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小説:ひつじの子

序)かあのこと

わたしの生まれた日は消え失せよ。
男の子をみごもったことを告げた夜も。
その日は闇となれ。
神が上から顧みることなく
光もこれも輝かすな

新共同訳聖書 ヨブ記 3:3‐4

 社団法人愛徳のひつじ会の運営する児童養護施設『こひつじ園』は1955年、大阪と京都の間の土地にあった屋敷とその周辺、35,000㎡の広大な山林を個人で所有していした園長が数名の賛同者と共に始めた小さな孤児院だった。

設立の5年後には園長の私財と篤志家らの寄付によって、乳児院であるひかり園がこひつじ園の建物の裏手に建設された。更に設立の10年後にはこひつじ園とひかり園の間の土地に講堂を兼ねてオーストリアから輸入したパイプオルガンの置かれた礼拝堂と、子どもらの遊具と東屋の設えられた中庭が整備された。

俺がそのこひつじ園の子どもだった頃、こひつじ園とひかり園には合わせて100人程の子どもが在籍していた。その数は常に流動的ではあったものの、全園児100人の内80人程がこひつじ園に入所する幼児から高校生の子ども達であり、こひつじ園の外観はスパニッシュ・ミッション様式の漆喰の白壁に赤茶の屋根、その建物はまるで南欧の寄宿学校のように見えた。建物の中は室内はキッチンとトイレと居間を兼ねた食堂、それから子ども達の居室が数部屋ある10個の生活スペースに分けられそれぞれに番号を振って『コロニー』と俺達は呼んでいた。そこに3歳から18歳まで、縦割りにした7~8人の子ども達と『先生』と呼ばれる職員数名とが疑似家族のようなものを形成して生活しているのは今も変わらないらしい。

当時俺のいた3番コロニーにも大体常に7人か8人の子ども達が暮らしていたが、入園から高校卒業、つまり18歳の満期までずっといたのは俺が記憶しているの限り俺とコタとミリくらいだ。大体の子ども達は数ヶ月か数年の在園後、親に引き取られて自宅に戻るか、親戚もしくは里親に引き取られるかして、ある日、まるではじめからそこにいなかったかのように姿を消していった。

数年間一緒に暮らした疑似兄か疑似姉かもしくは疑似弟か疑似妹がコロニーを発つ時、彼等を見送る子ども達は「またな」とは言わなかった、必ず笑顔でかつての兄弟達を施設から送り出した、ばいばい、元気でな、もう来んなよ。

その後のコロニーの中には何とはなしに不穏な空気が重たいガスのようにふんわりと子どもらの足元に漂うことになる。中高生達は自室から出てこようとしなかったし、幼稚園組の子ども達は訳もなく泣き出し、小学生らは苛立ち些細なことで喧嘩をした。

するとその晩、寮にこひつじ園の園長である人がやってきて、食堂に子ども達を集め、まるでお伽噺をするように俺達に昔話をひとつ披露した。うんと昔の話だ、まだ俺も俺の親も生まれていなかったくらい、ずっと昔の話。

「昔ねえ、この国で戦争があったの、一番前にいる小さい子達はそんなんひとつも知らへんわねえ。とにかく恐ろしい戦争というのがあって、かあはその戦争が終わる頃丁度12歳かな、丁度小学6年生の年齢で、あの頃満洲って呼ばれていたところで暮らしていたの。大きい子らは知ってるわねェ、満洲てどこにあったのかて、さぁ、どこやろか?」

俺達の前で微笑みながら人差し指をぴんと立てた園長は、自分のことをお母さんという意味の「かあ」と子どもらに呼ばせていた。その呼び名はこの施設の創設者である自分こそがここにいるこひつじ全ての母であるという誓い、毎日子ども達の口を通じて行う終生誓願のようなものだった。かあは敬虔なクリスチャンであり、その信仰心が行き過ぎてこひつじ園の敷地のど真ん中に礼拝堂を立て、こひつじ園のこども達の日々の日課にも早朝礼拝と夕礼拝を設けるような人だったが、だからと言って特に聖職者や修道女という立場の人でもなかった。しかしこの園に集まるすべての子どもの母になるのだということを自身に課して終生、己に独身であることを課した。選択的非モテだ、自発的未婚というか。

「そんなん知らん」
「エート…中国のどっか?」
「アホ、遼寧省、吉林省、黒竜江省の3省や、1932年建国、そんなことも知らんのけ」

その当時もう寮では古参の小学6年生だった俺は、かあの質問に小首を傾げるチビ連中に兄貴面して答えていた。あの頃の俺はかあに褒められたいからという理由で割によく勉強する子どもだった。こひつじ園の子ども達の教育水準は割に高く、流石に中学受験をするような子どもはいなかったものの皆当たり前に高校に進学したし、そこから奨学金などの援助を受けて大学に進学するヤツも俺がこひつじ園にいた頃からそこまで珍しい存在ではなかった。

実親が経済的もしくは健康上の理由で養育が不可能になったとか、そもそも育てる気もなく虐待やネグレクトを通報されて児童相談所に保護された、一般的に言えば『可哀想な子ども』である俺達は、世間一般の想像以上に健全な衣食住と学習環境をかあによって潤沢に十分に与えられていた。

こひつじ園には当時から学習塾のサポートが毎週2回定期で入っていて、それは誰でも受講ができた。栄養を考えられた3度の食事、袖丈と着丈の合った清潔な衣類、2、3人部屋ではあるもののパテーションで仕切られてプライバシーの守られた個別の居室、各コロニーの共同スペースに置かれたスタンウェイのセミ・コンサートピアノでは望めば月に3回、ボランティアでやって来る音学生からのピアノのレッスンが受けられた。毎年夏には琵琶湖畔にあるサマーハウスでの林間学校があり、冬には白馬の山荘へのスキー旅行、子どもたちの誕生日のプレゼントとクリスマスプレゼント、ケーキも毎年必ずろうそくを立てたホールケーキが用意された。

それらはこひつじ園を運営するかあの法人に支給される公費だけで賄えるような掛かりではなくて、かあの莫大な私財が相当額投入されて実現していたことだった。

「それだって、ここの子ども達がご両親の元にいられへん寂しさを埋めるにはまだまだ足りないのよ、私の生活はなんとかなるわ、明日のことを思い煩ってはいけないと聖書にも書いてあるでしょう」

かあはそう言って、子ども達の楽しみにしている夏の旅行費用が足りないとか、在園している高3生が医大への進学を希望したなどと聞けば即座に個人名義の通帳と印鑑を丸ごと職員に渡し、もしくは自宅にある家財や宝飾品をを売り払った、そういう人だった。

「そう。かあはねェ、満洲って今の中国の吉林省で暮らしてたんよ。そこには新京ていう当時の満洲の首都があってね、かあのお父様はそこで学校の先生をしていたのやけれど、戦争が終わるほんの少し前に満洲にはソ連て…いまのロシアのことね、そこの兵隊さんが攻めてきて日本人は皆殺しになるのやて言われて、それでかあ達は新京からともかくも日本に戻らなあかんて、葫芦島っていう港のある街を目指したのよ」

そこからがかあの艱難辛苦の物語だ。新京駅から在留邦人を家畜かその飼料のように隙間なく詰め込んだ貨物列車に乗って船の出る港を目指したこと、しかし途中線路が破壊されていてそこからは延々、自分の足だけを頼みに重い荷物を背負って歩き続けたこと、八路軍の襲撃によって父親を亡くしたこと、屋内でも睫毛の凍る厳しい寒さの冬に風邪を拗らせて次第に冷たくなっていった病弱な母親のこと、赤痢であっという間に死んでいった3歳の妹のこと、やや演出過多な映画のような幾多の困難の末にやっと目指す港に辿り着いた12歳のかあは、あちこちを逃げる間に背負っていたリュックサックも手荷物も全て奪われもしくは取り落とし着の身着のまま、独りぼっちになっていた。

「やっとの思いで博多行きの貨物船に乗り込むための艀(はしけ)を目前にしても、かあはソ連軍やら八路軍から逃げているうちに日本のお金も、かあを日本人だと証明する書類も家族も何もかも無くしていて、それでなくとも港は鼠が走る隙間もないほど人に埋め尽くされていてね、チビで痩せっぽちだったかあは押しつぶされそうになってたんよ。それに大陸生まれのかあには九州に知り合いなんていっこもおらへん、そんなかあが博多に辿り着いたところでどうしたらええかなんて、まだ12歳だったかあにはひとつも分からへんでしょう。そういう時って涙も出てきいひんのよ、ただもうぼんやりしてしまうの。そうしたらね、かあの後ろにいたおばさんが、突然かあの腕をぐっと引っ張ってかあに聞いたの『あなた、ひとりなの?年は?おいくつ?』って」

その人にかあは、自分は12歳で新京からここにくる間に両親と妹を亡くし、持ち物と言えばボロ切れ同然の下着に縫い付けてある家族の遺髪と最早紙切れになった満洲国圓が数枚だけ、これから一体どうしたらいいのか皆目わからないでいるのだと答えた。するとその見ず知らずのおばさんは、かあにさっと手を差し出してこう言ったのだそうだ。

「娘になりましょう」

その人はかあと同じように帰国のため葫芦島を目指す途中、撫順という炭鉱の町で暴動に巻き込まれて、短抗技師だった夫とひとり娘を亡くしてたったひとりで帰国する予定だったそうだ、それがこの時、丁度死んだ自分の娘と同じ位の年頃のかあがたったひとりで、おびただしい数の人間の波の中を死んだような目をして流れてゆく姿を見て突然「自分がこの子を日本に連れて帰らなくては」と思い立ち、人の波に飲み込まれて自分から遠ざかってゆくあの腕を咄嗟に掴んだ。

「ね、そうしましょう、あなたは私の娘、2人で日本に帰りましょう」
「…ハイ」

その人とかあはまるで以前からそこで落ち合うことを約束していたようにして出会い、葫芦島の港で血の繋がらない母娘になった。

かあの養母となった人とかあは、博多に到着した後、今度はまた引き揚げ列車という名の貨物列車に詰め込まれて、養母の実家のある大阪に身を寄せた。元々船場で手広く運送業をやっていたらしいかあの養母の実家はすっかり焼けて跡形もなかったが、こひつじ園のある土地に数寄屋造りの広大な別邸が空襲を逃れてそのまま綺麗に残っていて、そこでかあと養母は一緒に暮らし始めたのだそうだ、そこでかあの養母は生き残っていた父親と数名の身内と一緒に以前の商売を再開させ、かあは別邸から近くの中学校に通った。かあ達の暮らしていた土地と建物は戦後ほどなくしてかあの養母が父親から相続し、そしてかあが成人した後、かあの養母はこの土地と相当額の財産を娘であるかあに譲った。

「この土地と建物、それからお金は、あなたの良心にかなう正しいことにお使いなさい」

その頃、大学を卒業したばかりだったかあは、その土地と建物、それから潤沢な資金を元手にして、かつての自分と同じような境遇の子どものための家を作ることにした。お陰で俺達はこのこひつじ園で安穏と平安のうちに子ども時代を暮らしたということになるのだが、この話の最後、かあはいつも俺達に、かあのお気に入りのマタイによる福音書の『迷い出た羊』のたとえばなしを引用して、必ずこう言った。

