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遺産相続6

☞1

「月子、アンタね、閉鎖的で保守的で封建的な日本の過疎地域の山村で、自分の性別とか生態とか姿かたちによ、それに猛烈に違和感のある男の子がそんなクソ田舎のその家の長男として生まれて18歳までそこで育つのがどういう事かって考えたことある?」

「ありません」

「即答しないでちょっとは考えなさいよ!」

「それは、あけみさんの、いえ、猪熊孝明さんの生い立ちの事でしょうか」

あけみちゃんこと、猪熊孝明と月子さん、2人が冬の冷たい空気と静寂の中にある離れの一室で私が淹れたコーヒーの入ったカップを挟んで向かい合っている丁度その時、ストーブの燃える暖かな食堂の私たちは賑やかだった。祖父と私と陽介君とつぐみちゃん、その中でも祖父はゴロウ君をしっかりと抱いて離さず、ゴロウ君の顔を覗き込んでは、自分と同じ名前を持つ名誉ひ孫か孫に、君は耳の形がいいだとか、額の形が賢そうだとか、爪の形すら美しく整っているのはまるで緻密に作られた工芸品だ本当に美しいなあとか、何を見ても大げさな位べた褒めしていた、私と陽介君はそんな祖父がなんだか可笑しくて

「じじバカだね」

「ひいじぃじバカじゃない?」

そんな風に言って笑った。赤ちゃんは凄い、そこにいるだけでこの家の照明がいつもの3倍位明るい気がするし、なんだか甘い匂いがする。全体が柔らかな乳白色に包まれた眩くて優しい生き物。いつもなら祖父の膝の上が指定席のすももは、普段自分に集まる注目がすべてゴロウ君に集まってしまっている上、祖父の膝まで自分と同じ位の大きさの生き物に横取りされた事でなんだかひどく面白くなさそうな、憮然とした顔をしていた。つぐみちゃんは、お風呂上がりの洗い髪をくるりとお団子にして頭上に纏め、私が貸したもこもこのフリースパジャマを着て陽介君がキッチンから次々に出してくる料理を、あの肉の薄い華奢な体の一体どこに吸い込まれて行くのかと首をかしげたくなる程の勢いでどんどん口に放り込んではお腹に収めて、とてもよく笑った。

「なんかここって親戚の家みたい。悟朗さんはおジイちゃんで、みっちゃんと陽介はイトコみたいな感じ?まあ実際は私に親戚なんか全然いないんだけど」

お母さんが亡くなった3年前から『血縁者は死滅してほぼ天涯孤独』らしいつぐみちゃんは、結婚とか家族とか言う言葉の行間にある暖かで柔らかな何かを渇望しながら今日までを過ごしてきたんだろうか。それでつい酷い男の人に騙されて、さっき約16年ぶりに再会を果たした血縁のない、でもたった一人の父のあけみちゃんに『一切関係のない無関係の第三者』だと言い切られた時、あんな知らない町で迷子になった小さな子どもみたいな表情をしたのか。とても心もとない、寂しい顔。私は今はちゃんと21歳の顔で陽介君の作った海老とブロッコリーとあとは丸ごとのゆで卵が人数分埋められているグラタンの大皿から海老ばかり掘り出しているつぐみちゃんを見ながら、そんな事を考えた。

「そうよ。あのねえアタシはね、都会育ちでドイツ語と英語とええと何だっけ?ギリシア語?ラテン語?何かそういうのが出来る博士号持ちの紳士が父親で、ピアノが出来て留学経験のある元お嬢様が母親で?そういう高尚でインテリジェンスな両親の深い多様性の懐の中で何もかも理解されて育ったっていうアンタと陽子とは全ッ然育ち?境遇?そういうのが違うの。アタシはね、近所の皆様、親戚縁者、とにかく世間様が理解不可能な生き方はするなって言う魔女の呪いを掛けられて育ったのよ。県立の高校を出て地元の国立大に進んで…いい?アンタ、アタシの田舎ではね慶応より早稲田より、クーラーも碌についてないようなびっくりする程ボロい地元の国立大学がエライのよ、アッタマおかしいわよね?SFCの方が良いに決まってんじゃない。それで大学を出たらちゃんとカタギの職業について、全方向、どこの誰が見ても恥ずかしくない、人様から後ろ指さされない、そういう人生を送りなさいって、そう言われて育って来たのよ。周りと1ミリでも違う事をするなんて絶対に許されないの、それどころかほんの少し目立つのも絶対に駄目。地方のド田舎って言うのはね、同調圧力の王国なのよ。男に生まれついた筈の人間が、化粧して、ハイヒール履いて、フワフワのティアードスカート履いて金髪のアタマで往来を歩きたいと思ってるなんて、口に出した瞬間に父親にぶん殴られて改心するまで土蔵に閉じ込められるような場所なのよ。インターネットの光回線もジェンダーとかポリティカルコレクトネスとかそういう価値観を一切運んでこないような僻地で生まれて精神的におかしくなる程抑圧された少年時代を生きてきたのよ、そして時代は昭和よ、平成ですらないのよ?月子アンタ、アタシの言ってること分かる?」



私達が食堂で温かいグラタンを突いて、少し細身過ぎるつぐみちゃんにお肉をつけようと言ってみんなでつぐみちゃんのお皿につぐみちゃんの好物の海老とかあとは鶏肉とかマカロニとかカロリーが高そうな物をどんどん乗っけている時、あけみちゃんは何故だか少年時代から自分の生い立ちを月子さんに語っていた。

『アタシの人生の始まりはとても苦渋に満ちたものだったのよ、きっと生まれてこない方が幸せだったわ』

そんなあけみちゃんの独白を聞いていた月子さんの答えは

「昭和の後期に当たる時代の日本の地方都市が閉鎖的で多様な価値観が許容されにくい場所であったという事、そしてそこに生まれたあけみさんが持って生まれた性質、女性でもなく男性でもなく、性別の中間地点にある存在として、本来の自分自身をその環境の中では解放できない、むしろ自分自身を自分自身として正確に把握する事すら難しい程抑圧されて育ち、そういう事が酷く子ども時代の貴方を酷く傷つけた。そのような事は理解しました。そして生まれてこない方が幸せであったという言葉、それはあけみさんのAntinatalismですね、私個人もその件については異論ありません、存在とは本来、生まれたその時から苦しみと哀しみに満たされているものですから」

普段通りの、ごく冷静なものだった。

「なんか正しく理解されるとそれはそれで妙にムカつくわね。大体アンタ、どうしてアタシがどっちよりでもない微妙で曖昧な立ち位置の人間だなんて分かる訳?なんかそういうのに詳しいの?そんなことまで…何だっけドイツで学んで来た訳?第一男でも女でもないって何よ、そんでアンタあとその…アンチなんとかって何よ」

「それは、私がそこにいるものの在り様を偶像化も歪曲もせず、ただそこにあるものとして捉えるという事を、長く訓練してきた人間だからかもしれませんね」

「何それ?訓練でアタシがどういう…オカマなのか女装好きのオッサンなのか、男が好きなのか女が好きなのかそれとも何も好きじゃないのかとかわかる訳?それって一体何の訓練よ」

あけみちゃんは、最初の内は中っ腹というのか、喧嘩腰で月子さんと話していた。あけみちゃんはこの時、自律神経の著しい乱れ、言い換えると心の均衡を乱れに乱れさせている自分を前にいつも通り冷静な月子さんに密かにイラついたのだそうだ。その気持ちは私にも少しわかる。そしてそのあけみちゃんの喧嘩腰の問いへの月子さんの答えは

「祈りです」

「はぁ?」

更によく分からないものだったらしい。月子さんが言うにはそこに在るものを在るように捉える事は月子さんにとっての『祈り』そのものなのだそうだ。そんなことを言われても全然アタシには何の事だかわかんないわよ、あけみちゃんはそう言ったけど、月子さんは気にせず話し続けた。

「私は過去の、つぐみさんのお母様と婚姻関係にあった時代の、普通の男性を擬態していたあけみさんを知りませんが、私は今のあけみさんを、思春期の少女のような方だと、そう捉えています。性という物をそもそも嫌悪しているようない印象があるという事です。それとAntinatalismは所謂反出生主義の事です。人間はそもそも生まれてこない方が幸せであった、そしてこれ以上の出生を是としない、ひとつの体系化された思想の事です」

「アンタ、自分が生まれてこない方が良かったって…そんな中学生みたいな事考えて生きてる訳?今も?」

「それはどうでしょう。出生してきた事自体を嫌悪していると言うよりは、土の器である己の身体がこの世に命を得て今ここに在る事の意味を見出せないまま、いたずらに齢を重ねて来た事に失望していたというのが、一番的確な感想と表現なのかもしれませんが」

「悟朗さんみたいな父親がいても?だってアンタ、陽子と同じ顔で普通にキレイよ、なんか行き過ぎてる感じもするけど学だってあるじゃない、望めばある程度のものは手に入れられたでしょ?仕事とか結婚とか皆が持ってる見栄えの良いそこそこのモノをさ、アンタはアタシと違ってまあまあちゃんとした人間よ、アンタのその無神経な性格以外は」

あけみちゃんはこの時点で喧嘩腰を止めたらしい。気がそれたのだそうだ。なんかあの子って、人にも自分にも世界にも全部の事に対して辛辣で率直すぎたのよね、確かにアレじゃ生きづらかったでしょうよ、というのが後のあけみちゃんの述懐だ。それには私も心から同意できる。

「人から評価されるような事も、主に学業においては過去に何度かありましたが結果はこの通りです。私は必死にたったひとつの事を知ろうとして、結局その事も他の事も何ひとつ分からないまま死んでいく人間になりつつありますし、もし今、少しばかり自身の命…生存というものに意味があるのだとしたら、陽子から美月さんを頼まれた事位です、それもそう長くは付き合えなくなりそうですが」

「何それどういう事?」

「それは、また別の機会にお話ししましょう。今、私はあけみさんのお話をしています。貴方はご自身の出生を厭う程、ご自身の生そのものに違和感と、その違和感を自覚しながらも普通の男性として生きる事に欺瞞を感じ、それでも人生の途中までは親御さんや周囲の方々の望むような進学をして、望むような就職して男性としてお仕事もされていたんですよね、そしてつぐみさんのお母様と知り合って結婚をされた。貴方は相手の方の連れ子であるつぐみさんをとても大切にされていたと、つぐみさんからお聞きしています。つぐみさんは自分のこれまでの人生の中で最も自分を愛して慈しんでくれたのは血の繋がらない、たった1年だけ親子として暮らした義理の父である貴方だと、そう仰っていました」

