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短編小説:たぬきの恩返し

リョーコちゃんが俺に持たせた荷物の中に古い3合炊きの電気炊飯器がある。それはまるでサザエさんに出てきそうな昭和風フォルムの白い電気炊飯器で、俺は最初それを「いらへんて」と言った。

「リョーコちゃん俺、飯とかあんま炊かんて、むこうではサトウのごはん食うて生きていくつもりやし」
「アカン、ちゃんとご飯を炊かへんと食費が高うつくやんか、絶対に荷物の中に入れとき」

正月の鏡餅のように白くぽってりとしたフォルムでかつ、その首の上に乗っかる顔がタヌキそっくりのリョーコちゃんは、普段はたんわりと穏やかで、俺には滅法甘い人なのに、この時ばかりはいつになく強行だった。

「いらんて」
「いるて」
「いやいらんて」
「いや絶対いるねんて」
「なにを根拠にそう言うねんな」
「ええから、こういうのは理屈じゃないねんて!」

結局、俺はリョーコちゃんと「いる」「いらない」の応酬を繰り返すことが面倒くさくなってリョーコちゃんがギュウギュウ押し付けて来る炊飯器をしぶしぶ受け取り、梱包途中のダンボールのひとつにそれを雑に放り込んだのだった。

そうして4月の末、6畳ひと間に申し訳程度のキッチンが取り付けられただけの簡素な造りのアパートで、衣類や充電器やパソコン、当面必要になるものだけをダンボールから引っ張り出してはまたそこに仕舞い、床に積み上げたダンボールを家具として暮らしていた俺が、重い腰を上げてそれらをぜんぶ開封して中身を取り出すまで、リョーコちゃんの炊飯器のことなんか俺はすっかり忘れていた。毎日朝は近所の安売りスーパーで買って来た食パンだったし、こっちに来てからすぐに始めたデータ打ち込みのバイトで、そこの会社の社員食堂を使っていいと言われて、普段もっぱらそこで栄養補給をしていた。

「せやからいらんて言うたんや…」

午後、日が傾くと猛烈に西日の差し込む6畳間で、俺は誰に言うともなくぽつりとそう呟き、緩衝材代わりに炊飯器に巻いていた新聞紙を解き、出て来たつるりと白い炊飯器の蓋をぱかんと開けた。するとそこに真っ白な封筒が、まるで今日俺に見つかるのを分かっていて、じっと待っていたかように収まっていた。

「なんやこれ」

封筒の中身を改めると、そこには俺の名義の通帳と印鑑、それから白い便箋が1枚入っていた。通帳には大学4年分の学費を払ってさらに十分お釣りのくる額面が印字されていて、もう一方の白い便箋にはリョーコちゃんの金釘流でこう書かれていた。

『4年間、うちにええ思いさせてくれて、楽しい思いさせてくれて、ほんまにどうもありがとう、うちすごく楽しかった。勉強がんばるのやで、立派な大人になるのやで、さいなら』

リョーコちゃんお得意のしょうもない悪戯にしては何かがおかしい。

俺は突然暗い海に放り出されたように気持ちになって、その場でリョーコちゃんに電話をかけた(なにがさいならなんや、俺、今度の連休に一ぺん大阪に帰るしなって言うたよな?)。

なんだか嫌な感じに上がってゆく心拍数に呼応するように呼び出し音が数回鳴り、つながったのは『お客様のおかけになった電話番号は現在使われておりません…』という知らない誰かのアナウンス音声だった。

「どういうこと?さいならて何やねん」


今年の3月まで、俺とリョーコちゃんは一緒に暮していた。

商店街のはずれにある店舗兼住宅で一緒に寝起きして、一緒に飯を食い、一緒に阪神のマジック143を「アホやな」と笑い、たまに一緒に出掛けて、どちらかが風邪をひいて寝込めばどちらかが看病した。俺にとっては今リョーコちゃんだけが唯一の家族だ。

とは言え俺とリョーコちゃんは赤の他人だ、血縁は全くないし、姻戚関係もない。

リョーコちゃんとは中学3年生の春、父が忽然と姿を消して2日目の満月の晩に初めて会った。それは明日から新学期の始まる4月の上旬、数日前から仕事に行かず家でずっと呆けたような顔をして天井を眺めていたかと思うと、ふいに立ち上がりベランダで何本も煙草を吸っていた父が

