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小説:グリルしらとり4

続きものの小説になります、過去のものはこちら、すこしずつ書いて、10篇になるといいなと思っています。


『カキフライ』

「立春は春のはじまり」とは言ったところで二月の朝はまだひどく冷たい。

昼間は店の裏のゴミ置き場にできるわずかな陽だまりをブチとミケの猫二匹が仲良く分け合い、夜は厨房の灯りを消した暗闇がそのまま氷ってしまいそうな冬で、こういう季節は盛夏と同じでお客さんがいつもより減るのだそうだ。こんな寒い季節だからね、みんな寄り道するより早く自分の家に帰って暖まりたいんだよと洋一さんは言った。

「二月って実家では新酒の季節だったんです。一年かけて作った酒が仕上がって、それを出荷する時期で、だから蔵の中はひっくり返るほど忙しいし、親も親戚も総出でそっちにかかりきりで、しかも丁度雪の季節だから僕も散々雪かきやらされて…だから穏やかな二月ってなんか落ち着かなくて。それに東京って冬も結構晴れてるじゃないですか、それもなんか落ち着かないって言うか、東京に来て三年になるけど今も不思議だなあって思うんですよね」

「それ、死んだ親父もずっと言ってたよ。親父の生まれは東北だったけど、東京は冬でも天気がいいんで毎年びっくりするなァって、向こうもかなり雪が降るからね。青森の冬は空がずっと白く曇ってその雪雲が雪をうんと降らせるんだってさ、雪は屋根より高く積もるから冬の間家ん中が夜みたいに暗くなって、その中で火を焚くもんだからすごい煙たいんだぞって」

「金沢はそこまでは降らないんですけど、でも冬の間は本当に晴れの日が少なくて、なんか空がこう…鉛色でその分雪も灰色に映るって言うか、なんか、街全体がどんより暗くて」

「へえ、灰色」

雪は、特に積もったばかりの新雪なんて本来、光の先端が目に刺さるような白なのに、僕の記憶の中にある故郷の雪はいつもぼんやりとくすんだ灰色だ。それは僕の故郷への感情のようなものがそれに暗くてくすんだ色を付けてしまっているからだと思う、多分、いや絶対に。僕は手持ち無沙汰でただ寒いだけの冬が苦手だ、寒さを感じる暇のない程いそがしい冬じゃないと僕は余計なことばかり考える。来月は再来月は未来は僕らは一体どうなっているんだろう、大丈夫なのかなという焦りに似た気持ちで身体の中が飽和して、次第に背中のあたりがひんやりとしてくる。

「二月と八月はこの業界は暇なもんなんだ、ウチは平日もこの辺の会社勤めのお客さんがランチに来てくれる分、夜が若干暇になっても売り上げがた落ちってことはないし、その間に普段できないことをやるんだ、まずは航が火の前に立つ時間を増やすか」

航はこういう時に出来ることをどんどん増やせ、それで俺はもう航にある程度まかせて楽するんだなんて、本当はひとつも考えてもいないことを言いながら、洋一さんは僕の頭をポンと軽くたたいた。

そんな話をしたのが朝の仕込みの時間だったはずがこの日は、年明けの最後の名残のようにラストオーダーまでお客さんが途切れるということがなかった。お陰で普段よりも一時間ほどクローズも後片付けも遅くなり、ラストオーダーの後から皿洗いに駆り出された文乃さんは「久しぶりに厨房に回ったら足も腰もギシギシいうわ」なんて背中をエビのように反ると本当に骨と骨のゴキゴキと軋む音などを立てていたものだから「あとは僕らでやっときますから」と半ば強引に自宅に帰ってもらった。

残った厨房の僕らは洗い上がったすべての備品と什器を元の場所にすっかり収めて生ゴミをパントリーの横の置き場に出し使い終わったリネン類をすべてクリーニングの箱にぎゅっと詰め込んで厨房をいつものように隅々まで綺麗に片づけた。洋一さんは掃除にはとにかくうるさくそして細かくその一番の理由は「ゴキブリが何より怖い」からだそうだ。あの平たいのがぞわーっと動いてしかも飛ぶだろ俺あれだけはダメなんだよ。

「そこ、もう大体片付いたか」

洋一さんの言葉に「はい大体は」と調理台の上に少しだけ残っていた油の曇りをきゅっとダスターでぬぐってから返事をした僕はふと「外に月が出てますよ」とか「明日晴れますかね」とか、そんな天気の話の気軽さで自分の父親の死のいきさつを洋一さんに話していた、なんだかするりともしくはさらりと。それがどうしてなのかは分からない、なんにもひとつも聞かれてもいないことだったのに。

「洋一さん」

「なんだ、どうした、ゴキブリか?」

「いえ違います、その、ここに面接に来た日、僕の父親は蔵が倒産してその後に死んだって僕、言ったじゃないですか」

「ああ、覚えてるよ、航のお父さんなら下手すると俺の息子でもおかしくないって年頃だろうになあって言ったよな俺」

「あれ逆なんです、父が死んで蔵が潰れたんです。僕の父親、銀行から結構な額の借り入れをして設備投資した後なんか色々上手くいかなくてその資金繰りにとても困ってたみたいで、それで蔵で首、吊っちゃって」

几帳面な洋一さんの手でぴかぴかに磨き上げられほぼ鏡面仕上げになったデシャップ台の横の棚から仕入れの帳簿を取り出して確認をしていた洋一さんは、ふとそこから目を離して僕の方をじっと見た。それからすこし勢いをつけて帳簿をぱんと閉じて小さく呟くように「辛かったな」と言った。

「面接に来た日の航は随分思いつめた顔してたもんなあ、だから俺もつい採用しちゃったんだ、育ちのよさそうな、台所仕事なんかこれまでひとつもしたことないですって顔してたのにさ」

「えっ、僕が北国生まれで真面目で辛抱強そうだから採用してくれたんじゃないんですか?」

「いやそれもあるけどさ、でも『わるいけど…』なんて言って帰したら、それこそあっちの陸橋の上から飛び降りそうな顔してたもんだからさ。だって本当にそんな顔だったんだぞ、なんだかこの世の終わりみたいな青白い顔して、背中なんか随分丸まってて」

洋一さんの言った言葉はかなり的を得ているというかそれはほとんど正解だった。僕は確かにあの時東京で適当な仕事が決まらなければもう金沢に帰ることもできないし、何もかも全部どうなってもいいやと思っていて、その『どうなってもいい』ものの中心には自分の命が置かれていた。あの時、僕には真剣に死んでしまおうと確固たる意志を持っていた訳ではなかったけど、もう本当になにもかもどうでもよくて自分の全部をぞんざいに適当に扱いたくて仕方ないって気持ちでいた。あの頃の僕は生きてなんかなかったな、ただ死んでないだけで。

「航が生きててくれてよかったよ」

「なに言ってんですか、大げさですよ」

「いや、身内の誰かが突然死ぬってことは、それくらい大変なことだよ」

誰かが死ぬと、そしてそれがあまりにも準備されていない唐突で突然のものだと、その人に近しい周りの人が『死』の力みたいなものに強い力で引っ張られてしまうことがある。どうしようもなく、抗いようもなく、まるで暗い沼の中心に引きずり込まれるようにして。

「連れ合いが死んで、一年か二年ほどの内に亡くなる人って俺たちの年頃の人間には意外に多いんだよ」。

それは哀しいから、辛いから、体の一部の消えたような喪失感があるから、理由は色々だ。

「まあでも、お父さんはその時正気じゃなかったんだよ。何かの…なんだろな、不可抗力の強い力みたいなものに引っ張られた。そうじゃなきゃあ大事な一人息子に何にも告げずに死ぬなんてことはしないし、できないよ」

洋一さんがそう言うとそれが本当の真実のことに聞こえるから不思議だ。洋一さんの息子さんの方の航さんは僕の父親とは違って、病気で自らの意思とは全く関係なく理不尽にそしてまだ子どもの内に死んだのだけれど、でも死なんてものはどんな形状をしていても、それを見送る側には準備のひとつも整わない暴力的に突然のもので残された方の内側は傷だらけだ、少なくとも僕はそうだった。洋一さんも僕と同じように苦しんできたのかもしれないな、もしかしたら今も。

