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小説:If God disappears in the world 1

☞1

「暁星あのさあ、俺腹減っちゃった、なんか食わして」

「…なあ、佳哉はどうして人の仕事先でいつもそうやって僕を待ってるんだ。大学は?今日1講目からあるんじゃなかったのか、今もう昼すぎだぞ」

「俺、1講目は出ない主義なんだよね」

「じゃあ何で取ったんだよ」

「あー…あれ必修」

「行けよ、卒業できないぞ」

蔦の這う煉瓦造りの高い壁がぐるりと周囲を取り囲み重厚な鉄の門扉の前に警備員を2名配す私立中高一貫の女子校の前に座り込んで僕を待っていた佳哉は、皺だらけのリネンコットンのハーフパンツに水を潜りすぎて色あせた紺のTシャツを着て、足元は多分ダイソーで買ったビーチサンダル、佳哉のでかい足の踵がはみ出してるヤツ、それと伸ばしっぱなしの髪、女子校の前で人を待つには最高に向かない恰好だ。コイツがあと1m正門に近づいたら絶対に通報される。

「ホラ、立って」

僕はその変質者もどきの腕を掴んで引っ張った。佳哉はいつもこうだ、一応朝は僕の起床時間に合わせて布団から這い出して来て、僕と一緒に朝食は食う。卵が硬いだのハムが自分の分だけないだの文句を言いながら僕が作った料理をすべて平らげ、その後はまた部屋に戻って自分の体温の残っている布団の中で追加の惰眠を貪るか、たまにどこかにフラリと出かけて行く。そして腹が減ると僕の出先に勝手に現れる。

「野良猫か」

「え、何?大学の方は大丈夫だよ。ちゃんと色々根回ししてあるから。だって俺、学生生活10年目だし、プロ学生だよ」

「何がプロ学生だ、お前みたいなのと、この市内全体に山と存在する真摯な学問の徒を一緒にすんな。安直な思い付きだけで大学と学部を変えながら1回も就労しないで学生10年目って、そういうのを世間ではモラトリアム人間って言うんだぞ」

「えーそう?世間様の事は知らないけどさあ、お釈迦様は働いたことなんかないんだよ、イエス様も言ってるじゃん、明日の事を思い煩うなって」

「そういう適当な屁理屈に宗教とその教義を攪拌して使うなよな、お前は」

「アハハ、牧師が怒った」

僕は立ち上がったら自分より10㎝程高い位置にある佳哉の後頭部を、結構な力で引っ叩いた。

「あ、いて」



この市内で一番古い中高一貫の私立女子校の前で警備員に訝しがられながら僕の出待ちをしていた男は高野佳哉と言う、僕の中学と高校の同級生だ。

僕は京都市の東側、左京区の鴨川に沿って大きな大学がいくつもある街の古い教会の副牧師をしている。一方の佳哉は同じ市内にある東寺真言系の大学の1回生だ。今更な周回遅れの大学生。今年の春、2度目の大学生活が始まった頃、こいつは入学と同時に僕に

「得度したよ。これで2回生になったら受戒と加行と灌頂やるんだ」

そう言っていたはずなのに、大学がそれを容認しているのかアイツが一方的に規則を無視しているのか得度したはずの佳哉の髪は伸ばしっぱなしのままだし肝心の大学には全然行っている気配が無い。僕からしたらこれは就労を回避、いや忌避しているのにしか見えない。実際もう10年のらりくらりと学生をしている訳だし。

子ども時代の僕は牧師であり旧約聖書学の研究者でもある父の勤務先、大体の場合は赴任する教会が変わる度に転居と転校を繰り返す所謂転勤族の家の子どもだった。牧師というのは所属している団体の規模にもよるが全国転勤のある類の仕事で、その点は普通の会社員と同じだ。対して佳哉は真言宗の寺を代々守り続けている家の次男坊で、ついこの前まで大学院生をしながら実家である広島市内の寺で暮していた。多くの場合そうであるように、数多の檀家を抱える門跡という物はそれなりに裕福だ。佳哉の実家も、成人して30近くなるのに一体何を考えているんだか自立する気配すらないままずっと学生をやっている息子を野放しにしておく位のことは出来るらしい。そして親が僧侶の子というのは、一般にはそこまで珍しくも奇異でもない。でも僕のように

『牧師の子』

というのは、どこに行っても割と特殊な生き物として扱われる。日本のキリスト教徒はその総人口の1%程度、その中でも教会の司牧ないしは牧会を司る人間なんていうものは神父でも牧師でもツチノコ級に珍しい。僕は父の転任に伴って幼稚園、小学校、中学校それぞれの時期、何度か転校を経験したが、転校の初日にはいつもその日から同級生になった子ども達に机の周囲をぐるりと取り囲まれ

「お父さん神父さんなの、えっ神父に子どもっていていいの?」

「へえ、教会の中に住んでるの?あの中って何があんの?」

「お父さんて日本人?」

「悪魔って退治できる?」

転校生の聴取に来た好奇心の強い何人かにその手の事を根掘り葉掘り聞かれ

「神父はカトリック教会の方だよ。ウチのお父さんはプロテスタント教会の牧師だから普通に結婚していいし、子どもがいてもいい。それとウチは全員日本人、でも別に牧師は何人でもなれる。教会の敷地の中に牧師用の小さい家があって今は家族でそこに住んでる、あと悪魔祓いはしてない」

定型の答えを返す事が常になっていた。例によって父の転任に伴って広島の公立中学校に転校した初日も、座席が隣になった佳哉は全く同じ事を僕に聞いて来た。それで僕がいつもの決まった答えを返すと。

「へーそうなんだあ。俺んち寺だよ。でも父親は坊主にしてないし、毎日酒飲んで肉ばっかり食ってるし、車はベンツだし、愛人が3人位いる」

特に後半部分は初対面の人間にはあまり言わない方がいいんじゃないかと思うような言葉を僕に返して、にやっと笑った。それが僕達が14歳の時だ。佳哉はその頃から伸ばしっぱなしのひどいくせっ毛で、クラスに友達が1人もいなくて、授業中も目が開いているのを見た事が無い程1日の大半を寝て過ごしている妙な奴だった。そのくせ成績は抜群に良くて、高校は地元の広島の私立の進学校に、僕の方は必死に勉強して入学し、佳哉は試験中ハナクソを穿って試験官に注意を受けていたのに難なくトップクラスの成績で入学した。そして高校3年の頃には担任教師から

「高野は理学部志望じゃろ、数学をやりたいんか、この成績やったらもう東大でも阪大でも好きにせえ」

そう言われていたのにも拘わらず

「フーン、でも俺、東京とか大阪とかそういうの面倒くさいから、広大でいいや」

もうそのころには中学時代に輪をかけて怠惰の権化みたいな性格になっていた佳哉は、担任教師が佳哉の模試の成績を見て、これなら最高学府でも旧帝大クラスでもどこでも受かるだろうと息巻いているのを他所に、実家から通える距離にある広島の国立大学の理学部に進んだ。僕は当時から父と同じ牧師になる事を決めていたので、特に迷いなく京都のキリスト教系の私立大学に入学し、佳哉とは物理的な距離が出来た分、以前のようには会わなくなった。それでも僕らは何となくずっと連絡を取りあっていたし、僕の父が今治の教会の牧師として招聘されたことで、実家が広島から愛媛に変わってしまっても1年に1回位は何処かで顔を合わせていた。僕は取り立てて佳哉と仲良くしているつもりはないのに、こういうのは多分腐れ縁と言うのだろう。その間佳哉は理学部で数学を学んでいて、年に1回程度、何かの機会に会うと

「確率微分方程式の離散近似理論っていうのやってんだ、割と面白いよ」

数学は数ⅡBの段階で匙を投げた僕には、佳哉の言っている事は全然何のことだかわからなかったがそう言っていたし、僕が牧師になるために教団の認可神学校である大学で修士課程まで学び、按手を受けてニューヨーク州の神学校に留学している間、佳哉は博士課程に進んだと聞いていた。いつ会っても掴めない、物凄く変なヤツだったが、何しろ僕とは全く畑違いの世界で生きているのだし、アンドリュー・ワイルズのようなああいう分野の人間は天才と言うか、変人というか、えてしてそういうものなのかもしれないと、僕はそう思っていた。だから僕が帰国して京都の今いる教会に副牧師として着任した今年の3月

「俺、仏門に入ることにした」

僕に対してそんなメールを一本寄越した翌日の土曜日の午後、僕の職場で住まいでもある加茂北町教会の礼拝堂に佳哉が現れた時には、佳哉がいくら変人でも数学から仏門って、コイツは一体何を言い出したのか、それで一体何をしようとしているのか、それが皆目理解できず、暫く情報を整理する時間をくれと言った位だ。

