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さよなら、サカイさん。

学生の頃から知っている人が亡くなってしまった。

それは、立春をほんの少し過ぎた頃のこと、春の気配も足音も聞こえない2月の寒い晩に、その人は自宅の洗面所で倒れてそのまま帰らぬ人になったのだと言う。

享年52歳。

同年代というにはやや年上ではあるけれど、それでも10歳は違わないその人が亡くなったと聞いた時

「ああ、私もとうとう知人友人を亡くす歳になったんだなあ」

私はもう20年ほど前から知っている筈のその人の突然の死を悼むとともに、健康な人も、ちゃんと成人して仕事をして生きていた人も死んだりするものなのだなあと、そんな当たり前のことにとても驚いてちょっとぼんやりしてしまった。

それは私がこの4年程の間に、心臓病のある娘の関係で知り合った子ども達の中で、例えば1歳とか2歳とか4歳のまだ年端もゆかない子ども達が、生まれつきいろいろの問題のある身体と臓器では自らの命を支え続ける事ができずに、退院すら許されずに、埋もれ火の消えるようにして静かに世界から去ってゆく様をいくつも見て来たからだと思う。

大人も、死ぬのか。

当たり前か。



「温泉に行きてえなあ」

というのがその人の口癖で、あの頃、私が学生で21だか22だったからその人は30歳を少し超えた所だったのか、何しろ正確な年齢を亡くなってから知ったもので、あの頃はその人のことをもっとずっと大人だと思っていた。仮にサカイさんという事にするけれど、そのサカイさんを当時の私はそんなに若いなんて思っていなかったのだ。

もっと、おじさんだと思っていた。

それと言うのもサカイさんは、当時既にサカイさんとは同じ歳の妻との間に小学生の男の子がひとりいるパパで、学生の私からすれば完全なる大人だったからだ。

当時私は学生で、同時にホテルの宴会場でひたすら皿を運び水割りを作り、宴会が終れば撤収する、そういうアルバイトの人だったのだけれど、いつものバイト先ではない、時たま季節労働的にヘルプに行っていたホテルの厨房の『ストーブ前』、火を使う事のできる身分のコックをしてたのがサカイさんだった。

料理人の世界っちゅうのはなあ、下積みがどちゃクソ長いんやぞ、生半可な気持ちではやられへんねやぞ、根性とウデのあるヤツだけが生き残るんやぞと言っていたのは他ならぬサカイさんだったような気がする。

とにかくサカイさんは自称ではあるものの『腕の良い料理人』であって、ホテルの厨房のコックさんというものは私が知る限り皆気が荒く、語気も荒く、アルバイトの学生なんか虫か何かのように足蹴にするのが通例であるのに、サカイさんは普段からひとつも声を荒げること無く優しくて、時たま

「おつかれ、これ余ったからやるわ」

と言って宴会場を撤収する時、コース料理の最後にデミタスカップの横についてくる小さなお菓子、チョコレートだとか小さなタルトを紙ナフキンにくるりと包んで投げてよこしたりしてくれるので、私と同じようなアルバイトの学生は皆サカイさんが好きだった。

大体結婚式でも会合でもパーティでも、宴会場に料理を運ぶ時には必ず皿の仕上げをするコックさんが数名、料理を乗せた巨大なエレクターとかウォーマーと共にやってくるのだけれど、その時にサカイさんが来ると皆ホッとしたものだった。

(おっ、今日は怒鳴られずに済むし、オヤツが貰えるかも)

それでどういう訳か、私と仲良くしていた数名の学生の女の子とか男の子、大体帰る方向が同じ子達がサカイさんと仲良くなり、その仲間達で時たま仕事終わりにその辺で飲んだり喋ったり、放課後の小学生が寄り道して買い食いするような小さな宴会をするようになった、みんなお金が無いから大体外だ。そこでサカイさんが早くに結婚していて、製菓のお仕事をしていた美人の奥さんともうすぐ小学生になる男の子があることを知ったのだった。それで子どももあるし、奥さんも本格的に仕事に復帰したいと言っているし何より