「そう…なんですかね」

「そうなんだよ。前も言ったけどな、厨房で大将の言うことは絶対だ、俺がカラスが白いって言っても『ハイ、そうですね』なんだ。いいか航、誰を亡くしてもそれでどんなに大切な何かが消えていっても生き残った俺達は明日も明後日もここでうまいもんを作るんだ、ほら返事は」

それはいつかの洋一さんが洋一さん自身に言った言葉なのかもしれない「生き残った俺達は明日も明後日もここでうまいもんを作る」。

「ハイ、そうですね!」

僕がわざとらしいほど元気な声で返事をすると洋一さんは笑って、僕も笑った。唐突に忙しかった二月の晩は四十七歳年の違う親子でもなく祖父と孫でもなく、でも全く赤の他人にしてはほんの少し細い細い糸のような縁のある僕ら二人の笑い声の中に静かに溶けていった、キンと金属の細く高い音のしてくるような寒い夜に。

その晩、厨房の灯りを全て落として自分の住まいである二階の階段を上ろうとした時、誰かが裏口の戸を三回叩いた。とても遠慮がちにそしてやや躊躇しながら。僕はてっきり洋一さんが昨日もカウンターの上にぽんとおいてそのまま忘れて帰ったスマホを今日もまた忘れて帰ったんだろうと思って、ぜんぜん何も考えずに反射的に裏口のドアのシリンダーキーを回した。

洋一さんは普段忘れものが多くてよく文乃さんに小さな子どもみたいに叱られているし、それを見ている僕も普段スマホとか鍵とか今日着ていくはずのTシャツとかをしょっちゅうどこかに置き忘れる方でそれはなんだか身につまされる。きっと洋一さんは忘れ物に気づいて帰り道を慌てて引き返して来たんだろう、そう思った僕はドアを叩いた人影が本当に洋一さんなのかどうかを確認せず「洋一さんまたスマホ忘れたんですか」って笑いながらドアを開いた。でもそこに立っていたのは洋一さんではなくて僕の全く知らない女の人で、僕は思わず「うわ」と声を出して後ろに一歩、跳ねるように後ずさりをした。

「ごめんなさいね、営業時間中じゃあご迷惑かと思ったの、でも営業終了時間だと今度はすっかり真夜中でそれはそれでご迷惑よねえ」

小首をかしげて上品に笑ったその人は、暖かそうな毛糸の帽子にマスク、露出しているのは目元だけの、多分おばあちゃんとおばさんの間位の年頃の人だった。そうであろうと僕が推測したのは肌の上にうっすら浮いて見えるほのかなシミと目じりに深く刻まれている皺のためで、それでもそのはにかんでいる割に人にすこしも恐れの無い笑顔はなんだか小さな女の子のようにも映った。

そしてそれはその人の笑顔のせいだけではなくて、着ているものがなんだか山登りのついでにここにやってきたような恰好だったせいもあった。いちごと同じ赤のウインドブレーカーとオレンジのリュックサックにオリーブグリーンのパンツ、足元はトレッキングシューズ。なんだか遠足の帰りにたまたまここに寄ったという感じの、小学生の女の子のような笑顔のおばさん。

「あの…何でしょうか、もしシェフに御用でしたら、いま店には僕しかいなくて」

「ああいいのいいの、いないならいないで、文乃ちゃんが帰ったのは少し前に見ていたし」

「あ、文乃さん。じゃあお名前を…明日の朝、お客さんが来ましたって伝えておきますし」

「また改めますからそれもいいのよ、それよりあなたが航ちゃんかしら。背が高いわねえ、きっとお父さんに似たのね、文乃ちゃんは私と同じでおチビさんだから」

僕のことを見て「あなたのこと、昔からお名前だけは知っているのよ」と言ったその人は確実に勘違いをしていた。僕は確かに航なのだけれど津田航であって、この人の言っている航ちゃんというのはきっと白鳥航さんのことだ。

『グリルしらとり』の一人息子である白鳥航さんと僕はたまたま名前が同じだけの全くの別人で、この人の言う『航ちゃん』は僕の生まれる七年前に六歳で死んでいる。生きていれば今年三十五歳になっているはずの洋一さんと文乃さんの一人息子。これは話がややこしくなりそうだけれど訂正しなくてはいけないだろう。「あの、ちがうんですよ」そう言おうとした時、その人は僕に手に持っていた大きくて重たくて何だかごろっとした感触のするビニール袋をぐいと押し付けてきた

「これねえ、全部山で採れたものなのだけど、どうぞ貰って頂戴。それで私にもう少しだけ勇気が出たらまたこちらに、今度はお昼間にでも伺うから」

「え、あの、じゃあ文乃さんには何て伝えたらいいですか、それから僕は確かに航なんですけど」

あなたの思っている航ちゃんとはぜんぜん違う航なんです。そう言おうとした時にその人は「それじゃあね」と言ってくるりと踵を返し、人通りというもののすっかり消えた裏通りを颯爽と快活にまるで山道を歩くような足取りでビルとビルの隙間のくらやみに溶けて消えていった。受け取ったビニール袋を広げてみるとそこには栗が沢山入っていた。

「なんだこれ…」

それはなんだかキツネとかタヌキとかクマだとかそういうものが可愛くディフォルメされた姿で登場するお伽噺ような出来事だった。そういえばこういう話をむかし小学校の教科書で読んだ気がする、病気のおっかさんを亡くしてひとり寂しく暮らしている若者のもとに以前の悪戯のお詫びのつもりで栗とかマツタケを届けるキツネの話。

「ごん、おまえだったのか」

もう誰もいない勝手口にむかって呟いたそれは童話の最後に村の若者の放った台詞であって題名じゃなかった。僕はそれが一体なんて話だったか思い出そうとしたけど、その日の僕は教室の掃除道具入れに放置された雑巾のごとくくたくたに疲れていて頭が働かず、その童話の名前を記憶の中から引っ張り出そうと夜中に布団の中でずっとぐるぐると考えていたけれど結局思い出せたのはその村の若者が兵十という名前だったということだけ。昔から僕は肝心な時に肝心なことを想い出せなくて代わりにその他のそれに付随するあれこればかりを思い出すんだよなとため息をついてから静かに目を瞑り、その後は全く記憶がない、多分すぐに眠ってしまったのだと思う。

🦢

朝起きて、あれは昨日の嵐のような忙しさの疲労が僕に見せた短い夢だったのかもしれないなと思って店の二階の、つまり僕の住居部分の六畳の和室に敷かれた布団の枕もとを見るとそこには昨日あの山からやってきたキツネのような人の置いて言ったお土産がでんと置かれていて「夢じゃなかった…」と頭をぼりぼりと搔きながら僕はく独り言を言った。

二階にもキッチンはあって簡単な調理なんかはできるものの、仕事はともかく個人レベルではかなりずぼらな僕は自分の居住スペースを片付けるのがあまりにも面倒で殆どそこを使わずもっぱら下の厨房を使っていた。僕には朝は洋一さんより文乃さんより早く出勤して厨房の電気をつけガスの元栓を開け湯を沸かして食材のいろいろを確認する諸々の仕事があり、夜は後片付けをして厨房の隅々を曇りなく磨き上げるという仕事があり、休みの日は勝手に階下の厨房でいろいろを試すきまりがあって、結果二階は寝るだけの場所になっていた。

僕は起きて顔を洗って髭を剃り歯を磨いて洗い立ての真っ白いコックコートに着替えるとそのまま階下に降りた。そこでコーヒーを沸かし冷蔵庫に放り込んであった昨日の残りのパンを温めて齧って、この辺は大体いつも一緒だ。その間ずっと僕は昨日のあの人が来たことはやっぱり文乃さんには言ったほうがいいのかと逡巡していた。あの人は「勇気が出たら昼間に来る」と言ったのだしだったら言わない方が良いのかもしれない、でも二階にあの袋をずっと置いておくっていうのもなんかアレだし、大体あれは食べ物なんだから放っておけばいずれ悪くなってしまうだろうし。

