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しんぞうの誕生日

ウッチャンお誕生日おめでとう、今日で2歳になりました。

とは言えウッチャンは今幼稚園の年中さんで、年中さんのクラスには4歳と5歳のお友達しかいないのに、ウッチャンが2歳というのはすこしヘンなことだなというのはウッチャン自身よく分かっていることで、2月22日はウッチャン自身ではなくウッチャンの心臓のお誕生日。生まれた時のそのままの形では、あんまり普通の人とは違いすぎて、きっと元気に大人になれないだろうと言われていたウッチャンの心臓の3度目の手術の日です。

それをもう5歳のウッチャンはちゃんと分かっていて、自分がこの世界にやってきた日である12月のお誕生日を「ウッチャンのお誕生日」、そして自身の心臓に16㎜の人工血管の通った2月のこの日のことを「しんぞうのお誕生日」と呼びます。ウッチャンの心臓は、ウッチャンのものでありつつも、その形と機能があまりにも手に負えなくて、それを色々な人の手から手に治療をされて助けて貰って今日まで生き延びて、とうとうひとつの人格を持つ個人として誕生日まで持つに至ってしまったのでした。

なんだかSF的な星新一先生のショート・ショートのようなこのお話も、5歳のウッチャンにとっては大変に嬉しいことなのだそう、だってお誕生日はいくつになってもいくつあっても本当にいいものだから。みんなが「おめでとう」を言ってくれるし、ちょっとしたプレゼントが貰えるし、ウッチャンの大好きなチョコレートケーキも買ってもらえるし、だからウッチャンは

「ウッチャンにはおたんじょうびがふたつある」

それがとても嬉しくて特別なことであるよと、そう思っているのだよね。

それでウッチャンの新しい設えの心臓が2歳を迎えて次の3年目を目指す今年、お母さんはウッチャンにこの『しんぞうのお誕生日』の本当の意味というか、本来この日をどのように迎えて何を思ったらいいのかなって、そういうことを伝えておきたいと思います。心臓のお誕生日というのは、もちろんあの大変だった冬と春を乗り越えたウッチャン自身を讃える日ではあるのだけれど、それとは別のとても大切な意味があるのだよってことをです。

あの2月に手術を担当してくれたのは、5歳になったウッチャンが今でも

「せんせいに、あいたいなー」

なんて時折つぶやくK先生で、先生は去年突然(もしかしたらずっと予定していたのかもしれないけど)病院を退職してしまってもうウッチャンの先生ではないけれど、ウッチャンのどこまでも難解でやっかいな心臓を3度も手術してくれた先生なのでウッチャンにとっては永久欠番の4番打者で永遠の小児心臓外科医、今年のバレンタインに本当は一番ウッチャンがチョコレートを捧げたかった往年の男の子。

そのK先生は2年前の2月22日、多分世界で3本の指に入るくらい大変な目にあっていた人だと、お母さんは思っています。勿論心臓の手術は、特に小さな子どもの手術なんていうものは、術野であるところの心臓が苺ひとつぶ程の大きさで、それを切って開いて縫いますなんてことはお医者さんの中でも選ばれし外科医にしかできなのだってことは、お母さんもよく分かっているつもりでいたのですけれど。

これまで2度、心臓の中も外もたくさん切って、血管を拡張したりするのに心臓の周りの心膜という薄い膜もすべて使い切ってしまったらしいウッチャンの心臓は、かつての手術でできた切開の痕をウッチャンの身体が何とかしようと細胞が組織があちこちに枝葉を伸ばして新しい肉で埋めて肉と肉のくっついた癒着だらけであったそう。お陰で本来の予定としては約180分、3時間ほどウッチャンの心臓を止めて人工心肺に心臓の仕事を預け、その間に心臓をはさんで下の方にある大きな血管と、上の方にある大きな血管を人工血管で繋ぎましょう、手術の全予定時間は8時間程ですということだった手術は、その癒着にすっかり阻まれて13時間かかりました。

