短編小説:おとうさん
今年七十五になる父がおかしいと電話をしてきた母に、父がおかしいのは昔からじゃないのと私は言った、父は天気の話などをしている時に突然オイラーの定理について話しはじめるような人だったもので。
「違うのよ、ちょっと散歩に出たと思ったら何時間も帰って来なくて、探しに行ったら川向こうの公園でぼんやりしていたり、スーパーでまだお会計の済んでないお煎餅を掴んで持ち帰ろうとしたりね…もう一歩間違えば万引きよ。まあその件はお間違いになったんですよねってことで不問にはなったけど」
「ウソでしょ、ほんとに?」
「こんなことで嘘ついてどうすんのよ、だから六花、今週のどこかでウチに一度帰って来て。あんた別に会社勤めじゃあないし、ちょっと一日二日こっちに戻るくらいのこと、できるでしょ」
母は昔からひどくせっかちで癇性で、人の返事というものを一切待たない。この時の電話も「できるでしょ」の「し」の部分でぶつりと切れた。私が東京の大学に進学したことであるとか、その東京でずっと独り暮らしをしていることであるとか、フリーのイラストレーターである私の仕事とか、私を取り巻くなにもかもを一切理解できない母。
いやでもそれは仕方ないのかもしれない。高校の数学教師だった父を夫に持ち、雪と土地の慣習に阻まれて一度もあの土地から出ることなく生きてきた母と私は生物学上同じ性であるというだけで他には殆ど共通項というものがないのだし。
「…面倒」
電話を持ったままそう呟いてはみたものの、三宿にやっと借りている1DKの賃貸マンションの一室にはこつこつと壁の時計が時間を刻む音が響くのみで誰かが返事をすることもなかった。もし仮にあの時母に「フリーランスっていうのはね、会社員と違って有給なんてものはないし、働かないと即干上がんの、ちょっと想像したら解るでしょうよ」など反論しようものならそれは大変なことになる、一度それによく似たことをつい苛々して母に口走った時は大変だった。
「あんたはいつもそう、あたしが言うこと全部に「ハイ」って素直に返事をしたくないのよね、大体あんた一体いつ結婚するのよ、あたしにはあんたしか子どもがいないのよ」
そのように「それ、今関係ある?」という場所に飛び火していくことは母との会話でよく起こることであるので、私はいたって冷静に対応したのだけれど、それもまたあまり良くなかったようで更に怒られた。
「六輔がいるでしょ」
「六輔は死んじゃったじゃないの、アンタのそういうとこ、ホントお父さんとソックリね!」
あのお天気の話から数学の公式の飛び出す宇宙人のような父と私のどこが似ているのか、それはさておいて六輔とは私とは三つ違いの兄で大学三年生の時に所属していた山岳部の友人達と冬山に登りそこで滑落事故に巻き込まれて死んでいる。私が上京する時、一枚だけアルバムから抜き取って来た六輔の写真は、丁度その登山の前日に六輔がアルバイトをして買ったばかりのコンデジで撮ったものだ。その中で馬鹿みたいに笑っている二一歳の六輔と高校三年生の私。
写真の中の高校生の私は今月三八歳になる、それなのに六輔は二一歳の青年のままなのだからおかしなものだ。そして兄が長男であるのに六輔で妹の私もまた六花であるのか、それは数学教師であった父が六という数字を殊更好んだからで父の曰く
「六は完全数でありそれは非常に美しい」
ということらしい。父の言うことは私には大体いつもよく分からない。
十年ほど前、青い塗装に金の縁取りの流線形が故郷の町と東京とを一本の線で結ぶようになり、昔と比べて随分と便利になってからも私が地元に戻った回数というものは本当に数える程で、特に三十歳を越えてからは冠婚葬祭のことで「どうしても」と言われない限りは、正月も盆も歯切れの悪い言い訳をして帰省を避け続けてきた。一度「お腹が痛くていけない」なんて小学生でもしなさそうな言い訳も、したことがある。
あの一体何を考えているのか分からない父も本当は東京の大学に行きたがっていたというのは、随分以前にあの土地を出た父の弟である叔父から聞いた「昔、長男というものは土地に縛られるものだったんだ」。
東京駅から約三時間、新幹線はするりと駅のホームに滑り込み、私の葛藤など全く知りませんという様子で容赦なく私の身体は故郷に送り込まれた。故郷の駅に降りるとまずはその空気の重たさにぞわりとする。この土地特有の湿気を含んだ冬の重たい空気は、同じ季節の東京にはまずないもので、この空気を頬に感じるといつも私はぐっとお腹に力が入る。
駅まで車で迎えに行くという母を、あなたは運転が相当下手なのだからいいと断って駅前からバスに乗った。バスの中には母校の濃紺の制服を着た女の子達が私と同じリズムで揺れている。あの制服を着ていた頃どうしても都会に出るのだと言い張り、美大ならここにもあるだろうと言う両親を押し切って東京の大学を受験して六輔の事故のどさくさにこの町を飛び出して、もうじき二十年になる。
