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お祝い(Unexpected survivors6)


人工呼吸器を長期使用している状態、それは患児にとってとてもストレスであると同時に

「喉が浮腫んで来るんよね」

「喉が浮腫む…ですか?」

長時間喉に挿管された挿管チューブによって喉が浮腫んでそれが気道を圧迫し、抜管後に呼吸を阻害する、程度によっては再挿管かそれとも、という危険をはらんでいるものらしい。そういう事を聞くと親はとても焦る、だから内心は

じゃあ抜いてください、今すぐ。

そう思っていた。実際、ICUから小児科PICUに移動してきてからは、覚醒時は人工呼吸器に装着されていても、そのほとんど自発呼吸を主導に出来ていた末娘は、抜管できる状態はほぼ整っていたものの、血圧や脈拍の不安定さがそれに待ったをかけた。もし抜管した後に呼吸状態が悪くなれば再挿管になる、そうなったら辛いのは本人やから。過去、3回の手術の中では一番術後経過の良くない今回、私よりもずっと若い小児循環器医である主治医の言葉はとても慎重だった。

「自発呼吸は、しているだけで偉いんですよ!」

過去、執刀医である小児心臓外科の先生が、大真面目に私に言っていた言葉を思い出す。その時は

全人類を全面的に肯定しすぎでは。

そう思っていたこの一言に、今、心から同意する。心臓を自力で動かし自力で呼吸をする。健康な人間なら何も考えずに出来る本能的でごく当たり前の人体の営みは、実は自然の織りなす奇跡みたいな出来事だ。それを医療の現場、ここが居住地なのかと錯覚する位ずっといる人は良く知っている。

「抜管の時、耳鼻科の先生にも来てもらうし、抜管後即、喉を確認してもらって、それから浮腫の対応にステロイドも使うから」

人工呼吸器の抜管は、PICUに耳鼻科医、臨床工学士、担当看護師を傍らに、主治医が気管支まで差し込まれた管を静かに抜き取り、次いで耳鼻科医が末娘の喉の浮腫の状態を確認、看護師が口元を固定するために幾重にも重ねられて張り付けられていたテープを皮膚用リムーバーを使って綺麗に剥がして後、末娘は人口呼吸器の次のステップである交流量酸素療法・NHFと一酸化窒素吸入療法・INOの補助による完全自発呼吸に切り替わった。術後3週間、末娘はまたひとつ大きな山を越えて、小さな体にずっと背負っていた重たい荷物をひとつ降ろした。

こういう医師看護師その他コメディカルがPICUにぎゅうぎゅうに詰め込まれる処置中、患児を励ます以外には特に何が出来る訳でもない付き添い親はずっと部屋の外で待機することになる。そういう時、私は大体病棟のエントランスに置かれたパステルカラーのソファに座って待つ事にしている。別にPICUの近くであればどこで待っていてもいいのだけれど、このエントランスは病棟入り口、人の出入りのよく見える場所で、例えば顔見知りの看護師さんや、自分の執刀した患児が小児病棟にいる間は朝夕必ず顔を見に来る執刀医も必ずここを通る。ここで待っていればその先生ともひとことふたこと、言葉を交わす事が出来る。

ただこの時は、末娘の担当チームの看護師さんは私の目の前を通り過ぎながら

「あっ!もしかして抜管ですか?」

「今です、今してます」

「ウッソ!ヤッタ!見に行ってきます!」

今丁度末娘の人工呼吸器を抜管していると聞いてPICUに速足で行ってしまうし、その日もいつも通り末娘の創部の状態を見に来てくれた執刀医は私の顔を見て笑顔で挨拶をしながら

「アレ、今何か処置中ですか?」

「今、丁度抜管してます」

「えっ、そうですか!ちょっと僕も見てきます」

先生もPICUの中に駆け込むように向かって行ってしまった。親はその瞬間に立ち会えない代わりに、通りすがりの執刀医と看護師さん達がその名代としてPICUに駆け込んで末娘が3週間ぶりに人工呼吸器を抜管し自発呼吸をする現場に立ち会い、口々に

「よかったねえ」

「おめでとう」

お祝いの言葉を末娘にかけてくれた。手術の日、終了を告げられた時間はもう夜中でしんとした手術室待合には私1人だけ。補助循環装置のECMOを身体から外した土曜日は術室が休日で蛍光灯の明かりのない手術室待合に1人。術後の1週間、開いたままになっていた創部を閉じた日も同じような状況で、それぞれの大きな山を越えた日を全て私が1人で静かに迎えていた今回の術後、こんなに賑やかに回復過程の大きな山を越えたのは初めてだった。