僕はビニール袋と一緒に一階に降りた。

🦢

「あの、昨日のことなんですけど、ヘンな人が来たんです、夜中に」

結局僕は昨日の晩あったことを洋一さんにだけそっと話した。たまたま文乃さんが近くの整骨院に寄ってから出勤することになり洋一さんだけが先に店にやって来たので具合がよかった。それに迷ったらまず俺に聞けというのが洋一さんの教育方針いや指導方針でもあり、そもそも厨房で大将は絶対だ。

「文乃、なんか腰が痛いらしくてね、アイツも歳だな」

コーヒー貰うよと言いながら僕の淹れたコーヒーをマグカップに注いでいる洋一さんにぴったりくっつくようにして僕は昨日の不思議な来訪者のことを話した、二人しかいない厨房ではあるけれどなんだか小声で話した方がいいような気がしたので小声で。昨日の晩、不思議な人が来てそれで栗が大量に詰まった大きな袋を置いていったんですけど一体どうしたらいいですか。

「どうしたらって…なんだそりゃ、なんだかお伽噺みたいな話だなァ、疲れて夢でも見たんじゃないのか」

「でも、現物がちゃんとあるんです、ホラ、あそこに」

僕はデシャップ台の横のスツールに置いたビニール袋を指さした、ゴロゴロといくつもそこに詰め込まれている栗は改めてみるとつやつやとしてかなり立派な大粒で、洋一さんはえらく立派な栗だなと一粒手に取り、こりゃあちゃんとした栗畑で作ってるやつだよと言った。

「文乃にって言ったのかい、その人」

「はい、でも今日は会う勇気がないからまた今日の昼間に来ますって。それでその人、まだ誰とも名乗っていないはずの僕のことを航ちゃんて呼んだんです『お父さんに似て背が高いのね』なんて言ったし、だから多分それは僕のことじゃなくて、白鳥航さんのことじゃないかと、その…僕と同じ名前だったんですよね、息子さんって」

「それ、啓二から聞いたのか」

洋一さんは栗を手に取ったまま少し微笑んで僕のことをじっと見た。

「ハイ、この前弟さん…啓二さんがここに来た時に。なんだか兄さんが嬉しそうで自分も嬉しいって、航さんはすごくはにかみ屋で、厨房の洋一さんにいつもくっついてる子だったって」

「あいつなんでもよくしゃべるなァ、そうなんだよ漢字もおんなじでね、だから面接の日に航の書いてきた履歴書見てちょっと嬉しくなっちゃったのは確かだよ。でもあえて言うことでもないかなって思ってさ、だって初対面の俺が急に、君は死んだ息子と同じ名前なんだよなんて言ったら、航だって反応に困るだろ」

「僕は…なんか兄弟ができたみたいだなって、あ、でもおんなじ名前の兄弟っていうのもヘンか」

「そうだなあ、それに年がちょっと離れてるよな、生きてたら今年で…エートあいつは幾つになるんだ」

「三十五ですよね、僕と十四歳違いです」

「そんなになるのか、あいつももうおっさんだな」

へへへともはははともつかない笑い方で洋一さんがそれを言った後、昨日突然現れた鮮やかな色調で朗らかな笑顔で、そしてどちらかというと童顔でどう見ても三五歳には見えない(僕はよく高校生に間違われる)僕を白鳥航さんと勘違いした年齢のよく分からない女の人は武田佳乃さんという女性だろうと言った。多分な、イヤ恐らくそうだと思うんだ、年恰好とか、文乃に用があるって言ったってこととか、何より俺の息子の方の航を知っていて、でもアイツがもうこの世にいないってことを知らないんだったらね。

「それって文乃さんの親戚とか、昔の友達とかですか、勇気出ないと会えないんだって言ってて、だから…前になんか行き違いがあったとか、それで喧嘩でもしたのかなって」

「いや…あれは何て言うのかな、文乃の姉妹…っていうのもどうなのかな、文乃と佳乃さんは同じ日に生まれてるから」

「文乃さんて、双子だったんですか」

「そう思うだろ、違うんだよ。文乃の家はちょっとややこしいんだ。昔、文乃の住んでた辺りではよくある話だったんだけどさ」

洋一さんが言うのには、文乃さんの実家は言問橋を渡ってすぐ近くの場所にある鰻屋で、それは随分前に文乃さんのお母さんが亡くなった後に長く店に勤めていた板前に譲られて今はその人の息子の代になっていて、僕にも何回か文乃さんに竹の皮に包まれた鰻の包みを貰ったことがある。その店は文乃さんのお母さんが文乃さんを産んだ後に始めた店で、文乃さんのお母さんはそれの以前は向島にいた人らしい。

「向島ってのはそういう町なんだ、花街ってやつだね。それでお文乃のお母さんな、俺は文子さんて呼んでたけど、それがまたとんでもなく気が強くて口の減らない婆さんでさ、娘の文乃とはどうもソリが合わないみたいだったけど俺は好きだったなあの人。で、その文子さんは客として知り合った旦那との間に文乃ができてそれで芸者を辞めて、一人で文乃を産んで、それから母娘二人で食っていくために自分の店を持った。文子さんは商売上手の働き者でね、ウチの親父と同じで死ぬ直前まで店に出て客に挨拶してたよ」

「一人で?じゃあ結婚はしなかったってことですか」

「文子さんの旦那は既婚者だったんだよ、代議士先生の家の跡取り息子でね。まあそういうのが男の甲斐性とか言われてた時代のことだよ、奥さんの方はたまったもんじゃないだろうけどね。それで相手の旦那は文子さんに芸者を落籍ひかせて、向島にちいさな料理屋を出すだけのお金を融通した、結婚の代わりのそういう責任の取り方って言うのがあったんだよ、いわゆる二号さんだな」

「にごう…?」

「まあ、愛人てことだ。だから文乃は庶子として生まれたんだけど、文乃の生まれた同じ年に旦那さんの本妻さんにも女の子が生まれてんだ、それが今言った佳乃さんて人で、二人は誕生日が一緒なんだよな、まったく一緒、時間も早朝でほぼ一緒」

「そんなことってできるんですか?全く同じ日に別々の女の人からおんなじ父親の子が産まれるとか…」

「向こうもそうしようと思った訳じゃないだろうし、そこは完全に偶然だとは思うよ、だってホラ…アレだろ、なんだ、同じ日に仕込んだからって出て来る日まで同じになるとは限らないんだからさ」

「そうですよねえ、でもなんかすごい話だなって」

「そうだろ、俺も結婚する前に文乃から、自分には胸を張ってご両親に挨拶できない色々があるんだけどいいのかってそれ話された時、おいおいそんなことできるモンなのかって文乃に笑いながら聞き返して怒られたよ。父親がいないと世間の目はそれなりに冷たいし就職にも不自由するって時代だったからね、文乃はウチの両親に良く思われないかもしれないって酷く心配してたんだ、そういう自分の生い立ちを真剣に大真面目に話してんのにこっちは随分器用なことする親父さんだなァなんてってげらげら笑ちゃったもんだから俺、文乃が持ってたカバンでぶん殴られたよ、しばらく口もきいてもらえなかった」

洋一さんが笑って僕も笑った。本来ぜんぜん笑うような話じゃないのだろうけれど。それでその佳乃さんという人は、文乃さんの姉だか妹だかわからないけれどとにかく腹違いの姉妹で、それで色々と事情があって長い間、ほんとうに長い時間ずっと行方の分からなかった人なのだそうだ。そのあたりのことはちょっとまたさらにややこしくて複雑で「俺はうまく説明できないな」と自分の首の後ろを撫でながら洋一さんは言い、丁度その時に文乃さんが遅れて出勤してきた。

「おはようー遅くなってごめんね。ダメねえ、ちょっと忙しかったくらいで腰と肩ががたがたになるとか、整骨院の先生に『奥さん、岩みたいな腰してますよ』って笑われちゃったわ、何でもいいからちょっと運動しなさいだって」