「いいよ、3分でいい?」

「あのな、佳哉お前、数学はどうするんだ。あの…なんだっけ?確率微分方程式のナントカ理論はどうしたんだよ、博士課程まで進んだっていうのはもう数学に生涯を捧げるとか、そういう覚悟だったなんじゃなかったのか?」

「飽きた。それにさあ、数学じゃ全然食えないんだよね。ロックバンドでギター弾いて生きていきますって言う方がまだ全然現実的な位なんだよ、暁星、知ってた?」

「知らないよ。飽きたからってまたイチから学生やるのか?お前、僕と同じ歳だから今28だぞ、それで大学に再入学して、今後の学費とか生活費なんかはどうするんだよ」

「大丈夫、俺んち寺だからさ、親は俺が数学やめて仏門に入るならまあそれでもいいって。それに俺、ホラすぐそこの洛東大学に行くんだけど、そこだと同じ俺の実家と同じ真言宗の系列だから同門の子弟には学費減免制度があるし、俺、超成績優秀だったから特待生になったよ」

大体さ、ああいう大学の仏教学科の子弟枠受けるヤツってみんな頭良くないから名前書いたら受かるんだよ。佳哉はそう言って何がそんなに嬉しいんだか中学生の頃から全然変わっていない笑顔を僕に見せて、それから実は大学には受かったものの、うっかりしていてこれから住む場所を手配するのを忘れていたんだと僕に言った。

「暁星って、この教会に住んでんの?昔みたいに」

「そうだけど、お前まさか」

「ウンそう、そのまさかの。暫くここに置いてほしいんだけど、できたら4年程」

「4年て…お前、仏門に入るんだろ。ここ教会だぞ、駄目に決まってるだろ」

「えーケチだなあ。だってここの教会の入り口の掲示板に『どなたでもご自由にお入りください』って書いてあるじゃん。それに暁星の教会って超がつくリベラル派なんじゃないの、しかも暁星ってつい最近まで自由主義神学の総本山に留学してたんでしょ、なんかワシントン?デトロイト?ホラ、ユニオン何とかって」

「『Union Theological Seminary in the City of New York』だよ、ニューヨーク州だ。あのなあ佳哉、自由主義神学っていうのは、聖書教義を適当に解釈して挙句なんでも自由に好き勝手にやっていいですよとかそういう学派の事じゃない。個人の理知的判断に従った教義の再解釈だ。第一今オマエが言ってんのはそういう事じゃないだろ、あと佳哉が理知的だった事なんか僕の記憶の範囲内ではかつてこれまで一度もないぞ」

僕は当然、それは出来ない相談だと佳哉に言った。僕は確かにこの教会の管理者として教会の2階の牧師室と呼ばれるスペースで暮らしてはいる、暮らしてはいるけれども、教会というものは本来教会に集う信徒、教会員の物であって、登記上はこの法人の物だ。当然僕の所有物ではないし、その上僕は副牧師であって主任牧師じゃない、寺で言うと副住職だ。だから主任牧師と教会員の承認を得ないでお前をここに置くなんて勝手は出来ない。僕は佳哉にそう言った、当たり前の事だ。でもそうしたらこの時に丁度、日曜の主日礼拝の準備の為に教会に来ていた主任牧師の榎本先生が佳哉を見て、いつもの柔和な笑顔でこともなげに

「え、いいよ。だって彼背も高いしなんか強そうやし防犯上有効そうや。だってホラ、ウチの教会員は圧倒的に女性が多くて、敷地の向こうにある保育園の職員もみんな女の人やし、僕は教会の主任牧師や言うても大学でも教えてて、大学の近くに家族と住んでる。せやから佐伯君の他に屈強そうな若い男の子が普段からあと1人いてくれたら何かとええんやないかな。それに真言密教とか禅を学んでる学生は僕の新約聖書学の授業にもよう来はるし、宗教間対話は僕ら宗教家の21世紀における大切な課題やからね、20世紀からの宿題や」

大学で新約聖書学を教えているせいで学生という生き物にとにかく甘く、その学識と信仰は心から尊敬できる、そういう人物ではあるものの、同時に学者らしくかなり浮世離れしている所のある榎本先生があっさり佳哉を牧師室のもう1人の住人にする事を認めてしまった。そして佳哉の名前を聞くと更に笑顔になって

「佳哉君いうんか、ええ名前やね。『佳き哉』そういう意味で親御さんが命名したのかもしれへんけどヨシヤ…Yehoshuʿaは新約聖書ではイエスと同じ名前なんや。イエスって名前の若者が教会の2階に住んでいても全然おかしくないやろ。佳哉君、そしたら君、たまに集会の準備とか、そこの庭木の手入れとか、掃除とか手伝ってくれるかな」

そういう完全にこじつけみたいな理由で何故か佳哉を気に入ってしまい、佳哉も佳哉で

「あ、そういうの全然やります。ありがとうございます」

そう言って、教会の雑用係と番犬になる事を快諾してしまった。費用は実費のみ。それで、過去、僕の中高の同級生で、今は真言系の大学の学生で、それなのに殆ど大学には行っていない、将来僧侶になるらしいこの男は、僕の勤務先で居住地でもある教会の2階に住んでいる。

野良猫みたいなものだ、勝手にやって来て勝手に住み着いた。物凄く迷惑だ。



「暁星、俺、腹減ったんだけど」

「だから、どうして僕が毎日お前の朝飯も、昼飯も、何なら夜飯まで面倒見ないといけないんだよ、野良猫だって自分で自分の飯の面倒ぐらいみるぞ」

「えー、冷たいなあ」

僕らがこの日の昼食、何なら日々の糧のすべてを巡って軽く押し問答をしていると、僕らの横を薄いブルーのブラウスに藍色のリボン、それに濃紺のプリーツスカートを風に揺らしてひとり高校生が横切った。この日は夏休み前の保護者懇談期間のために授業は午前中のみで、初夏の空の下、平日の自由な午後の空気に歓声を上げる水色の集団がさっきの1人目を先頭にして一斉に煉瓦の壁の外に飛びだして来た。その中のひとつの賑やかな塊が

「あ、佐伯センセーだ。え、誰?センセ―の友達?」

僕を『先生』ではなく1段階軽めの『センセ―』呼びする彼女達は僕の隣の佳哉を目ざとく見つけてそれは誰だと僕に聞いて来た。中学高校何なら大学までの女子一貫教育の大きな流れの中にいる彼女達は自分達とは性別を異にする生き物に対して慣れない分恥じらいがあるのかと言えばそれは全く逆で、いつも無邪気な好奇心まる出しで僕に向かってくる。『センセ―年齢は?結婚してんの?する予定は?じゃあ彼女は?好きな芸能人は?』僕はそんな彼女達を可愛らしいと思わない訳ではないけど、毎回それに答えるのは結構大変だ。

「うん、ともだ…」

「ウウン、彼氏」

佳哉が僕の肩に腕を回し、僕の言葉にかぶせてとんでもなく余計な事を言った瞬間、周囲に響き渡った水色の制服達の絶叫の音量は物凄かった。これ、一体何㏈だろう。

「ウソ―!ホント?」

「違う、友達だから。佳哉、お前はどうしてそういう」

「だってイマドキの女子高生はこの手のBLネタが大好物なんでしょ。それに俺ホントに暁星の事好きだよ」

「気持ち悪いからやめろ」

僕が妄想上の虚言しか言葉にしていない佳哉を黙らせる為にヤツの素足を革靴で踏みつけた時には、彼女達は制服のリボンを揺らしてすぐそこの地下鉄の駅に向かって走り去っていて、僕と佳哉だけが校門の前に残されていた。

「佐伯センセ―、これで明日から人気者だよ」

「うるさいバカ」

とにかく僕はこの、実家が寺で、大学院で数学をやっていたはずなのに、突然仏門に入ると言い出して挙句僕の現住所に転がり込んで来て自分で自分の昼飯の世話もできないこの男に今、とても迷惑している。

☞2

ごあいさつ

加茂北町教会は1900年、当時の「日本合同基督教会」に加盟する教会としてこの加茂北町に設立されました。明治時代に日本に建てられた10番目のプロテスタント教会です。1941年、新たな教団設立に伴いこの大きな流れに賛同し合同。現在は教団京都教区に属する教会として、設立から120年、この地で神のみ言葉を人々に伝える伝道の道を歩んでいます。

1986年に現在の教会堂を改築、同年敷地内に社会福祉法人こひつじ保育園を設立し、現在に至るまで子ども達の育ちの場として地域の皆様に広く門戸を開いています。

「ねえ、この『伝道の道』ってさ、そういう辻説法みたいな事やってそれで食えてんの?暁星の老後って大丈夫?牧師って年収っていくらぐらいなの?」

腹が減ったから昼飯を食わせろと言って煩い佳哉を、僕らの住まいである教会に連れて帰り、僕が牧師室の台所の戸棚をひっくり返して探しても目ぼしい食料は今サッポロ一番味噌ラーメンしかないと僕が言うと

