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短編小説:北大路のミーちゃん


「あんな、北大路のホラ、大垣書店の横の魚屋さん?うなぎ屋さんやったかな、そこにいつも白黒の猫がおったやんか、あの子ってまだ生きとるんかな、芽衣ちゃん知ってる?」

退院した日、キャリーケースいっぱいの荷物と一緒に戻ってきた自宅の賃貸マンションは空気が淀んで暗く、それがいかにも「大病した人の部屋」という陰鬱具合であったので、外気がすっかり冬支度を始めたしんと寒い晩秋ではあったけれど、私は部屋の窓という窓を全て開け放った。それで清浄な空気が室内に満たされるはずが逆に昼間の交通量の多い表通りの排気ガスが流れ込んできてそれが酷く鼻につき、仕方なくため息とともに窓を閉めて、それからそうやと思い出して学生時代からの友人である芽衣子に電話をかけた。

それは職場の健康診断で子宮頸がんが見つかり、それが末期的ではないにしろ奥に向って浸潤した初期とも言えない状態であって、致し方無く生殖に関わる一切をきれいに切除するという手術の全てが終ったあとの、淋しい雨の日の午後のような夢から醒めて一般病室に戻って来た時に

「槙ちゃん今度の休みて暇?うちとUSJ行けへん?プレス用のチケットあるしタダやで」

などいう呑気な電話をかけて来た芽衣子にすっかり婉曲表現というものを忘れてぼんやりとした頭で「うちさあ、いまがんの手術して一般病室に戻って来たとこやからUSJとかは流石に厳しいわ」とごく正直に伝えてしまい、その途端

「は?槙ちゃんなんでそんな大変なことうちにひとつも言うてくれへんのよ水臭いてあんたのことやで」

耳のキーンとするほど怒鳴られて更には今すぐお見舞いに行くと言ってきかない芽衣子を、いやこういうご時世で身内以外病棟には入れへんのよと宥め「ほんなら絶対に退院したら一番に連絡して、してくれへんかったらあんたとこに化けて出るしな」「いやむしろうちが死にかけなのやし化けて出るとしたらむしろこっちなんやけどな」などいうおかしなやり取りの中で、とにかく退院したらまず芽衣子に報告をするからと約束させられていた故だった。

芽衣子に「水臭い」と叱られてから数日後、驚きの速度でもって無事に退院し、あとは通院しながら経過を観察するということになった私は、一人暮らしをしている小さな賃貸マンションに帰宅してすぐ、荷物も片付けるよりも先にちゃんと芽衣子に退院報告の電話をしたというのに、当の芽衣子は私に「一体なんなんよ槙ちゃん」と、電話の向こうで不貞腐れている顔が手に取るようにわかる口調で文句を言った。

「槙ちゃんなぁ、あんたなんで大病して大手術から生還して、ほんでまず最初に猫の心配なんよ」

猫なんかどうでもええから、あんた体はしんどないの、保険とか入ってたん、治療費とかそういうのんは大丈夫なん、仕事はいつまで休めんの、いやそもそもなんで一人で帰って来てんのよなど、いつもの早口で矢継ぎ早に質問したその後すぐに「あんたとこに明日着でスープストックトーキョーの冷凍スープ送ったから食べてな、寒いのやし温かくすんねやで」と言って労わってくれるところなどは流石、十七年来の親友の芽衣子であった。

芽衣子は大学の同級生で、私達はかつてみどり深い京都御所のすぐ向かいの私立大学の文学部国文科に在籍していた。当時も多分今も、国文科などいうものは大変に地味でこぢんまりとした学科ではあるのだけれど、芽衣子はその中にあって容姿のぱっあと華やかな、その名の通りの眩しい芽吹きの春の緑のような娘で、性格は明るく話題が豊富であり同時に大変に気が強くて男には相当手厳しく、確か卒論は『円地文子をジェンダー論から読み解く』とかそういうものだったはずだ、大学卒業後は京都の小さな出版社の編集者になって今日に至っている。対して卒論で『村上春樹の初期三部作における羊の存在の意味を考察する』というものを書いた私は大阪のどちらかというと大人しくやや幼い印象のある女の子達ばかりの通う私立女子中高の国語科教師になった。

