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スイセイのこと 6

☞15

お母さんと妹が死んだのは、お母さんのお腹の中の妹が30週目まで育った10月の雨の日だった。

その日、午前の少し早い時間に雑誌のインタビューの仕事を受けていたお母さんは、その仕事を終えた後、事務所に戻る前に産婦人科の定期健診に行く予定になっていて、そこから地下鉄で2駅の場所にあるいつもの病院に向かう為に傘をさして少し交通量の多い繁華街の2車線道路の交差点でそこの信号が青に変わるのを待っていた。

同じ時刻、その道路の少し向こう、お母さんから見て右手側の路上を銀色のワゴン車が路肩に停車してあるバイクや自転車を蹴散らすようにしながら猛スピードで走って来ていた。その時点で周囲からは小さな悲鳴が上がっていたらしいけれど、その悲鳴は繁華街の喧騒にかき消されて小雨の中で信号待ちをしているお母さんには届かなかった。スピードを落とさないまま道路を直進する銀色のワゴン車がお母さんの信号待ちをしていた交差点のあたりに差し掛かった時、信号が変わり、その銀色のワゴン車は左折してきたトラックと衝突、トラックは大破して停止し銀色のワゴン車の車体はトラックに衝突した拍子に横転してそのまま交差点の歩道と車路を隔てる縁石を乗り越え歩道に滑るようにして突っ込んだ。あとから僕は新聞を読んで知ったけれど、その時その銀色のワゴン車が出していた速度は時速98kmだったそうだ

『普通の人間が咄嗟に身をかわせるような速度ではない』

そう書かれていた。

そこにお母さんは居た。

つい数分前までお母さんと一緒だった仕事相手の雑誌社の人が、その一部始終を現場が見渡せるオフィスのビルの5階の窓から見ていて、マリさんは大丈夫だろうか、そう思って現場に駆け付けると、さっき笑顔で「赤ちゃんが生まれたら知らせますね」と言って別れた筈のお母さんがお腹をかばうようにして道路の上にうつ伏せに倒れていた。

☞15´

お母さんと妹が救急車で病院に搬送されて死亡が確認されたその時間、僕は学校にいてそれは4時間目と5時間目の間の短い休み時間だった。僕がいつものように自分の席に座って本を読んでいたら、教室の出入り口の辺りがざわざわと騒がしくなって、それで僕がそこに視線を移したらその場所にはサカイさんが立っていた。僕は状況がよく呑み込めなくて、サカイさんにどうしたの、仕事はと聞いた。今日は午後から出張に行くんじゃなかったのと。でもサカイさんは僕のその質問には答えずに

「カイセイ、マリちゃんがそこの病院に救急搬送されたって連絡を貰ったの。すぐに行こう、ね」

ランドセルも荷物も全部置いて行っていいからすぐに行こう、先生には私から話してあるから。カイセイ落ち着いてね大丈夫だから。そう繰り返しながら僕の手を握ったサカイさんの指が微かだけれど細かく震えていて僕は

「サカイさん寒いの?今日はそんなに気温は低くないと思うけれど」

そう聞いたけれどサカイさんからの返事は無かった。サカイさんが校門の前に待たせていたタクシーに乗って病院に行く間もサカイさんは僕に何も説明してくれないまま、ただ「カイセイ落ち着いてね」その言葉だけを僕に言い続けていた、まるで呪文のように。そしてタクシーの窓から見えてきた病院は僕がいつも月に1回タチバナ先生に会いに来ている大学病院で、その大学病院の車寄せからすぐの場所にある正面入り口を僕達が乗ったタクシーは通り過ぎて、その奥、救急車専用の大きな扉の横の『高度救命救急センター』と書かれている自動扉の前に停車した。サカイさんは「おつりいいです」と言って運転手さんに紙幣を1枚握らせて、そのまま僕の腕を掴んで僕のことを引っ張るように両開きの自動扉を1回、その次の「関係者以外立ち入り禁止」と書かれた銀色の自動扉を1回通過したその場所、冷たい色の壁紙と無機質なリノリウムの床が暗い照明にうすぼんやりと照らされた廊下にスイセイがひとりで立って僕とサカイさんを待っていた。

「スイセイ、お母さんと妹は」

僕はスイセイの所に駆け寄って2人の安否を確認した。2人はどうなったの、怪我でもしたの、それとも仕事先で急に具合が悪くなったの。

「即死や」

「スイセイ!」

僕の背後にいるサカイさんが強い言い方でスイセイの言葉を制した、もう少し言い方っていうものがあるでしょうと言って。でもスイセイはもう一度僕に

「マリさんとちびはな、出先で車の事故に巻き込まれた。そんで即死や。ちびは一縷の望みをかけてさっきマリさんから取り出してもろた、でも全然あかんかった。サカイさんごめんな、こういうのはなんぼ子ども相手でもごまかしたらあかんねん、事実は事実や」

