見出し画像

短編小説:imago Dei

僕の暮らしているこの土地は、紺碧色の海に面し、細長い三日月のような、ちょっと面白い形をしている。春から夏は暖かく南から吹く風は爽やかで、秋から冬にかけて土地に滴るほどの雨が降る。

「おばあちゃんがこの土地に来た時、ここは一面荒れ地だったの、それが今は黄金色の実の生る美しい緑の丘、神様の仕業じゃあなかったら何かしら」

おばあちゃんは僕と妹のオレアにいつもそう言うけれど僕は解せない、それは僕らの曾祖父達の労働の賜物だと僕は思う。

僕の両親は曾祖父達が開拓した土地でオレンジ農園を営んでいる。果樹園の仕事は年中忙しくて、特に収穫の時期なんてほとんど農園にある小屋から戻らない。だから僕と妹のオレアはおばあちゃんに育てられた。

この地の入植者2世として厳しい時代を生きてきたおばあちゃんは毎日僕らに小言を欠かさない。「勉強をしなさい」「毎日必ず神様にお祈りをしなさい」「食事は残さず食べなさい」「食器は自分で洗うこと」そして「翡翠海岸の壁には絶対に近づかないこと」これを毎日朝繰り返す。壁については両親にも言われていることだけど、おばあちゃんは更にこう言う。

「あそこには恐ろしい獣が閉じ込められているんだよ」

おばあちゃんから言われなくても、鉄条網の巻かれた巨大な灰色の壁の周辺には自動小銃を構えた軍人の監視の目が光っていて、気軽には近づけない。僕はいつも朝食のパンを口に詰め込みながら「わかってる」とおばあちゃんに言う。

でもこの日の夕方、夏に時折吹く強い海風がオレラの麦わら帽子をあの壁の鉄条網の上に飛ばしてしまった、オレラが「どうしよう」と泣くので僕は仕方なくこう言った。

「いいよ、兄ちゃんが取って来てやる、オレアは帰ってな」

運よく帽子の引っかかった場所は、背の低いオリーブの木がいくつも植えられている西側の壁だ、そこなら体を屈めて進めば監視の目は誤魔化せる。実のところ、度胸試しで壁に触れる距離まで近づいたことはこれまで何度かあった。

「おばあちゃんは心配性なんだよ」

独り言ちながら僕は壁の崩れ目に足を掛けた。60年前に作られた巨大な壁は一部が崩れて鉄骨がむき出しになっていて、そこに足を掛けると簡単に登ることができる。木登りも壁登りも得意な僕は、あっという間に壁の頂上まで登り、鉄条網に引っかかった麦わら帽子を手に取ると、今度は壁の途中までそろそろと降り、そこからオリーブの灌木の中に飛び降りた、柔らかな枝が僕の体を受け止める。まったく、妹って世話が焼けるな。

僕がピンクのリボンと花飾りのついた帽子を小脇に抱え、オリーブの木の間をすり抜けて帰ろうと思ったその時だ、硬い壁の一部がワインのコルクのように弾け飛んで開き、そこからニュッと細長い何かが出て来た。

(ゴーレム…!?)

僕の体は直立不動で停止した、するとそいつは僕の足首を素早く掴む。

(神様、お祈りをサボったこと、お父さんに言われた果樹園の草刈りを適当にやったこと、心から謝ります、どうか助けて…!)

僕がどこかにいるらしい神様に助けを求めた時、壁の穴から今度は赤い巻き毛と緑灰色のビー玉みたいな瞳が這い出てきて、僕に理解できる言葉でこう言った。

「ねえ、あたしの言ってることわかる?言葉って、通じる?」
「通じるけど…誰?ニンゲン?それかゴーレムの子ども?」
「は?ニンゲンにきまってるでしょ、ねえちょっと引っ張って、お尻がつっかえて」
「えっ、お尻?あの、で、出てくるってこと?ここに?」
「いけない?」

いけなくはない、人間はどこに行こうが自由だ。僕は言われるまま、壁の穴からその子を引っ張り出した。壁の外に出てきた赤毛の緑灰色は僕の着ているものとは違う、黒い布地に小鳥と花の刺繍が施された衣装を纏っていた。すこし裾がほつれて、穴から這い出た時に土や小枝がついてしまっていたけれど、何色もの糸が緑灰色の胸元に天国の風景のモザイク画を描いている。僕が少しの間それに見とれていると緑灰色は土と小枝を手で払い、首に巻かれていた白い布を頭にくるりと巻き直した。すると瞳の緑灰色はより明るく輝く、まるで翡翠みたいだ。

「あんた、名前は?」
「…サール」
「塩ってこと?」
「古語ではそういう意味らしいけど、知ってんの?」
「習うでしょ学校で。あたしはルクスって名前だし」
「そんな昔の言葉習わないよ、えっとルク…?どういう意味?」
「光」

自分のことを光と名乗った緑灰色が「壁のこっち側には学校なんて存在しないんじゃないの」と言うので僕はムッとして言い返した。

「おまえこそ、壁の内側に教育なんかあるのかよ」
「教育も文学も音楽もあるに決まってるでしょ、あたしは3つの言葉が話せるわよ、いつか壁の外で暮らせる日が来た時のために勉強してるの」
「で、でも壁の内側の奴らは、俺たちのひいじいちゃんやひいばあちゃん達の仲間を銃で撃って火で焼いた野蛮人なんだろ、うちのばあちゃんは『人の皮を着た獣』だって」
「ハァ?あたし達の先祖が千年も前から住んでいた土地を横取りして、挙句武器で脅してあの狭い壁の内側にあたし達を閉じ込めた野蛮人はアンタ達の方じゃない、そもそもあんた達が海の向こうから勝手にこの土地に来たのよ、知らないの?」