「あの白黒ブチのハナちゃん、あの時ビブレの向かいのおでん屋さんのおばあちゃんが貰ってくれはったやん?でもそのおばあちゃん亡くならはって、ほんで今は桐谷が飼ってるねん」
「は?なんでそこに桐谷君が出てくるん、ていうか桐谷君ていま京都におるん、あとあの猫ハナちゃんちゃうでミーちゃんやろ」
「そんなん言うたら桐谷なんかハナちゃんのこと牛子て呼んでたやんか、牛柄やからって。ああそんで桐谷な、院の修士出た後に一年くらいブラブラしてて、その後ドイツかアメリカかしらんけど暫くどっか外国に行って、帰国してからはずっと東京におったんやったんかいな、まあようしらんけど、ほんで最近になってこっちの大学に戻ってきてんやわ」
「桐谷君ていま大学で何してはるん、学生?」
「まさか、桐谷てじきに四十なのやで、助教やて、あの桐谷がよ」

桐谷君は私と芽衣子と同じ学部の哲学科で年齢は同回生である私達より四つ年上、教授らが一目置く見識と読書量と語学力の持ち主でそのために成績はずば抜けて優秀と、そういう人だった。

ただその気質というか性格は相当おかしく、授業に出ると大体寝ているし、大学の構内でも横になる隙間があれば地べたにすら寝ているし、背が高く食事をすることを忘れがちなために痩せていて、四季を通じて大体同じ服を着ているので冬はどえらい薄着になり、それで大学に住み着いている猫をかき集めてそれで暖を取るという珍妙な生態をしている学部の名物男であり、かつての私の恋人だった。

「ちょっとまって、芽衣ちゃん桐谷君が京都におるとか大学で教えとるとか、そんなん何で知ってるん」
「この前仕事で会うたんよ。ほらうちんとこ人文系の出版社やろ、うちの機関紙にウチとこで出した本の書評をちょこっと寄稿してもろたんやわ。今は北大路堀川の…ええとホラ、幼稚園のある教会あったやん白くてでかいとこ、そこのすぐそばの古民家でハナちゃんと暮らしてるねんて、あ、桐谷にひとこと言うて槙ちゃんにもあとで連絡先送ったげるわ」
「え、そんなんいいって、いらんで」
「でも気になるのやろハナちゃんのこと。ハナちゃんさあ、うちらが三回生やった頃に猫疥癬?やったっけ?それでえらいこと禿げててさあ、それが可哀想やなあって何とかしたろって、槙ちゃんと桐谷とうちでお財布ひっくり返して、カバンの底の小銭までかき集めて動物病院に連れて行ってあげたやんか、あれからもう十五年やで、あの時死にかけてた子猫のハナちゃんがもうおばあちゃんや」

光陰矢の如しやでなど言いながら深いため息をつき、うち週末にはそっちに色々持っていくから暫く家で大人しく静かにしとくのやで、困ったことあったらすぐ電話してなといつもの騒々しくかつ頼もしい口調で芽衣子は言って電話をぷつりと切った。

今回の手術に際して福知山に住んでいる母に連絡をしたのは、病気が発覚し色々の検査をしてこれは外科手術が得策であると主治医が大方の結論を出したすぐ後だった。母とはいま別々に暮らしてはいるけれど、私が十三歳の時に離婚して以来ずっと母一人子一人の母子家庭であり、私が大学に入学するまではずっとふたりきりで一緒に暮らしていた。それでこの時も病気のことは特に隠さず、しかしあまり深刻にならないよう、まあこういうことなんでひとつ病院でのインフォームドコンセントの立ち合いと書類への署名などをお願いしますよと連絡をしたのだった。電話の向こうの母は娘の病気を知って幾分か緊張したような、固い声をしていたものの、指定した日にきちんと化粧をし、落ち着いた様子で病院にやって来て、案内された面談室で主治医から諸々の検査の結果とこれからの治療方針を私と一緒に聞いてくれた。

「…ということで、転移の可能性や今後のことも含めて子宮含め周辺組織は全摘出という形がイチバン安全やと思うんですよ、お母さん」

手術というとそれは即ち妊孕性というものをそっくりそのまますべて手放すことではあるけれど、なによりお嬢さんはまだ若いのでこれからの人生というものがある、ここは命を取る方向で考えましょうと言う主治医に対して、母はそれでは困るのだと、生殖機能を温存はできないのかということを強く主張した。治療方針をひっくり返せと言ったのだ、それでは結婚ができなくなるからと。