「この仕事しとったら、盆暮正月家に帰られへん」

帰ったら「パパ久しぶりー」いうて子どもが言いよるねん、俺は哀しい、それだやからいずれは独立して自分の店をやるのだとサカイさんは言っていた。それにホテルの厨房でトップに上り詰めるのは一握り、やはり並大抵の事ではないのだそうだ。

当時の私は『そんな子どもに会いたいのなら、こんな時間だけは潤沢にある暇な学生と仕事帰りに発泡酒など飲んでいないでまずは早々に帰宅したらいいのに』と思ったけれど、そしてそれをもう少し婉曲に口に出してみたけれどサカイさんは

「痛いとこ突くなあ」

と言って笑うばかりで、今3人の子持ちになった43歳の自分であれば、この当時30歳の年若い父親の鳩尾に蹴りの1発も入れて自宅に強制送還したのだろうけど、その時はまだ子どもどころか、結婚どころか、就職もしていない

(一体自分はこの先何になるのだろう、何ができるのだろう)

そういう漠然とした不安だけを抱えている何もできない何も知らない22歳だったもので、ふうん、そういうものかな、と思っていた。

良くも悪くも職人気質で男らしく、殴る蹴る怒鳴るは当たり前の世界で末端のアルバイトにすら優しいサカイさんの存在は奇跡みたいなもので、ただ単に外面のいい人だったというだけでは片付けられない、本当にとても優しい人だったのだと思う。後輩を怒鳴りつけている姿だって見たことがない。

だから気疲れする日もあったのだろう、何のしがらみも無い呑気な学生と飲むのはサカイさんにとって生活の緩衝材みたいなものだったのかもしれない。

実際に、殺伐とした現場にあってもサカイさんは本当に穏やかというか、下の子に優しくて、あれは私達サービスの人間が裏をこまねずみみたいに走り回っていた日だったから、ディナーショーとか、そんな大規模な宴会のある日だったと思う。料理の乗った皿をいくつかひっくり返したとかその手の、本来なら処刑モノの失敗をした若いコックにサカイさんは、怒鳴ったり勿論殴ったりせずただ

「慌てんでもええねん、オマエが今できることを丁寧にやれ」

そう言って諭していた。

「良い人だな」と思った。

それでこういうええ人は、いずれちゃんと夢を叶えて、お店を持って、奥さんと息子さんと末永く幸せに暮らすものだろうと私は思っていた。

お金が貯まったら仕事をやめて、ちょっとしばらくの間休んで、いつも口癖みたいに行きたいと言っていた温泉に行って、それからお店をやらはるのやろなと私は思っていた。

思っていたのだけれど。

 

私が4回生の時だ。サカイさんの奥さん、妻である人が急に亡くなったのだ。

サカイさんの手元に残されたのは当時小学1年生の男の子。

未亡人の対義語は何と言うのだろう、『男やもめ』と言う言葉は知っているのだけれど。

妻を亡くしたサカイさんは息子さんを連れて『転職する』と言った。今の、ホテルの厨房の勤務では小学生は育てられないし、事情があってどちらかの親に息子を頼むことはできない、と言うよりそういうことは絶対にしたくない、サカイさんはそう言っていた。

親ひとりで、双方のどうやら存命中らしい祖父母を一切頼らず、いや『頼れず』だったのだろうな、それで子どもを1人で育てるために血反吐を吐くような思いで築いて来たこれまでのキャリアを全部捨てるということが一体どういう覚悟であるのかということが、そのことの持つ意味というものが当時の私にはわからなかった。あれが彼にとって大変な決断だったということを私が理解したのは、ずっと後のことだ。

サカイさんは「知り合いがおって、その人の家族が頼れと言うてくれとるから」ということで関西の北の温泉のある町に引っ越して行った。言霊というのは恐ろしいものでサカイさんは、毎日へとへとになって働いていた己を慰労したいなあと口癖のように

「温泉にいきてえなあ」

と言っていた夢を、あまり良くない意味で叶えてしまったのだ。

サカイさんが京都を離れる数日前、サカイさんに仲良くしてもらっていたアルバイトの仲間が集まったささやかな餞別の席で、引っ越しの荷物をまとめた段ボールをテーブルにして私と友人達はサカイさんの息子さんとウノをして遊びながら。

