の友達が言ってたんやけどね、一番大切な人に赦しを貰えずに生きるのはとても苦しい事なんだって、その子はね、パパとほとんど同じような立場にいる子で、私の大切な親友なの。おばあちゃんはパパのことを昔、自分の期待を裏切って嘘ついて、おばあちゃんにとっては命みたいなこのお店の身代が傾く程の衝撃と大混乱をもたらした憎い人間だと思っているかもしれないけど、パパは多分おばあちゃんの事を憎んだりしてないよ。うーん…憎み切れなくて、諦め切れないって言うのが正しいのかもしれないけど」

琴子の祖母は、孫娘の口から突然語られた「父への謝罪」という思いもよらない養子縁組への条件を、さっきまで涙を浮かべていた目を大きく見開いて聞いた。この美しい孫娘はその華憐な見た目とは裏腹に生来苛烈で一本気な性格だった事をこの時琴子の祖母は思い出したんじゃないだろうか。

「そしてね、おばあちゃんがお店とこの家を大切に思っているのと同じくらい、私はパパの事が大切なの」

琴子の祖母が琴子の言った条件を受け入れる事にしたのか、そしてその提案に対してどんな言葉で答えたのか、琴子はそこまでは僕達に話してくれなかった。でも琴子はその祖母との対面から少し時間を置いて、高校3年生の年明け、祖母の養子に入る形で苗字を6年前の両親の離婚以前のものに戻した。その手続きの日には、鳩子さんが自分の母親である琴子の祖母に付き添って家庭裁判所に出向いたらしい。琴子の父として、そして琴子の祖母の娘として。

琴子のこの養子縁組の話の顛末を、駅前の自動販売機で買った缶コーヒーで両手を温めながら聞いていたにいちゃんは、ずっと黙ったままだった。にいちゃんは琴子の話をどんな気持ちで聞いていたんだろう。僕には、いつもの男子高校生に擬態しているあまり表情の無いにいちゃんの美しい横顔から、兄ちゃんの心の襞の内側にある何かを読み取る事は出来なかった、

☞2

琴子の苗字が変わり、そのころはまだ『センター入試』と呼ばれていた大学入試の本格的な始まりを告げる試験の実施される1月の半ば頃、母やマコト君のお母さんが熱心に通っていたあの『会』が何の前触れも予告も無く、ある日突然あとかたもなく消えた。

いつもの日曜礼拝の日に信徒があの赤い屋根の中に入ると、そこに『先生』の姿は見当たらず、鍵のかかっていない礼拝堂とその奥の『先生』の執務室のような小さな部屋から、すべての物があらかた消えていたのだ。そこにあった現金も通帳も調度類も信徒の詳細を記した帳簿のようなものもすべて、南向きの礼拝堂の正面にいつも日の光を通して会堂を静かに青く照らしていた草原の羊を描いたステンドグラスまでもが金枠から無理にはがされて持ち去られていた。ただあの羊の箔押しをした茶色い表紙の聖書だけが部屋の中央に乱雑に積まれていて、何冊かはここを出る時に取り落としたのか床に無造作に散らばり、床にこぼれた内の数冊には多分慌てて踏みつけたのだろう足跡がついていた。まるで物取りが侵入した後のような光景を見て慌てた『会』の人達が『先生』の携帯に何度も連絡をしたけれど「おかけになった電話番号は…」という機械的なアナウンスが流れるばかりで一切繋がらないまま、その日『会』の人達が礼拝の始まりをいくら待っても『先生』は姿を現さなかった。

その次の日も、その次の日も。

この世界を善と悪、二元論的に選別し、その悪しきものをすべて焼き尽くす世の終わりと、その後に来る正しいもののみで構成される生新な世界を熱望した奇妙なあの『会』は結局、何も起こらないまま、誰も救わないまま、まるで夜半に人知れず降る淡雪のように音もなく僕達の町から消え去って行った。初めから何もなかったかのように。残されたのは廃墟になったあの小さな赤い屋根の教会を模した建物だけだ。

『会』が淡雪のように消えてしまった日、僕も母に連れられてその場所にいた。僕はマコト君と一緒に現場の騒然とした様子をそこから少し離れた、クリスマスツリーの装飾を片付けないまま放置されているもみ木の下の小さなベンチに座ってずっと眺めていた。

「なんか、捜査の人が来てたんやって、ちょっと前に」

「ソウサ?何の?警察?」

「税務署」

マコト君も僕も流石にその詳細は分からなかったけれど、前の年の暮れにこの地域を管轄する税務署から背広を着た男の人が2人来て『先生』に色々な事を訪ねて帰って行ったのをマコト君のお母さんが見ていたのだそうだ。そしてマコト君にあまり焦点の合わない瞳で

「きっと裏切者がいるのよ」

と言ったという。

「お母さんは、にいちゃんがさ、真ん中の方な、その兄ちゃんが色々不味い事をやらかしたらしくて最近イライラしていてすごく怖いんや」

マコト君はあのいつも華やか過ぎる位華やかなお母さんの様子が少しおかしいと言って心配していた。元々体調不良が続いてて僕も心配してたんやけど、でも最近は少し怖い。ひかりにいちゃんに続いて真ん中の、めぐむってい言うんやけどな、めぐむ兄ちゃんまで医学部への道がアカンてなったら僕への風当たりがやばすぎるから、めぐむ兄ちゃんにはもう少ししっかりしてほしいねんけどな。そう言ってマコト君は頬杖をついたまま深いため息をついた。そうやって自分の兄と母となによりこの先の自分の未来を憂慮して何度もため息をつくマコト君を慰めながら僕は『会』の先生が失踪し、会堂とその奥の小さな部屋が雑然と積まれた聖書を残してあとは全てもぬけの殻だったというこの出来事を、その日、センター入試の2日目に挑んでいるにいちゃんが帰ってきたら出来るだけ詳細に伝えようと思い、その日はずっと混乱している現場の様子を眺めていた。

「にいちゃんが言ってた通りになったよ、『会』は無くなっちゃうみたいだ。マコト君が言うには少し前に税務署の人が来ていたんだって、それと今日『先生』が居なくなったことどう関係があるのかは僕達には分からないけど、マコト君のお母さんが「裏切者がいる」って言ったって、あれかなあホラあの…」

センター入試2日目とその自己採点を終えて遅くに帰ってきたにいちゃんは布団に入ってから、自己採点は892点だったよとか、琴子は名前を書き間違わなかったみたい、でも得点は志望校と学部を考えると首の皮一枚かもしれなくて、それなのに「気合で何とかして見せる」ってすごい強気であの性格はうらやましいとかそんな話をしてくれた。僕はその話を聞き終わってから、二段ベッドの上の段にいるにいちゃんに、今日起きた事件のあらましと、その裏切り物の代名詞の人物の名前を訊ねた。いつだったかそんな話をにいちゃんとしたことがあるよね。

「イスカリオテのユダ。僕の事だよ、僕が電話をしたの」

「え?何が?誰が?どこに?」

「大阪国税局」

にいちゃんは、聖書のお話の中で救い主を裏切った弟子の名前を僕に告げて、それは自分の事だと言った。イスカリオテのユダは「生まれなかった方が、その者のためによかった」と評されてその後、救い主をゴルゴタの丘の磔刑に導いた人の名前だ。それもにいちゃんが僕に教えてくれた。