「で、問題のお父さんは?」
高祖父の代に植えられたらしい杉が鬱蒼と茂る自宅でただいまを言うより先に父の所在を聞けば、あらあんた早かったわねと言いながら奥から出てきた母にその辺に居なかった?など言われたけれど父は庭にも、そして大体日中はそこにいるはずの一階の奥の自室にもいなかった。
「いやだお父さんたらまたスーッと出ていっちゃったんだわ、六花ちょっと見てきて」
「見てきてってどの辺りをよ」
「そりゃあお父さんが行きそうなところですよ」
「そんなの、わかんないよ」
「あんた娘でしょ?」
その理屈は一体何なのよなど言えば、また母が「あんたはどうして…」から始まって六花は昔から口答えばかりでなどいう長い話が始まってしまうので私はじゃあ駅の方に行ってみると適当に言い、手荷物を上がり框に置いて踵を返した。玄関には実家の匂いがふわりと漂って、私はそれを「よその家の匂いだ」と思った、私は随分前からもうこの土地の人間ではないのだ。
認知症の老人というものは足腰がしっかりしている場合「まじでどこまででも行くよ」とは介護のために地元に戻ったアートディレクターの友人の言っていたことだ。私もこれからそのような問題に向き合うことになるのかと思えばやや暗澹とした気持ちになり、背中にひやりとしたものを感じながら川沿いに桜の木の何本も植えられている道を小走りに父を探すと、割にあっさりと父は見つかった。というより並木道の反対側を白い紙袋を提げた父が歩いて来たのだ。
「お父さん!」
こういう時、普段の父であれば大体は穏やかにかつ無表情に「帰っていたのか」などぼそりと言うのだけれど、この時の父は様子が違っていた。
「どちらさまで…」
こちらさまはアンタの出来の悪い方の娘ですよと言いたかったけれど、これは父が私を娘だと認知できていないのだと理解した私は何故かとても冷静だった。数学と物理が得意で父と同じ地元の国立大に進んだ六輔をそうとは言わず贔屓目にしていた父だ、ぐちゃぐちゃと訳の分からない絵ばかり描いて二次関数を理解できず数学で赤点を取り続けた不詳の娘のことは忘れてしまっていても仕様がない。
人間はきっと忘れていいことから忘れてゆくのだろう。
「あー…ですから、お父さんを探してほしいと奥様から頼まれまして…」
私は適当に話を合わせて取りあえず父に自宅に戻って貰おうと考えた。かのアートディレクターの友人が「とにかく記憶のまだらになっている親の言い分は否定せずに聞け」と、そう言っていたのを思い出したのだ。
「そうでしたか、いや、申し訳ありませんでしたね、じゃああなた、家までご一緒しましょう」
そう言って自宅の方角を指し示す父の穏やかな顔つきやきびきびと歩く様子などは趣味で山歩きをしていた頃の父とそう変わらず、ただ薄く白くなった頭髪と、随分と筋肉の落ちたように見える背中だけはやはり老人であるなと見受けられたけれど、歩きながら当たり障りのない会話をしている最中に突然、自然数と零の概念について語り出すのはやはり父だった。
「もう、一体どこまで行ってたんですかお父さん」
自宅に帰り着いてまず父を待っていたのは母からの叱責で、それを父がぽかんとして聞いているのは何やら不思議な感じではあった。父はとにかく几帳面な人で予定や時間を遵守することに厳しく、どちらかと言えば日々の予定を失念しがちな母に注意をする立場の人であったので。しかし父は持っていた紙袋をダイニングテーブルにとんと置いてこともなげに言ったのだった。
「六花の誕生日だからケーキを買って来たんだ」
父は目の前の中年女が誰だかわからないはずなのに、娘の誕生日を覚えているらしい、それで私は先ほどの「奥様に頼まれた第三者」のふりをしてひとつ質問をした。
「そうですか、お嬢さんはおいくつになられるんですか」
私の横で母が(あんたは一体何を聞いてんのよ)って顔をしてその肘でもって私の鳩尾をつついたけれどそれを意に介さず私は父の答えを待った。
「十八です、今高校三年生でしてね、丁度進学のことで色々ありまして、娘は東京に出たいと言うんですが私はどうにもそれを許諾できませんで、それで自分は高校教師であるのに一体どうして娘の望む進路を許せないのかと考えていたのですけれど、まあ色々と逡巡するうちひとつの解を導き出しました」
「それは…差支えなければお聞きしても?」
「嫉妬ですよ」
私はいい年をして「都会で夢を叶えたい」ときらきらした瞳で言う娘のことが羨ましかったのですよと言う父が開けたケーキの箱には、近くの菓子屋が和菓子のついでに作っている妙に黄色いモンブランが入っており、それは四つ綺麗に並んでいた。
「私は娘を許して、自分のことも、もう自由にしてやりたいと思います」
父は相変わらず何を言っているのか分からない、けれど、私は何故だか涙が出た。
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