短編小説:淋しくなんかない。
小学5年生の時、海斗と同じクラスの坂本さんという女の子が自宅で大型犬を飼っていた。それはとても賢い犬で、オスワリ、オテ、オカワリ、フセはすぐ覚え、指でピストルの形を作ってばあんと撃つ真似をするとひっくり返って軽く前足を痙攣させる芸までできるのだと自慢していた。キラキラと光る太陽色の毛並みと優しいとび色の瞳の、犬種は確かゴールデンレトリバー。
「いいなぁー超かわいい」
「毎朝一緒にお散歩に行って、夜は一緒に寝てるんだ!」
「この子、名前はなんていうの?」
「アニーって言うの、あたしの親友っていうか、もう妹みたいな存在」
クラスの女の子達が市の教育委員会から貸し出されているリンゴのしるしのタブレットに映る画像を見ながら話しているのを、特にその中に混ざるでもなく、女の子達のカタマリの横の席に座ってぼんやりと聞いていた海斗には、友達がいなかった。
『こころひとつに、みんな仲良し5年2組』
担任の澤井先生の達筆な筆で書かれたクラス目標から大体常にはみ出し気味で、クラス対抗ドッヂボール大会の練習にもほとんど参加しないでタブレットにインストールした漢字ゲームアプリで遊んでいる海斗に、澤井先生は言った。
「あのねえ成田君、クラスの男の子達が昼休みにドッヂボールをしているじゃない?そこに行ってたったひとこと入れてって言えば、お友達を作るなんて簡単なことなのよ」
でも海斗はボールをぶつけあう遊び自体をぜんぜん好きじゃなかった。結局5年生の間中海斗は休み時間にはいつも窓際の席に座って画数の多い漢字について調べて覚えることに終始して、ドッジボールや鬼ごっこに特に混ざることはなかった。でも代わりに家で母親にこんなお願いごとをしていた。
「お母さん、僕、金色の犬がほしい」
海斗の自宅は黒い鉄柵でぐるりと囲まれた洋館風の白い大きな家で、広大な庭には月に1度庭師を頼んで手入れしている芝生に、シマネトリコとムクゲとミモザアカシアとトウカエデ、何種類もの植木が枝ぶりよく茂る、海斗がまだ小学生になる前に亡くなった祖父母の自慢の庭園だった。ミモザアカシアは春にはふんわりとした黄色い花をつけ、ムクゲは夏に涼し気な白い花を咲かせ、トウカエデは秋に濃い赤に色づき、シマネトリコは冬も緑の葉の上に柔らかな雪をふんわりと纏う。
その庭にふさふさと茂る芝生の上でごろりと寝転ぶ金色の犬、まるで一枚の絵画のようだ。金色の犬はきっと自分の友達と弟の両方になってくれるだろう、それってすごく素敵なことじゃないか。
海斗の脳内で金色の犬はくるりと波打つ毛に茶色の瞳を持ち、ふさふさとしたシッポを振り回して機嫌よく海斗の頬をぺろりと舐めた。そうやってたちまち具体的な金色の犬ができあがってゆき、大きく膨らんで海斗の脳内を占領した。一度夢中になるとそれがどうしても欲しくなってしまう、そういう性格をしている海斗は坂本さんの家の犬の話を聞いたその日のうちに、犬を飼いたいと母親に申し出た。柔らかくて暖かくて金色の大きな優しい犬。でも、海斗の希望はあっさりと母親に却下されてしまった。
「そんな大きな犬、ウチで飼うのは無理よ、だいたい誰が世話をするの」
「僕がする、毎日散歩に連れて行って、毎日一緒に寝る、シツケもするし、必要な薬も飲ませるし、ブラッシングだってさあ、とにかく全部ちゃんとするから!」
「あのねえ、ああいう犬って散歩が大変なのよ、身体が大きい犬は力も強いし、海斗じゃ引っ張られて転んじゃうわ、それに毎日散歩するって言っても、海斗はお昼間学校だし、夜は夜で塾があるでしょう」
「じゃあお父さんが散歩させたら?ちょっと太り気味だって言ってたし、大型犬の散歩はいい運動になるよ」
「お父さんは忙しくてこの家にはたまにしか帰って来ないじゃない、そんな人が毎日犬の散歩なんかできる訳ないでしょう」
海斗の父親は精神科医で、自宅から電車でひと駅の隣町に自分のクリニックを持っていた。それはもともと海斗の祖父が院長をしていた精神科病院で、2代目である海斗の父親が引き継いですぐ建物をすっかりきれいにリフォームし、病院の名前も『ナリタこころクリニック』と改めて、これまであった成人の精神科とは別に、天然木をふんだんに使い、窓から優しい自然光の入るカウンセリングルームを設えた思春期外来を新設した。有名な建築家に依頼したというモダンで真白い外観の建物に、お揃いの藤色のスクラブを着た女性スタッフが感じの良い笑顔を絶やさないクリニックには、開院直後から院長である海斗の父親が帰宅する暇もない程、患者が大挙して詰めかけた。海斗の父親はクリニックのすぐ近くに2LDKの分譲マンションを買い、ほとんどそこで寝泊まりをするようになった。