「え、何でいま結婚の話?ていうか出産は結婚の必須条件てこともないやんか、いやそもそも誰に頼らんでも生きていけるようにちゃんとした仕事について自立しなさいって、それで学校の先生になるのが良いのんちゃうかて、それやから大学にもええとこに行きなさいて言うたんはお母さんやん、それがなんで今更結婚の話なんよ、第一いまそんな相手もいてへんのに」
「それはそれ、これはこれや、槙ちゃんあんた一生一人でいる気なんか?子どもも持たんとこのまま一人で年取っていくんか?あんたと同じ年のお父さんとこの娘はもう子どもが二人もいてるんやで」

『お父さんとこの娘』というのは、父が母と離婚した後に再婚した人の連れ子で、私と同じ年の娘のことだ。

母と離婚した三年後に父が再婚した相手というのがこれがまた性格、口調、顔かたち、どれをとっても鋭利でキツい印象のある母とは正反対の、昔岡崎の動物園で見たレッサーパンダに面差しのよく似た優しくたんわりとした印象の人で、その娘という人にもあれはたしか十年程前の父方の祖母の葬式で一度会ったことがあるけれど、母親である再婚相手によく似た優しい印象の人だった。地元の福祉専門学校を出てすぐに結婚し、祖母の葬式で会った時にはもう小さな子を一人膝に抱えており、確か二人目の子ももうお腹にいたはずだ、あの時見たその人のお腹はすこしばかり膨らんでいた。

「お父さんとこの、ええと汐里ちゃんか、あの人に子どもが二人あるのと、私の今回の手術と一体何の関係があるんよ」
「とにかくあかん、がんは本来切らんでもええもんなのやろ。別の、もっとまともな病院のちゃんとした先生に一ぺん見て貰いなさい」
「やめてえや、先生にすごい失礼やし、大体がんは本来切らんでも全部治せるとかそれどこ情報?」
「お母さんの友達がそう言うてたんよ」
「お母さんの友達て、それ絶対医者とかやないやろ」
「とにかく、いいから別の病院にしなさいッ!」

母は目の前の白衣の人にこれ以上ないくらい失礼極まりない、そして全く根拠というもののない言葉を矢継ぎ早に口から吐き出し、最後は怒鳴りながら立ち上がって面談室を出て行ってしまった。全く話の通じないまま大きな音を立ててドアを閉めて去ってゆく母の背中を見送りながら主治医と私は深いため息をつき、致し方なく私はもう一人の近しい身内である父に連絡を取った。父は私からの突然の連絡に驚き、次にその要件を聞いてスマホをがごんと取り落とす程狼狽していたものの、ものの数時間後には車で病院に駆けつけてくれた。

母の現在の住まいとそう遠くない場所でいまは農業を生業にして暮らしている父は、ほとんど蒼白といった顔色でうす茶色の作業着のままこけつ転びつ病棟まで駆けてきた。そうして白い病院の面談室の中で、目の前に積まれた手術の同意書、麻酔の同意書、それに伴う挿管や術後抑制の説明、輸血の承諾、山の如き量のA4サイズの書類に捺印しながら、なんぼ離れて暮らしてるからて、こういうことはもっと早く言うてくれよということと、俺の方からお母さんに少し話をしてみようかということを私に言ってくれたけれど、私はそれはいらんでと首を横に振って断わった。

「いや今、お父さんからお母さんにうちのことで連絡がいったりしたら、あのひと怒り狂って挙句憤死するんちゃうかな…」
「それもそうやなァ…なんちゅうか、言い出したら聞かへん、プライドの高いヤツやでな…」

そう言って肩を落とした父は、必要書類をすべて丁寧に書き終えると、私にほんの少し厚みのある茶封筒を手渡してから「これくらいのことしかできやんけど、手術終ったらまた連絡してや」と言って妻と娘と孫のいる家に帰っていった。病棟の扉を出る時の父が泣きそうな顔をして頭を掻きながら私に「ごめんな」と言うもので、私はできるだけ能天気そうに笑って言った。

「何言うてんの、うちは平気や」

別にお父さんのせいで病気になった訳ではないし、父と母が離婚するときに父ではなく母を選んだのは私なのだし、母のあの気性は多分生まれつきだからと。

母という人は自身の持ち物であるすべてが、かつては夫婦であった父が離婚後の人生の中で勝ち得たもののすべてを越えていなければ気が済まないという考えのある人で、いまでこそ身体に蓄積された脂肪と加齢によってやや過去の栄光になりつつあるものの、顔の造作はいまも大変な美しい人であり、そのためなのかそうではないのかともかく気の強さも自意識も人並み以上、周囲の人間を見下している風なところのある人だった。