スイセイはお母さんのお腹の中の妹に『ちび』と出生前の仮の名前をつけてそう呼んでいた。

「今な、マリさんとちびは警察の人が見たはる、検死言うやつや。それでなんでどうして事故で死んだんかの大体を確認してから、遺族に引き渡します言うてさっき警察の人から言われたわ、俺ら遺族やて、もうちょっと何か他に言い方ないんか。ほんで俺はマリさんの事で調書取られるらしいからカイセイはここで待っとくか、それとも一緒に来るか」

「一緒に行く」

僕は即答した。僕はスイセイが今発した言葉のそれぞれの意味はわかっていたけれど、それだけでは状況が一切つかめないでいた。大体『即死』したという本人を確認してないのだからそれが事実なのかどうかが僕には全然わからないし、これがスイセイのいつものくだらない冗談かもしれない可能性だってある。別の第三者に一体何が起きたのか説明してほしい、警察の人がそれを知っているのなら聞かなければ。そう思ってスイセイと一緒にその薄暗い廊下の奥に進んだ場所の一角にある『面談室』と書かれている小さな部屋に行った。窓の無いその中は細長いテーブルに折り畳みの椅子が4つ、それと壁際に「ソリタT3号」と書かれた段ボールがうず高く詰まれているとても狭い空間で、そこに制服の若い警察官と少しくたびれた黒い背広を着たおじさん、この人も警察の人らしい、その2人が待っていて僕とスイセイの姿を見ると同時に立ち上がり、静かに僕らに頭を下げた「このたびは…」と言って。

「経緯を」

「は?」

「経緯を説明してください。お母さんと妹が事故で即死、僕はそれを今スイセイから突然告げられて、それにひとつも納得していない。相手は?状況は?理由は?死因は?」

僕は2人の警察の人が頭を上げる前に、さっき立て続けに自分の中で発生した疑問をそのまま言葉にした。警察の人達は僕の言葉に少し驚いた様子で「あの…お父さん」とスイセイの方に言葉を返してきたので僕は同じ事をもう一度警察の人に言った。

「経緯を説明してください。お母さんと妹が事故で即死、僕はそれを今スイセイから突然告げられて、それにひとつも納得していない。相手は?状況は?理由は?死因は?それとこの人はお父さんじゃない、法律上の父で、僕にとってスイセイはスイセイです」

スイセイは僕の言葉を遮る事はしなかった。そして警察の人の何か言ってほしそうな視線には腕組みしたまま何も答えなかった。そうしたら警察の人は僕の顔を暫くじっと見てから手に持っていた黒いバインダーを開き、じゃあ簡単に話をします、君とお父さんにもと言った。

「お父さんじゃない」

スイセイはスイセイなんだ。僕は小さくつぶやいたけれど、それは警察の人には聞こえていないみたいでそこは何も訂正されずに、まだ調査中の事ばかりですがと言って僕達に今判明している大体の事を僕達に説明した。

「お母さんは、本日午前10時59分、お仕事先の中央区緑町1丁目付近の交差点で現場付近の道路を高速で走行していたワゴン車、同時刻その交差点を左折して来たトラックに衝突しそのはずみで横転したまま歩道に乗り上げた物に轢かれ、詳細については検死結果を待っていますが脳挫傷他外傷性ショックで亡くなりました。体内の胎児も先程死亡が確認され、事故を起こした車両の運転手も死亡が確認されています」

現在お2人に警察からお話し出来る事は以上になります。それであの、調書というか亡くなられた奥様の詳細な情報と、今朝奥様がお出かけになった状況と、あと今後の手続きについてお話をさせていただきたいんですけれどね旦那さん。そう言って警察の人が話を切り上げた時に僕は多分人生で初めてとても大きな声を上げて抗議をした。

抗議?一体誰にだろう?それは僕にもよくわからない。

「僕は納得していない!お母さんは事故で車に轢かれて外傷性ショックで死にました、妹も死にました、加害者である車両の運転手も死にました、以上。どうして?お母さんは何も悪い事をしていない、妹もだ、その運転手の人は何が目的でそんなことをした?どうして歩道にいる無関係の人間を轢き殺す必要があった?僕は納得できない。不当じゃないか!」

僕は不当と思う事が即ちお前の怒りだと言ったスイセイの言葉通り、この時多分生まれて初めて僕は僕の中で不当と怒りが明確に確実に繋がっている事を知ったし、その怒りという物が自分自身では調節も統制も難しいとても激しい感情である事もこの時初めて知った。僕はそのまま警察の人に掴みかかって行って、それまで僕の隣でぼんやりと腕組みしたままの姿勢を保っていたスイセイはそんな僕を見た瞬間に反射的に立ちが上がって僕を後ろから羽交い締めにし、そのまま抱きかかえるようにして廊下に出た。オマエ、ホンマはそんな怒ったり暴れたりできるんか、びっくりするわと言いながら。僕はまるで犬か猫みたいに抱きかかえられたまま廊下に運ばれて、そこに置いてある深い緑色の椅子にどすんと降ろされた。スイセイは、落ち着け、深呼吸しろ、大丈夫や、そう言って僕の顔を両手でつかむように固定してじっと覗き込んだ。