「えー俺、塩ラーメンがいいなあ」

そんな贅沢を言う佳哉を拳で黙らせ、結局僕が作ってやった味噌ラーメンを食べながら、今週の週報、礼拝の時に使うプログラムのようなものだ、それを手に取って表紙の『教会挨拶文』を音読した佳哉がまたそういう無遠慮な事を聞いてきた、まあ毎度の事だけど。

「食えない。年収は言いたくない。大体牧師というのは職業じゃない、生き方だ。だから食い扶持についてはさっきの女子校で聖書科の講師をやってるだろ。それから葬式と結婚式の司式、あとそこの保育園の事務と補助。主任牧師の榎本先生は普段は大学教授だし、そう言うモンなんだよこの界隈は」

「そっか、暁星のパパも大学の先生だもんね、そう言えばママも教会でピアノ教えてたしね。副業しないとやってけないのが牧師業界の定石ってこと?なら暁星も僧侶に転向したらいいのに。寺、儲かるよ。最近はホラ、永代供養の合同墓地とか樹木葬とかもやってるし。俺の父親なんか普段カブで檀家回りして『慎ましくやっております』みたいな顔してるくせに流川のキャバクラ行く時はわざわざSクラスのベンツに乗って行って代行で帰って来るし、今ウチで副住職やってる兄ちゃんはレクサス乗ってるよ。どういう風にやれば宗教法人がそんな事になるのか俺は知らないけどさ、教会より寺の方が断然儲かるんじゃないの?」

「それはオマエん家に限った話だろ、それにその分実務と帳簿を1人で管理してるおばさんが大変じゃないか、方々に気を配ってさ。この前も僕んとこに電話あったぞ、息子がお世話になっておりますって。自分の母親とほぼ同じ年のしかも同級生のお母さんに電話の向こうで頭下げられた上に、お中元まで送られる僕の気持ちも考えろよ。お前のとこの真言宗の教えも大日如来の救いも僕は別に否定しないけど、お前んちみたいな家は困る、愛人が3人もいる父親が世帯主の家庭は嫌だ」

「懐かしいなあ、初対面の日の俺の自己紹介覚えてくれてんの?その愛人だけどさ、今5人に増えたよ」

「…おばさん、よく離婚しないであの家で暮してるな」

「婿取りの家娘だからね。親父って外面だけは満点だし、檀家が認めた住職を今更家から追い出す訳にはいかないんだよ」

あの破天荒なおじさんはともかく、おばさんにはちゃんと電話なり連絡なりしろよ。僕がそう言って鉢の底にあと少しだけ残った残りのラーメンを食べていたら、今度は部屋のインターホンが鳴った。教会の中にある2DKの賃貸住宅程の設えの居住スペースであるここには、一応入り口にドアに呼び出しのベルみたいなものがついている。過去に女性の副牧師がここに赴任した際に取り付けられたものらしい。でも大体の人はそれを鳴らしてから即、躊躇なく室内に自分でドアを開けて入って来る。お陰で僕はいつも気が抜けないし、ここが自宅とは言えあまりだらしない恰好でも居られない。

「先生いてはる?」

「あーおばあちゃんだ、何?卵焼き?」

佳哉が立ち上がり、例によって僕が部屋の扉を開ける前に婦人会の瑠津子さんが自分で扉を開けて中に入って来た。そうだ、今日は午後に教会の婦人会が秋のバザーの事で会合をするから会議室を使うって言われていたんだ。

「すみません、会議室ですね、今鍵あけますから」

「ええねん、まだ早いから。ハイ、これウチのとこの卵焼き先生達2人に」

「ありがとうございます」

僕はお礼を言ってまだあたたかいその包みを受け取った。

教会に集う人達は圧倒的に高齢者が多い。特に現代、日常を忙しく生きている若者は昼から教会に集って祈るとかそんな事はなかなか出来ない。大体皆仕事や学校がある。その証拠に、今、ここにいる若者は施設管理者である僕以外は暇な大学生に名を借りた無職の佳哉ぐらいだ。別にここにいるからって佳哉は主の祈りとか使徒信条なんかを僕達と唱えたりはしないけど。そもそもコイツは実家が寺でかつ大学で正式に真言密教を学んでいる癖に真言宗の禮文も三帰依文も覚えていないらしく唱えられない。

それで僕の赴任しているこの加茂北町教会の信徒もまた圧倒的に年配の、それも女性が多い。だから毎日曜の礼拝や、婦人会や祈祷会なんかの集会はちょっとした地域の老人会女性部の様相を呈す。その彼女達からすると僕のような新米の副牧師は年齢的には丁度孫みたいなものだ。そしてお年寄りというのは若者を見ると何か食べさせないといけないという使命感に駆られるものらしい。お陰で僕の周りにはいつも何かしら食べ物が集まって来る、実際僕はここに赴任してから少し太った。そしてこの瑠津子さんが

『若い副牧師にとにかく何かを食べさせたい』

そう思っている教会員の筆頭で、瑠津子さんがこの教会に所属してからかれこれもう数十年、歴代の副牧師は皆瑠津子さんの料理を食べて体重を増量してここを巣立って行ったらしい。実は僕の父も結婚前する前、初めて着任した教会がここで、同じように瑠津子さんの料理で体重を増量させて別の教会に赴任して行ったひとりだ。だから過去にここで働いていた牧師の息子である僕は瑠津子さんからすると本気で孫みたいなものだと、瑠津子さん本人からそう言われている。

その瑠津子さんはこの近くの女子大の寮で寮母をしていた人で、年齢は今年で78歳になる。寮母の仕事はもう随分前に引退して今は週に3回、錦市場の総菜屋で卵焼きを焼くパートタイマーの仕事を元気に続けている。それで3日にあげず売り物にならない少し焦げ目がつきすぎてしまった卵焼きだとか、自分で炊いた五目豆だとかをここに持って来てくれる。

油断していると佳哉が冷蔵庫の物をくまなく食べてしまう今、正直とても助かっている。

「おばあちゃんの卵焼き美味しいよね、俺が知ってる卵焼きの中では多分一番美味しい」

「せやろ。沢山食べ、先生も佳哉君も若いねんから」

そして、どうしてなのか佳哉はこの婦人会から絶大な人気を集めている。食事どころか最近は衣類まで貢がれているので、この先どんなに勧められても金銭は絶対に受け取るなと今から注意している位だ。その佳哉は、瑠津子さんが持って来た卵焼きの包みを勝手に開けて、中の一切れを手でつまんでそのまま食べた。

「佳哉、座って食べろよ」

「うん。あのさ、おばあちゃんの後ろになんかいるけど、それ何?霊?」

「佳哉、怖いこと言うな、ここにそんなものは出ない」

僕が、佳哉と僕の食べ終わったラーメンの鉢を食卓代わりにしている牧師室の会議机から流し台に移動させている間に佳哉は卵焼きの2切れ目を口に放り込み、次いで、牧師室の入り口を開け放ったまま入り口の直ぐ右側にある古い冷蔵庫に惣菜入りの小さなタッパーを次々にしまっている瑠津子さんの背後を指さした。

たしかにそこには小さな男の子が立っていた。霊じゃなくて。

「ああ、これ、ウチのひ孫やねん」

「あ…じゃあ、あの先月から同居されてるお孫さんの美香さんのお子さんですね」

僕がそう言うと、やる事がいちいち無遠慮な佳哉がその男の子の近くに寄って行き、更にしゃがんでその子に顔を近づけてから

「ねーおばあちゃんこの子、学校は?小学校は普通に今日あるでしょ?」

そう聞いて来た。またお前はいらんことを人に聞く。

「佳哉、お前、今から下の会議室掃除して来い」

「えーなんで?」

「いいから、綺麗に掃除して来たら後でガリガリ君やるから」

「ホント?じゃあさ、そこの…何だっけ、ひ孫も行こうよ、会議室の掃除、そんで終わったら暁星からガリガリ君貰って一緒に食べようぜ」

佳哉がその子を階下の会議室の掃除に誘うと、瑠津子さんの背後でずっと怯えたような顔をしていたその子は一言

「光」

「え何?」

「槙田光、ひ孫って名前じゃない」

そう言って名前を佳哉に教えた。『ひかり』な、分かった、行こうよ。佳哉がそう言うと留津子さんの後ろに隠れるようにしていた光君は意外と素直に佳哉と一緒に階下に降りて行った。佳哉はお年寄りと、そして何故だか子どもにも好かれる。

瑠津子さんは、佳哉と光君を階下に見送った後、僕に勧められて食卓代わりの会議机、それとセットで使っている集会用のパイプ椅子に腰かけ、そこで相談事というか、ちょっとした世間話を始めた。