「幸輔、お父さん、煙草が切れたで、そこのコンビニで買うてくるわ」

そう言うと、そのまま当時住んでいた家から跡形もなく消えてしまった。

近所のコンビニに行ったはずの父はその日、待てど暮らせど帰ってこなかった。1時間以上戻らない父が心配になった俺は近所のファミマに父を探しに行ったが、店番をしていたおばちゃんは「そういう人は来ていないと思う」と言い、それならもう少し足を延ばして近所を捜してみようにも辺りはすっかり深い闇の中で、どうしようもなくなった俺は誰もいない家でひとり、父の帰りを待った。

リョーコちゃんが俺の元を訪ねて来たのはそれから2日後のことだ。

色白でむっちりとした体で纏う赤いミニドレスが、妖艶というよりも幼い女の子のように見えるリョーコちゃんは、目の上の濃い緑色のアイシャドーと睫毛にこってりと塗られたマスカラを涙でどろどろに溶かし、それが目の周りに隈取を作って、なんだかタヌキのようだった。

「あんたが、英輔ちゃんの息子さん?」
「…そうですけど、どちら様ですか?」
「うち…うちな、ああ、そんなんはええねん、あんな、ビックリせんと聞いてほしいねんけどな」
「はあ、なんでしょうか」
「英輔ちゃん…あんたのお父ちゃんな、亡くならはったんよ」
「えっ」

父は、このタヌキみたいな顔の人の部屋のドアノブにタオルをかけて首を吊ったらしい。突然の知らせに俺は驚いたけれど、あまり悲しいとは思わなかった。

というのもこの出来事の数日前から、父はまるで魂が抜けたような、もうこの世にないような、まるで半分透明人間のような、そういう状態になっていたからだ。それを死の直前の人間の様子とはその時は思っていなかったけれど、俺には父にもうじき起こることがほんのりと分かっていたのだと思う。

―お父さん、なんか死んでるみたいや

俺は、仕事に行かずに日向の窓を眺めてはため息をつく父を見ながらそう思っていたし、父がどうして死んだのかも、それは14歳の子どものうすぼんやりとした推測ではあったけれど、なんとなく察しがついた。


見ているこちらが恥ずかしくなる程、盲目的に母を愛していた父が、その比翼の一方を失ったのは、俺が小学4年生の時だった。

「可愛い一人息子を置いて死ねるわけないやんか」

そう言って何度も何度も笑顔で手術台に上がり、辛い放射線治療を受け、沢山の薬を飲み、勇猛果敢に病気と闘った半年後、母はすっかりやせて枯れ枝のようになり、このあたりに珍しく雪の降った冬の晩、静かに世界から消えて白い骨になった。

母が亡くなってからの父は食事をしていても仕事をしていても、トイレに行って用を足している時すら涙が出て止まらなくなり、生活自体がまともに成り立たなくなってしまった。

何もできなくなった父はずっと勤めていた建設会社を辞めた。

そうして働かずに、自宅でただ呼吸して食事を咀嚼して排泄し、あとの時間は殆ど泣いて暮らしていた父が「俺、なんかせんとあかんな」と言って立ち上がったのは母の死の1年後のことだ、父は突然高校の同級生と一緒に小さな健康食品の会社を興した。

父の元の仕事は建設会社の現場監督、父と会社を一緒にやることになった同級生は設備屋だ。俺は畑違いもいいとこの新しい会社の話を聞いてまず「そういうのって、やめた方がいいんと違う?」と父に言った。元のようにどこかの工事現場でビルを作ったり誰かの家を作ったりして、それでお給料を貰って暮らすのがいいんじゃないかと。俺の反対に対して、父の言い分はこうだった「お母さんのように小さな子どもを残して亡くなってしまう人を、ひとりでいいからなくしたい」。

それで俺は、もう何も言えなくなってしまったのだ。

でも結局それは素人がたったふたりで始めた会社だ。月を追うごとに会社はずるずると赤字を出した。父の会社が負債の泥沼にはまり込んで沈み始めるのにかかった時間は約1年半、それを何とか浮上させようと父と父の同級生が銀行や親戚や知人、果ては消費者金融に至るまであちこちでお金を借りていたことを俺は知っていた。

母が亡くなってから、1ヶ月か2ヶ月に1度は手紙や電話をくれたり、正月にお年玉と一緒にちょっとしたものを送ってくれていた親戚がぴたりと連絡をしてこなくなっていたし、この頃になると『ナニワ金融道』のようなギラギラ光るスーツ姿のおっちゃんが家に来るようにもなっていた。

