見出し画像

小説:ロスタイムのふたご(コンビニ幽霊2)

こちらは下記の小説の続きになります。そしてまだあと1回続きます。この手の媒体の中では多分かなり長いものです。それでも「ひまだし読んでやろうかな」と思ってくれたあなたには本当にありがとうございます。ほとんど素人の書き手である私に読み手のあなたがあるというのは本当に幸せなことだなあと思います。

「ねえ、一緒に旅行行こうよ、今私ね、お供の犬とキジと、あと何だっけ…ああサル?そういうの募集してんだけど」

そういう少々浮世離れしたおとぎ話のような、それでいていささか不躾なものの言い方をするのがヨルという人間なのであって、サルとキジと犬の中で僕は犬なのだと言う。僕は、ヨルのこの物言いに慣れているので別段何とも思わないけど。

『ヨル』という人間の名前としてはちょっと不思議な響きのこの女の子とは最初、僕がほぼ深夜シフト専門のバイトをしていたコンビニエンスストアで出会った。僕が店員でヨルが客。その頃の僕は、兄を、それはもともと身体機能が僕と比べて欠けだらけで、辛うじて残された正常に機能している部分も時間をかけてじわじわと剥奪されていく、とにかく誰にもどうにもできない病気であった双子の兄を亡くしたばかりで、それで世界とか自分とかそこにあるものをほんの少し、いやかなり嫌悪し、将来とか未来とかそういうのは自分にはもういいやと、そう思って自宅の近くにある大学病院のコンビニでバイトをしながらごく適当に決めた予備校で浪人生をしている頃のことだ。でもその『ヨル』という名前は本人曰く『長患いで死にかけの小児病棟の高校生』であった彼女が僕に名乗った仮名にして偽名なのであって、去年の夏の終わりに大きな手術を終えて患者である状態を一時的にやめた今、もう白々とした病院の灯りの下ではない、昼間の柔らかに強い陽光とやや冷たくよそよそしい秋の空気の中、人として現実の肉体を持つに至った彼女の本当の名前は依里、森本依里というのが彼女の名前。

でも僕は相変わらず彼女のことをヨルと呼ぶ。だってヨルは、ヨルだし。

「旅行?僕と?どこに?何で?」

「シュウとだけじゃなくてさ、真里とあと、ああ康太先生って今ヒマ?ヒマなら誘ってみてよ」

ヨルは、これはまあいつものことだけれど、さっき突然僕に電話をかけてきて躊躇とか留保とか時候の挨拶とかそういうのを一切抜きにして最初にまずひとこと「ねえ、いまどこ、ヒマ?」と言った瞬間に僕のいる教室に飛び込んで来たのだ。ヨルはとにかくせっかちだ、そして一体どうしてなのかは分からないけれど動物的に勘が良い。あれはいつだったか僕が

「あのさあ、ヨルのその思い立ってから行動に移すまでのタイムラグが1秒も存在していない感じって何?癖?もしかして血圧とか高い方?」

あと何でいつも僕の居るところがそんなにすぐに分かるんだよ、そう聞いたらそれは

「そんなの、自分の人生が短いってあらかじめ身に染みて知っているからに決まってるじゃん。私はね、残り時間が普通のひとより少ない分、色々と急いでんの。それから私がシュウの居場所がわかるのはアレだよ、GPS」

「え、うそ、マジ?GPS?どこに?」

「うそだよ」

ということらしい。でも僕はヨルのこの諦念のようなものをあまり好まない。せっかちなのはいいんだけど、人生が短いだなんてそんなこと僕に言わないでほしい。僕は17歳の時に自分の半分である双子の兄を亡くしているのだし、それに君とずっと連絡が取れなくなった去年の夏から今年の春まで、本人曰くそれは前人未到の大工事であると、そういうとんでもなく大掛かりな手術を受けてその後はそのまま長くICUと呼ばれる脱出不可能・難攻不落の場所に幽閉されることになるし、その間、意識なんかはほどんと無い、だからもしかしたらこれが私の意識下最後の対面で永遠のお別れかもね、なんて言っていた君から本当にいくら待っても何の連絡も無くて、当然深夜のコンビニにふらりといつもの水色のフーディーを着ていつものミルクティーを買いにやって来ることも一切なくて、だからきっと君はもう本当にこの世のものではないのだって、惜別の挨拶も交わさないまま君の命は僕の立ち入る事のできない静かな場所で命の終焉を迎えてこの世界から音もなく消え焼かれて白い骨になってしまっているのだろうって、僕はあの頃にそう思い込んでしまったものだから、その時から突然発生した体のあちこちが、腕も脚もそれぞれの末端にある指も爪も、その全部がちぎれてしまうくらいの強い痛みに似た感情を僕は飲み込むことも吐き出すことも、本当にどうすることも出来なくて、それがどうしようもなく苦しくて、結構泣いたんだぞ。

だからって訳じゃないんだけど、ヨルにはこっちの世界に残される人間の気持ちっていうのかな、そういうの、少しは考えてほしい。

「僕は今の試験が終わったらまあ何とか…でも真里は忙しいだろ、医学部って必修の授業数が1年からとんでもなく多いんだぞ。それと康太はヒマとかヒマじゃないとかそれ以前にさ、そういうのは駄目なんじゃないの、康太がヨルと旅行に行くとかさ」

「なんで?」

「なんでって…だって康太はこの病院のPT…理学療法士で、まあとにかくここの職員で、ヨルは患者だろ、それどころか康太は小学生からつい最近まで入院中はほぼ専従ってカタチで担当してたんだろ、ヨルを」

だからさ、そういうのってさすがにまずいんじゃないの。

僕は至極マトモなことを言っていたはずだ。この時、僕とヨルは去年の夏にはいつも僕らの姿がそこにあった深夜の大学病院のコンビニではなく、そのコンビニのある病院とは建物同士が1本の細い渡り廊下で繋がれている大学の中庭のプラナタスの木の下のベンチに座っていて、それで丁度今は勤務中できっといつもの大股の速足でフロア中を忙しく歩き回っているのだろう康太のいる病院の1階部分を指さしてヨルのその旅行の提案の一部に少々の難色を示した。

それは康太の立場的に駄目だろ。

とはいっても康太はそもそもが女の子を、性愛の対象として好きになったりはしない類の人間ではあるのでそこには愛も恋もセックスも、その手の問題は康太とヨルという2人の人間の間には一切発生しないのだけれど。でも康太はそういう自分の内側にある色々をごく親しい人間にしか話していないし、いくら長年の付き合いであるとは言っても本来は患者と病院職員という間柄であるヨルに流石の康太だってそういうごく個人的で微妙な部分のことまでは明らかにしてないだろう。それに康太っていま幾つだっけ、僕より7つ年上だから今年28?とにかく30歳近くて、一方のヨルは18歳で、そして2人がそれぞれに持ついろいろの細かい諸事情をすべて世間の多数派の一般常識に当てはめてしまえば、2人はあまり個人的な付き合いを極力しないでいた方が妥当である男女なんだ。そういうやや面倒な事を頭の中でぐるりと逡巡してから

「あのさあ、世間一般ではそういうのってあんまりさ」

言葉を濁しつつも僕がそういうのはよくないんじゃないなかと言ってみたものの、僕のこの手のごくまっとうな意見にはほぼ100%確実に瞬間的にやや早口で言い返してくるのがヨルだ。

「世間一般て何?それってどこの誰?知り合い?友達?シュウに友達なんか康太か真里か私ぐらいしかいなくない?そういう目に見えないフワっとした無駄なきまりごととか枠組みみたいものが個人的に私に優しくしてれた事なんかかつて今まで一切ぜんぜん全くないんですけど。シュウはあるの?ないでしょ?なんかさあ最近のシュウっておじさんみたい。いいからとにかく康太先生に聞いてみてよ、依里が死ぬ前に旅行に行きたいんだって涙ながらに訴えてたって言ったら康太先生なら基本的に私に甘いから絶対言う事聞いてくれるよ。良いか悪いかは康太先生が判断することでしょ、向こうの方がずっと年上で大人なんだから。あとさ、真里?あの子全然忙しくなんかないよ、平日週5で毎日違う男と遊んで歩いてんだよ、凄いヒマだよ、毎日授業とそのレポートに追われてる往年の現役女子高生の私の方がずうっと忙しいと思うけど」

ヨルは、去年の、本来の高校3年生であった1年をほとんど病院の天井を静かに眺めながら暮らしていた為に今もまだ高校3年生だ。ヨルは意外にそれを気にしているので、僕はいつも自分が2浪している事を引き合いにだしてはそれを「まあたいしたことじゃないよ、僕に比べれば」と言う。そして真里はいつも「まあシュウよりはましだよね」と言う。

「ヨルのはアレだろ、オンデマンド授業でリアタイじゃないヤツだろ。だから今だって昼に自由に出歩いてるじゃないか。ヨルはそういうさあ、自分の命を担保にして人を脅すようなこといつも言うけどそれって何、それも癖?そういうのやめろよ、康太が泣いちゃうだろ。知ってると思うけど康太は度を越して他人に優しくてヨルの300倍ぐらいココロが繊細なんだぞ。あと真里は男と遊んでるわけじゃないだろ。そもそもウチの大学の医学部って極端に女の子が少なくて男ばっかりなんだからさ、学部の友達が男だらけになるのはしょうがない事なんじゃないの、看護学部とは違うんだから」

僕がそう言うとヨルはちょっと不貞腐れたような、何だか面白くなさそうな顔をして急に僕の脇腹を掴もうとしてきた。僕は、自分の要求を即答で全面的に同意しない僕のことが気に食わないらしいヨルの腹いせの攻撃を仕掛けて来ている小さくて白い手を自分の掌でかわしながら、できるだけ嫌そうに眉間に皺を寄せて見せたけれど、そんなことで攻撃の手を緩めないのがヨルだ。それでヨルの細くて白い指先が僕の脇腹部分に、それは僕の着ていたスウェットとかフリース越しではあるけれどそれが到達した時、それがあんまりくすぐったいものだから不快そうなフリをしていた筈の僕の頬の筋肉が緩んでほんの少し笑ってしまった。やめろよ、僕だめなんだよ脇腹、それにヨル程じゃないけど僕にだって掴んでひっぱるような脂肪なんかぜんぜんひとつもないんだからさ、あっても皮だよ、皮。

