見出し画像

お引越し(Unexpected survivors4)

長時間の手術の後に起きた心臓と肺の機能低下と、そこから波及して起きた腎臓と肝臓の機能悪化、それを補うための補助循環装置と人工透析と人工呼吸器に繋がれての数日、それに耐えるための筋弛緩剤と鎮静剤と鎮痛剤を相当量使用した末娘は、それを身長94㎝の小さな身体の中に貯め込んだまま静かに眠っていた。

それでも主治医が筋弛緩剤の使用を止め、鎮静と鎮痛の量を徐々に減らす方向で意識の覚醒への調整を始めてから3日目、先生が

「僕が夜に見ている時、手をぎゅっと握ってくれましたよ」

微かに動くようになった末娘の姿を確認してくれた。浅い眠りの中で夢を見ているような状態で少しずつ、ほんの少しずつでも、末娘は体の末端を動かせるようになっていて、それを1日1回15分程度の面会しかできない私が目撃する事は難しくても、13時間に及んだ手術の日からどうも病院の中でずっと暮らしているらしい主治医や、心臓外科チームの看護師がちょっと動いた事を確認しては、末娘ちゃんが薄目を開けましたよ、末娘ちゃんが口をもぐもぐしていたんですよと、面会に来た私に、笑顔で教えてくれる事は嬉しかった。

そしてあの日、手術終了後すぐに手術室横の面談室で、手術の全術式を終えた末娘の体が長時間の手術に持ちこたえる事が出来ずに心不全を起こし、予想され得る中では最悪と言っていい状態にあると説明をした先生のまるで怒っているような固い表情が、術後2週間を経て乗り越えなくてはいけない難所、補助循環装置ECMOの離脱と、術後開いたままになっていた創部の閉胸を乗り越えて、普段小児科外来で顔を合わせる末娘の大好きな「センセイ」の優しい表情に戻っている事に少し安堵していた。あんな怖い先生の顔が目覚めた時に末娘の眼前にあったら、気の強い娘の事だから、泣きはしないだろうけれどきっと不機嫌になる、それか怒って

「コワイオカオシナイデ!バカ!」

位のことは言う、絶対に言う。

でもその先生の安堵の表情は、末娘が命の瀬戸際をかろうじて脱したと言う事、万が一の時には小児心臓外科医として再度手術室にこの子を運んでメスを握らなくてはいけない可能性のある局面を抜けられたという事であって、この子の体の中に手術によって作られた新しい循環が無事成立して、成人に至るに耐えうる体が出来上がりましたというグランドフィナーレを迎えた訳では決してないのだとは思っていたし事実だった。そもそもまだ人工呼吸器の抜管も出来ていなければ、腎不全もやや改善はしているものの正常値には遠く、そしてじわじわとCRP値、血液の中に示される炎症の数値が上がっている状態なのだから。私の中には、末娘が徐々に覚醒してきてくれている、多量の麻酔と鎮静の投与のために長期の昏睡状態に陥る事はなんとか免れそうだと言う嬉しい気持ちが2割、あとは目指していた筈の着地点が全然別の全く考えていなかった場所に移動してしまったのかもしれないという懐疑が8割と不均等な形に割れていて、そこにこんな膠着状態のまま手術の日から既に2週間という時間が経過している疲れとが攪拌されて混ざり合いどっちつかずの何だかぼんやりと暗い気持ちが出来上がっていた。

術後は患者も、それに付き添う医師もコメディカルも、患者家族も皆体力勝負だ。体力ゲージが不足すると気持ちがどんどん暗くなる。

大体先生から「もうかなり人工呼吸器に頼らずに自力で呼吸が出来ています」と評価を貰っているのに、血液の中にどの程度酸素が含まれるか、それを示す値であるSpO2がまだ80%しかない。今回のフォンタン手術が終われば、常人と同じ値は出せなくても90%の前半位にはなる、そうすればいずれそう遠くない将来に自宅で24時間使用している医療用の酸素を卒業できると言われていたけれど、それは目標にしていた最良のゴールであって、予定外の事が沢山起きた今回、そのゴールが一体どこになってしまったのか、それが私には全然見えなくなっていた、でもそれを

