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海にゆく路面電車のこと

『第七波』だなんてヨハネの黙示録による世界の終わりみたいなことのあった夏が過ぎゆこうとしている今、思えば子ども達をひとつもどこにもつれてゆけない夏であった。私達に終末はやってはこなかったけれど、夏は過ぎ行きそれを見送りながらいまは9月の4日。

 本当なら今年の夏は富山の実家に帰省するはずであって、それは丁度7月の末の予定だった。もうずいぶん前から、持病があって24時間酸素の機械につないでおかなくてはならない末の4歳のために小児循環器医である主治医に「旅行サービス支援申込書」という、旅行先で酸素の機械に運んでおいておいてくださいよという書類に一筆を書いてもらっていたのです、それと万が一のことを考えて4歳の服用薬やら治療履歴をみっちりと記した診療情報提供書。
 
 それが、毎日毎日、見たこともない数字に、まったくの未知の状況に膨れ上がって変容してゆく世界にそれまでは、分院と関連病院に感染者の入院を分散させて収容していると聞いていた4歳のかかりつけ大学病院がとうとう本丸である本院を病床として明け渡したのらしいよなど聞いて、これはもう何かあれば洒落にならんのよと、呑気に帰省などして、うちには基礎疾患持ちの幼児がいるのだし、実家には健康だけれどもう後期高齢者になる父親と3次救急病院に勤める姉がある。色々と考えて私は全てを静かに諦めた。

子どもたちの不満な顔よ。

特に末の4歳が産まれるまでは毎年の夏に帰省して、真ん中の妹の生まれた夏には季節の初めから終わりまで2ヶ月をそこで過ごし、実家から見えるみずいろに美しい夏山の姿であるとか、夏野菜の畑の鬱蒼としたトマトの…トマトは樹に生らないのやけれど、トマトの林のみどりを鮮やかに記憶している13歳の息子はたいへんに無念そうだった。悲願の20年ぶりの出場のところが初戦敗退し哀しく甲子園の砂をあつめて泣く高校球児だってこんなに無念の表情で唇をかむやろうかと、ほんまにそんな感じ。

「俺、来年受験なんやで、来年の夏は行けへんやんけ」

 嘆く気持ちは分かるのだけれど、そして申し訳ないなと思うのだけれど、この帰省を何よりも誰よりも楽しみにしていたのは、ちょっとそこまで買いものに行くだけでも、普段の定期健診に大学病院に行くだけでも、重装備である4歳を連れて帰省するのは大変だから、万が一感染などしたらその結果何が起きるのか考えることも恐ろしいからと、5年間帰省どころか旅行もしないで、お泊りをするのは大学病院の小児病棟だけと言う環境で耐えてきたこの母なのだけれどとは、言えない。君らには豊かにうつくしい子ども時代をおくる権利があるのだから。

 もし今年実家の、富山県に帰ることができていたら私は子ども達と、実家からはごく近い場所の、岐阜の山中を源流にして県西部を流れる川の上流にちいさな魚を探して遊ぶつもりだったのだし、この夏に大病をして長患いをして「もう病院ですることはないから」と自宅に戻って最期の時間をすごしていた伯母にまだ一度も見せていない4歳を見せるつもりだった。でもすべてはご破算になりきれいに水の泡。

何より私は、なつかしい路面電車にも乗るつもりだったのに。

 それは昔々、まだ世にシネコン、シネマコンプレックスと言う概念が、どこかにはあったのかもしれないけれど、北陸の田舎町にはそんなもの影も形もなくて「映画を見ましょう」となると、そこは暗室の隙間からくるくるとフィルムを操るひとの姿の見える映写室のある『映画館』であった時代。私がそこに行くためには当時はJRの、現在は夏の北東の風の名のついた鉄道会社のディーゼルに乗り、その後は路面電車乗り変えてそれでずうっとまっすぐ海に向かわなくてはいけないちょっとした小旅行だった。

映画館には私が小学4年生の10歳の夏、母が連れて行ってくれた。

 あの路面電車は当時何という名前だったのかよく覚えていないのだけれど、いろいろの変遷があり歴史があり現在の呼び名は『万葉線』。地元にゆかりの歌人、大伴家持にちなみ日本最古の歌集の名を冠されたその小さな路面電車は、当時の地元のターミナル駅というにはあまりにも牧歌的な、そして昭和的な『ステーションデパート』と大きく書かれた駅が、ガラスと鉄骨でつくられた氷の城であるような現代建築的新駅になった今も、そこからずうっと海に向って走っている。

