私とアッキーとお母さんの話
ひとは、ずっと昔に、ほんの少し頭に引っかかった小さな疑問の答えを
10年20年の後に突然与えられるというか、時空を超えて
「あ、そうか。」
そう気づく瞬間がある。
少し前、そういう事があった。
其れまではずっと思い出すことも稀だった事だったのに。
◆
それは私が25歳の時
私は本気で路頭に迷っていた。
当時、世の中は就職氷河期、その頃文系の大学院を出た女なんて言うモノはまだ猫の方が使い道があるという時代で
その時まさに、大学院を修了というか本来2年で修士論文を書き上げて修了する所を、3年もかかって這々の体で修了するような遅筆の呑気者だった私は、突然のように就職にあぶれた。
というかアルバイトして生活して修士論文を書いていたら就職の事をすっかり忘れていた。
呑気者、ここに極まれり。
もう猫になりたい。
あまりの事に学生課にも呆れられ、困り果てていたバイトの帰り道『ハローワーク』の看板が目に入った私は
「就職が無くて困ってます!学生です!」
カウンターの職員さん、と言っても父親位の歳のおじさんに正直かつ真剣に陳情した。
するとその人の良さそうなおじさんが
「うーん...アナタ、教員免許持ってるなら、こういうとこどう?」
そう言って渡してくれた
『学習塾講師募集・中途採用』
の求人票、それに飛びついた。
そして見事就職。
関西一円に集団指導と個別指導の学習塾を展開する会社の、個別指導教室の管理者のような講師のような営業のような兎に角、そこでなんでもやりなはれ的な職種に就いた。
そして勤務地は、関西の果ての片田舎。
とは言え、大学院を出てアルバイト生活に身をやつすよりはまだ良いだろう。
そう思い、長く学生生活を送った京都市内からその田舎にほど近い地域にワンルームの部屋を借り社会人として働き出した。
私の人生はいついかなる時も泥縄式だ。
治る見込みが無い。
◆
新卒の癖に、中途採用枠で就職したその会社は
終電を逃して家に帰れない事はザラ
生徒数・客単価のノルマはきつく
何の知識も無いペーペーの新卒に一教室の管理を任す
というわかりやすくブラックな会社だったが
私が任された教室は単線の私鉄がのんびりと走り、その辺に牛も居るという牧歌的な田舎だった為に、通ってくれている生徒もその保護者も素朴で控えめな気質の方が多く、かつ田舎とは言え、京都市内や大阪市内にも通学範囲として足が伸ばせる地域とあって、各ご家庭はなかなか教育熱心だった。
そういう意味ではブラックとは言え立地は良く、悪い職場ではなかったが
ただ、田舎なだけに講師の手配が大変で、まず大阪や京都の中心に通う地元大学生は帰宅までに相当の時間を要する、勿論近くに大学など無いので、夜の一番遅い授業にはギリギリ間に合っても一番早い授業には入れない
そして、中学・高校の理系科目を任せられる講師の少なさ、特に
物理
化学II
数ⅢC
の受講希望はあるのに講師が来てくれない、特に授業や実験が忙しい理系学部の子が手配できない。
これになかなか苦労した。
その為、理工学部、工学部、情報理工学部と聞くと多少難があっても飛びつき、大学名だけ聞くと、なかなかどうしてな講師は数名在籍してくれたが
毎日
「シャツがシワシワですよー」
「ネクタイはどこにやってきたのー」
「そんなに怖い顔して黙ってると生徒の子が怖がるから、ね?」
そう注意しなくてはいけない部分はあったが、皆慣れてしまえば無愛想というよりは無骨ないい良い子達で、私の小姑的な諸注意も
「..ッス」
「すいません..」
もそもそと恥ずかしそうに聞き入れてくれた。
あとは、その地域から比較的近い地元国立や女子大に通う女子大学生で講師を揃えて、夕方一番早い時間の授業は結構な数私が持った。
夕方1番の授業に入っている子の学年は小学生が殆ど、その親御さんのご要望は
「中学入試の補修」
などではなく
「授業中動き回るので、兎に角座らせておいてほしい」
「実は学校に通えていないので、一緒に勉強してあげてください」
「数字の概念がないのでは...」
という、一癖も二癖もあるものだった。
今から15年以上前の当時はまだ「発達障害」や「学習障害」というものが世間に浸透していない時代で、そんな子ども達を支援する為の施設もそうない地域
私は多分、児童発達支援に近い事をしていたのだと思う。
私は大学院では教育も発達心理学も門外漢で、この『ちょっと困っている子ども』の指導については何の知識も経験も無かったが『椅子に座りたないねん』という子とは床に座って勉強したり、学校に行けない子とは何故かたまにお絵描きをしたり、数字の概念が..という子とは幼児用の知育カードみたいなものを使って勉強した。