月子さんは、つぐみちゃんがチビの方のゴロウ君におっぱいをあげながら私達に話して聞かせた生い立ちみたいなものから内容を一部抜粋し、引用した言葉をあけみちゃんに話して伝えた。つぐみちゃんは5歳のある日を境に自分の人生から忽然と消えてしまったパパが今でも大好きなのだと。そうしたらあけみちゃんは、月子さんが運んで来たコーヒーカップを渾身の力で握りしめて小刻みに震えながら、ほろほろと涙を流し、あけみちゃんにしては控えめな出勤前のお化粧を静かに洗い流していたと、それは後から月子さんに聞いた。私はその時のあけみちゃんの心情を想像したら、なんだか鼻の奥がツンとなったけれど

「そのカップ、ヒビが入っていないでしょうか、あけみさんは存外、力がお強いので」

静かにそう言いながら、祖父のお気に入りの波佐見焼のコーヒーカップを手渡してきた月子さんは、とても冷静だった。



「欺瞞よ」

「何がでしょうか」

「アンタがさっき言った通りよ、欺瞞なのよ。あの頃のアタシは虚構よ、嘘まみれなの。アタシはね、自分の思うままに、こういう綺麗な色のお洋服を着て、お化粧をして生きていきたいって思って、今でこそそうしてるけどね、だからって男に抱かれたい訳でも抱きたい訳でも、女の子とセックスしたい訳でもないの。生殖という行為自体に興味がないのよ、むしろ嫌悪してるって言ってもいいわね。その点はアンタもきっと一緒の筈よ、アタシには分かるのよ、そうでしょ?」

「それは性愛という事象への興味関心と言う事でしょうか」

「そうよ、アンタ、これまで男と、ウウン別に女とでもいいけど付き合ったことある?無いでしょ?」

「ありません。そもそも私にとって生殖、貴方が先ほどおっしゃったセックスという行為は、ただの性器同士の摩擦に過ぎません。私はそこに愉しみも喜びも見つけられませんでした。私にとって、あれはただの行為です」

「ウッソ、じゃあやった事はある訳ね」

「興味と関心が発生した事柄については一通り試す類の人間なもので。あの、話が脱線していませんか」

「そう?とにかくアタシはアンタと同じでそういうのが必要ない人間で、そういう人生を生きてる訳、コレ言っても全然みんな信じてくれないけどね。まあいいのよ人間、この歳まで来たら誰にどう思われても。この広い世界には、そういう人間もいるのよ、誰がどう居たっていい筈なのよ、誰にも迷惑なんか掛けてないんだしさ。アンタには分かるでしょ?アタシは俗世に生きる野生の修道女なの。アタシの体の内面、内臓と粘膜に触れていいのは世界中でアタシだけ。でもそういうのってド田舎の両親には絶対分からないじゃない?アタシが真面目に普通の男の子やって真面目に進学して真面目に就職して真面目に仕事して、そこまでやっても今度は「身を固めろ」って言うのよ。それがいい加減本当に面倒くさくて面倒くさくて、心底嫌になってた頃にたまたま知り合った女の子がいて、その子に形だけでいいから結婚してくれないかって頼んだの、お酒の席の勢いよ。それがつぐみちゃんの母親。不思議な子だったわ、職場の先輩がよく使う…あのねえ、デリヘルって言ったらアンタ分かる?まあ風俗のお店よ。でもその子、普段から全然お化粧もしないし、いつも寝間着みたいな恰好しててね、それにしょっちゅうお店に遅刻して、馴染み客とお店抜いて直接取引して…とにかく違反金ばっかり払ってるんだって、だからお金が無いんだってよく笑ってたわ。何考えてんのか全然わかんない子だった。その子を『取引先の会社で事務してる子』だって嘘ついて婚約者だって田舎の親に紹介したの。あの時アタシは丁度40歳だったかしら、親や周囲に自分の事を打ち明ける勇気なんかひとつもなくてね。それに40歳ってそういう…今更積み上げてきた人生をどうこうする元気も覇気も段々無くなってくる年齢じゃない?例えそれがいびつで歪んでる何かだったとしてもよ?全部を捨ててしまうにはもう人生が重く大きくなり過ぎた、そんなお年頃じゃない。だから思うままに生きられないならいっそ全部を虚構と嘘で塗り固めちゃおうって決意したのよね。それにさ、実家の方にはね、アタシよりもずっと年上で結婚についてはもう八方手は尽くしたっていうのが、結構な年になってから外国人のお嫁さんを専門の業者に仲介してもらって結婚しましたって、そういうのが結構あったのよ。まあ周囲からは色々言われるけど、そこで家が途絶えるよりはっていう考え方らしいわ。それでね、それと都会で突然どこの誰だかよくわからない若い女の子と結婚を決めて来たのとだったら親としてはそっちの方まだがマシって感覚なの、何でって?相手が日本人の若い娘だからよ。超差別的。そういう感覚って凄くない?アタシ全然ついて行けないわ。だからまあいいだろうって事にしてもらえたの。相手はアタシより20歳近く若かったし、それなら早々に孫も生まれるだろうって親も踏んだんでしょうね、一応問題ナシってなったのよ」

「で、問題ありませんでしたか?」

「煩いわね、大アリだったわよ」

あけみちゃん達は、とりあえず田舎の両親に結婚を承服させ、内々でのお披露目を済ませてから、役所に婚姻届けを出し、しばらくの間は自分よりずっと若い女の子と親子のような、もしくは老夫婦のような『そういう事』が一切何もない恬淡とした結婚生活を送っていた。そんな穏やかな暮らしが数ヶ月続いたある日、あけみちゃんの元に突然小さな女の子が転がり込んで来た、それがつぐみちゃんだ。つぐみちゃんのお母さんは、自分に子どもがいる事実を一切言わずにあけみちゃんと結婚していたらしい。その日、いつものように仕事から帰ると、あけみちゃんの家の食卓の椅子に子どもがちょこんと正座をしてハムにマヨネーズをつけてそれをお菜にご飯を食べていた。当然あけみちゃんは驚いて、ネクタイを外すのもカバンを置くのも忘れて、ハムが噛み切れず苦戦している女の子の正面の席にすとんと腰掛け、形式上の妻にこの女の子は一体どこの子なのか、そしてどうしてここに座ってハムを食べているのか、その経緯を説明してくれないかと言った。そうしたら妻である人は特にうろたえも悪びれもせず、自分もお茶碗によそった白いご飯を咀嚼しながら、この子は自分の子どもだと言ったそうだ。誰の子かは産んだ自分にももうひとつわからないんだけど、預けていた人が急に死んでしまったからここに連れて来たんだと。形式上の妻は、その言葉にあっけに取られているあけみちゃんを特に気にせずに、更にこう続けた。

「この子、今日からここに置いていいでしょ?あ、ねえ孝明ちゃんもご飯いる?」

孝明ちゃんこと、あけみちゃんはなんだかよくわからないまま「うん」と答えた。それを子どもをここにおいていいと、その答えだと受け取った形式上の妻は、あけみちゃんの為に食事の用意を始め、子どもの養育だとか引き取りだとか法律とか養子縁組とか、そういうややこしい話はそこで終わってしまって、その後この夫婦の間でこの4歳の娘について話し合われる事は特に無かったらしい。あけみちゃんは形式上の妻が食卓に並べた茶碗と小鉢と小皿を前に暫くの間茫然としていた。

結婚して形式上の妻を持つことにしたらそこに子どもが付いて来てしまった。子どもなんてそんなとんでもない責任、流石に取るつもりじゃなかったのに。

でもあけみちゃんは、特に人見知りもせず、大人用の長い箸を器用に使ってご飯を食べるつぐみちゃんをじっと見ているうちに段々と、そして強く

「…愛してしまったのよ、最愛の我が子よ」

まだあどけない4歳のつぐみちゃんに心を奪われてしまったのだと言う。それでこの子が妻の子であるのが動かしがたい事実であるのなら、それは今更どうしようも出来ない事だからと、つぐみちゃんとあけみちゃんとあけみちゃんの形式上の妻だった人は、その日から普通の親子として暮らし始めた。4歳のつぐみちゃんは、まるで初めからそこにいたかのように自然にあけみちゃんの暮らしに溶け込んだ。あけみちゃんは決して出自も育ちも幸せとは言い難い上に、手荷物はクラフト紙の紙袋ひとつしか持って来ていなかったつぐみちゃんに、洋服も下着もそれこそ帽子から靴下まで身の回りのものは全て新品の、そしてうんと可愛らしいデザインのものを山のように買い求めてそれを着せ、休みの日にはつぐみちゃんが行きたいと言った場所なら何処にでも連れて行き、自宅のマンションに天蓋のついたベッドのある子ども部屋まで用意した。そうやってあけみちゃんは自分の子ども時代に自らが切望して一切与えられなかったものをすべてつぐみちゃんに与え、それまで愛してあげられなかった子ども時代の自分自身を愛するようにつぐみちゃんを大切にした。それはあけみちゃんにとってもとても幸せな時間だったそうだ。

「夢みたいな1年だったわ。つぐみちゃんを大切にして、可愛がって、そうやってアタシは、世間体しか気にしない田舎で抑圧されてきた小さい自分を成仏させていったの。あの子の髪を編み込みにしてリボンで飾る度に、小さな爪に内緒でピンクのマニュキュアを塗ってやる度に、あの子が笑って、それでひとつずつアタシの哀しい思い出が消えていくの、凄く幸せだった」

でも、そうやってあけみちゃんの人生に突然与えられた4歳の娘を大切にすればする程、かつての自分に与えられなかったものを潤沢に与え、血の繋がらない娘との暮らしを笑顔で満たせば満たす程、あけみちゃんの中にはつぐみちゃんを自分の形代として、もしくは欺瞞の人生の道具のひとつとして扱う事が当に正しい事なのかという懐疑的で、それでいて全く解の求められない気持ちが芽を出し、ものすごい速度で大きく育って、あけみちゃんの心の中に隙間なく枝葉を伸ばした

