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だれが興味あんねん。

私が常日頃、とてもささやかに、そしてものすごくどうでもいいことを「まあ誰も聞いてないやろから」くらい気持ちで呟くためにつかっていた青い鳥はいまちょっと様子がおかしいらしい、そしてそれはその会社の一番偉い人のお考えであるらしい。

遠い外国の、全く知らない人のきもちひとつで、私とどこか遠くにいる誰かとを繋いでいた細い糸が容赦なく断ち切られたり、もしくは楽しい広場だったところがなんだか見慣れない場所になっていくのを個人的には

「それ、どうなのですかね」

とは思うけど、それはこんな東のさい果ての国のひとりにどうにかできることでもないのだろうし、私なんて所謂無課金ユーザーだし、世界は常に変容しいずれ変わりゆくものだ。それだから140文字で呟く代わりに、最近私の身の上におきた「だれが興味あんねん」てことをここに書いておこうかなと思った次第です。

🍦

最近、たまたま、ほんとにたまたま、街で昔の知人に会いました。その人は私が大学生だったうんと昔、4回生の終わりごろに

「やべえ、ぜんぜんまったく卒論が終らねえ…」

そう言って互いに励まし合った覚えはないけれど、互いの遅筆を安心材料にしていた、そういう関係の人で、それから大学院にいた頃にも

「やべえ、ぜんぜんまったく修論が終らねえ…」

など全くおんなじことを呟き合った、論文提出最後列仲間の男の子でした。

とは言ってもその人が男の子だったのはもう20年も昔のことで、一体なんの因果か偶然再会したその時には大変にいいおじさんになっていた、ということはその人と確か同じ年のはずの私もかなりいいおばさんになっていて、時の流れはホンマに容赦と手加減がないですね、そんないいおじさんとおばさんの私達は約20年ぶりに

「おっ!」
「エッ?」

という感じで、なぜだかサーティワンアイスクリームのお店の前で出会ったのでした。

その人は昔々、私達の在籍していた大学のごく少人数で編成されている学部にあって「あいつはホラ、変人やから…」という、そこでは最高レベルの賞賛を誰からも得る、高い純度の奇人でした。

英語と、ドイツ語もぺらぺら、それから私の在籍していた学部というのが古典…古文書の類かな、そういうものを読み解かねばならないという「それが一体21世紀人類の何の役にたつねん」てことを勉強するところで、それに必要なコイネーギリシャ語(古典ギリシャ語のひとつ)、ヘブライ語なども読み解くことができていたはず。その上洋の東西の歴史に精通し、書庫の端から端までの書籍を読みつくし、こちらはついぞ仲良くなることのなかったドイツ観念論の類とはもうマブダチ、教授先生からも「君はほんとうによく勉強しています」と褒められて、私はそれが羨ましくて仕方がなかったのでした。

しかし一方で共同研究室の一角に勝手に己の巣を構え、背中の骨がTシャツから透けて見えるほど余分な肉のない体で通りすがりの同級生に食べ物を恵んでもらい、着ている服は年中同じ、時々給湯室で洗髪をして事務室の人に叱られていると、そういう人でもありました。

ともかく、当時「この人なんで私と同じ大学におるねやろ(色んな意味で)」と思っていたその人は今、当時の変わり者の青年の姿を一見穏やかそうな中年男性に変え、当時のままのキレの良い頭脳を駆使してなかなかインテリジェンスなお仕事をしているそう。それで「凄いね、私はフツーの平凡な主婦になったよ、コドモが3人おるよ」とそう言ったら、その人は「へー」とも「フーン」とも言わずに人の顔をまじまじと見て

「痩せたなー!ガン?」

と言い放ったのでした。確かに若さゆえにパツパツしていた当時よりは頬の肉などがすっかり落ちた、要はやつれた私ではあるけれども、いきなり「癌か?」ておめえはほんまによう。

それで私は、この人もかつての尖った性格気質が時間に研磨されて丸くなり、こうして大人になって市井の人として普通に、常識とかタテマエとかを身に着けて暮らしていはるのやわと思った自分を全撤回、あんたは20年前とひとつも変わらん、その口を針と糸で縫い付けてやろうかと思ったものの、そこをぐっとこらえて

「あんたは、えらい太ったな!」

と言ったあと、私がほんまに癌が見つかったばっかりの人か、元気そうに見えるけれど実は随分前から癌でもう打つ手もないて人やったらどないするんやとも言ったのですけれど、そうしたらその人は「そうかー」と笑いながらこう言うではないですか、

「いや俺、10年前にガンやったからさ」

私は突然のカムアウトに驚き、お小言をするすると引っ込めて「それは、大変だったねえ…」というありきたりなひとことをため息と一緒に吐き出したのでした。こういう時、もっと何か気の利いた言葉ってないのかな、あったら誰か教えてほしい。

