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短編小説:かみさまみたい

「おれ、甲斐先生と話がしたいんだけどさ」

1ヶ月ぶりに病棟に姿を見せたゴウさんは少しやせていて、対応した病棟の看護主任の山本さんはそれをひどく気にしていた。

「ゴウさんちゃんとご飯食べてる?」
「たべてるよォ、山本さんこそなんか疲れて見えるぞ、ちゃんと食ってんのか?」

そう笑いながら俺の事を待っていたらしいゴウさんを見た時、俺はどきりとした。丁度、治療方針を巡って持参した果物ナイフで医師を刺殺したとかいう事件が報道されていたし、刃傷沙汰とまではゆかなくとも、小児科では治療の甲斐なく天国に戻って行った子どもの両親が医者を相手取って訴訟を起こすということは然程珍しいことじゃない、研修医だった頃に先輩が受け持ちだった患児の親から内容証明が送られてきたとため息をついていたのを見たこともある。

「気持ちはわかるよ…なんの準備もないまま我が子が亡くなってそれがどうしても納得できないっていうのはさ、それでもああいう遺族のどうしようもない気持を訴訟に焚きつける弁護士っていうのがるのがまたさ…」
「きついっスね」

俺はあの時、そんなドラマの中でしか聞いたことのない話に場当たり的で当たり障りのないことを言ったような覚えはある、何となく他人ごとだった。それに先輩は実際に子どもの体にメスを入れる小児外科医で、俺は同じ小児科医でも今は血液腫瘍内科の専門医だ。

「えっと…どうも」
「おう、先生、どう?相変わらず家に帰ってねえの」
「イヤ、まあぼちぼち帰ってますよ、あの…福来さん、今日はどうしました」
「あのさ、ちょっとのんちゃんのモンで見て貰いてのがあんだよ、て言うよりか、聞いてほしいもんかな」
「のんちゃんの?今ここで聞けます?」
「いやー、SDなんとかってヤツなんだよ、ホラちっこい海苔みたいなヤツ」
「先生、今なら面談室使えるから、そこでゴウさんとお話してきたら?」

ゴウさんの隣にいた山本さんが横からそう言うので、俺はゴウさんをナースステーションのすぐ横にある小さく仕切られた小部屋に案内した。のんちゃんの病状を説明するのに何度も使った部屋だ。ゴウさんはかなり直感的な人で、ちょっと込み入った話はそれを聞いてすぐに理解するということが難しい人だ、よく言われたのは

「先生、そのエコー…?とかレントゲン…?とかさ、俺からしたらただの砂嵐だよ、先生の言ってることもさ、カタカナと漢字が多くておれ、何が何だか全然わかんねえ」

ということで、それで俺はのんちゃんの病状を説明するのにプリントアウトした資料に色鉛筆で線を引いたり、下手くそなイラストを描いたりといつも大汗をかいていた。そうだ、ゴウさんと最後にここで話をした時は、俺はゴウさんに白衣を掴まれたんだ「おれさあ、難しいことはわかんねんだけどよ、じゃあのんちゃんはもう助からないってことなのかよ」って、あれ、ちょっと怖かったな。

のんちゃんが天国に戻ったのは、去年の暮れの、音もなく雪の降る、静かな晩のことだった。

のんちゃん、森本野々花ちゃんは12月に6歳になったばかりの、大きな瞳が印象的なとても可愛い子だった。俺が専門医になって最初に受け持った子だ、絶対に何とかしたいと思っていたし、きっと何とかなると思っていた。

でも、人間というのは、いや子どもというのは不思議なもので「これはどう考えてもダメだろう」という予測でいた子が土俵際まできて死というものをひっくり返すこともあるし、治療のコマを順調に進めて、来週には自宅外泊の予定だった子が急変してあっけなくこの世界から消えていなくなってしまうこともある。

