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卵サンドと私と。


私が初めて妊娠して、その妊娠をそのまま継続し、出産したのは30歳の時だった。

相手は普通に今の夫。

今の夫と言うと、じゃあ過去にもう1人か2人夫がいたのかと文脈に無駄な余白を残してしまうけれど、私の人生に今のところ夫は1人、そして直近のメンバー交代の予定はない。多分。

普通に結婚して、特に何の疑問も持たず妊娠する事を希望し、幸いな事に妊娠する事ができた私は、市販の検査薬で陽性反応が出たからと、人生初の妊婦検診にと近くの産婦人科医院に赴き

「あ、妊娠してますね」

という盛り上がりにいまいち欠ける「あ、奥さん外晴れましたよ」位に結構ライトな感じでその確定を告げられた時、私には実感とか喜びとかそれより先に

妊娠それ自体
大きくせり出してくるだろうお腹
周囲への事実の報告

その手の事が途轍もなく恥ずかしいと言う感情が襲った。

妊娠とか出産という物語の周辺は兎角柔らかで優しくハッピーな装飾を、例えば妊婦向けの雑誌だとか、それ関係の情報サイト、その手の業界全体が華やかに飾り付けてさらには煽るし、妊婦本人以外の周りの人達も

「幸せなんだよね」

という視線を送りがちになるけれど、実はあの妊娠と言うやつは、これは私1人の経験則からの感想でしかないけれど、仮にそれが心から望んだものであったとしても、そこまで手放しの幸せ感満載なものではないんじゃないかと思っている。

喜びよりも不安と戸惑いが勝つというか。

でも一般に妊娠は「おめでた」と呼ばれる実際おめでたいことだし、今3人の子どもを産み終わった43歳の自分なら、誰かが妊娠したと聞けば、とにかくおめでとう、体を大切にねと思うしそうとしか言わない。それは不安とか戸惑いとかそこから生まれ来る問題を大体一通り見て、経験して、それはまあ個々の問題として置いておいてまずはおめでとう。そう思う事ができるようになったからだと思う。

げに素晴らしき老成の世界。



でも初産婦だった30歳の当時の私は自分で望んだ結果を手に入れた癖に事態に最高に戸惑っていた。

大体心拍確認もできていない時期から口の中が妙に気持ち悪いし、時間の経過とともにそこかしこが膨張して、下腹部の肉は割れるし乳首は黒くなるしおヘソの周りに変な毛は生えるし、何より豆つぶみたいな命は気を抜くと、これは微妙に下世話な話で大変に恐縮だけれど股からころんと落ちてきそうで最高に怖かった。

人生にもう一度やってきた2次性徴期と言った具合。大体私は普段から新たな事態や局面に対してはフレキシビリティの欠片も無い人間で、新しい事に慣れるのにもの凄く時間がかかる。

今もそうだ。最近3番目の娘が人より遅れてやっと幼稚園に行き始めて、私の生活はドラスティックに変わった。それまで病気のある娘を極力外に出さずに暮らしていたのに、毎日送り迎え2セット、それと週に数回のリハビリと訪問看護、定期の通院、スポットで入る外来受診。そんな生活の中で昨日はまんまと真ん中の娘のアレルギー科への通院を忘れた。そして毎日何かに焦っている。

どうしよう、何したらいいんだっけ、あのメールはもう返信したんだっけ、今日は何の日だっけ。

だから実家の母が、初孫が生まれる事になったこの時、私の妊娠にとても喜んで、自分はいつ行けばいいか、一度アンタ本人が元気なのか会いに行きたいと言い出した時、私は妊娠してその内親になるという現実に自分の焦点をうまく合わせられていなくて「まだ来なくていいと」言い、話しを引き延ばした。

親が我が子を手元から手放した時期、大体大学進学時の18歳だとか大学やその他の学校を卒業した20歳前後、その時に子どもの年齢が止まり、年老いた親はいい年のおじさんやおばさんになった我が子に揚げ物を作り続け、大量のかつての好物を食べる羽目になった子どもは盆と正月に実家で胸やけしてしまうという話はよく聞くけれど、それと逆の現象が実家を18歳、だから大学進学の時に出ていた私には起きた。

