見出し画像

四等賞

 子どもの頃、目立つことと、特別扱いがとりわけ苦手でした。

 幸い私自身は大変に健康で、見た目もお勉強も、それから運動なんかも、誰かより飛びぬけてできるという子どもではなかったものですから、その願いは特に問題なく、すんなりと叶えられました。

 でもそれから年を経て自分で産んだ娘が、心臓の機能に障害のある子どもで、普段から酸素ボンベを携帯して暮らしている子だと、そうもいかなくなりました。

 それは、病院と家だけの狭い空間で暮らしていれば特に気にもならなことのだけれど、さあいざ外の世界に飛び出してみると、一般に普通の、健康な人というのは特に医療機器みたいなものを身に着けて生活していたりはしないもので、街中の娘は割と人の目に立つのです。

 2歳くらいから、入退院を繰り返していたせいで人よりちょっと遅れて歩み始めた娘を連れて出かけたスーパーのレジの列で、ダイソーの売り場で「なあなあ、この子、何つけてんのん?」と聞かれたことが結構な回数あったもので、さあいざ幼稚園に入った時、せやから娘にとっては初めての「ふつうの子」ばかりの空間に飛びこんだ時

「何なんあの子、何つけてんのん」

という視線と言葉にこの娘がひどく戸惑ったり、みんなと同じができないことを悲しんだりすることが「まあ、あるやろうなあ」と思っていました。でも、いくら私がこの娘の母親だからと言って、娘の歩く道にある全部の小石をよけておくことはできないし、娘のことをお願いする幼稚園の先生方に

「とにかく、全部まるごとみんなと同じにしてください」

なんてごり押しすることも、そもそも運動に制限のある娘には難しいのだし、これは色々と相談して、そんで周りの人たちに理解してもらって、ある部分は我慢して辛抱してやってゆかねばなるまいよと思っていたのが、去年の入園の頃のことです。

 それがいざ去年の6月、ちょっと遅れて幼稚園の年少組に飛び込んでみたら、小さい子どもっていうものは、そこまで周りを見ていないというのか、自分と他人がどう違うかなんて、あんまり気にしやん生き物なのですね。

 お化けも、妖精も、何ならプリキュアとか仮面ライダーも、全部がフツウに世界に僕と私とともに「エッ、おるんやろ?」と考えているお年頃の彼らは、別に透明のホースを首からシューッと伸ばしてそれを何やら先生の持っているリュックサックにくっつけて、せっせとブロックで何かを作ったり、滑り台にお百度詣りしてんのか、と言いたくなるほどそこに登っては滑り続けているウチの娘を

「あの子は、そういう子やから」

なんて取り立てて気にせず、例えばお友達の進行方向に娘の透明チューブ(カニュラというやつ)がゴールテープみたいに真っ直ぐ伸びていれば、それを蕎麦屋の暖簾みたいに、ひょいっと持ち上げてそれを潜るようになって、そこにあるのやから細かいこととか理由とかそんなんは別にええやないか、俺らは友達やねんからという子どもの感性を、一体大人は何処に置いて来たのやと私はたいへんに驚愕したものでした。それはまあ時折

「何それ、なにつけてんのん?」

と聞く子もありますけれど

「エート、病気」

と、ひとこと言えば

「へー」

で大体終わり。そもそも子どもの疑問というものは1分くらいしか持続しないもので、娘の装備自体がみんなの見慣れた風景になってしまえば、だあれもそんな細かいことは気にしないのでした。

 それから園の先生方、やはり娘を受け入れる当初は、大きな手術を終えて来たばかりで、この先も注意深く経過を見守ることの必要な病気の女の子を預かるのに

「一体、どういう事に気を付けたらよいのでしょう」

と大変に身構えてくださっていたのだけれど、ここの先生方のありがたくも恐ろしいことは、こういう『色々要注意』という子を一旦預かってしまうと、障害のある子の保育や就学にどうしてもおこりがちな

(いや~だって何かあったらタイヘンですから~)

そこにある面倒ごとや心配事を全部潰して無くして結果まっさらで面白くない平地を作ってしまうんやという空気が、ほとんど発生しないことです。幼稚園では、やはり幼児のうちには体をどんどん動かして、五感と世界を調和させましょうというか、まあ単純に体を丈夫にしましょうということで体育の専門の先生が来てくださるのですけれど、それを