「せやからね、聖書のお話しにある通り、群れから迷い出た羊は神様が、それとは分からへん姿で、そしてとても不思議な力で、必ず見つけて救い出してくださるのよ、神様は99匹を野に置いても迷い出た1匹を絶対に見つけてくださるの。かあはね、かあのお母様がかあに「娘になりましょう」と言って手を差し伸べて下さったあの時、お母様を通じて神様に出会ったのやと信じています。みんなにもね、いつかきっとそういう日が来るのよ」

かあは群れから迷い出たこひつじがここに居りますよということを、かあの信じている神様というもの知らせるために、そのしるしとして、この土地に建てた当時の孤児院、今でいうところの児童養護施設に『こひつじ園』という名前を付けたのだそうだ。

とても良い話だ。こうして、遠い国で独りぼっちになってしまった可哀想な女の子は、神様に導かれて幸運に出会い、良い環境ですくすく育ち、大人になった今日、恵まれない子ども達のために生きています、めでたしめでたし。

でも世界はすべての者に平等に幸運を配分するように形成されてはいない。皆がかあのような優しい偶然と幸運に巡り合うようにできてはいない。それなら突然両親を亡くしてたったひとり世界に放り出された子どもには、便所に産み捨てられていた嬰児には、たかだか1万だか2万だかの共済金を得るだけのために実の親に何度も足や腕の骨を折られてきた俺には一体どこに神様がいて、そしていつ俺達の手を掴んでくれるんだ。

実際俺は産まれてこの方、18歳でこひつじ園を出て世間に放り出された後も、その神様とやらに遭遇したことは多分一度もない。俺はかあの大好きな『迷い出た羊』のたとえばなしが嫌いだ。俺がこひつじ園にいた頃から散々読みなさいと言われて、18でこひつじ園を卒園する日にかあから「あなたの人生のお守りに」と言って贈られたこひつじのエンブレムが箔押しされた聖書の中でひとつだけまともに読んだ覚えのあるのは『ヨブ記』という、神が信仰心を試そうと、それまで豊富に持っていた財産を全て奪われ、肉親を奪われ、酷い皮膚病になって荒れ地を彷徨うことになってしまった気の毒なじいさんの話だけだ。あの理不尽さと運命の勝手さというものには、共感できたし、なによりそのヨブというじいさんの言葉

『わたしの生まれた日は消え失せよ』

このことを俺もずっと、何なら今も願っている。

1・コタ

コタの話をしよう。

コタは、所謂アホの子だ。コタはこひつじ園に小1の秋、実の母親に連れられて入園し、18歳の満期までこひつじ園の子として暮らしていた。その間一時帰宅も引き取りもなく里親への委託もなくずっと途切れなく在籍し、その在籍年数はほぼ俺と被っている、俺と同い年の、同じ3番コロニーの同期だ。

コタは小6になっても九九がまともに出来ず、分数や割合の計算なんてものは論外、漢字の読みは小4のあたりからほぼうろ覚え。何かの作業をする時、大抵の人間はそれぞれの形式で作業工程表というかフローチャートを脳内に描いて動くものだろうが、コタは己の脳みそではそのテのものを全く組み立てられないらしく、コロニーで食事の配膳をする時もしょっちゅう鍋をひっくり返したり、皿を割ったりしていた。結局コタは、小学生の子どもらがせっせとスープやみそ汁をお椀に注いでいるのを尻目に高校生になっても幼稚園児と一緒にランチョンマットを敷いてその上に箸やスプーンを置く仕事だけを割り当てられていた。それでアホの子と俺は呼んでいたのだ「アホの子」もしくは「アホのコタ」。

そんなアホの子のコタは、育ちのせいなのか生来の気質なのか、それともただ単にアホなだけなのか、誰が何をしても一切怒らない物凄く優しい性格をしていて、コロニーのチビ達は皆コタによく懐いていた。コタというのは勿論綽名で、コタの本名は真田虎太郎と言う。名前に虎を持ち、確実に親のどちらかが「タイガースファンなんやろな」と分かるコタは、父親が熱狂的な阪神タイガースのファンであって、コタの両親がまだ生きていた頃はよく甲子園球場に試合に自分をつれて行ってくれていたのだと、別に頼んでもいないのにコタが幾度も俺に話して聞かせてくれた。

「オウちゃんは野球、好き?」
「別に、好きも嫌いも、見に行ったことあらへん」
「そっかあ、俺、ようお父ちゃんと見に行ったんや。球場で売ってるモンは高いからって、お母ちゃんがおにぎりと唐揚げ入りの弁当を作ってくれて、それを俺のリュックに入れて持って行くんや。そんでな、タイガースって試合の時に風船をな、7回表の2アウトあたりから膨らましといて空気が逃げへんようにぎゅっと風船の口んとこを持って準備するやんか、ほんで応援ファンファーレのあといっせいに飛ばすねん、したらワーって甲子園球場のお空の上に風船がいーっぱい飛ぶやろ?すごいキレイなんやで、たのしかったなァ、あれ」

コタはいつか、みんなで甲子園球場に阪神タイガースの試合を見に行きたいとよく言っていた。しかし俺は「そんなん別に行きたないわ」といつも答えていた。それは俺が蛇蝎のごとく野球を忌み嫌っているとか、もしくは親の仇レベルのアンチ阪神だとかそういうことではなく、コタが父親と通い詰めた甲子園球場で、母親の作った弁当を抱えたコタと、コタの父親が2人で風船とばしをしている姿を想像すると激しくムカついたからだ。

コタから聞く『かつてあった俺の家族の話』はまるでこひつじ園のエントランスに飾られている陶器の聖家族像の作り出す風景だ。そんな俺の人生には影も形もないコタの思い出に付き合わされる自分を思い出うと、俺は今でも自分が物凄く惨めな生き物に思えて仕方がない。じめじめした日陰の石の下に蠢く虫になったみたいな惨めったらしさ、そしてそういう卑屈ことを考える自分が嫌だった。

コタは、こひつじ園の子どもにしては珍しく、6歳まで親元で育ち、そこで両親に愛されて育った子どもだ。真っ当で正しい子ども時代を持っている奴だと思う、少なくとも俺が見聞きしてきた限りでは。

元々、北海道の室蘭だったか紋別だったかの、本州から遥か遠くの北の大地から高校を出てすぐに大阪に出てきたコタの母親は、生粋の地元民であるコタ父親が勤めていた工務店のすぐ近くの弁当屋に勤めていた、そこでふたりは出会ったのだそうだ。何故俺がそんなことを知っているのかと言えば、小1から高3の12年間ずっと同じ寮で暮らしたコタに「もうええて」という位そのテの話を聞かされたからだ。コタの両親は父親が弁当を買いにいった弁当屋の店先で母親に一目惚れしたことから始まったそうで、なんで俺がコタの受精するその数年前の親のなれそめから記憶していなくてはならないのかというのはこれまで俺自身、何度も感じて来た疑問ではあるが、それをコタにくり返し聞かされたことで消去不可能な情報として俺の頭に沁みついてしまっているので不可抗力だ、仕方ない。

ともかく、近所で「可愛い」と評判だった弁当屋の看板娘に一目惚れした父親がどうしてもと拝み倒し夫婦になったふたりの間に生まれたのがアホのコタだ。コタは産まれた時既に4200gもある巨大な赤ん坊で、少女のように小柄で華奢だった母親はそれを産道から捻り出すことができず、3日3晩間陣痛に苦しんだ末、産道の途中までコタの頭が出て来ていたのを押し込んで帝王切開になったとかで、出生の最初からで大頭の巨大児だったコタは高校に入る頃には、こひつじ園で皆が旧館と呼んでいる数寄屋造りのかあの自宅で鴨居に頭をぶつけてはタンコブを作る規格外の大男に仕上がった。でもそのお陰で女性職員が多いこひつじ園では、植木の剪定や、大型家具の入れ替え、それに蛍光灯の取り換えなんかに非常に重宝されていた。

「虎太郎君がいてくれると助かるわァ、虎太郎君て、ご飯の配膳とかはあんまりやけど、木の剪定とか、棚の修理とかはほんまに得意なんよねえ」
「う、うん、俺のお父さん、大工さんやってん。そんで俺の机とか、椅子とか、つ、作ってくれてん」
「へー、素敵だね」

優しい両親に誕生を望まれ、健康にひとつも問題のない頑健な体を持ってこの世に生まれ、若い夫婦の愛情を一身に受けて育っていた筈のコタの人生に暗雲が見え始めたのはコタが5歳の時だ。まずは熱狂的タイガースファンで、大阪のおっちゃんらしく陽気で気の良いいっちょかみ※だったコタの父親が傷害事件に巻き込まれて死んだ。冷たい雨の降る冬の晩、甲子園口駅で肩がぶつかったぶつからないという至極つまらない酔っ払い同士の揉め事を見かけたコタの父親が「まあまあお兄ちゃん、そんなんで喧嘩して怪我でもしたらつまらんで」なんて言って間に入り、逆上していた男が持っていたアウトドア用のナイフで刺されたのだそうだ、犯人はその場から逃走し、未だに誰がコタの父親を殺したのかは分からない。
(※一丁噛み。何にでも口をはさむ人、何にでも首を突っ込んでくる人、またその行為、関西弁)

それから1年もたたないうちに今度はコタの母親の体に癌が見つかった、コタの父親が死んだ後、コタをひとりで育てるために必死に働いていた母親は自分の体の異変に少しも気が付かず、それが見つかった時、癌は一体どこが発生源だったのか分からないほど進行していた。コタの診察をした医者は「ともかく一刻も早く入院してほしい」とコタの母親を急かしたそうだが、コタの母親にはこの時コタを預けられる身内がひとりもいなかった。室蘭だか紋別だかの母親の実家は随分前に持ち主を亡くして跡形もなく消え、夫は見ず知らずの人間に刺されて死んだ。それでコタの母親は自分が入院してしまえばひとりで自宅に残されることになる息子をどうしたらいいのかと市の児童福祉課に相談して、コタをこひつじ園に一時的に預けることにした。

こひつじ園の利用期間区分は大まかに分けて3つ、全く引き取り手のない子どもの長期滞在と児童相談所経由の緊急避難、それから保護者の病気や怪我を理由とした短期一時預かり利用というものがある、それでまずは一時的にコタを預かってもらうことにしたのだ。

「体が回復したら必ず迎えに来ます、それまでこの子をどうか、お願いします」

病気のせいなのか元からそうなのか痩せていてひどく線の細い、そして北国生まれの人らしく透けるように色白であるコタの母親には、俺も何度かこひつじ園で会っている。コタの母親はこひつじ園の子ども達の親の中には珍しく、入院前と一時退院中、ともかく自身の身体がこひつじ園に足を向けられる限り足しげく子どもの面会にやって来る親だった、コタの母親は面会日に俺達の暮らしている3番コロニーの扉を

「こんにちはァ」

ほんのりと北海道の訛りのあるのんびりとした声で開けて、まるで冬に咲く優しい色の花のような笑顔でひとり息子であるコタに会いに来きた。そんなコタの母親にはいつもコタよりも先に3番寮のチビ達がわあっと群がった。普段全く親の面会がない、もしくはそもそも親の顔など全く知らない子どもの多い中、皆にとっての『理想のお母さん像』にかなり近い見た目と声と匂いの、優しくたおやかなコタの母親はいつも大変な人気だった。同じ3番コロニーの中で俺とコタより3つ年下のミリなんかは特にそうだった。