それでも父と離婚した後は友達の経営するエステサロンのパートと、週に三日のスナック勤めを掛け持ちして働き私を大学にやってくれた母であり、確かに気は強すぎるくらいに強いし、そしてやや偏りのある性格の人ではあるけれど娘である私にとって一体何が最善であるのかをいつも考えていてくれる人なのだと、そう思っていた。

けれど今から十年前、大学在学中ずっと途切れることなく付き合いが続き、もうそれやったら結婚するのでええのと違うかなという話になって私と婚約をし、既に簡単な両家の顔合わせも済ませていた桐谷君に今の私と同じ、青天の霹靂的にがんが見つかってそれが

「俺、睾丸のがんなのやて、そんで取り急ぎきんたまを手術して取らなあかんねんて、あと放射線治療とかもしやなあかんて、それやと多分俺には将来、自力では子どもでけんてことになるのやわ、多分な」

などと全く思いもしない事態になってしまった時

「あんなァ槙ちゃん、今は子どもなんかでけんでもええとか、それか精子提供とか?そういうので子どもを拵えたらそれでええやんとか思うかもしらんやん、でもそういう子を夫婦二人で育てるて、きっと難しいことやで。そもそも無事に手術が終わって退院できてもあと何年かは再発の可能性があるねやろ、それを槙ちゃんはずーっと支えていくんか?お母さんかて、お父さんが病気になって、そんでうまいこといけへんなって離婚したんやで」

この婚約は無かったことにした方がええ、お母さんがあっちの親御さんに話したるからと、当時はまだ大学を出て数年の、社会人としてはまだ右も左も、男女のこころの機微も、人生の深淵の景色もなんもひとつも分かっておりませんという私に朝夕そのように言い続けたのは母だった、要はさっさと見切りをつけなさいと言うことで。

私もその時分はまだ、中学生の頃に父が突然鬱になりひとつも働けなくなって母と離婚した頃の「あんたなんか死んだらええねん」「おう死んだるわ、納戸から縄もってこい」などの暴言と暴力の飛び交う荒れ野のごとき我が家のことを鮮明に記憶していて、母の言うことが実感として理解できてしまっていたし、何より恐ろしかったのだ、あのようなことが再び自分の人生を襲うのかと思うと。

あの当時の私には、どうやら随分な重荷を背負うことになったらしい桐谷君と一緒に人生の山やら谷やらを越えてゆく勇気というのか馬力というものが足りていなかった。よく考えれば桐谷君と私、父と母、それぞれは別々の人間であるし、そもそも私は桐谷君が猫の治療費に一ヶ月分の生活費を投げうって全くの無一文になり、逆に助けた猫にキャットフードを分けて貰って食べて命を繋ぐなどいうやや方向性の珍妙な、でもとても優しい気質を心から好きだと思っていたはずなのだ、付き合い始めた十九歳の時からもうずっと。それなのに、私はいずれ遠からず自分にも両親と全く同じことが起きるのだろうと思い込んでしまっていたのだった。

(愛は、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える)

などというのは、大学一回生の時「必修ですから」ということで買わされた分厚い聖書にあった言葉であるけれど、そしてそれは確かに真実なのかもしれんのやけれど、愛があってもどうもならんことは世の中にはいくらもあるのんやということもまたこの時の私自身の、経験側による確固たる真実だった。

桐谷君もまた、もしかしたら来年にはこの世におらんかもしれんやつと将来の約束なんかはせん方がどう考えても賢明やし反故にしてくれても一向にかめへん、いやそうしようと、いつもの一体どこを見ているのかわからへんあのぼんやりとした表情で静かに私に言った、俺が槙ちゃんの人生のお荷物になってまうのは嫌やなァと。

「俺らは、縁がなかってんや」

最後にちゃんと話をしようと言われて呼び出された大学で、正門のごく近くに植えられている大きなヒマラヤスギに電飾がくるくると巻かれているのを前にしてそれを言われてしまった時、私は「クリスマスツリーの前で縁てなに、ここキリスト教の学校やで」などと笑いながらも、冬の夕暮れの空気とアドベントの浮足立つようなざわざわとした雰囲気の中でのやや滑り気味の突っ込みのあとは「…そうやな」という消極的な同意の言葉しか出てこなかった。

