見出し画像

遺産相続 4

☞1

母という人間がひとり、世界からいなくなっても暦は静かに、そして確実に流れる。

年は暮れ、新しい年が来る。その世界のことわりは何も変わらない。

大晦日の日、いつもは母と祖父とすもも、それとあけみちゃんが夜7時頃に食べ物とお酒を両手に沢山ぶら下げてうちに来てくれて、人間3人と猫1匹で紅白歌合戦を見て過ごした。祖父は普段9時過ぎには寝てしまう人だから、除夜の鐘の音を数える時は母とあけみちゃんと3人で。その事を毎年あけみちゃんは

「アタシ絶対、蕎麦は除夜の鐘を聞きながら食べる派。悟朗さんはその辺ほんとに雑よね、邪道よ」

いつも夕飯と一緒に年越しそばを食べてしまう祖父の事を情緒が皆無だとか適当だとか今更な事を言いながら蕎麦を茹でてくれた。このお蕎麦はあけみちゃんの田舎からこの日の為にいつも取り寄せてくれる特別な物で

「親から家に絶対帰って来んなって言われてんのよ。アタシにはね『親はあっても親は無し』よ」

そう言って毎年、ずぅっと昔の今よりまだ少し若かったあけみちゃんが勇気を出して『あけみちゃん』の姿で初めて実家に帰った日、あけみちゃんの父親は玄関で腰を抜かし、髪の毛にすっかり白いものが混じるようになっていた母親はホウキを逆さに持って「この親不孝モンが!」と言ってあけみちゃんの実家の村の外れまで追いかけてきたと言う昔話をした。

「ありのままを両親に分かってもらいたいなんて、アタシも若かったのよねえ、還暦をとうに過ぎて田舎の山奥で暮してる人間の世界観と価値観を突然変えろなんて、そんなこと到底無理なハナシなのよ」

持参したエプロンの端で大げさに涙を拭くフリをして見せるまでがいつものあけみちゃんの昔話。あけみちゃんが用意してくれるお蕎麦は、そんな故郷への郷愁と実の両親からの拒絶の哀しみの詰まった我が家にとっての年の瀬の風物詩だった。

「毎年同じ事の繰り返し、あけみの話もいつもおんなじ、まあでもそれって大事な事よね」

母はお蕎麦がこたつの上に乗る時間にはいつも上機嫌でそう言って、蕎麦をつまみに毎年お正月用に買ってある八海山の一升瓶の半分くらいを空けてしまう。母はいくら飲んでも傍目には全然酔ってないように見える人だった。普段からとても陽気な人だったから酔っているのかそうでないのか判別がつきにくいんだ。そして普段あまり遅い時間に起きていない私は、除夜の鐘の音を108回目、終わりまで聞く前に瞼が重たくなってきて、こたつですももと一緒に寝入ってしまう。そして朝、気が付くと自分の部屋の布団の中で新年を迎えていて、こたつに半身を突っ込んだ母とあけみちゃんは机の上の大晦日の食べ残しの残骸とともに居間に2人ですやすや眠っていた。

でも今年の暮れ、母があけみちゃんを相手に晩酌をして、テレビから流れて来る音楽に合わせて歌って過ごしたあの『毎年同じことの繰り返し』は消えて無くなってしまっていた。その事に改めて気が付いた31日の朝は寂しかった。毎年同じ事が当たりに前あると思っていた永久運動的で永劫回帰的な日常が忽然と消えて無くなってしまった哀しみ。私がそれを朝食の支度をしている祖父の隣に立ってそっと告げると、祖父は少し考えてからいつも通りの淡々とした口調で、変容していかない事象は無いからなとそう言って、いつも祖父が服のどこかのポケットに入れている小さなメモ帳を出して来て、そこに

『μεταμόρφωσις』

と書いた

「おじいちゃんまたギリシャ語?何?何て書いてあるのこれ」

「ギリシャ語で、変態、変身という意味の言葉だ。メタモルフォーシス、万物流転の理。物事は変化し続けるという事だ。とは言えあの煩い位賑やかな娘のいない年の瀬と言うのは流石に俺も少し寂しいが」

いつも感情の凪の中にいる祖父にしては珍しく「寂しい」という言葉を口にした。

時の流れはいつも同じようにそこにあると思っていたものを突然、劇的に変えてしまう。

ただ、その時の流れは母は自分の代わりに陽介君と月子さんをここの家に運んで来た。母の死をきっかけに私の元にやって来た、それまで私が知らなかった私と不思議な縁で繋がれている人達。それと毎年一緒に年を越しに来てくれるあけみちゃん。それにすももと祖父。

月子さんはいつも通り夜の8時には自分の部屋だ。修道院時代から体に染みついたその習慣は年の瀬だろうが新年だろうがもしかしたら天変地異的な大災害の起きた日でも1ミリも変わらないのかもしれない。そういう所は、今年の大晦日も9時に自分の部屋に引き上げて行った祖父と月子さんは本当によく似ている。でもこの不思議な家族のようなもののお陰で、私は母のいない初めての大晦日を泣かずにやり過ごす事が出来ている。

いつものお蕎麦、いつものあけみちゃん、いつも通り9時には寝室に行く祖父、そしてつい最近その存在を知った兄、母と同じ顔の母の妹、膝の上のすもも。

あの日、陽介君の母親として、そして母の友人としてこの家を訪ねて来た雪野さんが私宛に置いて行った現金は、雪野さんが衝動的に電車に飛び込もうとした出来事に紛れてその時はすっかり忘れ去られていたけれど、後日、月子さんの手で雪野さんに返却された。雪野さんの手紙と現金を見た祖父も、気持ちはとても有り難いが流石にこれは受け取れないなと言った、15年前と同じように。

「この現金は謹んでお返ししよう。相手は故人の大切な友人だ、陽子だってこんなことをして欲しかった訳じゃないだろう」

それで雪野さんと月子さんが初対面で母娘の契りを交わしたという不思議な関係で、その関係が友人も兼ねていると言うのなら、月子さんからお金を返して貰う、それが一番雪野さんを傷つけない方法なんじゃないかと思って、私は月子さんにこれを雪野さんに返して来てもらえないかとお願いをした。月子さんもそれが順当でしょうと言って、私から現金の入った包みを受け取ってくれた。

でも陽介君だけが、どこでどう知ったのか、その昔私宛に一括で支払われた養育費の総額を知っていて、それを引き合いに出し

「ここは子ども1人産んで育てて大学出すのに3000万とか、モノによってはもっと必要ですとか言われる国なんだよ。それ考えたら昔ウチから美月ちゃんに払われた養育費の額なんてさあ、えーと…ほらあの…アレ?何の涙だっけ」

「それは雀の事ですか」

「そう、それ。貰っといたらいいじゃんその位、どうせその金の出所なんか俺のじいちゃん名義の会社か、お父さんの事務所か、とにかくそういう場所の金庫の中にある帳簿に載せられない、ほとぼりが冷める迄暫く触っちゃいけない金か、もしくは経費。本当になんでも経費で落ちるんだよ、そういう世界なんだから。口利き料、キャバクラ代、慰謝料、手切れ金、全部経費で落ちる。それにウチに来てくれてる税理士さんが言うには経費はどんどん使わないといけないんだって。その中ではかなりまともな使い道だよ、ひとりの未来ある15歳の女の子の将来の為に使うんだから」

毎日短期と単発のアルバイトをハシゴし、人からもらった服を着て、交通費の数百円を惜しむあまり一駅歩いてバイト先からこの家に帰って来たりしている身の上の癖に、陽介君はお金に関する感覚が私とは相当かけ離れていた。良くも悪くも育ちが違う。そして

「人殺し以外は何でもやるのが政治家だ」

自分の家の、あれは稼業と言って良いんだろうか、3代続く政治家という仕事を毛嫌いしていて、その家業をかなり物騒な言い方で表現した。だから金の事なんか向こうにしたら本当に些末な事なんだと。凄い酷評。陽介君は父と父の仕事が物凄く嫌いなのだそうだ。陽介君は祖父の立ち合いの元、封筒から出した角で手の切れそうな新札の束を、そのまま受け取るべきだと陽介君にしては強く主張した。

『美月ちゃんにはその権利がある』

でもそんな大金、そうですかと言って受け取れる訳ないし、高額の現金の授受には本来贈与税というものが一般贈与の際ならこの額面の場合は元金の30%課せられるのだと、それは長年世捨て人のように暮らしていた割に税金や法律、世の中の決まり事に妙に詳しい月子さんが淡々と教えてくれた。

「陽子の手紙には『娘の美月を助けてやってほしい』とあったようですが、それが具体的な金銭の要求だとは一切書かれてはいなかったと美月から聞いています。陽子が貴方にあのような手紙を書き送ったのは自分が死んだ後、美月の周囲に普通の、常識のある大人が皆無だと言う事、それを憂患しての事だった筈です。陽子が貴方に美月の助け手となる人物として白羽の矢を立てたのは、貴方が陽子の周囲の人間の中では最も良識ある大人の女性、即ち美月の良い相談相手になってくれるだろう人物だという事、それが唯一で最大の理由です。その件については私も陽子の考えに異論はありません。父と私、あけみさんの生き方はご自身の在り様に対して大変潔いとは思いますが少し特殊で、美月の同居家族とその周辺には一般的に多数派と呼ばれる思考の人間はおりません。失礼ながら雪野さんは、あの手紙の行間を過度に読み取り過ぎているように思います。貴方は他人の考えを慮り補完する、相手の期待しているかもしれない事柄を事前に察知してそれに応えなければという感情が先に立ちすぎています。それは貴方のような立場の方には必要な能力なのでしょうが、私のような人間から見た時に、あまりにも自分が無いように思えます。そこに、貴方がいないのです」

祖父同様、自分がどう感じるか、自分が何を信じるのか、多勢の考え方よりも一般常識よりも、自身の主観というものを一番大切にして生きている類の人間である月子さんは、雪野さんの存在自体が根底から揺らぐような文言と共に、私が丁寧に洗ってコーヒーの染みを落とした袱紗に包んだお金を雪野さんに返して来てくれた。