「カイセイ、俺も今、全然この展開について行ってない、オマエと同じや、ウソやとまだ思てるし何一つ納得できてない。でもな、これいっぺん経験してるから言うんやけどな、起きてしもたことはもう取り返しがつかへんねや、時間は戻らへん。とにかく今は落ち着け」

そう言ってスイセイはそのまま、警察の人から調書を取られるためにあの小さな面談室に戻り、僕は暗い廊下で1人それが終わってお母さんと妹の遺体と対面する時間を待つことになった。

「起きてしもた事はもう取り返しがつかんねや」

僕は高度救命救急センターの薄暗い廊下の椅子に深く腰掛けて、あのスイセイからスイセイの声で発せられた筈なのにスイセイの物じゃないみたいな言葉をずっと頭の中で反芻しながら、人間はいつか必ず死ぬというごく当たり前の生物学的なことわりと、その「いつか」が今日お母さんと妹2人の身の上に起きたという事実を全く合致させられないでいた。けれどスイセイが警察の調書を終えて面談室から出てきてそして

「カイセイ、行くで」

さっき僕が掴みかかった警察官の制服の方を先頭に案内された冷たくて白い部屋にスイセイと2人で足を踏み入れた時に、それは一瞬で合致して整合し、もう動かせない事実として僕の中に深く刻印されるようにして認識されてしまった。

「お顔はとてもきれいですから」

検死に立ち会ったと言うお医者さんが、部屋の中央にある台に乗せられた人間の大きさの白い布の一端をめくって露出させた、お母さんとその胎内から一縷の望みをかけて取り出された妹の、違う、かつてお母さんと妹だったものを見た瞬間、スイセイが言った『取り返しがつかない』という言葉の意味を僕は理解した。それはもう物言わぬ死体だった。これはお母さんじゃない。

そして4Dの写真やエコーの画像ではない初めて実物を肉眼で確認した妹は僕が思っていたよりもずっと小さくて、でもちゃんと人の形をしていた。そしてこれは僕の主観ではあるのだけれど、僕に似ていると言われていた妹は僕よりずっとお母さんに似ていてとても可愛い物に見えた。

とても可愛い。

そして、さっきまで僕が奇妙に感じるほど静かで冷静だったスイセイはお母さんと妹と、正確にはかつてお母さんと妹だったものと対面して、そして検視官の人が「また後ほど病院のスタッフが来ますから」と言って部屋を出て行った直後、突然大声で叫んだ。

「クソが!!」

僕は驚いて、スイセイどうしたんだ、具合でも悪くなったのかと聞いたけれど、スイセイは僕の方に一切視線を向けずに、そのまま両手で頭を掻きむしりながら

「俺の人生はなんでいっつもいっつもこうなんや!こんなん、俺が死んだほうがなんぼもマシやないか!なんでいつも俺は残される側の人間なんや、もうイヤや!もう沢山や!」

こう言ってあとは絶叫するような声を上げながら床に突っ伏して泣いた。それは人間の泣き声というよりはまるで野犬が吠えるような声で、間に呻くように何かを言っていたけれど僕にはそれが何を言っているのか全然聞き取れなかった。僕はスイセイが、というよりも大人の男の人が絶叫するようにして泣く様子を初めて目の当たりにして、どうしたらいいのか分からずにそこに立ち尽くしていた。

それと同時に、床にうずくまるスイセイをぼんやりと見下ろしながら僕はある事を自分の中で確認してその事実に驚愕していた。

僕は哀しくない。

怒りとか驚愕と狼狽かそういう感情はちゃんと僕の中に存在してそれは脳のある部分とある部分に接続されて機能している。僕にはさっきそれがちゃんと分かった。でも『哀しい』という感情がわからないしそれが全然見つからないしどう考えを巡らせても僕の頭の中にはそのコードがどこにも無い。以前お母さんは僕が哀しそうな顔をする事があると言ったけれど僕にはその実感がまるで無いし、スイセイのように涙を流す事が出来ない。今この場所で床にうずくまるスイセイを茫然と眺めているしかない自分は一体人間なんだろうか。いっそ、爬虫類や両生類である方が生態としては妥当性があるんじゃないだろうか。

お母さんが死んで

その胎内の妹が死んだのに

僕が生まれて初めて愛しいと思えた小さな生き物が。

☞16

次の日に目が覚めた時、僕は昨日からのすべてが夢ならそれが一番納得がいくのにと思って体を起こした。でも僕の眠っていたその部屋には白い布団にくるまれて白い布を顔に掛けられたかつてのお母さんと妹が僕の横で一緒に寝かされていて、その枕元にはスイセイが僕に背中を向けるような姿勢で肩を落として座っていた。

