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8月31日の夜に地球滅亡の祈りを。

そもそも、私は生まれつき同調とか協調とかそういうものの空気を自然には全然感知できない体質なのだと思う。

その昔、中学時代に部活の顧問の先生に

「みんな!朝練は来られるようなら必ず来なさい!」

と言われて、朝は犬と散歩するからいいやと思い、それに一切行かなかったら、ある日顧問に呼び出されて「みんなはちゃんと朝練に来ていたのにお前はとうとう一日も来なかった」と叱られた。

だから、私は学校なんか大嫌いだった、なかでもやたらとグラウンドの外周を走らされる部活動とか一致団結を強いられる体育祭とか先輩後輩の謎の厳しい上下関係とかそういう協調とか同調とか不文律とかあまりにも学校的なものの濃度が一番濃い中学校生活を本当に嫌だと思っていた。

そうやって、たいして目立ちもしないし、特に成績優秀でもないし、かと言って素行不良でもない、暗くて本ばかり読んでいて話せば直ぐ口ごもるような女の子が、例えば文化祭とか、部活の大会前とかみんなが一緒に頑張ろうねという空気の中

「わたしはあんまりやりたくないけどね」

そんな空気を纏って何となくそこに参加したりしていなかったりするのは周りの活発で積極的に学校活動に参加している子達には目障りで癇に障ったのだろう。

ある日、歴史の教科書が手元から消えてしまった。

当時、学校の机の中に教科書を置いて帰る事は教師から固く禁じられていて、毎日固い革製の学生カバンに教科書学用品筆記具すべてをパンパンに詰め込んで持ち帰っていたのだけれど、歴史の教科書がどこを探しても見当たらなくて、あれえどうしたんだろう、誰かが間違えて持ち帰ったのかなと思っていたら次は地理の教科書が無くなった。

それから、通学用のスニーカー、そしてノート、筆箱。

数日ごとに自分の持ち物がふと跡形もなく消えてそして戻ってこなくなってしまった。

中学2年生の頃だ。お陰で私は丁度、その国家自体の崩壊に時期があたってしまった事も手伝って、ソビエト連邦、現在のロシア共和国と周辺諸国、そのあたりの地理や気候を全然よく知らないまま大人になった。

そうして、明確に叩かれたり殴られたり、目の前で私物を壊されたり汚されたりする訳でもない「個人を狙って誰かがそのひとのものを隠すか破棄する」というそのふんわりとした、相手の見えない悪意に、もともと気の小さいそして友達という味方の少ない当時14歳の私は

(誰かが私の事を大嫌いで、こうやって匿名で攻撃をして影で嗤っているんだろうなあ)

本当に暗澹とした気持ちになった。相手がわからない以上、何をどうしたらいいのか、何が相手の気に障るのか、自分の何が落ち度だったのか、皆目わからない、でもその『わからない』というのが、見えない相手からすると最大の理由だったのかもしれない。

ただ、何かが突然無くなるのは本当に困るし、一体誰がそれをやっているのかいつも疑心暗鬼になるし、何よりそういう悪意に自分が晒されているんですと人に言うのは何かとても恥ずかしかった。

「私、不特定多数の人にすごく嫌われています」

そういう宣言を特に大人に向かって放つ事がとても恥ずかしく屈辱的だったのは、14歳からもう30年近く経った今でも自分にはよくわかる。

それで、出来るだけ大人しく、そして目立たないように、もともと、際立った見た目でもなく、成績もぱっとしなくて、部活でも、吹奏楽部のコントラバスだったけれど、取り立てて楽器演奏が上手いという訳でもない私は大声を張ったりせずに、何となくいつもニコニコとして、そして挙手して何かを積極的するという事を避ければ、何とかこの自分にふんわりまとわりつく悪意がいつか自分から手を放してくれるんじゃないかと期待して待っていた。

そして、それは当てが外れた。

3年生になって受験をして高校に入学するまで、こまごましたもののは定期的に無くなり、黒板消しの粉で机椅子が白くお化粧している日もあったし、わざわざ学生カバンの持ち手にセロハンテープで画びょうを「刺さるように」工夫してくれている時もあった。

いやだなあ。

私は、学校という入れ物というかもう概念自体が累乗で嫌いになった。

そういう人間の夏休み最後の夜というものは悲壮だ。あの当時は本気で

「今、隕石が地球に落ちてくれないだろうか」

そう心から願っていた。自分の体を傷つけてまですべてを終わりにする方向への勇気も覇気もない女子中学生だった私は、長期の休みが明ける前の日、特に夏休みの開ける前の日は地球の滅亡を切に願った。

明日世界が終わればいいのに。

きっとどこかで私と同じように世界が消えてなくなる事を願う私と同じような子が虚空に祈りを捧げている筈だという想像上の誰かへの連帯だけが8月31日の14歳の自分を支えていた。