瑠津子さんがご主人と死別したのはもう半世紀近く昔の事だ。ご主人と死に別れた時、瑠津子さんにはまだ5歳の娘さんがいた。周囲にあまり頼る人がいなかったらしい瑠津子さんはその娘さんの事を女子大の寮母をしながら1人で懸命に育て、その苦労の甲斐あって無事に成人した娘さんは20代の半ばで幸せな結婚をして、すぐに瑠津子さんには孫が生まれた、それが美香さんだ。瑠津子さんは娘夫婦と孫娘と共にこの教会のすぐ近くの古い町屋で暫くの間は穏やかに幸せに暮らしていた。でも今度は瑠津子さんが59歳の時にその娘夫婦が車の事故で突然亡くなり、瑠津子さんは還暦を目の前に今度は10歳の孫をまた1人で育てることになってしまった。

「その孫が先生の知ったはる通り、さっきの光のお母さんなんやけど、ひとよりほんの少し早うに結婚したのはええけど旦那さんやった人がちょっとアレで、この前やっと離婚して、元々住んでた大阪から夜逃げするみたいにしてコッチに引っ越して来たんやわ。今は下賀茂の料理屋さんで仕事さしてもろてて、美香ちゃんの暮らし自体はお金の事も含めて少し落ち着いて来たんやけど、そしたら今度は光が小学校から勝手に帰ってきたりするようになってしもたもんやから、おちおち仕事に行かれへん言うて困ってるんやわ。今日も学校からふらっと帰って来てしもてて、でもウチは今日は婦人会の用事があるやろ、仕方なしに教会に連れて来てん。あんな元気のない子を家で1人にしとくのも心配やと思てな。光は元々大人しいて手のかからんええ子なんやけど、ウチが光は何で学校に何で行きたないんやって聞いても、何も言うてくれへんのよ」

瑠津子さんの孫、美香さんは瑠津子さんの家に越して来てから一度、ついこの前の日曜礼拝に少しだけ顔を出してくれて、その時、年齢が僕と同じだと本人から聞いた。それで光君が今小学3年生なら、単純計算して20歳で出産と結婚を経験している事になる。そして最近離婚した。離婚の理由は元夫の暴力だそうだ、駆け足でかつハードモードな人生。その暴力というのが打撲や骨折を伴うようなかなり苛烈なもので、命の危険を感じた美香さんは一旦光君と一緒にDVシェルターに入所して身の安全を確保し、その間に弁護士を通じて離婚を成立させ、次いで元夫に対して接近禁止令の申し立てをして先月小さな荷物と光君のランドセルだけを持って祖母のいるこの街に帰って来たらしい。教会に勤めていると、礼拝とか聖書研究とか聖歌隊とか聖餐式とかそういう教会らしい仕事の他に、信徒の家庭の悩みなんかを聞く事が割とある。聞く事はいい、傾聴と共感、それも僕の大切な仕事のひとつだ。

ただここで問題なのは、僕自身が結婚も離婚も一切経験した事が無いことだ。まだ若くて人生経験というものに乏しい、当然子どももいない。だからこういう時、相手にどんな言葉を掛けたらいいのか全然分からない、最適解というものが経験則から見つけられない。

「…そうですね、その、そういうご夫婦だとかご家庭の事は、僕はとにかく若輩で妻も子どももいないものですから何とも言えないんですが」

僕は物凄く困った顔をしていたんだと思う、そうしたら瑠津子さんは笑って

「イヤやわ先生、そういうんやなくて光がな、友達もいてへんみたいやし、土日はお母さんの美香ちゃんも仕事で、1人で家に居ても暇そうやから、本人が行く言うてくれたら教会学校の方にたまに寄せてもらうかもしれへんからよろしくいうてそんだけの話しなんよ、あとは只の愚痴。ウチの人生はなんや最後の最後まで揉め事と困り事ばっかりや、ウチの憩いの泉は一体何処にあるんやろな先生。神様に何とかしてくれいうて先生からよう祈っといて」

「わかりました、祈ります」

僕にできるのは毎回こんな事くらいだ。誰かの為にひたすら真摯に祈る事、それが僕の今の一番大切な仕事だ。

そして、実はそれが一番難しい。

☞3

「ねー光ってさ、先月大阪から引っ越して来て、今そこの加茂北小学校に通ってんだよね」

「多分な、私立校に行ってるなんて聞いてないし、そうしたらここが学区の筈だ。光君、お前になんか言ってたのか」

「これはさあ、あんまり大人に言ってほしくないって光は言ってたんだけど、あの子、学校でかなりえぐい感じにいじめられてるよ」

その日、婦人会の会合が終わり、瑠津子さんと光君が帰ったのはもう夕方の遅い時間になっていて、僕と佳哉は交代で牧師室の古くて小さいモップの洗い桶みたいな風呂に入り、それから夕飯は冷蔵庫にあるもので炊飯器にある飯を勝手に食えと僕が言ったら、佳哉は冷蔵庫に頭を突っ込み、中に入っていた万願寺唐辛子をじゃこを炊いたのが入っているタッパーを開けながら僕にそんなことを言った。

光君が転校してきたのが学期の途中の少し中途半端な時期で、その事情を聞いた同級生に光君が一切何も答えなかった事、大阪から引っ越して来た光君のランドセルがこの地域の子ども達が持っている物と少し違った事、そして思慮深くて大人しくて口数の少ない光君の性格。きっかけはどれも些細な事だ。

「俺全然知らなかったけどさ、この辺の小学生ってランドセルじゃないだね、なんか謎の黄色とかあと青とか赤のリュックサックみたいなの背負ってんの、光なんだって言ってたかな、アレ」

「ランリュックだろ」

「そう、ソレ、何なのあの毎日遠足みたいなヤツ」

「ホラ、ランドセルっていいヤツは相当高いし、お安いヤツはそれなりで、家庭の経済状態が分かっちゃうだろ。それはよろしくないって事でこの辺の子はみんなアレを安く売ってもらえるんだよ、いや…貰えるんだっけか。まあそんな感じらしいぞ。京都と滋賀なんかもそうだって昔大学の友達が言ってた」

「へー、じゃあその子どもの貧富の差を目視させないいい考えが裏目に出たんだね、なんかソレと大阪から来た光の普通のランドセルがお揃いじゃないからって、クラスのガラの悪いのに因縁つけられたらしいよ、子どもってホントくだらない事気にするよね」

でもそのくだらない事のせいで、光君は最初、ノートやプリントの類を隠されたり捨てられたりするようになり、次に上履きがなくなり、それから給食に消しゴムのカスや小さな羽虫をのせられて、体育時間にドッヂボールで集中攻撃を受け、登下校中に同級生とそれに便乗した上の学年の子達からの小突かれるようになり挙句

「なんか最近はね、体育の時間ってさ、教室で体操服に着替えるじゃん、その時に4人ぐらいに押さえつけられて無理やりパンツぬがされちゃうんだって。それが一番きついって。それが嫌で帰って来ちゃうんだって」

そういう事態が起きてしまっているらしい。

「佳哉お前凄いな、よくそんな事、光君が初対面のお前に話したな」

「そう?だって俺いじめられっ子だったじゃん、俺もそうだったよーってハナシしたら、ポツポツって話してくれたよ。いいヤツだよ光って、そういうの先生に訴えた方がよくない?って俺が言ったらさ、そのせいでお母さんに担任から電話がいくとか、学校に呼び出されるとか、そういう事になったらお母さんに悪いなって、そう思ってるみたいだよ。なんか大変だったんでしょお母さん、美香ちゃんだっけ?ホラ、DV夫から離婚して逃げて来て最近やっと仕事見つけて働き出したとこだって、婦人会のばあちゃん達が言ってた」

それにさあ、9歳と言えども男だよ、それがパンツ脱がされてフルチンでクラスの連中に指さして笑われてますって、そんな事お母さんに正直に言うの相当きついよ。俺なら墓まで持って行くね、魂レベルの尊厳の問題だよ。そう言いながら佳哉は冷蔵庫の奥をあさって隠してあったビールを見つけ、ねえコレ飲んでいいと僕に聞いた。

「ソレ、貰いものの貴重なビールなんだぞ、半分な」

「えー暁星、聖職者なのに酒飲むの?」

「飲酒は教義上、別に禁忌事項じゃない」

「暁星ってさあタバコは吸うし酒は飲むし、なんか不良だよね、牧師なのにさ。あ、それなら、あの聖餐式?ほらこれはキリストの血ですって言う怪しい儀式の時用の赤ワイン飲んだらいいじゃん、あるでしょ下の冷蔵庫に」

