短編小説:みどりの魔女
1
魔女は、俺達の通っていた小学校から山に向かって伸びる真っ直ぐな道を15分ほど歩いて辿り着く山の入り口のすぐ近く、登山道の脇の小道の突き当りのまるで人間が訪ねてくることを拒むように建てられた古い屋敷に、ずっと昔から住んでいた。
夏の朝にはいつも濃い霧の立ちこめるその土地は栗の産地で、屋敷にも栗の木が何本も大きく育ち、鬱蒼とした深い森のようになっていた。
その森と屋敷をぐるりと囲むヤマモモの生垣の隙間から時折垣間見える屋敷のあるじのひとりは、髪が雪のように真っ白で、瞳は森と同じ深い緑色、年中黒いレースのワンピースを纏っていた。そしてもうひとりの方は瞳の色は黒く、髪は黒髪に白髪の幾分か混ざった灰色で、時々飼っている黒猫を抱いて庭を散策していた。
いつの頃からか、町の子ども達は屋敷のあるじを『みどりの魔女』と呼ぶようになった。その『みどり』というのが魔女の瞳の色から来ているのか、それともその深い森のような庭のことを指しているのか、もしくはそのその両方なのか、それはよく分からない。
とにかくその屋敷には2人の住人と猫がいて、2人と1匹でその広大な屋敷に暮らしていた。
「ふたりとも、100歳くらいに見えたぜ」
「ひとりは目ん玉がガラス瓶みたいな緑色でさ、なんかすげえ怖いんだ」
「デッカイ黒猫がいるんだけど、超凶暴、あれヤバイよ」
一度、肝試しだと言ってみどりの魔女の家を覗きに行ったらしい同級生達は、魔女の屋敷の生垣の隙間に首を突っ込んだとたん巨大な黒猫がアタマの上にドスンと飛び乗って来たのだそうで、3人のうちのひとりは鼻の頭を引っかかれてその時の爪痕がいつまでも残っていた。
そんな物見高い子ども達が時折肝試しにやってくる以外は、人の出入りの殆どないように見えるみどりの魔女の屋敷に俺がひとりで足を踏み入れたのは、丁度季節が梅雨から夏に移り変わろうとしていた6月の終わりのことだった。
広大な屋敷の庭の栗の木に、ハルゼミに代わって少し気の早いアブラゼミがジイジイと鳴いていた。
「そうか、もう夏なんだ…」
何となく呟いた後、魔女の屋敷の外壁いちめんに這う蔦の絡まった玄関の呼び鈴を鳴らすのに俺は(やっぱ帰ろうかな…)なんて10回以上考えて、3回くらい回れ右をして、そうしてやっと決心して人差し指にぐっと力を入れてそれを押すとこんどは「びー!」だなんて、全く情緒ってもののない大きな音があたりに響き、俺は思わず「ウェッ?」ってなんだかヘンな声が出た。
でも、そんな俺の奇声なんかひとつも気にせずアブラセミは栗の木の上でジイジイ鳴き続けているし、そのまましばらく玄関の前でじっと待ってみても目の前のドアはシンとして微かな音もしなければ、人の気配もないし、声も聞こえない。なにしろ相手は魔女だ、外からの来訪者を拒んでいるのかもしれない。
「…結界があるのかもしれないよなァ」
俺がそんなことをまたぽつりと呟いた時、屋敷の奥からカサカサと微かに乾いた衣擦れの音と、ギィ…とひどく軋んだ音が同時に聞こえて、玄関のドアがほんの少しだけ開いた。
「なんだい、この前の悪ガキどもとはまた違う子だね、あたしたちに何の用だい?」
ドアの隙間からその大きな瞳で僕のことをぎょろりと魔女が睨みつけた時、俺はその吸い込まれるような緑色に思わず後ずさりして玄関の階段を踏み外し、玄関のアプローチに点々と置かれた敷石に結構な強さで後頭部を打ち付けてしまった。
その時に仰ぎ見た木々の隙間の空が本当にあんまりに青くて、俺は俺が死んだのかと思った。
「別に…そんなに驚かなくたっていいじゃないか」
魔女は少し困ったような、でもかなり機嫌の悪そうな声と表情でそう言うと、敷石の上でアタマを抱えて呻いていた俺を抱き起し「冷やさないと大きいタンコブができちゃうね」と言いながら屋敷の奥に俺を連れて行った。俺は屋敷の奥にまで入り込む予定はなかったんだけど、これはちょっと、なんていうか不可抗力ってやつだ。
とにかく魔女は、屋敷の一番奥の広間に俺を連れてゆき、その部屋の窓辺に置かれた大きな応接セットの猫足の大きなソファに俺を座らせると、今度は奥のキッチンらしい場所からもうひとりの魔女が切子の細長いグラスを銀盆にのせて運んできた。
「レモネード、お嫌いじゃあないかしら」
そう言ってもうひとりの魔女が微笑んだので、レモネードが一体どういうものなのかよく分からなかった俺は「多分」と小さな声で答えた。そうしたら「よかったわ」って魔女はにっこりと微笑んだ。どうやらもう1人の魔女は気性の優しい魔女らしい。普段あまり陽にあたっていないのか、それとも元々なのか肌が透けるように白くて、庭仕事と畑仕事で年中日焼けをしているこの辺りの元気なおばあちゃん達とは、随分と感じが違った。
(あっちがみどりの魔女なら、こっちは白い魔女だな…)
レモネードのグラスについた水滴を見つめながら俺がそんなことを考えていたら、白い魔女はみどりの瞳の魔女にむかって、少し怒ったような顔でこう言った。
「あなたがいけないと思うわ、いらっしゃいも、ようこそも言わないで、その上そんな不機嫌そうなお顔で『何か用かい』だなんて」
「あたしはもともとこういう『お顔』なんだよ。第一ウチの前に『どなたもどうかお入りください。決してご遠慮はありません』なんて童話みたいな看板出してる訳じゃなし、頼んでもないのにこの子が勝手に家に来たんじゃないか、それをなんであたしの方から愛想良くしてやる必要があるのさ」
「あら私は、お客様はどなたでも嬉しいわ。ここ何年かで、猫のお友達も人間のお友達も、みんな立て続けに天国に行ってしまって、すっかりあたし達ふたりきりになってしまったんだもの。それなのにあなたったらこの前も、そこの垣根からウチを覗いていた男の子達にルドルフをけしかけたりして、ホントにもう…」
「人様の家を面白半分に覗くような悪ガキには天罰が下るんだよ。それに生き物は年を取れば死ぬもんさ、別になんにも不思議じゃないよ」
怖い方の魔女はそう言うと、とりどりの布が縫い合わされて宇宙のような模様を作っている布のかかった一人掛けソファから立ち上がって窓の外を眺めた、そして僕とは目を合わせず「驚かして、悪かったね」と、なんだか不貞腐れているような顔で俺に言った。
「あ、いえ、その、ちょっとタンコブができただけだし、別に」
大丈夫。
俺がそう言いかけた時、白い魔女が今度はブドウの模様の銀器に焼き菓子を乗せて持って来た。バターとレモンのいい香りがする、これは魔女がふたりで焼いたんだって。白い魔女は柔らかな光を宿した黒い瞳をまっすぐ俺に向けると、今度もまたとても感じよくそしてうんと上品に微笑んだ。
「それであなた、一体どうしてうちにいらしたの?私達になにか御用だったのかしら」
「あの…ええと、俺、聞きたいことっていうか、頼みがあって…」
「私達に?まあ、何かしら?」
「えっと、まずさっき、そっちの魔…じゃなくって、あのひとが『生き物は年を取れば死ぬ』って言ってたけどさ、そうじゃない場合は、なんで?」