『そこに貴方がいない』

それ、精神的な病気という闇の中にいる人に正面から言って良い言葉だろうか。私だって今『貴方の中に本当の貴方自身はいるのか』とかそんな自己同一性についての根源的な問いを投げかけられたりしたら、きっとうまく答えられない。人間って、誰かの期待に応えようとか、人に良く思われたいとか、叱られたくないとか、誰かのための自分を演じて言葉を選び行動してしまうもので、『心のままに生きる』というのは小さな赤ちゃんだけに許されている我儘なんじゃないだろうか。もし皆がそんな事をしていたら世界は軋轢だらけだ、ぶつかり合うそれぞれが摩擦して削れて、弱くて脆い人から先に塵のようにふうっと消えていってしまう。でも月子さんは

「陽子の手紙の最後には貴方に宛てて『もっと言いたい放題やりたい放題に生きて欲しいと思っています』とあったと聞いています。貴方が誠心誠意、心を尽くして相手の事を考えて努力をして来たつもりでも、相手が貴方のその態度を当たり前の事として甘受し、それどころか貴方が自分の意のままに動く人間であると認識する事で貴方を追い詰める、そんな事を日常として生きていれば人は遅からず内面から壊死していってしまいます。それが今の貴方です。美月を助ける事より先に、陽子の手紙の最後の文言を実行する事が今の貴方にとっての最重要事項です。美月には今、陽介さんが兄として付き添っていますから」

貴方は今、静養し、ゆっくりと貴方自身を取り戻すべきだと私は思います。そう言って月子さんはハローワークの行き帰りに雪野さんの暮している1人暮らしにはやや広すぎの豪奢な2LDKのマンションに立ち寄り、雪野さんが年末年始の時期、本来であれば一国の大臣の椅子に座る政治家の妻として、そして親戚づきあいのややこしい旧家の嫁として、やるべき事とやらなくてはならない事が山積している筈なのにその全てを放棄している怠惰で無責任な人間であると言う、月子さんの言う所の『無駄な』自責の念に苛まれてすっかり心身の調子を崩し

「私なんか本当に何の役にも立っていないの、死んだほうがいいのよ、ただ生きてるだけで生産的な事を何ひとつしてないんだもの、体に障害も何もない健康な人間が何もしないで毎日寝て起きて食べてるだけなんて、猫じゃあるまいし、ううん猫の方が可愛いだけ生産的よね、お宅のすももちゃんは可愛いもの、私なんかただの寝てるだけのデブのおばさんよ」

すももまで引き合いに出して、自分は穀潰しの太ったおばさんだと言ってしくしく泣いている日は、セミダブルの大きなベッドの上にちょこんと座り、ふかふかの羽根布団にくるまって雪だるまのような恰好で子どもみたいに泣く雪野さんを励ますでもなく叱咤するでもなく、どんなに剥がしても付きまとうらしい虚無感に憑依されて、すっかり卑屈になってしまっている雪野さんの傍らに静かに座っていた。

「自発呼吸をしているだけでも大変に立派です。今はとりあえず生きていてください、自転している地球につかまっているだけでも人間割と大変なものです。そもそも人間は生まれてきた事自体が罪です。我々は神と完全に断絶した世界で生きているのです。貴方も私も、生きづらくて当然です。あと、お忘れのようですが鬱は病気です。貴方は今、健康な人間ではありません」

雪野さんの寝室に置かれた精巧な浮彫細工の縁取りのあるアンティークの鏡台を机にして、祖父から下請け的に頼まれた英語の文献の下訳、横書きの英文を縦書きの直訳におこす作業をしながら、月子さんは淡々と、人間は生まれながらの罪人であり、人は神の子という存在にしか贖われない罪の中で生きているのだと言う身も蓋もない話をした。出会った当初から思っていた事だけど月子さんは人を慰めるのがかなり下手だ。人生に絶望している人の前で神と人間の断絶について論じてそれで心が救われる人がいるとでも思っているんだろうか。でも月子さんは神と人間との断絶、それは『原罪』という人間の元々持っている罪のことらしいけれど、そのこと以外は特に何も言わず、小さな子どものようにしくしくと泣いている雪野さんの横で静かに英語の文章を翻訳し、泣いて体内の水分が体から出て行ってしまうと喉が渇くからとキッチンで温かい紅茶を淹れ、食欲が無くても喉を通りやすそうな果物やサンドイッチを大きな外国製の大きな冷蔵庫に補充し、その日の様子を毎日夜に雪野さんの様子を、月子さんが言うには生存確認に来るらしい父の事務所の秘書の人宛てにメモ書きにして夕方我が家に返って来た。

そうかと思えば、雪野さんの体調が良い日には

「今日、雪野さんのマンションに立ち寄りましたら、雪野さんがお化粧をしてコートを着て、更に靴まで履いて玄関で私を待っていらっしゃいまして、初釜の日の為の袋帯が見たいから一緒に出掛けて欲しいと仰るので百貨店の中にある呉服店にご一緒しました。雪野さんは百貨店の呉服売り場に行き、帯をひとつ誂える事に決めてから、何故か若い女性向けの衣料品のフロアに吸い寄せられるように降りて行かれて、入店時からずっと後ろについていらした外商部の方に、今15歳位の女の子の間ではどんな洋服が流行っているのか、詳しい方と身長が150㎝程度の細身の体形の店員の方がいたらその方も一緒に連れて来てほしいと仰って、フロア担当の方と、もうひとり美月さんと背格好のよく似た店員さんと洋服を上から下まで選んでひとそろえ購入していらっしゃいました。私も意見を求められましたが、長年白とこげ茶の修道服ばかりに袖を通してきた人間ですので何とも。でも私の意見など求めずとも、雪野さんが選んだ洋服はどれも中学生の年ごろの子どもが着るものよりはほんの少し大人びた、それでいて可愛らしいものばかりでした。雪野さんが仰るにはご自身が産んだ子は男性の陽介さんだけで、娘のような年頃の女性の衣類を選ぶ事を想像する事自体が楽しく、いずれ体調の良い日を見計らってこういう事をしてみたかったのだそうです、美月さんに似合いそうな可愛らしい洋服を選んで買ってあげたいと、そういう事でした」

雪野さんは、アレとコレと、その飾ってあるのも素敵だから持って来て頂戴と目に付いた物を手当たり次第に手にとっては、これ頂くわと言って会計に回し、その盛大な買い物の仕方には流石の月子さんも少し驚いて、それはいささか買いすぎではないですかと窘めるような事を言うと、雪野さんは子どもみたいに笑ってこんな事を言ったらしい。

「だってやりたいようにやっていいんでしょう?」

雪野さんから、私に渡して欲しいと言づけられた紙袋を沢山抱えて帰宅する日もあった。紙袋の中には色とりどりのニット、ワンピース、コート、スカート、ローヒールの私には少し大人っぽいパンプスまで入っていた。私は、いいのかな、これ全部ちゃんとしたデパートで買ったヤツなんでしょ、GUとかH&Mとかしまむらとかじゃなくて、そしたら総額で凄い値段になるんじゃないの、そう思ってかなり戸惑ったけれど、月子さんは

「雪野さんは今まだ少しの時間外に出るだけでも、街の中のあらゆる物の音や光や匂い、それらすべての刺激が強すぎて疲れてしまうそうですが、若い女性向けの衣料品売り場はパステル調の色味と特に百貨店では器楽曲で構成されている店内音楽が彼女の今の精神状態には比較的優しく、何より柔らかで優しい女性ものの衣類の手触りがまだ『大丈夫』の範疇なのだそうです。雪野さんは外に全く出ない日が長く続くと自分は世界に取り残されているという感覚が先に立って少し焦ってしまわれる様子ですし、これは彼女にとってのリハビリ、機能回復訓練です。美月さんに受け取っていただかなければ、雪野さんや私には美月さんの衣類はサイズがあいませんし、かと言って、流石にこの可愛らしい衣類は陽介さんには似合いませんから」

月子さんは、この衣類の購入は『自分がやりたいことをしたい』という気持ちと『死んだ友人の残した娘に何かをしてあげたい』という雪野さんの複合的な気持ちの発露であり、自分も父も美月さんの好みと流行を取り入れた衣類など、一体何処に売っているのか全く知らないのだし、これは貴方の背格好を正確に伝えた上で売り場の方と雪野さんが貴方の好みを真剣に想像し厳選した物なのだから、好意として有難く受け取り、今ここにある衣類に袖を通してみたらどうかと言った。

私は、この雪野さんの贈り物が正直とても嬉しかった。祖父は私と同じ年の母と月子さんを残して祖母が死んだ後、男でひとつで娘達を育てたにしては、娘や孫の私が何を着ようが全然頓着しない人だったし、そうかと言って生前の母の選ぶものは私には派手すぎて、一緒に買い物に行くと、いつもそれじゃない方がいい、そんなの着ないと喧嘩になっていつも大体その間に居合わせるあけみちゃんが大変な目にあっていたから。何しろ母は高島屋の紙袋柄のワンピースの人だったのだから。そんなことを思い出しながら私は、プレゼント用に綺麗に包装されている包みをひとつひとつ開封して、それから中身を確認してそのたびごとに小さな歓声を上げた。その隣で陽介君は「いいじゃん、かわいい」と言いながら、でも俺のがひとつもないけどと言ってほんの少しいじけていた。この時の私は

「妹が出来て親の目が下の子に移るってこういう事か…」

そんな冗談とも本気ともつかない、つい1ヶ月程前に急に兄になった人の軽い嘆きの言葉には聞こえないふりをした。

それで私は、雪野さんに御礼の手紙を書いてそれを月子さんに届けてもらう事にした。人は気持ちがくたくたに疲れている時、電話の着信が早くこちらと会話をしろと言う脅迫の声に聞こえる事がある、メールの類も簡易にやり取りが出来るだけに却って焦ってしまうものだし、それならいつ読んでくれても構わない、全て貴方の自由だと言ってくれる手紙が、簡便さもスピードも無いが、今の先方にはいちばんやさしい通信方法だろうと、祖父がそんな事を言ったから。