「煩いな、アレは最近、ノンアルコールのぶどうジュースなんだよ、アルコールが駄目な人も多いだろ、何が面白くて風呂上がりにそんなモン飲まないといけないんだよ、ホラ半分」

佳哉は僕が差し出したグラスにしぶしぶビールを注いて、自分は缶のままそれを飲んだ。それで光君はこれからどうするつもりなんだろう、まだ9歳の男の子だ、味方が1人もいない転校先でこのまま耐えるつもりなんだろうか、転校についてなら何度も経験がある僕からすると、例えいじめが無くてもクラスで孤立したままずっと1人で過ごすというのは結構勇気と胆力がいる。僕は佳哉にそれを聞いた、光君は多分引っ越して来て間もない曾祖母の家にずっと引きこもる訳にもいかないと思っているのだろうし、母親にも迷惑をかけたくないと思っている。そんな光君は、あまり良くない方向に思考の舵を切ろうとしてはいないだろうか。

「ん-どうかなあ、基本いじめられると人間、彼岸が近くなるって言うか、あーもう最悪死ぬかっていう最後の逃げ道は1年365日、常に考えるようになるよね。でもさ、それって最後の柵っていうか川の堤防みたいのを飛び越えるのに凄い勇気いるからさ、流石に怖いみたいよ。怖い内は人間死んだりしないからそれは大丈夫だよ。でもそういう状態で生きてる時が人間一番辛いから、もしまた学校から逃げたくなったら、家じゃなくてここに来たらいいからって言っといた、適当に学校に電話しといてやるからって」

「は?ここにって、教会にか?電話って誰がするんだよ」

「暁星じゃない?だってホラここは『どなたでもご自由にお入りください』って入り口の掲示板に書いてある場所なんだし、重荷を負う物は誰でも私のもとに来なさいって聖書にも書いてあるじゃん、そこは牧師として頑張ってあげなよ」

「いやだって、僕が居ない時もあるだろ、高校の授業がある日は?そういう時に光君が来てこの辺で遅くまで1人でウロウロしててみろ、危ないぞ。あと『私の元に来なさい』ってそれは僕の所に来いってことじゃないぞ、僕は別に救い主じゃない、ただの副牧師だ」

「俺が大体いるから大丈夫だよって言っておいた」

「お前は大学に行けよ」

僕はこの話を、とりあえず光君の母親である美香さんには伝えておこうと思うと佳哉に話した。体育の時間に同級生から受けている暴力的で屈辱的な行為の事はともかく、学校から勝手に早退してきた時にこの教会に来る事があるかもしれない事は伝えておくべきだろう。何かあった時、お互いに困る。

「それにしてもさあ、こういうの、昔も今もあるんだね、俺の時はもっとえぐかったけどね、最近の子ってもっとドライって言うか、スマートなのかと思ってた」

「そうでもないだろ。それにえぐかったって、アレは僕達が14歳だったからだろ、9歳の小学生と発想は同じでも持ってる情報量とか、あとは力が全然違うよ」

「あの時は、暁星が俺の事を助けてくれてさ、あれからずっと暁星は俺の王子様なんだよね」

「だからその設定、気持ち悪いからやめろよ」



広島の中学に転校して来た僕が佳哉と初めて会った日、僕が佳哉に対して若干奇異に感じた事は、例えばそれは、佳哉の校則に反してだらしなく伸びている頭髪だとか、どの授業もくまなく眠っている姿とか、何かを語る時に婉曲と忌憚を捨ててしまっている言語表現だとかまあ色々とあったけど、まず最初に感じたのは、佳哉の座る座席が同級生の座席と妙に距離がある事だった。

確かあの時は1クラスの人数が30名と少し、座席は横6列縦5列になっていて、机が2つひと組で数センチだけ間を離してごく近くに隣接している、そういう並びだったのに、教室の中央に位置する佳哉の机の隣には誰も居なくて、その前後左右は妙に距離を取られていた。

それと僕が担任教師に案内されて佳哉の席の隣に座り、一応感じよく笑顔で「よろしく」と挨拶した時の同級生の空気。クラスにびりっとした静電気のようなものが流れた。でもその違和感の理由は、クラス全員の前に立って転入の挨拶を済ませた直後の休み時間に即解明された。クラスの副委員長をしている女の子が僕を教室の隅に引っ張って行って、小声でそっと

「ねえ、佐伯君の隣の高野って人にあんまり話しかけない方がいいよ」

そう教えてくれたからだ。高野は変り者で、クラスの男子の少しヤンチャと言うか粗暴なグループに目をつけられていて早い話がいじめられてるから、佐伯君もあんまり関わらない方が良い。特にグループの中心にいる身体の大きな男子には3年に兄がいて、中学生なのにもうカタギじゃないレベルに相当恐ろしいヤツだから何をされるかわからないよと。

どの転校先でも大なり小なりこういう事はあった。僕自身がいじめられることは少なかったけど、そういういじめの標的になっている子というのは、どこに行っても必ずクラスに1人位はいて、身に纏っている少しおどおどした空気とか、休み時間や放課後どこのグループにも属さずに1人でいる姿とか、給食の時間に一切言葉を発しない様子とか、数日観察していれば転校生という立場で俯瞰してクラス集団を見る事が癖になっていた僕には誰がそれに該当しているのかがすぐに分かった。でも、じゃあクラスの皆がその1人に石を投げているからと言って、我が身の保身の為に僕も同じようにその子に石を投げるのかと言われると、当時の僕にはそういう事はできなかった。いや、やらなかった。

そして、今でもそういう自分であると思いたい。

だから直接手を下してなくても、例えばこの話を聞いて、僕が高野君の、だから佳哉の机から僕の机を皆と同じように遠く離してそれで佳哉の姿がそこに無いように扱うのは僕の、いや、牧師である父が僕に教えてきた義に反する。だから僕はその女子の忠告は忠告として聞き、隣の席の同級生とは普通に付き合う事にした、まあ佳哉は大概寝ていた訳だけど。そうして佳哉を移動教室の時に起こしてやったり、教科書が無いと言えば見せてやったりしていた僕はその数日後、見事に佳哉の巻き添えを食う事になった。

佳哉と普通に会話をしていた僕の座席は、ものの数日で段々他の同級生達の座席と距離が出来て、1週間後には誰も僕に話しかけなった。そしてあの女子が僕に、アイツが佳哉をいじめている首謀者であると教えてくれたその男子生徒から

「オイ、佐伯はクリスチャンなんじゃろ、そんなら給食食べる前はちゃんと祈れや」

と言われたのを無視して給食をひっくり返される事数回、それから自分の教科書その他学用品を2階にあった教室の窓から中庭に投げ捨てられる事2回、体育の時間に背後からの飛びひざ蹴り3回、これは相手の体が中2にしては大きく、当時の僕が中学2年男子の平均からすると結構な細身で小柄だったことから僕が保健室送りになった。

僕は最初の内、この不当な暴力について担任教師に一応訴えてはいた。でも人を寄ってたかって叩いて喜ぶ連中というのは14歳にしてはとても周到な、というより姑息な性質を持っている。まず証拠というものを残さない、もしくは容疑の一切を否認するので、訴えられた教師の方も

「うん…まあ、明日教室でみんなで話し合おうや」

だとか

「誰が蹴ったのかわからないなら、何とも…クラス全員を疑う訳にもいかんじゃろ」

と言って根本的に問題解決をするという姿勢を持っていなかった、揉め事と厄介ごとは困る、そういう顔をしていた。でもそれは生まれてからずっとここの地元民だった佳哉から言わせると。

「あの、ホラ、いちばんデブのでかいやついるだろ、そいつの家がやばいから先生もあんまり強く言えないんだよ」

そういう事らしかった。僕は佳哉の言う『やばい』の意味がよく分からなくて

「それって何?親が何か怖い職業の人って事か?やくざとか?」

そう聞いたら佳哉は

「違う、右翼だよ。あいつん家、個人懇談に街宣車で来るんだ」

そう言った。やくざと右翼ってそんなの似たようなモンじゃないのか、寺と教会程の差もないだろ。それに向こうが街宣車で学校に来るなら佳哉の家は今度霊柩車で来たらいい。そっちの方が怖い。僕がそう言うと、その日は給食に防火用のバケツの水をぶっかけれらて給食を食べそこね、すきっ腹を抱えて放課後の教室の隅に座っていた佳哉は

「えーウチにはベンツはあるけど、葬儀屋じゃないからそんなの持ってないよ。暁星ん家の教会にだって無いでしょ、霊柩車なんて」

そう言ったし僕も

「ウチには車自体が無いぞ、貧乏だからな」

と言って僕ら2人は笑った。その3日後の事だ、佳哉がいつもの連中から体育の授業の後、体操服を教室で下着も含めて全部脱げと言われてそれを拒否し、体育館にある一番職員室から遠い便所に引っ張って行かれて、そこで結局裸に剥かれて、挙句和式トイレの中に無理やり頭を突っ込まれたのは。

