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小説:いま、しずかにほろびよ。

☞1

「紗耶香の一周忌、新盆と一緒にやるらしくてさ、だからとりあえずお盆にこっちに帰ってくるように佳月に言っておけってお母さんが煩くて。で、お母さんがそんなこと言うもんだから大樹がかっちゃんはいつ来るのかって、もう大変なの、佳月どう?予定大丈夫そう?」

去年の夏死んだ従姉妹の1周忌を知らせて来た姉の声を聞いた時、私はその1周忌に従姉妹として参列するとかしない以前に、実家への帰省、それ自体をしたいとは思っていなかった。頃合いを見て姉の葉月から母に仕事だと伝えて貰おうと思っていた。お盆期間は私みたいに子どもとか旦那さんとかそういうのがいない人間が出勤するものなんだとか適当に言って冷房の効いた病棟で働いておこう、そう思って。しかし母は私なんかより1枚も2枚も上手だった。6月の内に先手を打って来たのだ。私も、いつも母との間に入って調整役をしてくれている姉の葉月に

『大樹が楽しみに待っている』

そう言われては無下に断れなかった。

「もう1年になるんだもんね。再来月の事だし、まだ勤務に調整はつくと思うから、お母さんにそう言っておいて。そうだ、そしたら葉月、大樹にお土産何がいいか聞いといてよ」

そんな風に自然に言葉にしていた。あの田舎町に帰る事が、もう大人になって随分経ってしまった今の自分には決して心楽しい事ではないのに。窮屈で、偏狭で、価値観の檻のようなあの場所には。

「別にいいのに、大樹ってば佳月が言えばなんでも買って来てくれるからって調子に乗ってアレもコレも買って来いって言うからアンタ大変だよ?散財しちゃうよ」

「そうは言ってもさ、私にはたった1人の可愛い甥っ子だよ、実際ホント可愛いんだもん、我が子も同然だよ、いいじゃん甘やかさしてよ」

「悪いね、ありがと」

生まれた時からずっと溺愛している8歳の甥にお土産は何がいいか、それを聞いておいて欲しいと葉月に言った後

だって私は生涯子どもなんか産まないからさ。

その言葉を私は危うく声に出しそうになって、慌てて喉の奥に飲み込んだ。



互いの母親が姉妹で、即ち従姉妹同士である私と紗耶香は、生年月日が1ヶ月違いの同い年だった。紗耶香が7月生まれ、私が8月生まれ。

紗耶香は生きていれば今年の夏で30歳になる。

30年前、予定通りなら私が8月に、紗耶香が9月に続けて生まれる事になり、跡取り娘として伯父を婿養子に迎え、母の実家である山内林業を引き継いだ私の伯母と、臨月で里帰りを、と言ってもその山内林業の敷地内に建てられた自宅、皆が離れと呼んでいる家から寝床を母屋に移していた母、それから1ヶ月違いで生まれる予定の従姉妹の私達は、同じく山内林業の敷地内にある広大な母の実家で母親達がそれぞれの出産を待ち、私達が生まれた後は1ヶ月程の間、産褥期を母子2組が共に過ごすはずだった。その年、1ヶ月違いで1度に孫が2人増えるという事を、今も本家で暮らしている祖母はとても喜んでいたと聞いている。

でも、紗耶香の出産予定日の2ヶ月前のある朝、下腹部の強い痛みを訴えた後に結構な量の出血をした伯母は、母と祖母に付き添われて分娩予約を取っている町の公立病院に担ぎ込まれた。これまで町の大体の赤ん坊を取り上げてきたそこの先生は、伯母の状態を見て

「ここで手に負えない」

渋い顔をしてそう言ったらしい。事態は一刻を争うと判断された伯母とお腹にいた紗耶香は、当時その地域に導入されたばかりのドクターヘリで市内の大学病院に搬送された。伯母と紗耶香がその最先端の救急搬送手段の搬送患者第1号だったらしい。そこで紗耶香は生まれた。その時、紗耶香は産声を上げることなく、それどころか自力で呼吸もしていないような状態で、そのままNICUに入院し、数回の手術と小児病棟への転棟を経て30カ月、2歳半になるまで退院する事ができなかった。紗耶香の退院がやっと決定した日、紗耶香の主治医をしていた医師からは

「この先はどうか、お家での時間を大切にしてあげてください」

と言われたらしい。きっとそう長く生きられない。だから状態が安定している今のうちに家族の元に帰してあげよう。それが当時、私達が暮らす地方の最先端の小児医療が紗耶香に下した結論だった。

だから伯母も、山内林業の現社長でもある優しい伯父も、紗耶香の3つ上の兄の恵介も、そして祖母も、私達家族も、とにかく一族郎党総出で、2歳半の段階で主治医から哀しい将来を予言されていた紗耶香の事をとても大切にしていた。

まるで掌に小さなガラス細工を乗せてそれが砕けないようにもう片方の掌でそっと包むようにして。




幼児期は体の発育と発達が普通の子どもに比べてかなり遅れていて、体調も日によってまちまちだった紗耶香は保育園や幼稚園、そういうには場所には殆ど通う事ができず、その後入学した小学校と中学校、義務教育の計9年は、ほぼ毎日伯父が運転する山内林業のトラックに乗せられて学校に送迎され、そしてその横に乗せてもらう恩恵に預かっていた私は学校でもそれ以外の場所でも、従妹として、そして生まれる前からの親友として、いつも紗耶香の傍にいた。

紗耶香自身は、英語が得意で、他の学科の成績だって全く参加できない体育以外は良好で、体の事を抜きにすればとりたてて大きな問題のない子どもだった。学校も好きだと言っていた。体調のせいで休みがちで学校行事に参加できなくて周囲から少し浮いてしまう事はあっても、私以外に友達もいたし、それなりに上手くやっていた方だと思う。けれど田舎の事で、中学を出た後、どの県立高校に行くにも自転車とバスを乗り継ぐ必要がある、仮に保護者の車で登校したとしてもちょっとした小旅行のような距離を毎日往復するこの世界では、通学自体が紗耶香の体の負担になってしまうからと、紗耶香の両親は通信教材と数ヶ月に1回のスクーリングで卒業可能な市内の私立高校を探して来てそこに紗耶香を進学させ、その後大学も同じように自宅で学ぶ事のできる通信制にしなさいと勧め、卒業してからは家業を、山内林業の事務所で事務の手伝いをさせる形でそれを『就職』とした。

「紗耶香は生きてくれているだけでいい」

優しい両親からそう言われた紗耶香は高校進学以降、ほとんどの時間を自宅で、体調に留意しながらそれでも時には風邪をこじらせたり、肝臓や心臓の調子を崩したりしてたまに入院して

「大人にはなれない」

医師からそう言われていた命を静かに生きていた。

「でも『生きてるだけでいい』って結構つらいよ。だって本当にただ生きてるだけなんだもん。私一度でいいからこの山以外の世界で暮らしてみたいな佳月みたいに。1年、半年だけでもいいの」

いつだったか、ああ、あれは紗耶香が初めて東京の私の部屋に遊びに来た時だ、その時にそんなことを私にそっと教えてくれた紗耶香は結局、終生里山の生家から出ることなく自宅の周囲をぐるりと囲む、夏は濃い緑で冬は白銀の深い山林に幽閉されるようにして暮らし、29歳の誕生日の直前、山内林業名義の山中の渓流で死んでいるのが見つかった。子どもの頃から『女と子どもは入ってはいけない』と伯父から言われていた場所で。

『病弱で無理の利かない身体だった筈の山内林業の長女が、1人で夜明け前に家から抜け出して、普段なら絶対立ち入らない山の中の渓流に行って、そこにわざわざ体を浸して流されて死んだ』

それはとても不自然な死で、清流と林業の小さな町は口さがない人々の噂と憶測に溢れた。それでも一応、警察からは事故死だと言う検死結果を出されて紗耶香の遺体は発見から数日後に自宅に戻り、そのまま流れるように迎えた葬儀の日、紗耶香の遺影を胸にしっかりと抱えて椅子から立ち上がる事も出来ない程憔悴し切っている伯母を横目に、山内林業の長女の葬儀に参列した町の人達は『やはりこれは事故ではないのではないか』だとか『病気で色々思うに任せない事を気に病んでいたらしい』だとか、葬儀場のあちこちで勝手な憶測で構成された噂に花を咲かせ、中でもとりわけ声も態度も大きい山内の分家筋の、私達には大叔父にあたる吉田のおじさんの

「まあでも嫁にもいけん身体だったんやから、若いウチに死んだほうが幸せやったのかもしれん」

そんな言葉がさざ波のような噂話の中にひときわ大きくに響いた時、会場の入り口で弔問客を相手にまるで壊れた機械のように黙ってただ頭を下げていた喪主の伯父が、凄い勢いその吉田のおじさんの元に走って行き、つかみかかった。

「俺の娘が死んだ事の、あんな病気で我慢ばかりさせて来た娘が死んだ事の何がそんなに幸せなんだ、嫁になんか行かなくていい、俺はただ生きててほしかったんだよ、そんな事もわかんないのか、お前ら全員帰ってくれ」

伯父は吼えるようにして泣きながら、葬式をつまらない田舎町の楽しいイベントだと思っている暇な年寄の襟足を掴んで、それを葬儀会館の自動扉に投げつけるようにして外に追い払い、更には手近にあったスリッパなんかを掴んで投げつけようとするので、息子の恵介が伯父を羽交い絞めにして止め、私の母が周囲をとりなして、それで葬儀場は一時騒然となった。

私は、普段は温厚で声を荒げた事なんか一度も無い伯父が、更に言うと大人の男の人があんなに激高して泣いているのを生まれて初めて見た。

だから私は紗耶香の事で警察からいくつか質問を受けた時、紗耶香は自ら死を選ぶような人間ではないと、そう答えた。私の事を紗耶香と同じように優しく大事にしてくれていた、父親のような存在の伯父のあんな姿を見ていると、私はどうしてもそうしないといけない気がして。



 
「山内紗耶香さんとは、従姉妹同士で、ご自宅は別ですが同じ敷地内にお住まいで、小さな頃からずっと親しくされていたそうですが、紗耶香さんから何か悩みがあるとか、人間関係で何か…特別親しくしている男性がいるとか、そういう話をお聞きになった事はありましたか」

それは伯父と弔問客とのひと悶着があったすぐ後の事だった。身内の1人として受付で弔問客に挨拶をして返礼品を手渡していた私は、いかにも刑事という風情のグレーのスラックスに半袖の開襟シャツの男の人にそんな事を聞かれた。

「そうですね…変わった事…と言うと、体調?最近BNPが上昇傾向だとかそう言う…」

「え、何ですかその…B…?それが良くないんですか?」

「あ、あの子は心臓の機能がちょっとアレで、その数値がここしばらく良くなかったっていう話です。それに付随してクレアチニン…腎臓もあんまりだって。でもあの子は生まれつきの循環機能的にはもう仕方ない部分もあるし、それで悩んでいたという訳ではないんですけど。その後すぐに伯父さんが柴犬を貰って来てそれが凄く可愛いって話をして…また夏に帰って来たら私とユキ…幸人と一緒に呑みに行こうって、ああ、あの子ホントはお酒なんか飲んじゃいけないですけど、とにかくそう言ってましたから。だから、まさかあの子が自分から死のうとするなんて私には」

「失礼ですが、あなたはお医者さん…」

「あ、看護師です。東京の方の病院に勤めています」

「それと今お話に出た『幸人』と言うのは」

「私と紗耶香のハトコです。山内の家の坂の下の堂下さんのとこの一人息子で、でも彼は特定の誰かという訳ではありません、ただの幼馴染です」

そういう会話をした。2歳半での退院時、大人になるまで生きられないと言われた紗耶香は、20歳になった頃から体のあちこちに問題が発生し始め、心臓も腎臓も肝臓も、それらすべての機能が徐々に低下して、20代の終わりのあの頃はいつも身体機能が不調で不全だった。でもそんなことで紗耶香が自ら死んだりするだろうか、生まれてから死ぬまで、ずっと体調が良い日なんか殆どなくて、それでも