そして、当たり前だけれど次の日、9月1日は普通にやって来た。

現実とは残酷だ。

それで今、2人の小学生の母になった自分としては、子ども達がそんな辛い目にあって、その事自体を私に告白してくれなくても

「夏休み終わるけど明日学校に行きたくないな」

と言ったら、この令和の夏休みの最後の日は大体が8月31日ではないけれど

「学校なんか無くなればいいのに」

そう小声でつぶやいたら、我が子と共に学校というものの消滅を祈り、もし次の日がつつがなくやって来てしまったら、ずる休みの手配位してやるつもりでいたのに。

夏休み明け、2学期最初の日だった今日、6年生と3年生の兄妹はまるで転げながら駆ける仔犬のように嬉しそうに登校した。

友達に会えるのが何よりうれしいと言う。

私の、協調性を欠き、周囲に同調することが出来ず、不文律の意味を理解しないあの遺伝子はどこにいってしまったのだろう、いや、これはいい事なんだろうけれど。

そう思えば、今私の周囲で「学校に行きたくない」と本気で夏休みの終焉を恐れる子はほとんど居ない、時代が変わってしまったのか、それとも、私のような人間自体が本当に少数派なのか。

最近「このお休みが終わらないといいのに」という文言を誰かから聞いたのは、いつだろう。

多分、末の娘と入院している時だ。

それは私が、末の娘の心臓の手術を待って、2ヶ月程小児病棟の付き添い入院をしていた頃のこと。

大学病院の小児病棟、特に長期療養棟の中には色々な疾患の子どもがいる。大別すると娘のように心臓やそのほかの各種臓器に先天疾患を持っていて外科手術を必要とする子ども達と、半年や1年なかにはもっと長い時間をかけて投薬や点滴で病気を抑え込むことを目的にしている子ども達がいて、前者は私の娘のような幼児が多かったし、後者は小学生や中学生が多くて中には高校生の子も混じっていた。

だから、病棟にはちゃんと学校もあって、近隣公立校の分校として存在しているそこで学齢期の中学生や小学生はそこで治療と治療の合間、体調の許す限りは勉強する。

と言ってもこの時は丁度春休み期間で、学校として使用されている一室は施錠され、子ども達の姿はそこには無かった。

ただ、その近くにある掲示板の春らしいちょうちょやチューリップの折り紙と、多分点滴の管をぶら下げた手や疾患のせいでうまく動かない手で書かれたのだろう、少しいびつな書道の展示は学校らしい雰囲気を少しだけ周りに振りまいていた。私もよくそれを病棟の散歩の合間に娘と見に行っていた、何か和むので。

当の娘はまだ生後3ヶ月程度で多分何もわかっていなかっただろうけれど。

その時、そこで高校生の女の子とよく顔を合わせた。

その子はお薬のせいで髪の毛が抜けてしまっているようで、可愛らしくバンダナを巻いている日と、あとは誰かが彼女の為に編んだのだろうコットンニットの帽子をかぶっている日があった。

笑うと出来るえくぼが可愛らしい色白なその子は、高校の授業を通信教育のような形で対応してもらって進級もできるんですよと話してくれたけれど

「でも、この春休みがあけたら新学年になっちゃうんですよね…」

新しい学年と共に新学期が始まる事が、少し寂しそうだった。

新しいクラスが始まって、それから何ヶ月も遅れてその子が教室に入る日が来たら、クラスのみんなはそういう病気や特殊事情で周回遅れにやってきた子を『特別に頑張ってきた子』として優しく迎えてはくれるだろうけれど、でも、もう友達のグループは出来上がってしまっているだろうし、そこには何か入りにくい真空地帯みたいなものが出来上がっている。

それがどうして私にわかるのかと言えば、私の人生がいつもその『真空地帯』にあるから。

みんなに参加できなくていつもいろんなグループの周りをウロウロして結局ひとりでお弁当を食べる、そういう人と人との関係性の真空地帯に。

その子は、見ず知らずのおばちゃんと赤ちゃんと病院の廊下でちょっとした立ち話ができる位フランクで社交性もあるそんな子ではあるけれど、女子高生って難しそう、難しいよねきっと、そう思って。

「そうだね、先にはじまっちゃうと寂しいね」

とだけ返した。そうしたらその子は、

「春休み、終わらないと良いのにな」

と小さく小さくつぶやいた。多分私に向かってじゃない、これはきっと14歳の私が祈った「地球滅亡の願い」のまた、別の形の祈り。

だから、私は返事をしないでおいた。

自分ではどうしようもない不可抗力の病気に楽しい筈の高校生活を根こそぎ持っていかれたあの子はその後、娘と再入院した時には姿を見なかったけれど、あの子の長い長い春休みは、無事に幸せな終りを迎えたのだろうか。

自分ではどうしようも無く理不尽で、哀しくなるくらい自分が無力に感じられる8月31日の夜は、実は学校を遠く離れても、人生には何度も訪れる。

今までも、そして多分これからも。

新しい明日が来なければ良いのに。

すべてが白日の下に晒される日が来ることが恐ろしい。

何もかもが消えて無くなればいいのに。

14歳の頃から、その日はいつもそう思いながらずっとやって来て今日まで、私は今でも8月31日の夜には同じ気持ちでいる誰かのために何となく地球の滅亡を願う。

滅亡して誰もいなくなってしまった地球には、一体何が残っているだろう。

あの日、私の手元からこつぜんと消えた歴史の教科書はそこにあるのかもしれない。

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