「え?何?どういう事?その…オオサカコクゼイキョクに電話をしたら『会』が無くなったの?それをにいちゃんがやったの?ユダだから?」

にいちゃんは、二段ベッドの上からするりと降りて来て1段目の僕のベッドの縁に静かに座り、僕にこう言った。

「あの『会』がそこに集まった人達からとにかく沢山お金を集めてたって、マコト君が言ってたんでしょう。それでねアレは宗教法人って言って、そこに入ってくるお金には税金がかからないって言う特別な団体なんだけどね、でもそのお金を『先生』が個人的に使っちゃうのは不味いの。あとそのお金を先生のお給料にするとかそういう時には税金がかかる。普通の会社員と一緒。でも多分そういう区分がない感じでずさんに運営しているんだろうなって思って。だって200人…もっとかなあ、そんな人数をこの周辺の地域からかき集めて毎週献金箱に分厚い封筒がどんどん吸い込まれるように集まっていたんでしょう?それもここ何年も。ウチからだってかなり出ていってると思うよ。一度だけあの『会』に連れて行かれた日に僕も見たけど、あれはちょっと異常だと思った。それに会の中心メンバーはみんな近所のお母さんやおばあちゃんやおじいちゃん達で、その人達は闇雲に『先生』を信じて崇拝するばっかりできちんとした組織も何もない。多分会計も監査も無かったんじゃないのかな。きっと高校の生徒会の方がまだきっちりしてるよ。それをあの先生が1人ですべてやっているなら、きっと色々と帳簿に記載できない事をかなりしているんだろうなって」

僕はにいちゃんの『会』の運営とお金にまつわる考察を、布団にくるまった状態でにいちゃんの顔を茫然と眺めながら聞いていた。にいちゃんはあの夏の日、僕とマコト君と小さな声で談笑しながら、それでも会堂のあちこちをしきりに気にして、目に付いたものの名前や意味を僕に訊ねたりしてた「みい、あれは何?みんなあの箱に何を入れてるの?」そうか、あの時そんなことを考えていたのか。

「だから連絡した。宗教法人を隠れ蓑にして、巨額の個人所得の税金抜いてますよって。国税局には匿名の情報提供っていうシステムがあるんだよ。鳩子さんが教えてくれたの。でも僕だけじゃなくてこの辺りの人はもうだいぶ以前からアレは何かおかしいって思っていたみたいだから、僕と同じ事を考えた人が何人も連絡したり相談したりしていたんじゃないかなあ。ああいう、あからさまに怪しい団体でも、表立って何か事件を起こしてくれない限りは、住民が警察や市役所に相談しても拉致があかない、それならお金の事で何か不味い事をしてるんじゃないか、そこから何とかならないかなって、あの『会』が胡散臭いって思っていた人は皆絶対考えたと思うよ、前も言ったけど、自浄作用だよ」

僕は少し前に、兄ちゃんの小学生時代を評して琴子が「この子は涼しい顔して深謀遠慮を脳内に張り巡らせてるタイプの最高に食えないヤツだと思った」と言っていた事を思い出した。

「にいちゃんて、食えないやつ」

僕がついそう言うと、にいちゃんは僕の頬を軽くつねった。みいはだんだん琴子に似てきたね。

「ひどいなあ。でも一度ここの地域管轄の税務署の人が話を聞きに来たんだよね、それをマコト君のお母さんが見た。あの『先生』はここはもうあぶないって思ったんじゃないの。きっと税金の事以外にもうしろ暗いところがいくつもあったんだと思う。それで今手元にあるものを全部抱えてこの町から逃げて行った。『先生』はきっとまた違う場所で似たような事をして暮らすんだろうね。夏にひとことだけ話しをしたけどなんだか目つきがおかしな人だったよ「貴方のような人こそ救われるべきです」って。だから僕は神様なんか信じてないって言い返した、そもそも初めから僕は選ばれてなんかいないし僕は選抜漏れだからって。そして、あとに残されたのは選ばれていたはずの子羊達と、紙くずになったあの聖書だけ」

そう言って、にいちゃんは僕の頬をつまんでいる指を離して今度は僕の頬を軽く撫でた。ちょっと笑いながら。嬉しい時の笑顔でもない、楽しい時の笑顔でもない、寂しい時の笑顔で。

「でもこれでお母さんが、あの人があのおかしな『会』から物理的に離れられる、それでもう少し自分の事を見つめなおしてくれたらいいのに、僕なんかいなくても、あの人は普通に幸せな人間の筈だと僕は思うんだけど、そうは思えないのかな。法的に正しい婚姻関係にある夫がいて自分で産んだ子どもがいて完全な女で。それってこの先の僕に殆ど手に入らない物なのに。あの人は『自分はこれでいいんだ』って気持ちになって他人に理想と完成を求めるのを止められないのかな。そして何より思うに任せない時に突然激高して手近にあるものを手当たり次第に破壊したり、子どもに、特にみいに暴力を振るう事を止められないのかな。あれはきっと病気みたいなものだから、出来たら医療機関とかそういう人を支援する場所に行くとかそれは無理なのかな。にいちゃんはあと少ししたらこの家から出るから、それまでにすこしでもこの家がみいにとって安心して暮らせる場所なんだって、それを見届けたい」

「でも、にいちゃんは手術して女の子になるつもりなんやろ?医学のチカラで。それでいくつか条件が整えば戸籍上も女の子になれるって僕、調べて知ってるよ。そうしたら普通に結婚もできる。子どもは難しいのかもしれないけど…でも子どもがいなくて楽しく暮してる人も沢山いるやん」

僕は、にいちゃんが母の「幸福要因」として並べた3つの内、ひとつはにいちゃんにとっても十分解決可能な問題だと指摘をした。いつかあの優しい恋人とにいちゃんが結婚してくれくれたら良いと僕は思っていたから。それに何もかもを理解してにいちゃんを選んだあの思い込みの激しい恋人が、今更にいちゃんが子どもを産めないからとかそんなことを問題にするなんて僕には考えられなかった。でも僕がそう言うと、にいちゃんは少し驚いて、そして次にほんの少し困ったような顔をして

「そんなに先の事はわからないよ。だってひかりが仮に今はそれでいいと思っていても、もう少し時間が経って僕達が大人になった時に、ひかりの周りの友達や兄弟が普通に結婚して普通に子どもを持つようになった時にはどう思うかなって。確かにみいが言う通り、子どもなんかいなくても幸せに暮らしている夫婦は沢山いるよ。その選択は自由だし、それぞれの家族の形だと思う。でもね、僕にはその選択権自体がない。みい、出来るのにしなかったという事とね、出来ないからしなかったって事はね、全然意味が違うよ」

にいちゃんはそう言うと、僕の布団に潜り込んで来た。にいちゃんが日ごろから気にしている180㎝の長身が布団の中に滑り込んで来るとベッドの容量は僕と兄ちゃんで溢れそうになって、僕はにいちゃんの体にぴったりと自分の体を寄せた。僕は少し薄暗いスタンドライトでははっきりと確認できないにいちゃんの顔が哀しく曇っていないかそれが心配で、にいちゃんにこんな提案をした

「じゃあ、僕が産んであげるわ、にいちゃんの甥か姪になるけど、それでいいやろ」

僕がそう言うと、薄明かりの中のにいちゃんは笑って起き上がりそしてベッドの上の天井に頭をぶつけた。

「みいが?産むの?赤ちゃんを?それは生物学上不可能だよ。みいが赤ちゃんかあ、産めそうだけどね、みいは実はすごく面倒見がいいしなんか育児が似合いそう。でもみいの遺伝子を持つ子どもはみいのパートナーになる子が産んでくれるんだよ、何?好きな子でもいるの?」

にいちゃんは僕に顔を近づけて楽しそうにそう聞いてきた。僕はエラいところに話が飛んだなと思ったけれどにいちゃんが少し笑ってくれた事が嬉しくて、にいちゃんの発した「僕にはその選択権が無い」という言葉を聞いた時に僕の中に発生したちくちくとした痛みを静かに胸の中で希釈する事が出来た。でも、僕には好きな子なんかいないよにいちゃん。

「そんなんいてへんわ。ちょっと前に僕は女の子とは全然遊ばへんて言うたやん。それに僕は、伝説のにいちゃんの弟って事で女子に過剰に期待されて、挙句勝手に幻滅されるのが常やねんで。僕の事を普通にあつかう女子なんか僕の周りでは琴子くらいや」