僕は、学校で僕らの曾祖父や曾祖母の世代の人達が海の向こうで、信じているものが違うとか、人種や言葉が違うとか、そういう理由で迫害に会い、それから逃れてこの土地に来たと習った、ここは神様が僕らに与えた約束の土地なんだって。でも、僕はこの土地に元々いた人達のことをよく知らない。壁のことも『翡翠海岸から北に40㎞、断崖に向って作られた灰色の壁の内側に恐ろしい獣を閉じ込めた』としか教えて貰っていない。

「…しらない」
「あ、そ。まあいいわよ、もの知らずのガキに何を言っても仕様がないもの、あたし忙しいの、今から町に妹の薬を調達しに行かないといけないし」
 
ルクスは持っていた袋から白い布を出すと、自分の黒い衣装を包むようにそれを纏った、そうするとルクスは僕ひとつも変わらない、僕と同じ民族の子どもに見えた。ルクスには4歳年下の体の弱い妹がいて、その妹は高熱がもう3日も続いているのだそうだ。
 
「勝手に壁の外に出て大丈夫なの?子どもがそんな…」
「大人が外に出るより目立たないのよ、向こうの見張り櫓にいる軍人だって、子どもが脱走して街に買い物に行くなんて思ってない」
「それでもさ…なあ、妹、熱があるんだろ、だったらアスピリンだよね、僕家から持って来てやるよ、それから熱あがるなら果物だ、ちょっとここで待ってて」
 
僕は何か言いかけたルクスにくるりと背を向け、全速力で家に戻ると台所の棚にある薬箱から白い錠剤の入った瓶を掴んだ、それから台所の木箱の中にあった小さなオレンジを麻袋にいくつか詰め込み、そしてまたさっきのオリーブの茂みに駆け戻り、それをルクスに全て渡した。
 
「これさ、摘果って、オレンジを大きく実らせるために間引いたやつなんだけど、小さいだけで味はいいんだ、ちょっと酸っぱいかもしれないけど」
「…壁の外側は、こんなに新鮮な果物が沢山あるのね…」
 
ルクスは麻袋の中の小さな果実を見て、「ほう」と小さなため息をついた。
 
「内側には、無いの?」
「無い訳じゃないけど、食料品も衣料品も水も薬も、全部壁の外に管理されてるの、配給制。特にこの15年ほどはモノの出入りがすごく厳しくなったって」
「なんで?」
「さあ、わからない」
「えっと、じゃあ他になんかいるモンない?僕で手に入りそうな物なら持って来るよ」
「どうして?」
「だって…」
 
だって、僕はずっと壁の内側には獣が住んでるって聞いて育ったんだ、おばあちゃんのお兄さんはその獣に銃で撃たれ死んだんだって。でも今目の前にいるルクスは僕と同じ普通の子どもだ。神様は自分の姿に似せて人間を作ったっておばあちゃんは僕にいつも言う、僕もオレアも神様と同じ形をしている、だからこそ尊い存在なんだって。じゃあルクスは?僕と同じ人間の形をしているのなら、ルクスだって神様が作った尊い存在ってことじゃないのか。
 
「だって、同じ人間なのに、君がそんな生活しているなんて、それをすぐ近くに住んでいた僕がひとつも知らなかったなんておかしいじゃないか、僕らは同じ人間だろ」
 
僕の言葉に最初、ルクスはひどく驚いた様子だった、でも少し考えて、僕にそっとこう言った。
 
「ラジオ」
「ラジオ?今どき?」
「ウン、オモチャみたいなのでいいの、停電の時に音楽を聴きたいから」
 
聞けば壁の内側はしょっちゅう停電するらしい、だから電池式のラジオが欲しいのだとルクスは僕に言った。それなら死んだおじいちゃんが使っていた小さいラジオが物置にあったはずだ、あれは太陽電池式だったはず。
 
「わかった、ラジオな、明日の同じ時間にここに持って来る」
 
僕らは明日の約束をして別れた。気づけば夕陽が水平線を茜色に染めている時間で、僕はおばあちゃんに「一体どこに行っていたの」と叱られた。この日は珍しくお父さんもお母さんも日が落ちる前に家に戻っていて、お父さんは僕の顔を見るなりこう言った。
 
「今日はもう外に出るなよ、全市民に外出禁止令が出たんだ。今晩から明朝にかけて軍が壁の中に絨毯爆撃を仕掛けるらしい、奇襲攻撃だよ。これでもう壁の中の連中に我々の生活を脅かされることもない」
 
ざあっと肌が粟立った、どういうこと、どうして、あそこには僕と同じ姿形をした人間が住んでいるんだよ、血の通った、緑灰色の瞳の女の子が。
 
「なんでそんな酷い事できるんだよ!」
 
僕は物置の古いラジオを掴んで駆けだした。僕の背後でおばあちゃんとお母さんが何か叫んでいたけれど、僕は振り返らなかった。ルクスに知らせないと、まだ間に合うはずだ、神様、どうか間に合いますように。
 
爆撃を前に不気味にしんと静かな街を、僕は海岸に向って全速力で走った。

サポートありがとうございます。頂いたサポートは今後の創作のために使わせていただきます。文学フリマに出るのが夢です!