『これで本当にいいだろうか、この子達を騙して自分の保身とする生き方って本当に正しいのかしら』

という気持ちが、そしてもうひとつ

「つぐみちゃんのママがね、ナオミちゃんていうんだけどね、その子がアタシとの結婚をアタシの人生の欺瞞の道具にしてくれなくなったのよ」

「どういう事でしょうか」

「アタシと、虚構の夫婦じゃない、ちゃんとした夫婦でいたいって言い出したの。具体的に言うと一緒に暮し出して1年位暮した頃にね、裸でアタシの布団に潜り込んでアタシのパンツ脱がして来たのよ、その時は流石に、ナオミちゃんには本当に申し訳ないんだけど悲鳴上げちゃったわよ。だからアタシそれはほんとに本気でゼッタイ無理だって言ったの、そもそもそういう約束で結婚したんじゃないでしょうって。アタシはねこういう…ドレス着て化粧して、そういう趣味趣向の人間だって事はナオミちゃんに打ち明けてはいなかったけど、自分の人生にはセックスも生殖も必要ないし出来ないんだって、そういう特殊な人間なんだってちゃんと伝えてた筈なのよ。でもナオミちゃんはね、1人が駄目な子だったのよ。母親というよりは小さな女の子みたいな子だったの。はじめの内はね、衣食住を保証されて、子どもを可愛がってもらって、その代わりに戸籍上の夫婦でいるって、そういう契約上の結婚をするのは彼女的には全然構わなかったらしいの、それで働かなくていいのならそれもいいかなって。でもね、それでアタシとナオミちゃんとつぐみちゃんとで安心できる穏やかな家庭っていうの?それを作ったらね、今度はどんなに食べる事と眠る場所に困らなくても、愛情がひとつもない家なんて空しいだけだって、自分は普段は昼間この家に子どもと2人きりで、いくら休日に色んな所に連れて行ってくれても、好きなものを好きに買ってもいいって言ってもらっても、自分の事なんか少しも好きじゃない男とこの先ずっと暮らしていくなんて、そんな辛い事、続けたくないって言い出したの」

あけみちゃんは、これは今もだけど肩幅の広いがっちりとした体躯の、そして当時は日焼けをして短く刈り込んだ髪が精悍な印象の普通の真面目な勤め人で、一緒に買い物に行けば重い荷物は必ず持ってくれるし、ナオミさんがこれまで付き合ってきた男の人のように機嫌が悪い時に突然声を荒げるような事もなければ、暴力なんて絶対に振るわない、連れ子のつぐみちゃんにも実の父かそれ以上に優しく、掃除も料理も得意で、本当に優しい善い夫だった、だからそれは

「当然の結果だと思います。何しろ相手は普通の女性です、しかもそれが元々心もとない境遇にお暮しだった方であれば、初めはただの契約だったとしても、誠実で優しい男性と安心できる暮しを築く事で、そして相手がそこに何も見返りを求めないという態度を貫く事で、その事に感謝しその感謝を愛情に置換させていくという現象は起こり得たでしょう、安心は愛情の芽のようなものですから」

「わかってるわよ、煩いわね。でも無理なのよ、出来ないもんは出来ないのよ。でもね、それをずっと、無理だって駄目だって出来ないって拒絶し続けたらナオミちゃん、つぐみちゃんを連れて出て行っちゃったの。ある日会社から帰ったら、チラシの裏のメモ書きだけがテーブルにぽんとおいてあって、あとはお家がキレイにもぬけの殻だったのよ」

「そのメモ書きには何と書かれていましたか」

「一言だけよ『さびしい』って」

「さびしい」

「その時ね、アタシはナオミちゃんに初めて酷いことしたんだって分かったの。自分の見栄の為にまだ若い、しかも自分よりずっと立場の弱い女の子を利用したんだものね。住む場所を用意して、連れ子のつぐみちゃんを大切にして、一生懸命働いてあの子達に安心できる生活を提供して…でもそうやって外目には幸せそうな家庭を作り上げたたとしてもそれは全部アタシの保身の為の虚像であって、どんなにあの子達に何不自由ない暮らしをさせてたんだって言い訳しても、アタシはあの子達の人生を自分の見栄の為に使ったって事なのよ。ナオミちゃんも最初は軽い気持ちでアタシの偽装結婚につきあってたんだろうけど結局ね、人はひとかけらも愛情のない空間になんて、そう長くは暮せないのよ、寂しさに蝕まれて自分が壊れていってしまうの。そういう意味ではね、アタシはアタシが嫌悪してたアタマが封建時代のド田舎の両親よりずうぅっとエゴイストなの、酷い人間なのよ、アタシこそが差別主義者よ。つぐみちゃんにお金を送り続けているのはね、アタシの贖罪。免罪符ね。ナオミちゃん、3年前に死んじゃったのよね、最後まで男運の無い人生だったってつぐみちゃんから陽子経由で聞いたけど、その中で一番酷いのはきっとアタシ。散々優しくして、お金渡して、家族ゴッコに付き合わせて戸籍まで利用して挙句、すっかり心を開いてくれたあの子を最後の最後で徹底的に拒絶したんだもの。あの子のその後の人生が茨の道だったのはアタシにもきっと責任があるのよ、ううん、8割くらいはアタシの責任、つぐみちゃんがそのせいでとんでもない育ち方をしたのもね」

そのように思われるのでしたら。月子さんがあけみちゃんの後悔と懺悔の言葉にひとこと返そうとした、その言葉を遮って、あけみちゃんは更にこう続けた

「アタシはね、そうやって、自己保身のエゴイズムの中で2人の女の子の人生を狂わせたのよ、万死に値する罪よ。今こうやって、自分に正直な恰好というか、もうこれはアタシの生態ね、そうやって生きているのもあの子達への贖罪。あの子達が出て行った後にねアタシ、あの子達の行方を、それこそ金に糸目なんかつけずに探偵雇って必死に探したのよ、それで償うつもりで、ナオミちゃんに間に人を介して『つぐみちゃんに養育費を払いたい』って伝えたの。それと1年間だけだけど父親だった証につぐみちゃんと、年に数回でいいから今後も会わせてくれないかってお願いしたのよ。でもね、何回か面会交流した後、ナオミちゃんが、面会交流をする事でどうしても顔を合わせる事になる元夫であるアタシにはもう会いたくないし、自分はもう虚偽じゃない本物の男と付き合ってるし、だからつぐみにも会わないでってそう言って来たの、あの子の最後のプライドよ。もう別の男がいるって言われたらアタシも流石に食い下がれなかった。そもそもがアタシ達は偽装結婚の上、つぐみちゃんとアタシは正式に養子縁組をしていなかったんだもの。その直後だったわ、もう自分を偽って生きるのは止めようってアタシが決心したのは。田舎の両親にこの恰好見せたらその場で勘当されて、故郷の土が二度と踏めなくなったけどね。それもアタシが蒔いた種よ。だからね、あの子の為にお金は送り続けるわ、あの子、小さい方のゴロウ君が大きくなる迄、だからアタシ的には一生。でも会えない。だってそれが故人の遺言なのよ。それに…だって…どんな顔したらいい訳?昔ちゃんとした男で、パパだった人間がこんな…それにお金だって結局は、自分が酷い人間だって思いたくない、そう思い至る事で自分に絶望したくないって、保険みたいなものかもしれないのよ、アタシはそういう狡猾な人間なのよ」

また声を震わせたあけみちゃんに月子さんは

「あけみさんはつぐみさんの体をご覧になりましたか?」

そう言って話の方向を突然変えた、さっき期せずして15年ぶりの再会を果たした21歳のつぐみさんの姿を、あけみさんはしっかりとその目でご覧になりましたかと。

「アンタ、アタシの辛い過去の独白と懺悔を思いっきりぶった切ったわね。つぐみちゃんを?さっき?一瞬ね。顔が昔のまんまだったわ、あの子は昔から本当に可愛いの」

「いえ、私が問題にしているのは首から下の話です。私が今日つぐみさんにお会いしてからずっと気になっていたのですが、お召しになっていたドレスから出た肩に脂肪というか肉が極端にありません。手足もそうですがまるで脂肪というものついていませんでした。例えば彼女より6つ若い美月さんもどちらかと言うと細身で小柄ですが、それは美月さんが未だ成長期の15歳だからであって、あと少し位は背も伸びるでしょうし、いずれもう少し女性らしい脂肪を身体に纏うでしょう。でもつぐみさんは既に成人の21歳です、それなのに身長が150㎝弱の美月さんより更に小さくか細い体躯をされておられます。つぐみさんは小さい頃からあのような極端に小柄で細身のお子さんでしたか」

「違うわね、背丈は幼稚園のクラスで真ん中…ううん後ろ位だったし体格は悪くなかったと思うわ、あの子の母親も体格は結構いい方だったわよ、肉感的っていうのかしら、背も高くて」

「それが21歳の今、人の目を引く程華奢で小柄なのは一体何故でしょうか。つぐみさんは貴方の庇護のもとを完全に離れた学童期以降、亡くなった母親から碌に食事を与えられず放置された事が度々あったのだと笑いながら仰っていました。それが彼女の幼少期の日常だったのだそうです。個人的にはとても笑えるような話ではありませんでした。そのような過去と、現在のあのつぐみさんのか細い体躯の形成にどの程度、関係があるのかは私には分かりかねますが、とにかくあまり健康的なお育ちであるとは言えないと思います。それに今も決して栄養状態や顔色が良いようには見えません。産後の女性はとにかく体力が落ちています、美月さんを産んだ後の陽子もそうでした」

「何よ、何が言いたいのよ」

「お金は必要です。お金で人は簡単に命を落とします。貧困の末に誰知る事無く当たり前のように餓死者が出るのが現代の世の中です」

「わかってるわよ、だからアタシは」

「同時に、人間は愛情を糧に生きるものです」

「何よソレ…」

「つぐみさんは、貴方の事を『超いい人』だと仰っていました。現在、そして過去においても彼女の人生で唯一にして最大の助け手であったのだそうです。あんなに愛されたことは無いと仰っていました。つぐみさんは非常に聡明な方です、何より逆境を生きぬく力に溢れています。子ども時代から貴方からの送金を何にどう使うべきか判断して的確に配分し、今の美月さんよりずっと年若い頃からほとんど自活するような形で暮していらしたそうです。でもこの先、小さなゴロウさんを抱えての暮しではどうでしょう、兎角手のかかる乳児を抱えた状態で、しかもあのお若さで、誰の助けも借りず1人で生きるという事、それはかつてつぐみさんのお母様が若い頃、お1人では到底抱えられなくなって、一度は完全に手放してしまった大変な重責の筈です」

「どうしろって言うのよアタシに、おかしな生態と外見の人間になっちゃったかつての父親に」

「つぐみさんは貴方の事をたった一人のパパだと、貴方を一目見た時に仰いました。それがすべての答えではないでしょうか。つぐみさんは貴方に助けて欲しいのだそうです、陽子ではなく、私ではなく、貴方に」