俺はうっかり『そっちの魔女』と言いかけて、慌ててその言葉を喉の奥に引っ込めた。
「なんだい藪から棒に」
「たとえば俺今12歳なんだけど、俺と同じ年のヤツだって死ぬことがあるだろ、それって一体なんでなの、神様の作ったプログラムのバグとか?そういう仕様だったってこと?だったらさ…」
「バグだか仕様だか知らないけどね、人間も猫も持って生まれた持ち時間ってものがあるからね、それが終れば肉体なんてこの世で使うだけの器は消えてなくなるもんなんだよ」
魔女は窓の外から目を離さず、そして相変わらず不機嫌そうな顔でそう答えた。生き物がこの世にいられる時間は、産まれた時からあらかじめ決められているんだって。
「でもそれってあんまり理不尽だろ、ギネスブックなんかには120歳くらいまで生きた人間もいるって書いてあるのに、子どものうちに死ぬ子がいるなんてさ」
「仕様が無いだろ、生き物ってのはね、いや…生き物の体っていうのはね、神様のくださった時間分しか、この世で使うことができないんだよ」
「そんなの、不公平だよ…」
そこまで言うと、俺は言葉に詰まってしまった。というより色んな感情が頭の中で渋滞して次の言葉が出てこなかったんだ。すると、庭に面した大きなガラス窓から外の栗の木の天辺のあたりをじっと見ていたみどりの魔女はくるりと体ごと俺の方に向き直り、俺の目の奥の更に奥の方を真っ直ぐに見て言った。
「あんた、名前は?」
「えっと、カイ、海って書いてカイ」
「そうかい、じゃあカイ、アンタ死んだ人間に会いたいと思ってここに来たのかい?だったらお門違いもいいとこだ、交霊術なんてのはインチキ霊媒師のお仕事さ」
「違う、まだ生きてるよ、でも期限が迫ってる。だからアイツを俺の命と引き換えに生かしてほしいんだ。俺なんかがこの世で生きてくより、アイツが生き続ける方がずーっと価値があるんだ。ねえお願いだよ、俺の心臓をアイツにあげてよ」
「何を言ってんだろうねこの子は、そんなことなおさらできない相談だよ、あたしは神様じゃないんだ」
「でも、アンタ魔女なんだろ?」
俺は両手の拳を握りしめて勢いよく革のソファから立ち上がって叫んだ。アンタが魔女ならそれくらいのこと簡単にできるだろって。そうすると、僕の隣に座っていた白い魔女が僕の腕にそっと触れて、そしてこれ以上優しい声なんかないだろうってくらい、優しい声でこう言った。
「カイ君は、神様がそのお友達にお与えになった運命が、許せないのね」
「許せないっていうかさ、だっておかしいよ」
「そうね、神様が私たち人間ひとりひとりにお与えになる運命って時々とても意地の悪い、辛いものに思えるのもね。カイ君はそのお友達を…ええと何てお名前のお友達なのかしら」
「リク、陸上競技の陸って書いて、リク」
「リク君って言うの、とてもすてきなお名前ね」
「それだけじゃないよ、性格も良くてさ、頭もいいし、とにかく全部がいい奴なんだ、アイツは死ぬべきなんかじゃないんだよ、そんなの間違ってる」
「そう、カイ君はリク君のことをとても好きなのね」
そうだよ、と言いかけて俺は口をつぐんだ。
(リクのことは『ただ好き』だなんてそんな簡単なことじゃないんだ、この世の誰よりも大切なヤツなんだよ)
そう言いたかったけど、じゃあそれを一体どんな言葉で伝えたらいいのか、それがわからなくて俺はただ静かに頷いた。
「カイとリクかい、ニコイチってヤツだね」
みどりの魔女は、フフフと笑った。天井がとても高くてまるで映画のセットのようにも見える広間の片隅には、つやつやとした黒い石を詰み上げてできた壁を背にして年代物の薪ストーブが置かれていた。夏は使われていないストーブの囲いの内側で、白い魔女がルドルフと呼んでいた黒猫がこの屋敷の闖入者である俺をその金色の瞳で微動だにせずに、じっと見つめていた。
2
「それ、ハシバミ色って言うんだよ、英語だとhazel colorって言うんだ。キレイだなあ、僕初めて見たよ」
俺が大嫌いだった俺の瞳の色を見て、それはどうしてそんな色なのか、オマエはいったいぜんたい何人なのか、言葉はわかるのか、そういうことを一切聞かずにただ
「キレイだね!」
と言って笑ってくれたヤツはリクが初めてだった。
そうして、光の加減によって薄い茶色にも、橙色にも、時には薄い緑色にも見える、ホントのところは何色なのか俺にもよくわからない瞳の色を、稀少なものだし何より素敵な色だと言って、hazelの綴りを教えてくれたのもリクだ。
俺はその場でリクと友達になろうと決めた。
だから俺はリクにいろんなことを聞いた。どうしてそんな「ヘーゼルナントカ」なんて英語がわかるんだとか、家はどのへんなんだとか、元々こっちの子なのかとか、何色が好きかとか、犬と猫ならどっちが好きかとか、あと嫌いな食べ物はなんだとか、とにかく、たくさん。
「そんなにいっぺんに聞かないでよ」
リクはそう言ってちょっと困った顔で笑ったけど、俺の質問にちゃんと答えてくれた。
お母さんが中学校の英語の先生をしていた人で、英語は家でお母さんから習ってるんだってこと、家は小学校から車で10分ほどの山の中にあって、リクが産まれたのは東京、ここへは小3の時にお父さんが勤め先を変えて引っ越してきた(リクのお父さんはお医者さんだ)、好きな色はこのあたり一帯の森と同じ深緑色、家でシロクマみたいな犬を飼っているからダンゼン犬派で、そいつの名前はニコルって言って、嫌いな食べ物はネギとピーマンとみょうが。
俺はリクのことならどんな些細なことも知りたいと思ったし、それが友達になりたいってことなんだと思って、出会ったその場で「友達になろうぜ」って自分からリクに伝えた、そんなことをしたのはこれまでの俺の人生の中で、多分初めてのことだ。
夏の空気がとても清涼で、その時期は避暑地として賑わうけどその分冬の寒さのとりわけ厳しいこの土地に引っ越してくる以前、俺は何度も引っ越しをしては、そのたびに転校するっていう根無し草みたいな生活をしていた。
俺の記憶にある範囲だと、ひとつの場所にいられたのは長くて1年、最短だと2ヶ月だ。毎回荷物をほどいている暇もないくらいの短期間で引っ越しをしていた。そしてどこの町のどの学校に行っても転校初日にまず「何人?」「どこから来たの?」「日本語わかる?」と、同級生から質問攻めにあった。
俺は、それが本当に嫌だった。
だって、俺が「日本人だよ、言葉だってちゃんとわかる」と言うと、今度は「へー、日本語わかるんだ、じゃあ逆に英語とかできんの?」と聞いてくるんだ。それで「日本語しか分からない、英語もフランス語もドイツ語もスワヒリ語もタガログ語も分からない」って険しい顔で答えると、次にみんなは大体こう言う。
「フーンへんなの、だってハーフなんだろ」
「別にヘンじゃない、大体ハーフってなんだよ、俺は半分じゃない、俺は俺ひとりで完全体だ、オマエこそ訳わかんないこと言うな」