『にいちゃんと比較される事で僕は結構嫌な目に遭う』という事実は、僕がこれまで兄ちゃんの前では禁句にしていた事だった。でもこの頃には僕もそれをすっかり自分の中で解禁していた。にいちゃんが自分の真実の姿と、そこから生まれる懊悩とか苦痛を僕に正直に包み隠さず明かしてくれた事が僕にそれを可能にしていた。

「アハハ、ごめん、ごめん。でも琴子は『みいはあと7~8年待ったら相当いい男になるからきっと物凄くモテると思う。上っ面だけじゃなく優しくて人当たりが良いっていうあの性格は絶対客商売向きよ、そうなったらウチに頂戴』って言ってた。どうするみい?琴子はいい子だよ、将来はあの『鳩屋』の四代目店主で見た目もあの通りすごく可愛いよ」

「にいちゃんは全然わかってへん『見た目も』じゃない『見た目は』やろ、琴子は大変やで。この前だって、僕が塾の京都本校に模試に行った日に僕に付いてきて、にいちゃんの学校が遅くなるから私と一緒に帰ろうって、それはいいねんけどアチコチ寄り道したがるし、僕が琴子は受験生なんやから早く帰って勉強しようって言ったら本気でむくれるし、それにあの日は琴子のあの顔に寄ってきたお兄さんがしつこいからって相手の腕を後ろ手にひねり上げてさあ」

「聞いた、折角受験勉強の合間にみいとデートしてるのにナンパ男が寄って来てうざかったって」

「僕、近い将来、琴子に彼氏が出来たとか、結婚するとか言い出したら相手に会いに行くわ、それで聞くわ『いいんですか、後悔しませんか』って」

「琴子に言っとく」

「ウソ、やめて」

僕らはその日、二段ベッドの一段目で一緒に眠った。センター入試を無事に終わらせた安堵と疲れで僕より早く寝息をたてたにいちゃんの長い睫毛を見ながら僕は、にいちゃんがうっかり神様から間違えられたせいで、この先長く解決できないまま抱え続けるのだろう絶望や懊悩や失望がすべて消えて無くなる日が早く来ることを祈った。それから、にいちゃんが以前、琴子が鳩子さんと再会して和解した日に琴子に贈った言葉の意味を考えた。

『一番大切な人に赦しを貰えずに生きるのはとても苦しい事なんだ』

☞3

『会』が消えてしまって暫く経ってから、今度はマコト君が消えてしまった。

僕はマコト君とは違う小学校に行っていたので、毎週日曜の『会』の礼拝が消滅してしまってからはマコト君に会えるのは週3で通っている塾の中でだけだった。僕は5年生の初めの選抜テストで、最下位で教室が本気で地下にあるFクラスを脱していたとはいえ、まだやっと地上に這い出して日の光を浴びた程度の凡庸で平凡なSクラスの住人で、そんな凡人が天上の特Sクラスにマコト君を訪ねるのには少し勇気がいる。実力主義の戦場とはそういう場所だ。だからいつもはマコト君が階段の踊り場、塾のみんなが国境と呼ぶ場所で待っていて話しかけてくれていた。でもある時からどれだけ待ってもマコト君はそこに来てくれなくなってしまった。僕は、意識しないまま迂闊な言動をして他人を怒らせることが常の自分が、今度はマコト君が気に障る事をして怒らせてしまったんじゃないかと思った。そういう事が僕の人生には、特に僕と母の関係性においてはよくある事だったから。でも

「みい、マコト君がお母さんとお引っ越ししたの知ってる?」

僕の前から忽然と姿を消したマコト君の所在は、国立の二次試験を控えてますます家にいる時間が少なくなっていたにいちゃんが教えてくれた。その日、にいちゃんは僕に何冊も本をくれた。みいは本が好きでしょ、すごい読解力があるし、だからこれもこれもあげると言ってにいちゃんの本のスペースにある岩波少年文庫を何冊も僕にくれた「形見わけだよ」。にいちゃんは珍しく冗談を言った。そしてその会話のすぐ後に、マコト君のお母さんがマコト君だけを連れて南外科医院の建物の横にある豪奢な自宅を出て行ってしまって、それでマコト君は小学校を転校して塾もやめてしまったんだってと僕に教えてくれた。

「引っ越し?どこに?」

「長浜。って言っても駅からずっと遠い浅井の琵琶湖の奥の方。マコト君のお母さんの実家なんだって。マコト君のお母さん、今少し具合が悪いみたい」

にいちゃんが言うには、マコト君のお母さんは、マコト君の長兄であるひかりが大学受験を勝手に強制終了してしまって植木屋になった頃から、夜眠れず、朝はだるくて起き上がれないという不調がずっと続いていて、日曜日に『会』の礼拝がある時だけはその強い倦怠感を抑える薬を大量に服用し、化粧をして服装を整え出かけているような状態だったのだそうだ。でもあの日、『会』が跡形もなく消えてなくなった事ですべての均衡を崩してしまった。マコト君のお母さんの理想の世界は完膚なきまで粉々に壊れてしまったのだと。それはひかりがにいちゃん言った言葉だ。

「ひかりがね、俺がこんなアホちゃうかったら起きへんことやったんやけどなって。そんな事ないのにね。なんかね、マコト君のお母さんは元は看護師さんなんだって、だからマコト君の親族の中ではお医者さんじゃない方の列の人なの」

『だから、親戚筋では俺らがアホやとオカンのせいって事になるねん、根拠は不明なんやけどな、ホンマ知るかそんなん。オカンはとにかくキツイ人やけどそれだけは可哀相やと思ってた。けど俺は実際箸にも棒にもひっかからんレベルのアホやし、マコトは性格が優しすぎて医者なんかには向かんやろうし。それでそこそこ賢い真ん中のめぐむだけはと思てたら、めぐむのヤツ高校2年生の時の文理のクラス分けの時にオカンに黙って文系に出してたらしい。それが露見した日にオカンが怒り狂って手が付けられへんて、俺の携帯にマコトとめぐむから電話があったわ。「ひかり兄ちゃん助けて」って。そのあたりからかなり危ないなって思ってたんやけど、俺は実家出禁やし、オトンはこういう時空気みたいなもんやし、もういっそ2人とも兄ちゃんのとこに来て暮らすかって本気で言ってたんや、もうあんな訳の分からんことになってる家はいっぺん全部解散した方が良いと思うって』

ひかりは、その日の夕方にいちゃんの予備校の前に植木屋の作業着で現れて、にいちゃんにそんな話をした。これでよかったんやと、オカンもこれで医学部の呪いから解かれてきっと元気になると思う。だって昔は気はキツイけど明るくて面白くて、とにかくあんな人ちゃうかったんや。それにマコトも長浜でじいちゃんとフナ釣りしながらそこの公立の中学に行った方が楽しいかもしれへん、実際俺はそうしたかった。マコトがみいちゃんに「急にいなくなってごめんな」って言ってたって、みいちゃんに言うといて。そんな風に僕への伝言をしてからひかりは

「これ、今日の現場で貰ったキンカン。食えるやつ。小さくて可愛いかったから」

小さな柑橘の実をにいちゃんの手のひらにそっと乗せて帰った、国立の二次が終わったらまたゆっくり会えるかな、ちゃんと話そうと言って。

「にいちゃん、ひかりと喧嘩したの」

僕はにいちゃんからマコト君の行方を聞いて驚いたし、少し心配になったし、そしてそれと同時に中学受験が本気で嫌だと言っていたマコト君がもうそれからは解放された場所に居る事に少し安堵もしたけれど、それよりもひかりがにいちゃんに向けて『ちゃと話そう』と言ったその言葉がとても気になった。にいちゃんは、例えば受験用の英単語帳をパラパラめくっただけでそのほとんどを完全に暗記できる記憶力の持ち主で、ひかりと会話した日はいつも、その内容を録音したかのように記憶して僕の前で一言一句間違わずに再生してくれていた。だからつい本来編集してカットするべき部分もそのまま僕に伝えてしまう。ねえにいちゃん『ちゃんと話そう』って何?最近ひかりとちゃんとお話ししてないの、もしかして喧嘩したの。僕がにいちゃんの目を覗き込んで聞くとにいちゃんは少し笑って