そのまま、結んだ紐がするりとほどけるようにして、私達は別れた。

「そんで今度は私ががんになって、桐谷君とおんなじようなことになって、結局十年経ってみたらお似合いの二人やったってことか」

退院の際、すみませんが次の方が入るので十時までにお部屋を開けてくださいますかと看護師が言うもので、大急ぎでベッド周辺の諸々を適当にかつ乱雑に詰め込んだ銀色のキャリーケースは床にころがしたままで、それを開いて片付けるような気にはなれなかった。メスを入れていくつかの臓器を切り取りその後に綺麗に縫い閉じてから数日が経過しているとはいえ、術後である体は自重で床にめり込んでしまいそうに重く、そして酷くだるく感じられた。

「いまは、とにかく休まなあかんのよな」

そのようにひとりごとを言ってベッドにころりと寝転がり、まだ傷のひきつるような感覚のあるお腹に軽く手をあててぼんやりと無機質に白い天井を見つめていると、さっき芽衣子が言った「桐谷の連絡先を教える」と言ったひとことが突然脳内で鮮明にそして何度も再生された。

まてよ、よく考えなくても昔桐谷君と私の間に起きた諸々のことを考えれば芽衣子経由であるとはいえいまさら私の方から「猫元気?」なんていう呑気な連絡がいくというのはとんでもないことなのではないの、無神経ていうか失礼極まりないていうか、これはあかんよな、うん、あかんやろ。

「いやいやいや、あん時病身の桐谷君のその先を支えきらんて言うて別れといて、今自分が同じような病気になって同じような状況になったからて連絡をして、うちは一体どないする気なんよ」

周囲がそれを勧め本人同士の合意もあって、そうして破棄された婚約であるとは言え私はかつて病身の桐谷君を捨てた女なのではないのか。

(桐谷君の連絡先は教えていらんで)

そのように伝えなくては。社交性が服を着て歩いていると誰からも評される芽衣子のことだ、私と桐谷君が別れたのはもう十年も前のことなのだし「もう時効やって、べつにかめへんやん」などという気持ちでさらりと普通に桐谷君に連絡を入れてしまうだろう。だいたい芽衣子はあの時私と桐谷君が別れることになった経緯というものを詳細には知らないのだから、そのあたりのハードルはうんと低いはずだ。

そう思って慌てて枕元にあるはずのスマホを探し、それが手の甲にこつんとあたって長方形の薄い板がごろんと床に転げたところでぶるぶると小さな振動音が部屋の中に響いた。それはスマホの振動音であって、それを流石は親友やわ以心伝心かと、きっと芽衣子が自分に何かしらの伝え忘れがあってもう一度電話をかけて来たんやと思いそのまま私は、画面表示を碌に確認せずにまるで生理的な反射であるかのような動きで通話のしるしをタップしていた。

「もしもし芽衣ちゃん、あんなぁ、さっき桐谷君の連絡先教えるわて言うてくれたけどな、うち教えていらんで、だって昔あんなことがあったのに、今更うちは桐谷君にどんな顔をして何を話すねん」

すると電話の向こうの人はしんと沈黙していた。もしもし?あれ芽衣ちゃんやんな、聞こえてる?など私は言った、しかし電話の向こうの人は芽衣子ではなかった。

「いや…俺は別にどうもあらへんで。あ、牛子やけど、元気やで」
「…は?え、誰?」
「いや、俺、桐谷やけど」

驚いてスマホを床に放り投げそうになった私は何とかその情動を押しとどめた、それは現在三十五歳である私の社会性と理性と、桐谷君はあの後どういう紆余曲折があったんかは知らんけれどもともかくちゃんと生きて世界に存在していたのやという安堵の気持ちの故であり、スマホの向こうの桐谷啓介という人間のことをよく知らんままそれを聞けば果てしなく不愛想に聞こえる桐谷君の低くくぐもったような声が、私には体のうんと深い所に優しく響くとても懐かしい低音であったからだった。そうしてその前置きの無さというのか、ハナシの突拍子の無さというのもまたかつて学部随一の奇人と呼ばれた頃の桐谷君のままだった。

「あの…ええと、その節は…」
「うん、あんま詳しいことは聞いてへんけど、なんか病気して手術して、ほしたら猛然と牛子のことが恋しくなったらしいて芽衣子が言うから、どうなん、元気?」
「うん…うちな、まああれよ、がんていうか…まあ婦人科系のがんやったんよ」
「…そっか、手術したばっかりなんやろ、身体しんどないんか」
「いや意外に快調、転移もなかったし傷口もきれいなもんやし…ほんであの、あのさ…あんな桐谷君、あん時、ほんまにごめんな、ほんとにすみませんでした」