どの角度からみても堅気に見えないおっちゃんから「オイ、ボウズ、父ちゃんおるかァ?」と聞かれて、俺が父に言われた通り「今いません」と居留守を使うと「…ほうか、まあ、ボウズもこれから大変やなァ」と、おっちゃんから小さなチョコレートのお菓子をもらった。

リョーコちゃんから聞いた話では、父は、会社の負債をすべて自分に掛けていた保険金で相殺するために死んだのだそうだ。

「それは、あの、ご、ご迷惑ですよね、すみません、俺どうしたら…あ、警察とか行くべきですか?」
「ちがうちがう、警察とか役所とかホケンとか、そういうややこしいのは英輔ちゃんの相方さんが全部してくれはる、それより英輔ちゃんが…あんたのお父さんがな、うちに『息子の幸輔のこと頼む』て言わはったんよ、せやからうちはここに来たんや」
「へっ?いやだって俺、あなたのこと、何も知らへんし」
「うち?うちはたぬきのリョーコちゃんや、そんだけ知っててくれたらええよ、悪い人やない、ええ人間や、あんたのこと助けにきたんや」
「たぬきのリョーコちゃんて…」

かつて随分と羽振りが良かったらしい工務店の一人息子として生まれ、高校の時にラグビーで全国大会に出場し、身体はでかいのに異様に涙もろく、度を越した愛妻家で、気が良くて調子が良くて、頼まれると嫌と言えない父が最期、ひとり息子を託したのは、十三の商店街のはずれにある『たぬき』というスナックのタヌキみたいな見た目のリョーコちゃんだった。

「でも、全く見ず知らずの赤の他人に世話になるって、それはちょっと違うんじゃないですか」

リョーコちゃんはそんな俺の主張をひとつも聞かず「ウチがアンタの面倒をみるんや」の一点張り、俺も俺で父親を亡くし、ほとんどの親戚に縁を切られている状況で「ほんなら幸ちゃんは、これからどないするつもりなん?」とそのタヌキ顔で問い詰められるとなんとも答えようがなく、そもそも財布には現金が500円玉一枚と、明日の食事代にもこと欠く有様だった俺は、捨て猫のようにリョーコちゃんの家に着いて行き、そのまま衣食住、生活に関わる全ての世話になることになった。

俺の保護者になったリョーコちゃんが一体どういう経歴の、一体どういう来し方の人間なのか、リョーコちゃんはあまり俺に話そうとはしなかった。俺が何度聞いても「うちなんか碌なもんと違うし」と言って話しをはぐらかしては、あのたぬき顔で笑うばかりで、俺が聞き出せたのはリョーコちゃんが北摂のそれも随分山の方の出身であるということと、学校なんかひとつもまともに出ていない、ほぼ学歴のない無学の人だということだけだった。

「あんなとこに山なんかあったかァ?万博公園しかないやろ、あとエート、阪大?」
「幸ちゃんはなんや賢い子やのにモノを知らんねんなあ、あの辺にはなんやかんやで山はあるんねやで、吹田の一体なんか元々ほとんど山やったんやから」
「そんなん相当昔の話やんか、なあそれよりリョーコちゃんが学校出てないてどういうこと?だって小学校と中学校は義務教育やで」
「ウーン…うちとこはそういうことになってるねん、うちらみたいなんは幸ちゃんと同じくらいの年頃になったら、外に出て自分の食い扶持を稼ぐんや」
「リョーコちゃんてなんぼなんでも平成生まれやろ、そんな昭和初期みたいなことある?」
「あるねんこれが。まあうちは勉強なんか大キライやし、別にええねん」
「ええことあるか、リョーコちゃんの親は何しててん、そんなもん虐待やないか」

俺がリョーコちゃんの過去にひとり憤慨していると、スナック『たぬき』の厨房で水割り用のグラスをせっせと磨いているリョーコちゃんは「幸ちゃんが怒ることあらへんやん」と言ってクククと笑った。

まだお客さんの入るすこし前の時間、鮮やかな朱色に塗られた店のカウンターでリョーコちゃんの作った炒飯とか焼きそばなんかの夕飯を食べながら、リョーコちゃんは「早く食べへんと塾の時間に遅れてしまうで」と、口いっぱいに食事を頬張る俺をいつも急かした。