父親が芝生の庭園のある白い家に帰ってくるのは月に1回か2回程度、それも深夜から早朝の間までのことで、海斗にとって父親というのは、それこそ会えるとレアな、幽霊のような存在だった。海斗の母親は夫がほとんど家に帰らず、参観日や運動会や発表会、学校行事にまったく興味を持っていないことや、クリスマスなんかの家庭のイベントや息子の誕生日にすらほとんど関心を示さないことについて、
「お医者さんて大体皆そういうものよ、忙しくて帰ってこないのが普通なの」
と言って特に不満もなさそうなそぶりで暮らしていた、だから海斗も「そういうものなのかな」と思っていた。
「とにかく、ワンちゃんのことはお父さんが帰ってきた時に聞きなさい、犬飼っていいですかって」
「お父さん、いつも全然家にいないのにどうやって聞くの、電話にもでないし」
「1ヶ月に1度くらいは帰って来るじゃないの」
「でも、それっていつも夜中だよ、僕は全然会えない」
結局普段、1ヶ月に1,2回、程度それも深夜にしか帰宅しない父親に海斗が会えたのは、海斗が「金色の犬を飼いたい」と言い出してから2ヶ月も後のことだった。母親から父親が今日帰宅すると聞いていた夏の入り口の季節にある土曜日、夜中までリビングで帰宅を待ち続けてやっと顔を合わせることができた父親に金色の犬のことを話した。
「クラスの子がさ、家ですっごく大きい犬を飼ってるんだって、ゴールデンレトリバーって犬」
「ふうん」
「ものすごく賢い犬で、なんでもスグ覚えるんだ、オテもオカワリもオスワリもちょっと教えただけですぐに覚えたんだって」
「だから?」
「だからさ、僕もそういう犬が欲しいんだよ、いいでしょ?」
シルバーのタブレットに金色の犬の画像を写して、海斗は一生懸命父親に自分が飼いたい犬がどんなに素晴らしいか、そして可愛らしいかを説明した。イギリスが原産の犬であること、豊かに波打つ金色の毛が優雅で美しい犬であること、賢いのだけれど人間が大好きなのであんまり番犬に向かないこと、体重が30㎏くらいある大型犬だから毎日相当時間散歩をしないといけないけれど、できるだけ散歩は自分がやるつもりだということ。
でもそうやって金色の犬のことを説明している海斗に対して、父親はにこりともせず上の空の返事をくり返し、キッチンに向って
「おーい、この前貰ったウイスキーどうした、出してくれよ、それを楽しみに帰ってきたんだからさ」
と母親に言いながら、いつも見ているこちらが息苦しくなるほどきっちりと締めている濃紺とクリーム色のストライプ柄のネクタイをシュッとほどいた。
「そういうのは、ぜんぶ中学受験が終ってからだ、ちゃんと合格したら考えてやる」
「じゃあ、受かったら飼っていいってこと?」
「合格通知が来てから検討するってことだ」
「だから、受かればいいんでしょ」
「まあ、オマエがそう解釈するなら、そう思っておきなさい」
『中学に受かったら、自分だけの金色の犬が手に入る』
海斗は父親の言葉をそう解釈し、父親は息子のやや拡大解釈気味に理解された『犬を飼うための条件』の起動修正を面倒だと考えて、話は噛み合っているようでそうではない、平行線のまま、次の年の春に海斗は父親の卒業した私立の中高一貫校に合格した。
海斗はドッヂボールが不得手だったけれど、勉強はわりと好きだったし結構得意だった。海斗が通うことになった私立中学校は医学部合格者数が全国で3番目に多い学校で、4月に満開の桜の下で華やかに執り行われた入学式では、ちょっと体に合わない袖丈の紺色のブレザーに黒縁メガネを掛け、巨大なスクールバッグを背負った男の子ばかり200人が建て替えられたばかりでまだ塗料の匂いの残る講堂の中、菓子箱に整列する洋菓子のように整然と並んだ。
私立中学への合格が、金色の犬を飼うことを『検討する』ための条件だと言っていた父親は、入学式の日も当然のように姿を見せなかった。ただ合格発表の日、海斗が無事に第一志望の中学に合格したという報告は電話で海斗本人から受けていた、その時の父親の声は珍しく弾んでいた。
「よくやった、それでこそ俺の息子だ」
合格発表の少し前、父親は海斗の2学期の成績表で体育が5段階評価で2だった海斗のことを「なんだこりゃ、おまえは俺の息子じゃないな」と言って酷く叱ったことがあった、勉強だけできてもダメなんだよと言って成績表と、あとは手近にあったコーヒーカップを海斗に投げつけたのだ。この時、海斗は上手くそれをよけられたので、特に怪我をするようなことはなかったけれど、ほんの少しだけ不思議だなあと思っていた(お父さんは僕のことを自分の息子だと思う日と、息子じゃないと思う日があるらしいけど、なんでなんだろ)。