 地元は大人という大人が総出で働くのが当たり前であるという働き者ばかりのくらす土地で、それは夏休みも特に変わらず。母はお盆休みの時期以外は近くの会社に毎日朝8時すぎに出勤して夕方18時頃まで忙しく働いていたし、父もまた然り。この父という人は団塊の世代とベビー・ブーマーズ、双方にきっちりと合致する年代の生まれで、だからなのかそういう性格なのか子どもというものは

「なんかそこにおるな…」

くらいの認識の人だった。それだから3人の子ども達は夏、昼の弁当を渡されて田舎の薄暗い家の中に一日てきとうに放っておかれていた。でも生まれた時からそうであるのでそれは「まあそういうものか」と私は思っていた。けれど母は北陸の田舎町の家族の中にあってひとりだけ東京育ちで、娘時代は大変に子煩悩だった父であり私の祖父である人に大変に愛されて裕福ではないけれどそれでも豊かな少女時代を過ごした人だったらしい。

小さな商いをやっていた祖父は仕事が早く終わると、今日はもうあそびに行こうかと母を誘いに来たのだそう。

「保谷市から湘南まで車でねえ、それもホラ、今のちゃんとしたミニバンとかワゴンそういうのではないの、ミゼットってわかる?本当に小さい配達用の車に私と伯母さんをねえ、乗せて連れて行ってくれるわけなのよ」

昭和30年代のひねもすのたりの湘南の海に貝を拾いに娘達を連れ出してくれるような人であったらしい。らしいというのはこの祖父は50を前に亡くなっていて私はあったことが無いもので。そして「ミゼット」というのは一体何なんやろと昔のスバルみたいなかいらしい車かしらんと思い調べたら、それは軽自動車ですらなくて、なんだかとぼけた風合いの三輪自動車だった。これで本当に行ったのやろか保谷から湘南に。

 ともかく母は、祖父の手が空けばあちこちに連れ出してもらうことが常であったのらしい。春の湘南、夏の鎌倉、秋の高尾山、「買うようなものもなかったのだけど」歳末大売り出しの新宿伊勢丹、ついでに浅草の花やしき。何を言わなくてもどこにでも父親が連れ出してくれる、そういう少女時代を過ごした人なもので、折角の夏休みに自分の子ども達がたいくつな自宅にころころと転がっているだけの姿をかわいそうだなあと思ったのらしい。ある夏の朝、今日は会社をお休みするから映画に行こうと突然言い出して私達きょうだいを町に連れ出してくれた。

 映画は、「となりのトトロ」だったと思う。

 その時に乗った路面電車は現在の万葉線だった。あの時ずうっと海に向って走ったあの電車の一体どの駅で降りたものか映画館は、どこにあったのか全然記憶にない。その数年後、地元にはいくつも巨大なショッピングセンターが水田の中の要塞の如くに建設されて、その中にはこまごまと沢山シアターのあるシネマコンプレックスというものができた。きっとあの海の近くの小さな映画館は跡形もないだろうな。

仄暗いロビーの売店に売っていたポップコーンのセロハン袋、あんまり売れないパンフレット、朴訥としたもぎりのアルバイトの青年、栓抜きのついたスプライトの自動販売機(というものを11歳の娘にはついぞ理解してもらえなかった)。
 
 あの時の母がどうしてあんなに、毎日目が回るほどに忙しい中、別に本人は見たくもないアニメ映画に私達を片道1時間もかけて連れ出してくれたのかは、奇しくも母とおなじ3人の子の親になった今なら本当によく分かるのだけれど。でも当時の私はジブリのアニメがどういうものか知らへんし、それが楽しみで嬉しいことなのかどうかもよく分からなかった。

 ただ路面電車が駅前の車で混雑する道路を真っ直ぐに抜け、海に向かう窓の外を遠く眺めて、太陽の反射する海光のずうっと先にある海と空の境目はなんだかとても見分けがつきにくいものだなと、不思議だなあと思っただけだった。

それを、44歳になった自分と自分の3人の子ども達と一緒に見たかったのだけれど。

 でもそれは来年の楽しみにしようねと、そういう話をして今年の夏はもうおしまい。海を知らない4歳のために両手を広げて何度も何度もそれを説明した夏、忍耐と練達という言葉のもとに私は3人の子ども達をこの夏一度も病院送りにすることはなく風邪をひかせることもなく無事にすべての夏を店じまい。

9月にはまた4歳の2週間の入院が待っている。

音もなく過ぎゆく夏には今年、ひとつだけ善いできごとであったガリガリ君の当たり棒を捧げます。

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