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太郎の回顧録

立冬の過ぎた今、私の太郎が彼岸の向こうに渡ろうとしています。

太郎と私の出会いは2009年。元号は平成で、一番上の息子は生まればかりの新生児でした。その頃私はまだ京都の、夕暮れ時カレーの香りがどこからかするような、あちこちに人の暮らしの匂いのする賑やかな町で暮していました。気が付けば出会ってから13年、有形のものはいつかしずかに崩れて滅んでゆく、それが世の理であるとはいえなんだか寂しいことです。

あ、太郎というのはウチの炊飯器です。

「家電に名前がついてんの?全部?」

そうお聞ききになりたくなるでしょうが、別にそういうことはありません。うちの家電で名前ついているのは炊飯器の太郎と、これ家電と言えるのかどうかわからないのですけれど、末の娘が使っている酸素濃縮器「ハイサンソ君」くらい。でもこの「ハイサンソ」はこのひとの商品名、本名だし(医療機器の商品名、それはベタが命)それだから固有の名前をもつのは、やっぱりこの炊飯器の太郎だけ、ということになりますね。

で、何故太郎なのか。

これは凄く単純明快な理由で、この炊飯器は2009年、ときの麻生太郎内閣が地域振興券というものを各家庭に配布したのですけれど、それを使って購入したものだからです。当時の麻生太郎首相がくれたお金で(いやそれ税金)購入したので太郎、単純すぎる程明瞭な名付け方。

丁度、私にとって初めての子どもの生まれた年で、その頃私の手元にあったのは年代物の3合炊きの小さな炊飯器でした。それだといずれお腹の子が生れて育った時、その子がどんぶりゴハンをもりもり食べる子だったらこれではいささか小さすぎるのではないかと思った私は、貰った金券を握りしめ、ぴかぴかに新しい5合炊きの炊飯器の太郎を国道沿いのヤマダ電機で意気揚々、購入したのでした。

結婚する前、何がどうしてそうなったのか(論文を書かないからです)地元から出てきて7年も大学に在籍し、そのまま関西で就職して、結果長く1人暮らしをしていた私は1人暮らし用ではあるものの冷蔵庫とか電子レンジとか生活に必要な家電を一通り持っていて、それなら当座はこれでと、結婚の時に殆ど新しい家電製品を求めるということをしていませんでした。お金もあんまりなかったし。

それだからこの太郎が、結婚後初めて購入した家族仕様の家電だったわけです。学生時代に京都の寺町四条で買った格安の3合炊きと共に暮らして10年とちょっと、そののち手に入れた5合炊きの炊飯器はなかなか立派で大きくて、炊き込みご飯も、おこわも、玄米だって炊けちゃう当時の最新型。即物的であることにかけて結構自信のある私は、

「ありがとう太郎」

と思いながら炊飯器の方の太郎を抱きしめたものでした。

それで、その2009年は一体何が起きた年だったのかと今、記憶の糸をするすると手繰ってみると、WBC(ワールド・ベースボール・クラッシック)で日本代表が金メダルを取っていたということがまず思い出されます。私はふだん、

「野球ですか、ルールはよくわからへんのですけどなんだかみんな楽しそうやし、いつか阪神百貨店で優勝セールをしてくれたらうれしいし、あと球場で飲むビールは間違いなく旨いし、だから嫌いではないですよ」

野球が特に憎くも熱狂的に好きな訳でもない。どちらかと言うとそれへの関心が希薄な方の人間ですが、何しろ陣痛に耐えているその最中が日本対韓国の決勝で、ヒトが5分毎の陣痛にふうふう言いながら耐えているというのに、傍らの今まさに父親になろうとしている男が

「打て!イチロー!」

とかやっている訳ですから、何が野球やと、こっちは地球の人口をひとり増やすとこやねんぞ、あまねくこの世界に生命が厳かに誕生しようとしとるとこにおまえ…もう床に正座しけと思ったものでした。いやもしかしたら実際に言ったかもしれない。それで深く記憶に刻まれているのです。あの時の日本代表は激闘の末優勝、黄金色のメダルを手にしました。延長10回、金メダルを手にすることの決まった瞬間、寡黙な禅宗の僧侶のような人だと思っていたイチローも、羽曳野のやんちゃ坊主のダルビッシュさんも、あと誰がいたのだっけ、マー君だ、とにかく皆野球少年の顔をしてマウンドに向かって駆けてゆきました。そんな元・少年たちを見届けてから、その翌日私もいずれ将来少年になるだろう子をひとり産みました。