雪野さんへ

先日は沢山お洋服をありがとうございました。

どれも可愛くてサイズもぴったりでした。母が死んでしまってから、もう母とは一緒に買い物に行って服を選んでもらったり、そのことで喧嘩したりすることはないんだと思っていたのに、私には今、母とは別にもう1人お母さんが出来たような気がします。陽介君が私の兄で、その陽介君のお母さんである雪野さんは私のお母さんではないのだけれど、それに近い人だと思う事を雪野さんが私に許してくれるのなら、私はとても嬉しいです。

陽介君は、就職活動については背水の陣というか『既に城が燃えてちゃってる感じ』というちょっと恐ろしい事を言っているのですが、卒論だけは何とか出すと言って毎日夜中まで頑張っています。昨日は一応学者である祖父に査読というのをお願いしていました、論文がおかしくないかを専門家に見てもらう事なのだそうです。月子さんは、経済学は祖父の専門外だからそれは査読ではなくただの校正、文字の間違い探しですと言っていましたが、途中からそこに参加していました。祖父は、人生というのは曲がり角を3回曲がると大体目的地に着くものだし、人間は3人寄れば物事はある程度なんとかなると言います、本当かどうかは分かりませんが、でも卒業論文はきっと間に合うと思います。

あと、これはまだ誰にも言っていないのですが、私は3学期から学校に行こうと思っています。行っても教室の扉を自力であけられないかもしれないし、それ以前に学校に行くまでにお腹が痛くなりそうで、それでまだ迷っているけど、でも頑張ろうと思っています。

雪野さんは、私のこの手紙を受け取ってからしばらくして、年明けの初釜に新しく誂えた打ち出の小槌や隠れ蓑の小さな模様が刺繍された『宝尽くし文様』という吉祥の印に彩られた帯を、雪野さんの優しい丸顔に良く似合う銀鼠色の無地の着物に絞めてお茶の先生のお家に出かける事ができた。次の日は疲れてまた寝込んでしまったらしいけれど、その翌週にまた少し気持ちと体調が上向くと今度はどうしても月子さんと一緒にパンケーキを食べに行きたいと子どもみたいな事を言い出して、祖父と陽介君と雪野さんが初めて出会ったあのホテルのラウンジに出かけて苺と生クリームで上品に飾られたパンケーキを食べに行き、元気な日とそうじゃない日の間隔を少しずつ短くしていった。

「立春の頃にはもう少し元気になれると思うの」

1年で1番寒い日に生まれた、辛抱強くて優しくて、そのせいで長い時間をかけて自分の内面を傷つけて来てしまっていた雪野さんは、亡き親友の双子の妹で、疑似的な母と娘の間柄になった不思議な関係の月子さんと一緒に、少しずつ春に向かっているみたいだった。

☞2

母が死んで直ぐの今年のお正月は、一般的には喪中のはずだったけれど、そもそも祖父にはそういう習慣へのこだわりという物が一切無いし、月子さんも

「人が亡くなる事が穢れであるという考え方には個人的に賛同できません、それに陽子は新年を寿ぐ日の華やかな雰囲気を殊更好んでいましたから」

と言い、うちには例年の如く親に実家に帰宅することを固く禁じられているあけみちゃんや、そのお店のいつも艶やかなお姉さん達、それに近所に住んでいる祖父の友人達やかつての教え子達、と言っても月子さんよりも年上のおじさんやおばさんが入れ替わり立ち代わり家にやって来た。正月のお客様達は皆、口々にあの存在自体が派手で賑々しい君のお母さんがいない今年のお正月は寂しいでしょう、でも元気を出すんだよと言って私にお菓子やお正月の彩りの美しい食べ物をお年賀だと言って持って来てくれた。どの人達も44歳で夭折した母がもうこの家に居ないという寂しさよりも、残された私の将来への憂いが先に立ってしまうのだと言う。美月ちゃんはまだ中学生だし悟朗さんはホラ、陽子ちゃんとは別方向に浮世離れしている人だから。私はそんな優しい大人達の気遣いと的確で遠慮のない祖父の人物評を聞いて、少し笑いをこらえながらありがとうございますと深々と頭を下げて御礼を言い、次いで挨拶に出てきた月子さんを見て、その存在を知らなかった人が驚いて上げた悲鳴を聞いては

「この人は母の亡霊ではなくて長くこの家を留守にしていた母の双子の妹です」

そう説明をする事に明け暮れた。その上私に面差しがとてもよく似ている陽介君までもが家の中を『長男』という変なロゴのプリントされているTシャツを着てウロウロしているので

「何?陽子ちゃんて双子の妹と、あともうひとり子どもがいたの?あの子、美月ちゃんのお兄ちゃんなんでしょ?『長男』て書いてあるし。それに何か美月ちゃんと顔がそっくりなんだけど」

そう言って陽介君を見て更に困惑している来客に、今度は月子さんが

「こちらは、姪の美月の血縁上の兄で戸籍上は他人である谷川陽介さんです。陽子の産んだ子どもではありませんが、私と陽子の友人である方のご子息です、現在一時的にですがこの家に住んでいます」

婉曲表現を一切使用しない、ありのままの真実を語って現場を余計に場を混乱させていた。普段とは少し違うけど、でも誰かが代わる代わるやって来る賑やかなお正月。そんな中で、少しだけ喪中らしかったのは母の仏前にと皆が競うように持って来てくれたお花だ。でもその花の大半が故人が好んでお店に飾っていた赤やオレンジ色の派手なバラの花で、陽介君は

「なんか、お骨の周りが陽子さんの店みたいになってる」

そう言って笑っていた。仏花らしい菊や白い花がひとつもない、死んで尚、遺影の周りさえお店同様派手だなんて、本当に死んだって感じが全然しない人だよね。

陽介君はお正月もなんだか普通に我が家にいる。ドラえもんみたいだ。本来ここでは異質な存在の筈の陽介君は、この家に住み着いて1ヶ月もしない間に普通に我が家に溶け込んでいた。我が家の人間もかなり色々な事に動じないし構わない人ばかりだけれど、これは陽介君の一種の才能だと思う。陽介君は人の懐に違和感なくするりと入り込み、その時決して相手に警戒心を抱かせない、そういう事が息をするように自然と出来る、いつも猫みたいな人懐っこい笑顔で。

「そう言うの、ひとたらしって言うのよ。なんせ3代続いた政治家のおうちの子だもんね、血よ」

いつだったかあけみちゃんは陽介君に向かってそんな事を言った事があった、でもその時の陽介君はとても珍しく本気で怒っていた。

「俺は政治家なんかじゃない、ああいう人種と一緒にしないでくれ」

そんな風に実家稼業を毛嫌いしている陽介君には年末、松の内かせめて三が日位まではこちらのマンションに来て、中原さんのお宅でお正月を過ごすのは遠慮したらどうかと、母親である雪野さんから連絡があったらしい。雪野さんは月子さんが評する通りとても常識的な人だから。でも、雪野さんはこの時期まだ陽介君の顔を見ると、就職どうするつもりなのとか、なんでそんな変な柄のTシャツ着ているのとか、髪が全体的に長すぎるから切りなさいとか、そういう『自分がしっかりしないと』という義務感と『自分がちゃんとしなかったから』という自責の念、とにかく旧来、母親的なものとだ言われていた気持ちに体が支配されて情緒が安定しなくなり、それが転じて結局、したくもない親子喧嘩が発生してしまう。

そしてその事が

『本当は早く元気になってほしい筈の母親に優しく出来ない、それどころか中学生みたいに言い返してしまう推定13歳の精神年齢の自分が本気で嫌になって挙句死にたくなる』

大げさに陽介君を落ち込ませてしまうので、陽介君には今年はウチでお正月を過ごしてもらったらどうだろうと祖父が提案し、それを皆、了承した。既にドラえもん的に我が家に馴染んでしまっている陽介君がお正月も我が家にいる事に異論のある人はここにはいない。大体アカの他人のあけみちゃんだって年末年始いつも普通にウチに居座っているんだから。その代わりに新年は月子さんが雪野さんのマンションに出向いて、雪野さんの唯一の趣味のお茶のお点前に付き合ったりしていた。夫の愛人問題と実母との関係性に起因して心の病気になり療養中の雪野さんと、還俗して浮世で在俗生活を営もうにも現在絶賛無職の月子さん。人目にはあまり幸せそうには見えない50歳と44歳のこの2人は、それでもどこか恬淡としていて、特に月子さんは、普段楽しいのか嬉しいのかよくわからない表情筋のごく薄い人だけれど、雪野さんの家に出向く時はほんの少し楽しそうに見えた。

月子さんは、私ぐらいの年頃まで茶道を習っていたらしい

「雪野さんのように、茶名を頂くまで熟達する事はとても無理ですが、薄茶点前までなら何とか覚えていました。母が資産家の令嬢であった頃の最後の名残です」

それは月子さんが母である私の祖母に教わったものなのだそうだ。雪野さんのお点前は現在の雪野さんの精神状態に反してとても鷹揚でゆったりとした気持ちの良いもので

「本当に生徒を募って講師をなさったら良いと思います」

月子さんはそんな風に雪野さんを評した、雪野さんは手先のとても美しい人だと。

そして陽介君の父、即ち私の父からは2人に何の連絡もない。妻にも子にも。夫や父ってそういうものなんだろうか。真偽のほどは分からないけど陽介君が言うには父には美しい愛人が1ダース位いるらしい。その人達がいたら、人生でお正月にこたつで一緒に箱根駅伝を退屈そうに眺めてくれる人が家に誰も居なくても寂しくないものなんだろうか。

「家に家族が誰もいないお正月って寂しくないのかな」

その箱根駅伝をぼんやりとこたつに入って眺めながら私は陽介君に聞いてみた、私には祖父はいるけど父は生物学上はともかく戸籍上いない事になってるし、父っていう人の考える事はわかんないねと。それを聞いた陽介君は私に

「あの人はちょっと特殊だよ、俺にだって全然わかんないよ」

そんな風に答えてくれた。陽介君は寂しいのが嫌いなのだそうだ。子どもの頃、長いお休みの時期には祖父母の家に預けられて、そこで習い事をたらいまわしにされてからその後シッターさんを相手に留守番ばかりしていたのが身に応えたんだと言う。だから家に兄弟とか犬とか猫とかとにかく誰かがいつも家にいてくれる方が俺は絶対に良いけどなと言って、代わる代わる誰かが玄関にやって来る賑やかを通り越して騒がしい我が家のお正月を、多分誰よりも楽しんでいた。それに今年のお正月はあけみちゃんが