「海斗を産んだせいで太っちゃったのよね」
それが口癖になっている海斗の母親は、入学式の日、薄い桜色の着物に金糸の帯を締めて、ひとすじのおくれ毛なく結い上げた髪に、左手の薬指に小さな石をはめ込んだ銀色の指輪、指先の10個の爪はつるりとした桜貝の色に染め上げれらて、満開の桜に負けない華やかな見た目で周囲の目を引いていた。
「次は6年後の大学受験よ、頑張りましょうね」
「もー、そんなことより僕の金色の犬は?僕、言われた通りお父さんの指定した中学校に受かったんだよ、お父さんは受験が終ったら、飼ってやるって言ってたじゃないか」
「別に、飼ってやるとは言ってなかったと思うわよ、まあ今夜お父さんが帰ってくるから、その時お父さんに直接お聞きなさい」
「珍しいね、平日なのに?」
「だってひとり息子の入学式ですもの、流石に帰ってくるわよ」
母親が満開の桜を見上げながら、今晩久しぶりに父親が帰宅すると言ったので、海斗はその日、家に帰ってから、ピカピカの授業用のタブレットがどんどん受信する課題や、視聴コンテンツ、デジタル教材なんかをぼんやり眺めながら、深夜まで父親の帰宅をずっと待っていた。この前父親と顔を合わせたのは受験日の前だったから、海斗と父親が合うのは2ヶ月ぶりだった。海斗はもしかしたら父親が自分の言った金色の犬を入学祝いに連れて帰って来てくれるかもしれないと、ほんのすこし期待していた。
「おい、麻里子、ちょっと来い」
玄関で父親の声がして、それがどうやら母親を呼んでいるらしいと海斗が気付いたのは、部屋の壁に掛けてある小さな時計が深夜0時を回った時のことだった。
(お父さんだ、もしかしたら金色の仔犬を連れて来たのかもしれない)
海斗は父親の声を聞いて部屋から飛び出し、1階の玄関ホールを見下ろせる吹き抜けの廊下を駆け抜け、転がるように玄関に伸びている階段を駆け下りた。すると階段を下りてすぐ正面の玄関ホールをうすぼんやりと照らすオレンジ色の灯りの下に、父親と、お日様色の毛色の生き物が不貞腐れたような様子で立っていた。
「お父さん、それ、僕の弟になるやつだよね!?」
「えっ…いやその…お母さんは?」
「うーんと、多分お風呂に入ってるのかな、ねえこの子、僕の部屋につれて行っていい?」
「海斗の部屋に?だめだ、こいつはしばらく離れで暮らす、そこが陸の部屋になるから」
「こいつ陸っていうの?でっかいなあ、俺と変わらないよ」
「ああその…たぶんお前とひとつかふたつ違いだ」
「そうかあ、じゃあ僕と行こう陸、おまえの部屋はこれから庭の離れだって!」
海斗は陸を引っ張るようにして、庭の端に建っている離れに駆けて行った。『離れ』と言うのは7年前に死んだ海斗の祖父が書斎や趣味で蒐集していた焼き物の収納場所に使っていた平屋で、今は物置として使われている小さな小屋だった。数日前、いつもなら年末やお盆の前にしか海斗の家にやってこない清掃会社の人が離れに来ていたのはこいつが来るからだったのかと海斗はひとり納得し、そんな風に考えてくれていたならもっと早く行ってほしかったなと思いながらも、離れを目指す海斗の足取りは弾んだ。
「陸、今日から僕が兄ちゃんだよ」
「…」
「陸はさ、どこから来たの?」
「…」
「怖がることなんかないよ、おまえは今日からここで暮らすんだ」
「…」
陸は海斗がどんなに話しかけても、うんともすんとも言わなかった。でも海斗がキッチンから持って来た水とパンを受け取るとそれをごくごくと飲み干しかつ残さずにむしゃむしゃ残さず平らげた。
「ぜんぜん知らない場所だもんなあ、緊張してるんだよな、大丈夫さ、きっとすぐに慣れるよ」
海斗は陸の金色の頭を優しく撫でようとしたけれど、陸は頭をブルブル振って海斗の掌をはねつけ、床に畳んで置かれていた古毛布まで跳ねるようにして飛んでいくと、そこにくるまって眠ってしまった、海斗に対して唸りも吠えもしないが、代わりににこりともしない。
懐くのには時間がかかりそうだ、それでも古毛布の隙間からちらりとはみ出しているフケとホコリだらけのお日様色は、海斗は弾んだ気持ちにさせた、まるで心臓がゴムボールになってぴょんぴょん飛び跳ねているような。
(心を込めて世話をしてやれば、きっと陸もだんだん自分に懐くさ)
その日、海斗はなかなか静かになってくれない跳ねる心臓と
―どうして?
―仕方ないだろう!
―いつまでここにおいておく気なの?
―できるだけ早く何とかする!
―できるだけ早くじゃなくて、期限を決めて頂戴よ、あなたっていつもそう。
―オマエは本当にいちいちうるさいな!
