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窓は、壁に囲まれた空間の中にあって外のひかりと風を得るための開口部であるので、閉塞空間のとりわけ苦手な私は、それがどこでも室内に入るとまずは窓を探します。そしてそこから四角く切り取られた、あるいはまあるい形にくりぬかれたお空は見えるのかなと、まずは覗き込んだりするのです。

建築にはちっとも詳しくはない人間ですが、人のつくる建物には何か特殊な事情や、芸術的事由のない限り大体は窓というものがあるもので、それは内側に暮すひとびとが陽光を採光とするために、人間のひかりへの根源的なあこがれがそうさせているのだろうと私は思っていました。

神様も世界の始めにこう言ったそう「光あれ」。

しかし窓というものは、建物の内側にあるひとのためだけではなく、外側にある人のためにも存在しているのでは。というのは大変偏りのある私個人の私見ではありますが。

そう思ったのは、今から4年と少し前の冬、一番下の娘を生んだ後のことです。出生体重は3人きょうだいで最も巨大な3000g越え、体重も面構えも気合十分、頑健そうな赤ちゃんとして生まれて来た娘は先天性の心臓病のために、生まれて即NICU(新生児集中治療室)に入ることになりました。それでも傍目には大変にぷりぷりと元気に見えた娘は

「とりあえず一度外科手術をしてからでないと」

そんなことを言い渡されてはいても、本人はこんなに元気そうに見えるのだし、周囲の色々と体に取り付けられている赤ちゃん達と比べて装備は両腕に取られた点滴のルートだけ、手術なんて大仰なことをしなくとも早々に退院できるのではないかなと、当時娘の疾患の知識の殆どなかった私はすこし、楽観していました。

しかし生まれるその時は新生児科医の先生がお産に立ち会い、即NICUに搬送された後には、その先生が常時張り付つくようにして状態を注視し、それでも徐々にSpo2は下降し続け、しまいには肺炎も併発してしまうような子が、そんなにすんなりと退院を認められて病棟の外の世界に出られる筈もなく、その年の氷色の冬から季節がさくら色の春に変わる頃まで、娘はそのままNICUの透明な箱の中で育ちました。

NICUに娘を預けていた頃の私が一番嫌だったのは、面会時間を終えて帰宅する夕方。

毎日午前中から夕方まで娘に付き添い、当時のNICUは夜間の面会も許されていましたけれど、私は上の2人の子ども達をそれぞれ自宅と預かり保育の幼稚園に待たせていたもので、真冬の夕方4時頃に、西の空に夕暮れの茜色と夕闇の藍色の混ざるのを横目にして急いで帰宅しなくてはなりませんでした。

『後ろ髪を引かれる』とはまさにこのこと。

精神的には後頭部の毛髪を引かれ過ぎてハゲ散らかす勢い、自分があと2人欲しい、いっそ自分が人間ではなくてプラナリアであれば、そして己を3つに分裂することができたらいいのにと思ったのは人生のあとにもさきにもこの時だけです。

病院の正面玄関から外に出て早足で家路に向かう時、もう一度と思って巨大な大学病院の建物を振り返るとそこにはいつも小児病棟のあるフロアの窓の明かりが見えました。

『あの灯りの中で娘は安心して眠っている』

当時の私には、大学病院の外壁につぶつぶと並ぶ小さな窓は、そう思うためのやさしいひかりの、希望の窓でした。

当の娘と言えば、小さく小柄に世界に生まれ出た赤ちゃんが多勢を閉めるNICUにあって声も態度も体も規格外にでかく、NICUの看護師さん達には、『べびちゃん』でも『ちびちゃん』でもない『お嬢』と呼ばれていました。

常に体が低酸素状態であるという疾患の性質から「極力泣かさんといてな」という主治医からの指示もあり、それはそれは大切にしてもらっていたのですけれど、当の本人はそんなことはどうでもええのよという風情で、夜はひとつも眠らずに夜勤の看護師さんの腕の中をでんと占領し、毎日聴診器をあててエコーをとって経過を注視している新生児科の先生にはにこりともせず、それどころか踵落としを華麗にキメていました。泣き声なんて「ゴジラか」と言いたくなるような最早咆哮に近い音量と声質で、共に日々NICUに通い詰めた同志・メデラの搾乳機に集いしママ達に「今日も娘ちゃん泣いてるねー」なんてくすくす笑われるほどでした、それだから