超自由。
でも結構楽しかった。
働いてみて初めて知ったが、個別指導と銘打ってある学習塾には、意外とそういう『学校で浮く』タイプのお子さんが一定数いる。
そしてそういう生徒は、学生の講師には手に負えない..というかやんちゃが過ぎる『座らない』小学生男児を、あの高学力理系軍団の一人にお願いしたら
「先生、俺、あの子無理です、腹痛くなります..」
「おぅ..わかった。あとは先生に任しとけ」
賢いが過ぎる理系講師は、同じことを100回位言わないという事を聞かない男児に手を焼き、あまつさえ体調不良まで起こしたりしたので、大体私が一手に引き受ける羽目になったのだった。
◆
そんな『ちょっと変わった子』枠のある私の教室に、ある日更に凄いのが入って来た。
その子は、当時中学生2年生で入塾の手続きに来室した時、派手ではないけれどツイード生地のスカートにカシミアのカーディガンというきちんとした出で立ちのお母さんとは対照的な見た目の子だった。
何しろ寝癖がくせ毛かわからないくしゃくしゃの髪に、ご飯粒とカレーのシミをつけた体操服と、何が入っているのか紙の束でぎゅうぎゅうの中学の指定カバンを下げ
キョロキョロと教室内をせわしなく見回すが、こちらが話しかけても全然答えてくれない。
まあ中学2年でちょっとシャイで、まだ洒落っ気の出てない男の子ってこんなものかしらんと思ったが、お母さんが持参して下さった、学校の学力テストと、以前外部受験したという系列の集団指導教室の塾内テストの結果用紙が私の度肝を抜いた。
滅茶苦茶賢い。
特進クラス上位クラス。
特に理数がずば抜けて良い。
「えー!これ凄いね!特に理数の点数がとんでも無く良いね!」
「数学好きでしょう?」
「勉強得意なんだねえ」
思わず口に出した。
その子は私の褒め言葉と言うか驚嘆の声に、少しだけにやっとしたが、特には何も話してくれず、代わりにお母さんが
「この子この通りテストはすごく良くできるんですが..」
「ちょっと変わってると言うか」
「いえ、私達親には本当にいい子なんです」
「学校がつまらなくて嫌だって言うし、集団指導の塾も学校と一緒だから嫌だと言ってて..」
「こう言う子、入れてくださるでしょうか..」
勿論です、ご本人さえ良ければウチで勉強しましょう、私は二つ返事でお引き受けしたが、お母さんの次の言葉に慄く事になる。
「来年の高校入試では、ここを受けたいと言っているんですが、ご指導お願いできますか?」
お母さんが、『ここなんですが..』と遠慮がちにバッグから取り出した過去問題集が
東大進学数関西一を誇る某私立進学校のものだったからだ。
集団指導の部門は兎も角、私の教室に過去、そんな高校への合格実績は0だった。
どうしよう
エライ案件を引き受けてしまった。
ホラ、泥縄式や。
◆
アッキーは、件の体操服にご飯粒とカレー君は、教室に通い出してから何となく見ていると、悪い子では無いように思えた。
というか実はシャイで可愛い。
確かにちょっと変わってはいるが。
毎回授業が終わって、帰る時
「じゃあ次は水曜日にね、バイバイ」
と手を振ると、絶対こちらは向いてくれないが、微かに手を振り返してくれるし、お母さんは『学校では問題児』のような事を仰っていたが、進学希望先を聞いてから私が一人一人に無理を言ってお願いした
数学担当・K大農学部生
理科担当・O大工学部生
国語担当・R大文学部生
英語社会担当・D大院文学研究科生
あの辺境にあってはこれ以上はご用意できませんという顔ぶれの講師達には頗る評判が良かった。
講師は全員、アッキー君の『女の人は緊張して嫌だ』というご希望から男性講師になり、そんな講師の彼らは他教室では『難あり』で採用が難しかった男の子達で
実際、確かに身だしなみとか、コミニュケーションに少々難ありではあったけれど、中身を知れば皆良い子達だった。
そして彼らはこの自らを上回るちょっと風変わりな男の子の学力と、その学習への貪欲な態度そして処理速度に驚嘆し
「絶対受かりますよ、俺最後まで担当しますよ」
「俺、この前アッキーと灘の受験問題で勝負して負けたッス」
「国語は寧ろ京女あたりをやってみますか」
「記憶力が半端ないので細かい事は置いておいて、社会は記述を中心にします」
楽しそうにカレーの君を『アッキー』と呼び、まるで兄と弟か、年の離れた友達かのように仲良くなった。