僕が教室から居なくなった佳哉を探して現場に行った時、佳哉は結構な回数殴られてから既に3回便器の中に頭を漬けられていたらしく、無抵抗の状態の全裸でかつ軽く嘔吐していた。後から聞いたら便所の床に倒れた時にみぞおちを思い切り踏まれたのだそうだ。その場にいたのは佳哉の頭を押さえつけていた巨漢のリーダー格1人と、あとはいつものいじめグループの3人。

14歳の僕がその陰惨な光景を見た時『自分も今、同じ目に合うかもしれない』そういう恐怖よりももっとずっと先に怒りの方が僕の脳に到達してその感情のまま叫んでいた。

「お前ら何やってんだ、全員ぶっ殺すぞ」

それはまるで脳が沸騰しているような感覚で、実際あの時僕の首から上はとても熱かったような記憶がある。そしてそうなるともう当時の、14歳の僕には感情を理性で抑えると言う事が一切出来なくなった。僕はまず手近にあったモップ用の大きなバケツを窓に向けて思い切り投げつけて窓ガラスを割り、次いで佳哉の体を押さえつけていた体の巨漢のリーダー格に躊躇なくそして思いっきり頭突きをかまして、相手の額に結構な裂傷を作った。それ以後の事はよく覚えてない。

当時その現場にいた佳哉によると

「暁星ってさあ、頭に最高に血が上った状態になると、関西弁もろ出しになるんだよね。広島弁も大概任侠臭いけど、関西弁ってもうその比じゃなくてさ『お前ら何しとんねん、このクソが全員ブチ殺したる』って言いながら殴るわ蹴るわ。暁星はさあ、今も当時も細身だし背も高い方じゃないんだけど、理性のタガが外れちゃうとホント強いんだよね。まず先制攻撃でガラス割って次に相手が怯んだ瞬間に頭突きして敵の戦意を完全に削いで、その後は掃除用のモップ握って振り回してさ、向こうが4人がかりで押さえつけて来ても、相手に嚙みつくわ股間は蹴るわあとは顔面を執拗に狙って躊躇なく殴りつけててさあ、圧倒的だったよ、俺と違って喧嘩のプロなんだと思った、牧師の息子なのにね。俺あの日、便所で暴れてる暁星見ながら、愛と平和ってこの世の一体どこにあるのかなあって思ってたもん」

とにかくそう言う状態だったらしい。僕がこういう時に突然関西弁になるのは、生まれて8歳まで育ったのが大阪だからだ、普段はあまり出てこない。それで騒ぎを聞きつけた学年主任と担任が現場に駆け付けた時、佳哉のリンチ現場の体育館の便所には、頭から出血してしゃがみ込んでいるいじめのリーダーと、僕が執拗に顔面を殴ったために鼻血で顔中血だらけになった同級生2人と、全裸の佳哉。そして僕は額に酷い内出血と擦過傷を作り、顔面は鼻血だらけで、右手の長管骨にひび、それから殴られた拍子に左の6歳臼歯が折れた状態で、それでもあともう1人の加害側の同級生に馬乗りになってまだそいつの事を殴り続けていた。そしてそのまま満身創痍の計6名は職員室に連行され、その数時間後には例のいじめのリーダーの右翼の親が学校に乗り込んで来た。

「ウチの息子に怪我させたんはオマエか、どんな了見なんじゃ、今スグこいつの親呼んで来い」

そう言って職員室の応接セットの机を力任せに蹴り上げ、即、僕の父が電話で呼ばれた。あの時父は市内の私立大学で聖書学概論の講義をしていたはずだ。学校に駆け付けた父は、職員室の扉を開けた瞬間に右翼に襟首を掴まれて

「オマエは息子にどんな躾しとるんじゃ、ウチの息子は大怪我しとるんぞ」

そう言って詰め寄られたらしい。らしい、と言うのはこの時僕は既に佳哉と一緒に病院に連れて行かれていたからだ。そして職員室の扉を開けて3秒で右翼に詰められた父は、それに対して微動だにせず

「友の為に命を捨てる事を躊躇するなと教えております。今回ご子息に怪我をさせてしまった件については心からお詫びいたしますが、暁星には『神の義に反する位なら死になさい』と常日頃から伝えていますので、今回のこれが友人の為にその身を投げうった結果であると言うなら、私には息子を責める事は出来ません」

そう言って、必要なら貴方の事務所でも、警察でもどこにでも私が参りますと一歩も引かなかったらしい。当時も今も教誨師をしている父は、目の前に対峙した相手がどういう人間でも、たとえばそれが大量殺人の罪を犯した死刑囚だとしてもそれに対して『恐れ』というものを一切感じないのだそうだ。僕が教義上自由主義、リベラルの立場をとる牧師であるのに対し、父は昔からとにかく武闘派だ、ある種の原理主義者であるとも言える。

「お父さんが『恐れ』を感じるのは神様だけだから」

それが父の口癖で、流石の右翼もこの武闘派牧師を事務所に連れて帰って締め上げる事はできなかったらしい。第一最初に手を出して来たのはアイツだ。それでそれから僕らはクラスで疎外されている状態こそ変わらなかったが、あの酷い暴力行為を含むいじめ自体は止まり、この騒ぎの3日後、僕の家には立派な菓子折りを持った佳哉の母親が御礼を言いに来た。品の良いスーツ姿の優しそうな面差しの佳哉の母親は、僕の父と母、2人と大人同士の話をした後、帰り際に息子をどうかこれからもよろしくと言って14歳の僕に深々と頭を下げた。

その時、その佳哉の母親の謙遜な態度につい

「あ、ハイ」

と言ってしまったあの場所が教会だったのがまずかったのだろうか、佳哉をよろしくと言われてそれを了承してしまったあの返事が神の御前での誓いとなり、今日まで僕は佳哉の面倒を見続けている。佳哉はこの一連の出来事を

「いじめを何とかしようと思ったら、腕の1本位折ったとしても死ぬ気で切れて暴れる、それが一番手っとり早い解決方法だ」

という学びを得た貴重な経験だったと言っているが、僕はどうしてあの時、あんなに前後不覚になる程の怒りを感じて暴れてしまったのかが今でもよく分からない。でもまあ

「友達だから」

という事なんだと思う。そういう事にしている。

☞3

本人には絶対に言いたくないが、14歳の僕がやってしまったあの暴力行為は誰かの、この場合佳哉の為だから出来たのだと思う。あれが僕1人の問題だったらとてもあんなことは出来なかったし、やらなかった。それを考えると光君は今1人だ、仲間がいるといいんだけどな、そう思っていた週明けの月曜日の昼前、光君が教会を訪ねて来た。3時間目に体育があったんだそうだ。そして例によって同級生に服を、というかパンツを脱げと囃し立てられた。普段から開け放っている教会の入り口からそっと入って来た光君が礼拝堂を覗いた時、僕と佳哉は空調のフィルターを掃除していて、佳哉がドアの隙間からこちらを伺っている光君を目ざとく見つけ

「あ、さぼりだ」

そう言った、そうしたら光君は礼拝堂の扉を開いて中に入って来て

「なんでや、佳哉がいつでも来ていいって言うたんやん。佳哉だって大学はどうしたんや、お前大学生なんやろ、俺のお母さんと同じ年の癖に、変なヤツ」

そう言ってふくれた。うん、とてもまともな意見だ。僕は、佳哉に対して適切な意見を述べている光君の前まで歩み寄って

「あー…今日は学校普通に6時間目まである日だよね?途中で学校から出て来ちゃったのか、ウン、じゃあ一応、お母さんに連絡していいかな、学校が君のことを行方不明だって探してたら困るし」

そう言った、一応約束だから君のお母さんには連絡するよ。

「えっ、お母さんに連絡すんの?」

「一応ね。でも君がどうしてここに来てるのか、ホラ…その体育の時間にどういう目に会ってるとかそういう事情は一切言わない、それでいいだろ」

「オイ佳哉、あの話、佐伯先生に話したんか?この裏切者!」

「だいじょぶだよ光、この先生も昔俺と一緒にいじめられてた人だから。トイレで裸にされて不良グループから自慰行為を強制とか、日常茶飯事だったよ、ねえ暁星」

「そこまでやられてない、それはオマエだろ、あと小学生に滅多な事言うな」

え、何どういう事、ジイ?そう言ってくる光君に、佳哉の虚言の事はいいから、もし光君が給食を食べずに学校から抜け出して教会に来たなら、外のベンチで一緒に何か食うかと聞いた。そうしたら光君は少し考えてから黙って頷いたので、僕は佳哉と光君、2人を礼拝堂に残して2階の牧師室に食べるものを取りに行った。そして光君にその詳細を知られないように光君の母親である美香さんにメールで連絡をした