お母さんと妹の死体。そう言うと、あのあとスイセイが大声で泣いていた白い部屋に僕達を迎えに来てくれたサカイさんが、「遺体」って言いなさい、カイセイがリアリストなのは知っているけど、そうじゃないのよと言って僕に注意した。だから『遺体』。それは一度僕達のあの築45年の木造家屋に運ばれた。そこにはもうサカイさんの事務所のスタッフの人達やこれから行われる葬儀の全てを取り仕切る為の会社の人、そして全然関係ない野次馬的な人、事情を聞きに来たテレビや新聞の人、本当に色々な人が来ていて、サカイさんが先頭に立ってそれを全部捌いてくれた。

「あたしは今日大切な友人で仕事のパートナーを亡くしたけど、でもスイセイのように最愛の配偶者を亡くした訳じゃない、カイセイのように大切な肉親を亡くした訳じゃない。だからまだ大丈夫。とにかくここはあたしが全部仕切るから、カイセイはスイセイについていてあげなさい。こういう時、あたしは動いている方が気がまぎれるの、止まっちゃうともう駄目なの、だからここは全部私が仕切るわ。お金の事とか細かい事は毎回一応確認するからそれだけスイセイに言っておいて。大丈夫、大体経費でおとすわよ。カイセイあたしね、事故の一報を受けた時にね、マリちゃんが今突然私の会社から抜ける事が痛手だとまず思ってしまった自分が許せないの。エゴでしょ、あんなに私と一緒に頑張ってきてくれた子を商品みたいに考えてたのよあたしは。誰にでも親切で、スイセイみたいなロクデナシにも優しくて、結婚までしてやって、天使みたいな子だった、あたしはあの子が大好きだったのに、ほんとうに酷い」

そう言って一粒だけ涙を流してそれを素早く指で拭うと、僕達を遺体のある部屋に放り込んだ。家族で一晩一緒に居なさいと言って。それでサカイさんは本当に全部の準備と手続を、各方面への連絡とか、途切れなく着信のある携帯電話とか、何度も玄関のチャイムを鳴らしてくる知らない人とか、そういう事への対応を一晩中してくれていたみたいだった。

「カイセイとしらたまは、昨日飯食うたか?」

僕に背中を向ける姿勢で座っていたスイセイが僕にそう聞いたので僕は、昨日事務所の人達が持ってきてくれた塩おむすびを2つ食べた、しらたまにはいつも通りのカリカリを少し電子レンジで温めていつもの場所に置いたけど、色々な人が入れ替わり立ち代わり家の中に入って来るから怖がって僕の部屋の机の下に隠れて出て来てくれなかったと言った。

「見てみ、ちびの服がアホほどあるねんで、事務所のみんなして勝手に買ってたんや、ほんでお棺に入れてやって欲しいて、みんなして全部持って来た。アイツ生まれる前からどんだけ衣装持ちやってん」

そう言ってスイセイが指さした場所、お母さん達の遺体のすぐ横には、お母さんのお腹に妹がいると事務所の人たちが知ったその後、事務所の人達がそれぞれ赤ちゃんの服を購入して生まれてから渡そうと思って密かに自宅に隠し持っていた優しくて淡い色のベビー服が山のように積んであった。事務所の人たちがそれを昨日の夜に持ってきてくれたのだと言う。これから冬になるし、何よりもお見送りの時に寒いと可哀相だからと言って。

(経産婦は新生児が大好きなのよ)

サカイさんの言っていた言葉が僕の脳内に踊る。僕は遺体は寒暖を感じたりはしないだろうとは思ったけれど、それについては何も言わない方がいいような気がして何も言わなかった。

僕は布団から出て、それを簡易に畳んでから、スイセイの横に座った。スイセイは多分眠っていないんだろう、目の下にクマができていて少し顔色が悪かった。スイセイはお母さんと妹の遺体の前で向き合った僕に「カイセイも大体のことはサカイさんから聞いてると思うけどな」そう言って今日からのしばらくの予定を僕にごく簡単に説明した。

「今日の晩から通夜で明日が葬式、そのあと斎場で火葬になる。それでほんまにお別れや、だからよう顔を見といた方がええ。あとちびの方なんやけどな、生まれた時から死んでるから死亡届いうのだけ出して出生届が出されへんねやて、あの子は俺の戸籍には残らん幻の子になる、でもそれでいいんかもしれん。俺の家族は死人だらけや、おとん、おかん、妹、土下座してやっと結婚してくれた妻のマリさん、そこに娘までちゃんと書類に残る形で加わってしもたらもう悲惨なもんや。これはアレか?呪いか?カイセイもこの葬式やら法要やらいう大騒ぎが終わったら、この後どうするかよう考えといてくれ、俺らの便宜上の家族はもうほとんど半壊して事実上解散状態や、この先カイセイが俺のそばにおったらお前まで死ぬかもわからん。そんなことになったら俺はもうどうしていいかわからん」

そう言って自分の膝の上に置いていたニコンのカメラを畳に乱暴に置いた。スイセイは多分夜中にこの2つの遺体の写真を撮ったんだろう。スイセイはカメラを構えている時が自分は一番冷静で正常ですべてを直視できる状態になれるんやといつだったか僕に言っていたから。