ムスッとした顔で相手に視線もやらず俺がそう答えると、大体は「なんだよ、感じ悪いヤツ」なんて言って、みんなつまらなそうな顔で俺の周りからサーっと離れていく。でもこれがちょっと気が強くて喧嘩も強い、所謂ジャイアンみたいなやつが相手だとハナシがややこしくなった。
そういう奴は大抵俺みたいな愛想の悪い転校生がキライだ。他所からきたヤツが下手に出るべきだって思ってる、愛想笑いしながら「どうぞよろしくお願いします」って言えよって思っているんだ。そして俺はそういう尊大な態度のヤツが大キライだ。それで言い合いになり殴り合いの喧嘩に発展して、学校に双方の保護者が呼ばれるって事態になったことは、これまで5回くらいあったと思う、そしてそうなるとハナシは更にややこしくなった。
俺の家には親はお母さんしかいない。
そういう家はイマドキ別に珍しくなんかないけど、俺のお母さんって人は学校から呼び出しがあったところで、他所の家のお母さんのように慌てて学校に飛んでくるなんてことはほぼない、というよりまず電話に出ない、そもそもほとんど家にいない。
お母さんは度を越した仕事人間で、『やりたい仕事』が目の前にあると、それしか見えなくなるって言うか、前置きもなく突然どこかに、例えば北海道とか沖縄とか、下手をすると海外にだって飛んで行ってしまう人だ。書きおきなんかしていかない、お母さんが家から忽然と消えると、俺は(またか…)ってあきらめて買い置きのカップ麺とか冷蔵庫にあるトマトなんかを適当に食べて凌ぐんだけど、大体3日ほどで俺のことを思い出すのか、ぜんぜん知らない番号から家に電話がかかってきて
「カイ?あのねえ、お母さんしばらくそっちに戻れないし、リビングの抽斗の一番上のとこに現金が入ってる封筒があるから、それ使ってなんでも好きなモノ食べておいて、ピザとかお寿司とかハンバーガーとかさ。必要なものはAmazonのあたしのアカウントから買っていいし、ね、できるでしょ?」
なんてことを言う。それで俺が「お母さん、いま一体どこにいるの?」って聞くと
「ハワイ、カウアイ島のノースショアってとこ。海の写真を撮ってるの、ミントグリーンのねえ、もう、はっと目の覚めるような海よ、帰ったら写真を沢山みせてあげるね!」
それだけ言って、あとは俺がちゃんとご飯を食べているかとか、お風呂には入ったのかとか、学校には行っているのかとか、淋しくはないかとかそういうことは一切は聞かず、勿論急にいなくなってごめんねとも言わず、「じゃあね!」と元気にひとこと言ってぶつりと電話を切ってしまう。
だからいくら学校から呼び出しがあってもお母さんが慌てて学校に行くことはなかったし、先生も、俺と殴りあいの喧嘩になったヤツも、そいつの親も、怒りを通り越してなんだか俺に同情し始めるっていうのがいつもの流れだった。一体何考えてるんだ、ホントにどういう親なんだ、なんて可哀想な子なんだって。
俺は、そうやって他人に同情されるのも、ものすごくイヤだった。
確かにお母さんは変質的に仕事好きの変わり者だけど、そしてやっていることは完全にネグレクトで、俺もこの件に関しては一応それなりに困っていたんだけど、それを人から言われるのは、なんか嫌だったんだ。
でもそれが何度も何度も続いて、ある時とうとう「お孫さんが育児放棄されています」って報告が児童相談所を経由して長野のばあちゃんに行ってしまった。それで、娘は東京で仕事を持って自立し、母親としても何とかやっているものだと思っていたばあちゃんは怒り心頭、いまにもアタマの天辺からしゅうしゅう湯気が出てきそうな剣幕で、あの時は確か下北沢にあった俺の家に乗り込んで来た。
「まったく何を考えているの、まだ小学生のカイを何日も家に放置するなんて、何かあったらどうするのよ、あんたみたいな娘に子育ては無理、カイは私が長野に連れて帰ります」
ばあちゃんは元小学校の先生で、すごくきちんとした人だ。それなのにどうして娘であるお母さんがあんな風にものすごく天真爛漫で天衣無縫で極めて自由闊達な人間に育ってしまったのかは俺にはわからない。でもともかくばあちゃんはそう言って、半ば強引に自分の家に俺を連れて帰った。そうしたらどうやら東京での生活にすっかり飽きていたらしいお母さんも
「えー、じゃああたしも一緒に帰ろうかな」
そう言って全く悪びれず、ばあちゃんに保護される俺についてきた。結局、ばあちゃんはその生真面目さと責任感故に、孫の俺の養育と不詳の娘の尻ぬぐい、双方を一手に引き受けることになってしまった。
それが小学校4年生のことだ。
以来、お母さんは天下御免で俺に関する諸々を99.9%ばあちゃんに丸投げして、カメラを抱え世界中を飛び回っている。
お母さんはの仕事は写真家だ、写真家としてのお母さんは『触れるとさっくりと切れるように鋭利で鮮烈でありやや問題があるレベルに前衛的でそれでいてとても儚く美しい、人々の素朴な暮らしの中にある生と死をそのまま映し出す、唯一無二のフォトグラファーである。木村伊兵衛写真賞を受賞後、21歳で渡欧、New York Photography Awardsを受賞、芸術選奨文部科学大臣新人賞を…』という人らしい、ちょっと調べてみたらWikipediaにはそう書いてあった。
でも、写真がなければ、お母さんなんて完全に社会不適合者だ。
会社勤めとか、役所手続きとか、結婚とか、子育てとか、とにかく普通の人が普通にやっていることが全く無理なタイプ、「写真で食べられるだけの腕があってホント良かったわよ」ってばあちゃんはお母さんがどこかへ消えるたびに言っているし、息子の俺も本当にそう思う。
大体、高校を勝手に中退して、勝手に東京に出て、勝手に外国に行き、以後10年ほぼ音信不通になっていたお母さんが俺を連れて突然帰国した時、俺はもう1歳くらいになっていたらしいし、それなのに日本で出生届が出されていなくて、お陰でかなりややこしい手続きが必要になったんだっていうことを、俺はばあちゃんから聞いていた。ばあちゃんは俺の父親のことは、一体どこの誰なのか全く知らないんだそうだ。俺も自分の父親のことは俺のカイって名前を父親がつけたらしいってこと以外は、全く知らない。
だからリクが、俺の瞳の色がきれいだと言って、その後に俺がどこの産まれで父親は一体何人なのかって、俺が「知らねえよ、こっちが聞きてえよ」ってことを一切聞かずに、『hazel』の綴りとか、ハシバミは『榛』って書くんだよなんて話をはじめた時、なんだかすごく嬉しかったんだ。
リクにとっては俺の瞳の色も、俺の顔にてんてんとあるそばかすも、光に透けるとやや金色に見えるうす茶色い髪も、すべてそれにいちいち理由を求めたりするものではないらしい。ずっと後になって、それはどうしてだって聞いたらリクはこう言った。
「ウーン…だって、世界っていうのはさ、目に見えることが全てだろ」
「何それ、ユーレイは信じない派とか、そういうこと?」