「あの子、本当にそう思ってると思う?」

「人はひとかけらも愛情のない空間では生きていけない、先ほど私にそう仰ったのはあけみさんです」

月子さんはそう言って珍しく微笑んだ。それを見たあけみちゃんは少しだけ考えるようなそぶりをみせて、それから一言

「アタシ、あの子のとこに行かないと…」

誰に向けてなのか、小さく呟くようにそう言ってから突然立ち上がると、紫色のワンピースの裾を軽くつまむようにして小走りに気味に廊下を渡り私達が大きなグラタン皿を囲んで大騒ぎしている食堂にやって来た、そしてきっと廊下を小走りで移動している時に感情のままに吹き出してしまったのだろう、涙と鼻水ですっかりお化粧が剝げて、猪熊孝明のかつての面影を露出した顔面で

「つぐみちゃん」

そう言ってから、つぐみちゃんの細い細い肩を抱きしめた。そして

「さっきはごめんね、アタシどの面下げてつぐみちゃんに会ったらいいのか全然分からなくて、とにかくごめんね、ごめんなさい」

そう言ってまた泣いた。海老を突き刺したフォークを握ったままあけみちゃんの厚い胸板の中にすっぽり納まった小柄なつぐみちゃんは、フフフと笑って

「やっぱりパパでしょ、嘘ついたって私にはわかるんだから」

会いたかった。

そう言って、小さな女の子のように鼻を鳴らして、大好きなパパにしがみついた。そしてこの場合もしかしたら、あけみちゃんの孫にあたるのかもしれないゴロウ君は、この15年ぶりの親子の邂逅を、祖父の名誉ひ孫として祖父の腕に抱かれたまま不思議そうにじっと見つめていた。

☞2

暦の中では春、立春の季節。でもそれに反して1年で1番寒さの厳しい2月は、私にとって本当に色々な事が起きた。

春に向けて準備をしてきた色々な事が、立春を過ぎてほんの少し芽吹き始めた、そういう季節だったのかもしれない。

まず私が、志望校にしていた公立高校の入試を待たずに、別の私立高校へ進学を決めた。それはあの日以来よくゴロウ君を連れて我が家に遊びに来るようになったつぐみちゃんが、中学生の私が平日も毎日どうして家にいるのかと、あの日の月子さんと同じ疑問を私に聞いてきた時、私が諸般の事情で中学校に行けていなんだと、その上で高校をどうしたらいいのか悩んでいるんだと、もうなんでもアリの人生を歩んで来たつぐみちゃんにほうじ茶を出しながらそう言ったら

「うわ、超わかる、私も中学で超いじめられたよ、お陰で学校とかスゴイ嫌いだったし」

つぐみちゃんが昔の自分の事を話し始めた、それがきっけだった。つぐみちゃんも中学時代、学校という場所ではそれなりに嫌な思い出を作ったタイプの子だったのだそうだ。とても意外だった。つぐみちゃんは何というか『陽子ちゃん』私の母のように明るくて強くて、あの熾烈で過酷な人生を今日まで生き抜いた根性と機動力を持っている強靭な人だ、それはそこにいる人がついひきつけられて行ってしまうようなうんと明るい強さ。皆に好かれるんんじゃないなかと私は思う。少なくとも私はこの6歳年上の姉のような友人が大好きだ。それなのにどうして、あの無作為に選別された子どもの集団の中で、生贄の子羊なんかにされたんだろう。

「そうなの?つぐみちゃんみたいな子だったら、みんなに好かれて人気者でって…そういう感じにならなかったの?」

つぐみちゃんは私と全然違うのに。

「わかってないなあ、みっちゃんさあ、自分が何でああいう所で嫌な目に合ったのかってわかんないモン?まさか自分のどっかがなんかが悪かったとか思ってない?違うよ?だってみっちゃんてちょっと可愛くてさ、成績も結構良いんだよね?だって悟朗さんの孫だし、あとは、陽子ちゃんがママとしてはちょっと規格外なんだよ。中学生の時の私は親からネグレクトされてる問題児、パパからの送金が来ないとアルトリコーダー代が払えないとかそういう奴。だからさあ、目立っちゃったんだよ、学校って目立つ奴は駄目なとこだからね。みっちゃんにイヤな事言ってきたヤツってさ、みんなしてたいして取り柄のなさそうな普通のつまんないガキでしょ、そういう事だよ」

つぐみちゃんはあの再会の日から親子としての関係を再スタートさせ、そうなってからは殊更『沢山食べなさい』と言うらしいあけみちゃんに持たされた、お稲荷さん折詰を開けて、食べなよと私と隣の陽介君に勧めてから、更にこう言った。

「世の中ってねえ、沢山人がいたらそこで異質に見えるモノは全部ハブられるように出来てんの、そういう仕組み。貧乏過ぎても駄目、金持ち過ぎても駄目、なんかよくわかんない生態の人間も駄目。パパがまさにそんな感じじゃん、だから自分に嘘ついてずっと普通のサラリーマンのフリなんかしてたんでしょ。だからさ、私はここは自分のいて良い世界じゃないな、自分の居場所はここじゃないなって思ったら次!って即離脱するようにしてんの。だから私、中学校なんか途中から全然行かなかったよ、時間の無駄だと思ったんだもん。もたもたしてると直ぐ時間が経ってお腹は減るしお金は稼げないし碌な事ないから」

つぐみちゃんはすこしぐずり始めたゴロウ君を縦抱きにしてあやしながらそう言った。相変わらずすごい潔い人生観と決断力。何ていうか感心…ううん感動する。

「じゃあつぐみちゃんは、学校が嫌いであんまり行かなかったんだ、そしたら高校は?高校の進学はどうしたの?」

「私?単位制の学校に行ってた。平日も毎日バイトしないと食べて行けない身の上だったからね、母親はいるんだかいないんだかわかんない人だったし。単位制ってね、ドロップアウトしちゃうか卒業に普通の高校の倍もかかるかってヤツも結構多いんだけどね、でも私は3年でちゃんと卒業したよ。私が出来たんだからきっとみっちゃんにも出来るよ」

超人的な気合と根性で人生の荒波を掻い潜って生きて来たつぐみちゃんと、父に叔母に兄、その3人におんぶにだっこで暮している私、つぐみちゃんはどうして私とつぐみちゃんが同じ土俵上にある人間だと評価してくれているんだろう。つぐみちゃんは多分『陽子ちゃん』の娘の私を過大評価しているところがあるんだと思う。

「そうなんだ…しかもつぐみちゃん、その後に、専門学校に進学もしたんだよね」

でも、そういう考え方もあるんだな。私は少し考えた、そう言う所に通ってアルバイトをしたら、万が一祖父に何かあって寄る辺ない身の上になっても、そこにあの母から相続したビルの不動産収入を足して、それで月子さんと一緒に2人でひっそりと生きて行くことは可能だろうか。単位制だと別に毎日学校に通いつめる形を取らなくても大丈夫だし、年齢も事情もいろんな子が来るから今のみっちゃんにとっては気持ちが楽かもよ、つぐみちゃんはそう言って、自分の通っていた単位制の公立高校と、その他にいくつか私立高校の一学科として設立されている所や、通信制の高校、そういう学校をスマホで検索して私に見せてくれた。

「普通に制服があるとこなんかもあるし、ホラ、これなんか可愛い。ゼッタイ似合う。そしたらちゃんと高校生になれるじゃん。それで高校生になったらさ、みっちゃんも私と陽介の店で働こうよ、バイト。2人で看板娘」

そう言って屈託なく笑う、親の事では散々苦労してきたんだから、私達のこの先はきっと楽しくていい事ばっかりだよという根拠のない明るい未来を預言しながら。つぐみちゃんのこういう所はなんだか本当に母に似ている。

「でもこれ私立だよ?授業料とか結構かかるんじゃないかな」

「そんなの、兄で社長の陽介に払わせればいいじゃん、ね陽介」

つぐみちゃんはこの時、私とつぐみちゃんの隣で仕入れや、業者との連絡のメール確認をしていた陽介君に話を振った。陽介君は2月の中旬のお店のオープンの準備に加えて、仕入れていたフェアトレードのコーヒーを扱っているお友達から頼まれて外国の食品や雑貨の輸入代行のお手伝いをする事になってしまっていて、それは陽介君が「実は語学について読み書きは全然だけど割と話せる」という妙な特技を持っていて、何より、多少の事に腹を立てたりしないという穏やかな凪のような陽介君の性格と3代続いた政治家の家系という人たらしの血が、行き違いの多くなる海の向こうの人達との商取引にとても有用だった為だ。あの呑気者の祖父をして

「文化と言語の異なる相手との取引や契約は忍耐を要する事が多い、俺でも血気盛んな若者の頃は偶に怒鳴りつけたくなることがあったもんだが、それを思うとあの忍耐強くて朗らかな陽介君の気性は得難い、あれなら大抵の事は大丈夫だろう、人徳だな」

そう言わしめた。3代続いたる人たらしの血が上手く働いているんだと言うのは私の言葉ではなくてあけみちゃんの感想だ。それを本人に言うとその時だけ陽介君は怒る。そして難しい英語のメールはおじいちゃんか、月子さんがキレイに正しく翻訳してくれる。

「え?何?ああ高校?」

「そ、無理に内申点がゼッタイ必要な公立なんか普通に受けなくてもさあ、私立のこういうとこに行けばいいじゃんて話してんの。大事なのはねえ、みっちゃんが楽しいかどうかだよ、高校って別にシュギョーに行く場所じゃないんだからさ」

つぐみちゃん、その理論は変じゃない?高校は勉強するところでしょ。そんなことを考えたけれど、私はそういう事は口に出さずにこの2人のやり取りを聞いていた、つぐみちゃんのこの人懐こくて無遠慮な感じを陽介君は嫌いではないらしい。陽介君はつぐみちゃんのスマホを少しスクロールしてから急にそのうちの一つに目を留めて

「あのさ、ここ、この制服が可愛いねって言ってた学校ってどう?行きたい?俺ここだったらお金はともかく、ハナシなら通せるよ?」

そんなことを言った。裏口とかじゃなくて、資料の請求とかあと入試…中高一貫の学校だから、この科にどのくらい高校からの受験生を入れるつもりがあるのかとかそういう細かい事は関係者から聞けると思うけど。