と言ってもウッチャンと同じ生まれつきの病気を持っているお友達の手術というものはどれも相当時間のかかるもので、どの子も大体10時間越えはザラだし普通。お母さんにとってもあの長い待ち時間は「まあいつものことじゃろ」ってことであの日もお母さんは「先生まだかなァ」なんて言いながら、持っていたおアルフォートをかりかりと食べながら、ひとり減り、ふたり減り、ついには仄暗い待合室で最後の一人になっても、K先生が手術の終了を遅くなってごめんねって笑顔で伝えに来てくれるだろうと信じてずっと待っていました。

でもその時、手術室に預けられたウッチャンは心臓の周辺の癒着が予想の範疇を大きく超えていて、これをいちいち細かくはがしていては時間がいたずらに過ぎて行ってしまうしその間に心臓がどんどん弱ってしまう、それで致し方なくK先生は心臓の外側に人工血管を通すという最初に決めていた術式を諦めて、触らずに済ませたかった心臓の中に人工血管を通すことを決めて、それだけでも断腸の思いだったところがそのさなかに不整脈が起ってさあ大変、もし仮にこの時の執刀医がお母さんだったとしたら

「えー、もうこれ今日は止めとこ、ナシナシ!」

なんて言って、術衣を脱いでくるりと丸めて帰りたくなるところ。でもあの日あの時病院中をくまなく探しても小児心臓外科医はK先生だけで、ウッチャンの心臓を切ったことがあるのもK先生だけで、そうでなくとも「これこれこんな風に切ろうと思います」と手術の計画を立てたのはK先生で、だからあの時もしかすると世界中でウッチャンの心臓を何とかできるのは、K先生だけだったのかもしれないし、多分きっとそうだと思う。

逃げ場のない責任と重圧、大変どころの騒ぎじゃあないと言うか、もしその立場に置かれたのがお母さんなら、いくらウッチャンがお母さんの大切な娘であってもちょっと無理というか、お願い誰かかわりにやってくれへんて泣いて頼むようなことだと思うのですよ。

結局ウッチャンは、ウッチャン自身はぜんぜんその時のことは覚えていないだろうし覚えていないことは本当に幸いなのだけれど、手術中不整脈を起こした後の色々が全くうまくいかなくて、手術の時に切って開いた胸を閉じずに人工呼吸器と補助循環装置(ECMOというやつ)とそれから腹膜透析の器械さえつけて、手術室からICUに移されることになりました。

そのことを告げるため、手術室待合のお母さんのもとに術衣のままやって来たあの時のK先生の暗くて険しくて厳しい表情をお母さんは生涯忘れられないかもしれない、普段診察室で会う時はいつもにこにこと優しい先生の深い眉間の皺を見たお母さんは「僕これから切腹しますので介錯、お願いします」など言われるかと思ったのですよ、でも先生がお母さんに告げたのは切腹の介錯ではなくてこういうことでした

「かなり最悪に近い状況です」。

その後、ICUの個室に落ち着いたウッチャンにお母さんが面会できたのは草木も眠る深夜2時のことでした。ウッチャンは術後すぐに先生から説明を受けた装備に加えて点滴用のシリンジポンプがたしか25台かいやもうすこし、胸骨の下あたりに直接差し込まれた3本のドレーンとそれに繋がる3台の吸引機、ペースメーカー、人工呼吸器の隣に置かれたアイノフローとか言う一酸化窒素をどうにかする器械、その後には腹膜透析ではもう埒があかんのでということで、3台の人工透析器が持ち込まれてウッチャンの回りは医療機器だらけ、ホントに機械の間と隙間にウッチャンがおりますよって案配でした。

ここ数年ですっかり有名になったECMOというものはウッチャンの身体に差し込まれた透明な管を通して血液を器械に通し、それをすっかり弱ってしまっている心臓の代わりにウッチャンの体に循環させますよって器械で、それだからお母さんはこの時期、意識がないままぼんやりしているウッチャンの隣で、ウッチャンの血液をじーっと見ていました。人間の血液は酸素が少ないと赤黒い色になり、ICUにいる間のウッチャンの血液はずっと赤黒く、それが皮膚から透けるのでウッチャンは酷く肌の色が悪くてずっと青紫色の顔色をしていました。