ミリはこひつじ園の近くの森林公園の便所にへその緒がついたままの状態で捨てられていた赤ん坊だった、しかも和式便器の中に。

便所に産み捨てられていたということは、ミリは誕生を一切祝福されない、むしろその死を願われていた赤ん坊であったのだろうし、実際何度も水洗レバーで水を流された形跡があったらしい。しかし生命力旺盛だったミリは水圧に負けず大声で泣き続けてその存在を外に知らせ続けたことで公園の清掃員に発見され、警察から病院、病院から児童相談所を経由してこひつじ園の隣にある乳児院のひかり園にやって来たのだった。だからミリは俺やコタとは違い、戸籍に親の姓名の記載が一切ない。乳児院からこひつじ園に来た生粋の捨て子だ。

ミリは他人との距離感にやや独特のものがあった。ミリには自分に少しでも目線をくれたり、可愛いわねと話しかけてくれたりする大人にべたべたと絡む癖があって、自分に注目して愛情を注いでくれそうな大人への執着が他の子どもに比べて極端に強く、コタの母親の膝に座ってべったりと甘えるミリの姿は、何も知らない人間が見れば微笑ましいものに見えただろうが、俺には飢餓状態の人間が泥水をすすっているように見えた、愛情に飢えて他人の母親にすがりつく餓鬼に。

でも、そんな風に思っている俺もまた、コタの母親の来訪を心待ちにしているひとりだった。俺はミリのようにべったりとコタの母親の膝を独占して甘えるなんてことは流石にやらなかったが、コタが母親に今週は何をしたのか、寂しくはなかったか、足りないものはないかと聞かれて、優しく頭をなでられている姿を「アホちゃうか」なんて言ってうっとうしそうに横目で見ながら、本当のところはコタのことが羨ましくて仕様がなかった、だから3番コロニーの中ではひとりだけ、コタと同じ年である俺にコタの母親が

「オウちゃん、虎太郎と仲良くしてやってね、あの子ちょっとぼんやりしてるっていうか、のんびり屋で、おばちゃんホンマに心配なのよ」

そう言って息子と仲良くしてほしいと頼んだ時、俺は笑顔で「うん、まかしとき」と言って胸を叩いていた。しかしそう言っておいてその晩、各自の居室を消灯した後、暗闇の中でコタの頭を無言のまま5発ぶん殴った。あの当時7歳だった俺には羨望とか嫉妬とかそういう細かい感情を自分の中から抽出してそれぞれにタグ付けすることは少し難しかった。ただ俺の人生に初めからないものを、何の努力も無くタダで手に入れているコタに対して沸々と「なんやコイツ、めっさムカつく」という赤黒い感情が湧いているということは分かっていたし、その感情が何故生まれてきてしまうのかも多分朧げながら知っていたと思う。

俺は、隣人愛と主の平和が合言葉であるこひつじ園で俺が分かりやすくあからさまな暴力をふるうことは基本的にしなかった、例外はコタだけだ。それがもしバレれば、コロニーの先生からの通報でかあが飛んできて、それで愛とか、平和とか、非暴力とか、その手の長い説教が始まってしまうからだ。しかしその頃通学していた地域の小学校で、しょっちゅう捨て子もしくは放置子と、同級生達から嘲笑と揶揄の的になっていた俺は、いつもそれらすべてを暴力によって制圧し、ついでに全員の口をやくざみたいな文言でもって塞いでいた。

「そんなんオマエが偶然フツーのまともな両親のモトに産まれたってだけやろが、そういうのを運て言うねやこのクソが、俺の親がクソなんも運や、ええか、俺に殴られたて先生とか親に告げ口してみ、おまえん家に火ィつけてもおまえの親もブッ殺したるからな」

そう言いながら相手がゴメン、もう言いませんと泣いて謝るまで相手を殴り続けて更に口止めも忘れなかった俺は、今思えばかなり他害の酷い、そして周到な子どもだった。そんな粗暴でかつ悪辣なガキだった俺の拳は、それまで両親の愛情の傘の中でぬくぬくと育ってきたコタに相当効いたらしい。その晩、ずっと布団の中でコタはめそめそと泣き続けていた。

それなのにコタは翌朝、朝食の席でけろりとして俺の隣で食パンを齧りながら言ったのだった。

「お、おうちゃん、今日一緒に学校、行こな」

それで俺は確信したのだ(うわ、多分こいつ何も考えてへん、アホの子や)と。

その輝くばかりのアホの子の笑顔は、治療の甲斐なく母親が死んだ日も、その翌日の葬式の日も変わらなかった。コタのあの優しい母親の葬儀は、彼女の身内がもう小学生の息子だけで、その痩せて小さくなった体からそう遠くないいつか離れゆく魂を祈りにのせて天国に送ることのできる身内がもうこの世には幼い息子しかいないのだと知っていたかあが

「それでは、あなたの魂が天国に帰る時、ご葬儀はこのこひつじ園の礼拝堂で致しましょう、ね?」

そのようにコタの母親に申し出て、こひつじ園で執り行うことを決めていたらしい。それでコタの母親の臨終の知らせを聞いて即、病院から速やかにその亡骸を引き取ると、かあは毎週こひつじ園に礼拝にやってきていた若い牧師を呼び、中庭に咲いているとりどりの花で礼拝堂と祭壇と棺を飾ってコタの母親の葬儀を執り行った。こひつじ園の子ども達が礼拝堂に全員が集まって天国に旅立つコタの母親の魂の平安のために祈り、讃美歌の「かみともにいまして」を歌った。

かみともにいまして
ゆくみちをまもり
あめのみかてもて
ちからをあたえませ
またあうひまで
またあうひまで
かみのまもり、ながみをはなれざれ

アホのコタにその歌の意味はきっとひとつも分かっていなかっただろう、と言っても俺も讃美歌の歌詞の意味について然程考えたことがないし、あの時も特に何も考えずに歌っていた。ただひとつだけ「またあうひまで」というのは一体どういうことなのかと、もうこの世のものではないあの優しいコタの母親とまた会う日なんかあるのかと、それを不思議に思っていた。第一コタの母親は神様とやらに守られなかったから、ひとり息子を残して死ぬことになったんじゃないかとも。そして、その素朴で静かな葬儀の間、コタは棺の中に飾るための白い薔薇を握りしめて、ほんの少し困った顔をしてやっぱり笑っていた。

「オイ、コタ、大丈夫かおまえ」
「ウン、ダイジョブ。なあおうちゃん、あ、明日も俺と学校行こな」
「アホ、親が死んだら次の日からはしばらく休みになるんや、おまえのオカンが死んでしもたんやぞ、しばらくは喪に服して休んどけ」
「せやけど、俺学校休んだら、することあらへんねんもん」

俺はオウちゃんと一緒がええねん。

そう言って俺より一回り大きな体をぺたりと寄せてくるコタは、そのまま俺とずっと一緒に高校を卒業するまでこひつじ園で育った。なにしろ九九を覚え切れないまま中学を卒業したコタは、中学では「アホ過ぎて進学先なんかあらへん、箸にも棒にも引っかからへんで」と担任教師に匙を投げられていたが、かあの手配した家庭教師の後押しを受け、なんとか公立の園芸科のある高校に入学してそこを卒業し、その後はかあの知人が経営している造園会社にかあの紹介所を持って就職した。コタはアホではあるが根気と体力のあるアホだ、毎日脚立と剪定鋏と草刈り機なんかを積んだトラックに乗って出かけては街路樹の剪定をし、公園の生垣を整え、集合住宅の花壇の草刈りをして、そうして得る収入で自立を果たした。夏は暑く冬は寒く、労働量の割にさして給料も良くないその仕事をコタはもう15年も続けている。

その上、コタには今年8歳になる娘がいる。

人より秀でているのは高い身長と頑健な体だけで、一昔前のパソコンのOS並みに繋がりの悪い脳みそに最終学歴は這う這うの体で卒業した園芸高校だけ、その後取得できたのは普通免許のみ、潰れたアンパンみたいなまん丸い顔面で当然女には全くモテず、従事しているのは夏は灼熱で冬は極寒の肉体労働でその割に低賃金だ。本来ならインセルとしてモップ洗いのバケツ程度の広さの陽の当たらない1Kで清く正しく、わずかな稼ぎから納税をして社会の中で細々生きてゆくはずだったコタは、どういう巡りあわせか結婚し、娘を持つに至った。

とは言え、コタは現在独り身で、男手ひとつで娘を育てている。娘の名前はのゆり、野の百合のように生きなさいと、かあが名付け親になった娘だ。

しかしこれがまた、野の百合の姿とはかけ離れた気質の生意気なガキで、口は達者だし気は強いし頭も回る。見た目は母親とソックリだが他人におもねることを知らない、媚を売らない、忖度もしない、だから俺に全く懐かない。だいたい俺がコタの住んでいる古いUR住宅にたまに訪ねて行くと、俺が手土産にと持参したケーキの箱を俺の手からひったくり

「うわ、また来た、あんたいいかげんマトモに働きぃや、なんやのその変な柄のシャツ、ダッサ!」

そう言ってから俺のケツを蹴り上げてくるような最悪なガキだ、コタが手放しに甘やかしているせいでとんでもない性格に育っている。

でもそんな横暴なガキであるのゆりを見ていると、正しい方法で愛されて育った人間はやみくもに他人にシッポなんか降らないものなんだということを実感する。俺とは全然違う、そしてのゆりの母親とも全然違う、いいことだ、俺のケツを気軽に蹴り上げる粗暴さにはひとつも感心できないが。

のゆりの母親はミリだ。こひつじ園でコタの母親に仔犬みたいに懐いて、いつも実子のコタを差し置いてその背中にべったりと張り付いていたあのミリ。

2・ミリ

便所に流されかけた赤ん坊だったミリは、その後、むやみやたらに大人に愛想を振りまいて、知らない誰かに少しでも優しい言葉をかけて貰えると、それだけで相手にホイホイついて行ってしまう、いささかやばめの子どもに育った。実際ミリはかあや、俺達の暮らしていた3番コロニーの先生と一緒に町のスーパーに買い物に出かけ、そこで知らない大人に「まあ可愛いわね」と微笑みかけられてふらりとその人について行き、半日後に隣町の駅で迷子になっているところを発見されたこともあったし、全く見も知らない老夫婦の家で出された饅頭を食べているところを、買い物を頼まれて実家を訪ねたその家の娘が「どこの子?」と驚いて警察に通報して保護されたこともあった。

そしてずいことに、ミリは思春期を迎える頃、道を行く誰もが振り返って二度見するような世にも美しい娘に育ってしまった。

古来より、不安定な精神に美しい顔面が合わさっていいことが起きたためしはない、美しいが故におかしな人間もその人間の口から吐き出される甘言も夏の羽虫のようにいくらでも湧いて寄ってくる、そしてその甘言に踊らされて元から揺らぎやすい内面が確実にずれて狂っていく、俺の経験則から言えば美人のメンヘラはブスのそれより格段にやばい。

戸籍に一切その記載のない父か母、どちらかが外国の人間なのではないかと思しきミリの、白磁のような色の肌や大きな瞳を縁取るくるりと長い睫毛や、陽を浴びると柔らかく亜麻色に透ける髪色はとにかく人目を引いた。お陰でミリは中学に入った頃から常に男と付き合っていたし、中3の夏には担任だった若い教師と自由恋愛という名の淫行事件を起こした。

