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醒めない(Unexpected survivors 3)


術後8日目。末娘の開いたままだった胸骨が閉じられてワイヤー固定され、胸部が縫合された。

この閉胸完了で1週間と1日越しの手術はやっと終了。末娘の最後の手術、下大静脈を人工血管を中継して肺動脈と繋ぐ『フォンタン手術』はようやく終了した。

でも、それによってフォンタン手術で出来上がった新しい循環が本格的に稼働して、末娘の全身状態がどんどん回復して、あくる日ぱちりと目を覚ます、という事にはならない。これはひとまず末娘の体に新しく出来上がった循環がかろうじて成立していると評価された事と、胸骨を閉じても心臓への普段がさほどでもないと判断された事、何よりも胸を開けたままにしておくことによる感染症の懸念が大きいからで、実際この時末娘は発熱していた。血液検査での数値上は炎症の傾向は今のところは見られないと言われたものの、体温は39度近くあり、親としてはどう見ても

「風邪の時の顔」

そう思えた。手術の前、まだ自宅で過ごしているある朝に何気なく布団から出てきたその顔が茹でタコのように真っ赤で「風邪!」と思わず叫ぶ、そういう時の顔。具体的に言うと1年前の1月、インフルエンザに罹って同じように39度の高熱を出し、慌てて大学病院の救急外来に担ぎ込んだ時の顔。確かあの時は脈拍が一時200近く、普段120前後が正常値の末娘からすると相当な頻脈になり、自宅用の小さなバイタルモニターのアラーム音が夜通しなり続け、SpO2はフラフラとして落ち着かないし、恐ろしくてその晩は全然眠れなかった。

小さな子どもはよく熱を出す、でも末娘のような疾患の子は、そのちょっとした風邪やお熱が重症化してそれこそ救急車を呼ぶような大ごとになったりする。それを思うと、この微妙な状況での高熱は親の方が心不全を起こしそうな程心配で、先生これは危ないヤツですか、しかもこの状況で縫合するんですかと私が訊ねると先生は

「炎症の数値的には今は問題ない範疇で、現時点では原因は何なのか定かではありません。ただ体にこれだけ針や管を通して、なおかつ体の一部が開いている訳ですから、何らかの感染症は疑われます。だからこそ早急に創部を閉じてしまいたいんです」

そう言ってその日の午後、目と鼻の先の距離のオペ室にさえ移動できる状態にない末娘の為にICUに手術室に人員と機材を丸ごと運び込む形で、予定通り創部をきれいに洗浄し、そして縫合した。

「今回は抜糸が必要なやり方で縫いました。これだと傷はちょっと目立つかとも思いますが」

過去2回の手術では、縫合用の特別な糸を皮膚の内側に埋め込むようなやり方での縫合、それだと抜糸も必要ないし比較的傷跡が綺麗に仕上がるという方法で縫い閉じてくれていた末娘の胸は今回、長く縫合しないまま開き続けた事で皮膚の状態があまり良好ではなかったらしい、いつもの方法で縫合ができなかった。

もともと、過去2回手術で鎖骨と鎖骨の間にあるくぼみの直ぐ下から真っ直ぐ20cm近い手術痕とその下にドレーン、術後の腹部と胸部にたまる水や血液を抜くチューブを入れた痕が、肌の上にペールオレンジのクレヨンを強い筆圧で引いたようにはっきりと残る末娘の胸に、さらに上書きされる形で傷がまた色濃く残りますと言われると少し哀しいような気がしたし、この先幼稚園に行った末娘が、お友達の体と多分その時にはまだ赤い切り傷のように映る縫合痕のある自分の体を見比べて

「コレイヤダナア」

と言ったら私は何と答えてあげたらいいのか、少し言葉に詰まってしまったけれど今は無事傷が閉じられたのだから、それは

「いずれ形成外科に大金を投じよう」

と思って自分を納得させた。生きて家に連れて帰る事さえできたら、その時には今私の目の前で仰臥しながら沈黙を持って自らと闘い続けている人に出来る限りの事をしてやろう、大金が私の懐に転がり込む予定は今のところ全然無いんだけど。そう言えばウチの末娘とはまた別の重い心臓疾患の子のママは、我が子の病気が分かった時、治療に莫大な費用がかかるかもしれないと思いあぐねて

『銀行強盗と横領だとどちらが確実に金銭を奪取できるだろうか』

NICUのバイタルモニター音の中で静かに眠る生まれたばかりの我が子を眺めながら銀行の壁を爆破している自分の姿を真剣に想像した事があるらしい。勿論そのママは犯罪には手を染めなかったし、その子は今日もちゃんと生きている。