「娘はきっと大丈夫」

そう思っていました。でもある日朝の面会の扉を開けると、看護師さん達がひどくばたついてざわついていて、よく見ると奥のクベースにいたはずのとりわけ小さくて可憐に可愛らしいおちびちゃんの姿が消えている、NICUというのはそういう場所でもあり、娘だって一応は重症に分類されている心臓疾患児で、私のいない間に突然心不全をおこしたり、もともと問題だらけの心臓周りの血管のひとつが閉塞して急変する可能性も、まだ体が小さく状態の不安定だった当時には十分ありました。

(その運命が、どうか今晩あの子にありませんように、せめて一度は家族の待つ家に連れて帰ってやりたいのです、先生、看護師さん、かみさま、お願いします。)

夕暮れの迫る下界から見上げるその窓は、当時の私の、祈りの窓でもありました。

その後、娘はNICUを卒業して小児病棟に移り、それから手術をして、そのまま病床をICUの個室へ、次にPICUへ、そしてまた病棟に移し、生後4ヶ月で、その時は医療的ケアを伴う子になっていましたので無事と言っていいのかどうかは分かりませんが、それでもとにかく初めての退院を果たしました。

その時々の、それぞれの場所には意外なことに窓がちゃんと存在していました。中には病院の外側から見えにくい、吹き抜けの中庭のような所に面した窓も、モニター置き場に隠されていてそもそもそれが窓だと気づけないようなものもありましたけれど、それでもどこの病室にもケアユニットにも、お空をちいさく切り取るようにして眺めることのできる窓が存在していて、それはNICUに娘を預けていた頃と同じように

『あの灯りの中で娘は安心して眠っている』

それを想うための、私の祈りの窓となりました。

今、NICUにいた当時は首も座っていない当時赤ちゃんだった娘は4歳になり、すっかり元気になりました…と言いたいところですが、娘の疾患は生涯おつきあいする性質のものなので、来月もまたちょっとした処置のために入院をする予定です。

もともと大学病院が自宅の近所であるもので、幼稚園の帰り、買い物の途中、お薬屋さんに寄った後、病院の前をしょっちゅう通る娘にとって、それは生活の中の一部の、いつもの景色になっていて、いつも私の電動アシスト自転車の後ろのチャイルドシートにしっかりと固定されてご機嫌に座る娘は、大学病院の前を通る時、必ず小児病棟のあるフロアの窓を指さして

「せんせい、いるやんなー」

と言います。そこで育って毎月外来に顔を出し、年に数回里帰りをするようにして入院している娘にとって外から眺める大学病院の窓は、彼女の大好きな背の高い小児循環器医のいる「先生のおうちのまど」となりました。あんたの先生は別に病院に住んでいる訳やないんやでといつも私は言うのですけれど、なにしろ先生の姿は入院中の病棟で見ない日がないものですから娘はすっかり勘違いしている様子。当の先生も笑いながら「まあ住んでるようなもんやから…」なんて言うしこれはもう致し方なし。病院の窓は、娘の大切で大好きな人の暮すおうちの窓です。

今も時折、娘の定期外来が午後からで、そして診察も血液検査の結果もすべてが押しに押してすっかり帰宅が遅くなり、夕暮れの茜色の中を急いで帰ろうと自転車置き場に娘を急かしている時、病院の窓を静かに見上げている人を見つけることがあります。それは過去の私のように小児病棟の窓を仰ぎ見てるのか、それとももっと上のフロアの、別の病棟の窓を探して見上げているのかそれは分かりませんが、その人もまた、中にある誰かの無事を祈っているのでしょう。

窓は、人が中から外のあたたかに明るい陽光と風を求めるものであって、同時に人が外から内にある誰かを想うためものでもあると、これは病院に限った話になるかもしれないのですけれど、私はそう思うのです。

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