「真里のは違うよ、本気で週2は友達に誘われて遅くまで遊んで歩いてるし、あとの3日はそれぞれ別の男と会ってるの。真里さ、今付き合ってる男っていうのが3人いて、その3人は真里に3股かけられてるの知っててその上で真里のことを競ってるんだって」

ヨルが突然自分の双子の妹である真里についてそんな風に言うので僕はちょっと驚いて

「は?真里に?男が3人?それって友達だろ?ただの友達」

そう言ってヨルの顔を覗き込むみたいにしてヨルの言った事を2回、聞き直した。

「違うよ、本人がそう言ったんだもん。アレ夏休みの前かな、私が外来でここの病院に来て、ここのほら、その大学病院と向かい合ってる医学部校舎の自動扉のとこでとんでもなく軽薄そうな…アレは学生じゃなくてここの職員かなって感じの背の高い男が妙に真里にくっついて歩いてるの見て何か見たことある男の人だなって思って。それで家に帰ってから『今日大学で一緒に歩いてた男って誰?付き合ってんの?私の知ってる人?』って聞いたらさ、真里がホッキョクグマって白いでしょって言う時みたいな、さも当たり前でしょって顔して『そういうのって今3人いるけど、その中のどれのこと?背の高いおじさん?眼鏡のゴリラ?チャラい赤毛?』って言うから私流石にびっくりして心不全起こすかと思った。大体さあ私なんか友達すら、康太先生は仲良しだけど友達とは少し違うし、だから今生きてる界隈では世界でたったひとりシュウだけなのに、真里の方は友達じゃなくて付き合ってる男が一度に同時並行で3人だって、ねえそれってどういうこと?真里っていったい何考えてるんだと思う?」

「あのさ、3人同時並行の前に何その『生きてる界隈』って」

「ああ、病棟とかで仲良くしてた友達のこと、私以外みんな死んじゃったの、同じ歳の子ももう少し小さい子もみんな全員」

「ああ…そういう」

ヨルは時たま何気ない会話の中で近所に住みついている猫の話のような、その日のお天気の話をするような口調でこんな事を言う。そんな時僕はどきりとして少しだけ心臓が早鐘を打つと言うのかな、脈が速くなる気がするんだ。僕の方が心不全だよ。元々『幽霊のようなもの』と自分のことを名乗っていたヨルの死生観というものは、彼岸と此岸の境目というものの位置感覚、あちらとこちらは、その手の言葉の持っている意味は、そういうもののすべてはヨルと僕とで少し違うみたいだ。

「それなら僕はあんまり死なないように気を付けるよ。それとヨルは何?真里が羨ましいの?それか真里が自分じゃない他の誰かと仲良くしてるのが嫌だとか?あるだろ女子ってそういうの」

「は?何その『女子』って、それってまさか日常的に四六時中一緒に行動してトイレにすら一緒とかいう完全共依存関係的なやつ?ばかじゃないの。全然違うし、子どもかよ」

どうも僕の言い方が気に入らなかったらしいヨルは僕の脇腹のみぞおちのあたりにぐいとその小さな拳を躊躇なく入れて来たので咄嗟に僕はヨルの手首をつかんだ、ヨル、それは流石に痛いよ、悪かったって。

「寂しくないし羨ましくもないしヨルはもう大人なんだよな、わかったよ。でも真里のそれって大丈夫なモンなのかな、3股かけられてるってそれぞれの男が知ってて、各自それを納得ずくですって口では言ってもさ、それは何て言うのか建前っていうか上辺のことであって、ホントのとこそいつらはそれぞれに心中は穏やかじゃないんじゃないのかなあ。人間って、我とか欲とか嫉妬?そういうものからはそう易々とは自由になれないモンだと僕は思うけど。いつか真里をめぐって刃傷沙汰とかそういうのが起こる前に止めとけってヨルから言ってあげた方がよくない?」

そういうの、双子で同じ歳とはいえヨルの方が一応姉なんだし、家族なんだし、同じ家で毎日顔を合わせているんだから止めてやったらいいのに。ヨルと真里の2人は、ひとりはごく普通の健康な身体の人間に、もうひとりは身体の構造がとても特殊でそれ故に生存能力のごく薄い脆弱な身体の人間に、それぞれが身体機能を極端に真逆の方向に割り振られて生まれて、その運命のようなものからどうしても生まれ出てくる理不尽であるとか不平等であるとかの感情に懸命に抗いながらすれ違いながらそれでも互いを大切に想い合おうと、そう在り続けたいと願っている姉妹であるのだし。

去年の夏、病棟の消灯時間が過ぎてすっかり閑散として無機質な空間になった病院のコンビニにヨルのことを訊ねて来て、それで知り合ったヨルの双子の妹である真里と僕は今、学部は真里が医学部、僕がリハビリテーション学部とそれぞれに違うけれど同じ大学に在学している。僕は真里より2つ年上だけど2浪しているので僕らは同じ学年だ。そうなると意外に普段大学の中でもよく顔を合わせるもので、つい昨日も昼時で酷く混雑している学食ですれ違いざまに「あ」「おう」ってそんな感じの、これは僕が「あ」で向こうが「おう」、そして僕が小さめのきつねうどんを、真里がカツカレーを乗せたトレーを持っていたのだけれど、そういう軽く勇ましい挨拶を交わした覚えがあるし、その時の真里は確か何人かの女の子達と一緒でその子達と賑やかにあの教授の授業がだるいとか眠いとかそういうハナシをしている最中だった。真里って去年の夏頃は屈託のない、そしてやや口の悪い高校生という感じの子だったし僕からすると今だってそんなに変わってない気がするんだけど、なんか意外だな。

その時に僕は、僕の傍らで自分の膝を肘の置きにして、やや不機嫌そうに頬杖をつきながら見るともなしに大学の中庭を足早に歩く学生達の足元をじっと眺めているヨルのまるで青磁器のように青白い肌の極めて精巧な造りをした横顔の、そこに静かに影を落とす長い睫毛の影を見て「いや、でもそれは起こるべくして起きたことなのかもしれないな」と、そんな風に思い直した。

ヨルと真里は一卵性の双子なので基本的には同じ顔をしているのだけれど、でもよく見るとそれぞれに纏う空気というのか雰囲気を全く異にしていて、しかしそれらは同じように大体の誰が見ても一度はそこで視線を止めてしまう程うつくしい顔かたちをしている。先天的に、ほんとうに、どうしようもない程に。

今だって通りすがりにヨルの姿をひとめ見てちょっと驚いたような表情をして慌ててそして少々不自然に遠くに視線をそらし、そのくせ2,3歩歩いた後に振り返りつつごく緩慢な足取りでここを通り過ぎたヤツが4人、ヨルの顔を見た瞬間から僕らの前を通り過ぎるまでヨルの顔をじっと凝視したままの状態で歩いて行ったヤツが2人だ。

そんな訳だから真里と現在付き合っているという3人の男、何だっけ、背の高いおじさんと眼鏡のゴリラとチャラい赤毛?なんだか全員微妙に酷い言い方だな、とにかくその3人と同時に付き合ってるというのだって多分真里が、その見た目のせいで夏の晩、街灯に集まる虫の数ほど寄って来る連中に対して奔放というのか享楽的というのかそういう態度でいるのとは少し違うのだろうと、真実の程は分からないけれど僕はそう思う。多分真里は周囲の、ただの仲の良い友達だとか親切な知人だと思っていたものが自分にいろいろと言ってくることを、それが一緒に食事に行こうとか遊びに行こうとかじゃあセックスしようよとか、そういう色々なのだろうけど、そういうのをきっとうまく断れないのだろう。

真里と似たような感じで育って来た僕にはそういうことがよく分かる。多分相手の気持ちとか要望とか、この場合欲望かそれかもっと端的にはあからさまな肉欲なのかもしれないけれど、そういうものを上手くかわしたり断ったりできないだけなんだよ。相手のことを頭の先からつま先まで受け入れてただ頷くことが正しい行動だって、生まれてから今まで少しずつ少しずつ刷り込みされてしまっているんだ、もう脊髄反射みたいなものなんだよ。

かつての僕とおんなじだ。

まあ僕なんかはきっと真里よりずっとに酷くて、ひところは相手が男だろうが女だろうが、しかも名前も知らないような不特定多数と、声をかけられるたびに食事にもセックスにも何でもいくらでも応じてたんだけど。まあ今よりもずっと何も考えていなかったから。でもそういうのってやっぱりよくないんだよ、その時はまあまあ楽しいし寂しくないし、実際僕はセックスが嫌いかと言われたらまあそうでもないし。でもなんかどんどん自分のいろいろすり切れて目減りする感じがしてくるんだよな、実際は疲れてなんかいないのにどんどん疲労に似たなにかが頭の中に蓄積していく感じっていうのかな、それである時それが長じてぽきんと折れるんだ、ああ骨とかじゃなくて自分の内面のことだけど。

僕はそういう僕の個人的なそしてあまり他人に言えないようなことをヨルには絶対に聞こえない声で呟いた。

「私だって一応『そういうの止めときな』って真里に言ったよ、その手のホラ…なんて言うの?僕は君の全部を受け入れるよ系の男って大体嘘つきだし逆に支配欲の塊だったりするし普通にキモいしヤバいでしょって。でも真里ってねえ、昔から別にいいのに私のこと守るんだって言って空手やってて、今黒帯で超強いの、だからもしもの時は自分で何とかするんだって。それよりさ、スタバとかでなんか買って飲もうよ、ここちょっと影ってきたし寒い」