「私、死ぬまで生きるから」

一度酷い肺炎になって死にかけた高校生の時、酸素をいくら入れてもまだ状態が安定しない、一旦挿管して人工呼吸器を入れるか、その位苦しい息の下でそんな言葉を発していた精神だけはとても頑健だった紗耶香がこんなことで今更。



「紗耶香は、病気で体が弱いから」

そう言われて運動会にも遠足にも山登りにも渓流でのニジマス釣りにも、とにかくこの辺りで育つ普通の健康な子どもが経験する事を殆ど経験しないまま家の中ばかりで育ったせいか、紗耶香は肌が陶器のように白く、呼吸をしているだけでも体力を消耗してしまう身体は成人してもずっと少女のように細く小さく華奢だった。まるで妖精のように。それに長い睫毛と、真っ直ぐでやわらかな黒髪。子どもの頃から男女混合のサッカー少年団で毎日走り回っている内に元々浅黒かった肌が更に黒く、年中男の子みたいに短くしていた硬くて癖のある髪が日に焼けて茶褐色に変色し、成人した今は170㎝近い身長になったいかり肩の私とは正反対の、お人形のように綺麗な私の従姉妹。

私は、紗耶香がとても好きだった。

それは、親友としてではなく、従姉妹としてでもなく、性愛の対象としてだ。

結局、その細い体と唇とその内側にある粘膜に私が触れる日は来なかったけれど。


☞2

「佳月、お盆に実家帰るの?」

「一周忌の話?私は葉月にもう行くって言った。ユキは?」

「俺も行こうと思ってる。紗耶香と仲良くしてくれていた幸人君にもできれば来て欲しい、一応ハトコは身内になる訳だしって。山内林業のおばさんが、ホラ、ウチのお父さんが作ってるトマト、それ持って行った時にウチのお母さんに直接言ってきたらしくて、それで行くなら車でって思ってるし、日程が合うなら佳月も乗って行くかなって思って」

「『仲良くしてた』ってさ、実際アンタが仲良くしてたのは、紗耶香の兄ちゃんの恵介の方じゃん。恵介もアンタも鬼畜だね、相当な罪人だよ、死んだら地獄に落ちるよ。もし山内の本家の伯母さんが真実を知る日が来たら、アンタ達2人間違いなくまとめて猟銃で撃たれるね」

「だからって、俺がその…紗耶香の気持ちに応える訳にはいかないだろ、多分無理だし、大体そういうのは虚偽っていうか欺瞞だよ、そっちの方が罪だよ、分かるだろ」

それに頼むからその事は皆には黙っててよ、一生のお願いだから。

姉の葉月の電話の1日後に、ハトコの幸人から電話があった時、私は少しだけ幸人に八つ当たりをした。山内の本家の伯母さんは紗耶香の一周忌の事を昨日、周囲に一斉リリースしたらしい。それで幸人は折角だから同じ日に現地入りしないかと私に連絡をしてきた、なんだったら自分の車に乗せてあげるから一緒に行こうよと。普段から穏やかで優しくてそういう所に物凄く気を使ってくれる幸人がそう言ってくれたのに、幸人にとってはとんだとばっちりだと思う。幸人は私と同じ、地元から東京の大学に進学してそのまま東京に残り、今は弁護士をしている。恵介との事はともかく幸人は凄いよね弁護士って、私がそんな事を言うといつも。

「そうかな、別に六本木とか銀座のオフィスビルに自分の名前で独立開業してますとかじゃ全然なくて、下町のそれも人の事務所に間借りしそこで仕事を貰ってる、所謂イソ弁てやつだよ、だから勤め人。佳月が病院に勤めてるのと一緒だよ。全然凄くなんかない」

幸人はいつもそう言って自分の事を謙遜するけれど、地元では幸人は

『元神童で、東京の名門大学に進学し、弁護士になった若者』

郷土の誇りみたいな存在になり、というよりもはや神格化していて、帰省すると方々で歓待を受けるし、独身の幸人には帰省の度に親戚や知人、あちこちから降るように縁談が来る。あれは25を過ぎた頃だったか

「堂下の家の居間には、幸人宛ての見合い写真が山と積まれている」

そんな話を本家の伯母から聞いた紗耶香と丁度お盆で帰省していた私は『お見合い』だとか『縁談』なんてものがこの時代にもまだあるのかという好奇心と、とりたてて面白い事は何も起こらない田舎の静かなお盆休みに退屈していたのも手伝って、2人で現場を訪ねそれが本当に幸人の家のダイニングテーブルに山のように積まれているのを見て驚愕し、じゃあまあ折角だからと仕事の分厚い書類の束に目を通している幸人の横で全部の写真と釣書を次々に開封して勝手に目を通し酷評するという酷い遊びをした。私が講評して、紗耶香がそれを聞き、当の幸人は一切興味なんか無さそうに淡々と仕事をしていた。

全部駄目
全部ブス
何これババアじゃん
紗耶香の方が全然可愛い

若さの故の奢りだらけの遊びだ。今では私がババアなのに。でもあれは結構楽しかった、紗耶香は私の言っていることが酷い、暴言だと言っている割にずっとお腹を抱えて笑っていたし、幸人も結局お見合い写真には一瞥もくれなかったけれど、紗耶香が笑いすぎて床に転がっている姿がおかしいと言って笑っていた。

そんな風にどこの家でも婿に、もしくは是非娘を嫁にと望まれる立派な学歴で、高度な専門職で、長身で、ちょっと俳優のような外見で、何処に出しても恥ずかしくない青年である幸人に私はその時4日勤明けで疲労の極みだった事も手伝って、本人が突かれたら一番場所を思い切り刺した。

『恵介もアンタも鬼畜だね、相当な罪人だよ、死んだら地獄に落ちるよ』

マイセン陶磁器で出来たお姫様みたいな、そして本当に私のお姫様だった紗耶香が4歳の時に初恋の相手に選び、その後の人生を通してずっと想い続けていたのがこの幸人だからだ。一橋を出ていようが弁護士だろうが、あれほどの子に四半世紀近く、あんなに想われておいて、その気持ちに応えてやることが一度も無かった。身の程知らずも良いところだ。

この男は、きっといい死に方をしない。



幸人とは紗耶香同様、赤ん坊のころからの付き合いになる。紗耶香に乳児期の入院期間がある分、僅差ではあるけど幸人との方が出生後の私とのつき合いは長い。血縁上はハトコだ、祖母同志が姉妹で、だから私の母と紗耶香の母が、幸人の母の従姉妹になる。田舎ではよくある事だ、集落全体が親戚で、元を辿れば全てがひとつ。だからちょっとした事件があると、その噂は光より早く人の口から人の口へあっという間に千里を走る。

中学生になるまでは私より背がずっと低く、紗耶香ほどではないけれど色白で、ちょっと女の子のような、柔らかで優しい仔犬みたいな顔をしていた幸人は、私と紗耶香と幸人、3人で誰かの家に集まって遊んだり、宿題なんかをしていると、大抵その家の年寄りの誰かが

「佳月ちゃんと幸人君は反対だったらよかったのにね…見た目とか色々」

真顔でそう言われてしまうのが常だった。その手の暴言が年長者であるというステイタスだけで容認される田舎というポリティカルコレクトネスの治外法権の地で、子どもだった私はその一言に内心傷つき、幸人もその事を酷く気にしていた。それで小学校3年生の時に幸人はもう少し男子としての己を研鑽したいと思ったのかどうかわからないけれど、町のサッカー少年団に入ると言い出した。後から聞いた話では幸人の母親、小学校で音楽の先生をしていた堂下のおばさんも一人息子が幼馴染のハトコの私に比べて性格と顔の造りが優しすぎる事を

「あんな泣き虫で気が弱いと、中学校に入っていじめられやしないかしら」

そんな風に言って気にしていたらしい。それで私は堂下のおばさんから『一緒に幸人のサッカーチームに入ってやって欲しい』とお願いされる事になった。御礼はトマト1箱。幸人の家は父親が町役場に勤める傍らトマトを栽培している兼業農家でもある。幸人は一人っ子のせいか気が弱くて優しくて頼りないし、いつも佳月ちゃんを頼りにしているからと広大な山内林業の土地の中に離れの家としてちょこんと建つ小さな我が家の小さな玄関で母と私にそう言うおばさんに母は

「一緒に入ってあげたらいいじゃない、アンタ運動だけは得意なんだから」

そう言って、親戚同士はこういう時助け合うものよとその場で私の入団届けをさらさらと書いて堂下のおばさんに渡してしまった。あの地では血族の結束は岩より硬い。私はトマトひと箱で幸人の道連れにされた訳だ、ちょっといい迷惑だった。

でもその気の弱い、仔犬のようだった幸人も、中1では背丈が私と並び、中3になる頃には私の背丈を頭ひとつ追い抜いた。その上、元々頭が良くて成績は常に学年上位、だからと言ってそれに奢らず、妊娠中の担任教師が重い教材を運んでいれば笑顔で駆け寄って持ちますからと言ってそれを代わり、怪我で長く学校を休んでしまった同級生がいれば自分のノートを持ち出してテスト勉強に付き合う、田舎の中学生にはあり得ない程紳士的で誰にでも親切で優しい幸人は、同級生の女子に滅法人気があった。

紗耶香も他の女子達同様幸人の事が好きだった。

私と幸人と紗耶香、私達は3人いつも一緒で、普段『山内林業』の社名入りのトラックで娘を送迎している伯父が、1年の内数回だけある出張で送迎が出来ない日はいつも私を先頭にして紗耶香の隣には幸人が優しく付き添った。その時は紗耶香の荷物を全部幸人が持ち、水たまりだとか小石にさえ気をつけろといって足元に注意を払ってやっていた。学校までのなだらかな坂を上るとたまに息切れを起こしてしまう紗耶香を幸人が背負って歩いた事さえある。でもこの事は

「だって紗耶香は幸人の親戚なんでしょ、あと体が弱いから特別よ、体育と修学旅行と水泳大会には全部参加不可、それと同じでしょ」

周囲の女子達の嫉妬の対象からは除外されていた。というより今思えば誰も2人を揶揄したりからかったりは出来なかったんじゃないかと思う。マイセン陶磁器のお人形のような紗耶香と、コロコロした柴犬を脱皮して外見だけはシベリアンハスキーみたいに精悍に成長した幸人、美しい2人の姿は田舎の田んぼのあぜ道に異空間を作り出していた。2人の歩く半径1mが真空地帯になっていて誰もそこには立ち入れない、私すらなんだか近寄りがたかった。傍目には最高にお似合いな2人だった訳だ。あの頃の2人の間に田舎の野暮ったいセーラー服の女子中学生が入り込む隙間なんかは1mmも無かった。そして紗耶香はこの時だけは自分の体が人よりうんと弱い事を幸せに思ったと、それをもう3人一緒に登下校する事もなくなってしまった高1の春に、私にそっと話してくれた。

「だってユキが優しくしてくれるから」

そう言って、いつもあまり顔色の良くない白い顔をほんの少しだけ上気させる紗耶香は世界一可愛くて、私は脳内で幸人を何度殺してやってたかわからない。私が大好きな紗耶香は、私の隣の男しか見ていない、私をそういう目で見てくれる日は一生来ないんだ。そう思うと15歳の私は心臓をメスでざくざくと切り刻まれる程痛くて悲しかった。だからこの時、幸人が好きで好きで好きでそれがうっかり口の端から零れる事が無いようにと古典のノート一面にその名前を書いていた人の事を紗耶香に告げなかった私に幸人は生涯感謝するべきだと思う。

『山内恵介』

紗耶香の兄で私の従兄弟で、男だ。



あれは市内の大学病院に検査入院をする事になった紗耶香からの電話で、英語の辞書を忘れたから夏季講習のついでに持って来てくれないか、そう頼まれた日のこと。私が市内の塾の夏季講習に通っていた夏だから中3の夏休みの終わり頃だ。紗耶香の頼みで自宅同然の母屋に縁側から勝手に上がり、2階の紗耶香の部屋で英和辞典を探して、紗耶香の言っていた場所にそれが全然見当たらないのでもしかしたらと紗耶香の兄の恵介の部屋に行った。恵介は当時高校3年生で地元の国立大学を目指している受験生だった。