「文乃、昨日佳乃さんがここに来たみたいだよ、夜中に」

いつものように笑顔で勝手口から賑やかにせわしなく厨房に入って来た文乃さんは洋一さんの言葉を聞いてぴたりと止まった。

「なに急に、朝から変な冗談よしてよヨウさん」

「いやホントだよ、航が応対してくれたんだ、それで航のことをウチの航だと勘違いしてそのまま帰ったらしい、もう少し勇気が出たら昼に文乃に会いに来るってさ」

文乃さんは口をあいたままぽかんとした顔をしてそのあとすぐ怒ったような、泣き出す直前の時のような眉根の寄せ方をした。小さな女の子が知らない町で道に迷って困ってしまった時の顔、困惑や不安や怒りとかそういうものを全部まとめて攪拌したものをぎゅっと詰め込んだ表情。

「…来やしませんよ、あの時も『必ず会いに行くから』なんて言ったくせにその後何年音沙汰が無かったと思うの、二十七年よ、きっともう来ないわよ。佳乃はいつもそう、思い立ったらパッと後先考えずに行動して失敗して心配させて迷惑ばっかり、相手の気持ちのわかんない人なんだから」

文乃さんは文乃さんにしてはとても珍しく八つ当たりするようにカウンターにどしんと大きな物音を立てて紙袋を置いた。それはさっき洋一さんと話していた文乃さんの実家のもので、それには『いち梅』とやさしく細い女の人の字で屋号が書かれている。『いち梅』は文乃さんのお母さんの芸者だった頃の名前でそれがそのまま屋号になったものだそうだ。僕は普段朗らかで陽気でその分声も大きいけれど剣吞な態度も物言いもまずすることのない文乃さんのその様子に驚いてびくっと体を跳ねさせて、それを見た文乃さんは慌てて僕に言った。

「やだ、航に怒ってんじゃないのよ」

「あ、すいません、大丈夫です。でも昨日ここに来たその人、僕のこと文乃さんの息子さんの方の航さんと勘違いして、それで大きくなったねって嬉しそうでした、すごく」

「昔からそそっかしいの佳乃は、天国の航が生きてたらもう三十五歳のおじさんよ」

「きっとなんか事情があったんだろ、あの人のやる事にはいつもちゃんと理由があるじゃないか、まあ確かにいつも突拍子もないんだけどさ。それからお土産おいてったらしいぞ、ホラ」

洋一さんがずっしりと持ち重りのするビニール袋をジャリっともしくはガサッと音をさせて文乃さんに差し出して文乃さんはそれを「何よこれ」と覗き込むとそれは件の栗で文乃さんは噴き出した

「なにこれ、なんなのあの子、ごんぎつねじゃああるまいし」

「あ、それだ」

僕は昨日から思い悩んでそれがちっとも思い出せずに二十一歳にして脳細胞のそこはかとない死滅を感じていた案件がひとつ解決したので思わずぽろりと声がでた、そうだごんぎつねだよ。僕が突然何かに深く静かに納得して手をポンと叩いたので文乃さんはどうしたのよ急にひとりで納得しちゃってと笑ってから「あの子のことはまあいいわ、仕事仕事」といつものきびきびとした動きと少しだけ険のある表情で客席フロアの掃除を始めた。

結局、佳乃さんという人は昼のラストオーダーの時間が過ぎても、『準備中』の札を出す時間になっても店に現れることはなく、そのことがまた文乃さんを静かに、そして確実に更に怒らせた。

この日はまかないに練習もかねて文乃さんの好物のカキフライを僕が作った「魚介は火の通し方が難しいんだよ、サッと揚げすぎると生だし、長すぎると固くなる、その辺ちゃんと見極めろ」洋一さんに散々注意とリテイクを食らってきたそれは、文乃さんからひとこと「うん、美味しいわよ」と笑顔の講評を貰えたものの、あとはとても静かな昼餐になった。

いつもなら氷川神社の梅がもう咲いていたとか『洋菓子青山堂』の美乃梨さんのお腹の赤ちゃんがどうやら男の子らしいとかそういうとりとめもなく他愛もないことをあれこれと文乃さんが話して賑やかなその時間は、咀嚼音と箸が食器にカチリともしくはカチンと当たる音しかしない静かな午後になりそれは僕が『グリルしらとり』に来てから多分初めてのことだった。

その後も時折、みっしりと人の詰まったビルとビルの隙間に冬の曇り空を探すようにして窓の外を覗き込んでいた文乃さんは、なんだか少し拗ねているようにも見えた。

🦢

「勇気が出なかったんですよ、きっと」

昨日の晩の混雑は一体何だったのかと思うほど、ぽつりぽつりとまばらにしか座席の埋まらなかった夜、カウンターの中でカスターのつま楊枝を揃えながら表の様子を伺うようにちらちらと窓の外を眺めていた文乃さんに僕はそんなことを言った、慰めようとかそういうつもりはなくて小学校一年生の時にうんと些細な事で喧嘩をした友達になかなか謝りに行けなかった自分のことを少しだけ思い出してなんだか、つい。

もう地元の誰とも連絡は取ってないけれど、小学校の頃に毎日一緒に登校して下校して何度か喧嘩をしてそのたびごとに僕が謝ったりそいつが謝ったりしてずっと仲良くしていた友達がいた。ともかく相手に会って顔さえ見てしまえばたちまち大体すべてが元通りなのにもし「おまえなんかしらないよ」って拒絶されたらどうしようと、僕は表の寒さで顔がビリビリと痛い二月、雪の田舎道をそいつの家と自分の間を十往復した。あの時はなんで喧嘩なんかしたんだろう、ちらちらと雪の降る夕暮れの道の途中で何度も許してもらえなかったらどうしようかと考えては泣いて、そうしたら涙が凍って頬にくっついてそれにとても驚いたことはよく覚えているのに。

「どうかしらね、とにかく昔からホントに困った人なの」

「困った…なんか、すごい不良だったとか?」

「逆よ、心が清らかすぎるの、無垢…幼いとも言うのかしらね。その上衝動性のカタマリみたいな人でね」

本妻の娘であるところの佳乃さんと愛人の娘の文乃さんがお互いをそれと知って顔を合わせることは本来あるはずのないことだった。二人は生活している場所も通うし学校も全く違うしそもそも文乃さんのお母さんは文乃さんを産んだ後に旦那さんとはゆるく結んだ紐がするりとほどけるようにして別れてしまっていて、文乃さんは結局一度も父親には会ったことが無いのだそうだ。結構な額のお金を貰う代わりにそのように約束をしてしまったらしい「二度と会わなくて結構」と。

「愛人がでかい顔しだしたらその男はもう駄目、落ち目なのよっていうのがあたしの母さんの持論でね、自分が愛人やってたくせに何言ってんだかってあたしは思ってたけど、でも筋だけは通す人なのよ、意地でもね」

それがどこでどう聞いたのか佳乃さんは蝋梅の咲く春の始めのある日、突然向島の『いち梅』に一人でやって来た。昼の混雑を少し過ぎた時間に一番高いうな重を頼んで座敷で一人床柱を背にしてお行儀よく食事をする佳乃さんに給仕をしたのは文乃さんで、見たら誰でもどこの学校かわかるお嬢さん学校の紺サージのセーラー服を着ていた佳乃さんを見て、それをまさか自分と半分血のつながりのある姉だか妹だかとは知らないままに文乃さんは胸の中にぐるぐると重たい澱のような膿のようなものが渦巻いて苦しくなったのだそうだ。

文乃さんはお母さんから「あんた高校なんて行ってどうすんの、お金はどっから出んのよ、それにウチみたいな家の娘じゃ多分普通に就職なんかできないわよ」とはっきりと言われて高校を受験しなかった。文乃さんはそういうものだと思って全てあきらめていたらしい。それはいまよりもずっと人が情報というものに触れる機会の少ない昔のことで、文乃さんは「自分はきっとずっとこの町から出ずにここで年を取って死ぬんだ」と思っていたのだそうだ。一九七六年の春、僕も僕の父もまだ生まれていなかった春。