「それは、スイセイが僕の法律上の父親を辞めて、この便宜上の家族を解散するという事?」

僕は聞いた。あの日、俺がオマエのおとうちゃんやとあかんのかと僕に問いただす程僕の父親になる事を強引に押し付けてきたスイセイは、今度は路上で土下座する位、婚姻関係を結ぶ事を切望したお母さんと、スイセイにとっては世界で唯一の血縁者である娘が居なくなった今、僕と生活することの意味を失ったと言った、少なくとも僕はスイセイの言葉の大意をそう捉えた。でもスイセイは僕にこう言った

「そういう訳ちゃう。でも俺の周りにおる『家族』っていう名前のつくやつはみんな死ぬんや。それは事実なんや、これでもう6人目なんやぞ」

「スイセイは勝手だ」

「わかってる。俺は勝手や、いい年こいてな、今35や、よう分かっとる。でも俺はお前みたいにこの不測の事態に冷静を保つことなんか全然でけへん。これでも俺は大分頑張ってんねやぞ。今だって大声で叫んでどっか飛び出して行きたい、もう頭おかしくなりそうや、そんなヤツなんやで俺は。せやから早晩オマエの事をこの呪い体質みたいなもん以外でも傷つけるかわからん」

俺は今それが何より怖い。そう言って胡坐をかいた姿勢のままがっくりと下を向いたスイセイは、もしかしたら泣いていたのかもしれない。

「それでもスイセイは勝手だ。35歳で大人なら自分の発言には責任を持つべきだ。それに僕は冷静なんかじゃない、何もかもが繋がらないだけなんだ。僕は、僕が今この瞬間を哀しめていない事が、大切な妹が死んでお母さんも死んで一粒も涙が出ない自分が何より苦しい!」

僕はそのまま立ち上がって、僕にしてはかなり珍しく乱暴に僕達のいた和室のふすまを開け、それを閉めもしないでそのまま大きな足音を立てて廊下を歩き、僕の部屋の扉を力任せに開けて、そして大きな音を立てて閉めた。僕の部屋には丁度その時しらたまが隠れていて、その全部の物音に驚いたしらたまは震えて僕の姿を見ても机の下からしばらく出て来てくれなかった。

「ちょっと!どうしたの、何なの今の物音!」

サカイさんと今日からのお通夜と葬儀の手伝いに来ていた数人の人達が廊下に出て来て、スイセイに今の物音の音源について問いただしている声が聞こえた。

「喧嘩したんや」

流石にこの時ばかりはみんなスイセイを怒鳴りつけたりはしなかったけれど、僕に聞こえない位の小さな声で何かをスイセイに話していた。僕は、机の下で震えるしらたまを強引に引っ張りだして膝に抱き、全部聞こえないふりをしていた。

その日、夕方の茜色と夜の藍色が空と陸の際で切り替わるくらいの時間から始まったお通夜には、沢山の人間が葬儀場の外にまで長い列を作った。この件ではサカイさんが

「こんなニュースに出るような事故の犠牲者が、しかもほんのり有名人みたいな人間が葬儀を密葬にするとね、後々取材とかコメントとか、あとは改めて人を集めるとかそういうのが結構大変になるの、この後カイセイとスイセイでそういうのをやるのはちょっと無理でしょう。結婚式と一緒よ、出来るだけまとめてやる方が後が楽なの、自衛の為よ」

昨日、自分は酷い人間だと僕の前で一粒だけ懺悔の涙を流したサカイさんは、葬儀に関しては完全に仕事の仕様に切り替わってとても現実的な提案をした。その事についてスイセイは「なんやようわからん、なんでもええ」というとても投げやりな返事をして、僕はサカイさんの意見に従った。そしてそのサカイさんの言葉通り参列者の中には、とても劇的でそしてショッキングな死に方をしたお母さんのことを取材しようとテレビカメラや長い望遠レンズのカメラを持った記者の人も結構な数混じっていて、その人たちの対応にサカイさんはかなり神経を尖らせていた。一方でスイセイはこの場では喪主という肩書の人間の筈なのに、喪服にいつも使っているカメラを首から下げ「今回の事について…」と参列者のフリをしてスイセイにコメントを求めたりスイセイにカメラを向けてフラッシュを焚いて来る記者やカメラマンを逆に撮影していた。

「そんな構え方でええ写真なんか取れるか、アホかお前」

そう言って不躾な報道の人達を文字通り威嚇し、僕の思い描いていたお通夜という雰囲気よりやや緊迫した奇妙な空気の流れているその場所で僕は

「今日は母と妹の為にありがとうございます」

サカイさんに「とにかくこれを繰り返してなさい」と言われた文言を壊れたレコーダーのように繰り返していた。僕がお母さんが生前にアイロンをかけていてくれた清潔な白いボタンダウンシャツを着て機械的に頭を下げていると、そんな僕の姿を見た大人達は涙を流して「元気を出しなさいね」「気を落とさないで」と機械的な位、決まった文句を言った。皆、涙をこらえてちょっと正気じゃない喪主である血の繋がらない父親の傍らで挨拶をする僕がいじらしいのだそうだ。