このまま、十年の空白を飛び越えて普通の世間話に突入してしまいそうな流れを遮るようにして私が桐谷君に昔のことを詫びると桐谷君は笑った。アホやなァそんなん気にしてたんかいなと。その鼻にかかったようなフフフという優しい笑い声があまりにも昔と変わっていなかったもので、私はふいに泣きたくなった。

「それは別に俺ら二人で決めたことやし、そんなんどうもあらへんよ、それよりな、俺いま北大路堀川に住んでるのやけどな、北大路ビブレがイオンモールになってしもたん、槙ちゃん知ってるかァ?」
「えっ嘘やん、そんなん知らんで、うちのビブレが?」
「え、いつからビブレは槙ちゃんのモンになったん」

北大路ビブレというのはミーちゃんを拾った古い書店と鮮魚店の通りを挟んで向かいにあった商業施設で、私達は学生だった当時そこの一階のコーヒー屋だとかファストフード店に入り浸っており、ミーちゃんの最初の飼い主であるおでん屋のおばあちゃんがミーちゃんを貰ってくれると言った時に嫁入り道具的猫用品を山盛り購入したペットショップなどもあって、ともかく私にとっては大切な思い出の場所だった。それが今はイオンモールになって中身もまったく様変わりしていると聞いて私は驚き、いっぺんにあの頃の風景が脳内に押し寄せてきたのだった。

朝の今出川通にずっと続く学生の渋滞、夕暮れ時の北大路商店街の賑わいとうなぎ屋のタレの焦げる匂い、バイトの終わった深夜、市バスから眺めた烏丸通の赤いテールランプの列とそこに唐突に現れる御所の暗闇。

「イヤ別にウチのモンと違うのやけれど、だって寂しいやん、あとなんか色々懐かしい、桐谷君がいま住んでる北大路堀川て、あの白い教会のあたりやろ」
「せやで、見に来るか?」
「えっ?」
「俺ん家と、猫と、北大路ビブレと、あの辺一帯、見に来たらええやん。いま部屋に一人でいても気が塞ぐだけやろ、かと言って電車で移動すんのはしんどいやろし、俺、車で迎えにいったるわ、槙ちゃんいまどこ住んでんの」
「え、あの、ええと寝屋川、学研都市線と第二京阪の間くらいのとこ」
「なんや結構すぐそこやんけ、俺、ばりぼろい中古車で行くけどええ?日産のラシーンてめちゃ古いやつ」
「や、あの、えっと、何で?」
「なんでて、会いたいから」
「え?なんて?」
「俺、槙ちゃんにずっと会いたかってんや、それだけではあかんの」

それが当たり前の万物における真実であり、うちらの十年の空白期間の導き出した解であるというような風に桐谷君が言うもので、私はこの十年の後悔とか懊悩とか悲しみとか「もしかしたら死ぬんかもしらん」と思って天井を睨んでいた手術の前の日の晩の恐怖などがつぎつぎ思い起こされて、それでぼろぼろと泣いた。

電話の向こうで突然嗚咽を上げて泣きだした私に、ああこれはあかんな、もう今から行くわ猫ごと行くわと言ってどうやら傍にいたミーちゃんを抱き上げたらしい桐谷君にうんうんわかった待っとくからと子どものような返事をして、いちいち話の早い桐谷君は数時間後にここに来ることになってしまった。

「うち術後の病み上がりやしな、かなりぼろぼろやで、何より老けとるし」
「まー、それやったら俺はあの頃から十キロ太ったで」

互いの加齢については文句を言うたらあかん、そう言い合って電話を切ってから、この急展開は一体ほんまの、現実のことなのやろうかと暫くぼんやりとして、それから桐谷君がここに来るのであれば荷物を片付けなあかんのではないかと立ち上がろうとしてやっぱりやめた。

桐谷君が来たら一緒に片付けたらええのやわ、そうしてこれまでの十年一体桐谷君はどこで何をしていたんか、何を思っていたんかいうことをゆっくりと聞いてみよう。猫のミーちゃんは私のことを覚えてくれているやろうか、そのようなことを考えて私はもう一度ベッドにごろんと横になって静かに目を閉じた。

そうすると、私の身体の中で既に失われてしまった臓器がかつてあった場所であり、いまは肉体の空白地帯となっているおへその下あたりがあたたかな血液と肉とで少しずつゆっくりと満たされて埋まってゆくような、なにやらとても不思議な感覚がした。


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