のんちゃんは、後者の方だった。


「毎度、おんなじモンになるんだけどさ、先生、これ」

一体誰のお下がりなのか、どこかの工場の作業着に黒いダウンジャケット、そしてそれにはちょっと不釣り合いなポンポンのついた赤いニット帽を被ったゴウさんは、茶色いクラフト紙の紙袋を俺に差し出した、ゴウさん名物の手土産のたい焼きだ。病棟では患者家族からの金品の授受は原則禁止されている。それでも「どうぞ…」と菓子折りを看護師に渡してくる家族もいないことはない、ただそういうものは、さっきの看護主任の山本さんが

「あらぁ~こういうのは、お気持ちだけいただいて、ねっ?」

と笑顔で全てを退けている、鉄壁のディフェンスだ、その歴戦の勇者、山本さんが過去に一度だけ負けた相手というのがこのゴウさんだった。

「僕がいいですって辞退しても、福来さんは『ダメだよう、これは焼きたてなんだから』って置いてっちゃうんですもんね、じゃこれは、ありがたく頂きます」
「看護師さん達とさ、あとほらあの子なんて言ったっけ、よく甲斐先生にくっついてた若い男の子のさ」
「浜野ですか、あいつ今、外来なんですよ、戻って来るのいつかな」
「じゃあひとつ取っといてやんなよ、あの子いつもメシ食う時間がないって、いっつも腹すかしてたからさ」
「あいつそんなことゴウさんに言ってたんですか、患者家族に何言ってんだか」
「いいじゃん、若いと腹は減るもんだよ」

ゴウさんはその見た目に反して人懐こそうな笑顔を俺に向けた。よかった、のんちゃんが亡くなる前のあの優しいゴウさんだ。


福来剛介さん、通称ゴウさんはのんちゃんのことを本当に深く愛していた、ゴウさんの頭の中に辞書があるとして、その『愛』と『大切』の項目には「のんちゃんのこと」と書かれているんだろうと思う。と言っても、ゴウさんとのんちゃんは親子ではなかった。

それどころか姪と伯父の関係という訳でもないし、のんちゃんが孫でゴウさんが祖父という訳でもない、赤の他人だ。のんちゃんのことを俺の指導医だった坂田先生から引き継いだ時、その事実に俺はまず驚いた。

「それって全くの他人がのんちゃんを養育しているってことですか、特別養子縁組とかそういう法的な手続きもせずに?じゃあ今後のんちゃんの保護者に同意書なんかを署名してもらう場合、それは福来さんでいいんですか、それってアリなんですか」

「そうじゃないのよ、のんちゃんのお母さんね、森本いずみさんはお1人でのんちゃんを育てていらっしゃるんだけど、つい2ヶ月ほど前に事故にあって、今は入院中なの。それで森本さんの知人である福来さんが森本さんから委任されたってテイで、のんちゃんの付き添いをしているの、のんちゃんが福来さん…ゴウさんにとても懐いているからって。だって、のんちゃんはまだ5つでしょう」

「知人て、一体どういう知人なんですか?病児の付き添いなんて普通、実の親でも相当大変なことですよ」
「なんでも福来さんは、森本さんのお父さん、だからのんちゃんのおじいちゃんに当たる方ね、その人にもの凄い義理だったか恩だったかが、なんかそういうのがあるんですって、それを全部返すまでは死ねないんだって」

そう教えてくれたのは山本さんだった。とはいえ病棟には感染症予防の観点から患児の両親以外は基本、入ることを許されていない。しかしかつての主治医である坂田先生、病棟長、師長、主任、ソーシャルワーカーの5者で協議をして、特別にゴウさんに病棟への立ち入りを許可したのだという。一見やく…いやあまりよろしくない職業の人に見えてしまうゴウさんにのんちゃんの付き添いを許可するよう、一番強く推したのは山本さんだったそうだ。

「のんちゃんは今、一体いつ夜が明けるかわからない暗闇の、とても辛い場所にいるんです。それなのにお母さんが隣にいられなくなってしまった、それならのんちゃんが信頼している別の大人が寄り添ってあげないと」

カンファレンスルームでの山本さんの言葉は反対派だった師長と病棟長の許諾を得るに十分の熱量で、ゴウさんは「あんまり大声を出したり、周囲に迷惑をかけるようなら、即退出していただきますよ」と師長からの訓示を受けて、のんちゃんの待つ病棟に昼過ぎからのんちゃんが入眠する消灯時間まで、毎日通うようになった。