どうやら陸をこの家で飼うことについて、決して賛成ではないらしい母親と、それを「仕方ないだろう」となし崩し的に認めさせようとしているらしい父親が言い合っている風の声が気になって、なんだか寝付けなかった。
(陸は寂しくないかな、あっ毛布一枚だと寒かったかもしれないなあ)
海斗は眠れず、寝返りをうつたびに、離れで眠っている陸のことを考えた。
翌朝、海斗は目が覚めると同時にベッドから跳ね起きてパジャマのまま離れの様子を見に行って、ドアの隙間から昨日の金色が毛布にくるまってまだすうすうと寝息を立てている姿をそっと確認した。
(よかった、ちゃんといる)
そしてその後、また庭を突っ切って母屋の食堂に行くと、そこに父親の姿はもうなく、ダイニングテーブルに朝食用の牛乳とグラスを置き、その後に藤のパン籠にパンを盛っていた母親はひどく不機嫌そうな顔をして、海斗に陸のいる離れにはあまり近づかないようにと言った。
「あの子の世話は田所さんがするから、海斗は一切構わなくていいの」
「えーっ、なんでだよ」
「なんででもよ、噛みつかれるかもしれないし」
「そんなことしないよ陸は」
「どうだか」
その後、毎日通いで海斗の家に来ている家政婦の田所さんも母親と同じように
「海斗さんには、学校やらそれのお勉強がありますでしょう、あの子のお世話は私がいたしますから、海斗さんは近づかなくていいんですよ、どう見てもまともな育ちの子じゃありませんでしょう、海斗さんとは毛色からして違うんですよ」
せわしなくダイニングの飾り棚にはたきをかけながら、海斗にしっかりと釘を刺したが、海斗は2人の言うことを聞く気はさらさらなかった。毎日朝、陸の顔を見に行き、ご飯は食べたか、欲しいものはないか、庭に出てみないかと聞いてから登校し、学校から帰ってくると母屋の玄関を潜るよりも先に庭を突っ切って離れに飛んで行って、陸に転がってぼんやりしている陸に今日は何をしていたのかと聞き、それから欲しいものはないか、庭に出てみないかと聞いた、海斗はとにかく早く、陸と庭で仲良く遊びたいと思っていた。
「陸、テニスボールをおまえが来る前から沢山買っておいたんだ、それで遊ぼうよ、取ってこいって、お前はできるかなあ」
そう言って庭に誘っては、黄色いテニスボールを手に持って高く掲げて陸に見せた。海斗が同じことをただひたすら繰り返して3日目、陸は海斗の後ろについて少しだけ庭を歩いた、すこしおどおどして見えるものの足取りはしっかりしていたし、テニスボールを投げたら拾って海斗のところまで運んできた。4日目には離れに設えられている小さなユニットバスでフケとほこりの絡まった身体を海斗に洗わせた。暖かいお湯の中に浸けた陸の体は思っていた以上に肉付きが悪く脂肪らしきものがどこにも見当たらなかった、あちこちがごつごつと骨ばっていたし、その上手足や背中には新しいものと古いもの、合わせて20か所ほどの擦り傷や切り傷があった。
「陸はもっとたくさん食べないといけないよなあ、妙な擦り傷みたいのも多いなあ、ここに来る前はどんな生活してたんだ陸、可哀想に、これからはこんな傷だらけになることなんか、絶対にないからね」
陸は相変わらず海斗の言葉に答えてくれない。でも海斗の目には、この家に来た時よりもほんの少し、陸の表情が明るくなったような気がしていた。海斗はぽたぽたと水滴の垂れてくる陸の体を丁寧に拭いて、その後丁寧にドライヤーをかけた。陸は最初、ドライヤーの音を怖がって離れの中を逃げ回りはしたものの、ドライヤーから温かい風が吹いて、それがなかなか心地よいものだと理解すると逃げるのを止めて大人しくなった。
「あったかいだろー?これから陸のことは兄ちゃんが洗ってやるからな」
陸は、父親の3人いるうちの愛人のひとりの家に置き去りにされていた子だった。愛人は、父親のクリニック名義で借りているマンションに家財道具一切と陸を置いたまま、ある日煙のように消えた。愛人が消えていなくなるまで、海斗の父親は陸の存在を全く知らなかったらしい。
「外でなにをしていても私は一切構いませんから、そのかわり家には面倒ごとを絶対に持ち込まないでくださいねって、結婚する時にあれほど言ったのに…こんなことなら法的に有効な念書くらい書かせておくべきだったわねぇ…」
土曜日の午後、キッチンで耐熱ガラスのティーカップに紅茶を淹れていた海斗の母親は、ティーポットをガチンとカップにぶつけてため息をついた。
海斗の父親は、食べかけのパンだとか洗っていない洗濯物、冷蔵庫の中の豆腐と生卵、そういう生活の痕跡をまるごと残したまま消えた愛人の部屋を清掃業者に頼んで片づけて掃除をし、賃貸契約を解約することまでは比較的容易にできたものの、生き物である陸のことまで家具や家電と一緒に業者に引き取ってもらう訳にもいかず、ひとまず陸を自宅に連れて帰ったのだった。