「ねえ恵介、紗耶香の英語の辞書持ってる?ジーニアスっていうの」

そう言って母屋の2階、紗耶香の部屋の向かい側の部屋のドアを開けた私は、恵介が幸人の上に跨って互いの顔をあり得ない程の至近距離に、ほとんど隙間なく密着させているのを見て、2人が一体何をしているのかよく分からないまま、とりあえず2人が全裸だったので

「ねえ、なんで2人とも裸なの」

パンツ位履いてよ、そう言って静かに恵介の部屋の扉を閉め、30秒後位してから静かにもう一度扉を開けた。

「恵介、紗耶香の辞書」

人間は驚愕という感情が脳内で飽和すると逆にとても冷静になる。私の目の前には私の要求通りチャコールグレーのボクサーパンツをはいた上半身裸の恵介が何事もなかったかのような顔をして立っていた。恵介はいつもポーカーフェイスというか、表情筋が薄い、何を考えているか全然わからない男だ。大人になった今でも。

「ハイこれ紗耶香の辞書、それと今見た事、黙っといてくれる?特に親には」

幸人はその時、恵介のベッドの上でタオルケットにくるまって隠れていた。いやアンタがいるの分かってるからさ、私がそう言うと幸人はとても気まずそうに青いタオルケットから顔だけを出して私の方を見た、顔も耳も額まで真っ赤にして。

幸人は女の子じゃなくて、男が性愛の対象だという、そういうタイプの人間だった。

それで当時付き合っていたのが、紗耶香の兄の恵介だった。

紗耶香と私が生涯叶わない恋を内に秘めた可憐な中学生の処女だった時、幸人はとっくに処女ではなかった訳だ。学年トップの成績で、サッカー部のキャプテンで、生徒会では会計をやっていて、それで3つ年上のハトコの男子高校生と夏休み中セックスやり放題だった男。

不良か。

そう言えば今思い出したけど、あのサッカー少年団には恵介も入っていた。

「じゃあ、8月の9日ね、私東京駅のポケモンセンターに寄らないといけないから、その辺で車止めやすい所、追って教えて」

「何でポケモンなの」

「大樹のお土産だよ、ホラ葉月の子、私の甥」

私達は、本当のところはあまり気が進まないまま、それでも28歳で美しいまま死んだ幼馴染の鎮魂のためにあの田舎町に帰省する事にした。


☞3

『夏の北陸の里山』

そう聞くと都会の人は高原の避暑地のような場所を思い浮かべるらしい。実際、職場でも涼しくていいじゃんと同僚達に言われて、私は違う違うと笑いながら首を左右に振った。

北陸の夏というのは、確かに気温や日差し自体は都会のそれとは全然違う、私が今暮らしている東京の夏を照らす太陽に比べると少し主張が弱いし、分厚い雲にその存在を遮られている日も多く、からりと晴れる事は極端に少ない。でもその代わりねっとりと体に纏わりつくような湿気が始終あたりを漂っていて、それが私にはいつも少し息苦しい。

そこにいる人間と同じだ。

「お向かいの、坂本さんとこの下の子、結婚したのよ。再来月には赤ちゃんが生まれるんだって。佳月もいいかげんそういうの考えないと。アンタ今年はもう30歳でしょう、誰かそういう人いないの?」

実家の玄関を潜った5分後には母から飛び出してくるこんな言葉が、夏の湿気のようにいつも私を追いかけて来る、それに息が詰まる。

私が20代の半ばを過ぎた頃から呪文のように母が唱えだしたこの

『誰かそういう人いないの』

その言葉は、いつもなら適当に流すのだけれど、これまでずっと大切に想ってきた紗耶香を亡くしてまだ1年しか時間を経ていない今の私にはちょっと苦しい。でも仮にこの先、私が紗耶香への気持ちをそっと胸に仕舞って東京で他のだれかを好きになってそれが叶ったとしても、じゃあその人と結婚するからってここに連れて来たりしたら

お母さんアンタ多分卒倒するよ。

「坂本さん家の下の子って、萌ちゃん?確か今ハタチ位じゃん、それで最近結婚して再来月にもう出産って、完全なるデキ婚でしょそれ。お母さんも変わったよね、葉月のお腹に大樹が出来たからって、それで超特急で結婚しなきゃってなった時、お母さん、葉月とお義兄さんの前で大泣きしてたじゃん、ご近所に顔向けできない、みっともないって」

「それはそれ、これはこれ。お姉ちゃんは今じゃ立派に向こうのお家でお嫁さんやって、大輔さんも稼業継いで高野電機の社長さんだし、大樹はいい子に育ってるじゃない。お母さんはね、そういう事を言ってるんじゃないの、あんたがいつまでも1人で東京にいてずっと仕事してる事が心配なのよ。看護師なんてどこでも働けるんだから、もういっそこっちに帰って来なさいよ」

「あのさ、私が何で東京の小児病院でずっと頑張ってると思ってんの?必死で単位取って新生児集中治療ケアの認定資格だって取ったんだよ、仮にもしここに帰って来たとして、じゃあ母子周産期センターのある病院なんかここだと車で2時間以上かかる大学病院しかないじゃん、こども病院なんかそれ自体に県内に無いし。それかこれまでの経験も資格も全部無かった事にしてすぐそこの町立病院で毎日ひたすらおじいちゃんとかおばあちゃんの入浴介助して血圧計れって?そういうのが好きで得意な人は良いよ?でも私はそうじゃないの。何の知識もないのにそんな事言うのやめてよ。それと頼むからユキの前でもそう言う事、言わないであげてよ。アイツだって堂下の家で散々同じような事言われて、自分は破産法とか倒産法が得意で専門だからここに戻るのはちょっとどうかなって、要はこんなド田舎に引っ込んで毎日姑に虐げられてる農家のお嫁さんの離婚の相談ばっかりして暮らす訳にはいかないんだって、苦手なんだって、そういうのを毎回親に説明しないといけないのがいいかげんしんどいって辟易してんだから」

ちょっと母屋に挨拶してくる。私は母が出してくれたカルピスを一気飲みしてそう言い、実家の、山内林業の敷地の南側の端に建てられた離れの我が家から逃走した。一時避難だ。私はこの日の為にデパートでかき集めるようにして用意した、伯父が好きな今半の牛肉のしぐれ煮、叔母と祖母の好物の舟和の芋羊羹、それから紗耶香が好きだったラデュレのマカロン、全部の紙袋を両手に提げて母屋に向った。そうしたら丁度葉月が山内林業の駐車場に愛車のスズキの軽自動車を停めているところだった。大樹が私の姿を見つけてシートベルトも外さずに助手席でピョコピョコ弾みながら笑顔で両手を振る。葉月と会うのは、今年のお正月は仕事で帰省できなかったから、紗耶香の葬儀以来、だから1年ぶりだ。

「佳月、もう帰って来てたの?早かったね」

「ユキの車に乗せてきてもらった、大樹、おばあちゃんの家に大樹のお土産、置いてあるよ」

「ヤッタ!かっちゃんありがと、ねえいつまでいられるの?」

「3泊4日ってとこかな。大樹、背、伸びたねえ」

「もう2年生やもん」

当たり前だけど、甥の大樹は会わなかった1年で背が伸びて、まだ幼児のような印象が強かった1年生の頃とはまた違う、短く刈り込んだ髪にうんと日焼けした手足、それから両ひざに遊んでいて転んだのか擦り傷のある田舎の元気な少年なっていた。それでもまだまだ親の世代を拒絶するような年頃には程遠い大樹は車を降りると一目散に私に駆け寄って来て仔犬のように纏わりついてくる。本当に可愛い。大樹は葉月の嫁ぎ先の高野電機の初孫で未来の跡取り息子で、そういう田舎の呪いに生まれた時から取り込まれている子だったけれど、機械なんかよりも木が、特にヒノキの香りと木登りが好きだと言って、しょっちゅうこの山内林業にやって来ては母屋で飼われている柴犬のトキと一緒になって伯父の後ろをついて回り、今のところまだ孫のいない伯父には孫のような存在だった。

「大樹、ちょっと、佳月と恵一おじちゃんのとこ行ってな、佳月いい?お母さんおばあちゃんと大事なお話があるからさ」

「いいけど、どうかしたの?」

「離婚すんのよ」

「は?誰が」

「あたしが」

私が1年ぶりに故郷に帰った日、姉の葉月は離婚の決意を固めて実家に戻って来た。葉月の背後を見ると、葉月の愛車の後部座席にはかなりの量の荷物が詰め込まれている。帰省じゃなくて本気の出戻りだ。葉月がまあ簡単に説明するとさ、そう言って私に教えてくれた話は、大体こんな感じだった。

地元の工業高校を出て家業を継いだ真面目で仕事一筋だと思っていた義兄は高野電機にパートで来ていた若い女と、と言っても8歳の娘のいるシングルマザーらしいけれど、情にほだされたのか三十路の男の性衝動の故か去年あたりからずっと関係を持っていたらしい。口実を作っては平日深夜まで国道沿いに1件だけあるラブホテルに行く代わりに相手が子供と2人で暮している公営住宅に入り浸るようになり、そこでいい大人が倫理観も常識も衣服も全部かなぐり捨てて中学生かサルのようにセックスをし、それに周囲が咎める前に適当にケリをつけてくれればよかったのに、何せ中学生並みの情動に煽られている2人なので歯止めが効くわけ訳もなく

「今年の4月の末に2人手を取り合って、違うか、その女と子供の本人、3人で相手の実家のある岐阜に逃げちゃったの。後から聞いたらお義母さんが大輔のやってたことの大体を知ってて、一言注意したみたい。そうしたらその翌日の日曜の朝にタバコ買いに行くって言ってそれきり帰らなくてさ、でもさあ何も大樹と渓流釣りに行こうってずっと前から約束してた日に出奔しなくていいと思わない?まあそういうヤツなのよね、ママに怒られたから息子との約束反故にして家出とか中学生かよ。それで暫く行方不明みたいになってて、それは絶対大騒ぎになるからってウチのお母さんとか近所には出来る限り伏せてたんだけど。でもつい最近大輔から連絡があったの、俺の保険証どうなってるかなって。本当にさあ、お坊ちゃん育ちか何かしらないけど世間知らずって言うか、家出すんなら保険証位持って行けよバカじゃないの。で、それで居所が私達の知るところになって、高野のお義父さんとお義母さんがとにかく会社の事もあるから話し合おうって連れ戻しに行ったの、そしたらさ」

相手の女は、お腹が妙に膨らんでいたらしい。

「34週目だって。それで向こうの子、女の子でこの場合連れ子ってことになるのかな、それにパパとか呼ばれててさ、まあその子には何の罪もないんだけど。でも大樹と同じ歳なんだよ、しかも同じ小学校だったの。信じられなくない?だったらもう離婚だね、じゃあねって離婚届半分書かせて、大樹連れて出て来ちゃった。むこうの両親には『ひとつこらえてくれ』って言われたけど、イヤイヤイヤ、じゃあ生まれて来ちゃう子はどうすんですか認知もしないで見捨てるんですかって、あーもう話し合う事すらめんどくさい、あとはもう弁護士頼むからそっちに任せる、そんで慰謝料もらったらアンタに焼肉奢ってあげる」

「それは何て言うか…歴史、繰り返しちゃったね…」

「だねー」

まあそういう事だから、伯父さんと伯母さんとおばあちゃんにもそう言っといてよ、葉月までもが山内家に戻って来ますって。そう言うと姉は私に大樹を預けて、これから多分タイマンで勝負を挑む母のいる離れの家に悠然と歩いて行った。

葉月の背中には、リングに向かうボクサーのような強い闘志と気迫が感じられた。1ラウンド3分、1分インターバル、全4回戦。こういう場合、私は葉月を応援する方が良いんだろうかやっぱり。