雨の日も雪の日も、暴風警報と大雨洪水警報が同時に発令されていた日でさえ

「先生、大変だよ、電車は全然動いてねえし、ホラ、病院の前の桜の木、あれがポッキリ折れちまってたぞ」

なんて言いながら、全身びしょ濡れになって病棟にやって来た。そしてのんちゃんの服をランドリールームで洗濯し、昼食と夕食の食事介助をし、トイレに付き添い、あとは病室やプレイルームでずっと一緒に遊んでいた。

最初、同じように病棟で子どもの付き添いをしていた親御さん達は、ゴウさんのことを見てかなり緊張し、警戒もしていたものの、ヒグマのように巨大で強面であるおじさんが、小さな女の子とままごと遊びに興じているの姿は子どもらの目にはかなり面白かったのだろう、ひとり、ふたりと、子ども達がゴウさんに話しかけるようになり、ついには、何人かのやんちゃ坊主がゴウさんの大きな背中に登って遊ぶようになった

「ダメだよ、落っこちたら怪我しちまう、病院で怪我するなんてつまんねえぞ、ここには元気になりにきたんだろ」

がっしりと太い首にぶら下がった男の子の身体を抱きかかえて、嬉しそうに笑うゴウさんの子どもらへの眼差しが、その大きな体躯と剣呑な釣り目からはちょっと想像できない程優しいものだったので、段々と子ども達に付き添う親もゴウさんを怖がらなくなった。それで投薬治療中、髪の毛が抜け、口内炎だらけになり、ひどい倦怠感にとりつかれて、病室に運ばれてくる病院食にひとつも手をつけなくなったのんちゃんを前に「のんちゃん、一体何なら食えるんだ?そんなに食わなかったら死んじまうよ」と言って困り果てていたゴウさんに

「あのねえゴウさん、うちの子はねえ、お薬の治療中でもソフトクリームなら食べられるの。1階のコーヒー屋さんがあるでしょ、そこ、コーヒーフロート用のクリーム部分だけ売って欲しいっていったら売ってくれるのよ、今から行くしついでに買って来ましょうか?」

だとか

「意外にポテトがいけますよ、しばらく時間が経ってシナってしてるやつ、うちはマクドナルドのポテトはだけどんな体調の時も食べられるんです」

なんてことをそっと教えるようになった。そうやってゴウさんは、病棟の長期入院組の付き添い親の鉄の結束と連帯の中に、わずかな時間で意外な程するりと溶け込んでいった。

泊まり込みで付き添うお母さん達に混じって、検査の度に渡される血液検査結果の読み解き方、投薬中の酷い食欲不振の最中は何を食べさせているか、ベッド上安静の時は何をやらせて時間を稼ぐか、そんなことを互いに教え合っている群から頭一つ飛び出て大きいゴウさんは、入院中の子ども達を見渡しては「こんなにちいちゃいのに病気だなんて、ホントにかわいそうだなァ」なんてことを俺にもよくこぼしていた。

「なんでこんな子どもに病気なんてことあるんだろうなァ先生、おれ、バカだからかもしんねえけど、ガキの頃も今も病気なんかひとつもしないんだよ?なのにのんちゃんの隣の部屋のシュンちゃんはいよいよ心臓の様子が良くないって、心臓を取り換えるために別の病院に移ってなんだっけか…ああ移植だ、心臓の移植ってのを待つことになったんだろ。そんなの俺の心臓を譲ってやりてえよ、なあ先生、移植ってヤツは大人の心臓でもかまわねえのかな」
「いえ…大人の心臓は、シュンちゃんみたいな小さな子には移植が難しいんですよ、大きすぎてそれはちょっと不可能っていうか…それに心臓は脳死移植が原則ですからね、生きてる人からの移植なんて殺人事件になっちゃいますよ」
「別に、のんちゃんさえ元気になってくれた後なら、おれなんかこの世からきれいさっぱりいなくなっても構わねんだけどさァ」
「それはだめですよ。でも、ゴウさんのお気持ちは僕にもよくわかります」
「そうかい、あげられるもんならやりてえんだけどなァ。シュンちゃんなんてまだ2歳なんだよ、親からすりゃ可愛いだけの時期じゃねえか、おれがこの世でのうのうと生きてるよりシュンちゃんがずっと先の未来を生きてくれる方が何百倍も価値があるよ。ここにいるみんなも早く良くなって、外の世界の子どもらみたいに保育園とか小学校に通ってさ、遠足に行ったり野球したり、たまに友達と悪さしてさ、ちょっとくらい足や体が言うこと聞かなくても、そういう風に生きていってほしいよ、その価値のある子ばっかりだよ」