私は母の前では図々しくもいつまでたっても18歳で、18歳の私は、原因があり結果があって、とにかく自分が妊娠して出産して母親になる、そういう自分を親に見せると言う事がなんだかとても恥ずかしかった。

「犬の日とかそういうのがあるんだけど、どうする?」

「別にいい、神道の方向にはあんまり信心深くないから」

「アンタ、つわりとかないの?」

「うーん…眠いとかはあるかもしれないけど」

「仕事はいつまでなの」

「まだ次の人が決まってないからわかんない」

母はこの時もまだフルタイムで仕事をしていた忙しい人で、その母が忙しい分いい具合に放置されて自由に育って来た私は、母とはまあまあ仲良くやって来た方だと思う。でも私達親子はなんだかこの時とてもかみ合わなかった。

母は当時60歳で、母の周囲の親戚や友人達と比べるとおばあちゃんデビューが遅かった。待ちに待った孫。それに対して、望んではいたものの実際妊娠して見れば戸惑う事ばかりで、体は膨張するし、準備物はよく分からないし、仕事の引継ぎはあるしで、自分の人生と身体の変化に戸惑いすぎて幸せを感じているどころではないメンタルが脆弱で精神年齢が高校生の私。

それでも結局押し切るようにして、母はやって来た。

まだ北陸新幹線が開通していなかった陸路を特急に乗って約5時間、何をそんなに持って来たのか大荷物を抱えた母は、当時私が暮らしていた京都の、大きな商店街のある駅に降り立った時、私の顔より先に、たしかあの時は7ヶ月目に入っていた私のお腹を見て

「あらー、もうそんなに大きいのね、元気そうでよかった」

そう言って物凄く嬉しそうな顔をした。この人は普段あまり感情の起伏が激しくないと言うか、大げさに喜んだりする事の少ない、凪の海のように物静かな人なのだけれど、この時はとてもはしゃいでいて、待ち合わせた駅の近くのパン屋で

「アンタ、お昼まだでしょう」

そう言ってトレーに乗り切らない程、沢山パンを買ってくれた。

この母はとてもパンが好きで、特に総菜パンが棚にいくつも並んでいて、それをトレーで好きなように取るという形式のパン屋が物凄く好きだ。私が暮らしている関西に遊びに来ている時もその辺でパン屋を見ると突進する、知らない間に地元からパン屋が消えて無くなったのかと思う位。

その時は、アンタ妊婦なんだからと言って、大袋いっぱいになる量の総菜パンと菓子パンを私とお腹の子に買ってくれた。私が総菜パンでとりわけ好きなのは卵サンドで、普通のゆで卵をつぶしてマヨネーズと和えたもの、だし巻き卵を挟んだもの、それからゆで卵とハムがはさんであるもの、その時そこにあった卵サンドを全部とあと色々なパンを沢山買って、そのまま私の家に行き、私の体調はどうだとか、準備はできているのかとか、自分がいる内にどこかに必要なものを買いに行こうとか、そういう私の周辺に関する事をひたすら心配して、世話をしてくれた。



それが、今からもう13年近く前の事だ。

その時にお腹にいたのが今中1になった息子で、私はその3年後に今小4になった真ん中の娘、更に9年後に今は幼稚園の年少さんになった末っ子の娘を産む。最終ランナーの娘は、先天性の心臓疾患児でそういう特殊な事情はあったものの、その時の私はもう妊娠3回目、妊婦になるという事にすっかり慣れ切っていて、あの高校生の女の子のような恥じらいは雲散霧消、すっかりどこかに行ってしまっていたけれど、母の嬉しそうな顔は変わらなかった。

それで今、自分でも娘を2人産んで育ててその途中、上の娘がこの夏に10歳になる今頃になって、あの時の母がなんであんなに嬉しそうだったのか、その意味をすこし分かるようになった。

