最善を尽くすこと。

 昔々、世間一般にTwitterとかInstagramとか、あとは種々雑多な掲示板とか、その類のものが存在していないかもしくは、それが一部の人々の小さな集まりで、世の中がもう少しだけのんびりとしていた時代、テレビの、特にノンフィクションを取り扱うものはそれの内容がいまよりずっと詳細で、例えば難病の子どもが海外に渡り、そこで日本国内では受けることの難しい、特別な医療を受ける姿を追ったドキュメンタリー番組を民放の19時とか20時に放映していることが結構あったんですけれど、そういうのを覚えている人はいまどれくらいいるだろう。

 『日本国内で享受できない医療』というのは大抵の場合、移植医療の領域のことで、当時テレビで見たオーストラリアやアメリカのいくつかの子ども病院の名前を私はいまでも妙によく覚えている。そしてそこには留学なのか研修なのか日本人の医師もちらほらいて、外国のどこまでも澄んだ青空を背景に患児の親御さんとその人が日本語で会話をしているのが、私には少し不思議だった(そしてその数十年後に優秀な日本人医師というのは結構外国に流失しているものなのだという事実を知った、いかないで、特に心臓外科の先生方)。

 その中でその子の名前とか、いつ頃の放送だったのかそもそもそれはどこの国の病院だったのかそれの記憶が全く定かではないのだけれど、多臓器不全で、いや消化器系の臓器のいろいろが壊死してしまう病気だったかな、ともかく点滴でしか、今思えばあれは多分中心静脈栄養(TPN)か、ともかく体内の臓器が復旧するまでそれで栄養を摂取するしかない難病の男の子の治療の風景を追った番組があったと思う、多分。そこで、もうお腹の色々が機能しなくなってしまっているその子に

「もう一度、大好きなハンバーガーを口いっぱい、頬張って食べさせてあげたい」

そう思って海外渡航移植に踏み切りましたと、その男の子に面差しのよく似たお母さんが画面の向こうの誰かを真っ直ぐに見つめて話していた。その映像で、外国の子ども病院らしい優しいイラストがあちこちの壁に描かれた明るい院内を背景にしたお母さんを大映しにしながら、ナレーション担当のアナウンサーの声が

「…お父さんは、お母さんと意見が合わずに、出国前に別れることになりました」

と視聴者にわざわざ教えてくれた。そのことに当時多分中学生か高校生くらいの、ものの道理というものを今よりずーっとわかっていない子どもだった私は結構面食らって「そういう超個人的なことはいちいち放送しなくていいのでは…」と思ったものだった。もしかしたら制作サイドが「アレ、お父さんは?」と視聴者が疑問に思うかと、お母さん了承のもとに注釈を入れたのかもしれないけれど。
 
 番組の中で男の子は、入院先の病院の優秀な小児外科医の執刀により臓器移植が実現、外国の(アメリカ西海岸か、オーストラリアかどちらかだった気がする)それこそその子の顔くらいある大きなハンバーガーを頬張る夢を叶えて嬉しそうに、そしてとても無邪気に微笑んでいた。

 しかしその後まもなく男の子は合併症で亡くなり、移植医療の難しさを説くナレーションで番組は終わった…と思うのだけれどその辺も記憶がすごく曖昧だ。でも私は病気のせいで年齢に対してかなり小柄な体躯の、眼鏡をかけた利発そうなその子が念願のハンバーガーを嬉しそうに頬張っていた表情と、執刀した小児外科医のドクターの外科らしいタフで精悍な面立ちとせっかちそうな大股の早足(この人も日本人だった)、何よりもテレビカメラ越しのあの男の子のお母さんの瞳に思いつめたような色があったことはよく覚えている。

 今、すっかり成人年齢を越えて、大抵のことにはそう驚かなくなった不惑越えのお年頃の私は、仮にあのお母さんが、海外渡航移植を支援する団体からの支援を受けていたとしても相当な額面の金銭を要する、そして確実な勝算があるとは全く限らない、これまでの生活どころか場合によっては人生自体が一変することになる海外渡航移植になぜ挑戦できたのかその理由を、その時どういう気持ちでいたのかをほんのすこしだけ理解できるようになった。

 私も今、あのハンバーガーを嬉しそうに食んでいた男の子と疾患自体は全く違うものの、難病児の親であるもので。そしてうちの娘は今のところ臓器移植を要する子どもではないのだけれど、疾患自体は心臓で、お友達の中には心臓移植の日を病院のベッドの上で待ち続けている子もある。それで何となく人ごとではないというか、数十年の時を越えて記憶の片隅にあった彼と、そのお母さんのことをとても身近に感じるようになった。