放課後、理科準備室で交尾中の犬よろしく重なり合っているところを「理科準備室で変な音がするんです…」と、丁度放課後の怪談話で盛り上がっていた生徒達から報告を受けてそこを見に行った学年主任に見つかり、その日のうちに保護者としてかあが中学校に呼び出された。

「ミリちゃんあのね、あなたに愛する人があるのはとても素敵なことよ、でも相手の方はミリちゃんより15歳も年が上の大人なの、その上本来はあなたのことを教え導く立場であるべき人なのよ」
「ウン、だってあのひと、学校の先生やもん、そんなんうち分かってるで」
「でもね、今回あなたと先生のしたことは、教師と生徒の間で起きるべきことではないの、むしろあるまじきことなのよ。そんな人の言いなりになって、あなたがあなたの体を相手の好き勝手させることを、かあは良いことだとはひとつも思わへんの。もし赤ちゃんができたらどうするの?あなたはまだ子どもなのよ、責任をもって赤ちゃんを育てられないでしょう」
「…でも、先生うちのこと真剣に好きやて言うてたし…」
「あなたのことを真剣に考えている人がそんな無責任なことはしないものでしょう?」

ミリはその時もこれまでも、そして誰と行為に及ぶ時もほとんどまともに避妊をしていなかったそうだ。

「だってそっちの方が気持ちがいいのやでって言うし…」

ミリの身柄を引き受けたその足で産婦人科医院にミリを連れて行ったかあは、医者の同席のもと、ミリがそれまでやっていたことについて

「そんな軽率なことはしてはいけないの、それはあなたの体とあなたの尊厳を傷つける行為なの、お願いやから、あなたの身体をあなた自身が大切にして」

厳しい顔と声色で注意した。この時、かあは目にうっすら涙さえ浮べていたらしいが、ミリはかあの涙など一切意に介さずにけろりとした顔でこう言った。

「ウーン…でもなかあ、赤ちゃんができたら産んだらいいんちゃう?そんでうちみたいにひかり園で赤ちゃんを育ててもろて、うちは赤ちゃんのことたまに見に行くし、赤ちゃんはウチがたまに会いに行けばうちを好きになってくれるやろ、うちはそうなったら嬉しいし、せやからそれでよくない?」
「…そんな」

かあはミリの言葉に何も答えることができなかったそうだ。それは、ミリの言説があまりに奔放で幼稚で手前勝手だったからではなく、親にどういう事情があったにせよ、誕生後即、公衆便所の、それも便器の中に遺棄されたミリの世界への視座というものが、いのちあるものへの視線というものが、かあの持っているそれとはあまりに違っていたからだ。でもミリはひとつも悪くない、ただ普通の子どもが人生の最初に無条件で受け取るはずの大切なものを受け取ることができなかったことで、ミリの中にある大切ななにかが先天的に歪曲してしまっているのだとかあは言い、そのことをかあは『精神的側弯症』と表現した、心の背骨が否応なしに曲がってしまっているのだと。そしてミリをそんな風にしてしまったのはきっと自分なのだと後悔していた、どうしてこひつじ園にいる子どもら全員の母親になることを神様に誓ったはずの自分が、もっと早くそのことに気づいてやれなかったのだろう。

「ミリちゃんは警察の人に発見されてすぐ病院に搬送されてね、そこから生後1ヶ月でひかり園にやって来て2歳半かな、それくらいにこひつじ園に移って、今日まで私と先生方で大切に育ててきたの。とても人懐こくて、いつもニコニコしている可愛い子に育って…だから安心してたのよ。こひつじ園で私と先生たちとで慈しんできたミリちゃんにとって、実のお母さんにおトイレに流されかけたことのある過去なんてきっと関係のないことなんやわって、そう思っていたの。でもそうじゃないんよね、ミリちゃんの悲しみっていうのは、もっと体のうんと奥の、それこそ脊髄の奥の細い神経の中に沁みついてしまっているものなのよね…」

かあは、もうすぐ18歳の満期でこひつじ園を卒園し、北区にあるイタリア料理店に勤めることになっていた俺に、沈んだ声でそう言った。

その後、ミリの精神的側彎症のことはともかくも、かあはその後ミリのそのすべらかな白い肌に覆われた健康な体を守ってやりたいと、児童養護施設であるこひつじ園としては少し異例の、私立高校にミリを進学させた。ミリの体に群がるオスを物理的にミリの世界から遮断することと、高校を出た後に進学せずに社会に出たいと言うミリの手に職を漬けさせるために、福祉コースのある女子高校をかあが選んで受験させたのだ。高校授業料無償という制度も概念もなかったあの頃、いくつかの補助を足しても公立と比較するとかなり割高になる授業料や制服やその他の諸々の費用はすべてかあの私財から捻出した。元々人懐こくて人当たりが良く、男ウケだけでなく爺さん婆さんウケも良かったミリがいずれ介護施設に勤めて実務経験を積み、介護の資格をいくつか取得して自立するのが良いのではないかと、かあは考えていたようだった。

その後、高校に進学したミリが一体どういう高校生活を送り、そこを卒業してどんな生活を送っていたのかを、ミリより3年先にこひつじ園を卒園した俺はよく知らない。俺はミリが中3の時にこひつじ園を出て、しばらくの間、イタリア料理店に勤めていたが、20歳の時にそこを辞めて、それから数年間ミリやコタとはちょっと連絡のつかない場所にいたし、その後も俺は意識して、あのはぐれた羊の集められた園から自分を遠ざけていた。

それでも、運命というか巡り合わせというものは、かあに言わせれば「神様のなさることはいつも不思議」であるもので、俺はこひつじ園を卒園した6年後に偶然再会することになる。

「エーッ!オウちゃんや!ウッソめっちゃひさしぶりやーん!なんでここにおるん?」
「えっと…なんでてちょっとホラ、出すモン出しに」

場所はなんばのファッションヘルス店だった。「ミリに似てるな」と思って何となく指名してみた嬢がまさかの本人で、薄桃色のライトの中でつるりとした赤いサテンのキャミソールに小さな白いショーツだけを身に着けたミリが俺に抱きついてきた時、俺はひどく狼狽していた。それでつい「久しぶり」でもなく「オマエどうしたんやこんなとこで」でもなく、妙に正直にそして神妙に、自分の中に溜まったものを出しに来たのだと答えてしまいそれは思いのほか恥ずかしかった。

それで流石にこういう場所で知り合いに出会ってしまった場合は嬢をチェンジするものだろうと思い

「なあミリ、これってチェンジやろ?」

と頭を掻きながら呟いた俺のことをよそに、ミリはまるでファミレスでカルボナーラかボンゴレ、どちらがいいかと友達に聞くくらいの温度で店のメニュー表を俺の前に差し出し、昔のままの笑顔で「そしたらどうする?おうちゃんならうち、NGなしやで」と、プレイのオプションをどうするのかと聞いた。

「…でなァ、うち高校出たあとに特養て、もう大分ヨボヨボのおじいちゃんとおばあちゃんばっかりの施設に就職したのやけど、人間て一生欲からは逃げられへんねやろな、入浴介助のとかオムツかえの時、じいちゃんて意外にピーンと勃つのよなァ、それをウチに握って摩ってくれて言うねん、そんでそんなんやりませんよーって笑って言うたら、それやったら代わりにおっぱい触らしてくれって言うやん?うち一番若かったからそんなんばっかりで、ほんでそれやったらうち風俗で働く方が割がええんちゃうかなって気が付いたんよ、めっさ賢くない?」
「そうかァ?」
「だって施設でセクハラされても1円にもならへんけど、ここならちんこ握ってお金になる訳やんか?」
「ちんこて言うなやミリ、なんか俺、泣きたくなるわ」

ミリは俺の腹の上に乗っかって、こっちの方がぜんぜん楽やと屈託なく笑っていた。そうだろうか、セクハラしてくる老人の入浴介助もオムツ替えも重労働だろうが、素股だって全身リップだって結構な重労働だ、その上客が夏場の道頓堀川みたいな臭いのオッサンやったら何万積まれても俺にはちょっと無理だ、そっちのほうがよっぽどしんどいんじゃないかと俺は思うのやけどな。

「ミリの見た目で嬢なんかしてたら毎回裏、返してくれるような客ばっかやろし、相当儲かるんと違うか?ミリおまえ、そんなに稼いで一体何に使こてんの?」

腹の上に乗っかったミリの身体をひっくり返してミリの体の上に自重をかけないようにそっと乗ると、ミリのキャミソールをめくり上げて、昔はそこにひとつも存在していなかった大きく温かな胸のふくらみに顔を埋めた。

「余ってんなら俺に貸してくれ、2倍か3倍にして返したる」
「なにそれ、パチンコ?でもうちお金ないで、毎月掛けの支払いとかでカツカツやもん」
「なんや掛けて、売り掛けのことか、まさかホストとかか?」
「ウン、うちの担、来月誕生日なんやんか、せやからうち頑張ってるねん、アルマンドたくさん入れてあげたいやん?」
「ハー…そんなんやめとけ、そのうちその担から飛んだ客の掛け金まで被らされるぞ」

俺にのしかかられて乳首を弄ばれているミリは、「おうちゃん、そんなんされたらうちくすぐったいわ」と俺の頭を撫でながら笑っていたが、普段のミリは高音を強く意識した「♡」つきの喘ぎ声を心掛けているらしい。

「ウチは勤勉で真面目な嬢やねん」
「そうなん、知らんけど」

俺はミリの『勤勉で真面目な嬢』という自負がおかしくて笑ったが、ミリは大真面目だった。ミリはそうやって働いて得た金銭を、ほとんど東心斎橋にあるホストクラブの担当にせっせと貢いでいた。

ミリのように常に誰かの体温を感じていないと不安でいられなくなるタイプの女を転がすなんてこと、あの界隈のホストには仕事明けにつゆだくで牛丼食うより当たり前で簡単なことだろう。自己肯定感が極めて低く、誰かに優しい言葉で自分自身を全肯定してほしい欲求を身体から滲ませている女に、最初は親身になって話を聞き、相手が骨抜きになったころ合いで「あーそうなん?」位に相槌の温度を下げて、時折「それ、俺あんま興味ないねんけど」と冷めた目をして一瞥しておけばいい、担の気を引きたい客はたちまち見境なしに金を使うようになる、ミリみたいなタイプなんか格好の餌食だ。

その上、売掛が膨れ上がってちょっと素人の手に余るような額面になったところで「へ?金払えへんの?ほんならちょっとなんばウォークんとこに、立ってきたらええんちゃう?」なんてことを言わなくともミリは最初から玄人の嬢だ、身体を張って日銭を稼ぎせっせと担にアルマンドと時にはシャンパンタワーさえもたらす、あの界隈の連中にとってミリは、荒れ果てた国土に平和をもたらすため人身御供として竜の腹に身を投げる、まるで聖女のような存在だろう。

ミリの担は自分も親に殴られて育ったのだと、ミリ単位で角度に拘ってセットされた前髪を触りながら話していたらしい。あとは母親が出て行って父子家庭だったとか、児童相談所に保護されたとか。まあそれがただの方便だったのか真実だったのかは、俺は知らないが。

「わかるー、俺も親に殴られて育ったていうかさァ」

(アホか、ミリは産まれて即便所に流されかけた生粋の被虐待児やぞ、お前とは格が違うわ、ミリもミリや、流石にちょっとチョロすぎやぞ)

身体の中から自分の欲をゆっくりと吐き出しそれをミリにすべて流し込んでから、ミリの担へののろけ話を聞いていた俺は深いため息をついた。

(多分、碌なことにならへんな)