「陸はね、引き取り手が見つかったすぐにこの家から出て行ってもらうの、だから海斗はそんなに陸に構わない方がいいわ」
「なんで?」
「なんでって…あんなしつけも何にもなってない…」
「でも中学に受かったら犬を飼っていいって言ったのはお父さんだし、その前に犬を飼っていいかって僕が聞いたらお母さんは『そういうのはお父さんに聞きなさい』って言ったじゃないか」
「犬って…海斗あなたねえ」
「僕、今日からおやつは離れで食べるね、学校の課題は離れでやる、陸は絶対ヨソにやらないでよ、陸がいなくなったら僕、もう勉強なんかしないからね!」
海斗は、母親が綺麗に切り分けて白い皿に置いておいたココアシフォンケーキを鷲掴みにすると、リビングから飛び出して離れに駆けていった。小学5年生の時にどうしても欲しいとお願いしてから1年半も待ってやっと自分の元にやって来た弟である陸を手離すなんてことを、海斗はひとつも考えていなかった。いつまでも自分のそばに置いて可愛がってやるんだと決めていた。
「陸、兄ちゃんがずっと一緒にいるからな、一生、大事にするから」
陸はいつも何も言わなかったが、離れで暮らすようになってひと月もすると誰よりも海斗のことを信頼して、朝夕、海斗が離れに来るのを窓辺で待つようになり、陸が家に来て半年もすると、陸は海斗が呼べばどこからでも飛んできて、海斗の後ろをついて歩くようになった。陸を母屋に入れることは母親が絶対に許してくれなかったけれど、その代わりに海斗は離れを自室のように使うようになり、そこで毎日陸の世話をした。陸が家に来たばかりの頃、陸の食事の世話をしていた田所さんが
「だってあの子ったら、あたしが近づくとウーッなんて言って唸るんですよ、物凄い目で睨んでくるし…」
そんな風に言って、できるだけ陸に近寄りたくないからと、ステンレス製の食器に茹でた野菜と穀類と肉か魚を適当に盛って、離れの小さな机にぽんと置くだけだった陸の食事を、温かいスープと焼きたての肉や魚、それから新鮮な野菜に変えたのは海斗だった。
そのために海斗はこれまでひとつもやったこともなかった料理を、子ども向けの料理動画を見てイチから覚えた。小学1年生くらいの女の子が「みなさんこんにちはぁ!」と元気に挨拶してからピンクのエプロン姿で玉子焼きを作り始める動画を真剣に眺める海斗の様子を中学の同級生達はまるで珍獣を見るような目で眺めていた、同級生の間から時々聞こえてくる「あいつやべえな」という声も、変態、ロリコンと言われて遠巻きにされることも、海斗は特に気にしていなかった。
学校で変わり者の烙印を押された海斗は、毎日母屋のキッチンで作った温かくて柔らかくてうす味の食事をひと口ひと口、スプーンで陸の口元に運んでやっては食べさせた。海斗が英語で根気よくコマンドを教えた陸は、海斗が「OK」と言わなければ勝手にその辺にあるものを食べたりしなかったし、食事のあとは海斗が陸の口の周りをタオルで口を拭いて、ちゃんと歯磨きもさせた。
「陸は鶏肉が好きみたいだなあ、僕もフライドチキンが好きだから一緒だね、そのうち一緒に食べに行こうよ、ああいうファストフードみたいなのは身体に悪いから行くなってお母さんはいつも言うんだけど僕、たまにこっそり行ってるんだ」
夜、陸が眠りにつくまで、一緒に毛布にくるまって本を読んだり、タブレットで動画を見たりを見たりして過ごすようになった海斗の一方的なお喋りを、陸はウンウンと頷きながら静かに聞くようになっていた。
そんな風に、ふたりの間に落ち着いた静かな空気が流れるようになった頃、海斗の父親は1ヶ月に1回、顔を見せるか見せないかの海斗にとっては幽霊か座敷童ような存在になっていた。父親は海斗の自宅のふた駅先の駅にクリニックの分院を開設し、それがまた繁盛して、いままでの倍忙しいのだと母親は言っていた。クリニックが繁盛すればするほど、父親は家に帰ってこなくなる。
けれど母親はそんなことを特に気にしていなかった。母親の興味関心の中心は、先代の頃の2倍以上の収益を上げるようになったクリニックを海斗にそっくりそのまま引き継がせることにあって、だからこそ毎日海斗の成績と学習環境を徹底的に管理することに気を配り、陸を家に置いておくことを渋々了承し、そして中学受験を無事に終えて海斗が中学の生活に慣れてきたと判断した頃、今度は医学部受験専門の学習塾のパンフレットを海斗に見せてここに通うようにと言った。そのいかにもお金のかかっていそうな箔押しの分厚いパンフレットを前に、海斗はふうーっと深いため息をついた。
「えー、もうー、なにこれ?」
「医学部専門の学習塾、いい先生のいる有名なところなのよー、中学2年生になる前にここに通いましょう、次は大学受験ですもの」
「こんな所に通ったら陸と過ごす時間が減っちゃうよ、嫌だよそんなの」
「そんな呑気なこと言ってたら、次の大学受験では落伍するわよ、医大なら何でもいいってワケじゃないんだから、今からしっかりやらないと」