「誰に?陽介君のお友達が先生だとか?」

「いやそういうんじゃないけど、ホラ、アレ…あの理事の1人が知ってる人なんだよ、美月ちゃんなら普通に受かるだろうけどまあ私立だからさ、色々あるじゃん」

「色々?」

「そう、色々」

そんな会話をしてから3日程で自宅にその学校の資料が届き、既に秋の推薦入試と1月の1次試験が終ってしまっている今、募集定員にも入試日程にもそんなに余裕がない事が判明した。高校については

「どこかしらに進学はするべきだが、それが来年になったとしても特に構わない、何もかも君の自由にしたらいい」

そんな寛容が行き過ぎてほぼ放任と言っていいような、とても呑気な事を言っていた祖父は

「元々はミッション系の進学校だった所だな、今は英語教育に特化した学校らしい、古い学校は図書室の蔵書数があっていい。数年前に通信と通学を合わせたような単位制学科を据えたと言う事だが、進学実績も悪くないし、ウチからもそう遠くない。俺はいいと思うが、まあ何といってもそこで学ぶのは美月だ、君の好きにしたらいい」

俗人から遠く隔たったような気構えでいた祖父も流石に公立高校だけを受けさせるのはどうなのかと思っていたのだと思う。そして多分自身が育てて来た2人の娘に比べて困難に直面した際のタフさに著しく欠ける私を扱いかねていたフシのある祖父はきっと少しほっとしていたのだろう、その日の夕飯は私達にお寿司を奮発してくれた。夕餉に寿司桶からガリばかり食べながら月子さんは

「美月さんの思うようになさったら良いと思います」

そう言って取り立てて受験については賛成も反対もしなかった。でもこの話をした1週間後には、月子さんに付き添われて試験と面接を受け、更にその1週間後には合格通知を手にしていた。進学先をひとつも決めないまま卒業させるかもしれない事を相当問題視していた中学校の先生も、安心したのかもうあまり学校に来いとは連絡してこなくなったし、専願で受験をしたので、合格通知が来た後は、そのまま制服や学用品の手続きがあっという間に済んでしまって、手元には少し気の早い『春休みの課題』まで届き、私は少し困惑した。

こんなものなんだろうか人生って。その流れが淀みにはまってしまっている時は窒息してしまう程流れに足を取られて一向に前に進めなくなってしまうのに、簡単な時は本当に簡単だ。あんなに、それこそハゲてしまうんじゃないかと思う程将来の事を悩んでいたのに。このまま学校に行けなくて世界の全部に取り残されていくんじゃないか、すべてに置いて行かれる私は一体どうしたらいいのか、自分のいる世界が、まるで無人島になってしまったみたいな感覚が恐ろしくて夜中にすももを抱えて泣いたりしていたのに。

こうして私の進学先はあっさり決まってしまった。私の中期的な未来はいとも簡単に決まり、私の去年の秋からの懊悩は突然終わって、お陰で私は2月、陽介君のお店の手伝いに駆り出される羽目になった。

「人間というものは誰にでも、その人に与えられた賜物に従って仕事があるものですね」

月子さんがそう言って感心する程、2月の陽介君はお店と、それと副業なのか、それが本業になってしまうのか、輸入代行業みたいな仕事に忙殺されていた。何しろ相手は遠く海の向こうの人達だ、時差もあって急な対応を要求された時は連絡を取るのが夜中や明け方なったりする。そういう時にイヤな顔ひとつしないでPCの画面の前に座って商談し、そしてうっかり昼まで寝ていたりする。だからお店には、朝は仕込みも担当する月子さんが出て、昼は進学先の高校の課題の合間に私が手伝いに行って、昼過ぎから夕方には何故だかつぐみちゃんが偶に来てくれることになった、陽介君は寝床から起き上がり次第やって来る。人懐こくて、ちょっと口が悪くて、でも誰にでも親切で優しいつぐみちゃんがフロアに出ていると

「なんだか陽子ちゃんが帰って来たみたいだ」

と言って、元々母のお店の常連さんだったお客さん達はとても喜んでいた。そして陽子ちゃんの再来と常連さんから評されるつぐみちゃんがお店にいると、普段なら昼すぎか何なら夕方まで寝ている事もあるあけみちゃんも

「アタシの娘なのよ、1人娘。ちょっとォ!人んちの娘に気安くに触んじゃないわよッ!」

そう言って16年ぶりに手元に帰って来た1人娘を外敵から守るという名目で、自分のお店の階下にある陽介君のお店によく顔を出した。元修道女が厨房、中学生と若いシングルマザーがフロア、座席にその保護者。その間、つぐみちゃんの子の方のゴロウ君はお店の隅に置かれたバウンサーで機嫌良く過ごしていた、と言うよりそこに置かれてさえいれば、誰かが構ってくれるのでゴロウ君は寂しくない。それはなんだか妙なお店の形だったけれど、単月の売り上げは予定を遥かに超えて好調らしい。お店に置いている商品も、東北地方の特産品とか、地域の個人商店のちょっとした加工食品とか、月子さんが修道院で覚えて来た焼き菓子とか、そんなものもよく売れているし、来月はもう少し仕入れの量と幅を増やしたいというのが社長、陽介君の気持ちらしい、そこにいる人が皆生き生きしていて、それが何だか私には嬉しかった。毎日月子さんとメールをしているらしいこの店の保証人の雪野さんも店舗の滑り出しが好調である事にほっとしているらしかった。

母の店は、姿かたちと業態を少し変えたけれど、私の『母の思い出』と一緒にこのままここに残る。

私は、陽介君が初めて私の目の前に現れて、そして私達に言われるままに今陽介君が暮らすあの部屋に泊まる事になった日に

「人間って死んでしまったら死んだ本人の体も、その周辺にあったものも何もかもが消えて無くなるだけなんだと思ってたんだけど、全然そんなこと無いんだね。消えて無くなるのはその人の体だけで本当はいろんなものが消えずに残るんだ」

そんなことを言っていたのを思い出していた。そんな毎日を過ごしていた。

私は、図らずも兄である人に春になる少し前、宙に浮いたような隙間の期間の居場所を提供してもらう形になって、毎日、それだけは人より上手に出来る自信のある、コーヒーを丁寧に淹れた。ちゃんと一回一回豆を挽いて、それからネルフィルターでよく蒸らして淹れるコーヒー、それは

「自分の事を訪ねてお客さんが来てくれたらね、来てくれてありがとうって気持ちでお茶を淹れてあげなさい」

お客様への感謝の気持ちをちゃんと形にする、その手の躾だけは煩かった母から習ったものだ。母の店の元常連さんは

「ここのコーヒーは美味しいね。豆は何処のを使ってるの?それを誰が淹れてるの?ホントは陽子ちゃんが厨房に隠れてるんじゃないの?」

皆、その陽子ちゃんの娘の私がコーヒーを淹れているのを知っていてそんな事を言って笑ってくれる。働くって楽しいなあ。なんだか心からそう思った。母も毎日お店の鍵を開けて掃除をしてグラスを磨き、カラオケマイクの調整をして、それからお客さんの為の料理を、キンピラとか鶏皮の和え物とかそういうのを何品も作りながらそんな事を思っていたんだろうか。

『戸籍の上の父はいないし、母は早死にして、年老いた年金暮らしの祖父を保護者にしている登校拒否の中学生』肩書だけだと悲惨でしかない私の人生がほんの少し上向いてきたような気がした頃、その人はある日、突然お店にやって来た。

まだご新規のお客さんより常連さん、母のお店の馴染みだったお客さんばかりが来るこの店に来る新規のお客さん、一見さんは私には直ぐわかる。きっとお店に出た事で私にも母の「一度見た人は忘れない」というあの特殊能力の遺伝子が今、私の体内で覚醒して活性化してきているんだと思う。それでその人が、ダークグレーのスーツを着た、ちょっと俳優のように見える50歳位の男の人がお店の扉を開けて入って来た時、初めてのお客さんだと思った私はいつもの1.5倍位の笑顔をその人に向けた。いらっしゃいませ、開いているお席にどうぞ。そう言って見上げたお客さんの顔はどこかで見たような顔で、そしてその人は私の顔を見て少し驚いたような顔をした。

誰だろう。どこかで会った人?でもお客さんじゃないよね。

その人は窓際の2名席に座って直ぐ、メニューも見ないでコーヒーをひとつ注文し、オーダーを取った私は奥に引っ込んだ。朝のモーニングが終り、商店街が活気づくほんの少し前のこの時間はとても静かだ。このわずかな静寂の間に朝の片づけをして昼の用意、月子さんは昔修道院で作っていたというバターケーキを焼いて、陽介君は昔お世話になったカレー屋さんのレシピでカレーを作る。昼にはつぐみちゃんがゴロウ君と一緒に、もしくは祖父、この場合私の祖父にゴロウ君を預けて少しの時間来てくれる。私はコーヒーの豆を挽きながら、厨房で後片付けをしている陽介君にひとこと

「ね、あのお客さん、陽介君わかる?なんか見た事ある顔の人なんだけど」

そう聞いた、陽介君は窓際の席からは死角になるカウンターの隅から少し身を乗り出してその人の様子を確認して、持っていたお皿を取り落としてひとつ割った。あれはウチの納戸から持って来た九谷焼だ、このこと、祖父には黙っておこう。

「美月ちゃん、あのさ、今ここから出ないでよ」

「なんで?コーヒーは?」

「いいから」

決然と言い捨てて厨房を出て行った陽介君の声がいつもよりずっと低くて厳かだと思ったその時、私は急に今一番日当たりのいい窓際の座席でお店の中を物色するみたいにして周囲を見渡している人が一体誰なのかを思い出した。

あの人、父だ。

☞3

この少し前、父である谷川光太郎はある企業から多額の政治献金を受け取ったという話題で週刊誌や新聞の一面を賑わせていた。

厚生労働大臣の谷川氏が受け取った政治献金は、個人の名義で実際は米国に本社を置く製薬会社から、それが資金管理団体へ3,000万、氏の一族会社にも同額の評価額である絵画が譲渡という形で渡されている。その多額の献金が氏の手に渡ったその直後に当該の製薬会社が開発を進めていた新薬の認可が前例のない速度で認可されている、その事の持つ意味は一体何か。