講師の子達は皆、この辺りの中高出身で、中高一貫の都会の私立有名校から並行して緑鉄会に通い遂には...というような旧帝大にあって主流派のタイプの学生では全くなく
『各学年に一人はいる賢すぎて変人と目されるタイプの子』
『賢さが突き抜けてしまい周りから浮いていた』
多分、多少の性質の濃さ薄さの差はあれど、アッキーと同じタイプの少年時代を過ごした子達なのだと思われ
彼らをみていると私は『普通』や『平均』というものを大きく下回るのは勿論結構生きづらい事だが、賢さがいきすぎて『普通』と『平均』を上回るという事も学校というフィールドではとても生きづらい事なんだろうなあ思った。
アッキーはこの頃、塾には休みなくほぼ毎日来ていたが、学校は休みがちだった。
お休みの理由は
『授業がつまらないから』
アッキーのお母さんはこの頃本当に困っていた。
◆
アッキーは『女性講師が嫌』という事で、私も例外ではなく担当することは無かったが
というか、アッキーが3年生になってから「そろそろやらせます」と言ってスタートさせていた関西一円の有名私立高校入試問題は文系科目は兎も角、理数は一目見たその時から頭痛がした。
私の担当生徒はやはり専ら、座ってられない小学生と、学校を休みがちな中学生で、あとは時間割組などの事務処理、営業、偶に地域担当の怖い上司に叱られたりして
あとは、しょっちゅう何かを落としたり、無くしたりして帰宅するアッキーの失せ物忘れ物を探して自宅に
「今日は筆箱をお忘れです」
と連絡を入れる事で、お陰でよくお母さんとはお話をした。
「すみません、いつもご迷惑をおかけして..」
「えっ?そんな、全然です。今日は西大和の過去問を解きましたが本当によくできてましたよ」
「講師達も張り切って学習スケジュールを組んだんですけど、漏れなく頑張ってくれてますし..」
アッキーは中3の受験佳境に入っても、相変わらずくしゃくしゃ頭で身なりに構わなかったが
お前はやれる!
お前はいける!
お前は勝てる!
もうアッキーのスペックに夢中になって松岡修造化している講師陣の組んだ学習予定を着々とこなし、志望校合格圏内にこぎ着けていた。
そしてそのアッキーのお母さんは、いつも控えめで優しく、私になぜか謝ってばかりいてとても不思議だった。
塾内でアッキーが私や他の講師に迷惑をかけることなど無かったし、多少の立歩きや忘れ物は、もっと大変な子を私が山盛り担当している。
私はいつも
「全然大丈夫ですよ、本当にいい子ですよ。」
そう言っていた。
心底そう思っていたし。
アッキーのお父さんとも、このお父さんは『先生』と呼ばれるタイプの職業の社会的にもかなりきちんとした立場の立派な方で、テスト後の面談や、学期ごとの保護者懇談でお話する事があったが
「先生、息子はどんなもんでしょうか」
「第一希望は専願で出すとして、併願は、息子に合いそうなところというと..」
「息子は塾には楽しく通ってくれていて、先生方には本当に感謝しています」
そう言って、いえ、あの、先生はお父さんの方ですし、私なんて実はちょっとええ歳こいてはいますがペーペーの新卒なんです..講師達も他の教室からの選抜落ちでして..そう喉まで出かかる位に、このご両親は社会人一年目の小娘と、まだ大学生のちょっと難ありの講師達を尊重し、雇われ店長とバイトの講師だろという態度は絶対におくびにも出さなかった。
多分、人によって態度を変えるような事を好まない高潔なご両親だったのだろうが、それにしたって
「先生」「先生」と呼んで頼って下さる丁寧が過ぎる程の態度は、当時まだ社会人出遅れ組の25歳だった私にはとても不思議に映った。
◆
そして2月
アッキーが第一志望にしていた高校の合格発表の日、私は彼の合格の知らせを
6回聞いた。
まずは受験番号を一括登録管理している本社から
そして、合格発表を見に行ったお母さんから。
あとの4回は各教科の担当講師から。
君ら大学はどうしたんや。
全員、可愛い教え子の合否が気になって気になって、朝イチで現場に見に行ってしまったらしい。
一講目があった奴は手を上げろ。
そう言って私は講師達の親御さんの代わりに叱りたくなったが
「いやー受かりましたね!」
「俺、嬉しいです!」
「受験は受かってこそですよ」
「関西私立過去問題リレー、地味にきつかったッス」
自分の合格報告かのごとく喜んで電話してきてくれた講師に叱責などできようはずも無く、後日彼らにラーメンを奢ることになった。
そして、アッキーのお母さんも、受験期が終わり教室が落ち着いた頃、ラーメンではなくご丁寧に菓子折りを持って挨拶に来て下さった。