末娘はぼんやりとしながらそれでも、分かっているのかそうでもないのか眼球だけくるくると動かして周囲を見まわし、執刀医が様子を見に来た時にはほんの少し利き手の右手を挙げて手を振るような仕草をしたらしい。そして夕方、本来ならこの日のこの時間は病棟にいない筈のもうひとりの小児循環器医の主治医、外来担当で末娘を足かけ3年診てくれている先生が何故か現場にいて

「よかったなあ、なんか『おっ』て顔して僕の事ジロッて見てたわ」

段々と本来の性格がそのまま目つきに現れている気も目つきも強い末娘が少しだけ戻ってきている様子を見て、フフフと笑って帰って行った。

ここまでの3週間、殆ど意識のないまま仰臥し続けて過ごしたICUでの2週間は流石に記憶にないだろうけれど、その後のぼんやりと半覚醒状態でいたPICUの1週間はこの子にはどんな形で記憶に残るんだろう。喉の奥の気管支までチューブを入れられて、体にはいくつも点滴と、お腹に差し込まれた吸引のためのドレーンとペースメーカの針金、高熱で手足の動きを制限されたままの状態は一切覚えていて欲しくないと思っていたけれど、この日の、皆が口々に「よかったね」と言って末娘の顔を覗き込んだ日の事は、出来たらほんの少しでいいから覚えていて欲しいと思う。

「熱と血圧の高さがまだ心配やけど、3週間寝たきりみたいな生活やったからね、頑張ってリハビリしような。末娘ちゃん、退院したら幼稚園に行くんやで」

抜管の後、早々に病床にやって来た理学療法士の先生は、そう言ってまだ鎮静が抜けきらないままぼんやりと天井を見つめている末娘を励ましてくれた。末娘は3週間鎮静された上で抑制されてベッドの上、看護師さんの手を借りなければ体の向きを変える事も出来ない生活を続けた結果、長く続いている発熱も手伝って、すっかり筋力が弱ってしまっていて1人では座る事もできなくなっていた。

「脚がなんだか細くなってる気がするんですよね…たった3週間でそんな風になるもんですか?」

「なりますね。特に末娘ちゃんは普段は元気に歩き回ってた子ですし、体重減少の影響も勿論ありますけど、寝たきりだと数週間でも筋肉が落ちゃうんですよ」

術後ずっと絶食の点滴栄養、その上で利尿剤を使ってどんどん水分を体外に出している末娘は体重が14㎏から11㎏に落ち、足がすっかり細くなってしまっていた。明日からはリハビリの日々、でも人工呼吸器に繋がれている末娘を漫然と眺めるだけの生活よりはずっといい。私はその日、家に帰ってから末娘の為に買っておいたピアノの鍵盤のついた音の出る絵本をカバンに入れた。まだ起き上がるのはずっと先でも、明日はこれを持って行って手指を一緒に動かそうと思って。



翌日、私が面会開始時間にPICUの少し重たい扉をそっと開けた時、末娘のベッド周りをゴーグルとマスクと術衣を着た医師と看護師数名がとり囲んでいた。今度は一体何ですか。急変?呼吸状態の悪化?もしやアレか、末娘が突如完全復調して鼻から胃に通したNgチューブを自己抜去。

とにかく、何か良くない事が起きたらしいという事は瞬時に分かった。

「あの…何か処置?ですか?」

とりあえず、私は入り口のすぐ近くにいた看護師さんに訊ねた、今日って何か検査とか処置の予定ってありましたっけ。

「あっ!末娘ちゃんのママ、あのね、今から末娘ちゃんCTなんでちょっと待っててもらえます?」

「CT?CTってあの術前に撮影しようにも鎮静が全然効かない末娘が泣いて暴れて結局2回チャレンジする羽目になったあのCTですか?」

「あとMRIもです。また先生からお話があると思いますから、少し待っててくださいね」

看護師さんにそう言われて、私はまた昨日に引き続き、エントランスのソファで待ち続ける事になった。疾患児の親をしているとこういう「ひたすら待つ」時間がとても多い。事の詳細は一切不明でもこれは長くなるだろうなと思った。大体CTやMRIのある放射線部は普段から激混みだし、予約していても果てしなく待つものだから。この日の午前は丁度主治医が不在の日で、末娘がどうして今から階下のCT室とMRIにベッドごと出張しないといけないのか、それを代打の腎臓の専門医の先生が説明してくれた。