「悟朗さんの家に、今、陽介ちゃんが住んでんのよ」

自分の周辺の人達皆に、この家に陽介君が居る事をかなり吹聴していたらしい。去年の一時期、ほんの1~2ヶ月母のお店とあけみちゃんのお店に出入りしていただけの陽介君は、本人は強く否定する人たらしの血がそうさせるのか、それとも顔だけが売りの政治家である父の面差しを強く受け継いでいるためなのか、お店のお客さんからもあけみちゃんのお店のお姉さん達からも絶大な人気があって、私への激励の為の贈答品とは別に、陽介君に食べさせてやってほしいと言ってやたらとカロリーと値段の高そうな食料品が我が家の冷蔵庫に続々と集まった。皆、鎖骨が綺麗に浮き出る程痩せていて実年齢より少し幼く、高校生か下手をすると中学生位に見える陽介君を見ると、何でもいいからお腹一杯食べさせてあげないといけないという謎の使命感に駆られてしまうのらしい。

日ごろの祖父の陽介君に対する態度を見ていて薄々気がついてはいたけれど、世の中の特にあけみちゃんから上の年齢の人たちは若者が旺盛な食欲で沢山食事をする姿を眺めるのがとても好きだ。あけみちゃんは

「だってあたしはもう小鳥くらいにしか食べられないもの…」

軽い嘘をつきながら、箱根駅伝の往路の日に、母のお店によく来ていた工務店の社長をやっている気の良いおじさんが持って来てくれた桐箱入りの霜降りの近江牛ですき焼きを作ってくれた。あけみちゃんはホラホラ食べなさいと陽介君と私のお皿にどんどんA5ランクの近江肉を盛り付けて、そしてその傍でしらたきばかり食べる月子さんに

「ちょっと月子!あんたもう少し積極的にカロリーを摂取しなさいよ!この先、生きてく気あんの!?体力がいんのよ、俗世を生き抜くには」

中年は一蓮托生、あんたもアタシと一緒に太りなさいよと言って思春期の少女のように薄い体の月子さんを叱って、月子さんのお皿にも牛肉を放り込んだ。あけみちゃんは月子さんの事を月子と呼び捨てにして呼ぶようになっていた。あけみちゃんが相手にちょっと意地悪な言い方をしたり、わざとぞんざいな口をきいたりするのは相手の事をとても気に入っている時だ。あけみちゃんはこの能面のような表情筋の動きの少ない、母とは真逆の性格の月子さんが実はとても好きらしい。

「そうは言われましても、元来そこまで多量の食物、熱量を摂取しなくても活動できる体質なのです。それに、この牛肉は陽介さんに食べさせてほしいという事で頂いた物なのですから。あと、私はしらたきが好物なもので」

「何?無職だから?無職だから遠慮してんの?食べなさいよ!ホラ美月ちゃんも食べなさいよ!悟朗さん…は黙ってても結構食べるのよね年の割に」

月子さんは、俗世に戻って1ヶ月と少し、ハローワークに真面目に通って仕事を探していたけれど、年齢のせいなのか、経歴が特殊過ぎるのか、それとも他者に自身の主張を婉曲表現も留保も無いままぶつけてしまう直接的でかつ理論的な性格が問題なのか、就職先は一向に決まらなかった。

「大丈夫ですよ、俺も内定でないまま卒業になりそうですから」

あけみちゃんが盛大に盛り付けてくれた牛肉をいっぺんに口に入れて咀嚼し胃に流し込みながら、陽介君が月子さんを慰めようとして自分が来年は留年した大学生ではなくてただの無職の人間になるかもしれないという容赦ない現実を笑って話した。しかも現状のままなら住所も不定だ、肩書としてはかなり怪しい、職務質問とか受けたら捕まりそうな予感がする。

「陽介君はもっとやばいでしょ。就職が決まらなかったら住所不定無職か、そうじゃないなら実家に強制送還なんでしょ、お父さんのカバン持ちやれって、それが死ぬほど嫌なんでしょ」

実際陽介君はもう大学の就職課にも微妙に匙を投げられている後の無い学生だった。年末にはいよいよ大学の事務の人にこんなことを言われたそうだ

「悪い事は言わないから、お父さんにお願いされては?」

それがしたくないから、こうして来てんじゃないすかと陽介君は就職課で事務のおじさんに泣きを入れてきたらしいけれど、状況はあまり変わらなかった。対して月子さんは無職と言っても、祖父の紹介で翻訳の仕事を不定期に貰っていて、特に哲学的な分野と古典外国語に造詣の深い月子さんの知識と語学力は、祖父のフィールドである人文系の書籍を扱う界隈で結構重宝されるらしい。でもそれは仕事の量とその煩雑さの割に見入りの少ない仕事である上に、決してこの先伸びしろのあるような分野ではないので、それだけで暮していくのは流石に難しいのだそうだ。あまり金の事は言いたくないが時給換算すると恐ろしい事になるとは、この前、皆で9時のニュースを見ていて『経済的自由主義って何すか』と陽介君が質問した時に、それを18世紀、アダムスミスまで遡って説明し始めた癖に自分通帳の預金残高はよく覚えていない祖父の言葉だ。その祖父が言うのだから多分相当なものなんだと思う。

「とかく人の世は住みにくいという事です」

そんな現実を取り立てて焦っている様子も、悲嘆している様子でもなく月子さんがそう言い、陽介君は

「なんすかソレ」

と言って白ネギを自分の皿から私の皿にそっと置いた、陽介君は白ネギが嫌いだ。

「『草枕』。夏目漱石だよ、知らないの?」

「俺、現代文とか全然駄目」

「大丈夫だ陽介君、今のは俺の受け売りだ」

「おじいちゃんは直ぐ余計な事言う。ハイ、月子さん白ネギ」

私は自分の皿に置かれた白ネギを、今度は月子さんのお皿に入れた、私も白ネギが嫌いだ、そして白ネギは月子さんの好物だ。私たちのそんなやりとりを見ていたあけみちゃんは笑いながら菜箸から手を離して自分の席に座り、自分のお皿を手に取って

「陽介ちゃんもねえ、小学校受験してあとは中学高校大学と受験を回避しながらここまで来たとは言え、一応そこそこの大学のそこそこな学生なんだから一般教養的に夏目漱石位読んどきなさいよ。草枕はともかく、ホラ『こころ』とかは?あの哀しい恋のお話よ、アタシあれ大好きなのよ、山月記よりも断然こころ派。アタシ山月記の李徴みたいにプライド高すぎて拗らせまくった男苦手なのよ、高校の教科書で読まなかった?」

俺長い文章読むと、3行で眠くなるからと真正直に言った陽介君の言葉に、あけみちゃんは声を上げて笑った。いいわねえアタシ陽介ちゃんのそういうバカっぽいとこ大好きよ。

「でね、全然話変わるし、近江牛食べてる時にこんな不景気なハナシしたくないんだけどねえ、ウチのお店の1階、空き店舗だとどうもウチのお店の客の入りも悪いのよね、陽子の店の流れで来るお客さんも結構いたし、居抜きでどっか入ってくれるといいんだけど、維持費だけかかって家賃収入ゼロがこの先何ヶ月も続くのってオーナーとしても良くないでしょ、今どんな感じなの?」

あけみちゃんは、すき焼きを食べながら、去年の秋から閉めたままになっているあのビルの1階の店舗が今どうなっているのかを聞いてきた。母が戻ることなく閉店してしまったあの店は今も、母がいよいよ緩和ケア病棟に入院するという前日、これから暫くお休みだからねと、みんなで冷蔵庫の電源を抜いてグラス類を丹念に拭きあげ、お酒や機材にホコリが付かないように白いクロスで覆って、店内を隅々まで掃き清めた状態で店主の帰りを静かに待っていた。

あの4階建ての小さなビルは、まだ母の死を知らないままだ。

「この先借り手が決まらなくて、じゃあビルごと全部手放しますって言われても困るしねえ、もしそれで次のオーナーがあんな老朽化したビルつぶして駐車場にしちゃえって言い出したらさ、この年老いたオカマが1人、この景気最悪な浮世の寒空に放り出されるのよ、そうなると困るのよね、アタシが1人が食えればいいってそれだけの生活じゃないんだもの、従業員の子だっているし、その他にもいろいろあんのよアタシには」

あけみちゃんはあの1階の行く末をとても気にしているみたいだった。現在の持ち主である私があの物件を手放すのも維持し続けるのも、それは現オーナーの私の自由だけど、店舗を不動産から退去させて次の物件を探し、そしてまた契約すると言うのはとても大変な事なのだそうだ。特にあけみちゃんのような身の上の人には。

「一応管理を委託した不動産屋を通して借り手を募っていますが、出してからまだそんなに時間も立ちませんから」

特に借り手がついたと言う話は来ていないと月子さんは淡々と答えた。それは私も一応月子さんから聞いている話だった。店の設備は什器類も含めて全て残されているし、そのまま借り手があるならそれが一番いいが、何しろ古い物件で内装も古いから一度すべての物を片付けてフロアを平坦な、空の状態にするのはどうかと不動産の会社の人から勧められたという事もその時に聞いていた。

「店舗の内装設備を全て撤去した状態をスケルトンと言うらしいのですが、あの店をそういう状態にして、借り主になる方の自由に空間を作っていただく方が良いのかもしれないと不動産のお店の方が仰っていました。ただその場合、内装撤去の為の工事の費用はこちら持ちという事になります」

月子さんはそう言ったけれど、その件は私の意向で止めてもらっていた。お金の事じゃなくて、私は母の香りというか思い出の一番強く残されているあの場所を、天井も床も剥がして何もないまっさらで空虚な場所にしてしまう事がどうしようもなく寂しい事に思えて、そうだねえ、そうしようかと即答出来なかった。月子さんは私にはそういう情緒的な部分が激しく欠落していますので、美月さんのその気持ちはよくわかりませんが、美月さんがそう仰るのならあの店は暫くあのままにしておきましょうと言って、かつての母のお店を居抜き物件として新しい借り手を探してくれていた。