「喧嘩してないよ、ひかりと僕は喧嘩しようにも喧嘩にならない、ひかりは僕に怒ったりしないしいつも優しいよ。でもね、別れるかもしれない」

『でもね、別れるかもしれない』

にいちゃんが突然物凄く意外な事を言うので、僕は体がこわばってしまって暫く口が開かなかった。どうして?だってすごく仲良くしていたし、いまでもよく会いに来てくれてるんでしょ?それに何と言ってもひかりは

「ひかりはにいちゃんの全部を解っててそれでもどうしてもって、3年も粘ってその結果付き合ってるんじゃないの、それともにいちゃんがひかりを嫌いになったの?」

僕は途中まで水中の金魚みたいに口をパクパクさせて暫く脳内に発生した言葉を発声できていなくて最後の「嫌いになったの」とだけはっきりとにいちゃんに聞く事ができた。

どうして?嫌いになったの?だってあんなに大好きだったのに。

「ううん、ウソ、なんでもない、みい、今の忘れて。それと、気になったからって今僕が言った事は絶対琴子に言わないで、特にこの国立の二次が終わるまでは。琴子、志望校合格の為のセンター得点がギリギリだった事が今になってじわじわ響いているみたいで割とナーバスになってるから。今日もアンタの現代文の得点少しこっちに寄越しなさいよ、なんやねん満点てってブチ切れられた」

僕らがそんなことを話していると、階下で母が僕達を呼んだ

「希、汀、ごはんよ」

母は、あの『会』が消滅してからしばらく何をしていていも半分意識がどこかにいっているようにぼんやりとしていたけれど、昔趣味で作っていたパッチワークキルトの本と裁縫箱を納戸から掘り出して来て、僕やにいちゃんが予備校と塾に行っている間はよくそんな手仕事をするようになっていた。母は元々手先の器用な人で、それに元々はそこまで外にでて人と社交することを好むような人でもなかった。だから僕が幼稚園児位の時は家でよく僕やにいちゃんの学校用の手提げ袋や靴袋やその他の細かな身の回りの物をよく手作りしていた。そう言えば、洋服も縫いたいけど、男の子の服の型紙が少ないのよ、やっぱり女の子があと1人いたらいいのにと言っていた昔の小さな記憶を、僕はどうしてだか、母に呼ばれて階段を下りている時に思い出した。まるで古い本の間から落ちてくる写真のように。あれは、まだことりが生まれて死ぬ前の事だ。母は意地とか見栄とかそういう理由だけでことりを産んだ訳ではないのかもしれない。そんな小さな発見が、どうしてなのか階段の最後の1段を降りる時にまた僕の中に舞い降りてきた。

「お母さんは最近静かだね、僕も最近は全然殴られてない」

「本来はそうあるべきなんだよ、あれは家庭内暴力なんやから。『会』が無くなった事が良い方向に向いてるならいいけどね」

僕達はリビングまでの短い廊下を歩きながら小声でそんなことを話した。そしてその「最近落ち着いている」母は、この日僕達が食卓に着席すると、とても静かな表情で僕にむかってこう言った。

「汀、南さん、マコト君がお引越しして長浜に行ったって知ってる?」

僕は突然冷水が背中を流れるような感覚に襲われてにいちゃんの顔を見た、にいちゃんは相変わらず男子高校生に擬態している時のあの涼しい顔をしていたけれど、微かに、右の眉が1ミリ位動いたことは僕にも分かった。

「え…マコト君?塾から居なくなって、塾の友達が転校したって言ってた」

でもそれしか知らない、僕はマコト君が長浜にいるのは今知ったよ。僕は嘘をついた。だって全て知っていると言ったら、今度はそのニュースソースを問いただされてしまう。どうしてそれを知っているの誰に聞いたの。そうなればすべての秘密がこの場で白日のもとにさらされて、結果にいちゃんの大切にしている世界が瓦解してしまう事になる。でも母は僕のぎこちないこの回答を聞いた後に、今度はにいちゃんにこう聞いた。

「じゃあ、希、あんた、マコト君のお兄さんを知ってる?真ん中の子じゃないわよ、上のお兄ちゃんの方、ひかり君ていう子」

母の口からにいちゃんの恋人の名前が出た瞬間、僕の冷たくなっていた背筋は更に凍り付いた。でも、にいちゃんは表情を一切崩さなかった、僕と違って。にいちゃんはこの人生最大の自分の秘密をこの家の中では最後まで守り切るつもりなんだ、そういう覚悟なんだ、その時の僕はそう思っていた。

「知ってるけど、僕の2コ上の先輩でしょ、一昨年の進学実績一覧の中に高校創立以来初の『就職』欄を作った人って今でも学校では超有名人だよ、でもどうして?」

「南さんの、そのマコト君とひかり君のお母さんから少し前にお電話いただいたの。あの後、色々あって暫く実家の方で暮すことになりましたって。それでその時に聞かれたのよ、お宅にはお嬢さんはいませんでしたかって。お母さんがいませんて言ったら、自分の上の息子、お恥ずかしいですけど大学受験を止めて今は京都で暮している息子の様子をこっそり見に行ったら、息子が女の子と一緒に居て、その子がこの夏に教会でお会いした汀君のお兄さんとそっくりだったって、背丈も同じ位で、ご存じありません?て」

「ふうん、だとしたら物凄くでかい女の子だね、僕180㎝あるんだよ。それでお母さんは何て答えたの」

「ウチには娘はいませんて答えたわよ、そうよね希、ウチの子は皆男の子で女の子はいないわよ」

母がまるで何かにダメ押しするようにそう言った時に、にいちゃんは、夕飯のチキングラタンを食べていたフォークをガチンと大きな音を立てて机に叩きつけるようにして置いて、母に向き直った。

「ことりは?ことりは女の子でウチの娘で僕達の妹だよね、お母さん。忘れちゃったの?」

にいちゃんが怒ってる。

僕はにいちゃんが怒っているのを久しぶりに見た、日常生活で起こり得る大抵の『怒り』と言う感情を、それが脳内に到達する前に冷静に俯瞰して解決方法を算定する事が可能なにいちゃんが怒るのは多分うるう年が巡る回数より少ない。でも以前「それだけは許せなかった」と言ったことりの存在が母の口から出て来なかったことが、にいちゃんの怒りの琴線に触れてしまった。そして何よりこの日の母のこの一言が、にいちゃんがこれまで母に抱えてきたあらゆる感情を溢れさせてそれを溜めていた場所を決壊させる最後の一滴になった。

「お母さんは何が言いたいの、僕がその女の子とそっくりだったからどうなの、もっとはっきり言ったら、南さんからもっと具体的な事を聞いたって、何度もその僕によく似た女の子の事を聞いて来たって。南さんになら僕も直接聞かれた事があるよ、去年の秋ごろわざわざ学校の前で僕の事を待ってて、これは貴方?って僕にその背の高い女の子の写真を見せてきた。そういう事をお母さんは聞いているんだよね。それなら僕は絶対肯定なんかしない。勿論南さんにも否定した「違います」って。貴方の目の前にいる僕は生物学上男の希だよ、それ以外どう答えるの?それとも何?お母さんの中には確実で明確な正解がもう既に出来上がってるの?そうだとして僕にそのことを突き付けて確認してどうしたいの?『あんたは本当は女の子なの』って、そう確認してそれからどうするつもりなの?そこで僕が「そうだ」って肯定したら、貴方の大切な完璧な息子はもうそこにはいない事になる。おかしな性別の、この先の人生が無駄に生きづらくなったおかしな生物がいるだけだ。そうしたらお母さんは僕の事をどうするの、自分の人生から無かったことにするの?ことりみたいに?それともみいみたいに無視するか虐げるの?僕は貴方の疑問に答えない。そんな義務なんかない」