「高校生になってからやるよ、そんなの」
「そう?だったら陸はよその家にあげてもいいのよ?」
パンフレットを開きもせず、とにかく通っている私立中学の最寄り駅の駅ビルの中にある塾に通うことは嫌だと渋っていた海斗も、陸という切り札を出されてしまっては母親の言うことを聞かない訳にはいかなかった。
「あのさあ陸、僕これから、エート週に3回だっけ、とにかくまた学校の近くにある塾に行かなくちゃいけなくなったんだよ、マジで、ま、じ、で嫌なんだけどねー」
夕方、いつものように離れでいつも海斗が来るのを待っていた陸に、海斗はこれからこの離れに居られる時間がすこしだけ減ってしまうんだということを話した。陸は海斗の話を聞いて(えっ、何それ)という表情をして、海斗が持ってきたクッキーを食べるのを止めて顔を上げ、海斗の顔を少し曇ったような表情でじっと見つめた。
「ごめんな、でもしょうがないんだ、お母さんが言いだしたことは大体絶対だし、この件はお父さんも賛成してるんだってさ、覆らない」
海斗は貴重な陸との時間が減ってしまうことに心から落胆していた。しかしどうやら陸は海斗と家の周りを散歩するうちに、海斗の家の周りの地理を覚えてしまっていたらしい、陸は海斗が塾で遅くなる日、離れを抜け出して駅前のコンビニまで海斗を迎えに行くようになった。
海斗がまた塾に通い出してすぐ、最寄駅の周辺で黒い服の若い男が、海斗のような私立中高の制服を着ている生徒を狙って金品を脅し取る事件が何件か起きて、海斗の母親はそのことをとても心配していた。それで母親は海斗に、車で送り迎えをするか、もしくは塾からタクシーを使いなさいとたびたび言ってはいたけれど、海斗はそれを「そんなの、小学生みたいでなんだか恥ずかしいよ」となかなか承服しなかった。
だから家に引き取って以来、まともな食事を与えられたためかするすると手足が伸びてすっかり大きくなった陸が、海斗が塾で遅くなる日に必ず離れを抜け出し、庭の鉄柵をひょいと乗り越えて海斗を迎えに行っていることを母親は黙認していた。海斗が駅に到着する時間を見計らって庭を抜け出すお日様色をちらりと窓の外に見かけても「まあ、あの子が役に立つこともひとつくらいあるものね」と言って、そのうしろ姿を何も言わずに見送っていた。
『陸のお迎え』は海斗のことを途轍もなく喜ばせた。
「陸?ひとりでここまで来たの?もしかして迎えに来てくれたの?僕を?えーどうしよう、陸はホントに僕の弟で親友になったんだね、嬉しいなあ、僕らはずーっと一緒だよ」
駅に一番近いコンビニのオレンジ色の灯りの下で海斗のことを静かに待っている陸の姿を初めて見つけた時、海斗は嬉しくてマリオブラザーズみたいにびよんと垂直に飛び上がった。以来、海斗が塾から帰宅する直の足取りはとても軽やかだった。
(僕たちはいつも一緒だ、そして僕らは兄弟だ)
陸がいつも海斗を待っているコンビニから家に帰るしずかな夜道、それが晴れた日だと、海斗は陸によく星の話をした。
「いいかい陸、もしこの先道に迷うことがあったら、空を見て、あそこにある星はいつも同じ場所にあるんだ、ホラあの明るいやつ、おおぐま座のシッポだよ、あれを目印に僕のところにちゃんと帰って来るんだよ」
海斗は星の話をしながら陸の金色の頭を撫でた。最初のころ、頭を触ると嫌そうに眉間にしわを寄せて海斗の掌を避けていた陸は、ちょっと撫でてやると海斗の掌にぐいぐいと頭を押し付けてくるようになった、海斗は陸が可愛くて仕方がなかった。
その日、いつものように本当はぜんぜん通いたとは思っていない医学部受験専門塾の帰り、海斗は陸が待っているコンビニに急いでいた。雨の降っていた春の夜のことだった。
(陸は傘をささない、きっとずぶ濡れだ)
そう思った海斗は小走りで駅の雑踏をできるだけ素早くすり抜けようとした、そして向い側から歩いてきた黒いフードを目深にかぶった高校生くらいの男にぶつかった、ぶつかって即、男はわざとらしいくらい大きな舌打ちをした。
「いってぇ!なんだよオマエ!」
「あ、すみません」
「すみませんじゃねえよ、ちょっとこいよオメー」
「え、今謝ったじゃないですか、僕ちょっと弟が雨の中で待ってて…」
「だから何だよ」
「だから、弟が…雨…」
『弟が雨の中で待っているので急いでいるんです』
それを言い終わらないうちに、海斗は黒いフードの男に野良猫のように襟首を掴まれて、駅の裏手に引っ張り込まれた、私鉄の終点である海斗の自宅最寄り駅の裏手は滑り台と小さな砂場があるだけの小さな児童公園になっていて、夜9時をすぎるとしんとして人影は殆ど見えない。
(あ、これはもしかして殴られたり、金寄越せとか言われたりするヤツかな…)
まだ身長が160㎝ない上に痩せていて瞬発力にも逃げ足にも全く自信のない海斗は、両手をぎゅっと握った。それと同時に、暗闇の向こうから誰かが物凄い勢いで走ってくる足音が聞こえてきた。