それから間もなくミリは俺の思っていた通り、その担に懇願されて飛んだ客の売り掛けを被るようになった。ミリはその華奢な体には不釣り合いな程大きくそして真っ白な乳房を武器に、夏の道頓堀川の匂いのするオッサンにオプションを勧めては諭吉をせっせとかき集め、その潤沢な資金で飛んだ客の売り上げを払い、担を店のナンバーワンに押し上げた。

丁度その頃、ミリはコタとも再会している。

俺はコタに暫く連絡をしていなかったが、18歳で就職した造園会社にそのまま真面目に勤め続け、連絡先も住所も変わっていなかったコタにはすぐ連絡がついた。それで俺がコタを誘ったのだ

「おう、俺やけどおまえミリに会いたないか?」
「エッ?おうちゃん?どうしたん、元気なん?今までどうしてたんや?」
「まあ…そんなんええやんか、なあ肉、食いに行こうや肉、コタ週末って暇か?」
「行くけど、え、あのミリって今、何してるん?」
「会ったら分かるやん、ほしたら今週の金曜日の19時な」

そうして戎橋にある焼肉屋の個室でミリとコタは再会した。ずっと昔、自分の背中に登って遊んでいたいたずらで可愛い女の子だったミリがすっかり大人になり、赤や紫のネオンが禍々しくさえある雑駁な繁華街で元気に肉体労働に従事し、そうやって自立しているのだと聞いてコタは最初喜んでいたが、その勤め先が老人の介護施設ではなくて風俗店だと聞いて急に姿勢を正した。

「そ、そ、そういうの、やめといたほうがええと思うねんけど、ミリが傷つくっていうか…」

コタはものすごくまっとうなことを言って、ミリに今の生活をずっと続けることはやめた方がいいのではないかとミリを諭した。その時のミリは一瞬驚いたような顔をしていたが、それからすぐに箸を持ったまま腹を抱えて笑いだした。

「虎太郎ちゃんて、なんかお客さんみたいやわ、ウチのお客さんてオッサンやと8割…ううん、9割方は、お店に来たら琥太郎ちゃんとおんなじこと言うねん『こんな仕事いつまでもするもんじゃないよ、真面目に働きなよ』って、そんなん言いながらうちに生で突っ込んでいいかなァって聞いてくるねんで、もう意味がわからん。いやあんたらが来るからうちがおるんやーんて、うちいっつも思うねんけどな、まじでアホみたいやない?」

「せやな、オッサンてのは大体アホや、そしてそれはなコタ、需要と供給てヤツなんや」
「なー」

俺とミリは笑って生ビールを飲みながらタコキムチをつまんでいたが、コタは生真面目そうな顔で無煙ロースターの上で焼きあがっていくカルビの焼き具合をトングでつついて確認しながら「ほんでも、せめて決まりは守らなあかんと思うけどなァ」と呟いていた。コタはアホの癖に店での本番行為は本来に違法だと知っていて、そのことを言っているようだった。それを見て俺は「お前は真面目やなァ」とコタを小突いて笑った。

「コタ、産まれたその瞬間から世界に相当雑に適当に扱われてきた俺らに、法令を遵守せえとか、自分を愛せとか、そのテの道義なんか説いてもまじで無駄なことやぞ、肉食え、肉」

この日、コタはミリに「虎太郎ちゃんも遊びに来て?」と、どぎついピンク色の名刺を渡されて「そんなん俺、行かれへんよ」と顔を赤くしながら困惑していたが、俺はその後もミリの売り上げに何度か貢献しに行った。同じ3番コロニーできょうだいのように育ったミリの身体に馬乗りになり、そこに自分をねじ込こんで自分の中に鬱積したものをミリに流し込む行為が楽しかったかと聞かれると、俺にはよくわからない。最初のうちは

(これはある種の近親相姦てやつかもしれへん)

ほんの少しだけそんな風に考えたものの、ミリの中でいつもちゃんと俺は機能していた。生殖を一切目的としていない、薄いゴムで受精を遮断した性行為は排泄と同じだ。俺はそこに罪悪感も嫌悪感も感じなくていい、例えそれが生殖そのものの行為であったとしても、俺は何も感知できないのかもしれない。

俺は自分も他人も大切にできない。そのあたりの感覚と神経は、昔かあがミリを評した言葉を借りれば「先天的に歪曲してしまっている」。

だから、それからしばらくして、久しぶりにミリの勤め先である桃色の小部屋を訪ねた時、昔からすらりと手足が長く、乳房以外に身体に厚みというもののないミリの下腹がほんのり膨らんでいることに俺が気がつき、それがミリがうっかり食べ過ぎて蓄積された脂肪などではなく、ミリの腹の中に蠢く小さな胎児であって、それがもう既に21週を越えているのだと聞いた時も然程驚かなかった。

「なあミリ、太った?」
「それがなー、違うねん」
「なんなん?ほしたら便秘か?」
「いややわーおうちゃん、これな、赤ちゃんやねん」

そしてそのミリの中にいる胎児が既に21週を越えているのだと聞いた時も、人間としての大切な何かが歪曲しているらしい俺は「ほお」としか思わなかったし、それ以外の感想が思いつかなかった。何、お前妊娠してんの、ほーん。

「それどうするねや、産むんか、オマエが育てんの?」
「ウーン…どうやろなァ、もう堕ろせへんらしいんねんから、そうなるのんかなァ、でも赤ちゃんてフツーはお母さんのことが大好きやんか、きっとうちのことも好きになるよな?」
「さあなァ、そんなん親によるのちゃうか」
「キティちゃんとか、あげたら喜ぶかなァ?」
「生まれてスグの赤んぼに、キティちゃんもポムポムプリンちゃんも、判別つかんやろ」
「そうかなー?」

それが、ミリと俺の最後の会話だった。

その後ミリは臨月を待たずに予定よりも随分早くお腹の中の子どもを早産した、確か26週目と言っていたかもしれない。子どもは体重1000gに満たない小さな赤ん坊で、その上心臓に先天的な疾患と、早産児として未成熟な体のまま生まれたことでこの先に肺や脳にも問題が発生するかもしれないという、俺やミリとはまた違った、しかし確実に理不尽な運命を背負って生まれてきた。そして、それを知ったミリは産科を退院した後すぐ、NICUに子どもを置いたままふらりとどこかに消えてしまった。

退院したばかりのミリが子どもを病院に置いたままいなくなったことを俺に知らせたのはコタだ。コタはミリは出産する直前にそれが一体どういう経緯でそうなったのか俺はほとんど知らないが、ミリと入籍していて、結果コタは戸籍上、ミリの産んだ子どもの父親ということになっていた。

「アテが外れたってことなんやろな」
「あて…ってなんのこと?おうちゃん」
「無償の愛みたいなもんやな、自分の子どもは自分を絶対好きになってくれるのやろってミリは言ってたんや。ソレは逆やろ、ちょっと理屈がおかしないかって俺は思ったけど、ミリは自分が産まれてから今日までひとつも貰えへんかった肉親からの情みたいなもんを自給自足するつもりやったんや。それやのに生まれた子は低体重のよわよわのチビで、このまま心臓の病気で死ぬか、生き残ってもサイアク状態が悪くて親の顔も判別でけへんような子になるかもしれへんねやろ、ミリは『神様はどこまでも自分の味方をしてくれへん』って、がっかりしたのと違うか」
「がっかりて…そんな、なあおうちゃん、俺どうしたらいいと思う?」
「それは…オマエが育てなしゃあないやろ。子ども産んで病院に捨てて消えるて、フツーの親なら全く褒められたことやないけど、ミリの基準からしたら、産んで即便所に流して殺そうとしやんかっただけできっと上出来なんや」

俺の言葉にコタは電話口で黙っていたが、それから4ヶ月後にコタはNICUから退院した子どもを家に連れて帰り、ひとりで育て始めた。生まれつき脆弱な体と特殊な形をした心臓を持った子どもはその後何度か入院して、心臓にあいていた孔を塞ぎ、狭窄していた肺動脈を拡大する手術を受けた。10時間程を要したその手術でコタは子どものことが心配で心配で酷い腹痛になり、後半は殆ど便所に立てこもっていた、俺もそこにいたので知っている。

そんな図体がでかくて頑健で、しかしメンタルが脆弱な父親の心配をよそに手術は無事終り経過は順調、元気に退院した後は週に1回の訪問看護師の訪問と、こひつじ園での一時預かりなんかを時折利用して子どもはすくすくと育った。8歳になる現在は出生当初の何ひとつ希望の持てない、悪条件だらけの成長予測に反して、一般的な病弱児の脆弱さや可憐さとは無縁の、口と態度のすこぶる悪いガキに育っている。毎日の服薬と月に1度の通院は欠かせず、身体は同級生よりも一回り小さい上に、運動制限もあるらしいが、それでも普通に公立小学校に毎日通っている。

「のゆりって、く、公文にも通ってるんやで」
「ハァ?もう塾なんかに通わしてんの、それって一体なんぼすんねん」
「算数と国語で、月1万5千円くらい」
「たっか!そんなん、家で100均のドリルでもやらしとけばええやんけ」
「で、でも、かあは俺達にちゃんと塾とかそういうの、用意してくれた訳やし、それにのゆりは凄く頭がいいんや、今でもう少数の割り算をやってるねん、かあも、のゆりはか、身体が弱くて運動とかがでけへん分、お勉強を頑張ったらええのちゃうかなって」
「あー…ミリって金勘定は得意やったよな、あいつの顔以外もちゃんとのゆりに色々遺伝してんねやなァ」
「そ、そうだね」

ミリは結局、今もコタの所に戻っていない、失踪から7年経てばコタの方から申し立てて離婚ができるのやぞと俺はコタに教えたが、煮え切らないアホのコタはミリと離婚をしないままだ。最近ではミリの産んだ子、つまりのゆりに

「パパってアホやな、ママのことはもうしゃあないやんか、うちは別に離婚してもええと思うけど」

そんな風に呆れているが、それでもミリの帰りをずっと待ち続けている。俺もその点はのゆりに完全同意する。このまま戻ってこないだろうミリを自分の戸籍に入れておくことはコタにとって不利益でしかないはずだ、元から一般常識と倫理的平衡感覚にかなり問題のあるミリがこの先どんな面倒を起こすかだってわからないだろう。しかしコタはいつもこの話になるとこう言う。

「ミ、ミリが戻って来た時、帰る場所がないと、可哀想やから」

そしてのゆりは「もう離婚したらいい」とは言いつつも、ちょっと理解不能なレベルに奔放であり実のところはその特殊な成育歴から複雑な精神構造を持つに至った母親と、情のありすぎる両親に育てられたが故に他人への同情と憐憫が行き過ぎている父親、その2人の関係をなんとなしに理解して受け入れているらしい。ミリを恨んで憎んでいるようにも見えない、その点も俺には全く理解不能だ。

俺はコタに一度、聞いたことがある

「オマエはなんでミリと入籍なんかしたんや、特に付き合うてたって訳でもないのやろ」
「…ミリが困ってたから」
「困ってたから、赤んぼとミリの人生を丸ごと引き受けることにしたんか?第一その子ってお前の子やないんやろ?心当たりすらないのやないかオマエには、それともミリとやったんか、ちゃうんやろ?」
「それは、そうなんやけど、俺とミリが結婚して、そんで生まれてくる赤ちゃんが『家族』てことになって暮らすっていうのはさ、昔、俺とミリとおうちゃんが一緒に暮らしてたこひつじ園の昔に戻るってことと、そ、そう変わらんことやんか」
「ハァ?何言うてんねんな、おまえは」