にいちゃんはそこまで一気に言い終わると食卓から立ち上がろうとした。でも母がそれを制した「待ちなさい希」普段の母なら、ここで我を忘れて激高して、皿の一つも床に投げつけて割っていたと思う。でもこの時は低い落ち着いた声でにいちゃんを引き留めて、もう一度にいちゃんに畳みかけるようにこう話し始めた。

「じゃあ、全部仮の話として希に言うわね。仮に、希が男の子なのに趣味なのか性癖なのかお母さんには全然理解できないけど、女の子の恰好でこの先を生きて行くつもりで、それで現に男の子とお付き合いしているとしてよ、そういうのを周囲の人達が好奇の目で見るとは思わないの?それをあからさまに差別したり後ろ指指す人がそこまでいないにしてもよ、それでもみんなと同じじゃないという事は世の中の異物として扱われるという事なのよ?それをアンタはこの先ずうっと耐えられるの?見た目だってアンタが今どんなに細身で綺麗な顔立ちをしててもこれから20代とか30代なればもっと男の人らしくなるのよ、今の段階で身長だってすごく高いじゃない、それをこの先無理に女の子ですってやっていくの?仮にそれを受け入れる人がいたとしても、結婚に話が及んだら?子どもはどうするの?生物的に男同士で結婚しても子どもは?そうやって世界中と軋轢を起こすような形で生きて行くつもりなの、それに私もお父さんも汀もそのお付き合いしてる人も巻き込むつもりなの?だったら、だったらお母さんはあんたなんか」

「お母さんやめて!」

僕は、この日人生で初めてお母さんを怒鳴りつけた、一体僕のどこにそんな勇気があったんだろう。僕は、にいちゃんを、ううん、姉を守らないといけないと思ったんだと思う。お母さん、それは今、絶対に言ったらダメな言葉なんだ

「もしその『あんたなんか』に続く言葉が『産まなきゃよかった』ならそれは言っちゃだめだお母さん。それは琴子も言っていたけど「死ね」って事だよ、そんな事お母さんが言ったらにいちゃんは本当に死んでしまう」

だからやめて。それににいちゃんも明日が試験なんだから、今話した事は今度にしようよ。ねえ、お願いだよ。僕はにいちゃんが膝の上で固く握っている右手にそっと手を置いた、そうしたらそれは体温を感じない、とても冷たい手の甲で、にいちゃんはそこだけが死んでいるみたいだった。でもにいちゃんは僕に分かるようにだけ小さく頷いてから、母にこう言った、とても冷静な声で、あのいつもの涼しい18歳の男子高校生の顔で。

「仮に、仮に僕が男だけれども女の子で、それでお母さんのあずかり知らないところで女の子の扮装をして、男の子と付き合っているとしても、僕はそれで家族や僕の周りに迷惑をかけるつもりなんかないよ、それだけはしない。国立の二次が全部終わったら全部綺麗に整理して清算する。それと、これも仮に、みいの言う通り、さっきの『あんたなんか』の次に『産まなきゃよかった』が続くんだったら、お母さんがもう自分では制御不可能になった僕をそんな風に思っているんだったら、僕にだって言い分はあるよ」

にいちゃんは立ち上って。それで母から目を逸らさずにこう言った

「じゃあ、なんでこんな風に産んだの」

にいちゃんはご馳走様と小さく言って2階に静かに上がって行って、そのままその日は2段ベッドの上から降りてきてくれなかった。そして次の日、僕が目を覚ます前に朝一番の電車で出掛けてしまって、僕が起きてにいちゃんのベッドを覗いた時には、もうベッドの中で綺麗に畳まれた布団が冷えてつめたくなっていた。

☞4

にいちゃんの高校の制服が、生徒手帳ごと駅のごみ箱に突っ込まれて捨てられていると、駅の遺失物係の人から電話があったのは、国立大学二次試験が終わったその日の事で、丁度、塾から家に帰ってきていた僕が電話を取った。夕方の6時だ。

「ごみ箱に詰め込まれているというか、急いで投げ込んで半分入っていないような状態でしたし、ついさっきまで誰かが着ていたような感じで、不要な古着という感じでもないし、今日受験を終えた高校3年生がヤケになったかせいせいしたかで投げ入れたにしてもまだ卒業式で着るでしょうし、おかしいなあと思ってねえ」

声色が初老を思わせる駅員さんがそんな風に親切に状況を説明してくれた。京都駅の八条口の方です。じゃあ保管しておくから、近日中にお兄ちゃんに取りに来てもらってね。多分そのゴミ箱に制服を打ち捨てるという所業がやんちゃな高校生の悪戯か衝動だろうと思っている駅員さんは僕にそう言ってから電話を切った。でも、僕はとてもイヤな予感がして2階の僕とにいちゃんの部屋に駆け上がった。昨日にいちゃんが言った「国立の二次試験が終わったら全部綺麗に整理して清算する」って言うあれは母との間にある行き違いの整理とか、ひかりとの関係の清算とかそんな事じゃないのかもしれない。お母さんが『あんたなんか』って、暗ににいちゃんをこの世に産みだした事自体を完全否定するずっと前ににいちゃんの気持ちは決まっていたのかもしれない。昔、八幡様の山に分け入ろうとした鳩子さんのように。

「形見分けだよ」

にいちゃんがマコト君の所在を僕に教えてくれたあの日の、にいちゃんが何冊か僕に岩波少年文庫を渡しながら僕に言った言葉が僕の脳内で突然再生された。あの少し日に焼けた背表紙の本の中でにいちゃんが一番好きだって言ってたのはなんだっけ、ライオンと魔女?ゲド戦記?はてしない物語?違う、あの王子様の話。

「星の王子様だ」

僕は本棚の桃色の背表紙を引っ張り出して開いた、あの形見分けという言葉が冗談じゃないならきっと僕に何かを残してるんじゃないかと僕は直感的に思ったからだ。どうしてなんだろう、だって僕はいつも察しが悪くて直感的とは程遠くて気も利かないけど、兄ちゃんの事なら大体の事はわかるんだ。そしてその僕の直感は当たった、サンテグジュペリの『星の王子様』の本の間に小さな白い封筒が挟まっていた。

『汀へ』。

これは、にいちゃんが多分かなり以前から僕に残してくれていた手紙の内容だ。

みいへ

みいに私の事を全て明かしてもう1年が経ちました。この1年でみいは背が伸びて、勉強をとても頑張って、塾でのクラス順位を上げて、昔のような「どうせ僕なんか」という言い方をする事がぐんと減りました。私はそれがとても嬉しい。

そして、みいは私の生物学上の性別と、自分で認識している性別の齟齬を知っても何一つ態度を変えずにずっと私の事をきょうだいだと、兄じゃなくて姉だけど、そういう変更があってもにいちゃんの本質は何も変わらないからと言ってこれまで通り接してくれました。本当にありがとう、みいは私の世界一大切な弟です。

私はこれまで、優秀さとか完璧さとかそういうものが私の人格に裏打ちされるように備わっていなければ、この異常な自分の生態が世界に存在する事すら認められないと、そう思って必死で頑張ってきました。それと同時に、神様が間違えたこの自分の生態に強い嫌悪感と怒りも感じてきました。そして何よりそういう感情に、私自身が負けたくないと思っていました。でもそのすべてを乗り越えようとした不断の努力の末に生まれた虚構の私というものの存在が母をあんな風にしてしまったんだと、最近私はようやく気が付きました。

もっと早く出来ないって言えばよかった。もっと早く自分はこんな事で苦しんでいるって言えばよかった。そんな弱音を一切吐く事を出来ない私が、完成された男の子であればある程、母もまた、完璧な男の子の母である事から逃げられなくなっていったのだと私は思っています。それも、私が最近になってようやく気付けた事です。

そうして、もう完璧な自分を止められなくなった私は、14歳時にことりが誕生してことりが死んでしまった事が決定打になってその母を赦せなくなりました。自分をこんな風に産んで、自分に完璧を強いる母が、自分には絶対出来ない妊娠と出産を目の前で易々とやってのけて、それなのに病気のことりを顧みなかった事が私はどうしても赦せませんでした。でも、その母を赦せない狭量で薄情な自分が何より一番赦せなかった。だって私はみいのように純粋にことりの死を哀しんでなんかいなかったから。あの時、ことりに本当の意味で優しかったのはみいだけです。