『今、光君が教会に来ています、夕方まで預かって家に帰します。僕らが話を聞いておくので、あまり叱らないでやってください』

料理屋で中居をしている美香さんは昼の営業中の時間帯には電話に出られない、でもメールは直ぐに既読になった。見てもらえたならそれでいい。それで僕は光君に『何か食うか』とは言ったもののそこにあったのは、例によって貰い物の惣菜パンと食パンとバナナとあと敷地内にあるこひつじ保育園で余ったからと榎本先生の妻でもある園長先生が僕にくれたテトラパックの牛乳ぐらいだった。簡素な内容だけどまあ栄養的には問題ないだろう。それで僕は外のオリーブの木の下ベンチで僕を待っていた光君に、部屋にひとつだけあったカレーパンを差し出して、佳哉に食パンを与えた。そうしたら

「えー、なんか酷い、光がカレーパンで俺が食パンだけって凄い差別じゃない?」

いつも通りの調子で佳哉が僕に文句を言った。

「お前、大人が育ち盛りの小学生に栄養がありそうな物を食べて欲しいと思うのは至極当然の事だろう、お前は育ち切ったもうすぐ29歳だなんだぞ、ちょっとは遠慮しろよ、子どもかよ」

そう言って僕が手に持っていた佳哉をバナナで叩くと、光君は僕らのやり取りを見て楽しそうに笑い、佳哉に自分のカレーパンを半分ちぎって渡してやっていた。優しい子みたいだ。こういう優しい子は、ストレスの多い小集団の中でそのはけ口の標的になりやすい。

「それ食べたら、僕は今日はこのまま教会で掃除とか明日の授業の準備とか色々仕事があるから、光君はここで宿題なんかをして、下校時間になったら家に帰ったらいいよ。お母さんは昼の営業が終ったら一旦家に帰って来るんだろ、学校を抜けて教会に来た件はあまり叱らないでやってほしいって、さっき2階の牧師室でお母さんにメールで伝えてあるから」

「うん、そうする。それであのさあ先生、俺ひとつ先生に頼みがあるんやけど」

「え、何?」

「先生、ここの牧師なんやろ」

「光、違うよ、ここの牧師は榎本先生って言うもっと威厳と権威のある還暦手前のおじさんだよ。暁星は副牧師、この教会の下っ端で、毎日掃除ばっかりしてる未熟者だよ」

「佳哉、煩いな」

「どっちでもいいよ。あのさ、信じる者は救われるんだろ、俺、今日から神様とかそういうのを信じる事にするから、神様に頼んで俺の同級生のアイツら全員殺してくれよ」

前言撤回、意外と過激だ。

「光君あのさ、ここの神様はそう言う事はしないんだよ。人間は誰しも罪を犯すし、同時にその赦しを神様に乞う事が出来る、それで神様は僕達の罪を赦すって言うのが教義…これ難しいかな、とにかくここにあるのはそういう教えなんだよね。教会に集まる僕達は神様みたいに寛容にはなれないけど、せめて相手にされたことを恨んで報復するんじゃなくて、それを心に留めずに生きる、そういう人間を目指そうって…うん…先生の言ってること分かるかな」

「全然わからへん」

「そんなこと言って、俺が超絶いじめられてる時に相手の事、拳でバチボコに殴りつけて相手が大怪我するレベルに盛大に報復したの暁星じゃん。それに聖書じゃなかったっけ、ホラ『目には目を』って書いてあるの」

「バカ、それはその後に『悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬も向けなさい』って書いてあるんだよ。同害報復を禁じているんだ。人間が毎回やられたことをやられたように報復してみろ、その先に待ってるのは何だ、戦争だぞ」

「じゃあ、報復合戦になる前に相手の息の根を止めてやればいいんじゃないの。俺なんか14歳の頃に同級生にやられた事全部綿密に記憶してるし一切許してなんかないよ。いつか真言密教の奥義を手に入れたらあいつら全員呪い殺す位の気持ちでいるけどな」

「呪いの授業なんかシラバスに載ってなかっただろそんなモン。そもそもお前は今日も大学に行ってないし、ホントいい加減にしろよ」

僕がそう言うと、光君はゲラゲラ笑いだした、光君にとって、僕らのやり取りはとにかく面白くて可笑しいのらしい。佳哉って佐伯先生と同じ歳で友達なんやろ、なんでそんな子どもみたいに叱られてんの、そう言って腹をかかえて笑っていた。だから僕は報復の祈りの依頼は受けられないけど、僕が居る日の夕方ここで宿題をする位のことは請け負う、佳哉は小学生並みの精神年齢だけど頭だけはものすごくいいから宿題を教えてもらえるし、そんなのでもいいならここにおいで、そう言うと光君は少し笑って頷いてくれた。




結局、光君が家に帰ると言って教会を出たのは、その日の5時前で、それは光君が宿題を終えた後に佳哉が自分の部屋というか巣にしている牧師室の一角からスイッチを持ち出して来て、一緒に遊ぼうと言って光君を引きとめたからだ。本当に佳哉の精神年齢は光君と同じ9歳か、いやそれ以下だ。

「ねえ、暁星、今日夕飯何食べる?」

「なあ、お前ってもしかして本気でここに4年間住み続けて、挙句毎日僕に食事の世話をずっとさせるつもりなのか」

光君が帰って急に静かになった教会のホールで、僕はあらためて佳哉にこの先の事を聞いてみた。僕はここに赴任しているだけで、この先招聘されたら、沖縄でも北海道でもどこにでも行く事になるんだぞと。要はあと数ヶ月かせめて数年の内にちゃんと自立する気はあるのかという事を。でもそれに対して佳哉の答えは

「え、だって俺料理とか全然できないし、4年と言わずにずっと一生こうでもいいと思ってるけど。あと10年も待てば法律が変わって、パートナーシップ条例とかじゃなくて、正式に法律上の結婚だってできるようになるかもしれないじゃん、俺達2人」

そういうモノだった。何なんだよそのプロポーズは。

「仮にだ、もし日本で同性同士の結婚が正式に認められて法整備もされたとして、それはめでたい事だけど、何で僕がお前と結婚しないといけないんだよ。僕はセクシャリティ的には完全にヘテロだぞ、多数派で普通で平均的で凡庸な男だ」

「俺もどっちかと言うとそうだと思うよ。でも俺、暁星の事大好きだし」

そういうの気持ち悪いからやめろ。というのはもう言い飽きたので、僕は黙っておいた。佳哉は僕にとって一番付き合いの長い友人だし、そして尊敬できる点も良い所も実は沢山あるんだけど、なんか変なヤツなんだよな、昔から。

「そんな訳で今日は、さっき昼にお前が食べたパンを最後にここにはもう何もない、弁当買いに行くぞ」

僕らがその結婚の話を切り上げて、昼に食パンを1斤全部食べてしまった佳哉のせいで本気で何もなくなった牧師室から財布と携帯だけ持って外に出たのは5時半頃だった。僕らの暮らしている教会から、鴨川沿いに少し北に上がると、小さなスーパーと弁当屋がある、そこで買い物をしてまた鴨川沿いを下って帰ろう。夕方のこの時間は大学の5講目の丁度終わり頃、近くの国立大と府立医大からその最寄り駅に向かう学生が大勢並んで歩いていて、近所に住んでいる人達が犬の散歩なんかをしている人通りの多い時間帯だ。子どもも少しまだ川辺の広場で遊んでいる。佳哉は京都に来てからこの辺りをとても気に入っていた。特に丸太町のあたりなんかは、広島の太田川の河川敷によく似ているのだと言う。

「光ってさあ、この先、どうすると思う?いっそ不登校ってことにして、毎日教会に通うとかしないかな」

佳哉が僕の金で買った弁当を右手にぶら下げてゆっくり左右に振りながらそんな事を言うので、僕は

「教会はフリースクールじゃないぞ、それにいじめられている人間が学校にいけなくなるのはおかしいだろ、本来ならいじめてるやつが出席停止とかになるべきだ、光君は何も悪くないんだから」

そう言った。話し合いとか、教師が諭すとかそういう事ではあの手のいじめはなかなか止まらないんだよな。同じ空間から一方を追い出さない限りは。もしくは加害側に確実に不利益になるペナルティを課すとかさ。

「だから、暁星がその悪ガキ達をバチボコにやっちゃえばいいのに、昔みたいにさ。そしたら万事解決だよ」

「あのなあ、今そんな事僕がやったら普通に捕まるだろ。それにあの14歳の時の事は若気の至りというか、相手を赦せなかった僕の理性と信仰の敗北なんだ。それに今日も言ったけどな、目には目をっていう考え方では、本来何も変わらないんだぞ。何より僕は牧師で、恫喝とか暴力は絶対にしてはいけない立場の人間なんだから」

