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去年の春、来年の春、20年後の春


4歳が時制を覚えた、というのか理解するようになった。ついこの前まで

「ひとつ、ふたつ…あとはいっぱい」

という原始人の数概念だった子が

「あしたはなにするの?じゃあそのつぎのひは?」

そんな風に、今日の自分の先に明日の自分がちゃんと存在していて、その次の日の自分、そのまた次の日の自分をどんどん積み重ねていくと。

「らいねん」

というずっと先の未来があることを理解するようになった。4歳はこれまでの成育歴や病歴に起因して言語にも運動にもとにかく年相応ではない、それなりの遅れがある子なので、これは私にとってなかなかに感慨深いこと。素直にとても嬉しい。

そして大人にとっての『来年』は来るべき予定であって、やれ満期になるアレをどうしようとか、夫の人事異動やとか転任はどうなるのかなとか、お兄ちゃんの春休み講習の引き落としがあるわとか、そういう分かりやすく世知辛い事ばかりが頭に思い浮かぶのだけれど、この「来年」を突然言葉にした時、その4歳に私が

「娘ちゃん、来年てどういうことか知ってるん?」

その言葉の意味自体をちゃんととらえているのか、それを聞いたら

「みらいのことやで、ねんちゅうさんになるねん、それで5さいになるねん」

それが未来であり、すなわち希望のようなものと同義語であると、そう捉えているような文言が飛び出したのでちょっと驚いた。小さな子どもにとっては来る次の年が、もしくは年度がそんな風に明るくて希望に満ちた物なのだなあと、年をとっていくことが嬉しくて仕方がない時期というのをとうに過ぎ去って久しい私は、目の前の4歳児という存在がまぶしすぎてなんだか目が潰れそうになった。

そしてその眩しさに目を眇めながら、今度はこんなことを聞いてみた

「じゃあ去年は?去年は何のことかわかる?」

そうしたら

「3さいのときのこと?ようちえんのまえのこと?」

そう言うではないの。もしやこの子、知らぬ間に引き算ができるようになったのか、知育とか情操教育の面では多分『東大に我が子を全員入学』で有名なママさんが卒倒しそうな適当極まりない育て方をしているのに、この子、もしかして天才では。それで気を良くした私は更にこんな事を聞いた

「じゃあさ、じゃあ去年の今頃の事は覚えてる?去年の春やで」

「えー?しらなーい」

そうだよね、流石にそれはね。私は笑ったけれど、でも去年の今頃ってまだ入院していて、それで何をしていたのか。こういう時、私のスマホはとても便利だ、日記の代わりに綴っているSNSがその日のことをこまごまと記録してくれているし、写真自体も何せ無精ものなので整理されないまま時系列に沢山保存されている。

そのデータを遡ってみると2021年3月16日は、私の記憶の通りその年の2月の末に受けた心臓の手術の術後で入院中、娘の身柄はPICU(小児集中治療室)という場所にあった。それで去年の今日のことを私はこう記録していた。

去年のこの日は、長く危ない状態だった4歳、当時は3歳だったけれど、その子がやっと約1ヶ月弱装着していた人工呼吸器を抜管して、自発呼吸を取り戻した日だった。そうだ、それを病棟でこの子に張り付いてくれていた小児循環器医が見守り、普段外来を担当してくれているベテラン小児循環器が外来からわざわざ上がって来てくれて、ついでに執刀医も多分いつも詰めているICUからやってきて「よかった」とこの子の顔を覗き込んでいたのだった。

その瞬間、私はPICUのごく近くにあるソファに座って看護師さんが

「お母さんいいですよ!」

そう言ってPICUの中に招き入れてくれるのを待っていた。でも看護師さんが呼びに来てくれる前にその場所に主治医が来て、それからもう一人の主治医が来て、今度は執刀医が来て「俺のことジロって見てたで」なんて言って笑っていたので、娘の抜管が無事に終わったことは呼ばれるまでもなく分かっていた。

それまでどの医師も厳しい表情と見解を崩さないままで「あ、これはもう駄目なのかもな」と娘の命にもう後が無いことを何度も感じていた私は、先生達の明るい表情がとにかく嬉しかった。