そして、この存在自体が不完全で本当は何もかもに追い立てられていて世界のすべてが苦しいだけの私自身を一番赦して欲しかった人はきっと母です。でも多分もう届きません、それを言い出す事すらできませんでした。

私は本当に勇気のない人間です。

みいに、ふたつお願いがあります。まずひかりに、私の事を何も告げないでください。多分何かの形でみいに連絡を取って来ると思います、でも何も言わないでください。私は、ひかりに、ひかりの事が大切過ぎる位大切だからもう会わないと言いました、ひかりは全然承服してくれなかったけれど。だからひかりには私は、もう家にいなくなったとだけ伝えてください。

そして、琴子の事をお願いします。きっと琴子は私が勝手な事をしたと怒り狂った後に暫く泣いて落ち込んで大変な事になると思います。きっと鳩子さんにも駒子さんにも手が付けられなくなる位。あの子は信じられない位優しくて、びっくりする程情のある子です、大好きで大切な私の親友。みいがあの子の傍にいられる間は出来るだけ一緒に居てあげてください、琴子はみいが大好きだから。

最後に、みいの名前のこと、少し前に、みいは「自分の名前はギリギリの際のこと、閾値の事」と言っていましたがあれは違います。みいの名前は私がつけました。昔幼稚園で貰ったこども聖書の中のしおりにあった詩編の言葉がとても好きで、みいが生まれた時にどうしてもこの名前にして欲しいと、私は当時は7歳でしたが、私にしてはとても珍しく母にワガママを言いました。それがみいの名前の由来です。

主は私の羊飼い
私は乏しいことがない
主は私を緑の野に伏させ
憩いの汀に伴われる

みいの名前は際とか閾値ではなくて、憩いの水辺のことです。琴子はみいを私の水先案内人と言ったらしいけど、少し違います。みいは私の大切な休息地でした。これまでありがとうみい。そしてごめんね。

僕が、このにいちゃんの丁寧で少し小ぶりの綺麗な文字で書かれた手紙を読んでまず思った事はにいちゃんはもう死んでしまっているんじゃないかという事だった。だってこれは遺書だ。にいちゃんはもうずっと前から大学受験が終わったら、母がにいちゃんに期待をしていた数多の事象の最終ゴールを迎えたら、その日の内にすべての幕引きをする気持ちでいたんだ。僕はどうしてその事に気が付かなったんだろう。僕は手紙の挟まれていた『星の王子様』の本をもう一度開いた、にいちゃんの遺書と目される手紙の挟まれていたページにはこんな事が書かれていた。

『とても簡単なことだ。ものごとはね、心で見なくてはよく見えない。いちばんたいせつなことは、目に見えない』

にいちゃん。

僕は手紙をもったまま階段を駆け下りて、自宅の奥の母のいる和室に駆け込み、そこで静かに座ってパッチワークキルトを縫っている母に渡した。お母さん、これ、にいちゃんが僕に残してた。もしかしたらにいちゃんはもうこの世にいなかもしれない。どうしよう、どうしたらいい?お母さんは僕の言葉に驚くでもなく慌てるでもなく、生気も覇気もない、静かな亡霊のような顔でその白い封筒を受け取った。その亡霊のような母が、ここのところ根を詰めて縫い上げていたキルトはよく見ると柄がバラバラで何の規則性も無くてなんだか作品としての体を成していなかった。まるで僕達みたいだ。母は、にいちゃん残した手紙を茫然と眺めるばかりで微塵も動こうとしてくれない。父はこの頃は帰宅が遅いどころか姿を見る事も稀な僕の家では幻のような生き物だった。今、この家の中にいる人は誰も頼れない。だったらこういう時、僕は誰に連絡したらいいんだろう、にいちゃんの事で一番頼りになる人。警察?消防?違う。

「お母さん、僕、琴子の家に行ってくる」

僕はコートも着ないで琴子の家である駅前の料理屋に走った、琴子はもう家に帰って来ているだろうか。もしにいちゃんがまだ生きているにしても家の電話には出てくれないだろう、でも琴子なら。僕はそう思って走った。全速力で走る僕に纏わりついてくる2月の外気は思い切り吸いこむと肺が痛くなる位冷たい。僕はマコト君のお母さんが、きっと病気のせいで少しおかしくなってしまった挙句、何かの強迫観念に憑りつかれてにいちゃんの正体を探ろうと学校までやって来た日の、そして母が『仮』の話としてにいちゃんの人生で一番大切な秘密を暴こうとした昨日の、にいちゃんの胸の痛みを想った。僕ならきっと心不全を起こしてその場で死ぬ。どうしてにいちゃんがそんな目に遭わないといけないんだろう、あの心のうんと美しくて優しい人が。

「琴子!」

僕が琴子の家の、お店の扉を開けると、そこには琴子の姿は無かった、でも代わりに

「みいちゃん?どうしたのこの寒いのに、そんな薄着で!」

鳩子さんがいた。正確には鳩子さんと、その元妻の駒子さんがいて僕がお店に飛び込んできた僕を驚いて迎えてくれた。だから僕は今起きた事を、にいちゃんが遺書みたいな手紙を残していて、そして今日、駅のごみ箱にまだ卒業式で着る筈の制服一式を放り込んで帰ってこないという事を伝えた。僕は琴子ににいちゃんの携帯に連絡を取って欲くてここに来たと、にいちゃんは琴子の電話には絶対出る、琴子は連絡を無視されると直ぐいじけるから。

「琴子、まだ帰って来てないのよ。あたしがあの子の引っ越しとかその他の手続きでこっちに来るから、今日は試験が終わり次第早く帰って来るって言ってたのに。待ってね今あたしが琴子に電話してみるから。大丈夫よみいちゃん、人間そう簡単に死んだりしないものよ、あたしが今ここに生きてるのが何よりの証拠よ。仮に死のうと思ってもね、あれは思い切りがいるもんなの。あの慎重すぎる位慎重でなんだかんだ言って気の弱い希はそんな事できない。だってあの子、あたしにそっくりなんだもの」

そう言って入り口に立ち尽くしている僕の前にしゃがみこんで、冷たくなってしまった僕の手をあの小さな赤い宝石の付いた指輪の大きな手で強く握ってからもう一度さっきの言葉を繰り返した。『大丈夫よみいちゃん、人間そう簡単に死んだりしないものよ』鳩子さんは落ち着いていた。そして自分の携帯から娘の琴子に電話を掛けた、いちいちせっかちな琴子は3コールでその電話に出た。

「もしもし琴子、あたし。ねえ希知らない?みいちゃんが心配して今お店に来てるのよ」

「希?今私の横でうざいくらい泣いてる。ねえパパ、パパのカードで駅のあの塩小路にある方のホテルにお部屋取ったからよろしくね。みい来てるの?よかった、ちょっと代わってもらっていい?」

「ホテル?塩小路の?何で?希なのね一緒なのは?絶対ね?嘘ついてないでしょうね?別の男の子と一緒とかだったらパパ今からそっちに乗り込むわよ。迎えに行った方が良い?うん、じゃちょっとみいちゃんに代わるからね」

みいちゃん琴子よ。希と一緒だって、ね大丈夫って言ったでしょ。そう言って琴子さんは自分のきれいな刺繍のハンカチで携帯を軽く拭いてから僕に渡してくれた。

「もしもし琴子?」

「あ、みい?希は確保してるから大丈夫。この子は本当にツメが甘いの、私の目を欺いて死ぬなんて出来る訳ないのよ、昨日今日つきあって別れた男とはこっちは訳が違うんやから。10年来の親友なんやで、みい、女同士の友情はね、紙より薄いけど岩より硬いんやで」