いくらコタが大らかすぎる程大らかでかつ、もの知らずのアホであるとは言え、結婚の拡大解釈が過ぎるのではないか、セックス抜きでただ子どもを間に仲良しこよしで暮らすことが結婚なのか、生物学上完全に他人である赤ん坊の為にコタのこの先20年程の年月とその間に稼ぎ出す金銭の殆どをつぎ込む気なのか。

それは直接コタに会って話したことではなく電話での会話だった。俺はコタの愛徳に満ちた人類愛的結婚観を聞いて、耳に当てていたスマホをほんの少しそこから話して天を仰いだ。

(神様、あのこひつじの園で、愛徳の実践に人生を捧げることを誓ったかあに慈しまれて育った俺は獣並みの外道に育ちましたが、こいつは愛に満ちた本気のアホに育ちました)

「コタ…オマエって、ホンマに、ホッンマ…にアホの子なんやな」
「あんまりアホって言わんでや…」

ミリはその後、群れからはぐれてしまった1匹である自分を見つけてくれる誰かに、無償の愛情を注いでくれる何かに出会えたのだろうか、それは俺にはわからない。

3・桜輔

コタやミリから「おうちゃん」と呼ばれる俺の正式な名前は桜輔という。

「きっと桜の咲く美しい春の生まれだから桜輔なのね」

そのようにかあは言っていたが、俺の苗字は桜井なのでフルネームだと「桜井桜輔」になってしまう。だからきっと4月の空を覆う美しい桜のことはあまり関係ないだろう、親が俺の名前で適当に遊んだに違いない、そういう親だった。

俺は親元にいた頃、加入していた共済保険から請求できる数万円の共済金を請求するために、しょっちゅう足や腕やあばら骨を故意に折られていた。それと入院保険金を請求するために極限まで食事を与えず低血糖にしておいて小児科につれて行き、そのまま数日入院させるというのもしょっちゅうやられていた、入院は確か日額5,000円の補償だった。

今、俺がわずかに跛行、足を引きずるようにして歩くのはその頃の名残だ。ミリのように生まれて即不用品として便所に廃棄されはしなかったものの、コタのように優しい母親の作った弁当を持って気のいい父親と甲子園球場に野球を見に行った思い出もない、ただ『小遣い稼ぎに使える生き物』として6歳になるまで実親に育てられていた。そうして小学1年生になってやっと度重なる骨折と、何か明確な疾患がある訳でもないのに成長曲線を大きく下回って少しも増加しない体重に不審を抱いた医者の通報で児童相談所に保護され、それ以後こひつじ園で生活するようになった。

俺もまた、かあの言う所の『迷い出た羊』のうちのひとりであり、ミリが病的に人懐っこく、他人との距離感に相当なバグのある子どもだったことに対して、俺は頭に血が上ると容赦なく他人に手を上げて相手に怪我を負わせるタイプの、怒りのコントロールが効かない子どもだった。

常に些細なことで腹を立てていた。酷い時は、学校の隣の席のやつが俺の机に消しゴムのかすをほんの少し飛ばして来たというだけで、頭に血が上ってそいつの鳩尾に思い切り蹴りを入れたりしたこともある。

その頃はまだ体が小さく然程力も強くなかったせいで、相手がワーンと泣き、それを担任教師に叱られて、こひつじ園に帰宅した後かあから「平和とは」「忍耐とは」「神の愛とは」という三題噺を聞かされるだけでハナシが終わっていたものが、俺が中学に上がる頃には、かあの制御がかなり効かなくなっていた。そうして栄養状態が悪く軽く足を引きずって歩くひ弱な子どもだった俺が、こひつじ園で栄養豊富な食事を十分に与えられて身長を160㎝後半まで伸ばしていた中2の冬のこと、俺は「廊下ですれ違った時に、自分に挨拶をしなかった、生意気や」という俺からすると

「なんやそれ、アホか」

という理由で3年生にすれ違いざまに頭を引っ叩かれた。それで頭にきた俺は脊髄反射の攻撃力でそいつの顔の中央よりやや上、鼻の付け根のあたりを拳で殴りつけたのだ。そいつは、間伐入れずに反撃してきた俺に驚き、よろけて窓ガラスに額をぶつけた、その衝撃で窓ガラスはぱりんと綺麗に割れて、そいつは眉間から上15㎝程をぱっくりと切った。頭部の切創はとにかく血が大量にそして派手に飛ぶ、そいつの血液で廊下は赤い飛沫だらけになった。その後は大騒ぎだ、かあと、こひつじ園の3番コロニーの主任の先生が中学校にやってきて、担任教師に最敬礼で謝罪をし、その後全員で俺が怪我をさせた相手の家に行き、かあは玄関の三和土に手をついて相手の親が「もういいですから」と言うまでひたすら謝罪していた。

「申し訳ありません、神様に誓ってこんなことはもう、決してさせませんから」

その晩、俺は例によってかあに呼び出しを受けた。きっとまた愛と平和の有難いお話があるのだと思って、かあのいる旧館、数寄屋造りの自宅にしぶしぶ出かけてゆくと、かあは、普段帳簿や書類、それから方々にこひつじ園への寄付と支援をお願いするための手紙を書いている書斎の、古い革の椅子に座って俺を待っていた、そして「おうちゃん、お座りなさいな」と俺を向かいの椅子に座らせるとひとこと俺に言った「ねえ、おうちゃんは、一体何に怒っているの?」と。

「へ?別に今は怒ってへんやんか」
「…そうねえ、こひつじ園にいるあなたはほんまにいい子、それがどうして、一歩お外に出たとたん、何かあるとすぐ、暴力に訴えてしまう子になるのかしら」
「だって…それはアイツが俺を先に訳わからん理由で引っ叩いたからや、なんで挨拶なんか強要されなあかんねん、第一アイツ、俺の部活の先輩でもないのやで」
「そうじゃなくて…たとえばね、おうちゃんは、3番コロニーではもう随分年上のお兄さんで、幼稚園組の子達とか、それから…ミリちゃんなんかがちょっとくらいあなたに悪戯をしたり、宿題の邪魔をしたりしても、例えばミリちゃんがふざけて寝ているあなたの背中を踏んづけて大きなアザを作った時も、あんな風に怒ってミリちゃんのことを叩いたり、殴ったりなんてしたことは一度もないじゃないの」
「自分よりちっこいヤツなんか叩かへん」
「でも、おうちゃんは前に中学校で、自分より随分小柄な下級生を殴ってしまったことがあったでしょう?バスケットボール部の後輩の子が、自分の言う通りに体育館の床の掃除をしていなかったからって。あなたの攻撃性はいつもこひつじ園の外に外に向ってる、かあの知っている例外はこのこひつじ園に来たばかりの頃の虎太郎ちゃんだけ」

かあはこの時、この時点から7年も前の、コタがこひつじ園に来たばかりの頃に、俺が夜中にコタの頭を5発ぶん殴ったことがあることを言った。確かにそれ以外、俺はあからさまな暴力を一緒に暮らしている子ども達にふるったことがない。かあはくり返し俺に理由を聞いた「それは、どうしてなの」と。

「腹立つから…」
「えっ?」
「腹が立つんや、俺らが初めから持ってへんもんを、俺らと違うてフツーに当たり前に持って生まれてそのまま何の苦労もせんと甘受してるやつらのことなんか、ちょっとくらい殴っても別にかめへんやんけ」

この時の俺はそれが何なのかをはっきりとわかっていなかったが、今になって思えばあの頃の俺の体内で途切れなく生成され続けていた怒りの名前は多分ルサンチマンというやつだ、本来貰えるはずの諸々を持つことを許されなかった可哀想な俺の、それを持ち得る者への鬱積した復讐心。

「それは違うわ、おうちゃん」
「何が違うねん、ほしたら聞くけどな、迷い出た羊の俺らを見つけてくれる神様て、一体いつ俺らのところに来てくれるねんな、何時何分何秒、地球が何回回った日?俺らはずーっとそれを待っているのやで」

かあはこの時、俺の質問に明確な答えをくれなかった。ただ、それがいつになるのかは分からないし、もしかしたらもう出会えているのかもしれないと、やや困惑したような、そして悲しそうな表情で全く答えにならない言葉を俺に言っただけだった。

「そのしるしがいつ来るのか、それは誰にも分からないの、神様しかそれをご存知ないの」

かあの言葉を聞いた俺はこれ以上ないくらいブスっとした顔をして、悲しそうな顔をしているかあに、怒鳴るようにこう言った。

「そんなん、何の意味もないやんけ!」

俺は身体の中で肥大し続けるルサンチマンを抱えたまま、中学を卒業して高校に入りこひつじ園を卒園して、イタリア料理店に勤めた。自分がまともに食事を与えて貰えなかった幼児期を過ごしたことが関係しているのかは知らないが、俺は料理を作ることが好きだった。ケーキだとかクッキーも3番コロニーのチビ達によく作ってやった。所謂『ママの焼いたクッキー』的思い出をここの誰もが持ち得ていないのないなら、俺が作ってやればいいとか、思ったのかもしれない。

こひつじ園にいた頃のコタはそのバカでかい体を生かし、こひつじ園の庭木の剪定や電球の取り換えなんかを手伝っていたが、俺は俺で厨房にしょっちゅう出入りしては調理担当のおばちゃん達の手伝いをしていた。

こひつじ園の厨房は、専属の栄養士以外はほとんど通いのパートさんで、それは俺の親どころか祖母くらいの年齢のおばちゃん達ばかりだった、それで重い大鍋や、ダンボール一杯の野菜や米なんかを運ぶのに男手が必要だった。そして重たい鍋や段ボールを運ぶのを手伝う他に、手先が器用でジャガイモの皮むきも、ニンジンの飾り切も難なくこなすことのできる俺をおばちゃん達はとても重宝がって、よく「おうちゃんはコックさんになれるなァ」と言って褒めてくれた、俺はそれが嬉しかったのだと思う。

たったそれだけの理由で俺は調理師になることを決めたのだが、レストランの厨房というのは、愛と平和を運営の根幹としているこひつじ園とは全く違って、理不尽と暴力と暴言のまかり通るかあの倫理の治外法権だった。

掃除の仕方が気にくわない、鍋の洗い方がなってない、なにブスっとしてんねんと、一番下っ端の俺はしょっちゅう先輩にぶん殴られ、それを1年目は歯を食いしばって辛抱したが、勤めはじめて2年目の春、午後の休憩中にかかってきた予約の電話を受け、その時に先方の連絡先をうっかり聞きそびれたことを咎められて、自分より2年先輩のデブに18㎝のソースパンで頭をひたすらコンコンと小突かれながら

「オマエってホンマにあかんよなァ、2年目で電話もちゃんと受けられへんて何?育ちが悪いってこと?」

暗に児童養護施設で育ったことを嗤われて、首から上に血液が集中するのを感じた直後、俺はそいつが持っていたソースパンをひったくって奪い、そいつの顔面と頭部を滅多打ちにしていた。厨房にある牛刀や出刃なんか持ち出さなくとも、持ち重りのするステンレスのソースパンには結構な殺傷能力がある。凶器として十分なそれを躊躇なく振りまわして目の前のデブを殴り続けた俺は、そいつの頭蓋骨を陥没骨折させた。搬送された病院で急性硬膜下血腫だと診断されたそいつは一時危篤状態になり、幸い死にはしなかったが、俺は逮捕され傷害罪で立件された、その後の裁判で執行猶予はつかなかった。