それでもやっと傷を縫い閉じた事で漸く手術が終わりましたね、私がそう言うと先生は言った。

「いえ、ここからがスタートです」

そもそも人工心肺の離脱も、閉胸も本来ならば手術のその日のうちに終わる筈だったものが1週間の時間を置いてから、やっとすべてが完了している。それに耐えた末娘の体があまり良い状態にはない事、それを私自身が理解はしていても、先生が手術終了の安堵の言葉ではなく、この先の道のりはまだ長いとニコリともしないで明確に口にした事が私には重たかった。術後1週間、もしかしたらこの人の命はここまでなのかもしれないと固く体を緊張させながら辿り着いた『閉胸』という場所がまだ富士山で言うと五合目、梅田で言うと御堂筋線を降りた場所だと言うのは正直きつい。私は普段から方向感覚という物を持ち合わせていない人なので、あの魔窟とも迷宮とも呼ばれる梅田駅周辺を1人で歩くと、例えば桜橋口を目指していたはずなのに、人込みにもまれながら歩き続けてふと見上げると逆方向にある筈のグランフロントが見えて来たりして、絶望する。

今回の術後はこんな感じ、迷走する予感しかしない。

しかもとても長い時間。


次の目標となる意識の覚醒と人工呼吸器抜管へのスタート地点に立てた末娘は、前回の上大静脈と肺動脈を接合する『両方向性グレン手術』を受けた1年7ヶ月前、人工呼吸器抜管と覚醒が驚く程早かった。

あの時は、術後ICU入室から1日目で人工呼吸器を抜管、というよりその時は術後直ぐ、手足がある程度動かせる程度に鎮静されていた末娘が虚ろな意識の中で気管に挿管されている人工呼吸器の管を自ら引き抜こうと画策して口の端から出ているチューブを引っ張り、夜勤のICUのナースを恐怖のどん底に突き落としたのだった。そしてこの時も主治医として付き添ってくれていた小児心臓外科の先生は

「早々に抜管します…」

そう言ったと聞いている。当時、現場にいなかったのでそこは伝聞からの想像でしかないけれど、周囲に相当呆れられながら術後1日目にして人工呼吸器を卒業。その後の説明では「グレン手術では、早期に肺で呼吸してもらう事も術後経過としては重要なんです。それに頼らなくて済むならそれに越したことはありませんから」と仰っていたけれど、相当な暴れようだったのだと思う。そしてどんなにウチの末娘がまだ小さな子どもで、その手口がICUスタッフにとって容赦の無いものであっても、患者による挿管の自己抜去は医療事故になってしまう。恐怖の重大インシデント。

そして呼吸器の抜管の後、ネーザルハイフロー、鼻にシールのようにピタリと粘着させて使う酸素を吸引しながら末娘は徐々に覚醒し、今度は動かないようにと抑制されている手足に憤慨、当時はまだ言葉になっていない喃語に近い言葉でハナセオキルと唸って大騒ぎし、その声が

「赤ちゃんの声がするねえ」

近くのベッドに臥せっている術後のお爺ちゃんを喜ばせた事をよく覚えている。それでも重篤な患者さんばかりが集まるICUで金切り声を出す子どもなんて煩いですよね、他の患者さんに申し訳ないですと私が気にしていたら当時の担当のナースが

「大人でも術後はせん妄って言って、結構叫ぶし暴れるんですよ。それに小さい子どもの声がすると、喜ぶ患者さんも多いんです、あんな小さい子もここで頑張っているんだなあって」

そう言った。彼岸を間近に見ながら暗い川を泳いで渡って今、此岸の草を掴んで岸に這い上がろうとしている人達には、小さな子どもの声は違う意味で耳に響くものなのかもしれない。子どもはちいさければちいさい程、それはきっと命そのものに近い。

ただ末娘の大声は本気で物凄いのでみんながみんなそうは思わないとは思うけど。

その金切り声の物凄い末娘はICUをたった3日で走り抜け、小児病棟で末娘の帰りを待っていてくれた小児循環器科の方の主治医が

「俺、こんな子初めて見たわ…」

そう言って嘆息を漏らすと共に、先生にしてはとても珍しい笑顔を見せてくれる程、周囲の予想をいい方向に大きく裏切って早々に小児科病棟に舞い戻った。

でも、今回のICUにはアラーム音とスタッフの足音しかしない、とても静かだ。

思えば、先月の22日の手術の日から私は末娘の声を聴いていない。生まれた時から今日まで頻繁に入院し、医療機器を常時携帯しないといけない為に外出の機会が極端に少なく、同じ年ごろの子どもと一緒に遊ぶ機会もあまり無かった疾患児で医療的ケア児の末娘は、環境のせいか、それとも元々の気質なのか言葉が少し遅かった。今でも滑らかに会話できているとは言い難い、それでも最近は朝8時、兄と姉を学校へ見送る時に