月子さんにはこの世の形ある『物』にあまり拘りというものが無いそうだ。この世のすべては常に形を変えそしていつか消えて無くなる、何かに執着して苦しむよりはそういうものだと理解して、過ぎ去るものを過ぎ去るようにただ静観している方がずっと気持ちが楽なのだと言う。厭世の極みたいな考え方。月子さんにとって世界のすべては時間と共に消えゆく虚空に描かれた幻みたいなものなのかもしれない。それなのに月子さんは現実的な事務手続と交渉ごとには滅法強い。それはこの人の父である私の祖父が、世事に本当に疎くて、この家だってどうやって曽祖父である父から相続したのか、実印がこの家の中のどこにあるのか、印鑑証明とは何の事なのか、その手の事は全然知らないと言うとんでもない人だからだ。これまでの祖父の人生は周囲の人がかなり手心を加えて来てくれた、というより妻と娘達がそれを全部何とかしてきたんだろうな。

母が死んでから私はつくづくそれを実感するようになった。

死の床にあった母が雪野さんに私の事をくれぐれもよろしくと頼んだ気持ちも、最近凄くよくわかる。

「それなんだけどな、陽子が君をそそのかして北海道に行って蟹を買って来いといった時、君と陽子の間に交わされた約束の中に『北海道から蟹と共に戻ったら自分の店で雇用する』と言われたと聞いているんだが、その件は君の中で一体どうなっているんだろう。陽子は死んで店は無くなってしまったが、あの店舗の不動産自体はその陽子の娘である美月が相続しているんだから、契約もそのまま美月に相続されたと考える事もできると思うが」

それを今、君は一体どう思っているんだろう。祖父はあけみちゃんに代わってすきやき鍋に牛肉を几帳面に一枚ずつ綺麗に入れながら突然陽介君にそんな事を聞いた。

「そんな事言ってもお店はもうなくなっちゃったんだよ、おじいちゃん。私はあの建物をお母さんから相続したんであって、あのお店を引き継いだ訳じゃないんだから」

私は思わず陽介君が答える前にその祖父の問いに割って入るようにしてこう答えた、お母さんはもういないんだから約束不履行でもそれは仕方ないよ。月子さんも相変わらずしらたきを食べながら、文書で残っていない口約束は契約として成立していないんですよお父さんと、そう言った。

「現実的にはそう言う事なんだろうが、約束は約束だろう。それにあの店に集まっていた常連のお客さん達がな、まあ大体が近所の連中なんだが、店が無くなって、皆が集まる場所が無いと言うんだ。近所の人間の寄り合い所みたいな場所だったからな。俺も陽子が死んでから初めて気が付いたんだが、昔、いづみさんがこの家でやっていた『疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい』あの文言の実践を、意識してなのか無意識なのか陽子は店でやってたんだよな。陽子が死んでからこの1ヶ月、店の扉に俺が書いて張り出しておいた『店主死去により閉店いたしました、長らくのご愛顧ありがとうございました』って言う張り紙な、あれを見て、昔ここのママにただ飯を散々食わせてもらいましただの、色々と融通してもらいましただの言うのが、まあ何人も出て来ては御礼を言われ続けてる。昔お世話になった者です、その節はお世話になりましたってな。あれじゃあ通帳にいくらも残らなかった筈だ。確かに陽子が生きている時分から陽子がそういう事をしていることは知ってたが、その人数が想像の斜め上だ。いくら実家付きで住む場所には困らない身の上だったとは言え慢性的に不況の続きの、決して陽子のような身の上の人間に甘くないこの国で女手ひとつで娘を育てていた筈なのに、他人にかまけて年中手元不如意。一体何を考えていたんだろうなあ、あの娘は」

祖父がそう言って少し寂しそうに笑った時、陽介君はさっきまで盛大に牛肉を食んでいた手を急に止めて、机に静かに箸をおいてから

「あの、それなんですけど、もし、もしね、俺があの店借りるって言ったらひと月の家賃って大体幾らになりますか?あと初期費用。敷金と礼金と保証金、あと仲介手数料、それと前家賃と保険金、全部合算で幾ら位になります?」

陽介君は、突然あの店を借りたいと言ってきた。そしてそのために一体幾らかかるのか大体でいいのでそれを教えて欲しいと言う。

「借りてどうされるのでしょうか、あのビルの1階は店舗用の物件であって居住用のものではありませんよ、キッチンとトイレはあっても、お風呂も寝るための空間もありません、居住性というものに著しく欠けています」

月子さんが不思議そうに聞き返した、貴方が探しているのは、ご自身の自宅になる賃貸物件ではなかったでしょうか。

「住むところは住むところとして別に探します。俺ね、陽子さんの店で夜に酒を出す店じゃなくて、昼に何か出来ないかなって考えてるんです。結局、所謂『企業』にはどこにも内定もらえないし、それに俺ああいう所のウチの父親みたいなおっさんがずらーっといる面接会場で『じゃあ君は何がしたいの?』って怖い顔して聞かれると、本当に何かなんにもよくわかんなくなるんですよ。だって、メーカーとか商社とかゼネコンとか業種とか業態とかそれぞれ色々あるのかもしれないけど、いざ面接になったらみんな同じ服着て同じような事聞かれて、そこで自分の誇張しすぎてほぼ嘘みたいになってる長所とかちょっと盛りすぎの学生時代の経験とか真面目な顔して答えて。そんな事してるうちに俺は漠然と会社に勤めるって一体何なのかなって思っちゃったんですよね。俺あんなに生き生きキラキラして御社の為に尽くしますとかやる気だけはありますとか、はっきり明瞭にウソつけないんだもん」

「アンタ、そんな中途半端な根性で就職活動やってたの?バッカねえ、そんなんじゃどこにも決まる訳ないじゃない。アレはね無よ、無。嘘でいいのよ、あっちだって採用条件に嘘八百並べ立ててんだから、虚言には虚言で返すのよ。あそこでは何も考えちゃダメなの。そんなこと考えた瞬間にアンタの負けよ」

一同の中で、唯一まともな勤め人だったことあるあけみちゃんが呆れたような声を出した。でも陽介君の言いたいことは少し分かる。特に普通の勤め人のいない家で育った私には『会社員』と言う人が、具体的に何をしている人なのかよくわからない、スーツを着た未知で謎の生き物だ。それに陽介君は嘘をつくのがかなり下手なタイプの人間で、その人が、自分を最大限よく見せようとして華美に飾って盛りすぎの自分を人前で大声で主張するのはちょっとした虚言になると思ってしまうんだろう。兄は、陽介君はそういう人だから。

「俺駄目なんですよ。小さい単位の中で、相手の顔が見える範囲でそこそこ上手くやってく事は出来ても、その単位がどんどん大きくなって、会社とか学校とかそういう世界になると、身の置き場が全然わかんなくなるんです。その中で『じゃあ君は何がやりたいの』って言われても、相手が望む答えばっかり相手の顔見て真剣に探して具体的に何がしたいですなんて言葉が全然出てこないんですよね。やりたくない事は確実にわかるんですけど」

「それって何?」

「政治家」

陽介君は、父のように、実家の口利きでちょっと見栄えのいい企業に就職して、数年してから親の地盤を継いで選挙に出てという人生だけは勘弁してほしいらしい。周囲がどんなにそれを期待していたとしても自分と父では全く違う人間なのだから、あんな軽薄で口八丁で世渡り上手を絵に描いたような人生を自分が歩める訳がない。陽介君はこの1年と少し、雪野さんが家出して、大嫌いな父と口をききたくないあまり喧嘩も出来ずに財布と携帯だけ持って実家から出て食い詰め、その父の元愛人である私の母と出会って北海道に行き蟹を買って戻って来たらその蟹の発注元である私の母が死んでいて、1年ぶりに連絡を取った雪野さんが鬱を患っていて、これまでの実家の潤沢な資本という強固な壁に守られていた安寧な生活から一転した怒涛の展開の12カ月の中で、人間にとって確実な真実をひとつだけ学び取ったのだそうだ。

「それって何?」

「人生は短い」

「まあ、陽子の場合はね」

「だったら周囲の期待の為とか10年後の自分の為とかより、今日の事だけ考える事の方がずうっと建設的なのかもしれないなって」

「それで就職しないで自分でお店やるの?一応ちゃんと就職活動してたのに?」

「企業就職に実力で全敗したんだから、それが確実に自分には全く向いてないという事だけは検証できたと思う」

「随分刹那的な人生論ねえ…まあそれもいいけど。でもアンタ、それで自分が一番向いてるのが小売りだとか飲食業だとか結論付けるのは勝手だけど、店舗開店には資金がいるのよ。例えば居抜きであそこを設備什器ごと全部借りるにしても、設備なんかには譲渡料が必要になるし、それにさっきアンタが言った各種契約料それから敷金と礼金と保証金、あと仲介手数料、それと前家賃と保険金全部合わせて大体幾らになると思ってんのよ、ちょっと月子!幾らになるのよ?」

月子さんはとても記憶力が良い。この手の事はメモもデータも頼らず全部頭で記憶していて、あけみちゃんの突然の質問によどみなくすらすらと答えた。

「礼金が家賃の3ヶ月分、仲介料1ヶ月分、敷金はいただきません、保証金が3ヶ月分、保証料と保険が大体10万円、それ以外に日割り家賃と管理費を鑑みてざっと150万と言った所でしょうか、調度と什器類の譲渡については本来廃棄する予定のものでしたので、引き継いでいただけるのであれば譲渡料は結構です、もし業態的に必要でしたら製氷機はレンタルでしたからそれは既に撤去されていますので、これについては再契約と言う形になりますが」

「譲渡料なしとか月子アンタ、甘いわよ」

「そうでしょうか、ですがそもそも全て不要になってしまっているものですから」

「あのねえ陽介ちゃん、今月子が言った物と、それ以外にも色々いるのよ、仕入れは?居抜きでも整えるべき物も買い足す物もかなり必要になるの、その辺の資金を全部どうする気なの?親御さんに出してもらうの?でもそれは嫌なんでしょ?大っ嫌いなパパがしゃしゃり出てきちゃうのは。それかアンタに投資する人でもいる訳?女?じゃなきゃ信用金庫あたりに事業計画書出して開業資金借りるの?でもそれって借金なのよ、いずれ利子つけて返済していかなくちゃいけないのよ、そういうの分かってるの?」