―ざっざっざっざっ
かなりの速度で近づいてくる足音がもうほんの間近に近づいたと海斗が感知してすぐに、黒いフード男が「ぐえ」という、カエルが踏みつぶされて鳴いているような珍妙な悲鳴を上げた。
「ゲッ!イッテ―!え、なにノラ犬?ニンゲン?マジやめろよ、離せってマジで!」
それは、いつもの待ち合わせ場所であるコンビニから雨を避けてアーケードのある駅まで歩いてきた陸だった。陸は海斗が黒いフード男が海斗の襟首をつかんでぶら下げているのを見て後を追い、鼻先がぶつかる距離まで黒いフード男に迫ると、躊躇なく男の右の耳に噛みついたのだった。
海斗の家にやってきて1年ほど、海斗がせっせと陸の口に栄養のある食事を運び、庭で運動をさせた結果、陸はこの時すでに海斗より頭ひとつ大きくそして以前とは比べ物にならない程、筋肉と程よく脂肪のついた頑健な手に入れていた。庭でボール遊びをした時なんかにはどんな高く放り投げた玉も容易にキャッチできたし、運動能力は元からかなり高い様子で、足も猟犬並みに速かった。
その身体能力を使って黒いフードの男に噛みついた陸は、男の耳をほぼ食いちぎっていた。陸が暗闇から飛び出してきたことよりも、そして陸が男に噛みついたことよりも、陸が噛みついて作った男の傷から噴き出す血液に驚いた海斗は、暗闇に噴き出した黒い血液を見てとっさに陸を静止するためのコマンドを叫んでいた。
「陸、ダメだよ、NO!NOだ!STOP!やめるんだ」
「いやだ、STOPしない、おれはこいつを殺すよ、だってこいつ兄ちゃんを」
「兄ちゃんは大丈夫だ、怪我もしていないし、お金も盗られてない。いいか、人間を傷つけるのはこの世界ではルール違反だ、それにヒトの血液は不潔なんだよ、この人が病気なんか持ってたら感染しちゃうんだ、すぐに口を洗わないと」
「そうなの?じゃあ、やめる」
(いいことをしたつもりだったのに、大好きな兄に怒られてしまった)
そう思った陸はシュンとして頭を下げ、口の中に残っていたらしい肉片をペッと地面に吐き出した。
「兄ちゃん、おれのこと、おこってる?」
「怒ってなんかないよ、ほら、そこの水道でうがいしよう、口の周りもきれいに拭いてやるから」
「…ウン」
陸が口の中の血液を飲みこんでしまわないように、海斗はイルカの形をした水飲み場の蛇口から水を口に含ませていると、暗闇の向こうから白い人魂のような光がくるくると飛んできて3人を照らし、落ち着いた大人の男の声が「なにしてるのー?」と声を掛けてきた。
「オーイ、きみたちは中学生か?そんなとこで何してるの?そこにいるもうひとりはどうしたの?怪我してるのかな?」
それはこの地域を巡回警邏していた警官だった。陸と海斗と、それから黒いフードの男はそのまま警察官に補導されて近くの交番に連行された。交番を照らす蛍光灯の白い光の下、スチール机の前のパイプ椅子に促されるまま着席した海斗と陸に、警官はひどく困惑していた。
「この、陸君って子が、あの公園に引きずり込まれたエート…成田海斗君、君を助けようとして、相手の耳に噛みついた。ってことでいいのかな」
「そうなんですけど、これは飼い主の僕の責任なので、罰は僕がぜんぶ受けます、陸はなんにも悪くありません」
「飼い主って…君はこの子のお兄ちゃんじゃないの、それか…ああ友達とか?飼い主っていうのはなんかの遊びの続きかな。それから君のフルネームは成田海斗君っていうんだよね、じゃあ陸君は?成田陸君じゃないなら、なに陸君?住所はきみたちふたりとも同じなんだよね?」
「えっと…陸はいつも離れにいるんで、厳密には同一住所ってわけじゃないんですけど」
「それじゃあ陸君は海斗君の親御さんの持ってる不動産…お家とかアパートを借りて住んでいる子ってこと?ああ、それとこの子の、陸君の通ってる学校は?海斗君と同じとこ?」
「別にどこにも通わせていません、しつけとか食事とか、あとコマンドのトレーニングなんかは全部僕がやっているので」
「あの…それって一体どういうことかな?おじさんには、海斗君の話が皆目わからないんだけど…」
黒いフードの男は皮一枚で辛うじて右耳が繋がっているという状態で、事情聴取より先にまずは救急病院に搬送された。男の頭にぶらんとぶら下がっていた耳は上手く縫合されてもう一度元の状態に戻ったらしい。海斗と陸は交番で、黒いフードの男が片耳を無くしそうになった事情を聞かれていたものの、陸に何を聞いてもまともな答えは返ってこない上に言葉自体がたどたどしく要領を得ないし、海斗は警官に陸を弟であるとは言ったけれど、それ以上の情報をほとんど警官に伝えることができなかった。海斗は、陸の誕生日も、これまで一体どこで暮らしていたのかも、母親が一体どこの誰なのかも、とにかく陸の出生や生育にまつわる何もかもをなにも知らなかったからだ。