のんちゃんは通っていた保育園をずっと休園していて、早く先生やお友達に会いたいといつも恋しがっていたせいもあって、ゴウさんは病棟の子ども達が、長い子は本当に何年も病棟の外にすら出ることを許されずに過ごしていることを殊更、可哀想だと言っていた。子どもは外の風や土の匂いを嗅ぎながら育つのがいいんだ、消毒液の匂いじゃだめなんだよと。

それだから、晩秋に体調を崩して以後、どうにも血液の数値が安定しないまま一時退院の予定がずれにずれて、そうして本当なら出られるはずだった保育園のクリスマス降誕劇に欠席することになったのんちゃんの無念を代弁し、数時間の外出を願い出たゴウさんは、ひどく強硬だった。

「だからよう先生、毎日病室でのんちゃんは劇の練習してんだよ、保育園はスグそこなんだよ、劇の当日にさ、ちょっと保育園に行って小1時間舞台に出て、そんで帰って来るだけのことじゃねえか」
「外に出たら、何が起きるかわかりませんよ、のんちゃんは今、柱一本で大きなお家を支えているような状態なんです、でも外にはその一本しかない柱を容赦なく切りつけてくるヤツがうようよしてる、もし風邪なんかひかせてしまったら、のんちゃんの命の保証はできません」
「マスクもさせるし、よーく手も洗うよ、寄り道なんかしないで帰って来るからさァ」
「主治医として、絶対に許可できません」

ゴウさんと俺の身長差は約20㎝、その上俺は伊達メガネを掛けて髭まで蓄えても未だ30歳を越えた年齢に見られることの無い童顔で、ゴウさんは堅気みられることの稀な強面だ、最初は冷静な話し合いだったものが段々と語気が荒くなり、ついにはにらみ合いになった俺とゴウさんの元に、ナースステーションから師長が慌てて飛んでくる騒ぎになった「やめてください、子どもが怖がるでしょう」と。

「一度、保育園の先生にご連絡して、入院している野々花ちゃんも何か、その…クリスマスの劇ですか、それに関わることができないか聞いてみましょう。ね、今の野々花ちゃんに外出や退院を認めることは、甲斐先生がのんちゃんの命を諦めることと同じことなんです、それだけはできないと甲斐先生は言っているの、それは分かってくださいね福来さん」

のんちゃんが在籍していたのは、病棟の窓からも屋根の上に設えられた十字架の見える、そこからすぐ近くのカトリックの保育園だった。そこに師長は自ら直接電話を入れた、こういう事情で、そちらに在籍している森本野々花ちゃんは降誕劇の当日、欠席をしなければならないのですけれど、楽しみにしていたことをひとつひとつ諦めてゆく入院生活というものは、やはり5歳の子どもには辛いことです、病院と保育園、空間を隔てていても何とか、お友達と同じ舞台に立つようなことはできないでしょうかと。

先方は師長の申し出にとても喜んでくれたそうだ。

「そうおっしゃっていただけると私達も嬉しいです、クラスのお友達ものんちゃんが来られないことをとても残念がっているんす。どうでしょう、病院で降誕劇のナレーションを録音させてもらうと言うのは、できますでしょうか。私どもがマスクを2重にして、綺麗に手も洗って、とにかくバイキンを持ち込まないよううんと注意して伺いますので」

電話に出た保育園の園長先生という人は、物腰の柔らかな初老の女性で、その保育園を運営する修道院のシスターだということだった。この12月に年長児全員でキリストの誕生物語を上演することを楽しみにしていたのに