それは全然違う、僕は哀しいという感情の回路がどうしようもなく壊れてしまっていて、今この瞬間も全然哀しくなんかないんです。

そして隣でおかしな行動をしているスイセイが、多分この場の人間の中で一番純粋に哀しんでいる人間らしい人間なんです。

でも、そんな事を赤の他人に説明しても仕方がないので僕は何も言わずにひたすらお通夜に来た人に同じ文言を呟きながら頭を下げ、その後はお坊さんの唱えるよくわからないお経を何となく聞き、そしてお母さんの好きだった百合の花が沢山飾られている祭壇をぼんやりと眺めていた。祭壇の中央にあるお母さんの遺影の写真はつい最近、庭でしらたまとお母さんが遊んでいる時にスイセイが撮ったものだ。丁度お母さんの頭からお腹、妹のいる場所が映り込んでいるその写真は

「遺影はお顔が大きく映っているものが一般的なんですが…」

「俺がこれでええ言うてるんやからこれでええんや」

遺影は胸から上、バストショットのお写真が一般的ですと言った葬儀社の人の言葉を怒鳴るようにして遮ってスイセイが決めたものだった。そしてスイセイは、その場でサイズはなんぼや俺が今すぐ作って来ると言って数分で遺影になる写真を自分の手で作った。多分スイセイがこの葬儀とか通夜とかそういうものの中で役に立った最初で最後の瞬間だ。写真のお母さんは全然お化粧もしてなくて、どちらかというと寝間着に使い普段着で、もしこの場にお母さんがいたら

「写真ならちゃんとお化粧してるもっといいやつがあったでしょう。やめてよスイセイ」

と言ってスイセイを叱っただろうけど、僕もそれでいいと思った、写真のお母さんにはちゃんと色と表情がある、棺に入っている遺体よりもずっとお母さんだ。

僕はその日、朝のあの言い合い以来、一度もスイセイと口を利かなかった。

スイセイも僕に話しかけてこなかった。

スイセイもそう言ったけど、僕も僕達家族はもうおしまいなのかもしれないなと思った。

☞17

翌日は良く晴れたとても空が高く見える日で、葬儀の参列に来た人間はまた葬儀場に長い列を作り、僕は昨日と同じ白いボタンダウンシャツを着て葬儀場の親族の座席の周りで立ったり座ったりしながら、僕に声を声をかけてくる大人に昨日と同じ文言を機械的に繰り返した。

「今日は母と妹の為にありがとうございます」

僕は昨日から同じ言葉を繰り返して言いすぎて何がありがとうなのかよくわからなくなってきていた。そもそもみんな知らない人だし僕には関係の無い人だ。僕は昨日お母さんと妹を亡くして、4年前に生物学上の父を自分の人生から切り捨て、今度は法律上の父から切り捨てられようとしている。そして今日はとてもきれいな秋晴れのお天気だ。そのすべてが僕には何故だかとても腹立たしかった。世界が僕に全然関係なく勝手に動き、そして過ぎ去っていくことが。それでも僕はその全部を哀しいとは思わなかった。

「カイセイ君!」

突然、俯きながらこの世界について考えていた僕の耳に聞いたことのある声が飛び込んで来た。

「大丈夫か、お母さんの事故のことを病院で知ってね、今お父さん…じゃないかスイセイさんだね、彼にも今、挨拶して来たよ」

僕の目の前に現れたのはタチバナ先生だった。昨日お母さんが搬送された時、丁度病院にいて大体を知っていたんだけれど、昨日は当直でね、大丈夫かって大丈夫な訳ないな、僕はこう言いう時本当に反射的に気の利いた事が言えない人間なんだ、名医には程遠い。そう言ってタチバナ先生が親族用の座席に座る僕の前に膝をついて僕の顔を覗き込んできたので、僕は昨日からの出来事を、僕がこの不測の事態に納得いかなくて警察の人に掴みかかった事、スイセイが人生史上もう6人目の家族を亡くして僕にはよくわからない理由で僕と家族をやめたいと言い出した事、僕達家族はもう半壊状態でダメになるかもしれない事、それで今日の僕は空が青い事にすら腹を立てている事、それから

「タチバナ先生、僕は哀しくないんです。スイセイはお母さんと妹の遺体を見て霊安室の床に張り付ついて泣いたのに、僕は哀しくない、あるのは怒りだけです。僕はもう明日からコモドオオトカゲとかになった方がいいような気がする、人間じゃなくて」

僕は僕の中で起きた怒りと、そして『愛しい』という感情を僕に残すだけ残して居なくなった妹の力をしても哀しみが分からない自分について絶望している気持ちを先生に伝えた。そうしたら先生は僕に