「ここの病院にも大学にもスタバは無いよ、ドトールしかない。でもそれでよければ奢る」

「知ってる、じゃあそれでいい」

それでこの時ヨルが会話の隙間の間に、多分それは立ち上がるきっかけ程度のひとことだったのだろうけれど「寒い」とごく小さな声でひとこと言った3秒後、僕は脊髄反射的に自分の首にひっかけていた自分のブルーグレイのマフラーをぐるぐるとヨルの首に巻き付けていた。ヨルは体を冷やしてはいけないのだ。特にこの晩秋、気が付くとふいに僕らの体の周りをぐるりと包囲している冷たい外気はヨルの体の末端にある細い血管をぎゅっと収斂させて、それがこれまで散々手術でメスを入れて来た満身創痍のヨルの肺や心臓にひどく負担をかけることになるのだから、一緒にいる時はあの子の顔色をよく見て気をつけてやれと、お前だって学生とは言えもう医療者のハシクレなのだからと康太から耳にタコができるほど言われていて、僕は普通の人間を基準にするとかなり特殊で脆弱ななものであるらしいヨルの体をイマイチ理解はしていないのだけれど、とにかく今僕は殊更ヨルの「寒い」に過敏になっている。

そんな康太と僕の心配を身に纏う形で僕のマフラーを顔半分3重に巻かれたヨルは空気の秋から冬に切り替わり始めたベンチからよいしょと声を出して立ち上がった。僕より23㎝小さく、やわらかな脂肪の極端に少ない体も手伝ってまるで子どものようにひとの目に映る150㎝は、この1年で3㎏ほど体重を増やしたらしいけれど、今もやっぱり折れそうに細い。そのヨルが言うには今ヨルのからだは

「うーん、この前検査入院したんだけどね、去年手術してある程度は持ち直せたとはいえ、やっぱり徐々に色々ダメになって来てるみたい。まあ自然にまかせたら生まれたその日に死んでた身体をだましだましもう18年も持たせてるんだからハッキリ言って無茶振りもいいとこなんだよね。それって実際のとこ自然への反逆ってことでしょ。人工の生命の極みっていうのかなあ。大体私がこの年まで生きてて今普通に生活してること自体がもう相当奇跡的なことみたい、私の年齢がそのまま現在進行形でこの症例の生存年数最高記録なんだって。私のこと前任の小児科の先生から引き継いでくれた循環器内科の先生が論文にして今度学会で発表していいかなって言うから、それなら私、生体標本として病衣で隣に立っててあげようかって言ってんの」

私の人生はねえ、18歳にしてもう老後っていうか、ロスタイムに入ったんだよね。大工事で命が助かった時からあとはもう余命っていうのかな。

であるという。僕はそういう『余命』という言い方を全然好きではないのだ、だって命に余りなんかないだろヨル。ただでもそれを間近に見据えてしまった人間というものはもっと世界への絶望とか自分の限りある命への焦燥とか、そういう言葉として表現する事すら難しい残りの生への不安と重圧と、それから何より自分の消失したそれ以降を生きていく者への羨望に似た呪いを内側にみっしりと抱えているものなんじゃないのかと、そういう暗くて悲劇的な印象をずっと持っていたのだけれど、ヨルのそれは無味乾燥で静寂な丁度今の季節の空気のような感じだ。温かで幸せな満ち足りた感じは少しもないのだけれど、それは何て言ったらいいものなんだろうか。僕はそれがヨルの言葉の端々に見え隠れする『諦観』の源泉であると思うのだけれど。それでも僕は、ヨルは今のこの状況を恐ろしいとか哀しいとか辛いとか、そういう事を思ったり考えたりして何もない中空の彼方のさらに先を見つめながら自分の運命を呪う事は無いのかと、勿論こんな聞き方はしていないけれど一度聞いたことがある

「そういうのってさ、ヨルは怖くないの」

そうしたらヨルは

「全然平気だよ。私ねえ小さい頃、色々弱すぎて普通の子の、だから真里と一緒の幼稚園には行けなくて、かと言ってどこか別に行く場所もないもんだから家にずっといたんだけど、その時よくウチに来てた父方の祖母って人が『可哀相に、お前は普通のひとよりずっと早く終わりの日がやってくる子なんだよ』って『だからその日その日を感謝して大切に生きなさいね』って言うの。まあ幼児にむかってだからもう少し易しい言い回しで、でもそれに近い事をね。それ以外にも実際の事を色々よく分かってない親戚なんかは年端もいかない小さい子に言うモンなのよ『病気から学ぶことがあるのよ』とかね。そういうのってさ、一瞬教訓的でいい話っぽく聞こえるけど、幼稚園に行くような年頃の子どもに向ってアンタは絶対早死にするからその短い命に感謝して生きろって結構酷くない?大体別にすき好んでこんな体に生まれた訳じゃないのにそこに感謝しろって言われてもさ。今ならそんなこと出来ねえよってアンタは出来るのって聞き返すのにね。それに病院で仲良くなった友達は、絶対元気に退院しようねって指切りして約束してもどんどん死んじゃうし、それで最後のお別れの日には必ずその子達のママとパパから『あの子の分まで生きてね』って言われ続けて早18年だよ?もう慣れたの、私にはね、生きることより死ぬことの方がいつもずっと近くにあったの、当然今もだけどね」

自分はそんな風に大人の感傷と自己陶酔の、その手の感情の材料として散々消費されてきた人間なのだと、それを俯瞰的な目で見て来た嫌な感じの子どもだったのだと言った。だから死というものが自分にとっては生よりもずっと親しみのある物なのだと。でもそんな妙に老成した感覚のある嫌な子どもだって、いくらなんでも『死』なんて得体の知れないものについては、その言葉自体が怖かったり哀しかったり腹立たしかったりはしなかったのかと更に僕が聞くと。

「怖くないよ、哀しくもない、腹立たしくはあるけど、でも誰のことも恨まないというよりは恨まないようにしてる。そんな剣呑なことひとつもないってそういうことにしてる。無よ、無。強いて言えば静謐?シュウはセイヒツの漢字とか意味とかわかる?そういう感じ」

死ぬっていうのはね、それはそれで、私みたいな人間にはひとつの救済のカタチだよ、向こうでは先に行った友達が何人も待っててくれるはずだしね。

ということらしい。僕はこういうヨルの諦観が本気で嫌いだ。そしてヨルは生まれてからこれまでの18年間を散々周囲から

「あれはダメ、これは無理、死んじゃうから、とにかく色々諦めなさい」

と言われていた諸々に対しての帳尻を合わせとしてこの先の、ヨルが言うには『ロスタイム』を自分の好きなように生きようと決めたのだそうだ。特に去年それがどうやら相当に危ない橋で勝ち目は五分五分、嘘偽りのない本気の命賭けであったらしい手術を終えて、その後の長い鎮静と安静の後に、すっかり色々が弱り切っていて自力では殆ど動かせなくなった体でただ病室の天井の模様を視線でなぞりながら過ごす日々にそう決めたのだそうだ。それで長く仰臥を強いられてきた時間と同じ位の時間をかけて少しずつ体力と身体機能の大体の回復を果たしてひとりで不自由なく出歩く事のできるようになった今、なんだか妙に、そして足しげく僕の在籍している大学とその隣の大学病院に出没するようになっていた。それはヨルの双子の妹である真里がここの医学部の学生だという事と、何よりヨルが月に1回だか2回通院しているのが隣の大学病院で、その大学病院と大学は明確な境界線も壁も無いまったく同じ敷地の中にあるのだから特におかしな事ではないのだけれど、ヨル本人が言うには

「ここに来たら、大学か病院のコンビニか、どっちかに絶対シュウがいるでしょ」

だそうだ。僕は別にここに住んでるわけじゃないんだけどな。そして僕はもうすぐそばまで冬のささくれた空気がやってきているというのに、僕の前に現れる時にはいつもとんでもなく薄着であるヨルに

「ヨルって風邪とか感染症とか、そういうのは一切駄目なんだろ、とにかく厳禁なんだろ『極端なハナシ無菌室で暮しててほしいくらいだ』ってこの前ヨルが鼻風邪ひいたって真里から聞いた時に康太が言ってたぞ。僕は流石にそこまでやれとは言わないけど、でもよく気を付けてないとまた去年の夏みたいに長期入院する羽目になるぞ」

そう言ってずっと注意をしているのだけれど、ヨルは今日もコートもダウンも、そういう暖かで体を冷たい風から守ってくれそうな何かを一切ひとつも纏わずに、その代わりのつもりなのか去年の夏、病院でパジャマの上から羽織っていた薄い水色のフーディーだけをこれもごく薄手の黒っぽいニットワンピースに引っかけただけの恰好で大学まで来ていた。その服装はまたヨル本人が言うには

「だってよく見慣れてる服の方がシュウが私を見つけやすいし」

という事らしいんだけど、そんな気遣いはいいんだ、そんなことしなくてもヨルは滅茶苦茶目立つんだから何処にいても僕はすぐに見つけられるよ、1㎞先にいても裸眼で分かる。僕がそう言うとヨルは

「なにそれ、なんで?」

眉間にぎゅっと皺を寄せて極めて不思議そうな顔をした。ヨルの妹である真里が以前僕に言っていた『ヨルは人生の半分を病院で暮している』というのはどうやら誇張の行き過ぎた作り話でも何でもない混じりっけなしの真実であるらしく、ヨルは病院をほぼ自宅のようにして暮らして来たこれまでの人生の、病床にあって時として床に足をつける事さえ許されないでいた途方もなくけだるく退屈な時間を、同じ年ごろの子ども達と外を駆けまわる代わりに病室に持ち込んだ膨大な量の本の中の言葉と文字をごく親しい友達にして生きてきたのらしい。それだからなのかヨルの扱う言葉は年齢の割に重厚でやや古臭いものが多い、それと僕が知らない事を沢山知っている、今も足元にはらはらと落ちては積もる赤ん坊の拳のような形の木の葉を見て