僕は、電話の向こうでよくわからない自慢をしている琴子の声を聞いて体中の力が抜けて、その場に座り込んでしまった。僕の横にいた鳩子さんが驚いて僕を抱えるように支えてくれた。琴子は僕の返事や反応を一切待たずに、じゃあみい、今日ここにお泊りするのもみいの家的にはまずいと思うからパパに今から車出してもらうし、一緒にこっちおいで、京滋バイパスに乗って今から飛ばせば1時間よ、パパによろしくって言っといて。

☞5

琴子が、にいちゃんの様子がおかしいと思ったのは、試験を終えて、一緒に帰ろうと約束していた大学の正門の前だった。受験学部の違うにいちゃんと琴子は別会場での受験を終えたら、百万遍のバス停の前で落ち合おうと言っていた、筈だった。でも琴子が試験を終えて自分と同じような紺色の制服の波にのまれて大学の外に出た時、琴子の携帯に、にいちゃんからの着信があった。

「もしもし琴子?ごめん今日、一緒に帰れなくなった」

「えー!なんで?アレ?あの南整形外科医院のアホ息子に会うの?アンタまた私を裏切る気?」

「違うよ。でもちょっと急用、ごめんね」

「ふーん…いいけど、今日はパパがウチに来てるから希の顔見たいって言ってたのに、じゃあまた会ってあげてよ」

「うん、ほんとごめんね、あのね、琴子」

「何?」

「あのね、ありがと、大好き」

「なにをいまさら」

そういう普通の会話をして電話を切った瞬間、琴子は何故か物凄い違和感を覚えたらしい。それはにいちゃんが琴子に、また明日ねとか、またねとか、そう言えば琴子試験どうだったいけそう?とか未来の時制に関わる事を何ひとつ言わなかった事だ。どうしてなんだろう、いつも次の予定に類することを確認か約束してくる希が今日に限って。それで琴子は即、ひかりに電話を掛けた、ちょっとアンタ、希となんかあった?あの子と最近なんか話した?包み隠さず今教えなさいよ。

「のんちゃんに別れるって言われた、俺はでもウンて言ってないで、頼むからせめて二次試験が終わって、ちゃんと話ができるまで保留にしてくれって頼み込んだ。でもアカンて言われた」

「ハァ?そんな大事な事、なんでアンタ私に言ってこないのよ、前に女しかいない私の中学校の前で張り込みまでして私に希との仲介役を頼みに来たあの超しつこいアンタは何処にいったんよ」

「だって、お前ものんちゃんも今大学受験の一番大事な時やろ、俺にもそれ位の弁えはあるわ」

「そんな弁えいらんねん、医学部全落ちした癖に。それで?希はそれだけ言ってあとはもう連絡くれなくなったの?その時どんな感じだった?話し方とか、他になんか言ってなかった?」

「なんでここで俺の古傷をえぐるんやお前は、俺ものんちゃんが流石に受験前でナーバスになってんのかなって思って、だからじゃあせめて受験が終ってからちゃんと話そうって、最後に一回だけ会ってくれって俺は頼んだんや。そしたら、のんちゃんは受験が終わったら家の事とか他の事も色々整理して清算するつもりなんやって」

「バカ!センター900点満点中892点取るようなバケモンの希が、二次試験如きにナーバスになる訳ないやん、もういい!じゃあね」

あの子は死ぬつもりなんだ、私に黙って、その時琴子もまた確信したそうだ。それでその次にそれならあの子はどこでどう死ぬつもりなんだろうと考えた、あの子は基本的に憶病で小心者だから、痛い思いをして死にたいとは思ってない、高いところとか踏切とか、じゃあ何だろう、服毒?ううんその前に、希は男子高の制服のまま死にたいだろうか、そう思った琴子はその場でタクシーを拾った

「運転手さん、京都駅の八条口までお願いします、急いで」

琴子は後に、この日の事を「あんなに必死に他人の心情を読み取ろうと思った事は無かったし、それが一問も間違いなく正解した事も初めてだった。あれがどうしてセンターの現代文に発揮できなかったんやろう」と言った。それ位この時の琴子はにいちゃんの心の軌跡をそのまま読み取って、本来は女の子な筈のにいちゃんが、あんなに嫌悪していた坊主頭の男子高校の服装のまま死にたい訳がないと考えて、にいちゃんが私物を隠している駅のコインロッカーに走った。あそこで着替える筈だと琴子は予想して、そしてその予想は的中した。

「希!」

八条口の地上1階、新幹線の乗客の為に設置された長いコインロッカーの壁のある通路の人の波の中に見つけた、ひときわ背の高い女の子を琴子はありったけの大声で呼んだ。ちょっとアンタ私に黙って死ぬとかいい度胸じゃない?琴子が大声で叫んだ内容が内容だけに、その場の数人の人達は紺色のブレザーを着た女子高校生の琴子に注視した。そして、その琴子の声を毎日嫌と言うほど聞いて聞きなれているにいちゃんも。

「今ここで死んだら私がわざわざ超危ない橋を渡ってまでアンタと同じ大学を受けてる意味がなくなるやん。だったらもっと安全圏の国立があったんやから。アンタも分かってるよね?それに二十歳で一緒に振袖着る約束は?卒業式で袴着て写真撮る約束は?全部反故にする気?約束不履行で訴えるで?それにさあ」

みいをどうするつもりよ、あの子の事置いていく気なの、あの子、アンタが死んで3人きょうだいの最後の1人の生き残りになったりしたら、この先きっと一生笑わなくなるよ。背後に親友の大声を聞いて振り返ったにいちゃんは、そう言いながら琴子がどんどん自分に近づいて来て、いよいよ自分の目の前に仁王立ちになった時、その琴子に抱き着いて泣いた。ごめんねと言って。この威勢のいい女子高生と、背の高い女の子が大騒ぎしている様子は駅の通路の人込みの中、それを少し振り返りながら見ている人もいたけれど、大体の人は然程気にせずに通り過ぎて行った。

都会と言う場所の良いところは誰かが泣いていても少し位騒いでいても、そこにどんな絶望と救いがあったとしても誰も気にしないところだ。

そして琴子はあんまりにいちゃんが泣くのと、その泣いている理由がその辺のファストフード店で話すような内容でもないからと、鳩子さんのカードで勝手にホテルの部屋を取ってそこににいちゃんを放り込んだ。ここでカラオケボックスとかが選択肢に出てこない所が、鳩子さんが1人娘のお姫様として恐ろしい程贅沢に琴子を育ててしまった成果だと思う。それで琴子はにいちゃんに、ここで沢山泣いてそれで家に帰ろう、全部はそれからだよ希、あんたはそのまま生きて行こうってもう決めた人間なんでしょ、何で今更迷うのよ。そう聞いた。

だからにいちゃんは琴子に、これまで自分が思っていた事をぽつりぽつりと話した。母親である人をとても憎んでいて、その感情を今この時も自分の中から拭い去る事ができないまま、そんな自分の狭量さに絶望している事、そしてそれなのにその母親に赦されたいと思っている事、それが一体何なのかどうしてそんな相反する感情が自分の中にあるのか分からなくて苦しい事。

それに、結局自分は生物学上男だという軛を、例えば自分が医学的に外見を女に変えて、それで戸籍を変更できたとしても、降ろす事は許されていないとう事を思い知ったという事を。だからひかりとはお別れした。だって、その内ひかりも周囲の人が大人になって普通の結婚をしたり、普通の父親になったりして自分が奇異な事をしているという事に気づく日がくるだろう、その時が来る前にひかりもそういう普通の人の列に連なるべきだと思う。

「はあ?じゃああのストーカーを野に放つ気なの?どうして、いいやん普通に付き合っとけば、本人が絶対そうしたいって言ってんねんで、自己責任よ。それとも誰かに何か言われた?」