「アンタに焼肉奢ってあげる」

そんな風にふざけたような事を言いながらも葉月は静かに、でも物凄い怒りを内側に秘めていた。まるであの日の母のように。



山内林業の従業員だった父が勝手に私達姉妹の学資保険を解約し、定期預金の通帳と、葉月がお年玉を貯めていた郵便貯金、それから私の貯金箱、とにかく家中の預貯金と現金をかき集めていなくなった時、私は7歳で葉月は10歳だった。

『駅前のスナックに勤めていた女と逃げたらしい』

それが分かったのは失踪の2ヶ月後。そのスナックの女を雇っていたお店のママは真由美さんと言う、私の小中の同級生の真美の母親だった。真美は昔から特別扱いで周囲から浮いてしまいがちな紗耶香にも、女子の憧れの的の幸人にも、「サッカー部には男子サッカー部と言うことわりが無いから」と言って無理矢理サッカー部に入っていた私にも普通に、そして気さくに接してくれる気の良い子で、中学生の頃は髪が脱色しすぎのほぼ金髪で当然ヤンチャで先生にあまりよく思われていない真美を私は結構好きで仲良くしていた。それで店の経営者としても娘の友達の母親としても酷く責任を感じた真由美さんは、実は年の離れた姉の娘、だから姪だと言うその女の行先を自身の姉から聞き出し、菓子折りまで持参して母に2人の出奔先の大阪のアパートの住所を教えに来てくれた。

真由美さんは田舎のスナックによくいる、昔はちょっとヤンチャだったタイプのヒョウ柄で網タイツで赤い髪の周囲の同級生の母親達よりは幾分若いお母さんで、見た目は少々アレだけれど、義理堅くて情に厚い人だ。別に自分が父と逃げた訳でもなんでもないのに、自分のところの身内で授業員が本当に申し訳ないと私の家の玄関でこれ以上ない程頭を深く下げ、駅前の和菓子屋の草餅と一緒に父の居所の書かれたメモ用紙を母に手渡してくれた。でもその誠実な態度の真由美さんに母は御礼とか苦情とか何か他の事を言う訳でもなく、それをひったくるようにして受け取ると、真由美さんを家の玄関に置いたまま私と葉月を山内林業の駐車スペースに泊まっていたハイエースに放り込み、その日の内に大阪の父の元に押し掛けた。離婚届と檜の擂り粉木を持って。

「アイツ、殺してやる」

私達の住む町から父の暮らしているらしい大阪への道中、北陸道から名神、それから京滋バイパスをノンストップで飛ばしている間、そんな呪詛を呟き続けていた母の姿はそれは恐ろしかった。そうは言っても何せ武器として持ち出したのが、擂り粉木だから母には確実に父の眉間をヒットして殺ろうとか、複数回殴打して撲殺してやろうとか、そこまでの殺意はなかったと思う。多分。でもあの時、あの田舎町にしては顔の良い、それゆえに女癖が悪くシモの緩い父の行状に結婚してから12年間、ずっと耐え続けていたらしい母が身に纏っていた殺意というか気迫は子どもの目にも尋常なものではなかった。母は、父とその女が暮らしている大阪の小奇麗な賃貸マンションの一室に私と姉を連れて乗り込むと、まず玄関先で父の顔を擂り粉木で一発殴打し、倒れ込んだところを更に馬乗りになって滅多打ちにした。

「待て待て待て、佳津子、俺が、俺が悪かった」

「悪かったじゃない!あれだけ散々好き勝手しておいて挙句有り金全部持って家出なんて、アンタ一体何様だよ、いいからお金、定期預金と葉月と佳月の貯金、あと学資保険返しなさいよ、今すぐ返せ!」

そう言って執拗に父の頭部と肩を殴打する母の姿はとてもこの世のモノとは思えなかったし、父と逃げた若い女は、その時、まだ夕暮れ時から夜半は肌寒い4月の終わりにキャミソールに短パンというほぼ下着姿だったけれど、明るいライトが照らす玄関で繰り広げられている阿鼻叫喚の騒ぎの横をすり抜けてその場からキティちゃんのサンダルを履いて逃げた。

私達姉妹はあの日、男と女の地獄を見たのだと思う。

だから私が好きになる相手が男ではなく女で。とにかく男相手にセックスなんか絶対できないし実際できなかったのは少なからずあれが影響しているんじゃないだろうか、児童発達心理にとかそういう事ついては専門外だからよく分からないけど。一方であれを見ていた葉月がどうして義兄の大輔さんとの間に子どもを、この場合大樹を作ってそれで普通に結婚なんかしようとしたのか、そして実際にできたのか、私はいまだによく分からないし、更に分からないのは、そうやって伴侶選びという人生の大一番に大敗した母が、娘の私が帰省する度に

「佳月もいいかげん結婚したら」

そう言って殊更『結婚』をおススメしてくる事だ。自分がそれで幸福を手に入れるどころかとんでもない苦労を背負い込んだのに、それをどうして実の娘に臆面なく勧められるのか、ちょっと私は理解に苦しむ。大体今そんなことを言う癖に私と葉月が子どもの頃は散々

「アンタ達、男なんてアテにならないんだから、手に職はつけておきなさい、女だって誰にも頼らず1人で生きて行けるようにならないと」

そんな事を言っていたのも母だ。もしかしたら母には多重人格的傾向があるのかもしれない。幼少期から呪文のようにひたすら母のその『手に職』の訓示を聞いていた私は東京の大学に行って看護師になり、葉月は県内の女子大に行って幼稚園教諭になった。その点は母の思った通りになった。そして今日、当時の母の訓示と最近の母の切望は足して2で割った形で実を結んでいる。

思えば葉月が妊娠して結婚して義兄の実家で暮らす事になった時

「年少から担任してきた子ども達の卒園を見ずに辞めたくない、それに仕事は手放さない方が良いって母が」

そう言って、幼稚園での仕事を辞めて嫁ぎ先の家業を手伝えと言う舅、姑、夫、高野家の人間の意向を全て退け、臨月ギリギリまで働いてその後大樹が生後6ヶ月の時に復帰し、担任していた子ども達が卒業した後も結局それを手放さなかった葉月だ。そして今日、その手放さなかった仕事のお陰で他の女と逃げた夫をさっさと見限る事ができている。母と同じだ。母の場合その仕事は保育士だったけど。

そして葉月は付き合う男と別れた時、それを一切良い思い出にしないで徹底して相手を憎み、何ならその死を望む。脳内のメモリからも世界からも消えて欲しいと願うタイプの人間だ。私はこれまで葉月の別れた男に対しての

「あーアイツ死ねばいいのに」

そういう呪詛を何度も聞いている。一度見限った相手はその不幸を徹底して祈る。そうやって自分の精神と尊厳を守る。葉月はそういう女だ。

母とよく似ている。




「おじさーん、おばさーん、おばーちゃーん、佳月です。帰ってきましたー」

私が東京で借りている小さな部屋がそのまま入りそうな母屋の広い玄関でそう叫んだ時、建物の奥まで光が届かない古い造りの家の、薄暗い一間廊下の奥から出てきたのは大樹の大好きな恵一おじちゃんではなく、従兄弟の恵介だった。

「おー佳月お帰り、幸人は?一緒?」

「恵介何でここにいんの?ユキは一緒に来たけど、駄目だよ、アンタ今既婚者でしょ」

「あー…葉月か佳津子叔母さんから何も聞いてない?俺ちょっと前に離婚したんだよ」

「ハァ?何で?」

「だって無理だし。それは佳月が良く知ってるじゃん、まあー俺には無理だったな、女」

高校生の頃と全然変わらない、飄々として何を考えているかわからない恵介の顔を見ながら、さっき久々に顔を合わせた葉月が「葉月までもが山内家に戻って来ます」そう言っていたのを思い出した。

恵介お前もか。

「だから俺、今ここからそこの土木事務所に通ってるし、まあ葉月が出戻るなら更に賑やかになっていいんじゃね、これで俺も日曜は朝から大樹と渓流釣りに行けるしな、知ってた?大樹、小学校に上がってからかなあ、土日はほとんどあの電気屋じゃなくてウチに来て過ごしてんの。父ちゃんともたまに山に枝打ちに行ってるしな。大樹、俺の部屋行ってスイッチ取って来な、スマブラやろうぜ」

「ウン!」

そう言われた大樹は履いていた黒いクロックスを玄関の三和土に脱ぎ捨てて廊下の奥の階段めがけてはじけるように走って行った。私はその大樹のクロックスを玄関の端に揃えながら

「スマブラやろうぜじゃねえよ、あの奥さんだった人、えっと恵梨香さんだっけ、それはどうしたのよ」

そう言った。中3のあの日、幸人の上に覆いかぶさって体を上下に動かしていた恵介は、その年の3月、君なら県外の旧帝大クラスも狙えるのにという教師の言葉を退けて難なく地元の地味な国立大学に合格し、それから3年、幸人が市内の県立高校に入学して卒業するまではそういう関係にあったけれど、幸人が東京の大学に進学すると分かった時「俺、しょっちゅう会ってセックスできないとかそういうの無理だから」と言ってあっさり別れた。その後大学を卒業してからは県庁に勤務し、一昨年前に友達の紹介で知り合ったネイリストの恵梨香さんという人と普通に結婚していた。確か私と同い年の人だ。地元基準では順風満帆の人生。

あの時、恵介の結婚の事実を紗耶香経由で私から聞かされた幸人は「そうか、よかった」とは言っていたけれど、その言葉とは裏腹に途轍もなく哀しそうな目をしていた。でもその幸人の気持ちは別にして昔から親しくしていた、いわば兄のような存在の恵介の結婚には東京にいる私達からも祝電ぐらい打つべきかと思い、ちょっとどこかで会って話そうと言う事になって、幸人の出先の中野で待ち合わせて焼肉を食べながら飲んだ。その時は普段そこまで飲まない筈の幸人がキムチだけをツマミにして日本酒を1升開けていた。私は、人は初恋をずっと引きずってそれでも生きていくものなんだと幸人に少し共感し、そして恵介は男も女もいける方なのかと妙に感心をした。私にはできない、あの読めない男は私達とはずいぶん違う、とても器用な生き物なんだと、そう思った。

「なんか他の男と出て行っちゃった。貴方結婚してから私に一度も触ろうとしないじゃないって。性の不一致ってやつ?まあ俺もさあ、1回勃ったから女もいけるようになったんだって思ったんだよね、人間はやればできるんだって。でもアレは奇跡の1回だったって事なんだよなあ。まあいいじゃん、体面だけ考えても人生上手くいかないって、そういう学びはあったよ、うん」

「うん、てアンタ。だからって今さらユキとどうにかって、そういうのは絶対止めときなよ」

「なんで?いるんでしょ、すぐそこに」

「アンタが捨てたんでしょうがまた清純で無垢だった18だったアイツを。それを今更もう一度って言っても、それで今度こそ恵介が東京に一緒に行くの?仕事は?今更県庁辞めて家も捨てる気ある?それは無理でしょ。ユキもこの先こっちに戻って来るとかそんな気はないんだよ、だって大変じゃない色々」

「恵介、お客さん?もしかして佳月ちゃん来てるの?」

私が恵介を威嚇して睨みつけた時、奥から奈津子伯母さんが出てきてこの話は一旦おしまいになった。私は今さっき幸人の車でここに着いたと言う事と、姉の葉月も丁度実家に帰って来ていて大樹を連れて来たと言う事と

「なんか離れの方、葉月も離婚して出戻って来るらしいよ。よかったじゃん、賑やかになるよ、大樹もこっちに引き取るっぽいから、山内林業の跡取りだね、父ちゃん喜ぶよ」

「えっ!何それ」

私が出来るだけ婉曲に伝えようとした事実を恵介が留保抜きに伝えてしまって、伯母は凍り付いていた。紗耶香が死んでから1年、私が知らない間にこの里山では色々な事が起きていたらしい。私が帰って来たと聞いて、この家の1階の客間の裏、隠居部屋と皆が呼んでいる日当たりのいい和室から出てきた祖母は

「佳月ちゃんだけでもまともに結婚してくれないとねえ…なんだかもう…」

そう言って肩を落としながら私の持って来た芋羊羹をちびちびと食べ、その隣で何か言いたそうにしていた恵介を私は睨みつけた。恵介は私の性愛対象が男ではないという事を知っている数少ない1人だ。そうだと本人の前で明言したことは無いけれど、この得体の知れない所のある従兄弟は絶対に気づいている。