「これねえプラナタス。私このとげとげの実可愛くて大好き、プラナタスにはねえ、モミジバスズキカケノキってもうひとつ別の名前があるんだよ」

そういう別に知らなくても死なない程度の、でも病棟の窓からしか外界の様子を知る術のない時間の長かったヨルにはきっと結構重要だったのだろうことをちょっと得意そうに僕に教えてくれた。ヨルは湿度も温度も完璧に管理されている病棟の中で窓の外にこの葉がはらりと散りはじめるのを見て秋の終わりを感知していたのだろうな。こういう他愛もない事に喜ぶヨルはその体躯も手伝ってほんとうに小さな、小学生ぐらいの女の子に見える。それで僕が足元にいくらでも落ちてくるその葉っぱをひとつ拾ってくるくると回しながら「これってカナダの国旗の真ん中にあるあの葉っぱだろ」と言うと

「バカじゃないの、アレはサトウカエデじゃん」

シュウってさあ、小学校ちゃんと卒業してる?ここの大学ってそんな簡単に受かるの?真里はそれこそ死ぬ気で猛勉強してたよ、アレは発狂寸前のレベルだったな。そう言って僕の学歴を小学校まで遡って疑われてしまった、まあいいんだけどさ。ヨルは何を話していても口ごもるとか言い淀むということが極端に少なくて悪口というか雑言という類のものなんてそれこそ息をするように出て来るし普段何気ない会話をしていても頭の回転が凄く良いんだよなあと感心する事が多い。でも反面というのかそれと表裏一体であると言うのかなんだか妙に世の中に疎く、普通に誰もが知っていそうなことを、例えば電車の乗り方とか定期券の買い方とか、牛丼屋は大抵の場合食券を先に発券機で買うものなのだとか、そういう事を殆ど知らない。あといつだったかここの大学生協で沢山本を買い込んだせいで家に帰りたいけど荷物が重くてもう一歩も動けないなんて言って僕の事を待っていたので、僕がヨルのその荷物を持って大学の最寄駅まで送って行った時、駅へ続く裏道にあるくすんだ灰色の雑居ビルの2階部分に見えるてらてらとした蛍光ピンクの看板をじっと30秒ほど凝視しているなと思ったら突然

「ねえ、シュウあの『ファッションヘルス』ってあれ何、何の店?」

真顔で、しかも結構な大声で聞かれてどう説明したらいいのか困った事があった。あとは寒い日には厚着するものなのだとか、普通の人間が経験側的に身につけているはずのいろいろを全く知らない事があってたまに本気でびっくりすることがある。きっとそんな日常のことを獲得している時間の多くを病気に剥奪されて育ったって、そういうことなんだろうけど。だからなのかヨルは自分が他人にどう見られているかとか、逆に人に良く見られようとかそういう事にほとんど関心がないのだ。他者の存在と視線という概念がなんだか妙に欠落している。自分がとびぬけて美しいことになんかには全く興味も感心もないし、そもそもそんなことが、人間には誰かが勝手に決めた客観的な美醜という妙なモノサシがあってそれによって人と人とが、特にヨルのような女の子達が選別されて区別されているって、そういう感覚が世界に存在しているなんてことを気づいていないのかもしれない。

それがヨルの在り方であって、今のヨルの中にある二元論的世界は未だ生と死、病棟と外界、健康と病気、多分それだけなんだろうな。僕の兄の冬也がそうだったから、そしてそういう人生を送る兄の隣で暮らしていた僕にはそれが少しだけ分かるんだ。実際の冬也は僕に何かを語ることのできない人ではあったから本人から直接聞いた訳ではないのだけれど。

そんなことを考えていた僕の首の後ろを、急に冷たい北風がするりと撫でて通り過ぎたので僕はさっきヨルの首にぐるぐると巻きつけたマフラーだけでは寒さが命取りになる脆弱な体のヨルの防寒にはちょっと不十分かもしれないなと急に少し不安になって、体の小さなヨルにとっては相当ぶかぶかな僕のパタゴニアのフリースを「これも着ておきな」と脱いでそのまま渡してやった。ヨルはそれを受け取って素直に羽織ったけれど、そのオーバーサイズのオートミール色のせいでヨルがむくむくした子熊のようなり、僕はおかしくて笑った。そうしたらヨルも何?何で笑うの?と言って同じように笑った。

「あのさ、僕はもう実感としてよく知ってるしヨルだってよく分かってることだと思うから言うんだけど、ヨルみたいに先天疾患?慢性疾患?そういうのと生きてる人間てちょっとしたことでいとも簡単に突然にあっさりと死ぬんだぞ、僕はそういうのもう勘弁してほしいんだよ、だからこれからの季節はこのくらいしっかり着込んで外出しな、何ならニットの帽子なんかもかぶって、持ってないなら僕が今度バイト代で買ってやるよ」

僕が体を膝まですっかりフリースの布地に覆われたヨルが更に顔を半分マフラーのブルーグレイに埋めてきょろきょろと瞳だけを動かしている姿にまだ少し肩を震わせながら、それでも極力真面目な顔をしてそんなことを言うとヨルは

「帽子って何?真里とお揃いとか?なんかシュウって、うちのママみたい」

そう言ってから一体何がそんなに嬉しいのかわからないけど妙に満足そうな顔をして、あとは僕を先導するみたいに弾むような、あの夏よりもずっともっとしっかりとした足取りでかつて僕らがほとんど毎晩顔を合わせていた15階建ての巨大な建物の中に駆け出していくので僕は

「枯葉の上、走ると転ぶぞ、それと一応康太には旅行のことは聞くだけ聞いておくけど、ヨルは一体どこに行きたいんだよ、外国なんて言うなよ、絶対無理だぞ、日程的にもそうだし僕は旅行とかあんましたこと無くてパスポートなんか持ってないし、第一そんな金ないし」

ヨルの思考と発想はごく平凡な普通の生まれ育ちの僕のそれとは遥かに、そして相当に距離があるのだ、軽い気持ちでいいよって返事をしたのちに突然「カトマンズに行く」だなんて言われても困る。そうしたらヨルはくるりと僕の方を振り返ってとても嬉しそうに

「金沢!」

そう言ってそのまま僕の事を先導するようにして、仔犬のように体をぴょこぴょこと上下させるようななんだか妙な駆け足で大学病院の大きな自動扉の内側に吸い込まれて行った。

確かにあの時、僕はヨルと一緒にいた晩秋の冷たい風の吹いている大学の中庭で、真里が今やっていることを、いや違うな、それは真里が自ら能動的にやっていることではないのだろうから。それについての杞憂のようなものを口にしていたし実際に結構本気で心配だった。あの白磁のように半透明に白いヨルとはまた違う、真里のあの誰もが一目見た時に一瞬呼吸を止めてしまうほどに鮮烈であざやかな容姿に吸い寄せられてくる色々な、それは多分ほぼ全部男なんだろうけど、そいつらの誘いをひとつも断らないということはいつかきっと真里の内側をじわりじわりと不健康な何かに侵食させていく結果を生むかもしれないし、それが自分の周囲の、大学の中なんかの意外に密接していて狭い人間関係の中でやっていることであるのなら、そこにある人間関係は遠からず確実に悪化する。それに過去に似たような事をやっていた僕と違って真里は僕とは性別が違うのだから直近で真里が危ない目にあう可能性があるんじゃないかとか、体のことだって僕とは全然違うちょっとややこしい問題が起きたりする場合があるだろうとか、即ち大丈夫か真里はと、授業の最中とかバイトの合間に、なんとなく何回か思い出しては、何とはなしに心配していた。

でも、その真里の行状というか現状をヨルから聞いた3日後に、僕はぐうぜん真里の極めて見事な前蹴りを目撃することになる。それは僕の杞憂が具現化した瞬間であって同時にヨルの「真里はなにが起きても自分で何とかする」とそう言っていた話がまま真実であったと判明したそういう出来事であって、とにかく僕はあれが刑事事件とかそういう物騒なことにならなくて本当によかったと思っている。



それは金曜の、夕方と夜の境目にある18時半に、丁度夕焼けの茜と昼の名残のごく淡い空色と夜の藍色がそれぞれを強く主張して滑らかに溶け合わないままに無機質で巨大で四角い大学病院と大学の建物の背後を3層の空が彩るという極めて豪奢な空の色をぼんやりと眺めながら、病院側の職員通用口のあの透明な自動扉の向こうから「今日は早めに退勤してくるから絶対だから」と言ってもどうせなかなか出てこない康太を待っていた時のことだ。この日の朝、相変わらず康太の部屋に入り浸っている僕が今日はバイトのシフトが入ってないんだと言ったら、普段からひとりでいることを極端に嫌う康太が

「ならさ、仕事終わったら俺とメシ食おう」

そう言ってきたからだ。その18時半という時間は丁度大学の6講目と、病院の日勤、昼の勤務の人たちが一斉に建物の外に向って出て来る時間であって、病院正面入り口の車寄せから直線的に伸びる敷地の外への道には妙に巨大なリュックサックであるとかトートバッグであるとかそういうものに詰め込んだ大荷物を抱えた学生か、ほんの数分前まで白衣を纏ってまだほんのりと消毒液の香りと空気とそこにあった緊張とを身体の周りに残している医療職と思われる人々で一気に溢れ返るのだけれど、その中に僕は見慣れた顔をひとつ見つけてそこに目線を留めた。

あ、真里。

遠目にそれがヨルではなく真里であると、僕がすぐに判断できたのはその時に真里が着ていたものが以前学食で会った時に真里が着ていた優しくやわらかな色味の茶色のチェスターコートで、以前に僕が