「別に中卒がそこまで珍しい時代じゃなかったんだけど、あたしより全然勉強ができない子が近くの高校に進学して制服採寸に行くんだって話をしてるのがなんだか悔しくてね、それでつい、その制服すてきですねなんてそんな風に言ったのかもしれないわね、そしたら待ってましたって笑顔で佳乃が、あなたが文乃ちゃんね?ってあたしの両手を握りしめて、何なのこの子って思って両手を掴まれたままびっくりして固まってたら、自分はあなたと同日同月に産まれた異母姉妹なのよって言い出したの、頭がおかしい子なんだって思ったわね」

「三国志みたいですね、桃園の誓い」

「昔、ヨウさんも同じこと言ったわよ、でもそれは同じ日に生まれてはないけど、同じ日に死にましょうってハナシでしょう、こっちは本妻腹の娘と妾腹の娘が同じ日に産まれたってハナシなのよね、あたしの出自って思春期まっさかりの…愛と恋は大好物だけどその先にあるものはまだ生々しくて暗くて恐ろしいものなんだって思ってるような娘からすると己の存在自体を否定したくなるようなものなのに、その設定があるだけでなんか冗談みたいになっちゃうのよ。結婚する前のヨウさんに話したらゲラゲラ笑われたわ、それであたし思わず手に持ってたキタムラのハンドバックであの人の頭ぶん殴っちゃって」

「己の存在自体を…否定したくなるんですか?」

「そりゃあそうよ。あたしはよそん家のお父さんの不貞の結果と証拠なんだもの、向こうのお家からしたらあたしの存在自体が不幸の呪いみたいなものじゃない。いくら今よりずうっと色んなことの緩い世の中だったからって夫が愛人作ってその女に子どももありますだなんて。そういうのに光源氏の昔から女は嫉妬に狂って生霊になったりしてたもんなの、どんなに利口で物わかりが良いように見える女だって内心は苦しくて辛くてのたうちまわるもんなの。実際あちらの奥様は早死にしたのよ、四十の半ばくらいで亡くなられて。だからあたしは母親のことが大嫌いだったし、毎日自分なんかいなくなればって思ってた、朝が来るのが本当に憂鬱でね」

ただそれは文乃さんを中心に据えた時の文乃さんの世界の眺望であって、一方の佳乃さんには全く違う景色が見えていたらしい。

十六歳になる年の春、家の大人たちの噂話に文乃さんの存在を知った佳乃さんは、それでは自分の父親の勝手がひとりの女の子を不幸にしてしまっているのではないのかと酷く申し訳なく思ったらしい。そしてさらに年の離れた兄がひとりいるだけの、それだから年の近いきょうだいを羨ましいと思っていた佳乃さんは全く同じ日に産まれたらしい妹なのか姉なのかよく分からない文乃さんにどうしても会ってみたくなり速やかにそれを実行に移した。本当に思い立ったらいてもたってもいられなくなる性格の人らしい。それでこれが例えば文乃さんの家に突然佳乃さんがやって来たということであるのなら「どうかお帰り下さい」とも言えたのだろうけれど、文乃さんの家は鰻屋だしその店の暖簾をくぐっておしのぎの小ぶりのうな丼やもう少し値段の張るうな重なんかをお小遣いで食べにやってこられてしまうと無碍に帰れとも言えない。

「あんたの旦那の娘さんが来てんだけど」

文乃さんはお母さんに佳乃さんが来ていることを告げはしたものの

「元旦那の娘さんだよ、まあでもお客ならしょうがないね」

あの子はあんたが応対してよと言った後はすべて素知らぬフリで、その後も佳乃さんは店にやって来て、仕方なく文乃さんは濃紺のリボンをきゅっと胸元に結んだ清潔なセーラー服姿の姉でも妹でもある人を、店の小さな中庭に面した奥座敷に通した。

はじめは一体どうして佳乃さんが自分の父親の愛人の子である自分の顔を見て喜んでいるのか、本当は自分に何か文句や言いたいことがあるのではないかと身構えていた文乃さんも、店にやって来ては通っている高校では朝にひたすら裁縫をやらされるので嫌だとか、自宅に兄が貰って来た大きな犬がいるのだけれどちっとも懐かないので可愛くないとかそんな他愛もないことを話すだけ話して帰っていく佳乃さんに徐々に警戒心をほどいて、二人の会う場所は店の白木のカウンターに、それから自宅の方の居間に、最後には文乃さんの自室に佳乃さんが上がるようになった。

「年の近い友達に飢えてたのよね、毎日実家の店で鰻運ぶばっかりの生活で高校にも行ってなかったし、友達と遊ぶ機会も暇もなかったもんだから」

そうして互いが秘密の名前でそれぞれの自宅に電話をかけては時々外で映画を見てその帰りにアイスクリームを食べたりするようになった頃には、二人はそれぞれ十八になっていて、文乃さんは高校に進学こそできなかったけれど自分のお小遣いで水道橋にある語学学校の夜間クラスに通い、佳乃さんは受験をして渋谷にある私立大学に進学し、しかしそこにはあまり通うことなく八王子の山の近くのある福祉施設の活動に時間を費やしていた。

それは女性の、特に母子家庭の援助を目的にした施設で、平日は活動に賛同する人達から集められた生活用品などを管理仕分けし、日曜ごとに食事や食料それから衣類などの提供をして、家を無くして行き場の無い女性や子ども達に施設内の菜園での仕事を与えて食事と寝床を提供しわずかばかりの賃金も支払う、そういう活動をしている施設で、今で言う女性のためのシェルターのような場所だった。それの母体になっていたのは何かの宗教団体だったかどこかの篤志家か文乃さんは忘れてしまったらしい、佳乃さんは「そういう方のいなくなる、男性も女性も平等な世の中になればいいと思うの」と本気で願って活動に賛同というよりは心酔し、そこで爪に泥を詰めながら菜園の世話をして手を荒しながら掃除や洗濯をして、それに没頭して家に帰らない日も随分あったそうだ。

当然佳乃さんの父親は「たいがいにしておきなさい、大体おまえの本分は学業だろう」と言って何度も釘を刺し時に強く佳乃さんを叱った。でも佳乃さんの活動への熱意の中心には父親への憎悪に似た嫌悪のようなものがあり、更には己の信条にのみ従順である佳乃さんの性格も加味されて、叱責を受ければ受けるほど反対されればされるほど佳乃さんは活動に傾倒しついには大学を勝手に辞めてその施設で暮らすようになり、慌てた佳乃さんの父親は佳乃さんを家に連れ戻して半ば強引に結婚させてしまった。

「それ、佳乃さんは納得したんですか」

「さあどうなのかしらね。相手は佳乃が熱心だったボランティア活動のようなことは大変結構なことだからって結婚後も家庭に支障のない範囲で活動を続けることは認めてたらしいし、その上で施設への寄付金も毎年結構な額面を出すことを約束してくれて、それならって佳乃は結婚を承服したようだけど。あたしは流石の佳乃も親には逆らえなかったのねって思ってたのよ。そういうお家だったし、そういう時代でもあったし」

結婚して世田谷の大きな屋敷に住まいを移した後も文乃さんに会うために佳乃さんは月に一度ほど『いち梅』やってきた。文乃さんの目には親に負けて渋々結婚というものを受け入れたという形ではあっても佳乃さんはそれなりに幸福そうに見えたらしい。週に何度かの習いごとに通いながら付き合いや付け届けの多い家の切り盛りをし時折夫や姑の名代で誰かの家に挨拶に出向く、所謂『いい家のお嬢さん』として育った佳乃さんに一番しっくりとぴったりとくる生活。

「あんたは元々が育ちの良いお嬢さんなんだし多少窮屈でも松濤で何不自由なく暮らして時々寄付をしてその団体?ナントカの家ってのを応援するってことでいいんじゃないの」

文乃さんは言ったけれど、その点佳乃さんはいつもあまり良い返事をしなかった「これは私の本当の生き方じゃない」というのがもう口癖のようになっていて、そのたびに文乃さんは「あんたは贅沢なのよ」とたしなめるように答えていた。