それが、我が家に太郎と息子のやって来た2009年のこと。

以後太郎は、我が家で黙々とゴハンを炊き続けて子どもがひとり、またひとりと増えてゆく様を眺めて、一体何を考えていたのでしょうね。長く使った道具にはつくも神とか、魂が宿るものだと聞くし「なんか…しらん間に小さいのがじわじわ増えとるな」位は思っていたのかもしれない。

この13年の間、ウチにはいろいろありましたが、世界も本当にいろいろありました。

太郎がやってきて3年後の2011年の夏には真ん中の娘が生まれて、その少し前の3月には東日本大震災がありました。関西に自宅のある私達にとってそれは

「東北と関東の人達が大変なことに…」

とても現実味のない、でも現実でしかない映像を見てなすすべなくただ愕然とする、そういう出来事でした。地震直後には原発事故が起きて、周辺に暮していたひとびとが故郷を突然失い、それはその後日本を覆う分厚くて暗い不穏な雲となりました。あの時、妊娠15週目でひどい悪阻のピークの只中にいた私は鉛色の津波の中にどうやら人らしい何かの流れてゆく映像と、原子力発電所の建屋が白い蒸気と共に吹っ飛ぶ様子を見て吐き気を忘れ茫然としていました。故郷から否応なしにバスに乗って遠く、知らない土地に避難するために運ばれてゆく人々の悲嘆、日経平均株価はあの時7000円台、なんだか嘘みたいなことになっていて、妙に明るく恬淡としたCMばかりがテレビで流される奇妙で落ち着かない毎日の中、太郎は黙ってゴハンを炊いていました。

それから、いくつも天災が起きて、ちょっと訳のわからないような事件が何度もあって、その中で私は2017年に子どもをもう1人産んで、そうして2019年、世界はコロナウイルスによってそれまであった姿を大きく変えました。初めの頃あらゆる学校は全面休校、飲食店は軒並み休業、心臓疾患を持っている末の娘の治療はそれの影響で検査も手術もすっかり遅れて、皆目に見えない敵から身を護るために家に閉じこもりました。太郎はその時も巣ごもりの我が家でゴハンを炊き続けていました。

この出来事の前と後で、世界は大きく姿を変えて、以前の世界はもう戻ってこないように私は思っています。以後どうなるのか、私には全然分かりません。

世界はもう、社会学や疫学や医学、それから科学とか?そういうものの高度な知識を持ち得ない私の如き市井の人間にはひとつも予想がつかない場所になりました。どんどん繋がってゆき、結果どんどん狭くなり、時折二元論的で、実は一元論的、直接的である一方、更に複雑に煩雑になってゆく。2009年に生まれた息子は今13歳ですが、あと5年経ってこの子が成人する頃には一体どんな世界が出来上がっているのでしょう。世界の殆どを構成している普通の、市井の人々が皆不遇の隅に追いやられて、焼野原が広がっているような世界だったらどうしよう。

それでも、毎日ちゃんと暖かいご飯があればなんとか明日を生きていけるだろう、何しろお米には7人の神様が宿るらしいし。

2009年から2022年の間の世界と私の個的変遷の中、私には自分も子どもも「生きていればまあよし」という単純明快な、最低限度のそしてやや、ヤケクソ的な幸福基準ができあがりました。それくらい世界が大変なことになったという印象があるのだけれどあなたはどうですか。私にはこの極限の日々のお影で「とりあず生きてたら偉い」ということが人間の根源的な承認であると思い至ったというか。だって思いませんでしたかこの3年ほどの、ほぼ世界中の人々に平等に降り注いだこの困難にあって

「まあ…いきていればそれでよし、今日のゴハンが美味しいならなおよし」

かなり投げやりではあるのですけれど、でも人間にとって大事じゃないですか、生まれてそののちに付加されるものを全部取り払った時にそこにある「生きてるだけでいいんだ」って根源的な承認。その承認の発見の傍らでやっぱり太郎はゴハンを炊いていました、大体の場合は早炊きモードで(私がいつもギリギリに炊くもので)。 

太郎は、多分もう部品が生産されてないくらいの型番落ちで、ルンバのように自立して動かないし、機能的にしゃべりもしないし、笑ったりもしないじいちゃんなのですけれど、それでも私にとっては結構『友』みたいなところがありました。

それに私は同僚のいない個人事業主でかつ主婦なもので、その友である家電がひとつ壊れるってなんだかとても思っている以上にインパクトがあるのです。彼とはもう長い付き合いだったのに。

冬の入り口、炊きたての白飯はどの季節の季語なのか、夕方は暗いし寒いしなんだか寂しい。

さようなら太郎、13年間の長きにわたって我が家にゴハンをありがとう。


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