(大体アンタが出来もしないのに適当に結婚して適当に別れたりするからおばあちゃんがこんなに意気消沈しているんでしょうが)

私は目でそう訴えた。

「今は仕事が忙しくて楽しいから。それよりおばあちゃん、その後血圧どうなの、それ食べたら一度計ろうか」

「看護師さんなんて、この辺りでは引く手あまたなのよ、もう帰ってきたらいいのに…」

「おばあちゃん、佳月はね、東京の大きい病院で働いてるのよ、こんな田舎の小さな病院じゃあ勿体ない子なの。いいじゃないの、元気で働いて、それで誰かの役に立ってる、一番いい事じゃない」

伯母が間に入ってとりなしてくれて、おばあちゃんの愚痴はここで終わった。この祖母も母と同じで、大体会話開始3分後位には

「仕事が楽しいだなんて…これでまた嫁に行くのが遅れるわ」

そんな事を言うタイプの人だったけれど、長く生きないかもしれないと言われた娘を産んで育てて28歳と言う若さで亡くしてしまった伯母は、もう私や葉月や多分出戻りの恵介にも結婚しろとか早く子どもを産めとか世間様に申し訳がとかそんな事を一切、決して言わなくなっていた。

元気に生きててくれたらそれでいいじゃない

私はこの1年で随分白髪が増えて老け込んでしまった優しい伯母が、どういう心の軌跡を辿ってそんな『生きててくれたらそれでいい』という境地に至ってしまったのかを考えると、少しだけ哀しかった。

「おう、佳月帰って来たか、おもてに葉月の車もあったな、泊りか?それなら今日は母屋で皆でなんかうまいもんでも食うか、な大樹」

「ウン!俺、今日はおじちゃんのとこで寝る!」

山内林業の建物から長靴と作業着姿の伯父がやって来て、作業着についている杉の小枝と泥を簡単に払ってから縁側から母屋の中に入って来て、そこに大樹が飛びつき、何となく会話が暗い方向に行こうとしていた母屋の居間には少しだけ明るい空気が流れた。それなのに恵介がまた

「なんか、離れの方、葉月も離婚して出戻って来るらしいよ。よかったじゃん賑やかになるよ、大樹もこっちに引き取るっぽいし、どうよ父ちゃん、大樹が跡取りって事で」

さっきの話をまた蒸し返したので、私は母屋の居間の真ん中を占領している巨大な黒檀の座卓の下で恵介の足を思い切り蹴飛ばした。

「あ、いて」

「えっ!何だそりゃ」

「えっと…そういう事みたい。私も根耳に水なんだけど、なんか大輔さん、よそに子どもが出来たらしくて、それでもう相手が後に引けない週数だから産むらしくて、だったらもういいって葉月が今日車に荷物と大樹乗せて出てきたみたいで、詳しい事はまだ私も聞いてないんだけどね。今、離れの方でお母さんと話してる」

でも葉月の気性と性格を考えたら、もう離婚は決定、修復は不可能だと思う。私がそう言うと、俺にも麦茶、伯父がそう言って大樹を背中にしがみつかせたまま私とは対面になる、恵介の隣にどっこいしょと声を出して座って、伯母の手で氷の入った麦茶のグラスと芋羊羹を乗せた皿が目の前に置かれるのを見てからふうっと息を吐いて

「なんだろうなあ、俺達は今そういう年回りなのかもしれないなあ、紗耶香が死んで、恵介は嫁に逃げられ、葉月も出戻るか。まあいい、皆、思うように生きろって事だ。人間、多少の傷はあっても生きてる方がずっと大切だ」

そう言ってから麦茶を一気飲みした伯父はなんだか妙にせいせいとした顔をしていた。そして、また私に

「そうだぞ、佳月」

己の行状を全部棚に上げて余計な事を言う恵介の足を私はもう一度蹴った。オマエはいちいちひとこと余計なんだよ。

「あ、そうだあのな佳月、この前、やっと遺品整理っていうのか、紗耶香の部屋を少し片づけたんだよ。と言ってもまだあの部屋はほとんどそのままなんだけどな。それで佳月がこっちにいる間に、ほら堂下んとこの幸人も、良ければ形見分けって事でなにかひとつ持って行ってもらってもいいかな。紗耶香はホラ、大人になってからは体調の良い時たまに東京のお前たちのとこに遊びに行くのが唯一の楽しみみたいな所があったし、東京の佳月たちの部屋に自分の物をひとつ、何か置いてもらえたら、アイツも喜ぶだろう」

あと、その時こんな物みつけてな、なんていうか、これは佳月が持っていてくれないか。そう言って伯父が膝に座らせていた大樹を一度退かせて立ち上がり、居間の壁の半分を埋めている立派な階段箪笥の抽斗のひとつを開けてそこからモレスキンの手帳を出して来た。深い青色のそれが紗耶香のものだと私に直ぐはわかった。だってその手帳を買ってプレゼントしたのは私だからだ。大学1年生の時、生まれて初めてアルバイトをして貰ったお金を握りしめて路線図を頼りに代官山の雑貨店まで行って探したドイツ製の手帳と揃いのペン。それを紗耶香の19歳の誕生日の夏に宅急便でこの家に贈った。その時、お礼の電話をしてきてくれた紗耶香は

「ありがとう、死ぬまで大事にするね」

そう言ってくれて私は

「大げさ!」

と言って笑ったけれど、図らずもそれは本当に実行されていた事になる。

あの時の私は、もうこの先一生待っても願っても、私の紗耶香への気持ちは叶わない、だったらもうここから逃げよう、そう思ってわざわざ学力的には相当背伸びをした上に母屋の祖母の援助まで貰って東京の大学に進学して、春から夏、東京と言う実家の里山から遥かに離れた都会で暮してみてその結果、自分の気持ちに物理的な距離は一切何の効力もない事を知って愕然としていた。

そういう夏だった。

「それ、紗耶香の?」

「そうなんだ。これがあいつの英語の辞書のカバーの中に入れられててな、隠してあるのか、それなら見ると怒られるかなと思ったんだが、だからって中身も見ないで処分する訳にはいかないし、一応軽くにめくってみたんだが、これがまた…暗号みたいな事ばかり書いてあって、俺には皆目わからんのや。特に最後の一言が、詩なのか何なのか。紗耶香はほら、英語の本を読むのが好きで原書のまま読んでたやろう、だから何かの本の一節を翻訳したのか…恵介に聞いてもなんも分からんと言うし」

「ウン、紗耶香、あいつ超絶頭いいもん、俺には全然わかんないよ」

ああこれだ、そう言って私の前にその手帳の真ん中あたりのページを開いて見せた。そこに書いてあったのは懐かしい紗耶香の小ぶりで少し丸みのある文字で書かれた

『いま、しずかにほろびよ』 

という言葉だった。

いま、しずかにほろびよ。

一体なんだろう。

☞5

紗耶香の1周忌は、あの子がああいう亡くなり方をした訳だし、それなりに小規模のものになるのだと思っていた。28歳で未だに謎の多い死を遂げた1人の女性の一周忌はしめやかにかつごく小さい規模で。

でも実際はそんなことは一切なく、山内の本家の娘の一周忌は、母屋の客間、普段は12畳のものが4つ、襖で仕切られている部屋のすべての襖を外し、床の間や板の間を含めると50畳近い大広間になったその場所で、多分近隣の一族すべてを集めて執り行う盛大なものだった。素朴な田舎の家の中で異彩を放つ金色に豪華な仏壇の前での読経と法話が終った後は、隣町の料理屋の一番豪華で高価なお膳を人数分並べて食事とお酒が振舞われ、玄関には香典返しの大きな紙袋が山のように用意された。

こうなると、嫌でも女は忙しい。私はこれも嫌で年々実家から足が遠のいている。

「佳月、向こうのホラ、吉田の大叔父さんにお酒持って行って。それと恵一さんにビール、今注いで回ってるの、そろそろ空でしょ、早く」

「吉田の大叔父さんにお酒?持って行ってそれ頭から掛けて来いってか?」

「もう、アンタはそういうねえ、中学生みたいなこと言わないの。あーでも良かった今回は葉月も佳月もいてくれて、こういう時は女手が多い方が楽だもん」

あの1年前の葬儀の日、紗耶香の死を「あの娘は死んだほうが幸せだった」と言った大叔父に冷酒を持って行って、ついでにお酌して来いという母に、なんだか中学生の頃のような気持ちになってちょっと反発したら返って来たのはそんな言葉だった。私が帰省した日、結局母は葉月との母屋まで聞こえてくるような熾烈な言い合いの末、自身の人生と同じ経路を辿る事になった娘の離婚を認め、葉月は今日ここでは

『夫に裏切られた可哀相な分家の長女』

そういう立ち位置を得て、忙しそうに配膳の手伝いをしている。葉月のこういう順応性の高さは、本当に田舎向きだ。今客間で参列者のお膳をひとつひとつ回って膝をついて挨拶している伯父の後ろで、伯父を手伝っているつもりなのかビール瓶を持ってはしゃいでいる大樹なんか

「山内大樹です!」

もうそんな風に名乗っている。アンタはまだ高野大樹なんだよ、そう私は訂正したけれど大樹はもうこの家の子になったんだからそれでいいんだと言い、伯父は方々から

「なんや、恵介は公務員やし、じゃあこの子が山内林業の跡取りか、恵一さんよかったな」

何がどうなっているのか、姉の離婚はこの山内一族の中で認められて、むしろ歓迎されているようだった。結婚しろ子どもを産め、そう散々人に言っておいて、それが破綻したらそれはそれ。人間て何て身勝手な生き物なんだろう。まあ大樹が嬉しそうだから私に特に文句はないんだけど。

「大樹、こっちに来てゴハン食べたら?大樹の分だけエビフライとかハンバーグの乗ったお膳だよ、いらないならかっちゃんが食べちゃうよ」

「えっ!ダメだよ!」

大樹が伯父の背中に纏わりつくようについて回っているので、あれではビールが注ぎにくいだろうと私は大樹を一度台所に連れて戻った。広間ではお客様と身内の男だけが飲み食いをして主催者側の女と子どもは全部台所。料理とビールとお酒を運び、合間に交代で食事をとる。ホスト側に回った家の誰かがやらないといけない事だけれど、私はこういう集まりが本当に嫌いだった。

「葉月ちゃん、私、トイレ」

「うわ、イチ抜けかよ」

「違うよ、一時退避。頼む、あの広間に放り込まれて私がどれだけ結婚しろって言われて、あとは謎の健康相談受けてると思ってんの、大体こっちは医者じゃねえし、看護師だし。もういい加減金取るぞって年寄り連中に言っておいてよ」

「しょうがないなあ、早めに戻って来てよ。アタシだってここで『亭主に裏切られた可愛そうなお出戻り娘』でいられるのも精神的に限界があんだからさ。じじい連中に独り身だと寂しいだろとか、どっかの後妻に入るのはどうだとか、もうスナックかよ、アタシだって金払って欲しいよ」

台所で大樹に食事をとらせながら、その横でそろそろお膳の上の料理が無くなるからと、乾き物を中皿にいくつか盛り付けている葉月に小休止を申し出た私は、葉月にぶつぶつ文句を言われながらもそれを承認してもらって、表玄関から出て離れの自宅に戻ると私の姿が客間の縁側から丸見えになってしまうので、勝手口から出て母屋の裏手、納屋の軒下で一服しようと思い伯母のサンダルを借りて外に出た。そうしたらそこにはもう先客が2人いて、1人はタバコを咥え、もう1人は私を見て笑いながらこっちに手を振っていた。

「あ、さぼりだ」

「うるさいな恵介、アンタなんか何もしてないじゃん、いいよね惣領息子って座ってるだけでいいんだから。あとユキに会うなって言ったよね、ユキもあんな手ひどくフラれた男になびいてつるんでんじゃないよ全く」