「それ、そういうのヨルにも着ろって言ってやってよ、アイツいつもスゴイ薄着だろ」

そんな話を真里にしたことがあったからだ。その時に真里が

「ああこれ?これねえ、せっかくパパからむしり取って来たお金で私がわざわざお揃いのを買ったのに、依里はこんな出来損ないの春の熊みたいになるコートいらないって断固として着てくれないの。これカシミアなんだよ、超絶いいお値段なのにさあ。シュウこそ依里にコート着ろってもう少ししつこく言ってよ、真里とお揃いでこれ着たらすっごく可愛いよと何とかさあ、大体何なのよ春の熊って」

かなり不満そうにそう言っていたからだ、真里としては自分たちは折角双子で生まれて来たのだから揃いの服が着たい、そうして姉妹であることを満喫したいのだと言っていた。たしかにそれは真里にはよく似合っていて、だからヨルにもきっと良く似合うのだろうし、何より軽くて暖かそうで本当に幸福な春の熊みたいな色のコートだった。

それでその春の熊がその時の僕の視界の端、大学病院の大仰に荘厳でかつ威圧的でもある正面入り口の自動扉から10m程離れて右に折れた場所の救急外来の銀色に無機質な通用口の夕暮れの人間の川の流れからやや死角に入る場所で、多分以前にヨルが見かけたという背の高いおじさんに手首を掴まれたまま何か言い合いをしているのを僕は見つけたのだった。その時僕は即座に

(ああホラもめてるじゃないか、やっぱりさ、一度に3人っていうのはさあ)

口の中でそう呟きながら、しかしこういう時、真里にとっては一応知り合いというか友人というかそういう立場にある筈の僕は仲裁に入った方が良いのだろうかあれは痴話げんかってことでいいんだよなと、10秒程逡巡していた間に、真里の物凄い速さの、そして一切の躊躇と遠慮のない前蹴りが多分相手のみぞおちに入って件の『背の高いおじさん』はその場にうずくまり、それでそのまま相手のもとを去れば話は痴話喧嘩の相手を真里が一撃で仕留めて終わらせた、で済んだのだけれど、真里は手に持っていた巨大なトートバッグで今度は1ミリの手加減も容赦も無く渾身の力でもって相手の顔面を殴打し始めたのであって、結局僕はその男が真里に対する攻撃の手を一切止める様子の無い真里のあからさまに過剰な攻撃を

「やめろ真里、いくら何でもそれはやりすぎだ、警備が来るぞ、そうなると話が相当ややこしくなるだろ」

そう言いながら僕よりふたまわりは小さな背中に飛びついてそのまま羽交い絞めにするようにして真里を止める事になった。僕に背後を取られた形になった真里は反射的に身をかがめ僕を背負い投げるような体制を取ったもので、僕の足元は一瞬宙に浮いたのだけれど、それでもさすがに小柄な真里には易々と投げられない僕の身長と声がそれを押しとどめた。

「やめろ真里、僕だよ、柊也」

真里は1発目の初回の殴打で的確に相手の鼻梁を狙ったらしく、男は結構な量の鼻血を出していて、これだと完全に真里が加害者というか一方的な通り魔的暴漢であって、今この騒ぎを聞きつけて警備員が飛んできて更には警察沙汰になり結果真里が前科者になる事になっても友人である僕としては寝覚めが悪いと、そう思った僕は結構必死だった。僕はかつてこれまで友達と殴り合いのけんかをした事どころか、兄弟喧嘩だって、まあ兄が寝たきりに近い状態だったのだし全く経験が無い。そんな僕だからこの『怒り』そのものであるという形相の真里は結構冗談抜きで恐ろしかった。だって上肢を拘束していても自由になる下肢でまだ相手に執拗な蹴りを繰り出してくるのだから。僕が真里の体を抱えて拘束している力を少しでも緩めればそのまま相手に、今度は飛び蹴りでもするのじゃないかと、真里のこういう所はまあ当たり前なのかもしれないけれどヨルと全然違う。第一力が強い、体の隅々に命というものが充満しているというか有機的なものに溢れているんだよなあ真里は。

「だってコイツ、君が他の男とやってて忙しくてそれで俺と会う時間が取れないなら、依里を紹介してよって、去年結構長く小児病棟にいた綺麗な子って君の妹だろって言い出したんだよ、依里は妹じゃなくて双子の姉だよ、気持ち悪い目で依里の事見てんじゃねえよド変態、小児科医の癖に、今スグ医局に通報してやる」

「小児科…?マジで?」

真里はそういう事を、それはなんだかもっとスゴイ言い方だったような気がするけれど、とにかくそんな事を言ったので僕は丁度退勤して病院から出て来た康太が職員通用口の前で待っている筈の僕を探してそこに来てくれていなかったらその小ぶりでしなやかでしかし凶暴な猛獣を僕の腕からもう一度その男の前に解き放つところだった。そいつは去年ずっと小児病棟に入院していた依里もといヨルのことを担当したことはないけれど、ヨルは1年近くそこにいたのだから当然その姿を見て知っていて、当時は状態が悪いせいでかなり痩せていて今よりもっと幼い見た目をしていたヨルのことを中学生くらいの子どもだと、そしてたまに何か本やら着替えやらを持って病棟のエントランスまでヨルを訪ねて来ていた真里を3,4歳程年上の姉であると思っていたらしい。康太は僕と真里、そして真里の足元に鼻血を出してうずくまる小児科の医者らしい男を見て意外にも慌てることなくしかしいつもよりはやや語気の荒い強い声で

「やめとけ真里ちゃん、傷害で訴えられるぞ。柊也、そのまま真里ちゃんのこと離すなよ」

そう言って真里を抱えた僕もろとも、僕に抱えられるような形になった小柄な真里と康太から言わせると極めて軽く貧相な体格である僕2人をまとめて抱え、退勤する職員と帰宅する学生の流れる中に連れ去ったのだった。その場に置き去りにされることになったその男は、あれはあれで命拾いしたということになるのだろうか、鼻血の出血が結構派手だったけれど本職の医者ならまあ自分で何とかするだろう。

僕らが康太の腕から放たれて、それでも康太の大きな掌に背中を押されるようにして駅に流れるひとびとの波に歩幅を合わせながら夕暮れの果てにある巨大な私鉄の駅ビルの灯りに向って僕らが流れている最中、僕はあの男のことが少し気になって「あの人大丈夫かな、打ち所が悪くて死んだりとかしないかな」と真里に言ったつもりではなく独り言として呟いたら、加害者であるところの真里は

「あんなやつ死ねばいい」

そう言った。やめろよ真里、真里の法と善悪を超越したその処罰感情は僕にも分からなくはないけど世界には一応倫理というものがあるんだからさ。


とにかくそれで真里と、どういう訳か僕までもが駅前の康太と僕がよく行く安くて早くてしかしきれいで洒落ているとは全く言い難い、むしろその反対の見た目と雰囲気である、アルミサッシとすりガラスの扉の、油でややべたついた床の、日に焼けた赤いテント屋根の中華料理屋で康太に懇々と説教される羽目になった。それは真里がよせばいいのにことの経緯を、あの男は一体真里の何なのかどうして真里があれほどの怒りを躊躇なく人前にさらけ出すことになったのかそこにはそれなりの理由というものがあるのだろうと、康太に問われて大体のすべてを、僕がヨルに聞いていたハナシと大体同じ事情を全て正直に嘘偽りなく、真里が一度に3人の男と付き合っているとか、その手の事を人に求められた時にはその誘いの殆どを断らないのだと言う真里の信条というのか姿勢というものを全て康太に話して聞かせてしまったからであって、当の康太は結構衝撃を受けていた。

その時の康太の表情は昔、あれは冬也が肺炎で入院していた夏だ、とても珍しく母と僕だけで出掛けた近所の神社の夏祭りの屋台にいた金魚によく似ていた。口をパクパクしているのに音もない真空のあの感じ。

康太は、ヨルとその妹である真里が小学生の頃から2人の事を知っているらしいし、僕にもその名前と詳細は出さずに、それこそ僕と真里とヨルが知り合う以前から、ずっと気にかけている子どもがあるのだと、僕と同じように病気のきょうだいがいてそこから発生する色々の問題や無理難題の全部を受け入れて赦すことこそが正義だと思っている子がいる、そういうのは一体どうしたら解決できるのかなとよく僕にも話していた。それくらい気にしていたのが真里なのだからまあ無理はないけれど。僕が野放図に誰彼構わず享楽的に関係を、まあ平たく言うと金銭の授受はないにしてもそれに近い事を、食べ物とか居場所とかそういういろいろを貰ってそのお礼というのか報酬というのかで誰とでもセックスとかそれに近い事をしていたと判明したあの秋の日の夜よりも、声高の訓叱責の成分のうん少ない、とにかく自分の心と乖離した行動をすることだけは止めろ、自分のことを大切に扱ってくれ、いずれ遠からず傷つくのは真里ちゃんだぞと、それはまるで兄か父かであるような康太の本心からの懇願と訴えであって、康太の凄いところはこういう時に、普通人は誰かを諭す時、大体の場合は段々と自己陶酔的な主観の感情をむき出しにしていくものなのだけれど、そういうものを殆ど感じさせない事だ。そこにあるのはただ

『自分の大切な誰かが理不尽な誰かの感情や暴力的な何かで傷つくとか果ては死ぬとか、そんな事を絶対に一切許容できない』

という康太の強い信念だと僕は思っているのだけど康太はそういうの、自覚しているのだろうか、多分結構すごい事だぞ、大体相手は全くの他人なのに。そしてそういう言葉をひとつひとつ紡ぐたびに徐々に涙目にさえなっていく康太の姿を上目遣いで見ながら真里は

「康太先生って何かへんなの、お父さんかよ」

若干不貞腐れたような、それでいて少し恥ずかしそうな、しかしやや嬉しそうな顔で、照れなのか手持ち無沙汰なのか手に持った小さなおしぼりでいかにも町の中華料理屋ですといった風情の赤いデコラ張りのテーブルをしきりに拭いていた。でも実際の真里とヨルの父親は、2人が小学5年生の時に母親と離婚して以来、真里がごくたまに単独で会いに行って食事をしたりお小遣いを貰ったりはしているけれどそれ以外では殆ど会う事もないのだそうだ。康太はそういう真里の家の状況をよく知っていたけれど、僕は初耳だった。真里はそれだから康太の父親のような兄のような叱責ではなく懇願のような、とにかくこういうハナシ口調がとても新鮮なのだと言った。そして真里は自分の家が離婚による母子家庭であるということについて