 勿論それは難病である我が子を何としても生かしたいという強い気持ちに突き動かされた行動で、それがまずは第一なのだろうとはと思う、死んでしまえばその子の人生は見るべきものも見ることなく当たり前に終わって世界から消えてしまうのだから。それはきっと耐え難いことだから。でもそういう直線的な話だけでもないような気がする。ひとたび病気の子どもを持った時、その子の親には、

「あなたはこの子のために何でもするでしょ、千尋の谷を飛び越えるでしょ、火の中にだって飛び込むでしょ、莫大な医療費がかかろうと私財のすべてだって、投げうつでしょ?」

 そんな空気より少し重たいガスのようなものがふんわりとまとわりついて周囲から離れなくなるからだ。何というのかな、多方面の色々な人々からの、可視化されない圧力のようなものが。

 昨今、先天性疾患というものの多くは広義の(妊婦検診で実施される胎児エコーも含めて)出生前診断で結構早期に明らかになることが多い、私の娘の疾患が胎児エコーで「疾患の可能性があります…いや、多分そうでしょう」と言われて、そのまま大学病院に送られて確定となったその瞬間から

「本日これより、あなたはこの子の最低3度の手術と、相当な回数に渡るであろう入院、ご家庭でのケア、すべてを乗り越え、このお子さんの普通よりやや困難な人生に伴走することが決定いたしました」

 ということになった。頑張りましょう、頑張りますよねと。いや頑張りますねけどね。でもその手術を含めた治療というものが「現代医学においては勝算はあります。けれど勿論治療半ばで頓挫する可能性も十分ありますし、根治自体はしません」というものだったもので、正直なところとても戸惑った。

 というよりも、当時は本気で真っ暗で光も底も見えない谷底に突き落とされた気がしたものだ。あれから4年と10カ月、娘を出産して、3度の手術を越え、それがややもすると割れ落ちてしまいそうな薄氷の上にあるものとは言え今、日々の暮らしを割と呑気に紡いでいられる場所にいるのはひとえに、当時何も分からないなりに「ともかくお医者さんの言う事を全部こなしていけばいい」と必死だった自分の無知さゆえ、そしてなによりも娘の生まれ持った運だと思う。

 清濁あらゆるものを、脆くてすこし歪であってもそれが命であるのならこの世に産んで慈しんで育てるべきであるという倫理と、障害や疾患のあるものを産んだのであれば産んだものがすべての責任を持つべきであるという現代的な責任論を攪拌して目を瞑ってえいやと飲みほした結果、あのお母さんは気が付いたらオーストラリア(だったと思う、いややっぱりアメリカ西海岸だったかも)にいたのでは。

 『我が子のために最善を尽くす』

という行為は時に信じられないような事態や思いもしなかった結果をその子の親の人生に引き起こす、そしてそれは割と過酷なことだったりもする。

 あのお母さんの夫であった人は「わざわざ外国に行って、低い可能性の方に賭けて、それで息子の命を縮めるくらいなら、このまま日本にとどまって次の一手が打てる日を静かに待つのがいいんじゃないか」と考えて実際にそう言ったのかもしれないし、その考え自体は、私がいうのもヘンだけれど多分間違っていない。でも病院で次の一手を待つ間に静かに終わりを迎えてしまうかもしれない命をただ見て過ごすことを、あのお母さんはどうしてもできなかったんだというのも、今の私にはとてもよくわかる。

 もしあの人と同じ岐路に立たされた時、私は何を考えてどう行動するだろう。

 あの子のお母さんは、その後多分帰国しただろうけれど、そこには一体、どんな景色があったのだろう。

 そして『お母さん、お子さんのためには最善を尽くしますよね、ですよね?』というあのやや重たいガスのようなものは、まだ私の周りに、世の中に漫然とあって、そういうものを土台にして福祉や医療のシステム自体が組み立てられてしまうと、それはある種の人達には(というか私には)とても苦しいものだったりするのです。

 ところで私も今度娘を連れて、今のとは別の更に大きな病院に行くのです。それは海の向こうではなくてうちから電車で行ける場所にある。娘の治療が今の病院の設備ではなんだか少し難しくなってきてしまったもので。

 『最善をつくした』その先の景色というものを、私はまだ見ていない。



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