その頃丁度、文乃さんと洋一さんは通っていた語学学校で知り合って時々学校以外の場所でも約束をして会うようなってちらちらと結婚の話が出はじめていた。その洋一さんにいち早く「家族」として会っているのは佳乃さんだ。文乃さんが女同士の内緒話のつもりでそういう人が自分にもできたんだと電話で話しをした時、佳乃さんは「じゃあ私、その方に会いに行ってくるわ、早い方がいいわよね」なんて言って話の終わらないうちに電話を切った。

「あたしもさすがにそれは佳乃の冗談だと思ったのよ」。

でも佳乃さんは本当に洋一さんが当時勤めていた虎ノ門のホテルに直接行ってそこのメインダイニングでコース料理を食べ終わった後

「白鳥さんは文乃ちゃんのことをどう考えていらっしゃるの、もし結婚するお気持ちがおありなら私、あなたに生涯文乃ちゃん以外の女の方は赦しませんけれど、それはよろしいかしら」

絵羽模様の訪問着を着て当時コールドの担当であった洋一さんのことを「牡蛎の冷製がとても美味しかったから」と言って座席に呼びだした佳乃さんは一体何の権利と権限があるのか初対面の洋一さんから目をそらすことなくそんなことを言って洋一さんをひどく困惑させ、衆人環視の中で「ハイ」と返事をさせたのだそうだ。それは僕ならかなり恥ずかしいと思うし実際相当恥ずかしかったと洋一さんは話していたらしい、その日の晩、文乃さんの自宅に洋一さんから電話があった。

「オイ、なんかすごいのが来たけどアレか例のおんなじ日に生まれた姉だか妹だかって。俺、その人に文乃と結婚するって言っちゃったから、文乃もそれでいいな」

「じゃあそれでいいわよ、もう」

勢いで結婚するぞと言った洋一さんに文乃さんも勢いで返事をして二人は結婚を決めた。そんな突拍子もない贈り物を洋一さんと文乃さん二人に残して、その後すぐ佳乃さんは文乃さんの前から消えてしまった。

「えっと…それは旦那さんの所から家出したとか…?」

「違うの、あの子ね、旦那さんを刺しちゃったのよ」

「刺すって、包丁とかそういう刃物でですか、比喩的なことではなくて」

「そう。佳乃の旦那が出張の多い仕事の人だとは聞いてたんだけど、実際はお家がふたつあったらしいわ。随分前から内縁の妻とあの当時で三つになる娘さんがいて、月の半分はそっちだったの」

それが佳乃さんの知れるところになって、佳乃さんは最初「そういうことなら、自分にはまだ子どももないしどうぞあちらのお子さんの正式なお父様になって差し上げてください」と何度も言ったらしい、でも夫である人はそれはできない相談だとのらりくらりと話をかわして取り合わず、最後には平然とこう言い放った「あいつは襖の開け方ひとつわからないような育ちの女でこの家の嫁の勤まるような人間じゃない、それに自分の妻は武田家の娘である君じゃないと色々と困るんだ、それくらい君だってわかるだろ」。

「それが佳乃の逆鱗に触れたのよ、あちらの方も私もあなたの欲や出世のための駒ではないんですって、それで台所にあった肉切り包丁でね」

佳乃さんが逆手に構えて突き刺した包丁は胸骨に当たって止まり相手が死ぬことは無かったものの、何しろためらいなく真っ直ぐに左胸を狙ったもので結構な重症を夫に負わせることになった。

その後自らの通報で逮捕された佳乃さんは夫である人の左胸を狙って突き刺したことは間違いありませんと犯行と殺意を一切否認せず、佳乃さんの実家がなんとか執行猶予に持ち込もうと手配した弁護士も断って罪のすべてを認め実刑を受けた、罪状は殺人未遂。裁判では「自分のしたことは実刑に相当します」と佳乃さん自身が言ったのだそうだ。

直情型で衝動性のカタマリであるところの性格の佳乃さんは同時にとても純粋で自分自身に誠実で、それだから相手の行状はともかく自分の罪は罪として認めて罰を受けるべきと思ったんじゃないかしらねと言ったのは文乃さんだ。それでも相手に対して突発的に瞬間的に殺意を抱く程の強い怒りと憎悪を持つに至ったのは何より文乃さんへの懺悔のような気持ちがあったからじゃないのかなというのは僕の個人的な直感だ、多分佳乃さんは女を人間視しない類の男のすべてを嫌悪していたのだと思う、たとえばふたりの父親のような。

「それで佳乃が刑務所に入った後、あたしは何度も佳乃に大丈夫かって、必要なものがあったらいいなさいよって手紙を書いたんだけど、返事は殆ど返ってこなかったの。二度だけ、あたしとヨウさんが結婚した時と航が、息子の方ね、その航が産まれた時だけ『おめでとう、とても嬉しいです』って内容の葉書が来たけどそれだけ」

その佳乃さんから文乃さんに最後に連絡があったのは、佳乃さんがどうやら出所らしいと文乃さんの耳に届いて、それから更にずっと時間がたってからのことだった。

「丁度航が死んで一年たった頃にね。店の方に電話がかかってきて、それは最初無言電話だったんだけど、そうかなって感じがして、もしかしてあんた佳乃なのって聞いたら、なんでわかるのって笑い声がして、笑ってる場合じゃないでしょアンタどこにいるのよって聞いたら、自分は元気だから心配しないでって、もう少し色々なことに整理がついたら必ず会いに行くからって言って切れたの。それからもう二十七年も経ってんのよ」

あーなんか話してたらまた腹立ってきたわと言って、文乃さんは今度はクリーニングから戻って来ていたナフキンを取り出して三角折りにし始めた、文乃さんが言うには頭にくると細かい仕事がはかどるのだそうだ。僕は怒りという感情が意外に相手への好意に裏打ちされているものだというのを何となく知っている、どうしてだかわからないけれど。感心の無い人間にはどんな感情もわかない。

「昨日みたいに夜遅い時間に来るかもしれませんよ、来るといいですね、僕は来てくれると思います」

僕は文乃さんにそう言った。すると僕の言葉に文乃さんは明日の分の白いナフキンを綺麗に几帳面に三角折りにしていた手を止めて笑った。

「航って時々ヨウさんみたいなものの言い方するのね、子弟って段々似てくるのかしらね親子みたいに。だって今日の昼に食べたカキフライの揚げ具合、色も味も全部ヨウさんと同じ、完全にコピーだったもの」

昼間、折角あたしの好物を作ってくれたのにずっと不機嫌そうな顔しててごめんね。カウンターの文乃さんが僕の背中をぽんぽんと二回かるく叩いた時、いつの間にか文乃さんも僕のことを津田君ではなく『航』と名前で呼ぶようになっていたことに僕は初めて気が付いた。

🦢

僕は予言したつもりはないのだけれど、佳乃さんは夜、店が閉まった後にこっそりとそしてひっそりと店の裏口にやってきた。いや、やって来たというよりは夜間収集に出すためのいくつかの巨大なゴミ袋を僕が店の裏に出した時、丁度店と隣の雑居ビルの隙間に見覚えのある赤いウインドブレーカーと毛糸の帽子僕が見つけて声をかけたので正確には『来た』ということにはならないのかもしれない。佳乃さんは会おうか会わないで逃げてしまおうかずっと迷っていんじゃないかと思う「おまえなんかしらない」って言われたらどうしようって。

「あ、佳乃さん」

僕のそれはそこにいるはずの人を呼ぶつもりでなく「あ、ねこ」くらいの軽い、思わずのつぶやきだった。それか「ごん、おまえだったのか」とかそういう感じの独り言。けれどその僕の独り言のような呼びかけはどうやらずっと周囲の物音に耳をそばだてていた店の中の文乃さんの耳に届いたらしい、文乃さんは僕を押しのけるようにして勝手口から飛び出して来た。

「佳乃?」

それは果たして昨日と全く同じ服装で同じリュックを背負った佳乃さんで、佳乃さんは店から飛び出して来た文乃さんを一目見て少し困惑したような怯えたような顔をして何も言わず、代わりに文乃さんが続けてこう言った。