「じゃあ、この子のゴールは今、一体どこにあるんでしょうか?」

この末娘に関わる小児心臓外科、小児循環器科、とにかく全部の先生に聞いて回っても

「今はまだ分かりません」

としか言わないだろう、というか言えないだろうと思う。

そもそも、ひとたび重度とか重症と呼ばれる部類の疾患に生まれついた子には『完治』というゴールが無い。

中長期的な生存を目指すために予定されていた治療、処置、手術がすべて終わったからと言って、これで治りました、めでたしめでたしにはならないのだ。この子を妊娠中にその事実を知った時、絶望まではしなかったけれど、哀しかった。仮に今回無事に退院が叶っても、その後待っているのは、末娘の場合だと、この不自然な循環を維持しながらそれを破綻させないように経過を観察し、規則正しく薬を飲み、不具合を調整し、将来必要であればまた体にメスを入れる、長い長い調整と保守点検の生活。

それを親の方は「それでも生きてさえいてくれたら」と思って育てても、本人はそうは思わないだろう。痛いことなんか嫌だし、体調の維持の為の薬のせいで食べるものに制限が出るのだってどうして?と思うだろう、何より制限がどんなにあっても楽しいことは沢山したいし面白いこともないとつまらない、折角生まれてきて何度も手術台に上がりながら人より少し脆くていびつな命を長らえたのだから幸せにならなければ、それをもし

『人は本来、生まれてこない方が幸せであった』

この末娘が大きくなって世界というものを自分の視座で把握するようになって、そして見た目は全然自分と変わらない周囲のお友達と、自分の在り方を比較してこんなショーペンハウワーの亜種みたいな事を言い出したら、私はどうしたらいいんだろう。切腹だろうか、やっぱり。

末娘をICUに預けて、毎日緊急事態に備えて携帯を握りしめて眠りにつき、通いで面会をしながらの2週間、きっと少し疲れていたのだと思う。そして人間は疲れていると本当に碌なことを考えない。この子とよく似た心臓の疾患を持って生まれて、幾度も手術室の扉を潜りながら生還し今は成人している人達が私に

「私はこの心臓のある体しか知らないし、ずっと病院と縁のある人生しか知らないから、可哀相とか言われても今一つピンとこない、大変な事は確かに沢山あるし、出来ない事もある、人とは違う人生だなと思う事もあるけど、それを憐れまれるのは少し違う気がする」

私は私なのよ。

だから母親の貴方は堂々としていたらいい、そう散々励ましてくれていたのに、私の理解力と記憶力は何処に行ってしまったんだろう。もしかしたら電子レンジの中だろうか、私はコーヒーを温めなおしてそれを失念して、挙句そのまま250℃でオーブン余熱をしてカップを割る人だから。

そんな疲労に煮込まれてくたくたになってしまった精神状態で迎えたICU2週間目、初めの4日間は補助循環装置に繋がれて命の瀬戸際を歩き、次はとにかく透析で体外に水分を輩出、謎の菌に感染して発熱し、それを抗生物質を駆使してひたすら叩いてきた末娘は、今は透析の力を借りずに尿を出し、まだ炎症反応はあるものの血圧と中心静脈圧の数値はずっと安定していた。ただ肝心のSpO2は相変わらず低いまま、これを主治医は

「まだこれが最終的な数値と言う訳では無いですし、手術時にあえて行った開窓術の影響もあります。今は人工呼吸器に助けられていてこの数値ですからまあまあ及第点だと思ってください、意識も徐々に回復傾向なので、まだ目の離せない創部のフォローは勿論僕が病棟に診に行きますが、予定通り小児病棟に移動します」

そう言った。末娘の心臓には今、人工的に小さな窓が作られている。開窓術・fenestrationと呼ばれるそれは、術後の静脈圧の調整のために今回の手術中にあえて開けた小さな窓で、今その窓から本来予定していた以上の量の静脈血が入り込み、末娘の心臓の中で動脈血と予定量より多く混ざってしまって体に流れ出ているのだと言う。静脈圧は落ち着いているしあとは、今まだ本調子ではない肺の状態が落ち着けば変わって来るだろうと言うのが先生の見立てだった。

「これが手術の結果ではないと思ってください。今手術が終わったという評価をするのはまだまだ早いです」

退院までが手術です。そしてその後の数ヶ月、数年後の時間を経た状態が手術の評価です。

先生は小学校の先生の遠足の日の常套句『遠足は家に帰る迄が遠足です』によく似た、でもそれよりさらに気の長い事を言った。それでも末娘が命の危険のある時期は抜けられたと評価してこの日の午後、ICUから小児病棟のケアユニットであるPICUに末娘の身柄を移す事が確定。これで2週間、手術のその日から多分一度も末娘の傍から離れる事なく経過を見守り、緊急の対処の為に待機し続けてくれた小児外科医の先生から、小児病棟の小児循環器医に主治医は交代になる。