「ウン、それは正常だ。君は僕がこれまで診てきた中で今日が一番よく感情が表に出ている」

と言った。タチバナ先生はまるで診察室で僕と雑談している時みたいだ、やっぱり先生も変わっている、ここはお葬式の会場なのに。

「あのねえカイセイ君、僕は病院で小児科医なんかをやっているから、割と日常的に死に立ち会う、それもまだ死ぬべきじゃない小さな子どもの死だ。それを目の当たりにした時にはいつも哀しみより怒りが先に立つよ。だってそうじゃないか、病状が急変した末の突然の死とか、今回みたいな事故での不慮の死なんてもう暴力だよ。君の怒りはとても正常な感情だ、今君の中に哀しみが無いのはむしろ正常な事なんだ。スイセイさんが泣いているのはね、それは経験則だ。もう既に肉親を亡くす哀しみを身に染みて知っているからなんだよ」

この先来る喪失感とか苦しみとかそういうものも含めてね。でも今君が哀しみを感じていない冷静な状態であるなら、君は今スイセイさんの事を助けられる、そして君が哀しみを知る日が来たら今度はスイセイさんが君を助けてくれる、そういう事だよ。と言い

「先生は前に言っただろう、君たちはとても相性がいいって」

大丈夫だ、大丈夫だよ。タチバナ先生は僕の手をしっかりと握ってこう言った。それにね、スイセイさんは君を手放したい訳じゃない、君の事が大切で無くしたくないんだ。人間はね、こういうウソみたいな理不尽が続いてしまうと、自分にとって大切なものが手元から消えてなくなるのが本当に怖くなるものなんだ。君を隠したいんだよ、自分の人生に憑りついているとスイセイさんが思っている死神みたいなものから。だから先生はさっきスイセイさんにお悔やみがてらちゃんと一言釘を刺しておいた、こんな時に彼にはキツイかもしれないけど、何と言っても先生の患者は君の方だからな。

「なんて言ったの」

僕は先生の顔を見て聞いた。そうしたら先生はまだ僕の手をしっかりと握りながらこう言った。

「ここに踏みとどまれ」

じゃあ、僕はお母さんに挨拶をして僕は帰るよ、君の妹は同じ棺の中に隠れているんだってね、その子にもお別れを言わないと。今月の予約日は2週間後の月曜だったね、その時また話そう、君は大丈夫だ。そう言ってタチバナ先生は会場の人の波の中に消えて行った。そうしたら次にサカイさんが僕を呼びに来た、なんでも今日の葬儀の最後に喪主の挨拶があって、それを喪主の筈のスイセイが拒否したと言う。

「アイツは本当にこういう時使えないと言うか常識の範囲内で動けないというか。そりゃあね、妻と娘を一度に亡くして大勢の人間を前に挨拶なんかできないっていう気持ちは分からなくもないけど、突然アーティストらしい繊細さみたいなものを前面に出してこないで欲しいのよね、こんな時だけどなんか腹立つわ、普段が普段なだけに」

サカイさんは口調は怒っていても、表情は困惑していた。だから僕はサカイさんにこういう提案をした。

「スイセイが喪主の挨拶をしないなら、僕が代わりにやるよ」

「カイセイが挨拶するの?この大勢の前で?カイセイは普段学校で一言もしゃべらないんでしょう?マリちゃんが言ってたけど」

それに小学生が喪主の代理なんて聞いた事ないわよとサカイさんは言った。

「それは必要がないから喋らないだけで、必要があるならちゃんと話はできる。現にサカイさんと僕は今ちゃんと話をしているよ、僕は大丈夫だ。今日お母さんと妹の為に来てくれた人達への御礼と、これからスイセイをお願いしますって、みんなに伝わればいいでしょう」

サカイさんは僕の顔をまじまじと見て、少しだけ何か考えていたけど、葬儀場の裏手から黒い服を着た多分葬儀の会社の人が「すみません、弔電の順番の事でちょっと」と声をかけたので、僕に手に持っていた四つ折りの小さな紙片を渡して

「じゃあ、あたしが簡単な文章…挨拶文を書いたのを渡すから、これね。それを葬儀の一番最後に読むの、頼むわ。スイセイがポンコツ過ぎな以上、アンタが事実上の喪主よカイセイ」

そう言ってまた葬儀場の裏に行ってしまった。

僕はサカイさんが渡してくれたその四つ折りの紙をポケットに仕舞ってから深呼吸をして空を見た。

僕は、今はスイセイを助けようと思った。

☞18

葬儀の最後、出棺の直前に「皆さまには、故人の長男よりご挨拶をさせていただきます」と司会のおじさんから案内があると会場は少しだけざわついて、それから僕が僕の131㎝の身長に合わせて低く下げられたマイクスタンドの前に立つと、嘆息のようなため息のような音が周囲から漏れた。サカイさんはこの挨拶の直前に

「あたしが渡した紙、持ってるでしょ。アレをそのまま読めばいいんだからねカイセイ」

そう言ったけれど、そしてそのサカイさんには悪いんだけど、僕はそれを読むつもりが全然なかった。だからあの小さな紙片はポケットに仕舞ったまま、僕は会場の大人にマイクの前でまずこう話した。

