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ぼくたちはなんだかすべて忘れてしまうね

カレンダーを見たら、幼稚園の新学期を1日間違えていた。

去年の12月に買ったRollbahnの手帳にも、家族5人分の予定が別個に記入できるカレンダーにも、ちゃんと1月10日の欄に『6歳新学期』と書いてあるのにも関わらず、一体どういうことなの、大丈夫なのか自分。

今日の昼過ぎ、大学病院に6歳のさまざまに問題だらけの心臓の定期健診に行き、そこで2時間半もレントゲン撮影を待って(どうやら6台だか5台あるうちのひとつが故障していたらしい)、ここ最近は半分ほど世間話になっている診察を「地震ダイジョブやった?」「うちのとこ実家が富山なんでかなり揺れたみたいです」「え、それ大丈夫やったん」「家はなんともないんですけど看護師の姉が病院に呼び出しで」「災害時はそうやなァ」そういう最近の話題と共に終えて、次回の受診の予約をして支払いをしてから酸素ボンベと6歳を自転車に乗せて帰宅し、着ていたダウンを脱ぐより先に「すぐ忘れちゃうからね」とカレンダーに次回の予約日を記入していたそのとき

(1月10日 新学期 バス8時40分)

確実に自分の字で書かれた予定を見つけた私の慄き、まじで手が震えた。

だって6歳の新学期は絶対明後日からだと疑いなく思い込んでいて、ついさっき会話をした主治医にも「幼稚園いつから?」「あ、明後日からです」なんて呑気に答えていたというのに。

私はあの瞬間確実に、そして真実に1月11日が6歳の新学期だと思っていたのに。

でも、先月のことをよく思い返してみると、確かに12月の定期健診の際、次月の予約を入れる時に「来月は1月9日でいい?」と主治医に聞かれて(9日に病院なら大丈夫、だって新学期は翌10日だし)と思っていた自分は確実に脳内記憶の中に存在していたのだ。

それなのに、その時の記憶を脳内の片隅にすっかり置き忘れていた自分がちょっと信じられず、壁に掛けられたカレンダーを前に私は、現実と虚構の境目が溶けて消えてんのとちがうかと、そう思った。

(きっと時間と空間を超越した世界に1日ズレたもう一つの、別の世界があるのやわ)

しかしそんなものは(多分)ないのであって、私は慌てた。

「ねえねえ6歳ちゃん、ママ、新学期明後日からやと思ってたのに、実は新学期って明日からやってんけど!」
「そうなのォ?幼稚園て明日からなのォ?ママ、あたしの明日のご用意、できてるの?」
「できてへんよ、防災頭巾のカバーとか、お帽子のゴムとか!」

ここ数年特に『嫌なことは後回し』が生活信条になりつつある私は、なにより嫌いな針仕事「制帽の顎ゴムの付け替え」を放置したまま年を越していた。去る12月31日にテレビの向こう、東本願寺でAdoちゃんが舞い踊るのをぼんやり眺めながら頭のどこか片隅で「人間ギリギリになればちゃんとやることだろう、頑張れよ来年のわたし」などと思ってそれを今日、この日まで放置していたのだった。

あの日の自分を殴りたい。

地厚のフエルトの制帽にはとにかく針が通りにくい、その上私は実家の母が「こんな子に育てた覚えは…」と肩を落とす程の不器用人間で、仮に自分が外科医なら確実に死人がでることでしょうという手つきで針を持つ。それでさっき自分の指を3度突き刺したところ。どうして帽子の顎のゴムってあんなにびよんびよんになるんでせうね。

『忘れる』とか『忘却する』という言葉は、それを文学の中で使用することについては甘美な程に悲しく美しい。そして忘却とは巨大な割に広大な記憶媒体を持つ人間に与えらえたひとつの救済でもある。

だって「ぼくたちはなんだかすべて忘れてしまうね」とか「すべて忘れてしまうから」とかいう言い回しはなんともキャッチーで例えようもなく寂しくて綺麗なものだと思いませんか。

でもこれが文学とも叙情とも全く無関係な日常で起きると本気で困る、困るんですのよ奥さん。

記憶能力は年々落ちてゆくのに、自分と子どもと仕事3方のタスクは雪のように日々に降り積む。一番上の14歳の私立高校の出願期間、真ん中の12歳の中学校の入学説明会日程、そこに電話で「6歳ちゃんのリハビリ1日ずらして貰っても大丈夫ですか?」という予定変更の連絡が入る、あ、あと小児慢性特定疾病の医療証、アレの更新。

それらすべてをちゃんと手帳に書いているはずなのに、記憶が入れ替わっていたっていうのはもう

「だめじゃん」

という言葉以外、何もない。

お陰様で私はなんだかとても落ち込んでいるし、こういう自分が『本当』だと思っている事象が、徐々にずれていって、変わっていって、最初は「ああ、勘違いしていたんだなぁ」程度に思っていたものが、それがあまりに頻繁なもので、これは実は世界が歪んでいるんじゃないかと疑い出し、そこに普段いるはずだと思っていた人の姿形が自分の記憶してるものと変わり始め、更には自分がいた場所がどこだったかもわからなくなる、そういうのを一般に認知症と定義したりするのだろうけれど、こうなってくるとその加齢によりやってくるのだろういつかのことが

「怖いな!」

と心底思うのでした。現実と非現実が溶けてゆく、その境目に立っている人ってきっと相当怖いんだろうなと。

そんなことで、子ども3人分のタスクとか家事とか仕事とかあと挑戦している諸々、読んでいる書籍の色々が自分の脳の許容範囲を超えてきたらしい私は、例えば自分の親が電話で何度も同じ話をしていたり、もしくは大幅な思い違いをしていても、

「それ、違うよ」
「ねえ、また同じ話してるよ?」

など言うのは止めて、やんわりやさしく軌道修正しなくてはあかんねんな、と思ったことでした。人に優しく、自分に優しく。

ついこの前「あー年は取りたくない」と思ったと書いたけれど、そしてそれはこの先、未だ6歳の年端もゆかない子を育てて行かないといけない自分の本心なのだけれど、まあ人に優しくなるという点においては加齢もそこまで悪じゃないと、思ったのでした。

しかし大事な予定が抜けるのは本気で怖いので、これからは何においても毎回手帳を確認しよう、自分のことなんかもう二度と信用しない。


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