「ねえ、おうちゃん、あなたを救い出す神様の手の代わりを、かあがするのではあかんのかしら、どうしたらあなたの怒りに満ちた魂を、穏やかな泉の汀に連れて行ってあげられるのかしらねえ…」

俺が収監されたことを知って、加古川の刑務所まで面会に来たかあはすっかり年を取って、そしてなんだか小さくなっていた。1933年生まれのかあはあの頃もう80歳で、もともと年よりは随分と若々しく見える人ではあったものの、やはり流れた年月の分、当たり前だが髪が白くなり、顔には深い皺が刻まれて、随分ばあちゃんになってしまっていた。俺は何となく「かあは聖母の如く永遠にあのこひつじの園の、みんなの母だ」そう思っていたがかあはやっぱり人間なのだ、いつかは死ぬ。

(違うねんかあ、かあはみんなのかあなのやし、それに俺よりも絶対に先に、それももうじきこの世からいなくなるやろ、そんなばあちゃんになってしもて)

俺は、かあの問いかけに、返事をしなかった。

その後、予定よりほんの少し早く外に出られた俺は、外の世界でとにかく適当を心掛けて暮らした。まともに人と向き合わず、適当に働いて、その対価をパチンコで増やして時に減らし、人肌が恋しくなったら風俗に行ってそこにいる嬢と適当に中身のない会話をして溜まったものを抜いた。特定の誰かや物に執着できないし、したくもなかった。

そうやって徹底的に他人との接触と摩擦を避け、他人との距離を取っていたつもりが、俺はミリと偶然再会してしまった。そしてミリと再会したら、なぜだかアホのコタに猛烈に会いたくなったのだ。それで俺達はあの時、こひつじ園を出て6年ぶりに、そして自ら連絡をしてコタと再会したのだった。

のゆりがミリの腹に宿ったのはそのすぐ後のことだ。

それまで俺はできる限り誰かに接触することなく、誰にも見つけられることの無い羊として生き、静かに死んでいこうと思っていた。社会的信用というものの一切を失墜したクズである俺は、出所後知り合いのツテでまずはぼったくり系の高級クラブの厨房に勤め、そこで冷凍ピザを焼き、激安スーパーで仕入れたフルーツをカットし、総菜の揚げを電子レンジで温めて法外な値段で売る仕事をした。それがある時、そこのクラブのママに頼まれてホステスの誕生日用のバースデーケーキを作り、それがちょっと評判になって以後、ケーキ屋の真似事をするようになった。といってもそれはキャバクラやホストクラブ専用の、土台のジェノワーズやその上に塗られたクレームシャンティの味なんか全くどうでもいいやつだ、ピンクや水色のクリームとギラギラした飴細工が山と乗り嬢やホストの写真をプリントしたプレートが添えられている、店に飾られるだけで誰も食わずにイベントが終り次第即ゴミ箱行きになる、その割に値段だけはバカ高い虚無への供物。

それがコタと再会し、コタがミリに捨てられたのゆりを育て始めてからは、虚無への供物を作って貰った金をまともな店のまともな味のするシュークリームだのプリンなんかに変えてコタの家を訪ねるようになった。のゆりに会うためだ。のゆりがまだ小さくて手術や検査で入退院を繰り返していた頃は、「のゆり、今入院してるねん」という連絡をコタから貰えば、病院の方に必ず顔を出した。コタは、のゆりが入院するといつも仕事を休んで24時間、病院のゆりの病室に付き添っていた。

「お、おうちゃんてさ、昔から、ほんまは凄く優しいよな」
「別に…ええからメシ食うてこい、付き添い入院てほんまにアレやな、ある意味刑務所よりキツイな、眠れへんし食えへんし、コタ、オマエ風呂とかはどうしてんの」
「ず、ずっと入ってへん、のゆりの機嫌が悪くて泣くし、抱っこからおろせへんねん」
「まじか、刑務所以下の環境やんけ、人権てモンはないんかここには。コタ、のゆりは俺が見とくから、看護師にひとこと言うて、今から家に帰るかその辺のネカフェか銭湯で風呂入ってこい」

赤ん坊の頃ののゆりは常に機嫌が悪く、とてもよく泣く赤ん坊だった。のゆりは泣くと酸素飽和度がすぐに80%とか酷い時は70%まで下がり、青紫色の顔になる。特に入院中は普段の生活とは環境が違うせいで光や音、僅かな刺激で怪獣のように泣き出してしまう気質ののゆりは大体いつも顔色が悪かった。それを一晩中あやしていたコタは、目が落ちくぼんで、酷い時は歩くとフラついていた、あの頑健さが取り柄のコタが。それを見た俺は、いいから風呂に入ってちょっとだけでもどこかで寝てこいと、付き添いの交代要員を申し出てのゆりのことを預かっていた。コタはこの頃の話をするといつも俺にこう言う。

「色々あったのかも知れへんけど、お、おうちゃんは昔からいっこも変わらへん、ものすご優しい人やって、俺はよう知ってるねん」

そうだろうか、本当にそう思うか、俺がもしかしたらのゆりの父親かもしれなくても、コタはそう思えるか?

4・のゆり

俺の顔を見ると脛にローキックかもしくは、ケツを思い切り蹴り上げて来る悪辣なガキであるのゆりが、風邪を拗らせて入院したのは、今年のクリスマスの直前のことだった。

幼児期に心臓の根治手術を終えているとは言え、今も普通の子どもに比べて酸素飽和度の低い設定の、ちょっと走っただけで息切れする体で生きているのゆりは、風邪をひいて熱を出しただけでたちまち酸素飽和度が下がり、それを補うために呼吸回数が増えてはあはあと息が荒くなる。風邪が少しでも悪化すると入院を打診されるし、万が一肺炎などに罹患していたらそれこそ問答無用で即入院になる。

これまで何度も緊急入院を経験しているのゆりは入院にすっかり慣れてしまっていた、主治医から「のゆりちゃん、こりゃあ入院だ」と言われても然程拒否せず「えー…しゃあないなァ」と渋々受け入れていた。しかしそんな物わかりが良いのゆりはこの時だけ、肩を上下しながらはあはあと苦しそうに呼吸をしているような状態で、主治医から言い渡された入院を断固拒否した。

「うち…入院せえへん、こひつじ園のみんなとクリスマスの降誕劇に出るんやもん、帰る」

『降誕劇』は、新約聖書にあるキリストの誕生のくだりを演劇にしたものだ。俺もこひつじ園で暮らしていたころ、毎年降誕劇で羊だの東方の博士だのを散々やらされた。今でも脚本の台詞をかあの担当していたナレーション含めて全部暗唱しているくらいだ「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む」。

赤ん坊の頃から今日まで、のゆりは何度かこひつじ園の一時入所を利用していた。大体の理由はコタの業務中の怪我だ。コタは真面目なヤツだがとにかくどんくさいのだ、木から落ちて骨折、草刈り機の操作を誤って負傷、そういうことがこれまで何度かあった。怪我で手足が使えなくてはのゆりの面倒が見られない、それでこれまで数回、2週間から長くて1ヶ月程度、のゆりはこひつじ園を利用していた。

こひつじ園での宿泊をのゆりは全く嫌がらなかったらしい。こひつじ園は児童養護施設とは言えコタにしてみれば実家のようなものだ、のゆりにとっても、親戚の家のような感覚があるのだろう、のゆりはかあにもとてもよく懐いていた。

そんなのゆりはまだ根治手術の前だった幼児期、自宅で医療用酸素を使って暮らしていた。日常の服薬管理もかなり複雑で、あの複雑で入り組んだのゆりの生存のための諸々を一体どうやってコタがこなしていたのか、俺には今もって謎だ。のゆりは日々のバイタルチェックを欠かさず、摂取水分量の管理も随時、そうやって普通の子どもの倍、注意してその状態を確認しながら育てなくてはいけない子どもだった。

かあはそんな体調管理の難しいのゆりをコタから預かるにあたって、まず常駐の看護師をこひつじ園に2人採用した。更に「この先はのゆりちゃんのように、病気があって、それでも医療機器を携帯してお家で暮らす子が増えるのでしょうね」と言って、こひつじ園の建物を増築し、そこに『ちいろば児童館』という、のゆりのような特殊な事情のある子どもを預かるための放課後デイサービスと児童発達支援施設まで作ってしまった。

ちいろばとは、キリストがエルサレムに入る時に乗っていた子ロバのことだ。「主がご入用なのです」と言われて、救い主に召し出された小さなロバ。90歳近い年齢になっても、迷い出た1匹のために働くことを己の使命として、全く老人らしくない熱量で働き続けていたかあは、いつもとにかく話が早かった。必要なものは作ればいい、求めている人には与えればいい、かあの身の上におきる何もかもは神のご意思なのだ、明日のことは何も思い煩わなくてもいい、主がご入用なのだから。

そのかあのバイタリティと信仰心のお影でのゆりは放課後その『ちいろば児童館』に預けられて安全に過ごし、コタは時々のゆりの通院や入院で休みを取りながらもフルタイムでなんとか仕事を続けていた。

「こ、降誕劇で、ひ、ひつじの役をやるはずやったんや、のゆり、すごく楽しみにしてたんやけど」

今年、ちいろば児童館とこひつじ園の子どもらは合同でクリスマス会を開くことになっていた。のゆりはそのクリスマス会の降誕劇のチームに振り分けられていて、毎日練習に励んでいたらしい、そして当日こひつじ園を支援してくれている駅前のパティスリーから苺とマジパンで作った小さなサンタの乗ったクリスマスケーキが届くことも、とても楽しみにしていた。普段、挨拶がわりに悪態をついてくる俺にすら

「桜輔もケーキ食べにきたらええやんか、こひつじ園の卒園生なのやろ?」

そう言って、こひつじ園で自分と一緒にケーキを食べようと誘っていたくらいだ。そののゆりが入院したと連絡を受けた4日後、俺が楽しみにしていた予定が幻と消え不機嫌を極めているだろうのゆりと、のゆりのご機嫌取りに大汗をかいているだろうコタ、ふたりを病棟に訪ねると、そこにのゆりとコタの姿はなかった。もしかするとのゆりは思っていたよりも軽症で、もう既に退院してしまったのかのかもしれない、コタに確認してみよう。そう思って俺が着ていたダウンジャケットのポケットからスマホを取り出そうとしていると、俺の顔を見て「あ」という表情をした看護師が、俺のところに早足でやって来てそっと耳打ちするようにこう言った。

「のゆりちゃんね、一昨日、ICUに移ったんです」
「ICUって、あいつそんな悪いんですか」
「ウーン…ちょっと呼吸状態が良くないって言うか…あ、今のゆりちゃんのお父さんが下に居られると思いますから、行ってみてください、そこの中央エレベーターで降りたらすぐですから」

のゆりは、感染性心筋炎というのを発症したらしかった。看護師に教えられた通りエレベーターで小児病棟の1フロア下に降りると、コタは丁度ICUの前にある自動販売機の薄灯りの前にこれ以上ないくらい情けない顔で缶コーヒーを握ったまま、捨て犬みたいにしょんぼりとうなだれていた。おいコタ、しょぼくれすぎや、葬式か。