あの時、母は『孫が生まれる』言う事実をシンプルに喜んでいた、そういう側面も勿論あったと思う。でもお腹の中の人は、生まれてみて本人の顔を見ない限りは祖母である立場の人にはそこまで情を持つというか盛り上がったりはできないんじゃないかと思う。私の母はそうでなくともいつもテンションが低い。それに子の母親だって、どんなに産院のエコーで我が子を見せて貰っていても、お腹に人間がいるなんて生まれるまではあまり実感がないものだ。

それよりも、母は自分が産んだ娘が妊娠して出産する。その事実を喜んでいたんじゃないか、そう思うようになった。

あの小さかった娘が自分と変わらない背丈になって、人生の大きな節目を迎えている。

人生には、妊娠も出産も絶対不可欠な訳ではないので、これは例えば、大きな仕事を成したとか、立派に学業を修めたとかそう言う事でもいいのだけれど、妊娠という現象はお腹がどんどん大きくなり無事に出産すればそこにもうひとりの人間が出現する。目視でわかりやすい分、インパクトがある。

もし私の2人の娘が将来、健康な真ん中の娘にも、ちょっと健康という点では問題の多い下の娘にも、そういう事が起きる日がきたら私は泣くと思う。別に起きなくてもそれはそれだけど。

その点は好きにして欲しい、何と言ってもあの子達の人生だし。

でも、娘2人を10年育ててみて、あの時、凄い勢いでパンを大量に買っていた母の気持ちをほんの少し理解できたような気がしている。それをするのにあの日から13年もかかってしまった。

自分の心は御しがたい、悪くいうと割とばか。


という事を今卵サンドを食べながら思い出している。

6月から末の娘はやっと幼稚園に通い出した。手術と入院があって入園が遅れてしまったこの子は、春に大きな手術をしていてまだ術後回復の道半ば、体調や体力面に心配があり、今幼稚園には週3回、3時間程だけ行かせている。

『3時間程度だけ登園』というのはどういう事かと言うと、朝幼稚園に自転車で送り、そして一旦家に戻り、それから在宅2時間でまた幼稚園に娘を迎えに行くと言う慌ただしいにも程がある毎日を送る羽目になるという事だ。私は全然、知らなかった。

それでそんな事をしていると、もう忙しくて座って何か食べている暇なんかなくて、最近はよく適当に卵サンドを作って立って食べている、ゆで卵をポリ袋に入れて潰してそこにマヨネーズを投入し適当に混ぜて、フクロの端を切って食パンに塗ってふたつに折る、以上、出来上がり。

そういう生活をしている今、なんだか妙にあの13年前の事を思い出すようになった。

末の娘は今、登園しぶりの真っただ中だ、これまで母親である私と殆ど離れずに蜜月していたのに、突然母子分離と言う名のもとに、週に数回幼稚園に置き去りにされて迷惑千万、悲哀の極み、あとで覚えとけよみたいな顔を毎回して私に張り付き剥がすのに、先生方が本気で苦労している。

この子を幼稚園に入れるまで、手術とか長期入院とか、病気で細かい対応が必要で普通の子どもの10倍位の準備と話し合いが必要だったとか、訪問看護師と園それから行政との連携とか、本当に禿げる程大変だった。

でもそんな事は彼女の知った事ではないらしい。

昨日、お迎えに行くと、娘は朝あんなに泣いて私から離れてくれなかったことなどどこ吹く風、私の顔を見て嬉しそうに寄って来て、幼稚園で工作をした、アレは私のお友達、そんな事をたくさん教えてくれた。クラスのお友達より一足早く降園して幼稚園の玄関に向かうその道程でも、目に付いた同じ年少児に

「オトモダチ、バイバーイ」

と手を振る。ついこの前まで、お友達と言えば自分と同じように点滴台とか呼吸器をぶら下げた病院のお友達がオトモダチだった娘は、はじめの内は幼稚園の健康で皆同じ制服を着ている子供たちの集団に戸惑って不思議そうな顔をし、何なら見ないフリをしていたのに随分な変わり身だと思う。

子どもが新しいステージに立つ、その姿を見るのはとても嬉しい

あの時の母と一緒だ。

そしてこの卵サンド生活は多分、今年いっぱい続く。

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