「末娘ちゃんね、昨晩深夜に痙攣を2回起こしてます。今朝の血液検査の所見ではそういう痙攣をおこすような状態になる『何か』が見つからなかったんですよ。それで考えられるのはこれまで強い鎮静を使い続けないといけない状態にあったと言う点から鎮静の離脱症状、それかもしくは術後血行が悪い状態が続いて今、正常に戻している過程で起こった脳梗塞か脳出血なんです。それ以外にも原因は色々考えられますが、とにかく今から脳に原因がないかを調べるのにCTとMRIで診てきますから」

離脱症状
脳出血
脳梗塞

どれを聞いても全部やめてと思うものばかりで、特に脳に何か起きたのだとしたら、それは場合によっては不可逆、手術の前とは全然違う状態の末娘を作り上げてしまうのではないかと思うと、なんだかもう

「心臓のオペの術後、もう何でもありやな」

かなりやけくそな気持ちになった。そして今回の術後経過を楽観しすぎていた自分を改めて本当にアホだと思った。

末娘は前回のオペ後から現在までの1年7ヶ月間、風邪をひいて1,2度救急外来にお世話になった事はあったものの、周囲のもっと状態が不安定で緊急性の高い状態で頑張っている子達や、長期入院中の子ども達と比べて末娘があまりにも元気だったので、私は今回のオペ後だってあっという間に元気になって1ヶ月程度で病棟から走って自宅に帰るものだとばかり思っていた。

でもそれはあくまでも疾患児のお友達の間ではという事で、末娘だって実は普通の子よりずっと体の造りが脆弱に出来ている、数値で見れば年中低酸素状態で慢性的に心不全の重度心臓疾患児だ。すっかり忘れていた。疾患のある子どもを育てていると、それが他の親御さんにも起きる事なのかは聞いた事がないので分からないけれど、生活上どんな制限があって何の医療機器を抱えて生きていようと目の前にいる子は家では普通に笑って暮らしているので『普通』が物凄く揺らぐ。

「それでねお母さん、末娘ちゃん、つい昨日人工呼吸器抜管して鎮静も止めたところだけど、CT撮るのに鎮静かけて、それで呼吸がしんどくなっても困るし、もう一度挿管したから」

「はあ?」

CTやMRIの検査では、あの巨大なドーナツの形状をした機械の中で『可能な限り1mmも動くな』という幼児にはかなり厳しい条件を満たす為、普段は大体強い鎮静をかけて眠らせる。今起き上がったり立ち上がったりする事は出来ないものの、両腕をゆっくり動かす事位は出来ている末娘に普段同様強い鎮静を使う事になり、その際に呼吸状態が不安定になる事を考慮して予防的な意味で再度人工呼吸器に繋ぎましたと先生は言った。あのね、今サラリと言わはりましたけどね、それ外すのに術後から昨日まで3週間かかったんですよ先生、昨日やっと外したとこやったんですよ。そんなことを私は流石に言葉にはしなかったけど顔には全部書いてあったと思う。致し方ない事とは言え、この3歩進んだ後に猛スピードで10歩程後退している感じは困る、せめて一進一退程度にしてほしい。

じゃあ後で主治医が戻ってきたら説明に来ると思うから、そう先生は告げて足早に病棟に戻って行き、私はそのまま末娘が1階の検査室から戻って、大体の所見が出るまでの時間、1人で病棟のソファで待ち続ける事になった。いざ看護師さんが呼びに来てくれた時に私の姿がそこに無いと困る、だから一歩も動かない、出来るだけトイレにも行かない。こういう時の為に私の帆布の大きなカバンの中にはいつもチョコレートが入っている。それをあらかた食べつくして、小さなステンレスボトルに淹れてきたお茶もちびちびと全部飲んで、それからどうも今CT室に行った末娘の姉である娘がこっそり入れてくれていたらしい小さなおせんべいも全部食べた。

末娘を乗せた高い柵付きのベッドは、病棟の裏側、職員しか通れない通路にあるエレベーターを使用して階下に移動したらしい、一般用の病棟の出入り口である場所でずっと待っている間、末娘も主治医も私の前を通らなかった。たまに通りかかった病棟の看護師さんと

(まだ?)