そして、これで直近に心臓や創部に何か不測の事態が起こらない限りは、この小児心臓外科医が末娘を執刀することはもうない。それは末娘が予定の手術をこれで一応全て終えたと言う事と、先生の年齢が確か私より10歳かもう少し上で、この末娘が今回体内に作り上げた循環に不具合が起きるような年齢になる頃にはもう勤務医としては一線を退いている年齢になっている筈だから。

末娘は多分、この先生が医師人生で執刀する子どもの中では最後集団の中のひとりだと思う。

「娘の3回の手術を全て担当してくださって本当にありがとうございました。最後まで執刀医が先生で幸せでした」

私が、ICUの末娘の個室で2週間毎日続いた『先生の今日の所見』の報告の最後、この医師が3年間執刀医でいてくれた事の御礼を言わないと、そう思って慌てて自分の口から引っ張り出してきた言葉は、今ここで文字にしてみるとなんだかおかしい。3年の長きにわたってこの子の担当をしてくれた事への感謝は分かるけれどここで『幸せ』は少しそぐわないんじゃないか。病気も手術も全然幸せな事じゃないはずだから。

でも、この先生は3年前の末娘の初回の手術の時の術前説明の日、『小児心臓外科医』という人に初めて相対する事に極度に緊張しながら面談室に入室した私に、それがどういう文脈のどんな会話の中で先生の口から出てきたのかは忘れてしまったけれど

「お母さん、末娘ちゃん心臓疾患は重度で大変なものですが、それは妊娠初期の偶発的な要因によるもので決して母さんのせいではないんですよ」

多分疾患のある子どもを産んだ事のある大体の母親が一度はしてしまうだろう自分への断罪を先生が突然『それは違います』と明言して、それにとても驚いたという事があった。専門医の言葉は強い、それ貴方のせいじゃないですよと言うのに誰よりもふさわしい立場の人から出てきたこの言葉がいつも

「今、こんな大変な事になってしまっているこの子をこんな体に産んだのはこの私」

そう思い至ってしまうような暗い局面にあって自動的に自分の脳内でリマインドされるのは、一体どういう仕組みなんだろう。

あの時は生後3ヶ月だった末娘の右肺動脈と大動脈の間に小さな人工血管を繋ぐための手術で、それ以外にも左の肺動脈が極端に細いので心嚢の一部を切って縫い足しますとか、主肺動脈を離断しますとか、心房にあえて孔をあけますとか、そんな恐ろしいことばかり言われて、まだ末娘の心臓がどういう状態でこの先は一体どうなるのか皆目分からない中、私も同席していた夫も、先生の言葉を解ったような解らないような神妙な顔で聞いていたと思う。そして術前説明の最後、先生が

「手術自体が命の危険ではありますが、誠心誠意努めますので、どうぞ宜しくお願いします」

本来ならお願いしないといけないのは患児の親であるこちらだと言うのに、最敬礼で私達に深々と頭を下げてくれて、それに驚いた事もよく覚えている。そして先生は、あの時約束してくれた『誠心誠意』を3年の間、徹底して守ってくれた。私はそう思っている。有言実行、看板に偽りなし。でも先生にこんな事を言ってもいつもの笑顔で「そうかなあ、僕は普通に仕事してるだけですよ」としか言わないような気がする、でも先生、それ結構すごいことですよ。

私と末娘には信頼できる外科医が3年間ずっとついていてくれた、とても幸せな事だったのだと思う。だから『幸せでした』。先生ありがとうございます。そしてもうお家に帰って寝てください。

その日の14時15分、末娘は2週間術後ずっと危険で微妙な状態だった命を守ってもらっていたICUを出て、小児病棟に戻った。私は退出の時にスタッフに御礼を言った

「退院の時には歩いている娘を連れて挨拶に来ますね」

そうなると良いなと思う。




小児病棟で主治医を務めてくれる小児循環器医の予想では1週間だった所のICU入院を倍の時間をかけて戻って来た小児病棟では、病棟看護師も、いつも声をかけてくれるお掃除のおかあさんも、看護助手さんも、皆末娘の生還を喜んで声をかけてくれた。

「末娘ちゃん頑張った」
「偉かった!」
「あとは起きて!」
「でも起きても暴れないで!」

最後のはちょっと無理な注文ですね。

末娘は小児病棟に戻ってもまだ発熱、腸管からの出血、腎不全、安定しないサチュレーション、胸水を吸引するために胸に挿管された2本のドレーン、お腹にペースメーカの針金、そして半覚醒の半目で、人工呼吸器と鼻にNgチューブを挿管されたまま、もう盛沢山の装備と不調で、2週間ぶりに顔を合わせた主治医には