「実際のウチらみたいな家の子ってそういうの多くない?シュウの家は違うの?だってママがひたすら依里の入院だ通院だ学校の付き添いだそれと私の世話だって必死で駆けまわってる間にパパは仕事以外特に何にもしないで普通の暮らしを維持して結構楽しく暮らしてたんだよ。仕事して付き合いで飲みに行ってたまに浮気?ちょっとした遊び?そういうのをやりながらさ。でもそうするとお金と人手の問題さえクリアしたら一体父親っているの?それって必要?って結論に至る訳よ。それでママと私とパパでいざ離婚、一家は解散て話になった時、俺は家族の輪から取り残されたんだ、お前らは俺を仲間外れにしたんだって言ってなんか妙に黄昏ていじけてたけど、それって参加しなかったの間違いでしょ、だって普段ほとんど家にいなかったし、いてもどこに連絡してんだかスマホばっかりいじって依里の通院の付き添いひとつしたこと無い癖にさあ、ホント、ばかじゃないの」

そう言って、結局自分とヨルを母親ごと捨てたとことになる父親にはとても辛辣だった。

「離婚のごたごたの時、依里は例によって入院中で、あの時ももういよいよヤバイって状態だったから離婚について細かく話してるヒマがないままで、全部終わった後に『実はママとパパは離婚したからパパはもう家にいないよ』ってそれだけのハナシになっちゃったんだけど、依里だってきっと全部分かってたと思うよ」

真里はテーブルの隅に積んである小さな取り皿をがちゃりがちゃりと音を立てながら僕らの前にひとつずつ置いてため息に似た息をふうと吐いた。

「その頃からかなあ、依里はなんかママに遠慮しちゃって急に大人ですみたいな諦め?そういう雰囲気がべったり背中に張り付いちゃった気がするんだよね、今でも。ホラ、例えば私が最近着てるチェスターコートなんか自分はいらないって言うの。うちはママしか働いてないのにカシミアなんか贅沢だって、お金はもう私の病気の事で沢山色々してもらったしお金も沢山払ってもらってるって。何言ってんだか、お金なんか私がパパから幾らでもむしり取ってくるんだからいいじゃん、医療費だってシャカイホケンセイドっていうのがあるんだから別に気にしなくていいんだって何度言っても依里はぜんぜんわかってないって言うか、老人みたいな諦めの雰囲気みたいのは幾らでも無尽蔵に持ってるくせに妙に世間知らずなんだよね。だってパパの実家って病院なんだよ、結構大きい整形外科医院。その家の一人息子のパパも医者。だから向こうの家にお金なんかは唸る程ある訳。私が医学部に入った時なんか大変だったよ。流石は俺の娘だ、6年分の学費はウチが出してやるからその代わり将来的にお前はウチの病院を継ぐんだぞって。その辺は私も受かったのは今通ってる私立大だけだったしそしたら国公立に比べてどうしてもお金は要るし、だから『どうもありがとー』ってとりあえず初年度納入金全額その他諸々、エート1千万くらいかな、それは私の銀行の口座に振り込ませたけどね。まあでも大体そんな恩着せがましく言われたところで私ら姉妹の学費なんかは本来パパの払うべき債務なんだからさ」

真里の言った事の特に前半部分は色々と僕には頷けることばかりだった。僕の父親も介護用の、電動で上がり下がりする特別なベッドに仰臥する兄の近くには殆ど、それこそ兄が死ぬまでまず近寄らなかったし、今だってどこに単身赴任しているのかしらないけれどここ1年程姿を見ていない。次に家に帰ったらそれこそ真里の家じゃないけれど離婚しているかもしれない、僕は学生とは言えもう成人しているし、障害があって入院続きで誰かが傍らに居ないでは数時間の生存も不可能だった兄は死んで、その母は今介護の仕事をしながら結構元気に暮らしているのだし、久々に帰宅した自宅に父の荷物が跡形もなく無くなり母がにこにこと「実は離婚したのよ」と言ってもそう驚かないというか。そういう類の家庭は世の中に割とよくあるものだし僕らが別段特別という事はないと思う。でも真里の言った『人手がクリアできれば』っていう言葉のその『人』っていうのはこの場合僕らきょうだいの事だろ、そういうのを真里は完全に自覚していてそれでも依里に寄り添う事にしたのだろうか、大切な自分の半身であり姉であるヨルが生きている限りはって。

「じゃあ真里のお母さんも医者とか?それで真里はいずれその…お父さん実家の病院を跡取り娘として引き継ぐの?」

僕は、奥の厨房でもうかなり高齢である店主が作り多分その人の妻であると思われるおばあちゃんが機嫌よく運んできてくれたまだしゅうしゅうと油の跳ねている皮の薄い餃子を真里の取り皿に取り分けてやりながらそう聞いた。僕らのテーブルには康太が「ここは俺が払うぞ」と宣言して注文した相当な品数の料理の皿が、レバニラだとか五目麺だとか天津飯だとか油淋鶏だとかエビチリだとかそういうものが次々にいくつも並び、そのとりどりの、しかも大体が皿からはみ出す程に大盛りであるのを見て真里は、すごいね男2人だとこんなに食べるの?自分の家にはうちら双子とママの女しかいないからこういう大盛りで山盛りの料理ってあんまりないんだよね、お誕生日みたいだと言ってとても楽しそうに笑った。それを受けて違うよ僕は多分真里と同じ程度にしか食べない、コレ殆ど康太が食べるんだよと僕が言うと、真里は普通にしていても大きな、そしてくるりと上を向いている睫毛に縁どられた目を更に大きく開いて康太に向って「すげえ」と、その鮮やかに紅い唇に全く似合わない言葉遣いでさらに笑った。

「全然、ママは美容師。離婚した後にママと私達でママの実家に戻っておばあちゃんのやってたお店をそのまま引き継いだの。今は友達と共同でヘアサロンとネイルサロン2店舗のオーナーやってる。あとパパの実家の病院なんかどうでもいいよ、あそこのおばあちゃんてちょっと宗教がかってて軽くうざいの、あれよ『世の中にあることには全て、病気にも障害にも意味があるの、生きていることに日々感謝よ』系の人。病院長の妻だよ?病気に打ち勝てって言わないと駄目でしょ?マジでいつも頭とか認知とかそういうの大丈夫なのかなって思う、あの家の人達は私みんな苦手。だからパパの実家からは私立大医学部のお高い学費6年分を有難く頂戴して、無事に卒業できたら全部反故にして逃げるつもり。だってそんなのどうせ口約束じゃん。私、整形外科なんか絶対向いてないもん、興味自体ないよ」

「え、整形は向かないって、医学部1年なのに何でわかるの?」

「私が女で小さいから。整形ってアイツら全員マッチョだし超脳筋じゃん、全部筋肉で解決しようとするでしょ、聴診器の代わりにトンカチ…じゃないかホラあれ何だっけ、ああ打腱器もって歩いてるし、何アレあいつら大工かよ」

「へえ、そういうモンなの?」

僕は僕の向いでグラスに瓶ビールを手酌で注いでいた康太を瞬間的にちらりと視界に入れた、康太こそが人間は筋肉だと言っているタチの人間なのだけれど今の真里の発言を一体どう思うのだろうか、僕のその一瞬の視線を受けて康太は

「いやその…筋肉で全部を解決しているとは流石に言わないし言えないけど、力の必要な処置が多いのは確かで、それだと真里ちゃんは確かにちょっと小柄かもね、非力だとは俺は思わないけど、だって強いじゃん。でも医局に男しかいないって事はないし、あと打腱器はしょうがないよ、あれは必要なものなんだから。ああ柊也は整形外科を悪く言うなよ、俺達、整形と仕事する事はかなり多いぞ」

真里ちゃんも、これから病院実習だってあるんだからそんなことうっかりでも言うもんじゃないと、そう言って真里のその口がさない言動を軽く注意しながらそれでもビールの注ぎ口に小さなグラスをカチカチとぶつけるようにしてほんの少し、微かに笑った。相変わらず口が悪いなあ真里ちゃんは、依里ちゃんもだけど、昔からそうだよなと言って。

「そう?普通よ。それにパパには5年前くらいかな、再婚した人の間にちゃんと跡取りの男の子が生まれてるしね。だから私に『病院継げ』とかそういうのはアレよ、ただの保険よ。私はサブでアンダーなの、もしもの時の代役。パパはねスマートで子どもに理解があって優しいってフリはしてるけど、もう一人の娘であるはずの依里のことなんかずっと前から眼中にすらないよ、たまに思い出してあいつまだ生きてんのかなくらいには思ってるのかもしれないけど。所謂生産性のない子どもっていうの?障害児とか疾患児とかそういう子どもはあのパパにとって全く必要ないの、無駄だと思ってるの、差別主義者よ。ザ・父権って感じ。私アイツのああいうところ大嫌い。パパは今でもそんなだから依里のことなんか、稼ぎに対してスズメの涙って感じの額面の養育費だけ払ってあとは知らんて顔で全くのノータッチでさあ、それで私達を育てるのにバリバリ仕事をしないといけないママは超絶忙しかったから、私と依里の事はママのおばあちゃんが面倒見ててくれたの、元ヘアサロンオーナーで口が悪くてオシャレでカッコイイおばあちゃん。そのおばあちゃんも私達が高校に入った年に急に大動脈解離…だったかなあ、とにかく急にお風呂で倒れて死んじゃってからは依里のことを守って来たのは私、だからいま依里に害なすものを全て完膚なきまで叩きのめすのも私。そんなだからさ、康太先生もあんまりぎゃんぎゃん言わないで、大体おかしいのは向こうだよ、依里のこと『中学生くらいだよね』って勝手に勘違いして、だから紹介しろって何ならやらせろって、何それペドフィリアじゃん、康太先生が説教するならまずは向こうでしょ、今からでも行ってバチボコにしてきてよ、何のために康太先生の上腕二頭筋はあるのよ、大体アイツ一応まがりなりにも小児科医だよ?きもすぎるでしょ?もう医師免許剥奪の上懲戒免職にしてついでに逮捕してよ」