「イッテラッシャイ、クルマニキヲツケテネェ」

多分幼児向けのテレビ番組で見たままの台詞を言って見送っていて、それがとても可愛いかった。そのお見送り役が今は不在だ。この子の兄なんかは

「俺、アレが無いと車に轢かれる気がするねん…」

などと言い出している。やめて欲しい、末っ子が術後長くICUにいる間に今度は上の子が車に轢かれて救急救命センターとか、お母さんは倒れます。そして手術室に入る当日の朝、病棟の担当看護師がお迎えに来るまでの間に末娘と交わした会話が

「ママダーイスキ、パパダーイスキ、ニィニダーイスキ、ネェネダーイスキ」

「アトネ―、センセイダーイスキ」

これが映画の脚本なら十中八九術後に何か起きる伏線を張る言葉だった事が今更ながら不安だった。幼児の会話には脈絡と言うものが無いことが多いし、自分の周囲の人の名前を列挙してその皆を「ダーイスキ」と言うのは、普段からよく末娘と自宅で交わしていた会話だ。ただその「ダーイスキ」を連呼しているのが数分後には手術室に身柄を預けなければいけない子だと思うと

「それってどの先生?小児循環器の方?小児心臓外科の方?病棟にいる方?外来にいる方?あとそれなんか遺言ぽいから出来たらキラーイとかそういう悪態にしてもらえへんかな」

その時の私はそんな可愛い言葉よりむしろ悪態をついてくれないかと無茶なお願いをした。憎まれっ子は世に憚るらしいし。それで手術から無事生還しなさい。

そして今、その伏線を術後に見事に回収している末娘は、閉胸後の39度の発熱。多分、開いたままだった創部か、それとも手術からずっと体に入れている末梢ラインか、鼠径部に入れられた透析の管か、首に取られている中心静脈ラインか、その他は、末娘にふわりと掛けられたぶどう色のガーゼの掛物に覆われて見えないけれど、とにかく穿刺されている箇所、開いている場所、どこかから菌が入り込んだのだろうと予測される為に、外せる点滴を総入れ替えして、抗生剤を点滴してもらっている。

そして閉胸から2日後に微熱はとれないものの主治医は

「胸を閉じて2日で、創部には今のところは何も起きていませんので、次に末娘ちゃんを徐々に覚醒させる準備を始めます。今、鎮静剤、麻薬系の鎮痛剤、そして体の動きを制限するための筋弛緩剤を何種類か入れていますが、まずはその中から筋弛緩剤を止めます」

まず筋弛緩剤を止めると言った。この段階で末娘のベッド周りにズラリと掲げられた20個近いシリンジポンプ、輸液用のポンプのどれがそれに該当するのか私には皆目わからない。でも『筋弛緩剤』だとか『麻薬』だとか、聞けば組織犯罪対策課が出張ってきそうな薬剤の名称の響きが恐ろしくて、それ早くやめてくれないですかと密かに思っていた。それで末娘の目が覚めるのならなおさらの事。

「と言いましても、じゃあこれで末娘ちゃんがいつ目を覚ますのかと言う事は、予測が非常に難しいんです。まだかなり人工呼吸器に呼吸を頼っている状態ですし、抜管のタイミングと、鎮静と鎮痛の量の調整は慎重に行おうと思います」

末娘は、未だ呼吸状態も人工呼吸器頼みで、腎臓の数値は改善しないまま。体内に入れている輸液の量に対して輩出される尿が足りていない上に、本来なら出て来る筈の胸水が全然出てきていない状態で

「確かに胸水は出すぎて止まらない状態になるよりは、出ないに越したことは無いんですが、全く出ないという事もまた、おかしいんです。おそらく胃からの出血以後、胃に何も入れずに、点滴だけの栄養に頼っているので、その事も影響しているのかと…とにかく胃に栄養を入れ出せばいずれどこかでまとまった形で出て来ると思います」

胸水が出て来たら、末娘のお腹と胸に取り付けられている吸引用のドレーンと3台の吸引器とはまだまだ長いお付き合いになる。そして、体内に残る鎮静と鎮痛は

「鎮静も鎮痛もそれぞれ現段階でかなりの量を使いましたから、それがいつ頃体内からすべて抜けて末娘ちゃんが覚醒するのかは私も、そして集中治療部の先生にもご意見を求めましたがちょっと予測は付きません。本当に長い間眠り続ける子もいますし、短い期間で突然目を覚ます子もいます」

それは誰にも分からないし、いつ、何月何日の何時に目を覚ましますとは誰も明言できない事なんです。

そう言われて、私はなんだか力が抜けた。

あと何日、何時間で補助循環装置・ECMOを離脱しないと命が無いかもしれないという局面を抜けて、次に傷を縫い閉じて、それでやっと覚醒と人工呼吸器抜管に着手できると思ったら、今度はそのゴールが誰にも分からないと言う。