「そうじゃなくてさ、いちいち全部のことに理由なんか、いるのかなってこと。だってさ、うちのニコルの毛がふかふかで真っ白なのはどうしてなのかとか、カワセミの羽の色はどうしてあんなに青いのかとかさ、いちいち考える?かわいいなとか、綺麗だなって思って、それだけでもうよくない?」
俺はその考え方をすごくいいと思った。だから俺も、俺に俺の見た目の理由を聞かないでいるリクが、学年一チビで、なんだか妙に痩せていて、体育の時間はいつも見学で、風邪でもないのに給食の後には必ず何種類か薬を飲まないといけなくて、そしてしょっちゅう学校を休む、そういうことの理由をいちいち「なんで?」とは聞かなかった。
(きっとちょっと体が弱いんだろ、そういうヤツっているもんな)
俺達はすぐに友達になった。俺はリクが隣にいるだけで嬉しかったし、何を話しても楽しかった、俺とリクの毎日はこれから恒久的にずっと続いて行くんだろうと思っていたんだ。そのまま5年生になって、6年生になって、その後は小学校から歩いて15分程のところにある市立中学に一緒に行って、高校は自転車と電車を乗り継いで県立高校に2人で通うんだって。
山の中に湧く清水が麓に行くに従って次第に川の流れになるように、俺達は時間の流れに従って成長し、いつか大人になれるものなんだって思ってたんだ。
でも、そうじゃなかった。
リクは、時々学校を休んで市内の大きな病院に行ったり、あとは「ちょっと具合が悪い」という、その「ちょっと」の部分のよく分からない理由で結構頻繁に休んだりしていたけど、俺はそのことに然程疑問も抱かず、リクが休んだ日にはいつも山の中にあるリクの家に宿題なんかを歩いて届けに行っていた。
リクの家で俺はいつもリクのお母さんが作ったブルーベリーのマフィンだとか、栗の入ったパウンドケーキを食べて、その後は広い庭で放し飼いになっているニコルと追いかけっこをして遊んだ。ニコルはリクより頭ふたつ分大きくて茶色い髪の俺を、自分とは別の犬種の犬だと勘違いしているフシがあって、俺の顔を見るとすぐに俺に向って前足を投げだしながらお尻をピンと上げて「あそぼうよ!」って顔でプロレスを挑んでくる、俺はそれにいつも付き合っていた。
そんな俺とニコルを、リクは元々は栗林だったっていうリクの家の庭の、一番大きな栗の木の木陰に座ってゲラゲラ笑いながら見ていた。
「ニコルやめろ、俺に飛びついてくんなって、潰れるからッ!」
「カイ、ダメだ逃げろ逃げろ、ニコル今55㎏あるんだぞ」
「うっそ、完全デブじゃん、おまえなあ、ちょっと痩せろよ」
「お父さんが、オヤツをあげすぎるんだよ。それでこの前獣医さんに怒られたんだ、ニコルちゃんのパパは人間のお医者さんなのに、犬の健康管理は出来ないんですかーって」
「アハハ、おじさんダメじゃん。うわ、だから飛びつくなって」
そうやってニコルが俺とのプロレスごっこに満足して「もういい」って顔をしてその場に座り込むまで遊んでやった後、俺達はいつも栗の木の下で色んなことを話した。
俺達はお互いに一体何が好きで、何がキライで、リクが将来お父さんみたいなお医者さんになりたいんだってこととか、俺が高校を卒業したらバックパックを背負って外国をあちこち旅してみたいんだってこととか、そういうことを沢山話して、お互いの夢とか好みなんかについては、何だって知っていた。
でも俺は、俺の見た目がどうしてこんな風なのかとか、俺がなんでおばあちゃんの家で暮らしているのかとか、俺のお母さんがどうしてこの町の山の麓に時折ひょっこりと顔を出すニホンカモシカ並みにレアな存在になのかとか、そういう俺の背後にある細かい事情みたいなことはほとんどリクに話さなかった。リクも一体どうしてリクがそんなに白くて細くて小さくて、思い切り走れない身体なのかってことを俺に話さなかったし、俺も聞かなかった。だって人に「どうして?」って聞かれて
「そんなのこっちが聞きてえよ」
と答えるしかないことはきっと誰にでもあるし、俺はそういうややこしいことをリクに話して、もしくはリクが自分から話したいとその時まだ思っていない諸々を無理に聞きだして、木漏れ日の躍る栗の木の下で笑うリクのことを困らせたくなかったんだ。
3
「まあ、その辺はアンタが正しいよ。どんなバカな悪童が来たのかと思ったら、意外に分別ってもんがあるじゃないか」
みどりの魔女は、白い魔女が運んできた紅茶を静かに、そして神聖ななにかを口にするようにひとくち飲んだ。白い魔女が魔法のように奥のキッチンから運んでくるものはすべて繊細で美しい細工のされた食器や什器ばかりで、広間の家具や調度も相まって、それはなんだかお伽噺の世界のように見えた。
「そのリクって子は、自分の体ことをあんたに包み隠さず伝えて、ヘンに気を遣われたり、心配されたりすることが嫌だったんだろ。子どもの世界で『弱くて可哀想な子』ってのになったらおしまいさ、そうなったらアンタと対等な友達じゃなくなるんだって、リクは思ったんだよ」
「そんなこと俺は思わない。それに俺が何にも聞かないで、リクん家でバカみたいにニコルと一緒になって走り回ってる間に、リクの病気はどんどん悪くなって、結局もといた東京の病院に戻ることになったんだ。退院未定の長期入院だよ。そこででかい機械に繋がれてもう1年も入院してるんだ、学校もそこの病院の院内学級に転校になって、リクから手紙は1度だけ貰ったけど、こっちからはぜんぜん連絡できない、だから…もっと俺がリクにリクの色んなことを聞いてたらさ…」
「それじゃあ、あんたがリクの事情ってヤツを全部聞いていたら、リクは入院しないで済んだのかい、もしくはリクが助かるとでも思うのかい。まだ11だか12だかの子どもに、東京みたいな都会で最先端の治療を受けさせて、それでもダメならそれが天命ってやつだよ、寿命なんだ、仕方ないよ」
「仕方なくなんかないよ、リクは健康な心臓がたったひとつあればそれで助かるんだ、だから俺の心臓をリクにやってよ、それで万事解決なんだから」
「そんなことあたしにできる訳ないだろ、そもそも、リクって子はそんなこと望んじゃいないよ、その子はとても聡い子だ、その辺のバカな大人なんかよりもずーっとね、自分のこの先の運命ってものがどんなものでも、それをちゃんと受け入れられる、そういう度量のある子だよ」
「でも!」
俺がそれを望んでいるんだと言おうとした時、みどりの魔女は俺の言葉をぴしりと遮った。
「うるさいガキはキライだよ。じゃあこうしよう、代わりにそのリクって子の一番の願いをあたしが叶えておいてやるよ、あたしのこのみどりの瞳に賭けてそれだけは約束してやろう。それでどうだい」
俺の顔の前に人差し指をピンと立てて話すみどりの魔女の瞳が強い光を放っているように見えた、俺みたいな子どもに口答えなんか許さないよって光だ。俺は思わず「わかった…」って情けないほど小さい声で返事をしていた。
(リクの一番の願いってなんだ、それって病気を治したいってことじゃないのか)