あけみちゃんは陽介君の考えは甘いんじゃないかと陽介君を叱るような事を言った。小さな店舗でもやっていくのは本当に大変な事なのよ。そうしたら陽介君は立ち上がって、今は陽介君の部屋になっている祖母のピアノの部屋に行き、またすぐ手に小さな手帳みたいな物を持って戻って来て、それを私たちの前に開いて見せた。貯金通帳だった。

「ナニコレ、結構あるじゃない」

あけみちゃんが数字を数えた通帳の中身は500万円と少し。

「陽介君、これ、前に雪野さんが持って来てくれた通帳?」

「そう、お母さんがずっと預かってたやつ。ちゃんと全部俺のお金だよ、小さい頃からのお年玉とか親戚に貰うお小遣いとか入学祝いとか全部回収されてお母さんがここに貯めてたやつだから」

「それがこんな金額になるの?嘘でしょ?超お金持ちじゃん」

いつもは友達や知り合いから貰ったと言う『人の金で焼き肉が食べたい』だとか『空手チョップ』だとかそんな妙な文言のプリントされた、それもサイズがまちまちなTシャツを着て、最近なんか交通費を浮かせるのに私の自転車を借りてバイトに出かける暮らしをしているのですっかり忘れてしまっていたけど、陽介君は

「おぼっちゃまなんだね」

「おぼっちゃまなのよね」

とんでもなく良いところのご令息なのだ。でも私とあけみちゃんの発言を聞いて陽介君は露骨に嫌そうな顔をした。陽介君は自身の身の上をバイト先で親しくなった人なんかに聞かれるまま正直に伝えると、100%そう言われてしまうので、ここの所かなり辟易しているのだそうだ。俺は個人ではただの貧乏な住所不定の23歳だし、別に好きでああいう家に生まれた訳じゃないよ。

「陽介さんが名門のご子息であることは純然たる事実ですから。このお年玉とお祝いなどを律儀に全て貯蓄なさっている所は流石に雪野さんと言う感じがします。貴方が大学を卒業した時に渡そうと思って家出する時にこれを持って家から出られたのでしょう」

陽介君は、このお年玉貯金を資金にして自分にあの店を貸して欲しいと、床の上に正座して私に頼んで来た。美月ちゃんよろしくお願いしますと本気で土下座まで繰り出して来たので流石にびっくりして止めた。そうしたら祖父がその横から楽しそうに口を出した。

「いいじゃないか美月、新しい店子が兄だ、悪い話じゃない」

おじいちゃんはこういう時、慎重さというものがまるでないし躊躇も無い、やりたいことはやればいいし、やりたくない事はその後に起きるかもしれない不利益を度外視しても、無理にやる必要なんかない。世間も道理も一般常識も最終的には己を助けてなんかはくれないからな、そういう考えの人だ。

「俺は面白いと思うよ。陽介君の言ったさっきの言葉は『明日の事を思い煩うな』という事だろう。明日のことは明日が思い煩う、ずっと先の将来の安寧の為に今日を耐えるという考え方が今は、というよりこの国では多勢だが。転じて来世の幸せの為に今生は辛苦に耐えて徳を積むという考え方もまた然りか。それのどちらが幸せかはその人の考え方だが。でもいづみさんのように、まあいづみさんの場合は神の恵みが明日も必ずあるという信念のもとにあるが故だったが、明日の心配は明日がするという考え方を俺は嫌いじゃない。今日を精一杯楽しんで生きただけでもう沢山だと言う考え方も。陽子がまさにそういう娘だったな」

祖父の考え方は本当に呑気だ。陽介君の言い分は一見前向きに見えるけど、実は凄く後ろ向きな事な事なんじゃないだろうか。大学を出たばかりの素人がお店を始めてその日暮らし。でも陽介君の卒業が決まって、それから就職が決まって安定した収入を得られる社会人になってしまったら、陽介君はよそに部屋を借りてここから居なくなってしまう。それは少し、いやかなり寂しい、そう考えたらつい私は

「じゃあ、貸す。貸します!」

そう言ってしまっていた。陽介君が具体的に母の店で何をしたいのか一切聞いていないのに。とは言っても今、実質的にこの物件の管理をしているのは月子さんと、月子さんに管理を委託された不動産屋だ。審査が通ってそれで正式に陽介君にあの1階を貸すかどうかはまたお正月明けに結論が出る事だと月子さんとあけみさんが私と陽介君に説明をしてくれた。でもオーナーが良いって言ってるし、まあ何にしても陽介ちゃんの場合は実家が太いから問題ないわよ、大丈夫。あけみちゃんはそういう言い方をして、また陽介君に嫌がられていた。

母の死後から約1ヶ月、あの店に突然後継者が出来た。母はそれを見越していたんだろうか。だとしたらとんでもない策士だ。祖父は私達のこの世的で現実的なやり取りを眺めながら、なんだかずっと嬉しそうにしていた。

『人生は去って行く人と無くしていく物ばっかりじゃない、これから美月には出会う人も手に入れられる物もまだまだ沢山あるわよ、美月はまだ若いのよ、大丈夫よ』

生前、病床の母が私に言った言葉は、母が居なくなってたった1ヶ月で徐々に現実のものになりつつある。少し前に雪野さんが、母が私に所縁のある人を死後にここに呼び寄せるように、本人が意図してなのか偶然なのかとにかく不思議な仕掛けをあちこちに作ってから逝ってしまったという事について

「貴方をこの世界で決してひとりぼっちにはしないぞって言うあの子の執念」

そう表現していたけれど、本当にそうだと思う。

きっと母の執念だ。

☞3

冬休み明けすぐ、陽介君が滑り込みで卒論を提出した日はちょっと大変だった。誤字脱字、スペルミスそれから『てにをは』まで博士号を取得している祖父と月子さんが2人がかりで何度も何度も目を通したのだから内容は問題ないはずだったけれど

「提出方法がデータ」

という事を陽介君は全然よくわかっていなかった。提出の期限のその日になってから、美月ちゃんコレどういうこと?これって事務室に持って行くんじゃないんだ、と自分のノートパソコンを抱えて私の前にやって来た陽介君の姿を見た時、私はこの人に母のあの店を引き継いでもらっていいものか、一瞬考えてしまった。私は陽介君の大学のホームページから、在学生のページを開いて

「ほら、ここ『卒業論文提出要項』があるでしょ、ファイルをPDF変換して、それから届けと目次は別データにして、大学のホームの中の在学生専用ページからマイページに移って、それからホラ、ここに卒論提出場所がある、これを開くと添付先があるから」

そこに提示されている『卒業論文の出し方』を確認した。簡単だよ、こんなのすぐ出来るよ。

「美月ちゃん、ファイルのPDF変換て何?」

「あ?」

陽介君のノートパソコンを覗き込んでいた私から清音しかない言葉に無理に濁点がついたみたいな、地声より2オクターブ位低い声が出た。あけみちゃんが自分のお店のお姉さんに過度に非礼を働いた酔っ払いを注意する時に出る声とそっくりな音。陽介君は、大学5年生の癖にこの手のファイル変換とかデータを所定の方法で送信とか100MB以下のファイルサイズでお願いしますとかそういう事をあまり理解していなかったし、出来なかった。

普通の会社から内定が出ない筈だ。

「陽介君てさあ、こういうの、これまで一体どうしてたの。大学で宿題?課題?そういうやつの提出の時とか。私だって今通ってるオンライン塾の課題提出ですって、これによく似た事、普通にやるよ」

「あーわかんないなあって言うと、こういう…美月ちゃんみたいに親切な子がどこからともなく表れて、やってあげるからって大体何とかしてくれたし、教授とかその授業の先生にわかんないですって言ったら、その場でパソコン広げて、俺のパソコンも立ち上げてって言って、そこからデータをメール送信してそのまま先生のパソコンに放り込んで『ハイ提出』って事にしてくれる事もあった」

「それってアリなの、先生にちゃんとしなさいって叱られたりしなかったの」

「君はしょうがないなあって笑ってくれてたから、いいのかなって」

「ひとたらしだ」

分かる気がする。みんな陽介君の、河原の捨て犬みたいな、情けなさ成分半分人懐こさ成分半分の優しい表情にほだされて、この子を何とかしてあげないとと、そう思ってしまうのだ。さすがは親切な誰かの手から誰かの手に助けられて交通費と滞在費ほぼタダで北海道に行って帰って来た兄だと思う。とにかく今回はたまたまそこにいた親切な妹の私がデータを所定の方法で提出し事なきを得た。提出日時を記録したメールが陽介君の学校用のメールボックスにぽこんと送信されてきたのを確認した時は、その場にいた皆、と言っても私と陽介君とすももで拍手をした。陽介君の膝の上で前足を掴まれて、てちてち拍手の真似事をさせられているすももは物凄く迷惑そうな顔をしていた。

そのひとたらしこと、陽介君は卒論提出の3日後、あのお店の新しい借主として不動産屋を通じてオーナーの私と正式な契約を交わした。それだって住所不定だとそもそもお店が借りられないから一旦、今居住している我が家に住民票を移したのだった。祖父が構わないからそうしろと言って。それから印鑑はもともと母のお店の常連さんで陽介君を孫と勘違いしているんじゃないかと思う位可愛いがっているハンコ屋の老店主が白檀で彫ってあげていた、タダで。そして保証人、これは流石に陽介君が母親である雪野さんに頭を下げに行った。雪野さんは、雪野さん的には少額だと言うお年玉とお小遣いを20年以上貯蓄して出来上がった500万を資金にしてお店をやるという陽介君に

「事業計画書を出しなさい」

とても厳しい母親の顔をした。雪野さんはこの件ではまた菓子折りを持って我が家を訪ねて来た。そして今度こそ谷川陽介の母親として、我が家の世帯主である祖父と15年ぶりの再会を果たした。祖父はこの時美しい型のお辞儀を見せて挨拶をした雪野さんに一拍おくれで頭を下げながら