(戻っては来てるけどまだ呼ばれないかも)

目くばせで会話する程度、あとは静かに時間だけが過ぎて行った。

それから2時間程待った頃だったと思う。病棟の一般用のエレベーターホールから颯爽と濃紺のスクラブの上に白衣を着たドクターが歩いて来て、ふと顔を上げて見ると、それは普段昼過ぎに末娘の様子を見に来てくれる執刀医の先生だった。そうか、もうそんな時間かと思って目の前を通り過ぎようとしている先生に軽く会釈した。

「末娘ちゃん、中ですか?」

多分戻っては来てると思うんですが、昨晩痙攣をおこしてそれで今日CT室に運ばれてしまった事はご存じですか、と私が言う前に先生は速足で中に入って行って行き、それから15分程度でまたエントランスにいる私の所に引き返して来て

「なんか大変そうな事になってるんですけど、先生脳の事ってわかりますか」

小児の心臓とその周辺の血管の外科治療の専門医である人に質問する私の隣に座ってこう言った。

「今ね、僕もCT画像見せてもらいましたけど、ウーン、詳しい事は内科の方の先生からお聞きになると思うし、僕が今どうこう言うのは良くないんですが、脳じゃないんじゃないかなあ…CTで病理的な所見は見えなかったんですよね。ウン、今回の手術後は本当に色んな事が起きてしまって、ご心配ばかりおかけする結果になって本当に申し訳ないです、でもね、さっき僕が顔を見たらちゃんとこちらを向いてくれましたよ」

そう言ってくれたので私は少し安堵した。そしてこの先生は直ぐになんでも自分のせいみたいな言い方をする。執刀医とはそんなに身に負う責任が大きいものなんだろうか、大体毎日確認に来てくれている創部についても

「もう少し傷が目立ちにくい縫合をしたかったんですが、皮膚状態を考えるとこの形式になってしまって…もしかしたら切開の傷痕の上に白く糸の痕が残るような感じになるかもしれません、一度形成の先生に診ていただきましょう、テープや内服薬とか、今手が打てる事もありますから」

そう言ってひたすら『自分の思い描いていた縫合が出来なかった』事を悔いていた。私はこの人にはもしかしたら娘さんがいるのかもしれないなと思っている。それとこの会話は病棟に移ってから3回はしている。先生、気にしすぎです。オペをすればどんなに綺麗に縫合しても傷痕が残るのは致し方がない事です、それに対しては毎回

「先生大丈夫です、この子が年頃になった時、本人がそれを望めば私が形成外科に大金を突っ込みます、金に糸目はつけません」

そう言って私が無い袖を振って見せている。そしてこの会話の最後、これはあくまで僕の所見でこういう事は小児科の、内科の領分ですからまた主治医の先生のお話しを聞いてくださいねと言った先生が笑顔だったので、そこまで大変な事は起きていないんだと思う事はできた。小児のドクターという人達は皆、子どものお医者さんで、同時に親の精神安定剤みたいな所がある。子どもは先生の顔を見ると心拍と血圧が上がる傾向にあるけれど、親の方のバイタルは安定する。


真打の主治医、小児循環器医の先生が来てくれたのは、執刀医が自分の持ち場に戻って行った数分後。末娘の病院では、小児循環器医という存在が院内では少数精鋭であるが為に、先生は他院の外来も担当して戻ってきたら今日はここで夜勤、とにかく毎日が途轍もなく忙しそうで、今その大きな原因を作っているのは、予想外に術後経過が思わしくない末娘なのだけれど、止まっている所を見た事がない。この時は急ぎすぎて病棟とエントランスの間の自動扉の前の何もないところで躓いた。

「お母さんあのね、末娘ちゃんなんやけど、CT撮って、MRI撮って、今それを画像診断の先生と、神経科の先生に診てもらってるんやわ。それから今日回診があるからここの先生全部に診てもらうし」

主治医は、事が事だけに、慎重にあらゆる方面から助言と所見を貰うと言った。今回の全然有難くも嬉しくもないこの出来事の中で、末娘の運の強さを垣間見たのは、この日が部長回診の日で、小児科の全医師がフロアに集まっていた事。部長回診と言うと少し物々しいけれど、教授とか部長とかの役職の先生から「これは何?」「この子、これどうしたの?」「ちょっとそれ説明して」と質問攻めにあう若いドクター達の心情はともかく、患児とその親には普段着のおじさんがドクタースクラブの若者をぞろぞろ引き連れてベッドサイドに来て

「おっ!かわいいな」
「手術頑張ったね」
「シールあげる、どれがいいかな?」

患児を可愛いとか頑張ったねとか誉めそやして、キャラクターもののシールをひとつ手渡す毎週恒例のイベント。その時に先頭集団を歩く優しいおじさん達、ではなくて小児科の各種専門医にも末娘に出た症状が一体何なのか意見を求めると言う。