「そこにのんちゃんがいないのはすごく寂しい」

そのようにクラスの子どもたちが言っているのだと、そして当日その場にどうしてものんちゃんが来られないのであれば、舞台が暗転して場面転換をしている間に毎回入るナレーションをのんちゃんに担当してもらうのはどうだろうかという話が、既に子ども達の間で出ていたのだそうだ。

「のんちゃんが台本のナレーション部分を読み上げているお声を病院で録音して、場面場面で流せば、のんちゃんもお友達と一緒に降誕劇に出られますでしょう、子ども達が一生懸命知恵を絞って、考えたんですよ」

のんちゃんのナレーションの録音は、病室だとレスピレーターやモニターのアラーム音が入るだろうということで、スタッフフロアのカンファレンスルームで行われることになった。白い縁取りに黒いヴェールと黒い簡素なワンピース姿のシスターが2人、コンデンサーマイクだとかオーディオインターフェースなんかの録音機材を抱えてにこにこと病棟にやってきた時に俺も師長と挨拶をしたが、それは何て言うかちょっとシュールな光景だった。

「師長さん、先生、このたびはわたくしどものお願いを聞いていただきまして、本当にありがとうございます。そして、わたくしどもの大切な野々花ちゃんを日々、守っていてくださってありがとうございます」

どちらかというと最初に無茶振りをしたのはこちらなのに、そう言って深々と頭を下げる品の良いシスター2人に一体何と言って返したのか、俺はよく覚えていない。でもあの頃、毎日のんちゃんの部屋を訪ねるたびにのんちゃんが小さな手に握りしめて練習していた降誕劇のナレーション台本は、最初

「先生、あたしの喋ってるの、上手かどうか聞いててね!」

と言ってのんちゃんがたどたどしく読み上げるそれを俺はちょっと聞いていただけだったのが、いつの間にかゴウさんのいない時間に練習に付き合うようになって、それで結局俺までその台本を全て丸暗記してしまうことになったのだった。

今でも出だしから最後まで全てすらすら暗唱できる「ずっと昔の、2,000年も前のことです、神様の作った世界にはたくさんのひと達が住むようになり、なかには神様のことを信じない人も出てきました。そしてけんがが起きたり、困ったことも、増えてきました」。


「それでな、先生、これなんだけどさ」

面談室の椅子に座るより先にゴウさんが俺に差し出したのは件のマイクロSDカードだった。ゴウさんが言うには、ここにあの日シスター2人と録音したのんちゃんのナレーションの音源が無編集の状態で入っているのだそうだ。

「これを…再生したらいいんですか」
「ウン頼むよ、俺、一度あの保育園で聞かしてもらったんだけどさ、俺こういうのどうして聞いたらいいか、分かんねんだ」

それでとりあえず私物である自分のノートパソコンで音源を再生した。それは少し緊張気味に、それでも最後まで噛んだり突っかかったりすることなく朗々と降誕劇のナレーション台本を読み上げている小さな女の子の声だった。のんちゃんの声だ、今はもうこの病棟にも、保育園にも、この世界のどこにもいない、可愛い6歳の女の子。

「先生、それでさ、これ最後のとこまでさ、早回しってできんのかな」

ゴウさんがそう言うので、俺はそのトラックの最後あたりをクリックした「ああ、この辺だよ」とゴウさんが言った

『暗く、汚く、粗末な馬小屋においわいにあつまった人々には、怒りん坊も威張りん坊も意地悪な人もいません、みんなが嬉しい気持でイエス様のご誕生をおいわいしました』

それは演者である子ども達が舞台上に全員集まって、生まれたばかりのキリストを囲むシーンに流れたもので、物語のフィナーレの場面だった。

「ここ、劇の最後の場面ですね、のんちゃん、つっかえないで本当に上手にできたんだな…」
「でさ、聞いてほしいのは、その後なんだ」

台本にはこの後なんの台詞も書かれていなかったはずだけどな、そう思ったもののゴウさんがそう言うのでそのまま音源を流し続けていると、少し間を置いて、がたがたと椅子か何かを動かすような音と共に、のんちゃんの声と録音の日に来ていた2人のうちのどちらかのシスターの声が入っていた。