そんな感じの記事を私も新聞で読んだ気がする。何なのかって手心とかいうやつなんじゃないと思うし、政治献金て寄付ってこと?それって貰っていいものなの?駄目なの?そんな事をその時に横にいた渦中の大臣の息子の陽介君に聞くと、陽介君はそもそも政治献金が何なのか自分にはよく分からないと言った。そのまた隣でつぐみちゃんから預かったゴロウ君を抱いてご機嫌を取っていた祖父が、いや企業献金が政党ではなくて政治家個人に渡る事は基本的に一切禁止なんだと教えてくれる迄、私達兄妹はスマホを検索していた、その位、父にまつわる事件のあらましは私にはよく分からない世界のよく分からない出来事だった。だからその時の自分には特に何の驚きも感慨もなかった。肉親とは言え、認知もされていないし、直接会った事もない父だ。私には、母の友人で雪野さんの事だけが心配だった。だって雪野さんはこの父の妻な訳だし。私は適応外の自責の念を直ぐに背負いこんでしまう雪野さんが、こんな報道を見て精神的にまた落ち込んだりしないだろうかとそれだけが心配で、月子さんにまた出来るだけ頻繁に雪野さんの様子を見に行って欲しいと頼んだ位だ。でも雪野さんはこの頃、陽介君の将来が決まったたからなのか、それとも何が起きても特に同情も励ましもしないただそこにいる奇妙な友人を得たためなのか、この件で特に内面を傷つけて心をささくれ立たせているような様子はなく

「いっそ辞任して全部清算して荷下ろしした方があの人も楽なのかもしれないわ。あの人ね、夫ととしては本当に酷い最低な人間だけど、ああいうところでやっていくにはちょっと情がありすぎるのよ」

最近始めた地域の文化教室の講師を始めたらしい雪野さんが、練習だと言って、盆手前で薄茶を立てながら淡々とそんなことを言っていたそうだ。ざまあみろとは言わないで。15歳の、父親のいない家庭に育った私には長く連れ添った夫婦の機微というものはよく分からない。

父はその報道が週刊誌に出た時期から今まで、のらりくらりと記者質問と報道を掻い潜って暮らしているようだった。体調不良とその療養の為という名目で、私達の家からそう遠くない病院に入院したのはつい最近だ、息子の陽介君が言うには

「ほどぼりが覚めたらまたシレっと戻って来るよ、秘書を切り捨てて逃げ切ると思うけどな」

そう言う事らしい。何と言っても度重なる女性スキャンダル、隠し子、女子大生キャバクラ嬢と赤ちゃんプレイを乗り越えて政界の荒波を泳いでいる人だ。

「あの人の事だから生き残るよ」

そう言って特に心配もしていなかった陽介君も流石に『入院中』の筈の大臣が、お供もつけずに商店街の喫茶店に突然あらわれた目の前の事実には驚いたらしく、慌ててカウンター飛び出してフロアに出て行き、悠然とまだ開店前の店の並ぶ商店街の景色を眺めているその人、大臣であり父である人に小声で訊ねた

「ちょっ、何してるんすか、ここで」

「俺?コーヒー飲みに来た?駄目なの?何ここ会員制?」

「そうじゃなくて、自分の立場分かってます?企業献金疑惑で入院中の大臣」

「カタい事言うなよ、ホラ、ここって息子の店なんだろ?」

「元愛人の店の跡地だよ」

「まあそう怖い顔するなよ、あホラ、コーヒー来たぞ」

よく見たらよく似ている親子の小声の押し問答の間にコーヒーが出来上がってしまって、奥の厨房のオーブンの前に月子さんはいたものの、かつてこの父である人の家に灯油のポリタンクを持参し、話し合いが決裂した時には家に火を放とうとした人に給仕を頼むのも良くないかもしれないと思った私は、自分でコーヒーを席まで運んだ。いつの間にか背後にトレーを持って立っていた私に陽介君は暗闇のクロネコを見た時みたいに小さな悲鳴を上げた。

「うわ!びっくりしたぁ!」

多分陽介君は立場的にこの人と私を至近距離で対面させることを避けたかったのだろう、兄としてこの人から私を守らないと、苦手でも父に立ち向かおうという克己心みたいなものを先に立たせていた。それは嬉しいけれど私としては相手が誰であれお客さんはお客さんだし、それに父と言っても今まで一度も会った事も無い。だから少し前にひと悶着あったあけみちゃんとつぐみちゃんの親子のような互いへの思慕も、葛藤も、愛憎も本当に何もない他人だ。何もないだけに私はこの人を恨んでいないし、そして特に好きでもない。

「どうぞ」

生成り色のテーブルクロスの上に、益子焼の素朴な乳白色のコーヒーカップをそっと置くと、その人は私の顔を覗き込むみたいにしてこう聞いて来た。

「うん、ありがとう。あのさ君…中原美月ちゃん?」

「ハイ」

「美月ちゃん、中戻った方がいいって」

私の名前を呼んだ父に陽介君は焦って私の腕を軽く引いたけれど、私はそんなに気にならなかった、むしろもっと極悪非道、冷徹な感じの人かと思っていた父がなんだか優しい、いや違う、極めて軽いノリの人間だったことに少し驚いたし、それになんだか少し興味を持った。この人が母を裏切ってその結果雪野さんも裏切って、その後も懲りずに愛人を山ほど拵えて女子大生と赤ちゃんプレイで最近は企業献金疑惑で週刊誌に載っちゃった人?

「俺、誰だかわかる?」

「女子大生と赤ちゃんプレイの人」

陽介君は私の顔を見た、驚いているみたいだった、そして父である人は苦笑いした。

「いいなこの子のこの忌憚のない感じ、陽子に似てるのかと思ってたけど、なんだか陽子の妹、えーと月子ちゃんか、そっちに似てるなあ、名前も太陽の陽じゃなくて月だもんな」

「母と月子さんは双子だから、見た目が似てるとしたらどっちにも似てるってことになりませんか、あと私は母と月子さんにはあんまり似てません」

それよりも私と陽介君がよく似てるんだから、もし外見が似ていると言う事だったら私が似てるのは貴方だと思います。とは何となく言いたくないので言わなかった。

「あの、こんなところに1人でいていいんですか?入院中なんですよね、今」

私は陽介君と同じ疑問を父にぶつけてみた、それに入院中じゃなくてもこういう要人と呼ばれる立場の人にはお付きの秘書さんだとかSPだとか言う人がもれなく付いて来るものなんじゃないだろうか。

「抜けて来た。いいんだ、体調不良なんて嘘だし、それにどうせ首の皮一枚だからなあ、今の俺は」

「貰っちゃいけないお金、貰ったから?」

「あ、知ってるんだ」

「新聞に出てましたから、なんか大変ですね」

大変そうには見えないけれど、状況だけは大変そうな人に私はそう声をかけてみた。『大変そうな感じ』ですね。その言葉に父である人は少し笑った。

「うーん、ソレなんだけどさあ、世話になっている超エライ人が企業からお金を受け取っちゃったんだよな、そこに俺も居合わせて、それで責任を全部おっつけられたって言っても誰も信じないだろ?何をどう説明してもさ、今の俺には日本中、全方向、逃げる場所なく石が飛んできてるんだもんなあ。美月ちゃんて今…ええと15歳だっけ?なら分かるかなあ、世の中はさあ、と言うより特に俺のいる世界っていうのはさ、どこにどう上り詰めようが、下げたくない頭を下げて、組したくない企みに組して、そういう風にやらないと生き残っていけない所なんだよ、大義を成すための些少の汚れ仕事には喜んで加担する、そういう世界なんだよなあ、分かる?」

「全然。じゃあホントはお金貰ってないの?」

「イヤ、貰った」

「ならダメじゃん」

「厳しいな、あ、タバコいい?」

「ここ禁煙だから駄目です」

「最近は全部そうなんだよなあ、ホント世の中、厳しいよなあ」

フフと笑った顔が陽介君によく似ている父は、思っていたのとは全然違う人だった。というより思えば私は父である人が、一体どういう人だったのか死んだ母からあまり聞いた事が無かった。初めから無いものを、人間はそれほど欲しいとも恋しいとも思わないものだ。父は私の淹れたコーヒーを飲みながら、自分の事を話し始めた、なんだかせいせいしたような顔をしながら。

「政治家ってさあ、国民の皆様の為ご要望にお応えするのが仕事なんだよな。俺はさあ、そういう家に生まれて将来を嘱望されて育って来たんだよ。幸い、アタマも悪くなかったし、顔かたちも結構見栄えする、それで両親もこれは行けるって踏んだんだよ。それで望まれるままにここまで来たんだけど、最早これまでかもなあ。雪野に見捨てられた段階でもう俺は落ち目だったのかもな。おい陽介、俺、辞任するぞ。『泣いて馬謖を斬れ』って党の偉いじいさんに直接言われちゃったからな。秘書の1人におっかぶせてそいつを切れってことなんだけど、流石にそれはできない、秘書って言ったってオマエも知ってるだろろうけど先代から引き継いだ、俺の兄か父かってヤツなんだぞ。俺、これからちょっとモテなくなるだろうなあ、まあそれも致し方なしかな」

「何…?バショク?…着る?」

父の言葉に陽介君が首を傾げた。そうしたらカップの底のコーヒーを一気に飲み干した父は

「オマエ本当に漢字と諺と四字熟語が駄目だな、漫画でいいから三国志位読んどけよ。爺だらけの政界でも経済界でもアレは必読書だぞ。ホントに相変わらずのバカさ加減だな、よくそれでちゃんと大学卒業できたもんだよなあ、アレ?1年留年したんだっけ?」

そう言った。父の事はどうでもいいけれど、兄の陽介君を馬鹿だと言うのは妹としては少し面白くないなと思う。

「蜀の諸葛亮が可愛がってた配下の馬謖が命令に従わないで魏に負けちゃってね、それを泣く泣く斬罪に処したっていう、規律を守るために大切な人にも罰を与えるって、そういう三国志のお話だよ」

「美月ちゃん、なんでそんなに何でも知ってんの…」

「三国志、好きなんだもん。お母さんも好きだったんだよ、昔の友達にもらったんだって、漫画。あの、ひとつ聞いていいですか」

「うん、何?」

「なんで母を人生から切り捨てちゃったんですか、秘書さんは切れないのに?」

「…そうだよなあ、ソレ聞くよなあ」

父は頭をガシガシと掻いて折角セットしてある髪をボサボサにさせながら言った「だってさあ」。だってさあだって、50歳位の男の人ってみんなこんな話し方するんだろうか、高校生みたいだ。

「いやなんかさあ、正直なとこ、俺みーんなに良い顔したいんだよ、偉い人にも、有権者の皆様にも、周りの人にも、親にも、ちやほやしてくれる女の子にも、みんなに良い顔して、握手して、大丈夫ですよ、お引き受けしますよ、君の事好きだよって言って…そうしたら段々首が回んなくなって、今回いよいよ自分を切る事にしたんだって言ったら君…怒る?」