「なあ、リョーコちゃん、俺別に塾とかええんで、受験勉強なんか家でもできるし、いやそもそも高校なんか別に行かんと中学出たらリョーコちゃんみたいに働いて、定時制とか単位制の高校に行ってもええんやし」
「何言うてんの、幸ちゃんて学年で1番か2番目に賢いのやろ、あんたのお父さんが言うてたわ、幸輔は俺に似て頭がええねんて、せやから高校はこの辺で一番の学校を受けるのやって。それってここからすぐのとこにあるあのキレイな学校のことやろ。うち、幸輔ちゃんの高校の入学式に出るのんが夢やねんから、きばって叶えてや」
「え、リョーコちゃんて、俺が高校に入ったら入学式とかに来んの?」
「当たり前やん、幸ちゃんの保護者は今、このうちなんやから」

中学もロクに出ていなくて、掛け算も7の段から怪しいらしいリョーコちゃんは、週に6日商店街のはずれにある、6人も入ればいっぱいになるスナック『たぬき』で、お客さんと下手くそなカラオケを歌い、「あーめんどくさー」と言いながら作ったポテトサラやらキンピラやらと一緒に薄い水割りやハイボールを出し、常連のおっちゃん達の与太話を聞いて、せっせと俺の塾代を稼いでいた。

元々の丸っこい体形と、こってりと厚く塗った化粧のせいで、よりタヌキの雰囲気を纏ってしまうリョーコちゃんは、その柔らかな身体のあちこちを無遠慮に掴んで触ろうとする常連のおっちゃん達を笑って上手くかわし、そうかと思えば時折本気で怒り、そうして店で稼いだ金の大半を俺につぎ込んでいた。

俺からしたら、リョーコちゃんのやっていることは相当酔狂なことだった。そもそも、学習塾なんて父と暮らしていた頃から余裕がなくて通っていなかったのに、俺がリョーコちゃんと暮らし始めて1週間程した頃、俺が因数分解の問題を解きながらぽつりと「塾って、金かかるんよなァ…」と呟いたら、もう次の日にはリョーコちゃんは駅前にある大手の学習塾に俺を連れて行き、そのまま5教科受講のコースを即決で申し込んでしまったのだ。

その後も、受験が迫るごとに追加されてゆく日曜特訓に公立特訓に私立直前特訓、そういうものを「幸ちゃん、あんたこれ行きや」「それから、これもやで」と言ってホイホイ申し込んでは惜しげもなく金を出した。

そのほかの着る物も食べる物も、リョーコちゃんが用意してくれる諸々は、贅沢とまではいかないけれど、足りなくて困ったことは一度もなかったし、いつも食事の後は「お腹一杯になったかァ?」と笑顔で俺に聞いてくれた。

リョーコちゃんは自分より小さいものがひもじい思いをしている姿を見るのが耐えられないのだそうだ。だからなのか捨て猫なんかもしょっちゅう拾って来ては、飼い主を世話していた。

俺はリョーコちゃんのその愛というか、金遣いがなんだか恐ろしかった。

「お金のことなんか気にしたらあかん、うちは意外と稼いでる、お金持ちやねんで」

俺が金のことを気にするたびにリョーコちゃんはタヌキよろしく腹をポンと叩いてそう言っていたけれど、それがリョーコちゃんを取り巻く現実とは月ほどかけ離れているホラ話だというのは、リョーコちゃんが近所のドラッグストアからせっせと化粧水やらシャンプーやらの試供品の小さなパウチの袋いくつも貰って来ては、それを指の腹でぎゅうぎゅう押して最後の一滴まで搾り取って使っているのを見れば、当時まだ中学生だった俺にも大体わかっていた。


父の遺言であり、リョーコちゃん夢でもあった高校合格を俺が叶えた時のリョーコちゃんはとにかく大変だった。

「合格発表なんて今時ネットで見られるのやで」

俺がそう言うのをひとつも聞かず、わざわざ現地に合格掲示を見に行ってしまったリョーコちゃんは、校舎の外廊下に張り付けられた数字の羅列の中に俺の受験番号を見つけて即

「あった!しんでくるしむや!」

俺の受験番号『49』のかなり縁起でもない語呂を叫び、それからあたりもはばからず盛大に泣いた。7の段の掛け算があやしいリョーコちゃんには俺の「それ、せめて7の2乗て覚えてくれへんかな」という提案はあっさり却下されていた。