「違うよ、客間にいると、結婚しろって言われるか、法律相談になるかで、なんか疲れちゃったからトイレって誤魔化して外に出たら先に恵介がここにいたんだよ」

「俺もあそこにいたら、じいさん達から、早く再婚しろってせっつかれて辛いんだもん、離婚したばっかりなのに、可哀相な俺」

「ハァ?身から出た錆でしょアンタは。体面だけ考えても人生上手くいかないって、その学びを得て少しは反省しなさいよ全く」

幸人と恵介は、あのセクハラとかモラハラの横行している客間から逃げ出して、ここで一服しているんだと言った。幸人は恵介と並んで座っていた場所をすこし開けて、私にまあ座りなよとその隙間をトントンと叩いた。母屋の裏には、昔、外遊びを少しだけ許された紗耶香が、それでもお日様の下で15分程歩くと疲れてしまうから、その時の休憩用に伯父が作ってくれたベンチがあった。樹齢100年の杉の1枚板で出来た立派なベンチは、今、大人になった幸人と恵介と私が座ってもしなる事も無く、固くびくともしない。思えば100年ものの杉の一枚板で出来たベンチ、本来は凄い値段なんじゃないだろうか。私は喪服のポケットの中に入れていたはずのタバコを探りながら、昔からちょっとでも顔色が悪いと直ぐに娘の紗耶香の事を抱き上げてしまうのが癖になっていて、紗耶香が中学生になった頃、送迎に来た校門の前でそれをやろうとして紗耶香に嫌われていた可哀相な伯父の事を思い出した。

「紗耶香、凄い愛されてる子だったんだね」

「え、何突然。それともしかしてさっきからタバコ探してたりする?俺のいる?マルボロのメンソールだけど」

「いる」

恵介が、自分のタバコを1本寄越して来たので、それは有難く受け取って、ライターで火をつけて貰った。恵介は普段から結構な量を吸う不健康な喫煙者で、幸人は吸わない、私はイライラしている時に吸う、だからこれは嗜好品というよりは精神安定剤だ。

「一周忌、盛大だなって思って。だってなんかお誕生日みたいじゃない?それとこの伯父さんが作った工芸品級のベンチとか、あと部屋がまだ綺麗にそのままだとかそういう事も、全部。あユキ、なんか伯父さんがね、ここにいる内に紗耶香の部屋のものひとつ、なんでもいいから貰って欲しいって、形見分けに」

「ウン、恵介から聞いた。あとで2階に上がらせてもらうから、その時何か見せてもらうよ、佳月はもう何か貰った?」

「ウウン、私もまだ部屋に入ってないんだけど、なんかコレ、手帳は貰ってるよ、って言ってもこれ私がプレゼントしたやつなんだけどね。中によく分からないメモみたいなことが延々書かれてて伯父さんも首傾げてたんだけど、ハイボールとか遠足とか…あ、最後にこれ」

タバコは忘れて来たものの、その文庫本サイズの手帳は、喪服にしている黒いワンピースのポケットに突っ込んできていた私は、あの言葉のページを開いて幸人に渡して見せた。

いま、しずかにほろびよ

「…何?呪文?」

「わかんない、でも、ほろびよって割には『しずかに』だから呪いっぽくもないし、詩…かなあ」

「なんかドラクエの呪文みたいじゃない、それで何か解放されて出てくんの」

「何がよ」

「えー何だろ、宝物とか」

タバコを口に咥えた恵介が、幸人の持っているモレスキンの手帳を横から奪うようにして、その呪文のような、そして詩の一節でもあるような言葉の書かれたページの前、あとは細かいメモの書かれた場所をめくるとそこには

「これ何だ?ハイボール、タバコ、ディズニーランド…海?恵介、あ、俺だ…が自由になるように?俺は自由な方だけどな、アイツ何書いてんだか。あと焼肉?これはアレか食いたかったのか?真美ちゃんの店?」

そこには色々な言葉が、箇条書きに、そして走り書きのメモみたいにして書かれていた。それには線を引かれて消されているものとそうでないものがあって、多分寝ながらとか、体調が良くない時に書かれているものもあるらしく、少し乱れて読みにくいものもあった。それで私達3人、うち2人が咥えタバコで頭を寄せ合って解読できたものは


ハイボール
たばこ
ディズニーランド

飛行機
焼肉
遠足
真美ちゃんの店
恵介が自由になるように
佳月の家のイソウロウ
ニジマス釣り

「俺いっぺん紗耶香に、アレ、結婚する時だったかな、なんかそんな事言われたなあ」

恵介が、足元に灰を落としながら手帳をしげしげと眺めてそう言ったので

「なにそれ詳しく言え」

この時私は、1年前になんの前置きも無く死んでしまった紗耶香にもう一度出会ったような気がしてほんの少し泣きそうになっていて、殊更強い口調で恵介に聞いた。アンタ何か知ってる事があんなら言いなさいよ。

「『お兄ちゃんそういうのもういいのに』って『ホントに恵梨香ちゃんのこと好きなの、違うんじゃないの』って言われてさあ、なになに、兄ちゃんに嫁さんが来るのがそんなに嫌なのって聞いたらさ、そんなんじゃないけど、あんまり長男だからとか考えない方がいいのに、私は普通にしてるお兄ちゃんの方が好きだよって。アイツさあ、普段ぽわーんとしてるのにたまに妙に勘が良いんだよな、だから知ってたのかな俺の事」

「それは完全に気が付いているやつじゃないの」

「俺もそう思う」

紗耶香は、私と同じ場所で生まれて同じ場所で暮してきた同じ歳の人間だったけれど、人生の半分が病院であと半分は自宅で、だから外の世界をあまりよく知らない分、妙な所が幼く、その反面いつも死の淵を覗きながらそれと共に生きて来たせいなのか、秒な所が老生して達観している、そんな所のある子で、たまにだけれど、この世のすべてを見透かしているような目をしていた。

だから自分の兄がどういう人間で、誰を愛していて、飄々とした風体をしながらそれでも自分にとって大切な事を色々諦めて、そして本来の姿を偽ってこの田舎町で生きている事を、知っていたのかもしれない、いや知っていたんだと思う。

「ウン、だからさ、もしかしたら俺と幸人とのことも知ってたのかもしれないなって。だからホラ、昔々、俺が大学3年で幸人が高校3年生で、来年東京の大学に進学したいって、そこが第一志望だって聞いた時さ、とりあえず幸人とは別れた方が良いかなーって。まあ幸人はモテそうだし、第一志望も俺みたいに県内縛りじゃなくて東京だったし、ならこの先俺じゃなくても幾らでも他の男と付き合えるだろって思って、何しろ紗耶香は幸人の事がずっと好きだったからなあ」

恵介は2本目のタバコに火をつけながらとても意外な事を話した。このいいかげんの極みみたいな男にも一応兄としての葛藤があったのか、私はよく見たら紗耶香の面影をほんの少し宿している男の横顔をじっと見た、そうしたら、恵介は

「あ、だからさ、多分佳月の事も少しは分かってたのかもよ、ウン。お前は色々駄々洩れだからな。自分は普通の女の子ですって周りを誤魔化すのに幸人とセックスしてようとしても全然駄目だった訳じゃん、まあ無理なモンは無理だよ、それは俺にもよくわかる」

私と幸人が墓まで持って行くはずの秘密を突然持ち出して来たので、私は色々気管に入り込んでむせて死にそうになって、左隣の幸人が慌てて私の背中をさすってくれた。

「…ユキ、アンタ、それこいつに喋った訳」

「いやあの…すみません」

「まあ気持ちは分かるよ、俺達みたいのがこういう所に生まれて暮らしてるとさ、とりあえずは普通を擬態して生きていかないといけないんじゃないかと思って、手近な所で色々試してみる訳じゃん、それでやっぱり無理だって悟るってそういう流れでしょ。アレだね、じゃあ俺と佳月は幸人を通して竿姉妹って事になるんだね、俺達本来は従兄弟だけど」

「うるせえよ、最後までできなかったんだから姉妹じゃないし、下品な事言わないで」

そう言いながら恵介の頭をぶん殴った。あれは高校3年生の3月だ、幸人が恵介にフラれ、その失恋の哀しみをバネにしたのかそれともやけくそだったのか超難関と言われている第一志望の国立大学に見事合格し、私が紗耶香への気持ちにケリをつけるために東京の大学の看護学部に進学を決めたあの頃、互いに

『自分たちの性愛の対象は同性だけれど、果たしてそれは本当にそうなのか、自分達はこの先普通の恋愛や結婚をしたりはできないんだろうか』

それを確かめるために一度異性間のセックスという物を試してみようと考え実行してみた事がある。幸人と私という物凄く手近な所で。そして互いに大敗したのだ。全然できなかった。互いの事情をよく知る2人が全裸になって互いを触り合っても緊張もしない代わりに特に反応もしないし、大体当時も今も痩せて筋肉質な幸人が体の上に乗ってきても硬くて重たいだけで、私はやっぱり柔らかくて軽くて優しい女の子の体が好きなんだと再確認しただけだった。幸人も幸人で全く同じ事を思ったらしい。

「若気の至りだから、ね、佳月」

幸人はそう言って私を拝んだ、ごめん赦して、今度東京で何か奢ります。

「うん、だからそういう若気の至りみたいなものに紗耶香も入れてやればよかったのに。アイツ結局処女のまんま死んだのかな、やりたい事も行きたい場所も散々我慢させてきたのに30手前で死ぬとかさ。なんか不公平の極みって感じするな。修学旅行とか、遠足とか、酒もたばこも全部いけませんて」

「...紗耶香、一度でいいから、ここ以外の所で暮らしてみたいって言ってた、1年か、ううん半年で良いからって、あ」

何かが突然閃いた気がして、恵介からモレスキンのノートをひったくった私は、それをもう一度読み直した、

ハイボール
たばこ
ディズニーランド

飛行機
焼肉
遠足
真美ちゃんの店
恵介が自由になるように
佳月の家のイソウロウ
ニジマス釣り

「エンディングノートだ」

「え?何が?」

「これね、紗耶香が19歳になる時に私が贈った手帳で、そこに多分日付、ああ紗耶香が25歳になった頃からこういう事、書き始めてて、つい最近まで書いては消されてる訳じゃない、それであと残ってるのが線で消されてないコレで」

「25歳ってアレか、えーっと紗耶香が何だっけアレ、ペースメーカー?なんかそんなヤツの手術した時か」

「人工弁だよ。ペースメーカなんかだいぶ前の話でしょ、アンタ兄なんだから覚えておきなさいよ」

「えーそんな細かい事本人だって覚えてないって」

そんなこと無い。紗耶香は自分の体の事だからと、手術の際に受けた説明はいつもこと細かにメモに取って、それで分からなかった事はいつも私に聞いてきた。だから私も紗耶香の体の最新の状態を良く知っていた。紗耶香は自分の体が小康状態を保っている時も、あまりいい方向に行っていない時も、いつもとても冷静に自分の体と向き合っていた。幸人もそれをよく知っていた。

「紗耶香は、何か思う所があったんだろうな」

「でも、こんなにやり残した事…やりたかった未来の予定が紗耶香にあったなら」

私にはこの1年深海のように深くて暗い心の奥底に澱のように静かに眠らせていた強い疑念があった。もしあれが事故ではない、紗耶香が自ら死を選んだという憶測が実は真実なのだったら。私はあの子の一体何を見て知っていたんだろう。結局は何も知らなかったんじゃないか。でも、このささやかなでもとても沢山の紗耶香の願い事を知った今、その澱が静かにろ過されて消えていくのを感じていた『死ぬまで生きる』と言い切っていたあの意思堅強な、そしてどういう訳なのか早朝の渓流の浅瀬に眠るようにして沈んでいた紗耶香は