俺はそれを少しの間考えた。いくら俺とリクが親友でも、心の奥底にある本当の願いなんてものは実際のところはよく分からない、夏の日の朝、濃霧に包まれるこの土地の山の頂のように、目を凝らしてもぼんやり白く霞んで、よく見えないものなんだよな。
「…もう帰る」
俺がそう言って立ち上がると
「あら、じゃあこれ、おうちの方に差し上げてね」
白い魔女がすずらんの模様のペーパーナフキンに焼き菓子をいくつか手早く包んで持たせてくれた。この家に招き入れられた時には少しも気が付かなかったけれど、広間から玄関に向って真っ直ぐ伸びる廊下の壁には様々な大きさの写真がいくも飾ってあった、どれもきれいに額装されたとても古いものだ。俺はその中の制服姿の女の子が2人並んでいる写真を指さして
「ねえ、これって昔の2人?」
そう聞いた。写真のセーラー服姿の2人のうち背の高い方の娘の気難しそうな眉間の皺ともう一人の娘の方の優しそうな頬のえくぼに、さっきまで俺と一緒にお茶を飲んでいた2人の魔女の面影があった。
「なんだい、あたしに若い頃があったらダメなのかい」
「そんなことないけど…2人って、あんまり似てないけど姉妹かなんかなの?」
「友達だよ、ずーっと昔からのね」
「友達と一緒に暮らしてるんだ、いいね、じゃあ2人は親友ってこと?」
「まあそういうことだね、あの子があたしの唯一にして一番の親友さ、だからあんたが自分の心臓をやってでもリクって子を助けたいんだって気持ちは、あたしにもわからない訳じゃないんだ、でも神様が人に与えた運命を変えることはとても難しいし、天命ってもんは人の力では決して動かせない、わかるだろ」
「わかるけど、納得はできない」
「そうだろうね、まあいいさ、気が向いたら、またおいで」
「気が向いたらね」
俺は、来た時よりもほんのすこし優しい表情になったような気のする魔女に小さく手を振って、屋敷を後にした。
でも、この年はなんだかあっという間に夏が終わり秋が来て、その間に色んなことがありすぎて、俺はこのあたり一帯を白銀がすっぽりと覆ってしまう季節になるまで、魔女に会いに行けなかった。
4
結論から言うと、リクの命は助からなかった。
リクの病気は、それが進行していくことを現代医学の力では止めることができないって性質のもので、リクがこの先も生き続けるためには、新しい心臓を誰かに貰うしか選択肢がない、とても厄介なものだった。
それに、誰かに心臓を貰うにしても、それは健康な誰かが特殊な条件下で亡くなって、その人の善意の遺志でもって心臓を譲ってもらうということだから、それが何年の何月の何日になるかはまったく未定で、その間は病院で機械に体を繋いで長い時間を待つことになるんだ、何年も、何年も。
だから新しい心臓を貰う以外の方法で何とかならないかって、お医者さんをしているリクのお父さんは八方手を尽くした、それではもうダメだって状態になってリクが入院生活に入った後は、リクを連れて外国に行く方法に賭けようかってハナシも出ていた、でも何もかも全て、間に合わなかった。
リクが、小3でわざわざ東京から長野の山奥に引っ越して来たのは、いずれ病気が進行して、東京の病院に戻り、機械に心臓の代わりをしてもらいながらいつ終わるかわからない長期入院生活に入ることになる前にリクの願いのいくつかを、叶えるためだったんだそうだ。
俺はその願いが一体何だったのかを、最後に直接本人から聞くことができた。
「で、それは叶ってたのかい」
「…うん、叶ってたよ、最後の追加分以外はね」
「そうかい」
俺はみどりの魔女にリクのことを伝えるために、初めて魔女の家を訪ねた6月のあの日から半年が過ぎた12月の終わり、ヤマモモの生垣にも天使のレリーフのある門扉にもそれから屋敷の門から玄関に続くアプローチにもこんもりと雪が積もっている魔女の屋敷をもう一度訪ねた。今度は手ぶらじゃなくて、俺のばあちゃんの手製の干し柿を持って。
「なんだ、アンタか」
もう根雪になりかけている雪をスノーブーツでザクザクと漕ぎながら玄関に辿り着いて呼び鈴を鳴らすと、以前と同じように極めて不愛想に俺を迎えてくれたみどりの魔女は、また前と同じように奥の広間に俺を通してくれた。
初めてここを訪ねたあの日とは違って、部屋の片隅に設えられた薪ストーブにはあかあかとした火がともり、黒猫のルドルフがストーブに直接触らないようにと置かれたストーブ前の囲いにぴったりと体をくっつけて丸まっていた。俺が「おい、焦げるぞ」と言ったらルドルフはちょっと面倒くさそうに「にゃあ」と返事をした。
この日は、以前俺にレモネードを運んできてくれた白い魔女の姿がどこにも見当たらず、かわりにみどりの魔女がミルクにチョコレートを溶かして作った甘くて暖かい飲み物を、ぽってりとした白いカップに入れて運んできてくれた。
「あの…もうひとりの魔女は?」
「ああ…いま少し遠いところに出かけてるんだよ。それよりあんたがここに今日ひとりで来たってことは、もう全て済んじまって、あんたはリクをちゃんと見送ってきたんだって、そういうことだね」
「なんでわかるの?」
「そりゃあ、あたしが魔女だからさ。大体男の子なんてモンはね、魔女が住んでる家に入ったぞなんてことになったら、必ず友達を連れてまたくるものなのさ、それも一番の仲良しをね。なんであんなに肝試しとか秘境探検だとかの真似ごとが好きなのかねェ、まったく」
「そっか、そうだね…」
「最後にひとめ、会えたのかい」
「ウン」
俺が静かに頷くと、魔女はその場で目を閉じて、何かに祈るような仕草をした。その間、俺は黙ってあたりをぐるりと見まわしてみた。真冬の魔女の屋敷は夏よりも蝉の声のない分しんとして、そして夏に来た時よりも廊下や広間の飾り棚にあった写真が少し減っているように見えた。
「俺、夏休みが終わってから東京のリクのいる病院に行ったんだ、学校に行くフリしてひとりで」
「家出かい、やっぱり悪童だね、一体東京のどこまで行ってきたんだい」
「本郷ってとこ、病院の名前だけはリクから一度だけ貰った手紙で知ってたし。それに俺小2の頃に少しの間、そこの近くの谷中って猫の沢山いる町に住んでたことがあるんだ。だからここから新幹線に乗って東京にさえ辿り着けたら、あとはいけると思ってさ」
「『いけると思って』ってアンタ、電車賃なんかはどうしたんだよ」
「お母さんのカバンからスマホとクレジットカードを借りた」
「そういうのはね、借りたって言わないんだ、盗ったって言うんだよ」
「そうとも言う」
「なんだい、まったく…」
9月、俺はいつも大体その辺に置きっぱなしにしてあるお母さんのカバンから、2つあるスマホのうちのひとつを勝手に持ち出した。指紋認証の方じゃなくてパスワードでロック解除ができる方のやつ。そのパスワードが俺の生年月日なのを俺は知っていたし、お母さんはスマホを無くしても1ヶ月くらいはまず気が付かない。
そうして拝借したスマホとカードを持った俺は月曜日の朝、学校に行くフリをしてそのまま東京に向った。ランドセルを背負ったままひとりで新幹線に乗ると絶対に目立つから、ランドセルと水筒は駅のコインロッカーに放り込み、ナイキのキャップを目深にかぶって、ノースフェイスの黒いウインドブレーカーを着込んだ。