「先生、のんは思ったのだけれどねえ、馬小屋はこの病院のようなところよねえ」
「まあ、どうしてそう思うの?だって病院はとても清潔で、汚いところではないでしょう?」
「でも怒りん坊も威張りん坊も意地悪な人もいないもの、いいところなの、主任さんも、師長さんも、他の看護師さんも、お掃除のおばちゃんも、みーんないいひと、甲斐先生はもっといいひと」
「そう…よかったわねえ」

そこでぷつんと録音は途切れた。

「先生さあ、俺、こんな消毒液の匂いしかしない病院に閉じ込められて、そんでたった6つで死んだのんちゃんをなんて可哀想なんだってずっと思ってたんだ、そんでよう、それをなんとかしてくんなかった先生をひでえヤツだって思ってたんだ、怒ってた。でものんちゃんはそんなこと、きっと天国に行った今だって、ひとつも思っていないんだよなあ」

ごめんな。

照れくさそうにひとことそう言うと、ゴウさんは俺にマイクロSDカードをこのまま持っていてほしいと言った、自分が持っていてもパソコンなんか持っていないし、どうしていいか分からないんだと。そうして、のんちゃんがもはや助からないのだとこの部屋で告げたあの日、乱暴に俺の白衣の襟を掴んで怒鳴りつけてしまったことを詫びた。

「あん時はホントに悪かったよ、おれバカだからさ、頭に血が上ってたんだ、先生、堪忍してくれ」

そう言って深々と頭を下げて、帰って行った。

ゴウさんが帰ってしまった後、俺はまだほんのりと温かいたい焼きの紙袋を持って、ナースステーションに向った、パソコンに向かっていた山本さんが俺に気が付いて立ち上がり、紙袋を受け取りながらこう言った。

「先生、森本さんがお亡くなりになったの、聞きました?」
「え、何のことですか、森本…えっ、あ、のんちゃんのお母さんですか?」
「そう、先週お亡くなりになったんですって、娘の死を知らないまま、逝ったのはきっと幸せだったってゴウさんは言ったけど、あたしは切なかったわ、そういう酷いことがただ一生懸命生きているだけの人に、どうして起きるのかなって」
「森本さん、そんなに状態が悪かったんですか」
「え、先生知らなかったの、結局一度も意識が戻らなかったのよ。ゴウさんはねえ、昼間にのんちゃん、晩はのんちゃんのお母さんのいずみさんの付き添いをしてたの、ずうっとよ。そしてそのことをのんちゃんに隠し続けたの、ホントのことを知ったら、のんちゃんが治る元気をなくしちまうから、頼むから母ちゃんが車に轢かれて死にかけてるなんて言わないでくれって」
「それで…ゴウさんはのんちゃんとのんちゃんのお母さん、両方の世話をして、一体どうやって生活してたんですか、ていうかゴウさんてどうしてそこまであの親子にしてやれたんですか、ゴウさんて…ホントに一体何なんですか」

これまで全く聞いていなかった話が最後の最後にまるで手品師が掌から万国旗を取り出すようにするすると出てくるもので俺は酷く慌てた、あの一見粗暴そうで、そしてふたこと目には「俺はむつかしいことは分かんねえけどよ」と言う、そんなゴウさんが背負っていたものの途方も無さに、ざわざわと人の声の途切れないナースステーションの隅にいた俺は立ち眩みがした。

「私もよく知らないのよ、こちらに分かるのは住所と名前と生年月日とああ、あとは職業不詳ってことくらい、でもねえ、本当に、かみさまみたいな人」「かみさま…」
「そう、神様」


その神様が、今からずっと昔、トラックの運転手をしていた時に雪の日にスリップ事故を起こし、当時高校生の娘さんと病気療養中だった妻のいる会社員の男性を轢き殺してしまった過去があるのだということを、俺はずっと後になって知った。

男性の名前は森本明弘さん、高校生だった娘さんの名前はいずみちゃん。


あの日以来、俺はゴウさんに一度も会っていない。

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