「やっぱり自殺じゃなくて事故だったって事でいいんだね」

幸人がため息とともにそう言った時、母屋から葉月の怒鳴り声がした

「アンタ達、さぼってんじゃねえよ、お開きだよ、戻りな」

「あ、やべやべ、まあその話はこの…アレだ、真美ちゃんの店でもう一度検証するって事で、今日の8時に」

恵介は、その箇条書きになっている多分死ぬまでにやりたい事リストの下から4番目、真美ちゃんの店で話そう、そう言った。要は飲みに行こうぜと、そう言う事だ。

☞6

『真美ちゃんの店』というのは、かつて、私の父が店の従業員と大阪に逃げた事で私の記憶にその名を残しているあの真由美さんの店だ。店名は先代の真由美ママから娘の真美が店を引き継いだ今も『まゆみ』のまま。真美は金髪の中学生だったその後、内申点の悪さから県立高校に進む事が出来ず、市内の私立高校在学中に妊娠、同級生の中では一番早く18歳で母親になって、今や小学5年生の子の母親だ、下の子は大樹と同じ歳、でも父親はいない、シングルマザーだ。お店同様2代続けて真美の家には父親が居ない。思えば今の私の実家と同じだ。

「佳月、幸人お帰り~あ、出戻りだ、お帰り~フフフ」

私が知っている当時と全く同じ、鏡面になっている赤い扉を開けた瞬間に私に飛びついて来た真美は私と同じ30歳になった今、あの中学生の当時よりも若干肉がついて柔らかそうな体になってはいたけれど、母親の真由美さん同様、ヒョウとかゼブラとか、その手の動物柄の派手でキラキラした服装と、当時よりも綺麗に染められた金髪のショートボブの良く似合う色っぽいママになっている。

「ただいま真美、ハイコレお土産、半分は真由美さんの」

「コレ豆源のやつじゃん。ありがと。ねーおかーさん、佳月と幸人が来たよ、あと山内の本家の恵介、ホラ出戻りの」

「なんかさ、この辺一帯俺の事、出戻り出戻り言いすぎじゃない?あ、真美ちゃん知ってた?ここんち葉月も出戻って来たんだよ、だから俺の事ばっかり言わないでよ」

「ウッソ、マジで、葉月ちゃんの旦那が色々やらかしてたって噂は聞いてたけど、別れる事にしたんだ。そっかあ、いいよいいよ、葉月ちゃんだって今…アタシの3つ上だから33か、人生まだまだこれからじゃん」

「そういうの、俺にも言ってよ」

「恵介はなんか身から出た錆っぽい気がするから特に同情しない。ね、なに飲む?ビール?焼酎?水割り?ハイボール?」

そう言いながら、私が持って行ったお菓子、『大ママ』と皆が呼んでいる真由美さんに以前お土産として持って行ったら美味しいと言ってくれた豆源の豆菓子を、信用金庫の粗品の深皿にザラザラ入れて、カウンターの上に出してくれた。現ママである真美と向かい合うカウンターの中には、木彫りの熊とこけし、なんて言うか田舎のスナックと言うよりただの友達の家だ。そう思いながら私は真美にハイボールを頼み、恵介は焼酎のロック、幸人は

「俺、車で来たからなんかお茶でいいや」

そう言うのを、奥から少し顔を出しにきてくれた大ママの真由美さんが、

「そんなの駄目よ、ユキ君は代行頼めばいいじゃない。真美、アンタほら、ハイボール作るなら、この子達に白州出してやんなさい、アタシの奢りだから」

そう言って白州を出して来てくれたので、幸人は水割りを飲むことにした。真由美さんは昔からお客さんに気前が良い、良すぎて全然儲からないと真美が中学生の頃からよくこぼしていた。

「ハイじゃあ、東京組、おかえりー、そして恵介は出戻りー」

そう言って真美と乾杯した後、私は早速あのモレスキンの手帳を真美の店のカウンターに置いて、その箇条書きになっている細々とした文字を真美に見せて聞いた。

「真美さ、これの意味っていうか、多分、これは紗耶香が生きてる間に実行してみたかった事が書かれてるんだと私は思ってるんだけど、この『真美ちゃんの店』って何のことかわかる?この店にあの子が営業時間に1人で来てたとかそんな事ってこれまであった?」

そうしたら真美は、自分も豆菓子をボリボリ齧りながら、少しだけ考えて

「営業時間は流石に無いね。アンタ達保護者が一緒の時にしか、おばさん達が夜遊びなんか許してなかったじゃん。それにあの子ホラ、免許無かったし。でも昼間、だから開店前にちょっとしたおすそ分けとか、佳月と幸人の所に遊びに行ったからお土産だよとか、そういうの持って来てくれた事ならあるよ、その時に一緒に少しだけお茶飲んで喋って…あーでも、夜にここにこっそり遊びに来る手立てはないかなって、相談されたことはある。自分も1人で飲みに来てみたいって」

そう答えた、紗耶香は基本的に医師から飲酒を禁じられていて、まああの血液検査の結果を見るだけでも看護師の私だって極力おすすめはしたいとは思わないけれけど、それと夜に1人で外を出歩いて、急に体調が悪くなったり、歩いている間に疲れて動けなくなったりすると周囲に迷惑をかけるからと、特に状態の悪化していた20代の後半は殆ど1人で出掛ける事を、これは禁じられると言うよりは自ら進んではしていなかった。

「真美はそれ、なんて答えたの」

「だから、そこ石田タクシーのアホ息子に乗せて来てもらえばいいじゃんて言ったの。紗耶香はホラ、確かに身体が弱くて、このクソ田舎の縁談市場からは対象外扱いされてたけど、実際あんなに綺麗だったからね、恋愛市場ではまた別。特に幸人が東京に行ってからはエベレスト級の障壁が消えたってことで割と男に声かけられたりしてたよ、石田タクシーの息子なんかさ、紗耶香のことお姫様みたい崇め奉ってたし。だからタダで乗せて貰えばいいじゃんて、アイツなら気が小さいからそのまま国道沿いのラブホに連れ込むなんて真似しないからって」

「へぇ、アイツモテててたんだ、にいちゃんそれ初耳」

恵介が、面白がって合いの手を入れた、何それ私も聞いてないよ。

「そうそう、でもね、紗耶香はそういうの良くないって。あの子はホント奥手で真面目で少し頑固である意味はみ出し者で、アタシ紗耶香のそういう所大好きだった。アタシもホラ、紗耶香とは真逆の方向でこの田舎でははみ出しモンだからね。父親の違う2人の息子の母親で高校も出てないスナックのママ。あの子は病気があって結婚はしないでずっと家。なんか全然毛色が違うんだけどね、でもなんか妙な仲間意識みたいのがあったの。あの子がもういないなんて寂しいな、ちょっと市内まで行けばもっと気の利いた店なんかいくらでもあるのに、この汚い店が好きだって、いっぺん真美ちゃんの店に夜1人で来てハイボール飲んでみたいって、そのタバコって美味しいの?って」

「それだ」

幸人が手帳の文字、ハイボールと、タバコ、それから真美ちゃんのお店を指でなぞった、これだ、やっぱりこれは紗耶香がやりたかった事なんだ。

「そう言えば去年、紗耶香が帰省したら、真美の所に行きたいって、佳月が一緒ならウチの両親も良いよって言うからって、そう言ってた。だからこれは去年の夏にやりたい事だったんだね。あの子、一度22歳だったかな、東京の私の部屋に遊びに来た時にさ、どうしてもお酒飲んでみたいんだって言うから、私、聴診器とパルスオキシメーターと血圧計まで用意して、あの子にカシスオレンジ飲ませてみてさあ、缶入りのやつ買って来て。それでちょっと飲んだら計測、ちょっと飲んだら計測って、ねえもしかしてこれ食物経口負荷試験なんじゃないって、2人で大笑いしたことあるの。あの子、多分少し位は飲んでも平気だったんだろうとは思うけど、あんな飲み方しても面白くなかったんだろうね、真美の店が良かったんだろうな」

「そんなの言ってくれたら、昼間だっていくらでも作ってあげたのに」

「いやーそこは夜に呑んでこそ、でしょ」

恵介は笑いながら焼酎のグラスに口をつけていたけれど、昔から涙もろい真美は、ティッシュで目頭を押さえていた。

「それじゃあこの遠足とかそういうのは、小学校の時に殆ど参加してない遠足に、今更だけど行きたかったのかな、自分の足で」

幸人は遠足と海の文字を指さした。紗耶香は小中で遠足と言えば先生の付き添いか保護者同伴で現地に車で先に到着し、あとから皆が来るのを待つのが常だった。海もそうだ、昔伯父と伯母に連れられて、恵介と紗耶香、葉月と私、あとは幸人も誘って一緒に石川の千里浜に行ったことがある。その日はフェーン現象が起きていて北陸の海は強い日差しと湿気を含んだ熱気に包まれていて、それが紗耶香の体力を奪うからと、折角新調した水着を着ていたのに紗耶香は足を3分海に付けただけで、あとは海の家に伯母とずっと引っ込んでいた。

「なんか、ぶっ倒れてもいいからもっと色々やらしてやればよかったよ」

恵介がそう言って頭を掻いた。生きていれば、それだけでいい訳じゃないからな。そう言ったので私は、恵介それ紗耶香がそのまま言ってたんだよと、そう思ったけれど私は紗耶香の兄である恵介にそれを言ってはいけないような気がしてその事は黙っておいた。

「そしたらさ、この飛行機とかディズニーランドは叶ってる事になるね。一昨年一緒に行ったもんね、紗耶香の体の負担にならないように一番空いてそうな日を選ぶの大変だったけど。それと飛行機もその前の年の帰省の時にみんなで乗ったじゃん、ホラ、俺が出張で飛行機乗って北海道に行ったんだっていったらさ、紗耶香も飛行機に乗ってコーヒー飲みたいって、あの時はもう開通してた北陸新幹線に背を向けてわざわざ小松空港から成田まで乗ったんだよね飛行機。でも結構楽しかったなアレ、沙耶香、あれをまたやりたいって事でここに書いたのかな」

私達、恵介と幸人と真美と私、4人はカウンターの内側と外側で頭を寄せ合って、紗耶香の遺言のような文字列を色々と考察した。焼肉って何、食べに行きたかったのかな、奢ってやりたいとかじゃね、恵介が自由になるようにって、恵介は最高に自由じゃない今、この佳月の部屋のイソウロウって何だろうね、あんな狭い部屋、居たければ一生いてくれてよかったのに、東京で暮らしてみたいって言ってたからなあ紗耶香。

でも私達4人に分からなかったのは

「ニジマスって何」

という事だった。

「食いたいんじゃね」

「いや、紗耶香は川魚苦手だったよ、鮎もイワナも駄目だって」

「ユキよく覚えてるね」

「ホラ、だって俺と佳月と恵介とで夏によく釣りに行ったじゃないか、恵一おじさんが喜ぶから沢山取ろうって意気込んで、あそこの山内林業の山の麓の川に。でも釣果が良ければ良い程、紗耶香は嫌そうな顔するんだよ、お父さんはそういう川のお魚が好きだけど私は嫌いなのにって、だから食べたくはない…でも書いてはあるんだよなあ」

私を含めた4人が首を傾げた時、カウンターの奥にある小さな扉が静かに開いて、玉のれんの向こうから大樹と同じくらいの男の子が出てきた

「母ちゃん、俺の釣り竿しらない?俺明日川行くんだけど大樹とニジマス釣り」

「アンタ、お客さんがいる時にそこからフラフラ出てくんじゃないよ」

「おう、翔太じゃん、寝ろよ、もう」

「あ、紗耶香ちゃんの兄ちゃん」

それは真美の下の方の子だった。翔太という名前で今小学2年生だと言う。翔太は甥の大樹と友達なのだそうだ、今行っている小学校は違うけれど所属しているサッカーチームが同じで、母親同士も知り合いで。