僕らは買い物袋をぶら下げて堤防の上をゆっくりと歩いていた。そうしたら、佳哉が鴨川の川辺にある野球場位の広場あたりをじっと見て

「あ、光だ」

指さしたその先に光君と、同じ背丈の多分同級生の男児が4人、光君を取り囲むようにして何かをしていた。

「光君、まだ家に帰ってなかったのか、何してんだアレ」

「多分だけど、殴られてるね」

「あいつらか、いじめてる連中って」

下、降りようか、佳哉がそう言って、僕らは川べりの歩道になっている部分に設えられている長い階段を使って光君たちのいる河原に向った。鴨川に降りるための階段は2つ飛ばしで降りても結構長い、そしてそこから光君のいる広場まではまた結構距離がある、その間に光君は周りを囲んでいたウチの体の大きな1人に押し倒されて、残りの3人に体を押さえられて

「アイツら、多分光の着てる服、脱がそうとしてるね」

光君が以前言っていた、一番屈辱的なやり方で光君に嫌がらせを始めた。僕はそれを見ながら階段を下りるごとにだんだん腹が立ってきた。と言うよりあの14歳の時と全く同じ感覚と速度で頭に血が上って来て、階段を下りながら佳哉に何故だか小声でこんな事を言っていた

「あのな、佳哉、昔第二次世界大戦の時期にホロコースト、分かるな、ナチスドイツがやったジェノサイドだ、それを目の辺りにして、牧師として何とかできないかって考えた人がいた」

「何、どしたの急に歴史の話?それより暁星急ごうよ」

「その人はな、はじめは平和的な解決方法を模索したんだ、自分達の信じる福音と神への祈りは戦争を止められないのかって、でも最終的にはヒトラーの暗殺計画に加担することになる。汝殺すなかれ。それは確かにそうなんだけど、でも隣人のためにその罪を自ら引き受ける者が今この時代には必要なんだって、そういう結論に至ったんだ」

「だから何」

「僕はやっぱり拳で解決するぞ」

そう言ってから、僕は猛然と光君の所に走って行った。

「オイこらクソガキ!舐めた事しやがって、全員警察か児相に突き出したる」

僕は流石に子ども相手に14歳のあの時のように暴力は振るわなかったが、大声で恫喝はした。あと光君の体を押さえていた3人の襟首をつかんで喧嘩している野良猫にするみたいにしてそこから引き離した。そしてその悪童全員を河原に正座させて、お前らが今やっている事は暴力で、さらに言うと犯罪で、1人の人間の尊厳を根幹から奪う人間として最も恥ずべき行為だ、今からお前らの事を通報ないしは通告するから、警察か児童相談所どっちがいいかこの場で選べと言った。勿論はったりだ。こんな事では警察も児相も動かない。でも僕は大人で相手は9歳の子どもだ、相当に恐ろしかったのだろう。泣きながらごめんなさいと僕と光君に謝罪して

「二度とするな」

そう僕が言うとあとは蜘蛛の子を散らすようにして逃げて行った。そして佳哉が抱き起してやっていた光君は僕の関西弁というよりこれは大阪弁なんだけど、それがまる出しになった巻き舌の恫喝を聞いてぽかんとしていた。佳哉に言わせると、こういう時の僕は人格が入れ替わったみたいに見えるのだそうだ。

光君の洋服にはところどころに泥と草がついていて、倒された時に頬にすこし擦り傷を作っていたが、幸いそれ以外に大きな怪我はないようだった。

「先生ありがと」

「ウン、まあ、僕はまた理性が勝てなかったと言うか…まあ光君に怪我がなくてよかった」

怒鳴っちゃったよ、僕はそう言いながら光君のランドセルを拾ってそこについている泥を払ってやった。佳哉も光君の脱げて遠くに飛んで行っていた靴を拾ってきて光君の足元に置いてやりながら

「まあこれで光のいじめも一時的には静かになるんじゃない、大人の恫喝って子どもにとっては相当怖いでしょ、特に最近の子って親でも先生でも、こんな訳わかんない程自分達の事怒鳴る大人って周囲にいないだろうからさ。それでもしまたいじめが再燃したら、暁星が学校に行って、光の背後であの連中を脅してやればいいよ、ナマハゲみたいにさ」

そういう呑気な事を言うので、僕は

「バカ、お前、僕がさっきやらかした事も結構アレだ、今日の不審者情報メールに流されるような案件なんだぞ。20代の男が下校途中の小学生を意味不明の大声で怒鳴りつけました、気を付けましょうって。本当は尻のひとつも叩いてやりたかったけど、それは最後の理性が押しとどめたんだ。お前、もし教会に僕を不審者疑いで聴取に来たりなんかしたら、僕の事擁護しろよ」

そう言ったが、佳哉は

「えー俺、仏の道の上に立ってる人間だよ、嘘なんかつけないよ」

面白がってこんな事を言う。お前その弁当返せよ。それにな、この手の事に関与と言うか介入するのは本来とても難しいんだ。今つい頭に血が上って『このクソガキ』なんて叫んだのは最高の悪手だ、戦法としては最悪と言うか、でも光君が僕の顔を見上げて笑顔で

「俺、さっき、もう川に飛び込んで死ぬしかないって思ってたから、先生が猛スピードで走って来てアイツらの事怒鳴りつけた時、本気で嬉しかったな。大阪のお父さんのとこから逃げて来て、お母さんとひいばあちゃん以外の誰かが俺の味方になってくれたのって初めてかもしれない」

そう言ったので、まあいいかと、そう思った。光君は先生が警察に聴取を受けるような事態になったら俺が証言してやるから安心してと言ってくれた。とりあえずは大丈夫だとは思う、そう思いたい。神様、頼みます。




その日は、そのまま光君を家まで送り、すっかり遅くなってから、教会に戻り冷めてしまった弁当を腹が減っていたので特に温めたりしないで2人で食べた。佳哉は向かい合って静かに弁当の白身魚のフライを咀嚼する僕に

「やっぱりさあ、目には目を、だよね」

まだそんなことを言うので、だから同害報復には何の意味もないんだぞと僕は言い、佳哉の弁当に僕の弁当のプチトマトを放り込んだ、佳哉はトマトが好きだ。そして僕はトマトが嫌いだ。

「あとさあ、あの河原に降りてる時に、暁星俺に急に第二次世界大戦の話し始めたじゃん、アレ何?ヒトラー暗殺計画に参加しちゃった牧師さんて実在の人物?」


「ディードリッヒ・ボンフェッファーってホントにいた人だ。ドイツの福音主義教会…とにかくルター派の牧師、僕はその人で修論書いたんだ、凄い人だぞ」

「へーじゃあその人ってさ、暗殺計画を企ててその後どうなったの、成功したの」

「お前なあ、ヒトラーは暗殺なんかされてないだろ。その人はな、計画を目前に逮捕されて収容所に送られて終戦の直前に絞首刑になったんだよ」

「こわ」

「だからな、結局そういう…同害報復でもないけど、暴力での解決っていうのはいずれ遠からず身を亡ぼす事になるんだ。僕の父親が言うみたいに『義に反しないで生きる』って本気で難しいんだぞ」

今日みたいな、理不尽な暴力や状況に対峙した時、一体何が解決方法なのか、それでどう相手を救うのかって言うのは僕は全然よくわかんないんだ。でもこういう仕事をしていると誰かの本気の悩み事とか、命に係わる問題の解決とかそういうのを求められることがあるんだ。僕はそういうの本気で全然駄目なんだよな。『祈る』ってそれは実は全然実弾じゃないし、向いてないのかもな牧師、そう言うと佳哉は僕に

「いいんじゃないの、衆生を救うのは仏の仕事で、俺ら僧侶の仕事じゃない、俺達はただの仲介者でしょ。それに俺は14歳のあの日に暁星が便所であいつらの事殺すかって勢いでボコボコにしてくれた時に超、救われたから。それで今日まで生きてるんだ、同害報復で1人の人間を救ってんだよ、だからそれはそれでいいじゃん」

そう言って、僕に卵焼きを寄越して来た、卵焼きは佳哉の好物で、同時に僕の好物だ。

「お前って、たまに物凄くまともな事言うよな」

「ウン、俺の事好きになった?」

「ならない。お前さ、そんな立派な僧侶としての心構えと自認が既にあるんなら、いい加減ちゃんと大学に行けよ、それで近いうちに自立しろ」

「んー考えとく」

佳哉はそう言ったけど、コイツは多分ここに僕がいる間は出て行かない気がする。そして僕の勤め先で住まいである教会には、いじめが一切なくなったという訳ではないけれど、少し状況はマシになっているという光君が学校帰りに顔を出すようになった。

佳哉は相変わらず、自分の飯の面倒を全然自分で見ない。

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