俺は小学生にしてはかなりでかいしその上けっこう老け顔だ、お陰で成人の乗車券で新幹線に乗り込む俺に不審を抱くような人は誰もいなかった。それに東京に着いてしまえば、都会の人は田舎の人間のように他人のことをいちいち気にしたりしない、お陰で俺は東京駅に降りた後も、特に誰に声を掛けられることなく地下鉄に乗り換え、そのまま目的地の病院まで拍子抜けする程簡単に辿り着くことができた。
「でも俺さ、リクのいる病院には辿り着いたんだけど、それからどうしたらいいか全然考えてなかったんだよ。どこの病棟の、何号室にいるのかっていうのを一切知らなかったしさ」
「馬鹿だねェ、仮にあんたがリクの病室を知っていたとしても、そう易々と患者の家族でもない赤の他人が病室に上がれるようなご時世じゃあないだろうよ」
「そうなんだけど、この時は凄く意外な人が助けてくれたんだ」
「へえ、魔法使いでも飛んできたかい」
「ウウン、俺のお母さんだよ」
「アンタのお母さんいうとアレかい、自由すぎてすぐに外国に飛んで行っちゃう、あの写真家のドラ娘」
「何、そのドラむすめって」
お母さんはものすごく珍しいことに、自分のスマホのひとつが見当たらないことにその日のうちにすぐ気が付いた、それで俺の持ち出した方のスマホに、手元にある方のスマホで電話をかけた。よせばいいのについその電話に出てしまった俺は、お母さんに
「なんで長野の家にあるはずのあたしの携帯が本郷にあるの?」
真っ先に一体どうして俺が東京にいるのかとその理由を聞かれた。お母さんがあんまりものを無くすので、普段お母さんの面倒を見ているマネージャーが勝手に入れたらしい位置情報アプリでスマホの所在はすぐわかるようになっているんだそうだ。逃げも隠れもできないと悟った俺は正直に事情を話した、どうしてもリクに会いたくて1人で勝手に東京に来たんだって。
「それって、どこの病院?」
「ずっと前住んでた家の近くの、ほら、レンガ造りのうんと古い建物がある病院」
「フーン、それで会えたの?リクには」
「ううん、リクのいる病棟とか病室とかが、俺、わかんなくて」
「じゃあ、あんたそこで1時間待ってなさい、行くから」
お母さんはそう言うといつもの調子でぶつりと電話を切った。そして本当にきっかり1時間後に俺がぼんやりと突っ立っている大学病院の総合受付に、競歩級の早足で現れたんだ。お母さんまさか長野から走って来たのって、驚く俺を意に介さずに
「ほら、ぼんやりしないで考えるのよ、リクは子どもなんだから、十中八九、小児科病棟に入院してるはずでしょ」
お母さんはそう言うと、病院の案内表示も見ないでその辺の白衣の人を捕まえて「小児科病棟って何階?」と聞いた、そしてその白衣の人が答えるより先に「ああ、道順なんか聞いてもよく分かんないし、あんたが直接連れてってよ」と要求して現場に案内させ、そうやっていとも簡単にそしてあっというまに辿り着いた小児科病棟の受付で
「篠田陸君のお母さまって、こちらにいらっしゃいますよね、私達篠田さんとお約束していて…」
なんて物凄くマトモそうな、フツーのお母さんを装ってそこにいた看護師さんに話しかけて、まんまと何も知らない看護師さんを騙し、リクのお母さんを呼び出させることに成功してしまった。
その日、南青山のレストランでお母さん自身の取材があったとかで、たまたま朝から東京に来ていたお母さんは、珍しくちゃんとお化粧をして、髪をきれいに巻いて整え、スタイリストが用意したクリーム色のシフォンブラウスと藤色のスカートに小さなアメジストのついた金チェーンのネックレスだなんて、普段全く着ないタイプの上品な洋服と宝飾品を身に着けていた。そしてお母さんは普段から誰に対しても全く物怖じしない、多分相手が総理大臣でも胸を張って「あんたがそこまで連れてってよ」なんて堂々道案内を頼むような人だ、今回はそのすべてが功を奏した。
看護師さんは俺達がまさか、リクとリクのお母さんに何の約束も予告もしないで突発的にここにやって来た2人だなんてひとつも思わなかったんだろう、すぐさまリクのお母さんを呼びに行ってくれた。
きびきびした動きで病棟の中へと遠ざかっていく看護師さんの白衣の背中をぼんやりと見つめながら、俺はお母さんのハッタリという名の堂々とした詐欺行為にため息を漏らした。
「お母さん、すげえ…」
「こういうのは堂々としていたら大抵は大丈夫なのよ。あたしが今ついたほんの少しの嘘も、ひとのスマホとカードを勝手に持ち出して新幹線のチケットを買ったあんたの行為も全部褒められたことじゃないけど、でも会いたい人に会いたい時に会うことは人生の最重要事項、あたしは今日のあんたに賛成」
その文言のどこかに入るはずだった「生きているうちにね」という言葉をお母さんがそっと飲み込んだことを俺はちゃんと分かっていた。俺と同じ家に住んではいても普段顔を合わせる時間がほとんどないお母さんは、俺がどうして盗みまで働いてここに来たのか、リクにどうしてそこまでして会いたいのか、どうしてかは分からないけど、何となく知っているみたいだった。
リクのお母さんは病棟のデイルームに「あらあら」なんて、いつものおっとりとした口調で驚きながら出てきてくれた。でも長野の栗林の中の家にいた頃よりだいぶ痩せて見えたし、目の下には濃いクマもあった。リクのお母さんは俺のお母さんと挨拶をしてひとことみこと言葉を交わすと、俺の顔を見て
「カイ君また背が伸びたのね、来てくれて嬉しいわ、リクよね、待っててね連れてくるから」
そう言って、そののんびりとした口ぶりとは正反対の、とても機敏な動きですぐまた病棟に戻り、リクを呼んできてくれた。
俺は、リクが今俺に会いたいと思ってないなら会わなくてもいいんだとか、近くに来られただけでいいんですとか、そもそもたまたま近くに寄っただけなんだとか、リクが俺に『会いたくない』って言った時のための言い訳めいた言葉を100通りくらい用意していたんだけど、俺のお母さんとリクのお母さんの力によって、俺とリクとの対面はいとも簡単に、あっさりと叶ってしまった。
「リクったら、カイ君に気を遣わせるからって、たった1通お手紙を出しただけで、あとはずっと自分から連絡は取らないって言い続けてるのよ、自分の病気のことはカイ君に自分から話さないんだって。でもそういうのをちゃんと伝えてこそ本当の友達でしょうって私、何度も言ったのよ、あんたの親友のカイ君を信頼しなさいって。ホラ見てみなさい、カイ君がしびれを切らしてとうとう東京まできちゃったじゃないの」
デイルームと病棟の境目の自動扉の前に体に繋いだ大きな機械ごと車いすで運ばれてきたリクは、以前よりさらに痩せて白くなっていた、きっとあんまり歩いちゃいけないんだろうな、足なんかもとても細くなっていて俺はつい、リクの足から目をそらした。
(こういう時、一体どういう言葉をかけるのが正解なんだろ)