「佳乃…あんた、老けたわね」

「ひどいわぁ、三〇年近く経ったんだからそれは仕方ないじゃないの、だったら文乃ちゃんだってすっかりおばあちゃんよ」

「おばあちゃんて何、あたしもあんたもまだ六二なのよ、今の時代おばあちゃんは七〇からでしょうよ、それよりあんた『いつか必ず会いに行く』って言ってから二十七年は待たせすぎじゃない」

それはなんだかものすごく普通の会話だった、ちょっとコンビニに行くだけって言ってたくせに帰ってくるのが遅いじゃないのくらいの温度の会話。やっぱり互いが勇気を出して会ってしまえば大体のことは元通りなんだ、ただここには佳乃さんがいつか会えるだろうと夢見ていた航さんの姿が無いだけで。

「あの、ここじゃあなんですから、中に入って貰ったらどうでしょう、寒いし」

「まあ航ちゃん、昨日はどうもありがとう、今日もこんな時間にごめんなさいね」

「あの、それなんですけど、確かに僕は航って名前なんですけど僕は『津田航』で、ここの従業員なんです」

「佳乃、この子は見習いさんでまだ二十一歳の男の子よ、うちの息子の航は三十五、よく見て頂戴よ」

「あら、まあごめんなさいね、そうよねえ、あなたはまだあどけないほどお若いものね、じゃあこちらのお家の航ちゃんは?」

「家よ、あとで会わせるわ」

本当の航さんはもうどこにもいない。でもきっと佳乃さんがずっと会いたいと思っていたはずの甥の死は段階的に伝えた方がいいと文乃さんは思ったのだろう、それだから僕も(そうです家です)という顔でちょっと無理に微笑んで佳乃さんにもう一度店の中に入ることを勧め、文乃さんも「そうよ、ともかくあんたちょっと中入んなさいよ」と言って佳乃さんの腕を引っぱって、もう片方の手で店の裏口のドアを勢いよく開き、勝手口の隙間から外の様子を伺っていたらしい洋一さんはドアで頭を打った。

「文乃、痛い」

「やだヨウさん、何でそんなとこつっ立ってんのよ」

額を打った洋一さんは、それでもずっと昔に当時の恋人であった文乃さんとの結婚の意思はあるのか生涯大切にできるのかと迫った文乃さんの姉であり妹であり親友である人の姿に微笑んだ「おひさしぶりですね」。それから洋一さんは客席の灯りをもう一度すべて明るく灯すと、佳乃さんを窓際の席に案内した。

「それであんた、今まで一体どこで何してたのよ」

寒い二月の夜。僕は厨房で生姜とシナモンと蜂蜜を入れてミルクティーを作り、たっぷりと大きなカップにそれを注いで客席に運んだ。そうしてありがとうとこの上なく上品に微笑んでそれを受け取りカップで冷えた両手を温めるようにしながら佳乃さんが話してくれたことは、佳乃さんらしいと言えばとても佳乃さんらしい話だった。多分人はどんなに歳月を重ねたところで根本的な部分はあまり変わらないんだ。

「まずねえ、あの…私、旦那様をついかっとなって刺して大怪我をさせてしまったでしょう、それであちらの代理人を通じて服役中に離婚することになって、出所した後は実家の方から『まとまったお金を用意するからどこか遠くの、山奥か、それこそ外国で暮らしてくれないか、一生』って言われたのよね」

「娘が前科者じゃ外聞が悪すぎるってそういうことね、あんたの父親は政治家さんだものね」

佳乃さんは刑期を終えた後、実家に戻ることを固く禁じられて代わりに実家から恵那の山奥に山荘を買ったからそこで暮らすように言われたのだそうだ。『自分たちの生活とは全く関係の無い場所でこの世界から隠遁するようにして一人で暮らせ、というよりかはもとから居なかったことになって欲しい』それが実家の人たちの佳乃さんへの願いだった。

佳乃さんが栗の木と楓と白樫にマテバシイに囲まれた山奥の山荘に幽閉されるようにして暮らし始めた夏の終わり、前の持ち主が手放して一年程誰も住んでいなかった山荘は、事前にすっかり修繕が済んでいて水回りは新しく家具や調度も入れ替えられ、佳乃さんが暮らすための設備も広さも十分で、というよりは広すぎるくらいで、佳乃さんはそのがらんと広い家の中で毎日殆どすることもなく一人で一人分の食事を作り掃除をし庭の手入れをして時折麓の商店に買い物に出て、ただ淡々と生活をして時間を消費し続けていた。でもある日、ダイニングのソファでうとうと昼寝をしていたら廊下の固定電話が鳴り、それが佳乃さんのこの平坦で淋しい生活を一変させることになる。

「一週間後に大人二人、お部屋をご用意いただけるかしら」

今年もお宅に宿泊したいのだけど。電話の向こうで見ず知らずの誰かがそう言って佳乃さんは最初すこし困惑した。

「ええと、なんだかよくわからないのですけれど、良ければどうぞ、お料理を用意してお待ちしていますわね」

佳乃さんはその電話の向こうの知らない誰かに突発的にそう答えてしまった。佳乃さんはその山荘が最初の持ち主である人からホテルや旅館をいくつか経営している実業家の手に渡りそれが一時期「恵那の隠れ家的山荘、オーベルジュ」として旅行雑誌に紹介されていた物件とは言われていないのでひとつも知らず、普通なら先方に事情を伝えて丁重にお断りするところをつい「どうぞお越しください」と返事をしてしまったのだそうだ。

「なんでその場でウチは宿屋じゃありませんって断わらないのよ」

「だってあちらはこの山荘がご夫婦の思い出の場所で、予約のその日は結婚記念日なんですって仰るのよ。それをお断りするなんて、なんだか悪いじゃないの」

そうして佳乃さんは、事情がよく分からないまま小さな旅館の主になった。同じような要件の電話はその後ぽつりぽつりと、しかし途切れなく入って佳乃さんはそのたびに山荘の二階の一番日当たりの良い部屋を拭き清め、季節の花を飾り、地元で採れた食材を使って料理を丁寧に作り、記念日と聞けばケーキを焼いた。実際は旅館でもなんでもない、素人が厚意で知らない人を泊めている変わった山荘は当然宣伝なんかしていないしそれどころか看板も宿の名前すらないのに、忙しい時期は近所の農家の人をアルバイトに雇う程繁盛してしまった。

「それじゃあなに、あんた己の人生に躓いて家族に世間から隔絶しとけってこの世の果てみたいな山奥に追いやられてそこで旅館の真似事をやって、それをそこそこ繁盛させてたってことなの」

「そんなつもりじゃあなかったんだけど、一度来てくださった方が、まるで親戚の家に来たみたいだって喜んでくださってまた次の年も、その次の年もいらっしゃるものだから、うちは実は旅館でも民宿でもないんですってなんだか言いづらくて」

「あんたって、ホントに…」

文乃さんは呆れて笑ったし僕もちょっと笑ってしまった。それに深い森の奥には余暇や自然を楽しみに来る人だけがやってくるものではないものらしい、それは事業に行き詰まったり家族に見放されたり自分で自分自身を見捨ててしまった、そういう人達。佳乃さんは暗くて重い空気を纏って山道をふらふらと歩いている人を森で見つけてしまうと、いつかの自分の姿を見るような気がして放っておけず、声をかけては山荘に泊め、望めば山荘で働いてもらうようになった。

「でもそんなの、誰が死に場所を求めて山に来た人で、誰が旅行者かなんてどうやったら分かるのよ」

「見れば何となくわかるものよ、みんななんだか暗くて重たい空気を背中にずっしりと背負っているの、だから背中なんか随分丸まっててね」

それは僕にもすこしだけ身に覚えのある話だった。

「それで私、そういう方たちにウチにいらっしゃいって声をかけて、一緒に薪を割ったり、食事を作ったり、あと冬の間、山は雪に閉ざされるからその間の保存食をね、秋に拾って取っておいた裏庭の栗をはちみつ漬けにしたり干し餅だとかお漬物を作って過ごしている間にね、死に場所を求めて山に迷い込んで来るような方に、肩からあの重たい空気を少しの間だけでも下ろして休んでいただく場所を作りたいなって思ったの。たとえどんなことがあっても少し休んで美味しいものを頂いてそれで自分を見つめ直すような時間があれば、大体のひとはまた自分の人生を歩いてゆけるものなんだから」