俺は、周囲の視線がとても痛かった。

そしてその日の午後にあった合格者登校日、入学説明会でのリョーコちゃんはビーズの飾りのいくつも縫い付けられた一張羅の赤いスーツという、明らかに周囲から浮いた異質な姿で、講堂の中にずらりと並んだパイプ椅子にちょこんと座り、小さい子どものように落ち着きなくあたりを見回しては

「ハー、みんな賢そうやなァ、幸輔ちゃん、こんなとこ入って大丈夫か?」
「エーッ、入学早々テストがあるねんて、春休みはちょっとも遊ばれへんなァ」
「ななな、マラソン大会があるのやて、うちな、こう見えて意外と走るの早いねん」
「パソコン?パソコンを貸してもらえるん?最近の高校て全部そうなん?」

そんな風に俺に結構な大声で話しかけるので、俺は何度「リョーコちゃん落ち着いてえや」と言ったかわからないし、実際白衣を着た神経質そうな物理の先生が俺達の席に注意にも来た「お母様、ちょっとお静かに」。

勿論「スミマセン」と言って謝ったのは俺だ。

リョーコちゃんがいちいち興奮して話しかけてくる度に「シーッ」と言って人差し指を唇にあて、たしなめ続けた忍耐の説明会が終り、制服や体操服を注文して、それから腕が捥げる程重い教科書一式をよたよたと家に持ち帰った後も、リョーコちゃんの饒舌は春の長雨のように止むことなく、その日は「もう店なんか開けてる気分やないわ」と言って臨時休業の札をぺたりと店のドアに貼り、そのくせ乗連さんに大きな寿司桶を届けさせ「うちこれまで生きててこんな嬉しいことないわ」と言いながら、リョーコちゃんは次々とビールやチューハイの缶を開けた。

「なんやそれ、赤の他人の俺が高校受かったことが人生史上最良の思い出になるて、なんかわびしいなァ、他になんかええことないんかリョーコちゃんの人生に」
「別にうちなんか碌なもんと違うもん、間違いなく幸輔ちゃんの高校合格の今日がうちの人生最良の日や」
「なんかあるやろが他に、ホラ俺のお父さんとの思い出とか…なあ、俺ずっと聞きたかったんやけど、リョーコちゃんて」
「何?なんやの幸ちゃん急に」
「その…リョーコちゃんて、うちのお父さんと付き合うてたっていうか、そういうことなんやろ、やっぱり」

俺は緊張してアマエビのシッポ引き抜こうとしていた指に力が入りすぎ、その身の大半を持っていかれながらも、これまでリョーコちゃんに聞いてみたくて、なかなか聞けなかったことを出来るだけ淡々と、そして自分としてはお天気の話くらいの軽さと温度で聞いた。

俺ももう15歳で、父は死んでしまっているし、母も父より前に鬼籍に入って随分と時間が経った、父に母以外の恋人がいたって事実があっても俺は別に傷つかない。俺はそう言ったけどこの時リョーコちゃんは、ご機嫌で缶入りのハイボールをあおっていた手をピタリと止め、俺をたしなめるようにこう言った「なにアホなこと言うてるんよ」。