病棟の奥から2人の看護師さんに付き添われて目の前に迫って来るリクの姿を凝視しながら俺はそれを真剣に考えた。
「元気そうだな」はウソだし「大丈夫?」は大丈夫な訳ないからここにいるんだし、何を言っても場違いな言葉か空虚なウソになる、俺は俺の脳内にあるすべての言語から今にふさわしい検索して逡巡し、でもちっともわからなくてそのうち攪拌されてぐちゃぐちゃになった、結局いよいよ目の前にやって来たリクに俺はひとこと
「よう」
とだけ言って片手をあげた、そしたらリクも少しびっくりしたような顔をしてから
「よ、よう」
って片手を上げた。
そして、俺もリクもそのあとの言葉がぜんぜん、続かなかった。
リクがどうして俺に会いたくなかったのかはすぐに分かったし、俺がリクにどんなに会いたかったかってことはリクにすぐに分かったはずだ。それで結局俺達は何も言わないまま、全く同じタイミングでぼろぼろ泣いた。
今思えば、多分あの時の俺達はもうお互いが「直接会うことができるのはこれが最後だ」ってことを、言葉にならない言葉で、形にならない感情で、それは多分直感と呼ばれるものなんだろうけれど、分かってしまっていたんだと思う。
リクと俺のお母さんに「あんたたち一体どうしたのよ」なんて笑われながらひとしきり泣いた俺は、俺の心臓をやるとはリクに言わずに、なにか今、叶えて欲しい望みはないかってことをリクに聞いた、今の俺ができることならなんでもするって、そうしたら
「カイありがと、でも僕の望みはもう大体叶ったんだ」
リクはそう言って涙を掌でぬぐいながら笑った。だから俺はそれって一体何なんだよって聞いたんだ、それはもしかしたら俺が夏の始めに意を決して会いに行ったあのみどりの魔女の魔力によってそうなったのかって。
「魔力って、そんなんじゃないよ。僕の願いのひとつは大きな犬と暮らすことだったんだ、それはお父さんとお母さんがかなえてくれた、長野のあの家に引っ越してニコルと暮らせたからね。それからもうひとつはさ…」
「アンタだね、カイ」
「えっ?」
「リクが一体いつから、そんなつらい病気になって全く無理ができない身体になったかってのは、あたしにはわからないけどさ、ややもすれば即命に係わるような病気の子だ、学校の子や先生なんかはみんな『かわいそうな病気の子』ってリクを特別扱いしただろうね、でもあんたはそういうことをしなかった、そしてリクはそんな風に普通に接してくれる友達が欲しかったんだろ、あんたがそのハシバミ色の瞳を人とは違う、奇異なものだと思わない友達が欲しいって願っていたのと同じようにね」
「なんでわかるの?」
「そりゃあ、あたしが魔女だからさ」
すべては、魔女の言う通りだった。
リクは自分の病気のことをいちいち詮索してこない、そして仮に病気のことを聞いても「可哀想」だなんてことを言わない、そういう友達をずっと欲しいと思っていたんだそうだ。病気がじわじわと進行して、どうしても特別扱いが多くなっていたリクは、みんなが病気の理由というか原因みたいなことを聞いてきたり、元気そうに見えるけどねなんて言われたり、もしくは可哀想って目で見られることがとにかくイヤだったんだって。
「リクはアンタが東京の病院に半ば押しかけるみたいにしてやってきて、そこで『願いごとを言え』なんて言われた時、嬉しかっただろうね、リクはそこで自分は本当に本当の友達を持てたんだって確信した、そしてそれだけでもう満足だったはずだ。でもアンタはリクに食い下がったんだろ、それでリクはアンタに追加の願いごとをした。アンタがこの先、ずっと幸福に、自分の思うように生きて欲しいってね。だから例えば…以前言ってたみたいに、大人になったら外国をあちこち旅するんだっていう、自分の夢を叶えろって、そう言ったんじゃないのかい」
「なんでわかるの?」
「そりゃあ、あたしが魔女だからさ。というよりね、魂に曇りのない心の透明な人間は、自分がもうこの世のものではなくなるんだって時期を悟るとそういう感情を抱くもんなんだ。自分の一番大切に想う人に、自分が世界からすっかり消えていなくなってしまった後も、未来永劫ずっと幸福に暮らしていてほしいってね。それを大人の世界では愛っていうのさ」
今生きている人間はね、死んだ人間の願いによって生かされてるんだ。そうやって命ってものは静かに続いていくんだよ。
それだけ言うと、ふう、とため息をつくように息を吐いて、みどりの魔女が持っていたカップをことんとテーブルに置いたので俺もそれの真似をした。それで俺はみどりの魔女にひとつ質問をした。
「ねえ、さっきここに来た時、白い方の魔女は遠くに出かけたっていったけど、それは今、白い魔女はリクと同じ場所にいるって、そういうことだね」
俺の言葉にみどりの魔女は、ちょっとだけ驚いた顔をして俺の顔をじっと見た、そして静かに「そうだよ」とつぶやくように言った。
実のところというか当然なんだけど、みどりの魔女も白い魔女も本当は本物の魔女なんかじゃなく、ふつうのおばあさんだった。
白い魔女は、名前を園田真知子さんと言った。
その園田真知子さんこと白い魔女が、この屋敷およびこのあたり一帯の土地の持ち主だった。6月のあの日、焼き菓子の包みを白い魔女から手渡されて家に持って帰ってきた俺に、到来物への御礼やお返しなんかにはとりわけウルサイ俺のばあちゃんは「それ一体どうしたの」と聞いた、それで俺は魔女の家に行ったことを正直に答えたんだ「ヤマモモの生垣のある大きな屋敷のおばあさんに貰った」って、そうしたらばあちゃんが2人のことを俺に教えてくれた。
白い魔女は昔一度結婚してこの土地を出たけれど、ある時ひょっこりとあのみどりの魔女と一緒にあの屋敷に戻って来たんだそうだ、それがどれくらい前だったかはばあちゃんももう忘れてしまったらしい。白い魔女はそこで広い庭で花の世話をしたりお菓子作りや洋裁なんかをしながら暮らし、みどりの魔女は数年前まで時々都会に出て大学でピアノを教えていた。みどりの魔女はもともとはピアニストをしていた人らしいと、ばあちゃんは言っていた。
「それで白い魔女が亡くなったことも、ばあちゃんが俺に教えてくれたんだ。もしカイが何かでお世話になった人なら、落ち着いた頃に一度お悔やみに行ってきなさいって、だから今日は手ぶらじゃなくて、干し柿を持って来ただろ」
「アンタんとこのおばあさんならそう言うだろうね、小学校の先生だった人だろ、あのいつも背筋のピンとしてる生真面目そうな人、干し柿は、御礼を言っといておくれね」
「ウン、それでみどりの魔女のホントの名前も、俺教えて貰ったんだけど、なんか長くて覚えらんなかった、何ていってたかなァ…」
「エリカだよ、エリカ・アーデルハイト・ブラウ・シマモト」
「それ、なんか長くない?それどこまでが名前でどこまでが苗字?覚えらんないよ」