小さな旅館と希死念慮を纏った人達との共同生活。佳乃さんに助けられた人はそのまま数年山荘に逗留して旅館を手伝ってくれる人もいれば、また下界で生きる元気を取り戻し、しばらくしてから季節の便りや御礼の品物を律儀に送ってくるひともあって、そういうことをしている間にあっという間に時間は過ぎて気が付くと大切な姉で妹で親友である人に「いつか必ず会いに行く」と言ってから随分時間が経ってしまっていた。

「だからって、二十七年は待たせすぎだし、だったらむしろ何がきっかけで山を下りてあたしの前に現れたのよ、まああんたのすることは大体いつも突発的で突然なんだけど」

「それがねえ、私最近、次の冬は越せないかもしれないって言われたのよ。それで、ああ私文乃ちゃんにまだ会えてないわって気が付いて、それで慌ててね」

「それ、どういうこと」

文乃さんの顔から血の気と表情がふっと消えた。

「…あの、佳乃さん、俺はさっきから気になっていたんですけどね、失礼ですけどもしかしてその…髪は病気か何かで…」

ずっと笑ったり感心したりしながら佳乃さんと文乃さんのやりとりを聞いていた洋一さんが突然佳乃さんにそう訊ねた。ここが暖房のきいた温かな店内であるにも関わらず毛糸の帽子を取らないでいる佳乃さんには僕もほんの少しだけ違和感があった。

「あら、よくお気づきになるのね。そうなの五年前にお腹に最初の腫瘍が見つかって、それが毎年体のあちこちに見つかるものだから手術をしたりお薬を使ったり、そうすると髪の毛が抜けてしまうのよね、今やっと五分刈り位の長さなんですよ。それでも最近また転移が見つかって、とうとうどんな薬も治療もお手上げですってことになってしまって」

佳乃さんがそれを言い終わる前に、両手の拳をぎゅっと握りしめた文乃さんが椅子から立ち上がって大声で怒鳴った

「どうしてそんな大変なこと、もっと早く言わないのよ、あんたっていっつもそう」

🦢

深夜バスで恵那に戻るつもりだと言った佳乃さんを引き留めたのは洋一さんだった。

「そんな体で深夜バスなんてダメですよ、よければウチに泊まってってくださいよ。文乃、俺は今晩はここの二階の航の部屋に泊めてもらうから佳乃さんにはウチのマンションに泊まってもらって、それで佳乃さんと文乃の二人してゆっくりと色々話したらどうだ、文乃だって佳乃さんにちゃんと話したいことがあるだろ」

悪いんだけどそれでいいか。洋一さんが僕に目配せしながらそう言うので僕は、ぜんぜん大丈夫ですと言ってその直後「あっ、でも朝のまんまだからちょっと散らかってる…」と慌てて二階に駆けあがり、僕の様子を見た洋一さんは何だそんなに上を荒らしてんのかと面白そうな顔をして僕に付いて来てしまった。

「あの二人、いいんですかあのままで」

「いいんだよ、俺達があの場からいなくなれば文乃だって長年の待ってた人に『会いたかった』ってやっと泣いたり笑ったりできるんだ、あいつは妙なところで意地っ張りだから。それに航がもうこの世にいないことも話さなくちゃなんない、そうしたらきっと佳乃さんは泣くだろ、文乃もつられて泣くと思うんだよ、でもそれでやっと文乃にとっての航の弔いに一区切りがつくんだ、だから二人にしといてやろう」

洋一さんは息子の航さんが死んだ時、通夜も葬儀も泣いて取り乱すと言うことをしなかった、それは目の前に起きたことに現実感が無さ過ぎてぽかんとしていたということが半分、「男親が泣きじゃくるのも、なあ」という見栄のようなものがあって感情を押し殺していたのが半分。でも航さんが亡くなるその日まで病院で付き添い続けていた文乃さんは火葬場で「息子を焼かないでほしい」と棺に取りすがって泣いていたそうだ。

「俺はあの時、文乃と一緒に泣いてやれなかったんだ。それを葬式の一年後くらいになってからなじられたなァ、あの時ヨウさんは哀しくなかったのかって、あたしはヨウさんが一緒んなって泣いてくれなくて、それが一層哀しかったんだって」

「でも、哀しくなかった訳じゃあ…」

「そりゃあ、哀しかったよ、いや哀しいなんて言葉はちょっと違うね、あれは何て言うのかな」

「…痛い、じゃないですか」

「そうだな、痛いよな。特に航は…ああ息子の方な、航は本来の病気じゃなくてさ、抵抗力のうんと弱ってるところにヘンな菌にやられて死んだんだ、それがすごく急なことでね、ホントなら次の週に病院から外泊できるはずだったんだよ」

準備のまったく整わない『死』に直面した人間は現実的な痛みを感じるし、僕にはまだ生々しい記憶として体の中にしっかりとそれが残っている。だからさっき佳乃さんが「次の冬は越せない」と言った時、僕は目の前の人がそんな重篤な病であることが衝撃的ではあったけれどそれと同時に、死に際しての準備期間がちゃんと存在していることに少しだけ、安堵していた。

「文乃さんがこの後、佳乃さんに会いに恵那に行くっていったら、店は僕が頑張りますから絶対に行ってもらいましょうね」

「そうだな、そうしよう。まあよっぽど大口の予約でもなけりゃあなんとか二人で回せるだろ、ちょっと愛想が足りないかもしれないけど、そん時はタケちゃんとこから誰か借りてきたらいいんだ。それとな、明日店は休みなんだけど、下の厨房は俺が使うから」

「なんか作るんですか」

「あの人、佳乃さんてな、文乃と一緒でカキフライが好物なんだよ。俺の職場に乗り込んで来た日に俺が担当した牡蛎の冷製を食べてそれは褒めてくれたんだけど『文乃ちゃんは上野精養軒のカキフライがとても好きなのよ、私と一緒。洋一さんはご存知ないでしょう』なんてちょっと威張って俺に言うんだよ、アレは姉みたいな妹みたいな親友を俺にとられるのが面白くなかったんだろうな、俺も若かったから何となくそれがなんか面白くなくて、そんなの俺が作った方が旨いって言ったんだよ。だから一度俺のを食べてもらわないと。冷蔵庫にまだあったろ、牡蛎」

「あります、厚岸あっけしの、出しますか」

「うん、一番いいやつな」

そう言いながら僕が自室にしている和室の引き戸を開けると、その惨状を見て「なんだこりゃホントに散らかってるなァ、せめて布団は上げろよ」と言って洋一さんは僕を軽く小突く真似をして楽しそうに笑った。

「ここに俺達が住んでた頃な、息子の航と俺と文乃の三人がこの部屋で寝起きしてたんだ、でも航が死んで一年ほどで今のマンションを買って引っ越すことを決めたんだ。この部屋で夜中ふと目を覚ました時、隣に航がいなくて、ああそうか病院かと思った後すぐ『いや死んだんだ、航はもういないんだ』ってなると、なんか眠れなくなっちゃってさ」

「今日は大丈夫ですか」

「二十一歳の方の航がいるから、もう平気だよ」

洋一さんがそう言った時、僕はさっき閉店して僕ら以外は誰もいない静かな客席で、恵那からやってきた文乃さんの姉のような妹のような親友のような人が『どんなことがあってもね、少し休んで美味しいものを頂いてそれで自分を見つめ直すような時間があれば、大体のひとはまた歩いてゆけるものなの』と言っていたことを思い出していた。

しんとした二月の夜の静寂、布団を二枚敷いた部屋の電気を消してしばらくしてから「生き残った俺達は明日も明後日もここでうまいもんを作る」と暗闇の中でそっと呟いてみた。

隣の洋一さんは、もう眠ってしまったようだった。

 

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