そして術後10目、筋弛緩剤をやめて2日目の末娘は微かに舌を動かす程度で、瞼は固く閉じられたまま、腎臓の不調と微熱は静かに続き、ついでに後頭部が禿げた。

末娘は術後、相当数の医療機器を体につけたままの状態で、わずかにしか体位交換できない状況にあって、血行の良くない身体で仰臥し続けた結果、床ずれを起こしてしまっていた。それはもう致し方ない、これは別に誰も悪くない。

「それで申し訳ないんですが、この赤くただれてしまった所の髪の毛を刈って、お薬を塗りますので…」

それでも末娘と同じ3歳のお嬢さんがいると言う、普段はとても朗らかでよく話しかけてくれるナースが、お通夜みたいな顔をして深々と謝罪してくれた時には流石に心が折れた。こんな事なら、酸素を担いでいる体だろうとそんな事気にしないで、この子の姉も袖を通した赤い絞りの晴着を着せて七五三の写真を撮っておくんだった。あと、きっと間に合わないとは思うけどもし出られたら入園式の時の髪型をどうしよう。

それに、こんな風に末娘が長く仰臥して眠っている間に、この子の体の一部や機能や元々出来ていた筈の事が段々と消えて無くなってしまっているかもしれない事、その可能性が今目の前ひとつ顕在化して現れた。そういう気持ちになった事も哀しかった。

このまま長く眠り続けて、そして目が覚めた時、末娘は以前とは少し違う末娘かもしれない。それは主治医からも説明を受けていた事だった。

「目が覚めた時に、体のどこかにダメージが出るのか、それとも全く以前のまま元通りになるのか、それは目が覚めてみないと何もわかりません。例えば、今の腎機能の不調が一時的な物なのかそれとも慢性化してしまうのか、低酸素状態が続いたことによる脳への影響が何かの形で現れるのか、それとも全く問題なくそのまま目覚めるのか、それは覚醒してからの経過を診てみないと、何とも」

そう説明を受けていたし、私自身、術後の長い昏睡の末に、病状の急変の後に、心停止の為の低酸素脳症の故に、途中から体の状態が大きく変わった子を何人も知っている。

でもその子達が今、親御さん達の手で大切に慈しまれて生きている事も知っている。皆、大変だけど不幸じゃない、困難だけど可哀相じゃない、そう思えるように根気強く戦い続けているのを知っている。

それを思うと、悲観も楽観もしないで静かにこの子を見守るしかないのだと言う事も。何と言っても今年43歳になる3人の子の母なのだから、こういう時こそ肝を据わらせておかなくては何のために年を取っているのか分からない。

その日は、主治医の話と今後の予定を聞きながら、何か質問はありますかといつも通り聞かれて

「もうハゲに気持ちを全部持ってかれました」

と言って笑って帰って来た。


ところでこの話の中盤、病気を持って生まれた我が子を生かすためにこの先一体どのくらいの費用が必要になるのかを憂患して、銀行強盗の方法を真剣に考えたママというのは私の知人ではなくて、実は私自身の事だ。

末娘が生まれて、まだ先が全然わからなかった頃、その治療に莫大な費用がかかるかもしれないと思って本気でそういう事を考えた。まだ小児慢性特定疾患の事も障害者手帳の事も、この子を育てる為には一体どんな補助や制度があるのか、何も知らなかった頃の話。

その時は、経管栄養で、健常な循環機能を持つ人は100~96%という値のSpO2は70台、風邪をひかせてはいけない、泣かせすぎてはいけない、そういう子を家に連れて帰る事が一体どういう事なのか、想像すらできなかったのに、ただただ

「なんでもいいからこの子を家に連れて帰りたい」

と思っていた。そして今、その時と同じように思っている。

13時間の手術、その後のECMOを使って循環を維持した4日間、目を覚まさないままの術後11日目、末娘の体には何かが起きていて、目を覚ました時には末娘はもう以前と同じ末娘ではないかもしれない。

それでも連れて帰りたい。

とりあえず、末娘は来週早々に、多分ほとんど覚醒しないまま、小児病棟のPICUに引っ越すことになった、そうなると主治医は小児心臓外科医から、小児科の小児循環器チームに引き継がれる。その日程を教えてくれた担当ナースは

「皆、末娘ちゃんを気にしてるんです、いちばん小さい患者さんですから。転棟して元気になったらお顔を見せに来てくださいね」

そう言ってくれた。

そうなると良いなと思っている。


そして今日、面会に行った時に現状を説明に来てくれた主治医が、鎮静の種類と量を替えて調整している末娘の事を

「手や足をほんの少しですが動かしました。絶対そうとは言い切れないんですが、僕の所見では、今のところ手足の麻痺はないんじゃないかと思います」

笑顔でそう言ってくれたので私は今日、11日ぶりに少しだけ心が軽い。

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