「エリカだけ覚えたらいいんだよ、それ以外は別にどうでもいいんだ。あたしは父親がドイツ人なんだよ、でもこれまで生活してきたのはほとんど日本だしその辺はアンタと一緒だね。言葉だって子どもの頃は日本語一辺倒で、英語やらドイツ語やらがわかるようになったのは大人になってからだし、この瞳の色を周りにやいやい言われてイヤだったってのも、唯一この瞳の色の理由を聞かなかった子と親友だったってのも、あたしの来し方は大体あんたと似たようなもんさ」
みどりの魔女ことエリカ・アーデルハイト・ブラウ・シマモトは、今からずっと昔、ドイツのベルリンで生まれた。
8歳の頃、父親が亡くなって母親と日本に戻り、東京を経由して母親の実家のあるこの土地に越して来た。でも今よりもずっと昔の山あいの田舎町のことだ、エリカの目の色や、今はすっかり真っ白になったけれど当時はほとんど金色に近かった髪の色は、ここではとにかく目立ったんだそうだ。
「まあ、いじめられたよ『あいのこ』ってわかるかい、ハーフなんかよりももっと嫌な言葉だよ、誰からもそう呼ばれるんだ、学校の先生からもだよ。目立つのが嫌でねえ、墨汁で髪の色を染めようとしたことだってあるよ、でもあれはいだだけなかったね、固まってガビガビになっちゃうんだよ」
道を歩けば石を投げられたし、学校では『ふたりひと組で手を繋いで』と先生が言っても誰もエリカに近寄ろうとしなかった。でも白い魔女こと園田真知子さんだけは、エリカの瞳の色を「まるで宝石のよう、それか南洋の海の色よ」と目を輝かせて近寄り、そしてエリカの手をしっかりと握ってくれたのだそうだ。以来2人は、互いが進学したり、結婚したり、留学したり、離婚したり…とにかく互いの人生にどんなことがあっても、どんな時も、ずっと親友であり続けた。
「真知子さんって、結婚してたんだ、エリカさんは?子どもとかいないの?」
「エリカでいいよ。あたしは結婚なんて面倒くさいことはしなかったよ、ピアノを弾いたり教えたりして、それで細々生きて行けたし、相方は真知子がひとりいればそれでいいからね。でも真知子は田舎の大きいお家のお嬢さんだったし、その上女が結婚しないでひとりで生きていくなんてのは、あたしみたいなおかしな毛色の変わり者の所業だって言われる時代だったからね、真知子は両親が選んだ男と結婚して、子どもも産んだ、可愛い男の子だったよ、死んじゃったけどね」
「そうなんだ、それっていつ、赤ちゃんの頃?大人になってから?事故とかで?」
「今のアンタと同じ歳くらいの時だよ、急な病気でね。だから真知子はこの家にアンタくらいの年頃の男の子が来ると、それが肝試しに来ただけのバカな悪童でもまあ喜んだもんさ、あの子のことを本当に可愛がっていたからね。だからあの子が死んだ後、それがあんまり悲しいって真知子は何年も寝たきりの半病人みたいになっちゃってね、そんな真知子を真知子の旦那が持て余してね、あんまり邪魔そうにするもんだから、だったらあたしが貰ってやるよって言ってあたしが離婚させたんだ、それからずっとあたし達は一緒に暮して来たんだよ」
「それって何年くらい?」
「さあね、100年くらいじゃないのかい」
「ホントに?」
「ばかだね、ウソだよ」
50年か100年かその辺は不明だけど、白い魔女こと園田真知子さんは、みどりの魔女ことエリカ・アーデルハイト・ブラウ・シマモトと共に長い年月をこの屋敷で過ごした。
ずっと空き家になっていた屋敷に少しずつ手を入れ、庭に花を植え、木々を剪定し、何匹も猫を飼い、時々肝試しにくる子どもをからかったりして、2人はとても楽しくやっていたそうだ。
そうして今年の11月、この町に初雪の降った日、もう1年ほど、治らない性質の病気を身体に住まわせていた白い魔女こと園田真知子さんは、静かに天国に旅立って行った。真知子さんが一体いくつだったのかは聞いてないからわからない。丁度同じころリクの心臓も東京の病院で静かにその鼓動を止めた、享年12歳。
真知子さんとリク、2人が最後に願ったのは全く同じことだった。
親友がこの先もずっと地上で幸福に生きること。
「ねえ、友達になろうよ」
「ハァ?突然何言い出すんだい、あんたとあたしじゃ友達どころかひ孫とひいばあさんだよ」
「いいじゃん、友達に年齢は関係ないだろ。俺さ、冬の間は時々ここにきて、庭の雪かきしてやるよ、ストーブの薪を運ぶ仕事もありそうだし。夏は夏で草刈りが必要だろ、その代わり俺に言葉を教えてよ、英語とドイツ語ができるってさっき言ってたじゃん。前も言ったけど俺いつかこの町を出て、日本からも出るつもりなんだ、その時言葉が分からないと困るからさ、ギブアンドテイクだよ」
みどりの魔女ことエリカ・アーデルハイト・ブラウ・シマモトは俺の突然の申し出に驚いていたけれど、「それなら雪かきと薪を運ぶのと、ついでに猫の相手もしてやっておくれよ」と言って、俺の申し出を受けてくれた、英語は中学校で習うだろからドイツ語を教えてくれるって。
「じゃあ、あたしはアンタにドイツ語を教えてやるよ。まず手始めにアンタの名前だけどさ、アンタの名前を付けたらしいアンタのお父さんがもしドイツ語を使う人間だったなら、あんたのカイって名前のもつ意味は日本語の海だけではないとあたしは思うよ」
「えっ…じゃあなんなの?」
「kaiはドイツ語で波止場って意味なんだ、波に削られてゆく陸を守るためにある、あの波止場だよ、陸を守るなんて、アンタにぴったりじゃないか」
「そうなんだ…」
俺は急に自分の本当の名前を知ったような気がして、びっくりしたって言うか、すこしぼんやりした。
俺の名前がそういう意味を本当に持っているのなら、リクと出会って俺はリクの何かを守ったんだろうか。でももしそうであるのなら、俺の存在があいつのためになったなら、それはとても嬉しいことだなって、俺は知らない誰かに頬を優しく撫でられたような気がした。それは、慰められたっていうことなのかもしれない。
それから、みどりの魔女ことエリカ・アーデルハイト・ブラウ・シマモトは、俺と一緒に何度も春を過ごし夏を越えて秋を迎え冷たい冬に耐え、そうして俺が18歳になって町を出る半年ほど前の秋、沢山の落葉樹に囲まれた屋敷の中で静かにこの世を去った。
エリカの亡き後、屋敷は人手に渡り、屋敷に残された猫のルドルフは俺が、というか俺のばあちゃんが引き取った。ばあちゃんはとにかく面倒見のいい人だから。
最後まで一体何歳なのかよく分からなかったエリカが俺に遺した言葉はこういうものだ。
「自分の人生を好きなように生きなさい、そして必ず幸福になりなさい」
それはもうすこし投げやりで、エリカらしい乱暴な言い回しだったけれど、とにかく俺はエリカとリクの最期の願いを身体に纏ってこれからも生きることになった。幸福になる方法だとか、そもそも俺の幸福が一体何なのかってことはこれから時間をかけて考えようと思う。
エリカは今、あの屋敷の裏手にある小さな教会の墓地に、白い魔女こと園田真知子さんと一緒に静かに眠っている。
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