真里は一息にそう言うと、手元のグラスの水をぐいと飲んで、とにかくアイツは切るからそれでいいでしょと言って今度は僕が取り分けてやった餃子をふたついっぺんに口に放り込んだ。真里は小食の、マクドナルドのハッピーセットすら「もうおなか一杯になった」と言ってため息とともにチーズバーガーとポテトを半分以上残してしまうヨルと違って本当によく食べる。そして笑うのにも怒るのにも感情の発露というものに躊躇も留保も何も無い、正しく健康的でとてもまぶしい、それでこの顔面の造作と細くて白くてしなやかな肢体だ、まあ要不要問わずに何もかもがいろいろと寄ってきてしまうのだろう、それでもさ

「それでも相手が要求したことをさ、ヨルのことについては例外中の例外なんだろうけど、とにかく拒否しないで一切全部を受け入れるっていうのは止めた方が良いよ、結果3人の特に興味のない男と同時に付き合うって事になったって、それはちょっと尋常じゃないよ。まあそれをやっちゃう真里の気持ちは分からなくはないけどさ、自分が受け入れさえすれば相手は喜ぶし誰も傷つかないし世界は平和だしって思っちゃうんだろ、僕はそれで相当その…まあ康太に叱られたしそういうのはもうやめたんだ、でもそれって感覚的なモノだし今でも癖になってて、まだ時たまひょっこり出て来る場合もあるけどそれにしたってさ」

それに真里は僕と違う、女の子なんだから、色々と困る事も出てくるだろうと僕はその辺をかなり薄めて、水彩絵の具の水色をごく少量水に溶かすようにしてかなりぼかして言ったつもりだったのだけど真里は、今度は鶏肉の皮の欠片をぱりぱり齧りながら

「ねえシュウ、私別に自分がまっさらな処女ですとは言わないけど、そういう嘘偽りは嫌いだから言わないけど、だからって相手に任せてやらせたい放題セックスしてるとかそういう訳じゃないんですけど。私の体は私のモンなんだからそのくらいの分別?節度?そういうのはありますけどね、色々言ってくるのをかたっぱしから断るのが面倒でついあちこちに愛想よくしちゃう…だから八方美人が若干癖になってるってのはまあ認めるけど、でも大体その想像がもう私に対して超絶失礼じゃない?ていうかシュウは一体何してたのよ、そんでどうしてそれを康太先生が叱る訳?前々から思ってたけど2人って何?友達って言ってもどういう友達なの?付き合ってんの?」

真里が突然僕らについての『中らずと雖も遠からず』と言った感じの質問をあからさまに返して来たので、僕は箸でつまんでいた餃子を取り落としたし康太は飲んでいたビールをやや吹いた。双子ってすごいなあ、ヨルとおんなじだ、動物的に勘が良いし思考回路がよく似ている。実は僕はヨルにも以前同じことを聞かれた事があるのだ。

『ねえシュウはさ、康太先生のこと好きなの?2人はつきあってるの?康太先生は多分シュウの事が好きだよね』

でもその時のヨルの視線と口調は、さっきの女子高生的で野次馬的なそれを口論のついでに繰り出して来た真里とは少し違う、とても真っ直ぐに無垢なものであって、ヨルはこれまでの人生で幾度もあった手術後まるでままならない身体の、長く寝たきりで四肢の筋肉がすっかり落ちて1人で座る事すらできなくなっていた時に『依里ちゃんがんばれ、絶対歩いて退院するぞ』と言っていつもずっとあの春の陽光のような笑顔で寄り添ってくれていた康太を家族のひとりのように大切に思っているので、もし自分の直感が正しいのならば自分とは少し違うけれど、それでもいわゆるこの世界にいくらもいる人間の中では確実に少数派に属することになる康太が、康太にとってかけがえのない大切な人をひとり得て、結果それで幸福でいるのであれば、また別の種類の、かなり希少な病気で全く無理の利かない身体生きている少数派である自分も嬉しいのだそうだ。

『自分が好きな人が同じように自分を好きでいてくれるのってスゴイ幸せで嬉しい事でしょ?』

その時のヨルはその文言のままに小学生のような笑顔でそう言った。でもそれはちょっと違うしそういう事は何より康太の個人的なことだから僕は何も言えないし、だから僕は笑って違うよ、僕らは友達だよと言っておいた。でも今の僕には一番大切な友達だと、だって実際のところ僕達は友達なんだし。それで真里が言葉の上では全く同じ質問をしてきたこの時は康太が

「そういうのとは違うし、俺そういうのはコメントしないよ。真里ちゃんが想像している通りなのかもしれないしそうじゃないのかもしれないけど、そういう質問自体に傷つく人間もいるんだ。やめた方がいい。でも柊也と真里ちゃんはよく似てるよ、だから俺は心配なんだ。今日みたいに真里ちゃんと、ウーン…その、とりあえず言われたから付き合うみたいになってた曖昧な関係の男が大揉めして暴力沙汰とか、どこか結局でそういうほつれ目ができて、いつか自分が手ひどく傷つくか相手を過剰に傷つけるか、それで挙句刑事事件とか、とにかく碌なことにはならないんだ。だからな、なんでも受け入れようとするな、それを善だと思うな、依里ちゃんのことを真里ちゃんがそこまで背負う必要なんかないよ。第一依里ちゃんは真里ちゃんと同じ歳の双子の姉で、真里ちゃんからは独立したまったく別の個人なんだぞ。例えば体力とか体の問題で就業ができなくて自活に必要な収入が十分得られないとかそういう将来があるとしてもだぞ、依里ちゃん自身がいろいろ支援とか補助とかそういうのを受けて自立することだって別に不可能な事じゃないんだ。福祉とか医療の、それぞれ専門のソーシャルワーカーをつけて相談することもできる。そういう役割の人間は家族の外にも沢山いるんだ。真里ちゃんが姉としての依里ちゃんを、そのこれまでの成育歴のいろいろを越えてそれでもそんなに好きで大切だと思えるのなら、余計にそういう『私が依里を守るんだ』って保護者みたいな感情はどっかに捨てとかないと」

そう言って真里の事を優しく諭した。真里はすこしぽかんとして康太のそれを聞いていたけれど、後半「依里のことを守ると思わなくていい」という康太の言葉については、頬を上気させながら、これは抗議なんだろうか、まるで小さな子が父親に駄々をこねるような強い口調で言い返したのだった。

「そんな事わかってるよ、依里が私のこういう所を重いって思ってることも知ってる。でも私はずっとそうして来たんだよ、周りの大人達が『依里は病気で弱いから、健康で強くて頭も良い真里がちゃんと守ってあげてね』って、そう言ってきたことをちゃんとお利口に守ってきたらこうなったの。それを今になってさ、お互いもう18歳で依里はこの先がやや見えて来ちゃったから、それなら多少無理しても何なら死んでもいいからあとは自由に生きていいことにして、私はこの依里の保護者的思考回路を全部軌道修正してそれぞれ自立しなさいなんて言われてもどうしていいか全然わかんない、じゃあ私のこれまでは何だったの?あとさあ、依里と私はただの姉妹じゃなくて双子なの、依里はそもそも私の半分だった訳じゃない?私が病気で依里が健康な人間だったのかもしれないじゃない?康太先生は依里のことを今、支援と補助を受けて自立できる人間だって言ったけどそれって何?今のこういう弱い人たちに対して全然優しくない世の中で税金使って生かされてるんだろって周りに言われる人間になるのって幸せ?全然自分の自由にならないしんどい身体でいつもいつでもありがとうございますすみませんって方々に頭下げて生きるのって幸福な生き方だと思う?そういうのをあと10年とかそう長くないかもしれない残り時間の間ずっと依里がたったひとりで続けるの?そういうものの全部が、とにかく全部が私は今、依里に申し訳ないの、わかる?わかんないでしょ?私だって依里と普通の、ただの仲のいい双子の姉妹でいたかったよ」

そういう哀しい怒りの感情を康太に訴えている間に興奮して激高した真里はデコラ張りのテーブルに結構な勢いで突っ伏して泣き出してしまって、その拍子と衝撃で餃子のタレの皿と取り皿のいくつかがひっくり返って油っぽい床に乾いた音と共に散らばった。その皿の数の割に派手な音を聞いて厨房の奥からさっきのおばあちゃんが白い布巾を片手に出てきてくれて、あらあらどうしたのお兄さんたちこんな可愛いらしい子に一体何を言ったのよと、僕達がわりに本気らしい口調でそのおばあさんに叱られてしまって、この話は一旦おしまいになった。

でも真里の言いたいことは僕にはよく分かる。こめかみのあたりがずきずきと痛むくらいによく分かる、それはかつての僕もそれと全く同じ事を考えたからだ。それにそういう真里の感情を殊更加速させたのは僕なのかもしれないのだ。僕は確かに真里とよく似た状況下で育ってきた人間ではあるのだけれど、僕はもう既にその片割れである兄を亡くしている。僕の物語は既に3年も前に終わってしまっていて、今ここにある誰に対しても何に対しても打算的ではないけれどしかし妥協の気持ちのとても強い八方美人的で、すべてにおいて抗議する気持ちの殆どないこの僕の性格を構成している部品はあの頃、兄を自分と同一視して介護し看護していた僕の残像であり残骸のようなものだ。現在進行形で僕は僕というものを静かに兄という存在から分離している最中で、それは意外に痛くて苦い作業であるし僕が完全な個体の僕になるにはきっとまだまだ時間がかかると思う。そしてその僕この1年程僕の友人として同級生として隣で見ていた真里は、そう遠くない将来「あの時にこうしていれば」という後悔だけを残したまま姉を見送りそれが焼かれて白い骨になる前に、生きているうちはヨルのことをもっともっとしっかりと確実に守るのだと、死んで跡形もなく消えていなってしまう前に、後悔ばかりをそこに残してしまう前に、出来る限りをしてあげたいのだと、そんな気持ちを殊更強くしてしまったのかもしれない。