「あの、皆さん、今日はお母さんの為にありがとうございます。本当ならここで挨拶をするのはスイセイ、スイセイというのは僕の法律上の父で、僕にとってはスイセイはスイセイなので、そのままスイセイと呼んでいる人です。その人が挨拶をしないといけないんですけれど、スイセイは普段からとても感情の豊かな人間で、嬉しい時は大げさな位喜ぶし怒ったら手が付けられないし嫌な事は絶対に我慢しない、そういう人で、今は哀しくてちょっとここに立って話せそうにないし俺はそんな事したくないと言うので、僕が代わりにここで挨拶をします」

そう言って僕が頭を下げたら、スタンドマイクにおでこが当たってキーンと高い音がした、僕は失敗したかなと思って僕の目の前にいる黒い服を着た大人たちをぐるりと見まわしたけれど、でも誰も怒る事も笑う事もなく、葬儀場の僕の目の届く範囲のすべての大人の目が静かに僕の事を見ていた。

「あのそれで、僕も普通の人と少し違う所があって、あまり感情が表に出てこないというか、僕の主治医の先生は僕は本来感情豊かな人間で、ただそれが上手く言葉や表情に繋がらないだけだと言って、それが上手くつながる日を気長に待とうとそう言ってくれているんですけれど、でもあまりに僕が普通と違うと、僕本人はあまり困らないけれど、お母さんの携帯に学校からしょっちゅう電話があったり、僕が同級生ともめて階段から落ちたりしてお母さんがとても心配するので、僕は何とか普通になれないものかと思ってこれまでずっと努力をしてきました。僕には何が一体怒りなのか、嬉しい時はどんな風に感じるものなんか、愛しいって何なのか、大切ってどういう事かよくわからなかったんです。それをお母さんは、カイセイは本来とても優しい子なんだと言って一生懸命僕と一緒にどうしたらいいのか考えてくれていました。最近になって、スイセイがそこに加わって、それで僕はお母さんとスイセイのお陰でほんの少しだけ、怒りとか、嬉しいとかそういう事が、本当に少しだけ分かるようになりました。そして僕は、今回この事故でお母さんと一緒に死んでしまった僕の妹の事を、やっと少し大切で愛しいと思えるようになっていました。でも事故で2人とも死んでしまいました。それなのに、昨日お母さんと妹が一度に死んでしまったと聞いた時、僕は哀しくありませんでした、世界にもう2人がいないのだという事実があって、ただそれだけでした。むしろあるのは怒りでした。僕はお母さんが大切で妹も愛しいと思っていた筈なのに、スイセイのように涙が出ません、吠えるように泣く事も出来ません。僕はその事に今、静かに絶望しています。僕は肉親の死がそこにあっても、痛くもなんともない、哀しいと思えないんです」

「でも、スイセイは僕と同じ歳の時に、地震でお父さんとお母さんと妹を一度に亡くしているんですけれど、それで今度は妻であるお母さんと娘である妹を一度に亡くしてしまったスイセイの事を考えると、僕は哀しいという感情が分からない方が良かったのかなとも思います。僕は今スイセイを助けてあげないといけないから。すぐに調子に乗るのであまり本人に言いたくはなかったんですが、僕はこれまでとてもスイセイに助けられてきました。法律上の父親で基本的には他人ですけれど僕にとってはとても大切な人です。だから僕は今、お母さんと妹がいなくなって、それで家族は半壊してしまったんですけれど、このまま半壊状態の欠損部分を抱えて、人間2人と猫1匹で家族をやって行こうと思います。僕はそう決めました。ここにいる人達はどうかスイセイの事を助けてあげてください」

僕は、ここまで言い切って少し深呼吸をした。会場の大人達は僕のことを真っ直ぐに見ていた。

「あと、今日この場所にいて、お母さんの為に哀しんでくれる人達にお願いがあるんですけれど、哀しい時はおいしい物を食べるといいとよくお母さんが言っていました。僕が学校で何か、僕が意図していなくても同級生や先生が嫌がるような事をしてしまった時にお母さんは僕の好きなラーメンをいつも作ってくれました。「おなかが一杯になると人間は嫌なことや哀しい事は考えなくなるものよ」と言って。だから今日家に帰ったらおいしいものを食べてください。そして特に哀しまなくてもいいので、僕のお母さんの事と一緒に僕の生まれなかった妹のことをしばらくの間、覚えていてください」

僕がそう言い終わると会場のどこかでパチパと拍手をする音がした。音の発生している場所にはタチバナ先生がいた。タチバナ先生の拍手はさざ波のように会場に伝播し、その波のような拍手は会場中を徐々に満たした。祭壇のそばに僕のことを心配して控えていたサカイさんは何故だか顔をハンカチで覆ったまま肩を震わせていて、そしてスイセイは僕の平行線上、黒い服を着た大人達から少し離れた場所でいつも使っているニコンを構えていた。

スイセイはそうする事でしかきっとこの場所を直視する事ができないんだろう、僕にはそれが分かった。

スイセイは僕の言った事の意味を理解してくれただろうか。

その日の午後、お母さんと妹は10月の青い空に溶けるように煙になってこの世界から消えた。

次回が最終話になります。(多分来週公開します)

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