「温泉に入れますねえ」

と呑気にそう言ったらサカイさんは

「あんまり温泉温泉て言いすぎたんやろなあ」

そう言って笑っていた。そのサカイさんが

「そのうち遊びに来たらええぞ」

と言ってくれて、私も

「就職できたら行きます」

と言っていたのに、私が就職できたのは25歳の時で、その時には当時のアルバイトの友達は立派な社会人、時は就職氷河期のど真ん中、私は

『大学院を出て無職』

文系の院生にありがちな恐怖の末路を想像しては背中に冷や汗をかきながら仕事を探し、何とか掴んだブラックな就職先で、「前月対比120%」とかその手の数字に怯え、3日に1回は終電を逃しながら、しかしここを逃せばこのご時勢、私のようなものに次の仕事なんかあるものかと歯を食いしばり、サカイさんが

「慌てんでもええねん、オマエが今できることを丁寧にやれ」

と言っていたあの言葉を時々、思い出したりしていた。

思えば偉大な人だった。やっと就職した当時25歳の私の年齢の頃には既に子どもがいて立派に仕事をこなし、誰にでも優しくて、そして30そこそこで妻と死別した時、決して一人息子を手放さなかった。

サカイさんとは人を介して時折その消息を聴いたりしてはいたものの、ここ数年は彼が一体どうしているのか、私がサカイさんを忘れていたように、サカイさんもきっと京都のホテルに居た頃にちょっと仲良くしていた学生のひとりの事なんかすっかり忘れていたと思う。

 

それでも訃報というものは届くものだ。

当時の友人でひとりだけ、ごくたまに連絡を取る人がいて、その人もまた私と同じようにまだ手のかかる小学生を育てているママなのだけれど、結婚して今居住している彼女の地元でもある町が偶然サカイさんがあの時、息子さんの手を引いて引っ越して行った温泉の町で、それで彼が突然亡くなったことを私に知らせてくれたのだった。

サカイさんはあの後、大きな旅館の厨房で数年働き、ほどなくして旅館の近くで独立して自分のお店を持ったのらしい。

独立して店を持つのだという夢は、息子さんと過ごす時間をできるだけ長く持ちたいから自営をやりたいと言っていたあの夢は叶っていた。

『奥さんと一緒に』という点は除いて。

それを私はサカイさんが亡くなってから知った。

それならあの町に引っ越しす直前のあの日、私と一緒にウノをして勝ち抜けして大喜びしていたあの子は今どんなに淋しいだろうかと、そう思った。

お母さんも、お父さんも、ふたりとも亡くすだなんて。

私は今自分の手元にある12歳と、10歳と、4歳の我が子の事を考えた。今、私が死んでこの子達が遺されたら。

友人は家が近所やから、お悔やみにも行ったよ、こういう時代だからあんまり大きなお葬式じゃないんだけれどと、現在のこの世情がサカイさんの野辺送りを少し寂しいものにしてしまったのだと言うことを私に伝えながら、もうひとつ

「あん時のあの子さ、今もう27だか28?で喪主やってんで」

「えっ?27?」

ウノを一緒にやって遊んだあの子が既に成人していて結婚すらしていることを教えてくれたのだった。うそやん、あの子もうそんな大人になったん?それもそうか、あれからもう20年近く経っているのだから。

当たり前の世の理ではあるけれど人は歳を取り、いずれ死ぬ。

サカイさんの52歳は流石に早すぎるけれど、そして突然の訃報とは存外寂しいものではあるのだけれど、私はその寂しさを感知すると同時に、遺されたあの子がちゃんと立派に成長し大人になっているのだということに驚き、安堵していた。

同世代と言っていい歳の人が亡くなる年齢になってしまった春芽吹く直前の2月、私はやはりその人の死が寂しい。

でもそれはここ数年、何度もそれを聞いては涙してきた小さな子どもの死の時の寂寥とはまた違う感じ。

「お疲れ様でした」

彼の優しい生涯を慰労し讃える気持ちが、その寂寥にぴったりと寄り添っている感じがする。

「慌てんでもええねん、オマエが今できることを丁寧にやれ」

あれ、サカイさんの私への遺言ということにしておこう。

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