そうだとしたらごめん真里。僕にはそれをどうする事もできないのだけれど。

子どもみたいにしゃくりをあげて泣いている真里に、康太は真里の隣の椅子に座り直して真里にひたすら「真里ちゃんのこれまでを否定するつもりなんか無いんだ、真里ちゃんは本当によくやってる」とか「でも真里ちゃんが真里ちゃん自身をまず大事にしないと駄目ないのは間違いじゃないだろ」とかそういう事を言って慰めつつ説得しつつ謝罪し、僕はそもそも元々が激高型の性格である人間が感情を昂らせてしまった場合はただ静かに待つのが得策であるという考え方で、目の前の皿の料理を細々と食べていた。ああいう感情が落ち着くのには時間がいるのだろうと僕は思っているので。でもそうしていたら泣きながら僕の姿を視界の端でしっかりと捉えていたらしい真里に僕は突然噛みつくようにして叱られた、ちょっとそういうの、信じられないんですけどと。

 「シュウってさあ、ひとが泣いてる向いで普通にご飯とかよく食べられるよね、ホントサイテー。さっき話の一部訂正する、康太先生、こういうのとだけは付き合わない方がいいよ、絶対大事にしてもらえない、記念日とか誕生日とか普通に忘れて流すタイプだよ。依里にもよく言っとくわ、どんなにシュウと仲良くなってもそれでシュウのことを人類の男の中で一番好きだって思う日が万が一やってきたとしても、アイツだけは絶ッ対にやめとけって、この広い世界にはもっと優しくていい男が沢山いるんだからって」

 「えっ…でもホラ、ハラへってるし、料理冷めるし、ああそうだ真里、ヨルが旅行に行きたいんだって言ってるのって聞いてる?真里と僕と、あと康太も誘えって。1人だと新幹線の予約の仕方とか乗り方がよくわかんないとか、あとホラその辺で行き倒れたら周りに迷惑かもしれないしそれが心配だから、こればっかりはできたら誰かについて来て欲しいんだって」

 でも康太を誘うのは、立場上まずくはないかって僕は言ったんだけどヨルがそれは康太が判断するからとにかく聞いておけって。僕はちょっと話の方向を変えるつもりで、そして聞いておけと言われたからにはちゃんと真里と康太にヨルが「サルとキジと犬を募集している」と言う事を2人に伝えのだった。真里はそれをなにそれ初耳、依里ってシュウにはそういう頼み事とかするの、私にはそういうの全然言わなくなっちゃったのにと言って驚き、そして僕としてはいくら何でも一緒に旅行とかそういうのはダメなんじゃないかと言っていた康太は意外にも

「日程さえ合えば俺は別に構わないぞ、依里ちゃんはもう成人医療の方に移行しちゃってて、俺はどっかと言うと小児リハが専門だから今後もしまた依里ちゃんが入院したとしても完全に受け持ちから外れるんだ。それにそれって友達としてってことだろ。小児病棟にいる中学生と遊びに行くとかそういうのはさすがに問題だけど、まあ見方を変えれば、俺は柊也の友達で、柊也は真里ちゃんと依里ちゃんの友達で、だから友達の友達ってことで、節度さえ守ればそんな個人的なことまでは病院はさ」

 特に目くじら立てないぞと、そういう事らしく、真里は

 「依里が、私とシュウと康太先生とどこに行きたいって言ってたの?」

 そう言い、怒りと涙をどこかに引っ込めて僕の顔を覗き込んで聞いて来た。それで僕は『金沢』だと、そしてそれしか聞いていないんだと言い、逆に金沢って何なのかどうして金沢なのかと僕は真里に聞いた。それは例えば2人の親戚がいるとかヨルの友達が住んでいるとかかつて家族旅行に行ったことがあるとかそういうヨルにとって何か特別な思い入れのある場所なのかと。でも真里の回答は

 「知らない、依里の友達なんか生きてる界隈ではシュウか康太先生くらいだと思うし、親戚は殆どこの辺りのせいぜい隣の県とか?そういう所にしか住んでないもん、あと家族旅行ってさあ、シュウの家はそんなのに行ってた?うちらみたいな年中入院してる家族のいる家で家族旅行って全然行けなくなかった?」

 真里にはこれから冬を迎える遠い日本海の、きっと冬はとりわけ寒さが肌に突き刺さるように厳しいのだろうその土地に今のヨルが行きたいと言う意味は分からないのだと言った。それでも真里は依里がそう言うのなら私は行くに決まってるじゃんと言い、康太は俺も行ってもいいけど日程はまだ決めないでくれと、勤務予定が出てからまた連絡すると言った。これでヨルの目論見通り、お供であるところの犬サルキジは揃ったのであって、僕らはそれがどうして金沢なのか分からないままに金沢に行く事になった。


 真里が突然の大粒の涙と共に中華料理屋の小皿を数枚破損したこの日、ヨルが旅行に行きたいと、その目的地が石川県の金沢市であるという話題が出た後、真里は

 「だからそういうのは依里ちゃんが決めることだろ、真里ちゃんはさあ、そういう先回りが駄目なんだよ、お母さんじゃないんだから」

 そんな康太からの注意を全然一切聞かず

 「新幹線で行くより車で行く方が早くて便利じゃない?石川県て行ったこと無いからよく知らないけど、多分そうとう田舎だし雪降るし移動手段には電車よりも車でしょ?康太先生、シュウ、2人とも運転免許って持ってる?」

 未だ旅行の目的も詳細も分からないというのに、まずは最適の移動手段と近隣の三次救急病院、だからもし万が一出先でヨルの体に何かがあった時に頼れる病院はどこか、そういうことを早速スマホを使って検索し始めて、僕は真里に大体の費用を、仮に車で行くとしてレンタカーの代金だとかガソリン代とか高速が一体幾らになるのか、それを調べて頭割りする作業をやっといてと言われてそれをすることになった。僕らみたいな人間はそういうだれかの面倒を見るとかちょっとした細かい雑務を引き受けるとか言う時にどうしても脊髄反射で身体が動いてしまうんだよな。これも癖なんだよ。そして僕は箸を片手に持ちながら移動にかかる費用の計算をしていて、ふと思いついて真里に

 「ねえ、真里のさ、整形外科医なんかには絶対ならないぞって固い決意は分かったんだけど、じゃあ何の診療科にするんだとかはもうあるの?外科とか内科とか泌尿器科とか」

 そんなことを聞いた。6年の間にいろいろと気持ちは変わるのだろうけれどそれなりに何か、今の医学部1年生の真里にとっての希望とか目標のようなものがもう既にあるのかなと思って。

 「何で泌尿器科なのよ、もちろん希望ぐらいちゃんとあるよ、小児科医」

 「へえ、なんか意外だな、小児科って体力的にかなりキツそうだけど。でもそれってやっぱりヨルの事があるから?だったらさ」

 僕が言いかけた言葉に対して、真里は凝視していたスマホから目を離してじろりと僕を一瞥してそこに言葉を、返答をかぶせた

 「あのね、依里のこととそれが全く関係ないとは言わないけど、これはどっちかと言うと依里の友達ためなの。依里のもう死んじゃった友達は私の友達でもあったわけ。障害とか病気のある子どもの支援施設とか同じ病気の患者の家族会とか?ママがそういうものの集まりに依里と一緒に私もいつも連れて行ってたからね、そこでいつもそこにいる子たちと一緒に遊んでたの。みんな年が近かったし。それがみんな今日に至るまでに理不尽なくらい早く死んじゃって、あっという間に死んじゃって、私は一切何もできなさ過ぎて、何もできないんだから励ますこともできなくて、それが本当に本気で悔しかったのよ、そういうモノのカタキを私は打ちたいの。それって動機としては十分じゃない?康太先生は私を所謂きょうだい児って、そういういう豊かで楽しいコドモ時代を病気の姉のせいで剥奪されちゃった可哀相な女の子だって、そう思ってくれてるのかもしれないけど、確かに私もそれを否定はしないけど、でもそこから生まれるものだって、きっとあるんだよ」

 そう言った。そうじゃないのと何かイヤじゃない?私っていう人類がちょっと色々と自然の摂理とか社会構造の歪みとかそういうものに負けすぎってことにならない?確かに怨んでる人も呪ってる出来事もそれこそ星の数みたいに沢山あるよ、でもその負のエネルギーだって何だって鋭意再利用するべきじゃない?

人間、そこでいじけて立ち止まったら、もう全てにおいて負けなのよ。

 「そういう考え方ってアリかな」

 「アリでしょ、じゃあ何でシュウはPTになりたいの」

 自分の眼前にあるすべての清濁を全て飲み込みそれを血肉にして、自分と自分の大切な姉を捨てるような形で別離した父親を、そこにある父権的で差別的なすべてを毛嫌いしながらも金づる兼踏み台にして、そうやって未来の自分を自分の手で育てるのだと言うなんだか壮絶な真里の覚悟を目の前にして、僕は流石に康太が「俺の後輩になれるぞ」と言って今の大学のリハビリテーション学部の受験料を奢ってくれたから、それならまあいいかと思って受験をして、そうしたら何故か受かってしまって、成り行きで何となくこうなったとはちょっと言えなかった。

真里はすごい、僕なんかよりずっともっと、多分僕の知っている女の子の中では最も、しなやかで強い。


サポートありがとうございます。頂いたサポートは今後の創作のために使わせていただきます。文学フリマに出るのが夢です!