「怒る」

昔々母が父を評して「優しい人だった」と言っていたけど、それってこう言う事か、優しくて駄目な人なんだ。悪い人じゃない。でもみんなに良い顔したくて、辛辣だったのは妻の雪野さんにだけ。それは雪野さんがとても穏やかで優しくて常識的で、何より不動の地位にある妻だからだ。でもそれってつぐみちゃんの言ってた駄目な男の典型で見本だ。私は呆れてコーヒーを飲み終わった父の顔をじっと見つめた。兄によく似ている顔、と言う事は私にも似ている顔。

「怒るは嘘です。なんか別に、貴方には…谷川さんには何の恨みも無いって言うか、あんまり気にした事が無かったって言うか。私、わりと普通に育ったんです。今思えば母も祖父も周りの大人みんなが私が寂しい思いをしないように、不自由ないように気を配って、大切にしてくれていたんだと思います。去年の12月に母が死んじゃってここしばらくはちょっと元気なかったんですけど、母の遺言で叔母も兄も、その兄のお母さん…ややこしいけど雪野さん、他にもいろんな人が母のその遺言に従って私の所に集まって来てくれて、だから割と貴方がどういう気持ちで母との間に私をもうけて、その後母から逃げたのかって、今、ちょっと正直すぎな気持ちを聞いても何ともないって言うか、意外と大丈夫でした。あの、それより」

あなたは大丈夫ですか。

そう言おうとしてやめた。この人はなんか、根拠は特にないけど大丈夫そう。

「そうか、それなら良かった。なんか申し訳ないな俺がこんなんで。悪いね。でもさ、あのアレ、君の行く高校?俺の方から話通しておいたし、あそこ寄付してくれってお知らせが毎学期ごとに相当煩いけどその辺は全部俺んとこに回してよって言っといたから」

「え?何?何が?」

私は父が突然高校の話題を振ったので驚いた、何?寄付?

「俺んとこの婆さん、俺の母親だから君の祖母か、それがあの学校法人の理事の1人なんだよ、卒業生でさ、まあ名前貸してるだけなんだけど。陽介から珍しく連絡が来たと思ったらそういうハナシで俺も流石に驚いた。それで君の事、俺の親類の子だからひとつよろしくって言っといたから」

父はそう言って立ち上がると、スーツの内ポケットから、じゃあハイコレ入学祝い、と言って大きな蝶々結びの水引のついた祝儀袋とコーヒー代の千円札を私の持っているトレーにポンと置いて、そのまま店を出て行った。その時最後に一言だけ。

「陽子の遺言、俺にも来たんだ、アンタの事はムカつくけど許さないけど死ねばいいと思ってるけど『娘の美月をどうか頼みます』だって」

俺に出来る事なんて今更何もないだろうし、娘だっていう君はそもそも俺を知ってんのかなって色々考えたけど。高校、大臣の辞任前ギリギリセーフでよかったよ、辞任後だったら俺母親にこんな事話してる場合じゃなかったんだ、帳簿で殴るんだぜ52歳の息子をさ。まあでも役に立ってよかった、そう言ってひらひらと右手を振った。

それで15年前の不貞というのだろうか、結婚詐欺まがいの不誠実な出来事が帳消しにはならないし、突然父が私の父として慕わしい、愛すべき人間になるという訳では全然一切全くないのだけれど、私は

「なんかあの人、谷川光太郎さんは、凄く悪い人って訳じゃないんだ」

そう思った。それを父の使ったコーヒーカップをテーブルから下げながら陽介君に言った。

「もっと呪うべき人物で終生許さないみたいに考えないといけない所にいる人なのかなあと思ってたけど、なんだか飄々とした人だったね、憎めないっていうのはああいう人の事を言うのかな、あの人辞任したらどうなるの?無職?ニート?ならお家に居づらくなって大変だね、元気なのに何にもしてないって、相当居心地悪いもんね」

それを聞いた陽介君は鼻息も荒く

「甘いよ、美月ちゃんはあの人と一緒に暮らしてないからそんな事思えるんだよ。あれはマジでやばいレベルのええかっこしいなんだからさ、外面だけで生きてるタイプの人だよ。まあ…でも確かに政治家の中ではまだ人殺しはしないタイプ…そこまで酷くはないかもね、冷酷非道って感じの人じゃない。それは俺にも何となく分かってるんだ。あの人が父親じゃなかったらもう少し好きだったかもしれないな。何ていうのかな…政治家一家の呪いの中で上手く役割を果たしちゃったタイプの人なんだよ、あの人は。来るものは拒まず、隣の女の子が笑ってくれたらとりあえず手は付ける、貰えるものは貰っとく、参加できる企みにはもれなく参加、お陰でお母さんと俺は相当大変だった」

この先、お母さんの事はどうする気なのかな、まあでも一番の被害者は美月ちゃんなんだからもっと恨んでもいいし、もっと金払えって言ってやればよかったのに。大体辞任しても議員なんだし、もし失職しても実家の会社があって食うには全然困らない人だから。陽介君はそんなことを言ったけれど、私は、この世界に心から恨むような人が存在していなかったことを本当に良かったと思ったし、そう思えた事が結構嬉しかった。それを父が帰ってしまった後、焼き上がったお菓子をひとつずつ綺麗に小さなセロハンの袋に包んで、レジ横のショーケースに収めている月子さんに、さっき父である谷川光太郎がふらりとコーヒー飲みに来たんだよと、そして顔を合わせて初めて分かった事だけど意外にも私はあの人を私は恨んだり憎んだりしていないみたいと伝えた。そうしたらかつて、かの父の邸宅に放火を企てた月子さんは少し考えてから、静かに、そして穏やかにこんなことを言った。

「怨憎会苦という言葉がありますね、仏教の言葉です。俗世にあって怨み憎む者にも会わなければならない苦しみのことです。人を憎む事はとても力を要します、誰より憎む感情を抱えた己は苦しいものです。そしてそれはとても不毛でその人の魂を汚します。貴方が実の父を恨む気持ちが微塵も無いと言うのは、貴方にとっての恵みですね、とても良い事です」

そして寄付金はお言葉に甘えて先方に払っていただきましょう、月子さんは最後にしっかり者の片鱗を見せた。実はああいう学校は、強制はされないけれど寄付だとかちょっとした積立金が意外に高くて、その年間経費を月子さんは既に計算していたのだそうだ。

「月子さんは今も怨んでるの?あの…大好きな双子の姉を騙した人だって」

「いいえ、私にはもうそんな風に誰かを強く憎んだりするような力は残っていませんから」

貴方と世界と、最近この店に出入りしている小さな命を愛しているだけで私にはもう精一杯です。そう言って、白い手をせっせと動かして、ショーケースに素朴なバターケーキを真っ直ぐ、几帳面に並べていた。

私はその時、つぐみちゃんにいつも、貴方は痩せすぎですから沢山召し上がってくださいとばかり言っている月子さんの、白いリネンのシャツから出ている腕がとても白くて骨ばっているのを少し気にしていた。月子さんは、初めて会った12月から2ヶ月と少しの間に、少し痩せてしまっているように見えた。

その月子さんが、帰ると言い出したのは、私の高校の入学式が済んだ4月の最初の週の事だ。

その時「1人親、無職、書類上は無収入で天涯孤独」と言う最高グレードの条件を武器にして、激戦区だったらしいこの地域の保育園の入園競争に勝利したつぐみちゃんを囲んで、私と陽介君とつぐみちゃんは、ゴロウ君が保育園で使うお昼寝布団のシーツを縫って、それから保育園で使用する沢山の服やタオルや帽子、とにかくすべてあらゆるモノに名前をつけていた。ゴロウ君は、この家にいる時はいつも通り祖父の部屋で祖父の膝の上だ。

これは、つぐみちゃんが針仕事が全然駄目で、ついでにあけみちゃんもこういうのは一切駄目で、絶対こんなの入園までに用意出来ないとお店で文句を言っていたら、陽介君が

「いいよ、俺縫ってあげるよ、持っておいでよ」

そんな事を言ったからだ。陽介君は漢字は読めないけれど、手先が本当に器用で、料理も上手だしこういう細かい作業もとても上手だ。お店で使っているクロス類も陽介君が縫い上げた物だ。陽介君は祖母がその昔この家に持ち込んだと言う年代物のミシンを使って小さなお昼寝布団のシーツを袋状に縫い上げ、ついでに着替えを入れる巾着袋と手提げかばんまで作って、つぐみちゃんを感動させていた。

「社長、超器用、役に立つ、すごい」

ゴロウ君の入園に際しては、陽介君がつぐみちゃんの就労証明書を出した、つぐみちゃんはこの春から正式に陽介君のお店の社員になったからだ。つぐみちゃんが社員として雇用されて朝から夕方まで勤務して、私は夕方からのアルバイトを週3回、忙しくてどうしようもない日には雪野さんまで駆り出されて、お店は何とか軌道に乗っていた。

そんなお店の定休日の今日、突然、この時間は近くのカトリック教会のミサに行く筈の月子さんは12月のあの日、母の葬儀の日に着て来ていた黒いワンピースを着て、古ぼけたボストンバッグに身の回りの品物、聖書とロザリオとそれからわずかな衣類を詰め、何の飾りも無い黒いローヒールのパンプスを玄関の三和土に置いてから、居間にいた私達に静かにこう言いに来た。

「それでは、帰ります」

帰る?どこに?月子さんのお家はここでしょ?そう言おうとして私は声が出なかった。月子さんはいつも通りの、表情の無い表情をしていた。それは冗談とか嘘とかじゃない、本当の本気の表情だった。

「陽介さん、つぐみさん、お店の細かい引継ぎについては先日お話した通り、文書にしてお店の方にお残ししています。お2人ともどうぞお元気で」

「つぐみちゃんと陽介君は知ってたの?」

私は、月子さんが当たり前のように私以外の2人に挨拶をしたのを聞いて、思わず大声を出した。どういう事?じゃあおじいちゃんもこのことは知ってるの、私だけが何も知らないの。私が声を震わせて、月子さんは一体何を言っているのかと詰問するような声を出していたら、奥からゴロウ君を抱えて祖父が出て来た、そして私に

「美月、月子はな、見るべきものは見たし、成すべきことは成したと、そう言うんだ。だから京都のあの修道院に戻るんだと。人は信じる事、心のある場所がいつも自由であるべきだと、俺はいつも言ってるだろう、本人がこう言う以上俺も了承するしかない。まあ俺が月子が向こうに帰ると決めたと聞いたのはついこの前だ、俺だってこの地にひところは仕事を求めて、ついこの前陽介君の会社に就職した月子はこのまま終生、ここに暮らすものだと思っていた。君が驚くのも無理はない。月子、せめて美月と駅まで一緒に行って事の経緯を説明してあげなさい、何も説明せずに帰ってもう会えませんじゃあ、美月にはあんまりだよ」