「何と言うか、とても不思議なご縁ですね。その昔、初めてお会いした貴方はご夫君の不始末を相手の父親に謝罪にいらしたとても辛い立場にある方でした。でも今日の貴方はどういう訳か私の2人の娘の大切な友人だ。これはとても幸せな再会です」

そう言って微笑んだ。雪野さんも嬉しそうに微笑んでそれから少しだけ泣いて、それから小さな女の子のような恥ずかしそうな顔をした。雪野さんはあらためて陽介君の件で祖父に御礼を伝えてから、今度は息子である陽介君に向き直り。

「資金は貯金からの持ち出しでも、人様の手を煩わせて周囲の方のご助力をいただいて小さいながらも事業を始めるという事は覚悟と責任がいるの事なのよ、学校の文化祭でお遊びの模擬店をやるのとは訳が違うの、いい加減な事は許されないのよ。お母さんは納得できない印鑑は押せません」

そう言って小さな女の子から一転して今度はちゃんとしたお母さんの顔をしていた。雪野さんは義理の父である人の会社の役員のひとりなのだそうだ

「名前だけよ。何もしてないの」

そうは言うけれど、背筋を伸ばして息子に対峙し、世間の理みたいなものを諭す姿は私の母とは凄い違いだった。きちんとした社会人、きちんとした母親。母なんてしょっちゅうよく分からない書類に『頼まれたから』と言ってはハンコを押そうとしてはあけみちゃんに叱られていたのに。陽介君は、あの下半身が奔放な父はともかく、ちゃんとしたお家でちゃんとしたお母さんに育てられた人なんだなあと、私は思った。

「だから!じゃなくて…あのさ、店としては、こういう…朝から夕方までの営業の、業態としては喫茶店て言うとお母さんには分かりやすい?で、小売り販売もする、夜のスペースの時間貸しも開店して落ち着いたらするつもりで」

陽介君は多分卒論に並行して作っていたのだろう事業計画書と書かれたA4の紙の束を持って来て、雪野さんの前に広げて説明をした。そこには今回の契約にかかる費用、そして追加で購入する予定の物品のリスト、開店に必要な手続きの一覧、それから店内を補修して少しだけレイアウトを変えるというのでその図面、図面はあの近江牛を陽介君に貢いでくれた工務店の社長さんが引いてくれたそうだ、そして

「業態としては、飲食業、さっきも言ったけどお母さんに分かりやすく言うと喫茶店。それと主には食料品の販売。これはその取引先の一覧。陽子さんに言われて北海道まで行って帰って来るまでにいろんな人と知り合ったから、その人達が地方で作っている物。最初は取り扱いやすい保存食品とか加工品、そういうものをここに置きたい。それから夜間の店の時間貸し、それは営業が落ち着いてからまた募集するつもりで。メニューはこれ。前バイトしてたカレー屋の店長さんが夜逃げする前に俺に教えてくれたレシピのカレーとコーヒーとかの飲料と焼き菓子、コーヒーはフェアトレード品、それは大学の同級生だった子が今そういう法人にいて、店やるなら頼むから買ってくれって」

陽介君の計画書はあの誤字脱字と重複表現とスペルミスの応酬だった卒論とは違い、結構緻密に作ってあった。単月の売り上げ予測、そこから予測される年間の経常利益。でも会社役員である雪野さんの目は厳しかった。

「陽介、この単月売り上げだと、貴方にぎりぎりの給料か下手したら全然出ないわよ。従業員なんていらないでしょう?この坪数の店で。この人件費削りなさい。それにこの前渡したあのお通帳のお金、それ使ってお店に少し手を入れて、備品を買い足して、仕入れして、あとは開店後暫くの間の損益の事を考えて手元に残す…それも幾らも残らないでしょう?だったら住まいはどうするの、中原さんのお宅にいつまでもお世話になるなんて駄目よ」

「それはまあ…おいおい」

「おいおいって?いつ?」

「おいおいは、おいおいだよ」

「貴方はそういう、適当で、人様の好意にべったり甘えておんぶにだっこな所が本当にお父さんそっくりね。どうしてそうなの、人様に迷惑かけちゃいけないってお母さんは昔から貴方によく言ってきた筈ですけどね!」

「あんな軽薄を絵に描いて凧にして空に飛ばしたみたいな人に中身まで似てるって言うの止めろよ、顔だけだろ似てるのは!」

「親子喧嘩だ」

「親子喧嘩ですね」

その場に立ち会っていた私は、普段は柔和で決して人に声を荒げたりしない陽介君の大声を聞いて驚き、私に相槌を打つ形で同じ文言をオウム返しにした月子さんは妙に関心をしていた。自分は親と怒鳴り合った経験が無い人間なのでなかなか新鮮な眺めですねと。

「住むところは、今のあの部屋を陽介さんにこのまま使って頂いてもらっても我々は一向に構いません。陽介さんの開業する店の経費が人件費で圧迫されて単月の売り上げが減収するのはこちらにも責任がありますので」

「月子さんの方の責任があるの?どうして?お家賃は駅前物件なら多少設備が古くてもこれは破格のお値段でしょう、それに什器備品も譲渡してくださるって、私が知ってる限りあのお店の什器なんかはどれもとても良いものだったわよ、お母様がお嫁入の時にお持ちになったアンティークの食器類なんかもあるって、それを思えば申し訳ないのはこちらなのよ」

雪野さんは不思議そうにしていた、ご迷惑をおかけしているのは100%こちらでしょうと。

「いえ、私が従業員なので」

月子さんがいつも通りの口調で静かにそう言ったので私も雪野さんも驚いた。祖父は一瞬月子さんに視線をやっただけで、また陽介君の事業計画書を丁寧に読んでいた。おじいちゃん、知ってたな。

「月子さんが?どうして?」

「製菓衛生士の資格と食品衛生管理者の資格があるものですから」

月子さんは、3か国語を操り、古典外国語3つを解し、哲学博士で、そして修道院にいた頃、祈りと黙想の生活の日々の中で日々の糧を得るために、焼き菓子を作り販売する事を仕事にしていたので

「黙想の生活の中でも俗世に全く関わらないという事はありませんでした、修道会謹製の菓子類も美味しくかつ衛生的でなければ一般の方には売れませんので、そのために会から取得を命じられてかの地にある時にいくつか資格を取得していました。陽介さんに言われるまで、すっかり忘れていましたが」

食品衛生に関する資格まで持っているらしい。これでなんで普通の就職ができないんだろう。きっと就職の面接でいつも通りの忖度なし、婉曲ゼロの受け答えをしているに違いない。

「じゃあ、この書類の中にある『焼き菓子』は月子さんが作るの?」

「そうです、それと事務ですね。陽介さんは帳簿類が大変苦手なようですから」

月子さんは静かにそう言った。

「それならお母さん保証人の件は引き受けます。その代わり、ちゃんとお給料を出しなさいよ。どういう形態をとるにしても、従業員がいるという事は貴方が社長という事なのよ。責任を持ちなさいね。月子さん、未払いとか遅れとか出たらすぐに連絡して頂戴」

雪野さんは、月子さんがお店の補佐のような形で従業員をやると聞いたことで、ひとまず店舗物件の保証人欄に印をついた。お店は2月の末にオープンするという予定で、陽介君は大学の卒業式を待たずに経営者になる事になった。とりあえず無職になる事は免れた。陽介君はちゃんと自分自身に折り合いをつけた、大きな組織の中で自分は上手くやっていくことは出来ない、そこには自分のやりたいことも出来る事もない、なら仕事を自分で作ってしまおう。一見無謀なこの挑戦を陽介君の人柄の良さが助ける事になった。あとはこれを言うと絶対に怒るから言わないけれど、実家の力。だってお年玉で500万貯まるなんてちょっと普通じゃない、でもそれだって運のひとつだ。

同じ父親の子どもでも私と陽介君では持っている物が全然違う。

そんな風に卑屈な気持ちが芽生えてしまう位、冬休み明けの私は駄目だった。



『学校に行く、受験もする、それでちゃんとした、できれば月子さんと祖父が通っていたウチから一番近い高校に合格する』

それを自らに課して、冬休みが明けて暫くしてから、進学の事や成績の事で担任教師と面談をするために月子さんと一緒に中学校に行った私は校門の前でもうお腹が痛くなり、校内に足を踏み入れてからは、面談室で待っていた担任の先生の

「あのね、中原さんの事をすこしからかうみたいな事言った子達はね、中原さんが傷ついているなんて思わなかったんですって、ちょっとした冗談のつもりだったって、今は反省しているから。先生からもよく言っておいたし、ね、クラスみんなで卒業式に出たいじゃない」

そんな先生の言葉に全く答える事が出来ず

「それからクラスのみんなも心配しているし待っているから」

そう言われて、月子さんを面談室に残して先生に教室の前まで連れてこられた時、教室から聞こえてくる同級生たちの声が全部自分を嗤っているように聞こえて、足がすくんでしまって教室の中に一歩も入る事ができないまま、先生の手を振り払って月子さんのいる面談室に逃げて帰った。そして、中学校の古めかしい合皮の黒いソファに座って私の成績を眺めている月子さんに

「月子さん、帰りたい」

それだけを伝えて月子さんにしがみつき、あとは何も言えなくなってしまった。

自分がとても情けなかった。月子さんは私の俯いたせいで髪の毛に隠れてしまっている顔を下から覗き込むようにして私を見ると

「先生、美月がこう言っていますので、今日はこのまま失礼します。それと、美月を揶揄した生徒が『冗談だった』と言っても美月はそうは思わなかった筈です、それをきっかけにして美月は長く学校を休んだ訳ですから。言葉は一度発言者の元を離れてしまえば、受け取り手のものです、美月は傷つきました、その事をうやむやにしてみんなで卒業して何だと言うのでしょう、そういう場から設定された期限が来て解放されると言う卒業という事実について、私個人の感想としては『せいせいする』しかありません、美月の登校については当該の生徒を別室に隔離する形で実施するのが一番望ましいと思います。今後の事はまたこちらからご連絡差し上げます」