「何ちゅう顔してんねんコタ、その…なに?心筋炎て言うのんは、風邪拗らせたらなるのようなもんなのやろ、それやったら薬もあるやろし、そのうち治るのやろ?」
「心筋炎って普通の人がなっても、そ、相当ヤバイんや、そんでのゆりは、も、元々心臓の病気やから…」
「なんや、あんま良くないんか」
「い、今の状態がつ、続くとちょっと厳しいらしいねん、のゆりを赤ちゃんの頃から診てる先生がずっと家に帰らんとついてくれてるねんけど」

この時、のゆりは自力では呼吸ができなくなってしまったことに加えて、自力で心臓と肺の循環を維持できなくなっていて、それを補助循環装置の力に頼ってなんとか回復までの時間を稼いでいた。体調はここ数日の間に坂道を転げ落ちるように急激に悪化したらしい。徐々に素飽和度が落ちはじめ、次いで尿が出なくなり、その後すぐに起きた呼吸不全、お陰でコタはここ数日殆ど寝ていないし昨日から何も食べていないというので、俺は1階のコンビニに行き、たらこのおにぎりと昆布のおにぎりと卵サンドとクリームパン、あとはほうじ茶を買ってきて、それをコタに袋ごと押し付けた。

「あ、ありがとう」
「のゆりの意識が戻ったら、あんなに楽しみにしてたクリスマス会が終ってしもてる訳やし、多分超絶不機嫌で悪態しかつかへんぞ、その後は我儘の応酬や、大変やぞ、今のうちにメシ食うて体力も温存しとけ」
「の、のゆり、元気になるかな」
「当たり前や、憎まれっ子は世にはばかるて言うやろが、あんなガキ、天国の門まで行っても神様の方から願い下げやて、すぐ帰って来てまうわ」
「そ、そうやんな」

その時、ICUから藤色のスクラブを着た看護師が飛び出して来て言った。

「のゆりちゃんのお父さんですね、中に入ってください!」

看護師はコタではなく、俺の腕を引っ張った。肌の白さや髪の色が目立つせいでずっとミリにそっくりだと思っていたのゆりは、年を追うごとに俺にとてもよく似た部分を少しずつ体の端々に見せるようになっていた。奥二重の目の形、眉山の形、爪の形、誰の目から見ても俺の遺伝子がのゆりの中にあることは明らかで、それを俺はずっと見ないふりをしていたのだった。

その日の晩、のゆりは死んだ。

レスピレーター、バイタルモニター、それらのアラーム音と看護師や医者が立ち働く足音だけが響くICUの小さな部屋の中でモニターに映し出される3色の波形が静かに直線になる瞬間を、コタの強い希望で俺も立ち会っていた。

主治医がのゆりの臨終を告げた時、俺は瞬間的にそして猛烈に腹が立って、目の前の若い医者をぶん殴ってやりたい衝動に駆られた。

(どういうことやねん、なんでのゆりが死ぬんや、のゆりは何も悪いことなんかしてないやろ)

のゆりの亡骸を前にして過去最高に頭に血が上っていた俺は、刹那的に人殺しさえしかねない精神状態だった。でも俺はそれをしなかった、コタが俺の隣で子どもみたいに泣き崩れていたからだ

「のゆり、俺をおいて行かんといてくれ」

そう言って床に崩れ落ちたコタの大柄な体を支えるために両手が塞がってしまっていた俺は、コタのお影で誰も殴らずにあの静かな小部屋の中で医者を殴ることも暴れることもしないで済んだ。

もともと先天性の心臓疾患を抱えて、慢性的に心不全状態だったのゆりは、その健全な精神と横暴なまでの気の強さとは裏腹に、身体の何もかもがすべてひどく脆弱に形作られていた。常人より低い酸素飽和度、それを支えるために酷使される心臓と肺、そこから併発して決して健全とはいえないまま維持されていた肝機能と腎機能。

寿命。

この言葉をたった8歳ののゆりに使うことになるなんて、俺は考えていなかった。

のゆりの葬儀は、コタの母親の時同様、かあの申し出によりこひつじ園の礼拝堂で執り行われた。あの時と同じように花で埋め尽くされた礼拝堂の中で、あの時と同じようにこひつじ園とちいろば児童館の子ども達が讃美歌「かみともにいまして」を歌った。でもコタはあの時のように笑ってはいなかった、憔悴した表情で、そして多分水分さえ喉を通らないのだろう、からからに乾いた唇でぽつりと

「神様は、のゆりのこと、天国のお母ちゃんとお父ちゃんの所につれて行ってくれるやろか」

そう言った。コタのその言葉を聞いた俺には、乾いた笑いがこみあげて来た。コタおまえ、この期に及んでまだ神様なんか信じてんのか、迷い出た羊を探しに来る神様なんか本当はこの世界のどこにもおらへんのやぞ。

5・ミリへの手紙

『ミリへ

ミリの娘が死にました。

名前はのゆりと言いました。ミリが病院に赤ん坊を残してどこかに消えてしまった後、困り果てたコタがかあに一体どうしたらいいのかと相談した時、赤ん坊が生まれてから13日も経っているのに未だ名前がなく、当然出生届も出されていないことを知ったかあが名付け親になりました。

のゆりは、2歳で心臓の根治手術を受けました。それから8歳まで、通院や服薬は欠かせないものの、小学校にも通ってとても元気に過ごしていました。しかし今年のクリスマスの少し前に風邪をこじらせて入院し、そこから急性心筋炎を併発してそれが原因で死にました、本当に突然で、あっという間のことでした。

のゆりは俺の子どもなのかもしれない、いやそうに違いないと俺が確信したのは、今年の春、のゆりの指先にある小さな爪の形を見た時です。

のゆりは人よりかなり低い酸素飽和度で生きているせいで、爪がほとんど伸びませんでした。でもその伸びない爪を磨いて綺麗な色のネイルをしてみたいと言って、のゆりはコタに数百円のネイルエナメルを買わせ、それを俺に塗って欲しいと言いました。コタはミリがよく知っている通り恐ろしい程不器用ですから、コタではなく俺に自分の爪を綺麗に塗って欲しいと言ったのです。優しいピンクのネイルエナメルでした。それで俺はのゆりに手を広げて俺の前に置くように言い、のゆりが俺の前に広げて見せた指先にひとつずつにある爪を、あの時多分初めてしっかりと目視しました。

のゆりのそれは、俺が毎日見ている自分の爪と全く同じ形をしていました。その時、それまでずっとぼんやりと蓋然性の霧の中にしかなかったものが、はっきりと俺の中で確信に変わりました。

ミリが入れあげていたホストに稼ぎをその都度巻き上げられてとうとう借金までし始めた頃、俺は流石にそれは止めろとミリに言いました、そんなものにいくらつぎ込んでも、ミリの中にずっと居座っている寂しさからは逃れることはできないのだと。そうしたらミリは言いました「それなら子どもが欲しい」。

あの時、それがミリの中の虚無に近い寂しさを消し去るための解決方法にはひとつもならないことを重々分かっていて、俺がどうしてミリの計画に乗ったのかはわかりません。「子どもさえいてくれたら」というミリの短絡的で幼稚ですらある願望が叶えば、また俺達のような子どもを増やしてしまうだけだということを分かっていたのに、俺はミリに協力しました。とは言え、たった1回避妊しないで性交しただけで人間がそうたやすく妊娠すると思っていなかった俺は、ミリが妊娠したと聞いてもそれが自分の種が受精したものとは考えず、いや、その可能性をほんの少し感じながら素知らぬフリをして、ミリから逃げました。

そしてミリもまた、のゆりから逃げました。

俺達の子であるのゆりを、かつてかあが俺達にそうしてくれたように慈しんで育てたのはコタです。コタはとても愛情深くのゆりのことを育てていました、日常の服薬や月1回の通院を欠かさず、参観日も親子遠足にも欠席したことはなく、夏休みの海水浴には俺も付き合わされましたし、あの不器用の権化のコタがのゆりのために編み込みやポニーテールを練習してマスターし、のゆりはいつもとりどりの髪飾りを使って凝った髪型をしていました。

のゆりはとても頭がよく、そして頭のよい子どもというのは往々にして癇の強いもので、のゆりはコタによく我儘を言い、それが聞いてもらえないと膨れてコタに悪態をついていました。でもコタは俺が見ている限り、のゆりの我儘や悪態を注意はしても、怒鳴りつけたり、ましてや怒りに任せて叩いたり殴りつけたりしていたことは一度もありませんでした。俺はそんなコタのことを「オマエ、甘やかしすぎや」と言って半ば呆れていましたし、のゆりの俺への態度も結構酷いものでしたが、俺はのゆりに本気で腹を立てたことはこれまで一度もありませんでした。

昔、職場の先輩をステンレス製の鍋で撲殺しようとしたことのある俺がどうしてのゆりの、多分大人に甘えているが故の我儘な態度にはひとつも腹が立たないのか、どうして何かと理由をつけてはコタの家にのゆりの好物のプリンだのシュークリームだのを持って訪ねて行くのか、仮にのゆりが自分の娘であるかもしれないという可能性をどこかで感じていたとしても、俺はもともと家族とか、血縁といかうものに何の意味も感じていない人間です、絆とかいう言葉も大嫌いです。だからそれらのことは理由にならないだろう、じゃあなぜなのかと、ずっと考えていました。

もしかするとそれは、俺とミリ双方によく似た姿かたちをしているのゆりを、コタがあるだけの愛情で大切に育てている姿をただ見ていたかったからかもしれません。本当に手前勝手な話です。コタが真実を知ったら、俺のことを殴るでしょう、もう俺に会おうとはしなくなるかもしれません。

コタがのゆりを大切にすればするほど、パパはおまえのことが世界一大切なんやとコタがその大きな体にすっぽりと埋めるようにのゆりの小さな体を抱きしめれば抱きしめる程、俺の中に茂って増殖し続けていた世界への強い復讐心はその根をほどいて消えていきました。そのことに俺は本当につい最近、そのことに気が付きました。

もしかすると、かあが昔、俺達に繰り返し聞かせていた、迷い出たたった1匹の羊を見つけにくる者というのは、俺やミリにとっては』


そこまで書いて俺は手紙をくしゃくしゃと丸めて捨てた、こんなこと書いて一体どうするんや、ミリが今どこにいるのかなんて、ひとつも分からないのに。

俺はコタになりたかった。コタのように両親に望まれて産まれ、愛されて育ち、一度はそのすべてを無くしても誰に対してもいつも優しくアホみたいに穏やかで、いやアホである故に一切血縁のないのゆりにあるだけの愛情を躊躇なく注ぐことのできたコタ、そういう人間になりたかった。でもこれまでがそうだったように、この先も俺はそんなものにはなれない、きっとそうだろう。

わたしの生まれた日は消え失せよ。男の子をみごもったことを告げた夜も。その日は闇となれ」

俺はひとつだけ記憶している旧約聖書のじいさんの話の文言を口の中で呟いてみた。それから(俺なんかもう世界から消えてしまえばいい、かわりにのゆりを生き返らせてください、あの優しいコタのために、どうかお願いします)そう、この世界のどこにいるのか知らない神様に祈った。

でも真冬の夕暮れの、濃い茜色に染め上げられた1Kの狭くて汚い俺の部屋の中で、世界は何ひとつその姿を変えてはくれないままだった。



おわり

 

 

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