「英輔ちゃんは、亡うならはった奥さん一筋や、うちはあんな愛妻家他に知らん」
「じゃあ、なんで俺にこんな色々してくれるん、だって今日買うた制服代全部合わせて81,580円やで、教科書は全部合わせて37,417円、それに体育館シューズが3030円、古語辞典が3000円、リョーコちゃんはええから全部いるもん買うたるて俺に言うてどんどん買ってしもてたけど、今日だけで一体なんぼ使うたと思う?」
「うち、そんな大きい数計算でけへんわ」
「125,027円や」
「へぇ、そんななった?」
「そうや、大金やんけ」
「でもな幸ちゃん、お金で買えるモンはなんぼでも買うたらええと思えへん?対して幸ちゃんの高校合格はプライスレスや。それにあんたのお父さんから、いくらか預かってるて前にあんたに言うたやん」
「そんなん嘘や、お父さんなんかあの頃、大事にしてた何やらいう外国の時計も、お母さんの持ってたダイヤの指輪も、ばあちゃんの形見の真珠のネックレスも、そういう金目のモンはなんもかんも売ってしもてたんやで、俺に遺すお金なんかあるわけないやろ、なあ、なんでなん?」
「もー…幸ちゃんあんた意外にシツコイなぁ。あんな、うちは幸ちゃんのお父さんに恩があるのよ」
「恩?恩てなんやねん」
「恩も恩、大恩よ。あれはむかしむかーし、うちがまだ山ン中で暮らしてた頃の、こんな春の晩のことや」
「なんそれ、日本昔話?」
「まあ黙って聞きいな、3日前からずーっと雨が降ってて、うちは雨の夜道を歩いてたんや、そしたら何かにつるっと滑ってコロコロおにぎりみたいに穴に転がり落ちてしもた。うちの通ろうとしてたとこになんや知らん工事現場ができてて、そこの基礎工事のおっきい穴に雨が染み込んで崩れたりせんように青いシートが掛けてあったんよ、落とし穴みたいなそこにうちは転げ落ちたんや。穴から這い上がろうとしたけどシートが雨に濡れてつるつる滑るもんでいっこも這い上がれへん。そこに幸ちゃんのお父ちゃんが来て、大丈夫かァってうちのことを引っ張り上げてくれたんや、な、命の恩人やろ」
「ハァ?何言うてんねんリョーコちゃん、それはアレやろ、お父さんが現場監督してた頃、山ん中に作ってたマンションの基礎工事の穴にどんくさいタヌキが落ちてたって話やろ。俺も聞いたことあるわ、妙になつっこいタヌキを助けたで、いつか恩返しに来よるでって。あの頃まだ生きてたお母さんと俺に何度か話してくれたもん」
「なーんや元ネタのこと知ってたんかいな、幸ちゃんは騙せへんなァ、やっぱりうちのお店に来るおっちゃんらの倍、賢いわ」
「俺は真面目に聞いてるんやで」
「うちかて真面目に答えてるんや。ええか幸ちゃん、人が生きてく上で一番大切なのはこういうことやで、うちは幸ちゃんのお父さんに恩がある、それを今、その人の息子である幸ちゃんに返してる、恩と義理の問題なんよ、お金のことなんかどうもあらへん」

ああ、もう一杯飲もうかなァとグラスを手に取ったリョーコちゃんは、軽くスキップしているような足取りでキッチンに消え、俺はやっぱり誤魔化されたなあと思いながら、半分にちぎれてしまった甘エビの握りをぽいと口の中に放り込んだ。

表で冬の間しばらくその気配を感じられなかった近所の野良猫が「にゃあ」と遠慮がちに鳴くのが聞こえた。

「あ、ねこちゃんや、幸ちゃんうち、あの子らにゴハンあげてくるわ」
「おー、商店街の人に見つからんようにせんと、また野良猫の餌付けすんなって怒られるで」
「わーかってるって」

いそいそと買い置きのキャットフードを抱え、つっかけに部屋着姿で1階に降りてゆくリョーコちゃんの背中を見送りながら(リョーコちゃんが赤の他人を成人するまで育てようて決意させた『恩』て一体何なんやろ)と俺は考えていた。リョーコちゃんが実はほんまにタヌキであるという可能性も含めて。

「そんなわけあるかいな、アホか」

俺の独り言は、リョーコちゃんが階下に降りて突然しんとしてしまった部屋の中に響いて消えた。

結局、一体何の恩義を感じて赤の他人の俺を着せて、食わせて、高校に通わせているのか全くわからないまま、俺はリョーコちゃんと一緒に暮し続けた。

仕事柄朝の弱いリョーコちゃんの朝飯を作るのは俺で、毎日自習室で勉強してから晩に帰宅する俺の夕飯を作るのはリョーコちゃんで、店から自宅のある2階に上がって来るゴキブリを叩き潰すのはリョーコちゃんで、店のレジ締めをするのは俺で、テスト前の俺をラーメンを食べに行こうやと外に連れ出すのがリョーコちゃんで、「うちこれからダイエットして10㎏痩せるねん」とリョーコちゃんが言い出した翌日に駅前でみたらし団子を買って来るのが俺。

リョーコちゃんとの日常は、春の晩のように温くて優しくて、そしていつもとても賑やかだった。でもその生活は永遠には続かないものだった、俺は高校3年生の終わりに東京の大学から合格通知を貰い、リョーコちゃんの元を去る事になる。それが決まった時のリョーコちゃんと言えば、あのタヌキ顔の上に乗っかる化粧を盛大に涙で流し