それでは。

月子さんは私を抱えるみたいにして面談室を後にした。この日、祖父は大切な友人のお葬式だからと月子さんに私の付き添いを頼んだのだけれど、祖父だってここまでの事は言わないと思う。月子さんは全面的に私の味方をしていつも通りの忌憚も躊躇もない攻撃的な言葉を放ち、たしか大学を出て3年目だと言う担任の先生に笑顔ひとつ見せずに学校の外に出た。私は校門を3m程出てから、深呼吸して月子さんに謝った。ごめんね、なんだかぜんぜんちゃんとできなかった、私、高校に行けないかもしれないね。そうしたら月子さんは少し怒ったように眉間に皺を寄せて私にこう言った。

「美月さんは大変な思い違いをしていると思います。いいですか、例えばある人にとって最も親密で大切でその人の根幹を支えていた人物が死に至るような病に倒れ、病床のその人を付き添いそして、遂には死に水を取ったとして、そういう大事を成した人間がまだ15歳なら、それは傷ついていて当然なのです。その上で色々と問題のだらけの学校と子供じみて低能な同級生の事など何だと言うのでしょう、そんなくだらない学校など暫く休学しても良い位です。貴方が今、無理をする必要など一切ありません」

そう言ってから少し深く息を吐いた。たった15歳で親の死に水を取ったある人というのは、母と月子さんと私の事だ。

「以前お伝えしたように、私も美月さんと同じ年で母を亡くし学校を中学を3ヶ月程ドロップアウトしました」

「でも戻ったんでしょ、高校にも普通に進学したじゃない」

「それは、陽子とういう軍師、助け手がいてこその事です。それに」

「それに?」

「母が死んでから私は、教会に3年程行きませんでした、神父様や父や教会の兄弟姉妹に明確に教会と決別の宣言こそしませんでしたが、私は一時期神と完全に決別していました。その時には小さな頃から息をするように心から信じていたものを完全に棄てたつもりでいましたから」

「どうして?」

「ムカついたからです」

あんなに真剣に一生懸命に母親の命を救う事を求めたのにそれを聞き入れてくれなかった存在にムカついた。信仰に篤い母親の想いを引き継ぎ、引き継ぐどころかそこから行き過ぎて一度は修道院にまで居た人が。ムカついて神様と仲たがいなんて。私は、その月子さんらしからぬ言葉がおかしくて、少しだけ笑った。

「月子さん、中学生みたい」

「そう、中学生でした。だからそれでいいのです。一番大切なものを暴力的な速度で突然奪われたのですから。今の貴方は神も仏も、世界中の絶対知、絶対善、万物を呪っていていいのです。陽子など、母の死後の一時、突然服装が華美になり化粧をして中高校生の男子と夜の街を出歩き、分かりやすく言うと軽くグレました。その件については、陽子は学校には毎日行っていましたので父は特に気にしていませんでしたが。私達姉妹が母を亡くした時期のことの顛末を思えば、今の美月さんは物分かりが良すぎます。まだ15歳の人間がそこまで自分を律して周囲に合わせる事を是とする必要などありません、貴方はまだ子どもなのですから」

「でも学校に行かないで人からドンドン遅れてそれからどうしようって思うんだもん。月子さんは思わなかった?それに私にはおじいちゃんて言う保護者しか残ってないんだよ、おじいちゃんもう75歳なんだよ、あと数年後に今度はおじいちゃんが死んじゃって私1人になったら?その時はどうしたらいいの?その時、学校にも行けてない、中学もちゃんと出てない、何にもできない人間だったら?私、どうしたらいいと思う?」

私は月子さんを隣にとぼとぼ歩きながら路上で泣いた。未成年の、まだまともに働く事もできない、この世界に対して何の力も持たない人間が保護者である親を亡くすという事は、ひとつのカタストロフだ。ただ哀しいだけじゃない。お母さんが死んだ時、明るくて頼りになる姉と、大学で教える仕事をしていて定収入のある父、2人も頼みになる肉親が傍にいた月子さんと私は全然違うよ。そんなことを涙と嗚咽で聞き取りにくい言葉で月子さんに伝えると、月子さんは少しだけ屈むような姿勢で私と視線を合わせて、はっきりと言った。

「そのために私はここにいるのです。貴方にはまだ死にそうにない祖父と、小さな店舗ですが一応これから経営者になる兄と、その兄の母で貴方の母の名代を申し出ている人がいます。そんな風に明日の事を思い悩む必要はありません、貴方はもう少し我儘で結構です。一騎当千とまでは申しませんが、私は、今貴方への助力を惜しむつもりはありません、私は貴方を愛していますから」

「あ、愛?」

「はい」

今、月子さんはさらりと凄い事を言った。

「それって、前に話してくれた、誰に対しても分け隔て無い愛?神様みたいなものの事?月子さんはそういうのを目指していたんでしょ、誰にも執着しない事、それと同時に全てを愛するって」

私はそう聞いてみた、万物への愛なら、私の事を愛していると言ったって、私とその辺の石ころとは大差無いんじゃないの。

「いえ、これは貴方に15年ぶりに再会した時から、ずっと思索と考察を重ねてたどり着いてしまった結論で、ともすれば私個人の信仰の根幹を揺るがすものなので他言はして頂きたくないのですが」

「月子さん何それ。怖い」

月子さんは私に顔を近づけて来て、小さな声でこう言った。

「どうやら貴方は特別なようなのです。15年前のあの日、図らずも陽子の出産に立ち会い、そして私の行く先を照らすように元気な産声を上げてこの世に誕生した貴方はあの日から、陽子の一部、そして今は独立した個人として私のとても特別な人になりました。いいのです、私は今修道院をドロップアウトしている人間です。己に特別な人がいても神への背反にはなりません」

私はそんな風に話す月子さんと目が合ってそれで笑った。泣き笑いだ。

『姪の貴方がとても可愛くて今は一番大事だよ』

そんな話をここまで重々しく話す必要なんかあるだろうか、でも月子さんは大真面目だ。誰かを、それが例えば肉親であっても貴方が自分の特別だよと明言する事は、月子さんにとっては自分の存在自体を揺るがす大問題なのだろう。この時私はふと、月子さんが修道院の門をくぐる事の最大の動機になった『すべてを分け隔てなく愛する』という命題への挑戦が、私の祖母、月子さんの母親を今の私と同じ歳で亡くしてしまった事から始まっているのかもしれないと思った。

だって、皆を分け隔てなく愛するという事は、結局は誰の事も愛してないという事と同じことなんじゃないかと私は思うから。誰の事も好きなら、その中の特定の1人が死んでしまっても、そこまで哀しまなくて済む。月子さんは母親を亡くした時、こんな哀しい思いをするのならもう自分は人への執着を捨ててしまおうと、そう思ったのかもしれない。

15歳の月子さんの気持ちが、今の私には少しだけ解る気がした。

「月子さん、お店に寄ってから帰りたい」

私は、私を特別でもっと我儘を言えと言った月子さんに、さっそく我儘を言ってみた。学校を予定より大幅に早く切り上げて、それで今日は床のクロスと壁紙を張り替えている陽介君のお店を見に行きたい。

「そうですね、もう床は終わっているかもしれません、店の手入れが終ってから消防の立ち入りがありますから、行って確認しましょう」

次は業務用のコンベクションオーブンが入りますよ。そう言いながら中学校から徒歩でそう遠くないお店に向かうと、月子さんの言った通りもう床の張替えは終わっていた。母が店の主だった頃には夜のお店である雰囲気を出すために暗い色のリノリウムの床だったものが、昼営業の喫茶店の雰囲気に合わせて、真新しい合板の白木の床に張替えられた店。

そこで陽介君は何か小さな生き物を抱いていた、それもとても困惑した顔で。

「陽介君、それ何?」

「いや…その人間?の?こども?」

「それは陽介さんのお子さんですか?」

「違うと思うよ、だって陽介君は彼女いないって、いた事もないって前に」

「正式にお付き合いしていない方や婚姻関係にない方との間にも子どもは出来ますから」

「そうだねえ、私みたいに」

「美月さんは、意外にご自身の出自に対しては卑屈な感情が無いですね」

私達はかなり遠慮も忌憚もない憶測を陽介君の目の前で話し合ったけど、陽介君は、小さな赤ちゃんなんて抱いた事も触った事もないらしく、肩に相当な力を入れて世界中の困惑を集めて鍋で煮詰めたような表情をしながら状況を説明した。多分混乱してこちらの言っている事がよく聞こえていないんだと思う。

「なんか俺が店にいたらさ、知らない女の子がこの子抱えて突然店に入って来て、陽子ちゃんは?って言うんだよ。だから俺、陽子さんの知り合い?あ、お客さん?て聞いたらさ、ちょっとこの子預かってて、陽子ちゃんにはどうしても困ったらここに来なさいって言われてたから、つぐみが来たって言えば分かる筈だからって」

「え、ソレ誰?」

「知らない」

「私も存じませんが、その方は多分陽子の知人で、陽子の死を知らないという事でしたら、最近はこちらにいらしてない方ですね」

「その人に連絡先とか、どういう関係の人ですかとか聞かなかったの?」

「だってそれだけ言ったらボール投げるみたいにこの子とあの荷物渡して走って行っちゃったから…」

陽介君はお店のカウンターに置かれている大きな帆布のトートバッグを視線で示した、それがこの子の荷物らしい。陽介君の腕の中の小さな生き物は陽介君の顔を静かに見つめている。

「…とりあえずそのお子さんは、私と美月さんで一旦家に連れて帰りましょうか。ここは暖房も効いてないですし、室温が低い場所は乳児には良くないでしょうから、そこで先方がお帰りになるのを待ちましょう」

つぐみという人が一体誰なのか、そしてこの赤ちゃんはそのつぐみさんの子なのだろうけど、どうしてここに連れてこられたのか、母との関係は一体何なのか、私達は3人寄っても全く分からないまま、とりあえず陽介君のぎこちない腕の中に抱かれていてもひとつも動じていない赤ちゃんを連れて私と月子さんは一旦家に帰る事にした。陽介君はふかふかの赤ちゃん用の毛布に包んだ小さい人を、落としそうで超怖いと言いながら、月子さんに渡してから

「赤ちゃんて結構重いね」

そう言って、今はむき出しになっているお店の天井をじっと見上げる小さな瞳に見入っていた。

サポートありがとうございます。頂いたサポートは今後の創作のために使わせていただきます。文学フリマに出るのが夢です!