4ヶ月、家族として一緒に過ごしたんだ。祖父がそう言うので私は理解も納得も出来ないまま玄関の隅に会ったスニーカーを履いた。すももを抱いて玄関に来た陽介君は、すももと一緒に月子さんに深々と頭を下げ、つぐみちゃんは少し鼻をすすって

「バイバイ」

と言った。そのママの言葉に反応したのか、ゴロウ君も小さく手を振ったように見えた。

何が何だか分からないまま、私は喪服の月子さんの後ろについて、すっかり散ってしまった桜並木の並ぶ駅までの道を歩いた。月子さんは以前、冬に一緒にこの道を歩いた時よりも痩せていた、骨ばった脛の細さや、まとめ髪から見える白いうなじがはっきりとそれを私に教えてくれていた。

「本当は、もう少し長くここに留まるつもりでした、その筈でした」

その為の自活の費用として仕事も探し、縁あって就職もしたが、急な事で申し訳ないと思っている。月子さんが、商店街の喧騒の中で突然そう言った時、私はその言葉に対して喧嘩腰になってその言葉をもう一度聞き返した。

「え?何?だって月子さんは修道院やめてきたんでしょ、留まるも何も、ここに帰ってきたんじゃないの?ずっと私と暮らす事にしてたんじゃないの?」

そう、月子さんはそもそも、私の母で姉である中原陽子の死の一報を受けて修道院で生涯を過ごすという宣誓、終生請願を前にこれまでのすべてを投げうって、この地に帰って来た筈だ。そうでしょ月子さん、修道院は月子さんの居場所じゃなかったんでしょ?私はそんなことを月子さんの背中に私にしてはしっかりとした口調の、大きめの音量で問いただした。

「それは、半分は真実ですが、半分は虚偽です」

「え?何?嘘ついてたの?」

「いえ、私は修道院という場所に私が求めていたものを見つけられない以上、そして姉の陽子への執着が捨てられない以上、かの地ですべてを清算し、辞めてしまうつもりで、修道院を出てきましたが、そこにある姉妹達は惜別の時『貴方の命のある内に貴方が成すべきすべてを成す事が叶ったら、必ずここに戻って来なさい』と、そう私に言ってくださいました」

そして図らずもそれは予想を上回る速度ですべて成し遂げられました。そう説明する月子さんの説明が私には皆目わからなくて、私は月子さんに

「成し遂げるって何を?命のある内にってどういう事?」

「陽子の遺言です」

「は?」

「貴方の事を頼むと、貴方がこの先の人生を生きていくための力を授けてあげて欲しいと私に依頼した事をです。そしてそれは思いがけない程沢山の方々の助けを借りて、驚くほどの速さで成し遂げられました。貴方はもう大丈夫です」

貴方はもう大丈夫です。そんなことを言うので私は月子さんの後ろで首を左右に大きく振った。

「大丈夫じゃないよ、月子さんがいないと寂しいよ」

「いいえ、貴方はもう大丈夫です。かつて私と陽子は、同じ日に同じ親から生まれましたが、陽子は先に死んでしまいました。私は陽子の死の一報を聞いた際、どうして自分がこの世に残されたのか、あの陽子が死んでこのでくのぼうの自分がここに生きて残されたのか、それをとても不思議に思いましたし、その疑問を抱え続けていましたが、この数ヶ月、貴方と過ごして陽子がそのような運命をたどった意味と意図、全てを理解しました」

「お母さんの死んだ意味?意図?病気で思いがけずうっかり死んだんだよ?」

「いいえ、命が尽きた事、それ自体の事ではありません、貴方を私に頼んだことがです。これは陽子の遺産です」

「遺産?」

「貴方を通して、私はこの生涯を賭して最も知りたかったことを知る事を出来きました。私は今、最期にして初めて己が生まれてきた事を善い事だと、そう思う事ができています。それを可能にしたのが陽子の遺産である貴方だと言う事なんです」

何が何だか分からない、いや、分からないようにしているんだ、私は月子さんが何を言おうとしているのか分かっている、でもその言葉を煮詰めた本質の部分は何も聞きたくない、聞きたくなくてつい

「京都の修道院に手紙を書いていい?」

そんなことを聞いた。そうしたら月子さんは

「お返事は遅くなるかもしれませんが、構いません、お待ちしています」

そう言って、そこで私たちは駅に辿り着いてしまった。改札を通って電車を待つ間、私と月子さんはもう何も話さず、電車が来てそして扉が閉まる直前、月子さんは私にこんなことを言った。

「貴方の事が本当に大切でした、ありがとう、幸せになりますように」

月子さんはあの12月の葬儀の晴天の日に突然現れて、桜の散る花曇りの4月に、突然元いた場所に帰って行ってしまった。



月子さんが帰ってしまってから、私は何度か月子さんのいる修道院に手紙を書いた。高校は結構と楽しいとか、ゴロウ君が熱を出しておじいちゃんが慌てて救急外来に連れて行ったとか、雪野さんとつぐみちゃんが意外と仲良しだとか、そんな他愛もない事を。でも月子さんが言った通り、返事は来なかった。そして私はどうして手紙の返事が来ないのか、それを少しわかっていたけれど、はっきりとその理由と真実を脳内で言語化はしないまま、その手紙が私の元にやって来たのは夏の始まり、梅雨明け最初の日曜日のことだった。

白い封筒に丁寧に記された美しい文字は、月子さんがもうこの世の人ではない事を、最初に私に伝えてくれた。


中原美月様

この程、私達の姉妹、シスター・マリア・マグダレナ・中原月子は、神の国に帰天いたしました。

私は今、この愛する姉妹の最後の願いを届けるために、シスター中原の姪御さんである中原美月さんにお手紙をしたためています。

シスター中原の重い病が発覚したのは、昨年の秋頃でした。わたくしどもは既に地上での生き方も、そしてこの土の器が朽ちて無くなった後の魂の行先も、すべて決まっている、迷いのない人間ではございますが、シスター中原は我々の中にあってまだお若く、この地上でのなすべき仕事も未だ多く残されている我々にとっては大変に大切な方でした。

そのため我々としては積極的な治療をすることをシスター中原にまずお勧めしました。もしそれでも病気が篤く、命をこの地上に繋ぐ事ができないのが神様の御意思なのであれば、せめて苦しみの少ない穏やかな日々をわたくしども姉妹と過ごす事にいたしましょうと、そのように提案をいたしました。

しかしシスター中原はもし、自身の命が短いのであれば、自分にはここではない別の場所でなすべきことがあると強固に主張され、ついにはこの修道院と離別をしたいと言い出しました。誰よりも清貧と貞潔と従順を実践し神と共に歩んで来たシスター中原のその強固な態度に我々はいささか狼狽いたしましたが、我々はシスター中原を信じ、神様を信じて彼女が在るべき所に在るようにと、希望された場所にひとまず送りだす事に致しました。

何と言っても、すべては神様がお決めになる事です。

そうしてすべてを、貴方が地上でなすべき事柄を実践し終わった時には、必ずまたここに戻って来るようにと伝え、ここでシスター中原を祈りつつ待つことにいたしました。

そしてこの春、我々の元に戻ったシスター中原には、もうこの地上での時間はあまり残されてはいませんでしたが、我々の元に戻ったシスター中原はこれまでとは違う、とても穏やかで優しいお顔をされていました。これまでのシスター中原はいつも思いつめたような表情をされている人でしたが、シスター中原は、地上にあってどうしても知りたいと感じ、そして実践するべきだと考えていたことを成し遂げられたのだそうです。それが彼女を命の終わりに際して平安に導いたのだと我々はそう理解しました。

シスター中原がもういよいよ、言葉を口にする事も少なくなって来た梅雨のある日、私は病床のシスター中原に、貴方が地上で、修道院の外の世界で一体何を成していらしたのかを教えてはくださいませんかとお聞きしました。シスター中原が『愛』という物の正体と本質を知るために長い旅を続けてきた事を私は知っていたものですから。その事を是非お聞きしたいと思ったのです。そうしましたら、シスター中原はひとこと

「誰かの為に死ぬことです、今、それを成そうとしています」

そうおっしゃいました。そうして自分が死んだら、何も遺せるものはないのだけれど、ひとつ身に着けていたものを美月と言う名前の、大切な15歳の姪に送って欲しいと、私に普段お使いになっていた銀色の縁の眼鏡を託されました。

それを今、貴方にお送りして、わたくしのシスター中原への鎮魂の祈りとしたいと思っています。

余談ですが、その昔、まだこの地の人々の祈りの言葉が外国の古い言葉であった時、海の向こうからいらした神父様はこの土地の人々に『愛』というものを説明しようとして、それを『大切』と翻訳されたそうです。

そしてシスター中原は、美月さんの事を大切だと仰いました。

シスター中原が長い旅の末にようやく見つけた愛である貴方が、今日の哀しみをひとまず神様に預けて平安の内に過ごされることを、心よりお祈りしたいと思います。

私は、修道会の名前の入った便箋を小さく畳み、小さな荷物の中に綺麗な縮緬の小さな風呂敷で包まれていた眼鏡、月子さんが私に残した、たった一つの遺産の眼鏡をかけてみた。きっと小さい頃から難しい勉強をしすぎたんだろうなと推測できる度のきつい分厚いレンズの眼鏡は、私の視界を一気に曇らせて、あたりを見えなくしてしまった。

「美月ちゃん、手紙、なんて書いてあったの?大丈夫」

陽介君とこの日も家に来ていたつぐみちゃんが、夕飯の時間になってもいつまでも階下に降りてこない私を心配して、部屋を覗きに来た。その声に驚いて私がその眼鏡をはずしても視界は白く煙ったままで、私は慌てて袖口で目をごしごしとぬぐった。そして陽介君に

「大丈夫、あの、おじいちゃんにね、この手紙を見せてあげないと、それで伝えないといけない事があるから」

私は立ち上がり、階下の祖父が相変わらずゴロウ君を抱いてあやしているんだろう居間に静かに降りて行って、多分すべてを知っているのだろう祖父に声をかけた

「おじいちゃん、あのね、月子さんがね」

夏のはじめの季節の夕暮れはいつまでも明るくて、窓から空を見上げている小さなゴロウ君の瞳には夕暮れの白い雲が映り込んでいた。

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