―淋しなるなァ
―立派になったなァ
―これであんたのお父さんに恩返しができたてことやなァ
―うちもういつ死んでもいいわ

とにかくずっと泣きながら「うれしい、うれしい」を連発した、宥める俺の方は大変だった。

出会った頃は俺とそう変わらない背丈だったものが、今はもうすっかり俺がリョーコちゃんの背丈を追い抜き、リョーコちゃんが背伸びをしなければ撫でることの出来なくなった頭をリョーコちゃんはつま先立ちして何度も何度も撫でた。「頼むからそう軽々しく死ぬとか言わんでえや」という俺の言葉は、リョーコちゃんにはひとつも聞こえてないようだった。

俺達は3月の終り、花冷えのする新大阪の駅の改札で別れた。

リョーコちゃんは泣きながら何度も改札口で俺に手を振っていた、その姿がいつも以上にあんまりに大げさなので俺は「リョーコちゃん、俺また連休か夏休みにこっちに帰ってくるやんか」と言ってリョーコちゃんを慰めた。



そうして炊飯器の一件の後、リョーコちゃんと連絡がつかないままとるものもとりあえず帰阪した5月、俺は新大阪の駅で新幹線を降りると即梅田に向い、そこから阪急に乗り換えてリョーコちゃんの店に向った。

駅を出て商店街の端まで歩き、そこを右に曲がればスナック『たぬき』がある。

そのはずが、そこにあったのは猫の額と言って差し支えない程の、ごく狭い空き地だった。ハルジオンの長く伸びて茂る様子からは、そこが一朝一夕に空き地になったとは思えない、草ぼうぼうの空き地だ。

「うそやろ…」

リョーコちゃんは店もろとも消えていた。俺はたまらず商店街の中で目に付いた店に飛び込み「あのあたりにあったはずの『たぬき』という名前のスナックと、タヌキ顔のママを知らないか」と店の人に訊ねたが、誰もかれもが怪訝な顔をするばかりで、リョーコちゃんは初めからいない人になっていた。

「うそやろ…」

何度も「うそやろ」と呟きながら俺はとりあえず駅に向かって歩いた。駅前には高校の頃、ほぼ毎日通ってすっかり顔馴染みになったコロッケ屋がある。ちょうど夕暮れ時で、店のおばちゃんが呼び込みをしながら黄金色のコロッケをいくつも揚げていた。

「おばちゃん」

俺がおばちゃんに声をかけると、おばちゃんはぱっと嬉しそうな顔をして、俺の方を見た。
 
「エーッ、ちょっとあんた東京の学校に行ったんちゃうん」
「ちょっと帰って来てんねん、なあおばちゃんあの…ここの通りの端っこのとこ右に曲がったら小さい空き地があるやんか、あすこな…」
「あっ、アンタも聞いたん?あの辺最近タヌキが出るねん、誰かが餌でもあげてんのんかなァ、プクーっと太ったんが夜ちょこちょこ出て来るんやて、この前もテレビの人が取材に来てたんよ」
「たぬき…?」
「そう、たぬき」
「それいつおるん?今晩はでるんかな?」
「そんなん、タヌキの気持ちなんか、おばちゃんにはわからへん」
 
まあ落ち着いてこれひとつ食べ、そう言っておばちゃんが手渡してくれたコロッケを持って俺は来た道を引き返した、そうしてあのスナック『たぬき』があったはずの空き地でコロッケを持ったまま陽が暮れるのをじっと待った。
 
噂のタヌキが出たのは、商店街の灯りが紺色の闇をぼんやりとオレンジ色に照らしはじめた時間。

ハルジオンの茂みの中からひょっこりと姿を現したタヌキは、コロッケ屋のおばちゃんの言った通り、野生の生き物にしては随分と丸っこく、その目の周りのくまどりはマスカラを塗りすぎた時のリョーコちゃんにそっくりだった。
 
「りょ、リョーコちゃんか?」
 
思わず発した俺の上ずった声にタヌキは驚き、まるでアニメーションのタヌキのように縦方向にボヨンと跳ねた。そして、驚いてすっかり色々なことを―自分がタヌキであって人の言葉を解さないという設定なんかのことを―忘れてしまったのだろう、はっきりと、人の言葉で俺にこう言ったのだった。
 
「りょ、リョーコちゃんと違うで、うちはたぬきや」


―終―
 

サポートありがとうございます。頂いたサポートは今後の創作のために使わせていただきます。文学フリマに出るのが夢です!