「でもなぁ、俺が見たところでは、脳って言っても出血もなさそうやし、ホラ、今末娘ちゃん血圧高いから、それで起きてる高血圧脳症って感じでもないし、もしかしたらずっと高熱が続いてて、この時に急に熱が上がって起きた熱性痙攣か、せん妄、ICU症候群てヤツね、それかもしれへんなって思うんやわ。薬の影響もないかよく調べてみるから、とにかく脳の可能性は薄いと思っといて」

あ、人工呼吸器は15時に抜くから!先生はそう言ってまた駆け足で病棟に引き返していった。今回の術後、患児である末娘もその親である私もなかなか大変だけれど、今はこの先生が一番大変かもしれない。何しろまだ若いし、術後の経過が悪い方向に予想外で、心臓の手術をしたはずなのに、胃から出血したり、腸から出血したり、挙句に脳なのか神経なのか、脳外科か神経科の守備範囲の事で異常が起きている。もう無差別級格闘技の趣。そういえばこの子は後頭部の褥瘡の具合もいまひとつで、またハゲが広がりとうとう形成の先生まで病棟に呼んだのだった。

昨日はやっと人工吸気を抜管して、お誕生日みたいに皆で大喜びし、次の日は痙攣が起きて、各診療科を巻き込んで上を下への大騒ぎ。末娘本人も、検査の為に人工呼吸器を再挿管されて一時輸液をストップさせたり新しい薬を入れたりとすっかりくたびれてしまったらしく、尿量ががくんと落ちて顔が浮腫んでパンパンになり、処置が終ってから何度か呼びかけたけれどあまり反応してはくれなかった。


実はこの日は、末娘と9学年違いの兄である息子の小学校の卒業式だった。

それを父親である夫に任せて、私はこの日も時間通り面会時間に病院に来ていた。

今から丁度3年前の3月、末娘とは6つ違いの姉が病院のすぐ近くの幼稚園を卒園している。当時、末娘は1度目の手術を待ってずっと入院していた私はその付き添い。卒園式は、病棟に無理を言って末娘を数時間PICUに預かって貰って病院から直接幼稚園に駆け付けた。当時まだ6歳でいまよりもずっと甘えん坊だった娘が哀しむと思ったからだ。そうでなくともNICUから転棟して1ヶ月以上手術を待つために付き添い入院をする事になった私が家にいないと寂しがって夜に泣いていてた子の卒園式に、自分が出ないと言う事は考えられなかった。

でも今回、息子はもう6年生で、当日の朝は友達と約束をして最後の通学路を共に歩いて登校し、そして卒業式の後も友達と一緒に歩いて帰るからお父さんが来るならお母さんは来なくてもいいと言う。末娘に何かあったら即呼び出しなんやろ、この前みたいに。

息子の卒業式に出られないなんて母親としては寂しいと思ったけれど、このぶっきらぼうな言い方がこの子の妹への愛みたいな物だと思ってありがたく受け取る事にした。この息子はついこの前のICUから当然呼び出しがあった日の私の狼狽ぶりをよく覚えているのだ。結局この兄の采配が、今回の末娘のこの事態にあって、『検査の同意を得る為に保護者に電話連絡』という看護師さんの手間をひとつ省き、私もその同意書その他医師からの事前説明が必要な検査に親としてちゃんと立ち会う事が出来た。

そんな事を考えながら末娘の人工呼吸器の抜管を待っている時、エントランスから見える面談室の方が何だか騒がしいなと思って見たら、この日、病棟の中にある院内学級でも卒業式が催されていた。市内の小学校の分校である小児病棟内の院内学級では今日1人、小学6年生が卒業したらしい。息子と同じ年の子が、この日の為に用意してもらった真新しいスーツに袖を通して、多分元々在籍していた学校から来てくれたのだろう担任の先生と、院内学級の先生、あとは校長先生か教頭先生か、数名の大人に囲まれて記念品と花束とおめでとうと

「はやく元気になってね」

そんな励ましの言葉を貰って、少しはにかんで笑っていた。

3年前、この病院から直接卒園式に出席した私は、その3年後、末娘の人生3度目の手術の術後の3月半ば、自分の息子の卒業式には参加しないで、間接的に他所のお子さんの卒業式に立ち会っていた。そしてPICUから呼ばれて、浮腫んだ顔で荒い呼吸を続けている末娘と対面、痙攣は使用している抗生剤が原因かもしれないと主治医から言われたものの、日をあけて脳波の検査もしてみると言う。

善い事と悪い事、慶事と杞憂、全部が日替わりで嘘みたいに入れ替わる、本当に人生と言う感じ、それでも

息子、小学校卒業おめでとう。

末娘、人工呼吸器卒業おめでとう。


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