それで、この時はぼんやりと目も虚ろだった娘には、痛い事も辛い事も忘れていてほしいけれど、この日、娘に関わる大勢の人達が自発呼吸をその体に奪還した娘のことをとても喜んでくれたのだと、そのことだけは覚えていてほしいなと、そう思ってこの140字を認めたのだった。

この小さい人はこんなにも沢山の人に助けられて死の淵から逃げ切ったんだ。


そして1年後の今日、私はその事をすっかり忘れていた。

「喉元過ぎれば」なんて昔の人はよう言うたモンやねと、今感心しきり。それもこれもすべて、あの日やっと人工呼吸器をはずしたものの、まだまだ覚醒には至らず半分意識不明、しかもこの日の深夜に原因不明の痙攣発作をおこして翌日、人工呼吸器を再挿管、主治医と私を散々泣かせた娘が今や、幼稚園ではお外遊びが好きすぎて、教室に全く入りたがらず先生の手を煩わせ、家では

「いいことおもいついた!」

と言って襖いっぱいにクレヨンでお絵描きをしてくれた上に、それを私がきつく咎めても泣いて謝るどころかせっかくお絵描きしたのに一体何が悪いのかと怒り出す、そういう頑固で恐ろしい程気の強い4歳児に仕上がってしまったからだと思う。

尚、襖はダメでした、死にました。

こんな4歳児が「実は去年の今頃は本当に危ない状態で、起き上がるどころか意識も殆ど無かったんですよ」なんて誰に言って信じてもらえるだろう。

でも嘘じゃない、鎮静が効きすぎたままぼんやりと視線が中空をさまよい、大体39℃台の発熱が1ヶ月以上続き、尿には常に血が混じっていて真赤、血圧は全く安定しないまま時折上が200、SpO2はそれの解決のために手術をしたはずなのに70%前後から少しも上がらないまま「この子は一体どうなっているのだろう」と皆が首をひねっていたのだから。

命というものは一体脆いのか強いのか、私には本当によくわからない。

ただ、この4歳はあの日、来年の未来というものをちゃんとその掌の中に掴んでいたのだなあと言うのは、1年後の私が今、思う事だ。まさかここまで元気に暴れまわることになるとは夢にも思わなかったけれど。

それで本当についさっき、襖に名画を仕上げてくれたこの4歳に、今度は来年のことについて聞いてみた。年中さんの年には何がしたいの?

「ピアノがひきたいの、それからさんりんしゃにのってとおくにいくの」

遠くというのは一体どこの辺りを指すのだろうか、この人は普段酸素ボンベにつながれているという縛りがあるので1人で勝手にどこかに行ったりはできないのだけれど、この呪縛から解き放たれたの日のうちに、本当に1人で遠くに行ってしまいそうな気がして怖い。そしてそれが外れるかどうかの評価はこの4月の検査で下されることになっている。

因みに、この4歳の「しょうらいのゆめ」はつい最近まで

「かんごしさん」

だったのだけれど、何をどうしたらそうなったのか、現在は

「しょうぼうし」

なのだそうで、母親として大真面目にそして真剣に回答すると、そもそも循環機能に問題のある、そしてもしかしたらこの先在宅酸素療法のお世話になり続けないとならない子どもの夢として、タフであることが第一条件の消防士という職業はちょっと適当ではないと思う。まだ「俺、ギターで生きていくんや」とか「アイドルになりたいねん」なんて言う方が多少なりとも現実味というものがある気がする。そもそも娘のような子が将来自立して自活が出来ること自体がもう僥倖であるという現実を私だってよく分かっているのだ。それでも

「そうなんや、消防士さん、カッコイイもんなあ」

としか私は娘に言っていない。

流石に私もこの子が本当に消防士になれるとは思っていないけれど、去年死の淵に立たされていた子が、今年は幼稚園の滑り台のてっぺんに昇って、誰が何といおうと降りない、ここで暮らすんだと言ってベテランの担任の先生をてこずらせているのだから、20年先の未来は分からない。

とにかく、特にここ数日は春が突然運んで来た陽光と年度末の煩雑さにまぎれてすっかり忘れていたけれど、今日は4歳にとってとても嬉しい日だった。

思い出せて、よかった。

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