お母さんのお姉ちゃん、それやからウッチャンの大好きな伯母さんは看護師さんで、ウッチャンが『アーちゃん』と呼んでいるその人は、あの頃「自分は看護師だから分かるけどああしろこうしろきっとこうなるだろう」なんてことは一切何も言わず、お母さんからウッチャンの状況を聞いては「ウッチャンは頑張ってる、あんたも頑張れ」と電話でLINEでお母さんを励まし続けてくれていたけれど、実のところ「これはもう駄目かもしらん」と思ってとても悲しかったのだと、それをずーっと後になってウッチャンが元気になってからお母さんにこっそり教えてくれました。

明日死んだって全然おかしくない。

そういうウッチャンを「そっち行ったらあかんのやで、こっちにおいで」って、あの時ウッチャンが行こうとしていたのは一体天国なのかあの世なのか、お母さんは死んだことがないのでよくわからないのやけど、ウッチャンのちいちゃな手を絶対に離さずに、必死になって生きる方向に、光のある方に引っ張り上げてくれたのはK先生と、それからICUの看護師さんと集中治療科の先生と呼吸器科の先生と麻酔科の先生と小児循環器科の先生と臨床工学士さんに事務の人、ともかく本当に沢山の人達でした。

中でも「患児をICUから小児病棟に引き渡すまで絶対に家に帰らない」ことで有名なK先生はウッチャンがちょっと手指を動かせばそれを喜んでお母さんに教えてくれたし、ウッチャンが胃から酷い出血があって血圧が突然そして猛然と下がった時は家に帰っていたお母さんの携帯に「今から来られますか」と直接連絡をくれました、ECMOを外して開けっ放しだったお胸を閉じる日には、いま手術室にウッチャンを運ぶことは危険だからと

「手術室が来い」

と手術室を人員装備もろともICUに呼び、お母さんとお父さんが両方いくらでもICUに入ってウッチャンに話しかけて手をさすってあげればきっと意識の回復だって早いでしょうと「小児の保護者は入室15分で退出の限りにあらず」だなんて特例を無理に通してしまったのもK先生でした。

それだから2月22日は本当は、あの日ウッチャンのことを「ゼッタイそっちに行くな」と言って励まし続けてくれたお医者さんや看護師さんや技師さんや色々の人たちにウッチャンが「ありがとう」を言う日です。

ウッチャンは覚えているでしょうか、3歳のあの春、ICUに退院のご挨拶に行った日、本来であればもうICUの患児ではないウッチャンがICUの二重扉の前のブザーを鳴らして、それでご挨拶なんかして良いものなのかなと思いながらそれでも「お約束してたからね」って一緒にあの扉の前に立った日のこと。

あの時、いつも穏やかにやさしい事務のお姉さんに要件を伝え、お姉さんが「あらあら」と言ってから数分後、さあどうぞと開いた扉の前には20人近い白衣の、緑の術衣の、藤色と紺色のスクラブの、とにかく多分その時にICUにいたスタッフ全員がいたのじゃないのってくらいの人数が

「あの死にかけでECMOに繋がれてひとつも動けずに頭に褥瘡でハゲまで作った子が自分の足で歩いて退院の挨拶に来たってマジか」

とは言っていないけれど、そんな感じでウッチャンの姿を見に集まって来てくれて、そのハゲをこさえた患児であるところのウッチャンがミントグリーンのワンピースを着てしっかりと立っている姿をとても喜んでくれました。実はウッチャンはあの病院では症例のそう多くない心臓の手術を受けた、ICUに長逗留するなんてことがホントに珍しい小児の患者で、それだからICU中のスタッフがその快癒を回復を祈ってお母さんがいてない間はかわるがわるその様子をみていてくれたのだそうで、そんなことお母さんはひとつも知りませんでした。