「ウン、お母さんやから言うけど、先、長いよ!」

とてもいい笑顔でそう言われた。先生、何故私には忌憚と遠慮なく真実を告げて良いと思っているのですか。

小児病棟に上がって来る前に小児外来の前で偶然会ったもう一人の主治医の先生からは、ICU抜けられて良かったなあ、という言葉と共に

「あんなん、じきに暴れ出すから、お母さんいつでも付き添いできるようにしておいてな」

そう言われて、そんな早々にあのシリンジポンプとかドレーンの管と線だらけの子に付き添うのかと思ってひとり震えたけれど、やっぱりこの状況ではまだまだ付き添い入院には時間がかかりそうだ。末娘には小児循環器科に2人主治医がいる、入院時に主治医を担当してくれる若い先生と、末娘を初回の手術からずっと担当している今は外来担当の往年のハンサム先生。この2人は大体いつも意見が割れる。

でもその意見を分かれる2人の主治医の顔を見た私はとても安心していた。先は長いらしいけれど、我が子の命を信頼して預ける人が複数存在していると言うのは実際幸せな事だと思う。きっと僥倖と言っていい。病気の事はさておいて。

ただいま、小児病棟。

この日、病棟入りしてから、ICUから持ち込んだ沢山の装備と機材をベッド周りに置いてそれぞれ整理し、点滴のいくつかを入れ替えてもらってから面会した末娘の、久しぶりに直に触る事が出来た左手は、長く点滴を固定していたテープですっかり皮がむけて、病気のせいで末端の血行が悪くて薄くしか伸びない爪が殆ど剥がれてしまっていた。長く固定と拘束を耐えた人の手だ。

おかえり、頑張った人。



ところでずっと昔、私がまだ、大学生だった頃に、新約聖書学のおじいちゃん先生、と言っても定年まぎわだったのだからもしかしたら今の主治医、往年のハンサム先生とそう変わらない年だったのかもしれない、そのひょうひょうとした優しい先生が新約聖書で「山上の垂訓」と呼ばれる個所をまだ右も左もわかっていないピチピチの1年生を前に講義した時

「『貧しきものは幸いなり』というのがありますね。アレ、貧乏が幸せという訳じゃないんですよ。貧乏は不幸です、僕はねえ、清貧というのが嫌いなんです、お金がないと気持ちも荒むし、好きな本も変えないし、阪神の試合にも行けません」

この先生は熱烈な阪神ファンだった。

「これはねえ、困難があるからこそ知る幸せが必ずあると、そういう事なんですよ。何もかも満たされて充足した生活の中では、見えてこない幸福というものは確かにあるものなんです。病気をしなくては健康がどんなに幸せかわからんようにです、そして病気だからこそある幸せというのは確かにあります。それは若い君らにも、その内わかります」

そう言っていた。

そして、この先生の言う通り、元気に生きている事が、その状態を維持する事がとても微妙な均衡の上に成り立っている幸福だと、あれから20年以上の時間を経てそれを私は己の病ではなく、娘の病によって思い知る事になった。

それでこの子にこの言葉にちなんだ名前を付けた。それは心臓の病気であるからこそ知る幸せがある筈、病気だろうが、いやだからこそこの子には人並みかそれ以上の幸せのひとつやふたつないと不公平だろうと、そう思って少々やけくそ気味な気持ちで付けた。

でも実際に末娘が病棟で、外来で、ICUで、PICUで、何の血縁もない人達に可愛がられて大切にしてもらっている姿を見ていると、こういう子どもにはその身に負う軛の代わりに何かボーナスステージみいたなものがちゃんと用意されているのかもしれないなと思う。

物事には言い側面と悪い側面がいつも表裏一体で存在しているように。

親の欲目というか希望かもしれないけれど。

さて、そんな病棟の皆様に可愛がられているボーナスステージ中の末娘に会いに行かなくては、今日からはPICUのあるフロア。どんなに皆に可愛がられていても、人工呼吸器を挿管されたままの末娘は半目の半覚醒、抑制もされていてきっと超絶不機嫌だと思う。絵本とタブレットを持って行ってご機嫌を取ろう、この先は親の出番の増える入院後半戦になる。

先生の言う通り今度はきっと少し長い。

でも、末娘はもう死の淵を感じるような場所にはいない。

サポートありがとうございます。頂いたサポートは今後の創作のために使わせていただきます。文学フリマに出るのが夢です!