「大樹と釣りか。あのさ翔太、多分だけど大樹、夏休み明けから翔太と同じ小学校に通う事になるぞ」

「ウン、なんかそうなるかもって聞いた。だから、これから夏休みが終わっても毎日遊ぼうぜって」

「アンタ、そう人んちの事情をベラベラ喋んじゃないよ」

私は小声で隣の恵介にそう言うと、恵介の頭を小突き、寝間着のまま私達の前に顔を出して来た人懐っこそうな笑顔の男の子には笑顔で

「大樹ね、暫く山内林業のあの小さい方の家にいるから、また誘いにきてあげてね。ニジマス、沢山連れると良いね、あの山の麓の方の渓流に行くの?」

そう聞いた、この辺りの子はだいたい山の入り口にある橋の真下の渓流で魚釣りをする。

「ウウン、もっと上流の方、山の中の方が沢山連れるんだぞって5年生が」

「えっ…ちょっとアンタ、上流ってまさか山内さんとこの山の中の事言ってんの?駄目よ、誰にそんな事聞いたの、兄ちゃん?ちょっと剛!」

大人の目の届く橋の下の下流ではなく、山の中の上流に行くんだと言った翔太の言葉を受けて真美は自宅に繋がっている奥の扉に向って叫んだ、そうしたら奥から、母親の真美と同じくらい大きさの男の子がバツが悪そうにそーっと出てきて、出てきた瞬間に真美に頭を引っぱたかれていた。

「アンタ、山内さんとこの山には絶対入るなって、去年の夏に散々学校で言われたのに、まさかまだ山ん中、入ってんの?」

「違うよ、言っただけだよ、上流の方が魚が一杯おったって、俺らはもう行ってないって」

「だったら何で2年の翔太が自分達も行くなんて話をしてんのよ、あんたね、今度こそ山の神様に攫われて帰ってこれなくなるよ」

そう言ってもう一発その男の子の頭を叩いた。真美が言うには、去年の夏、山内林業の山の中で迷子になった小学生がいて、その子達は山の奥に入って川で魚釣りをしていたらしい。山は神聖な場所でみだりに女や子どもが立ち寄ってはいけないという文言は、同時に、山は歩き慣れない人間には危険な場所で、特に体力のない女や子どもが迷うと危険だという事だと、それはここで育った私も良く知っている。それでその時は林業組合と消防団と猟友会まで駆り出される町中総出の大捜索になり、幸い迷子の子どもたちは無事に保護され、私有地を荒らされたことになる山内の伯父も、まあ無事だったんだからと特にそれを問題にしたりしなかった、だから

「へー、俺そんな事知らなかったな」

そのころ、形だけの空虚な結婚生活を市内のマンションで送っていた恵介はその事実を知らなかった。

「でもさ、その場所って…その、紗耶香が死んでた場所だよね。子どもってそういうのは怖くないのかな」

幸人も山は怖いところだと、そう言われて育った人間だ。そうしたら真美が突然顔を曇らせた、そして軽く深呼吸してから言いにくそうにこんな事を教えてくれた。

「ウウン、それはアレ、その騒ぎがあって数日後なんだよ、紗耶香が死んだの。あの…あのね、なんか剛が聞かれたらしいの、去年の夏休みの前、この店に昼間届け物しに来てくれた紗耶香に、ニジマスってどこで一番釣れるのって、自分みたいに釣りした事が無い人にも釣れる所ってどこかなって、それ最近になって、ほんとに今更アタシに言い出してさあ」

ホラ、剛、いつ紗耶香に川のこと聞かれたのか言いな、そう促されて真美の上の息子は更にバツが悪そうにしながら

「え…あの7月のさいしょ、七夕の頃かなあ、でも行かない方が良いよって俺言ったよ?紗耶香ちゃんはホラ、釣りなんかした事無いだろうし、身体が弱いからって、危ないよって」

そう教えてくれた。剛という名前の真美の息子は、紗耶香が自分の教えた釣り場で死んでいたと聞いて、きっと何かしら責任を感じ、この1年口をずっとつぐんでいたんだろう、下を向いて怒られるのを覚悟しているように両手をぎゅっと握っていた。

私達は紗耶香の死にちりばめられていたいくつもの点がすべて線で静かに繋がっていくのを感じていた。私は黙って項垂れるその子に何も言えなかったけど、幸人は剛という子の日焼けした顔を覗き込むようにしてに優しく笑い

「そっか、大丈夫、俺達は君を怒らないよ。あれは事故なんだ、君のせいじゃない。教えてくれてありがとう。でも本当に山は危ないからな、むやみに奥に入らない事」

そう言った。剛は少しほっとした顔をして頷いた。

「ウン」

そうか、そういう事なんだ。




紗耶香は、大人になり、多少人の、特に親の目を掻い潜る事を覚え、そして、哀しいけれど身体機能が日々衰えていくことを目の当たりにして、子ども時代に出来なかった事、やり残したことを今やってみようと思い立ったのだと思う。遠足、焼肉、海、その辺は大人になってお金を自分である程度出せるようになった紗耶香には意外と簡単にクリアする事が出来た。でもニジマス釣りは、川釣りについては全くの素人で人より腕力も体力もない紗耶香にはちょっと難しかったのだろう。それにもし昼間、自宅から釣り竿を持って出かけたりしたら流石に両親や近所の人の目につくし、これは同じ年の女である私の推測なんだけれど

「紗耶香みたいな30手前の女が突然釣り竿持って小学生と釣りしてたらあの辺じゃ相当目立つよね」

多少の恥じらいもあったのだと思う。それで、早朝、友達の子どもに聞いた人目につかない秘密の釣り場に出かける事にした。そこで、慣れない山の渓流にの流れに足を取られて、流された。

「完全な事故死だな、何やってんだかアイツは、釣りに行きたいって兄ちゃんに電話したらよかったんだよ」

「きっといちいち何するにも誰かに何かしてもらわないといけないのが嫌だったんだと思う。紗耶香はこっそり川の上流にニジマス釣りに行こうとしたんだね、それかまずは釣り場の確認か」

「ニジマスは紗耶香は食べないけど、恵一おじさんが好きだもんね」

「紗耶香は父ちゃんが好きだったからなあ」

紗耶香は、これはもう本人に聞くは出来ないけど、いつも誰かに何かをしてもらわないといけない人生で、誰かに何かをしてあげたかったのかもしれない。伯父さんが好きな川魚を自分だって釣って来られたんだよって、あの小学生の頃の私達みたいに言いたかったのかもしれない。

でもそれで死んじゃうとかバカじゃないの。


私達は真美にお酒をドンドン注がれてそれを飲んで笑って、笑いながら泣いた。だったらあの夏の日、周りの大人から怒られてもいいから紗耶香を川に連れて行ってやればよかった。もう何を言っても仕方のないことだけど、人生は後悔だらけだね。私が、真美が箱ごとくれたティッシュで鼻をかみながらそう言うと、恵介は

「俺は後悔とか、そういうのやめることにするわ」

そう言った。恵介は何をどうする気なのかは知らないけど。そうするらしい。


☞7

3泊4日の帰省は慌ただしく時間が過ぎ、8月12日の昼に私はまた幸人の車で東京に帰る事になった。

私と幸人と恵介は、あの『ニジマス釣り』の意味を知った日の翌日、山内の伯父に、やっぱり紗耶香は事故死だったんだと思う、あの外見上はガラス細工のお人形みたいで、でも内面的にはゴリラ並みに屈強な精神の持ち主の紗耶香が自分の命を途中で放棄なんかする訳なかったんだよと、あの手帳を読み解いて分かった事実と推測を話した。それで話がニジマスの事に及んだ時、伯父は、突然肩に掛けていた『山内林業』の名前入りのタオルで猛然と顔面を拭き始め、タオルで顔を覆ったままひとことだけ

「ありがとう」

と言った。それが、一体紗耶香への言葉だったのか、私達への言葉だったのか、それは私にはわからなかった。

もしかしたら両方だったのかもしれない。

私達にアイスコーヒーを運んできてくれた伯母は、笑いながらエプロンの端で目尻を拭いていた。こんなに早く逝ってしまうなら、我慢ばっかりさせていないでもっと色々やらせてやればよかったって、そんな後悔ばかりしてた1年だったけど、なんだ意外とあの子、勝手に色々やってたのねと。それから伯母は

「恵介もやりたいようにやればいいのよ、佳月も、幸人君もね」

そうも言った。この伯母は何をどれくらい知っているんだろう。恵介はいつものあの飄々とした感じで、あ、ウン俺は特に最近はほんとに好きにやってるからと言い、幸人は神妙な顔をして頷いていた。



そうして東京に向かう日、既に署名捺印済みの離婚届を手中にして心からせいせいとした顔をしている姉と、新しい小学校で真美の息子の翔太と一緒に遊ぶ事を楽しみにしている大樹、そして結局

「1人で暮らすよりも娘と孫と同居している方が楽しい」

という勝手な結論に達した母に

「体に気をつけなさいよ、あと、それから誰かそういう人ができたら紹介してよ、お母さんに」

そう言われて見送られ、私は離れの玄関を出た。だからさ、そういう人ができてここに連れて来たらお母さん絶対に卒倒するって。という事は多分この先も母に言うことはできないだろう、きっとずっと。

「ウン、じゃあね、今度はお正月かな」

玄関の軒下までついて来た姉と大樹にそう言ってから、坂の下の堂下の家から迎えに来てくれた幸人の車のドアを開けようとした時、母屋から恵介が走って来て、私と幸人を手招きした

「恵介何?私達もう帰るよ、高速混むと嫌だから、もう出たいんだけど」

「あのさあ、俺、この秋から東京なんだよ、それ言うの忘れてた」

「ハァ?県職員で今土木事務所に勤めてる人が何で東京に勤務する事になるのよ」

幸人は車から降り、私は車ドアを開けようとした手を引っ込めて、恵介の手招きする場所に移動して、私達は2人も恵介のよく分からない報告を聞いて首を傾げた。アンタ県の職員でしょうが。

「えーホラあの、アレ、広報ってやつで、県の魅力を都会で広めるとかそういう仕事、離婚してから希望出してたんだけど、なんか向こうでこっちに戻りたいって人とトレードしてもらえることになって」

「県の魅力って何、アンタなんかそういうの分かるの」

「過疎地で土地が安い」

「だめじゃん」

「まあいいじゃん。だからさ、俺、秋から東京だし、移動日詳しく分かったら言うわ。それでまたユキの部屋遊びに行っていい?」

そう言うと、恵介は私の横に立って無表情のまま恵介の話を静かに聞いていた幸人に突然抱きついた。恵介と大体同じ位の身長の幸人は、頭を恵介の肩に乗せるようにして恵介の両腕で肩をしっかりと抱きしめられ、恵介から耳元で何かを告げられていた。幸人はかつての恋人だった男に何を言う訳でもなく

「えっ…ええ…?」

呻くような声を出して、ただただ驚いていた。遠目にはいつもふざけた事ばかりしている恵介が、年下のハトコを相手にまた悪ふざけをしているのだろうと、そんな風に見えたと思う。でもこれはそういう事では無かった。恵介は思い通りにする事にしたのだ、しかも両親の許諾を得て。

初恋というものがゆっくりとそして紆余曲折を経て、10年以上の時を超え成就する瞬間を見てしまった。

何か、凄いムカつく。


心ここにあらず、ほぼ平常心を無くしている幸人の運転は恐ろしくてイヤだと言う私が、高速に乗るまでは運転を代わると言ってハンドルを握って出発した帰り道、私はあの紗耶香が手帳の最後に書いていた呪文のような、それでいて詩のような言葉を思い出していた。紗耶香は、きっとそう長くないと悟った人生の中で一体何を望んでいたんだろう。もしかしたら、人に何かしてあげられる事の少ない人生の中で、必死に隠しているけど実は人とすこし違う、あの里山の中では息ができなくて窒息しかけていた兄や従姉妹やハトコの為に、この世界が静かにひび割れていくことを祈ってくれていたのかもしれない。

「いま、しずかにほろびよ」

私はそれを声に出して言ってみた。でもそれは12年越しの初恋が実ってしまった隣の幸人には全く聞こえていないみたいだった。後部座席には、形見分けとしてもらってきたクマのプーさんのぬいぐるみ。あれは3人でディズニーランドに行った時、私が紗耶香にプレゼントしたものだ。今はもういない、私の初恋の人の形代を乗せて、車はどんどん故郷の里山を離れて行く。

「いま、しずかにほろびよ」

もう一度口にした時、幸人がやっと、えっ、何と私に聞いて来たので私は

「ううん。なんでもない、ユキ、良かったね」

そう言った。

「うん」

12年越しの初恋を実らせた私の幼馴染でハトコは、嬉しそうに私に微笑んだ。

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