みんなウッチャンが命を落とすことなくICUから小児病棟に上がって回復を果たして無事に退院してほしいと、それをずっと願っていてくれたそうです。お母さんは、全然知らない人たちが(一部知っている人もいたけど)みんなでウッチャンの退院を喜んで「もうここに来ちゃだめなのよ」って見送ってくれた春をきっと一生忘れないと思います。

この先、ウッチャンの心臓は3歳になって4歳になって、そうしてどんどんお誕生日を更新してゆくと思うし、その間ウッチャンもどんどんお姉さんになって、大人になっていくことでしょう。そしてそれは自分が一体どういうものを背負っている人間なのか、病気と一緒に生きてゆくということはどういうことなのかなってことを知ってゆく旅だと、お母さんは思っています。

その旅のあいだ、世の中のすべての人がウッチャンに優しくしてくれると、お母さんは嬉しいなあと思うのだけど、今の世の中というのはなかなかにややこしくて余裕がなくて人にあまり優しく出来ない仕組みになってしまっているのですよね。

ウッチャンがこの世界で生きてゆくのには結構な額のお金がかかります。毎日飲まなくてはいけないお薬、月に1度の病院の検診、24時間の在宅酸素療法、週に1度ずつ来訪してもらっている訪問看護師さんとリハビリの先生、時折ある検査入院、ごくたまに起きる外科手術。それの殆どはよそのお父さんとかお母さんとかとにかく大人の人達が働いて納めてくれた税金というお金で賄われています。

ウッチャンはみんなに助けて貰って生きているのです。それは「ありがとう」って感謝はしても「どうせあたしなんて世間のご迷惑なんやわ」と思う必要はひとつもないことなのだけれど、今の余裕のない世の中にはそういう子どもや大人のことを「ちょっと迷惑なんだよなあ」と思ってつい口に出してしまう人もあるんです。

例えば少し前のこと、ウッチャンのじぃじやばぁばのような年頃の人というのは病気になる人も多いし、働いていない人も多いし、今ウッチャンの暮らしている世界はそういうじぃじとばぁばと同じ年頃の人がとても多くて、その人達が暮らしてゆくにもまた、ウッチャンと同じように結構な額のお金がかかるもので、それならいっそある程度の年齢になったらその手の人には自主的にこの世界から退場してもらうのがいのじゃないかと言った学者の先生がいたのですけれど、お母さんはそれを酷く恐ろしいことだなと思いました。

それは、仮にその先生の言うようにお年寄りの人達がこぞって世の中から退場したら、その次は沢山のお薬や器械、すなわち高度な医療環境下でしか生きられない、ウッチャンのような子がこの世から退場してくれたら健康で健常な子がもっとたくさん育てられるんですよ、さあお母さんその子を始末してくださいって物語に繋がっていってしまうのだろうなと、お母さんが思ったからです。

そこまで極端な話じゃなくとも、ウッチャンのこの先の未来には、いろんな理不尽があるでしょう。体はいつも思うようにならないし、もしかしたらあの重たい酸素ボンベからついぞ解放されないかもしれないし、小学校の体育で持久走ができませんとか、ちょっと特別な手帳を持っているからそれのお影で電車に安く乗れたり、お医者さんにかかるお金を補助してもらえたりするものでそのことで「ずるーい」って言われることも、もしかしたらあるかもしれません。

そういうことがあんまり続くと人はつい卑屈になってしまうから「あたしなんか生まれなければよかったのに」って思うことも、この先何度もあるのかもしれないね、そんなことがあるとお母さんはとても悲しいけれど。

でもそういう時は、ウッチャンが3歳の2月、ウッチャンの心臓をどうにかして大人になるための設えと形に変えてあげようと手術室で格闘した勇敢な人がいて、その後なかなか回復に向かわなかったウッチャンの手を絶対に離さずに、光のある方に生きる方の世界に引っ張り上げてくれた沢山の優しい人達がいたってことを思い出すといいのじゃないかなと思います。

というか、絶対思い出して。

ウッチャンは他の子ども達と同じ、とても価値のある命を生きている素敵な女の子なんだよってこと、この先もずっと2月のしんぞうの誕生日のたびに思い出そう。


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