「お母さん、どこまでやれますか!やりましょうか!」

という聞き方で、もうできることは何でもやってもらいましょう、だって娘ちゃんとても楽しそうですからと

「何をさせませんか?何をやめさせときます?」

ではなくて

「工夫したら結構色々やれると思うんですよ!」

という考えであること。例えば酸素ボンベに常時繋がれているということは、障害物を潜ったり、トンネルのような大きな筒にもぐったりする動きが、引っかかったり、絡まったりするので難しいのですけれど

「そんなん、私が一緒に匍匐前進したらええだけのハナシですから」

と、酸素ボンべをいつも持ってくださっている補助の先生がうちの子と一緒に低いゴムひもの下を匍匐前進してくれて、私はこの様子を一度授業参観で見たのですけれど

「ウヮー、親でもようやらんことをホンマにどうもスミマセン!」

と思ったものでした。娘のクラスの先生方は

「小さい頃のね、すごく楽しかった思い出っていうのは本当に意外な程、その子のこの先の人生を支えるものなんです」

という、これはこの娘のいちばん上の兄の卒園式で当時は主任だった副園長先生の仰ったことなんですけど、その言葉の通り、みんなのやっている楽しいことはできる限り何でもやらせますという態度と姿勢を貫いておられるのです。

 それだから今年の年中の運動会なんか、マット運動と跳び箱を組み合わせた障害物競争を、娘の『ハンドラー』と言うたら「アンタの娘は犬か!」と人様から怒られそうなことですが、年中児になってから娘の酸素ボンベのホースを扱って半年、すっかり手馴れてきた補助の先生が、まさにハンドラーとしてホースが娘の体に絡まらないように上手に捌いて前転をさせ、そして何と徒競走を完走させてくれました。

 娘は常に補助の先生の帯同が必要になる子なので、クラスで「お並び」、二列に並ぶ時には必ず列の最後になります。そうなるとお並びは背の順なので一緒に並ぶのは背の高い子ばかりになるのですけれど、その子達に混じってそれでも威風堂々ヨーイ・ドン!をしました。

 元々酸素飽和度が酸素を使っていても90%もない子だし、そもそも「走る」こと自体をあまり「やらんといてな」と言われているもので、その姿はフラフラと上肢がぜんぜん安定しない2歳児くらいの走りでしたけれど、それでもたったかたったかなんだかとても楽しそうに走っておりました。

 そして周囲の人たちにも、心臓の病気で、医療機器をつけていて、障害のある子が走っています!という空気は、もしかしたらどこかにあったのかもしれないけれど、私の周りには

「エーあの子何なん?」

という言葉も空気もなくて、というより周囲の親御さんは基本的に可愛い我が子に夢中やし、周囲のお友達はもう一年うちの娘と一緒に過ごしているので「そういうもんやろ」と思っていて、だあれも娘のことを気になんかしていないのでした。

 娘は楽しく数十メートルを笑顔で走り切り順位は4位。ビリでゴールをしました。この時、私が嬉しかったのは娘が

「そもそも、この子は早く走る事なんかできないんだから」

という理由で、先生から下駄を履かせてもらうようなことが一切なかったこと、だからビリ。でも足の遅い子も早い子も、いろいろの事情で早く走れない子もいていいんですよ、ビリも3等も2等も1等もそれぞれ「頑張りました」で拍手をしましょう。副園長先生がそんなことを仰って、そうして今年の運動会は笑顔でおしまい。

 雨の心配されていた秋の一日、おおかたは曇り空で、それでも少しの晴れ間に見えた太陽のひかりに溶けてしまいそうな年中児のみんなは、先生から金メダルを一人一人、首に掛けて貰ってニコニコしていました。

 世の中の解りがたい大体のことを、それぞれが違う個体であるひとりひとりを「でも、俺らは友達やんか」で咀嚼して飲み込んでしまう子どもらと、そういう空気を私のくらす街の、丘の上の小さな幼稚園にずうっと丁寧に作り続けて来た先生達を、私は今年の運動会でほんとうに『尊いなあ』と思ったのでした。


サポートありがとうございます。頂いたサポートは今後の創作のために使わせていただきます。文学フリマに出るのが夢です!