あの高校に受かったからには、春からは通学時間と学習内容を考慮して、高校近くの塾に変わらなければいけない、中学卒業とともにこの個別指導塾も卒業になる。
「本当にありがとうございました」
「先生方のおかげです」
そう言って涙まで浮かべて頭を下げてくださるお母さんに、私も講師達も恐縮しきりで、私はついもらい泣きをした。
「いえ、頑張ったのはアッキー君ですよ」
塾内始まって以来の頭脳のついでにちょっと変わった彼が、実際は相当な頑張りで、張り切り過ぎの気のある講師達について行ったのをよく知っている私はそう言ったが、お母さんは
「本当に先生方のおかげです」
と繰り返し
「息子は将来医者になりたいそうです」
と次の目標も明かしてくれた。
私は、アッキーの着ている衣類にソースケチャップカレーその他のシミが必ずついていた事を思うと
「臨床はやめといたほうが...」
とは思ったが、口には出さず
「またいつでも遊びにおいでね」
と言って、次は医学部に挑むと言うアッキーとお母さんを見送った。
そして、最後までお母さんが感謝しすぎに私達に頭を下げてくれるのを、丁寧な人だな、不思議だなと思っていた。
◆
そしてそれから時は流れ、私は多分あの時のアッキーのお母さんとそう変わらない年齢になり
「お母さん、息子君がまたこんな事をしでかしました」
「困ります」
「ちょっとお家の方でも良く言って聞かせて下さい」
というお電話を学校からしばしば頂く身の上になった。
昔のことを懐かしく思い出している隙も心の余裕も無い位に。
これ、結構辛い。
私の三人の子供の内、一番上の10歳の息子は発達障害がある。
小学五年の現在は今はお薬で、その症状は緩和というか上手く共生できてはているが、去年、小学校四年の頃は
授業中に『授業がつまらん』と言っては教室から遁走。
座っていても、突然全く違う教科を勉強し出して怒られる。
忘れ物をしない日がない。
母親としては頭を掻き毟りたくなる日々で、学校に頭を下げない日は無かった。
その日も、いつもの調子で担任の先生からお叱りというか報告の連絡があり、最敬礼に頭を下げて電話を切った後
なぜか突然
アッキーと、あの優しいお母さんを思い出した。
そして
あのお母さんがどうして、当時はまだ青二才の小娘だった私をあんなに尊重して、卒業の際に涙を流してお礼を伝えてくれたのかを理解した。
心から。
アッキーは、あの高度な知能を持て余し気味でちょっと身だしなみもアレだったあの子はきっと学校で相当な問題児扱いを受けていて
お母さんは、それにとても傷ついていたんじゃないか
あのきちんとしたお母さんが、アッキーをきちんと躾けていない筈は無い
実際とても一生懸命だった。
きっと学校から言われたのは
「きちんと言い聞かせろ」
「問題行動が多すぎる」
「勉強出来れば良いというもんでは無いでしょう」
こんなところか、
どうしよう学校側の言い方も、相当容易に想像できる。
そういう『ちょっと難しい子』を育てている事への周囲の無理解に苦しんで
仕方なく息子の学習支援にと足を運んだ小さな個別指導塾で
「本当にいい子ですよねえ」
「頑張ってます」
「合格しますよ、頑張りましょう」
「忘れ物なんか問題ないですよー」
実際は何もわかっていなくて手探りの若い講師と私がひたすら肯定の言葉だけを伝える事にお世辞や、お体裁抜きで救われていたのかもしれない。
いや、多分そう。
と言うか絶対そう。
そうか、あんな小娘の言葉もお母さんは本当にありがとうと思って聞いていてくれたんだなあ。
15年の時を超えて私は理解した。
そしてちょっと嬉しかった。
あの時、あの優しいお母さんの味方でいられた事が、だ。
そして、こんな答え合わせが出来る日があるのだから、長生きはするもんだと思った。
◆
ところで、アッキーはあの後、初心を貫徹して医者になったのか、15年ぶりの脳内での邂逅の後、気になっていたが
当時、彼を指導してくれていた講師の一人がその後の事を教えてくれた。
「直接会って聞いたわけではないですが」と言いつつ
アッキーは
ある論文の執筆の筆頭者としてその名が上がっていたという
彼はどうも、今、医者にはならず
発達障害児の指導について研究をしているらしい。
「アッキー先生になったん?」
「そうなんです!」
私も彼も笑った。
あのアッキーがねえ
なんだか因果がいい方向にくるくる回っている気がして私は
凄く凄く嬉しかった。
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