その人は今からちょうど10年前に癌が見つかり、なんというかその、大切なタマの部分をひとつキレイにとってしまったのだそう。

「片タマは残せたんやけど、放射線治療ていうのもしたし、まあそうなると将来子どもはでけへんやろって言われてん、俺としては自分の人生に子どもはいるかいらんかて言うたら、やつぱりほしいなァとは思ってたし、そこはちょっと落ち込んだんやけど」

でも当時その人はまだ30代の半ばで、まだまだこの世界でやりたいことが沢山あって、命と片タマを泣く泣くバーターすることにした、命はタマより重いから。

そうしてその人は無事生還し、発症後10年という節目を無事再発も転移もなく越えたつい最近、ご縁があって子どものいる人と、少し遅い結婚をしたらしい。

丁度その時連れていた私の末娘と同じ年長児だという息子さんは、その人の妻である人に連れられて初めて「こんにちは」をした日からその人を『パパ』と呼んでくれているのだとか。

その子はとにかくやんちゃで、膝小僧に擦り傷が絶えず、ちょっと公園につれて行くとすっかり陽が落ちて真っ暗になっても一向に帰りたがらないし、水たまりがあればそこで泳ごうとして靴を脱ぎ、なんなら服まで脱ごうとするのだそうな。平日保育園に行っている間はそこで思う存分暴れてくれるからいいのだけれど、土日はとにかくその有り余る体力を発散させるためにあちこち連れ歩かないといけなくて、夫婦はほとほと手を焼いているそう。

「まあ…継父てむつかしいこともあるかもしらんけど、俺は初めて息子に会った時に、天啓のごとく『この手があった!』て思たんやわ、別に血を分けた我が子でなくても、俺は全然ええんやもん」

その人は、自分の人生にある日突然ひょっこりと現れた小さな男の子が、今もう可愛くて仕様が無いんだそうだ。

「子どもは手がかかるし、秩序ていうか予定調和ってもんをひとつも知らんし、次の動きの予測も全く不可能や、ライプニッツもああいう生き物を知らんではったんやろな、でもそこがええ」

そう言って私の5歳の娘の頭をよしよしと撫でた。それで私も

「自分の産んだ子だけ育ててる私が言うのもヘンやけど、血縁なんかホンマのとこあんま関係ないのやと思うわ、育児の渦中で血縁とか殆ど意識することなんかないし、毎日毎日がほんまに目まぐるしくてね」

そう言った。だってホントにそう思うから。

それでその日たまたま、出張で近くに来ていたというその人は、息子君の好物のアイスクリームを買って帰ってやりたいのだけれど、そんなもんは長く独身だった中年のおっさんの自分は普段そう買うもんでもなかったし、流石の自分もどれがええかひとつも分からへんというので、私は(流石の自分て)と思いながら

「サーティワンのバラエティパックの、4個入りは3人家族やといっこ余ってしまうし、いっそ6個入りにしたらどう」

すでに3人の子のいる先輩としてそう言ったのでした。6個ものとりどりのアイスクリームがずらりと並んでいて喜ばないおチビちゃんはあんまりおらへんし、フレーバーは、テッパンのバニラとチョコとストロベリーチーズケーキ、あとはホッピングシャワーとか、コットンキャンディなんかの見た目にぱっと派手なのを入れたらええのやないのかなとも。小さい子ははっきりした色を好む子が多いから、するとその人は

「これ…俺は何が食えるんやろか」

というので、息子君と奥さんが喜びそうなのだけを見繕うんと違うんかと思いながらも、私の知っている大人の男の人、言い換えると私の身近なおじさんの多くはロッキーロードを好むのでそれにしときと言っておいた。あのチョコレートのアイスクリームにナッツとかマシュマロが入ったごつごつしてるやつ。

そうして私達はそのまま、サーティワンアイスクリームの店を出て夕暮れの街で「じゃあね」「またな」と言って別れたのでした。

「暴れ馬か、暴走特急や」

その人にそう呼ばれていた息子君が、よその知らんおばさんが選んでお父さんが大事に持ち帰ったアイスクリームを喜んでくれるといいのだけれど。

天才と変人の名をほしいままにした国内での学生時代を終え、遠い外国で更に沢山勉強をして、帰国した後晴天の霹靂的な病気で死の淵を歩き、それから10年後に伴侶を得たその人は今、出張帰りの夕方にサーティーワンのバラエティパックを息子に買って帰る優しいお父さんになった。

私はそれをとても幸福な変容だと、思ったのでした。

そして幸福というものは自分とは全く関係ないところでいくらでも生成されて、街のあちこちに、そこかしこにひっそりと、でも確実に存在しているのだなあとも思ったのでした。

そういう日常のちょっとした事件や出来事を140文字程度の言葉に生成することが、私にはとても楽しいことだったのだけれどな。


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