「ひかりのお母さんがね、あとウチのお母さんもね…だって結局私は機能的に完全に女の子にはなれない訳やん」

「どういう意味で?」

「子供が産めないでしょう」

「そんなこと、希の遺伝子を持ってる子なんかいつか親友の私が産んだるわ」

「私、琴子とセックスなんかしないから、絶対」

「だってひかりと、まだ何にもしてないんでしょ、というか何にも出来ないから余計悩んでたんやろ、見れば分かるもん。それなら私と寝て、それで希はやっぱり男でしたって事でスッキリする?場所も場所だし」

「絶対嫌だ。そんな事したら今から迎えに来る鳩子さんに殺される」

にいちゃんはそう言って少しだけ笑うと、その後は長い時間、泣いていたそうだ。琴子はホテルのセミスイートルームの大きなベッドにふわりとかけられた羽根布団の上に座って嗚咽も漏らさずに泣くにいちゃんの背中を、ずっとさすってやっていた。それはまるで琴子が12歳になる直前のあの日、大人になるのが嫌だと言って泣いた琴子の背中をにいちゃんが優しくさすり続けたあの姿を反転したような光景だった。僕と鳩子さんがにいちゃんを迎えに行ったその時間まで、にいちゃんは小学生の女の子のようにパラパラと膝に涙をこぼしながら静かに泣いていた。

迎えに来てくれた鳩子さんの大きな車の中で、助手席に座った琴子も、後部座席のにいちゃんも僕も、初めのうち、まだ京都府内を走っている間はあまり言葉を交わさなかった。僕はその沈黙の中、夜の高速道路の反対車線を流れるトラックの光をずっと眺めていた。周遊漁のように絶えず流れるオレンジ色の光、それをにいちゃんもまたぼんやりと眺めていた。

「希、あのね、おうちの方には駒子ちゃんが電話してるから、ちょっと琴子と一緒にいて遅くなりますが9時頃までには戻りますって、みいちゃんも一緒ですって。大丈夫よ、あちらも昨日今日といろいろあって混乱してるみたいだから、特になにも仰らなかったみたい」

鳩子さんは、僕を連れて家を出る時に駒子さんに僕達の家への連絡を頼み、それから「みいちゃんアンタそれじゃあ風邪ひくわね」と言って琴子のお下がりのコートを着せてくれた。だからこの時、僕は琴子のお下がりの水色のコートを着ていた。

「みい、それ私がパパと再会した日に買ってもらったやつだよ」

琴子が僕の着ているコートを振り返って見ながら言った、懐かしい、あの頃の私とみいは大体同じくらいの身長なんだね。

「あの頃の琴子はまだ小さくて可愛かったわ、それと希もね。と言ってもアタシが希に会ったのは希が中1の、あのアタシのお店に琴子を連れて来てくれた時だけど、希、あの時アタシがワンワン泣いてる時に琴子に向って言った言葉、覚えてる?」

鳩子さんは、少しぼんやりとしているにいちゃんに話を振った、にいちゃんは少し驚いたような顔をして、それでも

「覚えてます『真実を何ひとつ話せないまま、一番大切な人に赦しを貰えずに生きるのはとても苦しい事なんだよ』って」

「そうそう、あの時は本当にありがとう。あたしはね、その言葉ですぐに希が私と同じような子だってわかったの。それでね、その言葉の『赦す』って言うの?私はそれをするのもされるのも、自分が生まれてから44年かかったわ。44年よ。母を赦して母に赦されるのがね、最近の事よ。だからねえ希」

鳩子さんは、バックミラーに映るにいちゃんの顔をじっと見てこう言葉を続けた。

「あんたは、今、何も焦って赦すことも赦しを乞う事もしなくていいと思うの。それにはすごく時間がかかるのよ、仕方ないわ、そこは諦めなさい。時間は早送りできないんだから。それでもしそのまま、赦す事と赦される事がついに命の終わりの時までに間に合わなくても、それはそれよ。きっとその代わりに希を理解して大切にしてくれる人が沢山現れるわ。とにかく自分の心が全部整うまで待ちなさい。大丈夫よ、アンタは何にも間違ってないし、これまで自分に誠実すぎる位誠実にやってきたわ、それで相手がアンタを赦さないし認めないならそれまでなのよ」

鳩子さんの言葉は少し僕には難しい、でもにいちゃんが誠実過ぎる位誠実にやってきたのは僕にも分かる。そうでなければ、今日にいちゃんが本気で死ぬところまでは思いつめなかっただろう、にいちゃんの学生カバンの中には縊死用のロープが入っていた。でもそれは琴子が怒ってこの京都からの帰り道の途中のサービスエリアでゴミ箱に捨てた。縁起でもないと言って。

そうして僕達が自宅の前で鳩子さんの車を降りた時、それを迎えた母はにいちゃんの姿を見て息をのんだ。にいちゃんはあの日、僕が三条河原町で出会った、長い髪で、白いプリーツスカートで、紺色のピーコートの、薄くお化粧をした、完全に本来の女の子のにいちゃんの姿をしていたからだ。

でも母は、そんなにいちゃんの姿を見ても何も言わなかった。そして父は何もかもを見ないふりをしていた。

にいちゃんはその春、予定通り志望校に合格し、もともと合格の後はこの家を出て1人で暮す事を母ではなく父に確約させていたんだと言って、家を出て行った。そして僕がその1年後、無事ににいちゃんがここはどうかなと言っていたあの動物園のすぐ近くの中学校に受かって、高校を出て、大学に入り、僕もまたこの家を出て行く日まで、僕とにいちゃんは京都の街や、にいちゃんの自宅で会う事はたびたびあったけれど、一度も父と母の顔を見にこの家には帰ってこなかった。

母はにいちゃんが家を出て行ってから、突然激高したりする事も、僕に暴力を振るう事もなくなって、静かに穏やかに年を取っていった、それどころか偶に僕に謝る事すらあった

「あの頃は本当にごめんなさい」

あれが本来の母の姿だったのかそれとも違うのかそれは僕にはわからない。そして母は僕が大学に入った年に父と離婚し、ことりの遺骨だけを持ってあの土地を離れた。僕達の家は僕が18歳、にいちゃんが25歳の年に静かに解散した。

にいちゃんが母を赦したのか、母がにいちゃんを赦したのか、それも僕には分からない。僕だって昔、僕に理不尽な暴力を振るった母のすべてを赦している訳じゃない。でもその時期の母の背後にあったどうしようもない焦燥のような孤独のような真っ黒い虚無のようなものだけは今、少しだけ理解できる。だから僕がにいちゃんに会いに行った日に、母が「あの子は元気にしてるの」「ちゃんとご飯は食べてるの」「お金に困ったりしてなさそう」と母が聞いてきた時には、にいちゃんの近況を必ず伝えた。大学の成績はいいみたいだよとか、試験を受けるみたいだよとか、受かったみたいだよとか、ちゃんと手術を受けられてもうどこからどう見ても女の人に見えるよとか、戸籍がちゃんと女性に書き換わったよとか。

それで僕は今日、にいちゃんの最新の近況を母に手紙で伝える事にしている。これはにいちゃんが、自分からは報告できないけど、みいがするならそれは止めないと言ったからだ。にいちゃんの住所は書かないけれど。

『お母さんお元気ですか、先月、にいちゃんが結婚しました。住所等はにいちゃんの許諾が無いと教えられませんが、にいちゃんは相手と話し合って相手の方に苗字を変えました。にいちゃんの新しい苗字は『南』です』


ところで僕は来月、父親になる。生まれてくる子は予定では女の子だ。名前は『ことり』になる。僕は死んだ妹の名前を新しく生まれる命に付けるのはどうかな、ことりはことりなんだよと言ったけれど、妻が引かなかった。これでいいんだと。妻は言い出したら聞かないし、気は強いし、喧嘩も滅法強い。僕は生まれてくる新しい『ことり』が妻と顔以外のところが似ない事を心から祈っている。にいちゃんもそれを切に祈っていると言っていた。でもそんな事を妻に聞かれると「希もみいも煩い」と言って憤慨するし、そうなると後がとても長くなって大変だからそれは、僕たち姉弟の中だけの秘密だ。


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