その日から、陸は海斗の家からいなくなった。
海斗が母親から聞いたところによると、陸は警察に保護されて、児童相談所経由で遠くの学校というか、施設のようなところに行くことになったらしい。海斗はそれを知って即座に母親に自分も陸の所に行くと申し出た。
「僕も陸と同じとこに行く、転校するよ、手続きして」
「何バカなこと言ってるの、無理よ、あそこは陸みたいな子がいくところなの」
「陸みたいな子って、どういう子のこと?」
「だから、人様に危害を加えてしまったとかね、そういう子よ」
「あれは陸が僕を助けようとしたからだ」
「ともかくね、あの子に関わるのはもうおやめなさいね」
「いやだ、お母さんがそんなこと言うなら僕、もう塾には行かないし、勉強だってしないし、医学部なんか受けないよ、陸は僕が貰ったんだ、それを僕に何も聞かないで僕から引き離すなんて酷くない?」
「警察の人が陸を連れて行ったのよ、お母さんにはどうしようもできないの」
「なんとかしてよ、僕これまでちゃんとお母さんの言うこと、聞いてきたじゃないか」
「そういうのは、お父さんに言いなさい」
「お父さんは、逮捕されちゃっただろ」
陸は、海斗の父親が未成年の愛人に産ませた子だった。
それこそ妊娠しているということ自体が本人にもよく分からないくらい若かった愛人は、海斗の父親に妊娠の事実すら告げずにひとり、父親がその愛人用に借りていたマンショの浴室で出産した。赤ちゃんの陸は表にほとんど出ることなく、そのまま海斗の父親が用意したマンションでひっそり育った。
うんと若い愛人は、小さな陸の頭髪を面白がって金色に染めて遊んだりはしていたものの、赤ちゃんくらいのうちはそれなりに可愛がってまめまめしく面倒を見ていた。実際に陸は幼児期までは健康や発育に大きな問題もなくすくすくと育っていたし、父親は定期的にお金と、オムツやインスタントラーメンやレトルトパウチの食品なんかを宅配で届けていた。
でも、父親がクリニックをリニューアルオープンし、それが父親の予想を上回って繁盛し、忙しさからその愛人の元にだんだんと足が向かなくなった。そしてある時からぷつりと、部屋への来訪や、それどころか物品の宅配が途絶えた。そうしてその後、マンションの管理人が不動産会社を通じて
「成田さんの借りてらっしゃる部屋から変な臭いするって苦情があるんですよねえ、あと結構大きな物音がして煩いって、もしかしてお部屋で動物とか飼ってます?大型犬とか、ご存知かと思うんですけど、うちペット禁止ですよ」
そんな用件で父親に連絡をしてくるまで、父親は陸と愛人の存在をすっかり忘れてしまっていたらしい。
父親は精神科医としても経営者としてもとても優秀だった。けれど自分の興味が湧かないないことや、興味があったけれどそれへの関心を無くしてしまった事柄をきれいさっぱり真っ白に忘れてしまう癖というか性質を持っていた。そして若いすべすべとした肌の女の子が異常なくらい好きだった。
だから自分の気に入った若い女の子を「ほしいものはなんでも買ってあげるよ」と言って綺麗なマンションに連れて行って、そこに住まわせ、数年後にその子が年を取って若くなくなってしまうと、また別の子に取り換えるということを繰り返していた。どうしてもとねだって買ってもらった仔犬が成犬になると「可愛くなくなっちゃったから」と言って捨ててしまう子どもと同じ感覚で、人間を取り換えていたのだった。
「じゃああのひと、お父さんて人?いなくなったったんだ」
「うん、警察の人がクリニックの方に来てさ、捕まっちゃったんだって。僕とあんまり変わらない年の女の子と付き合ったりしていたらしくて、児童買春てヤツで捕まっちゃった。でも大丈夫だよ、お母さんが病院を人に売って僕の家は残ったし、お金もまだ沢山ある。だから陸はここを出たら僕のとこにまた戻っておいでよ」
「うーん…でもさ、兄ちゃんのお母さんは俺のお母さんじゃないし、俺、あと2年後かな、ここから高校に行くつもりなんだ、いつか自立して自活していかなくちゃいけないって、ここの先生が」
「自活なんてしなくていいよ、遠慮しなくていいんだ、お母さんが弁護士さんを頼んでさっさとお父さんと離婚しちゃったからお父さんはもうウチにいないけど、元々あの人、家にはあんまりいなかったし」
「でもさあ、兄ちゃんの母ちゃんは、俺の母ちゃんではない訳だし、だったらなおさら、兄ちゃんのとこにはさ…」
「そうかなあ…じゃあ僕は陸が高校を卒業するまで僕、陸に毎月会いにくるから、その間に気持ちが変わったらいつでも言うんだぞ」
陸が警察に保護された後に入所した場所は『いずみ学園』という、陸のような特殊な成育歴やそれに起因するさまざまな問題を抱えた子どものための施設で、そこに入所した陸を海斗は毎月手づくりの弁当を持って定期的に訪ねるようになった。
入浴、洗顔、歯磨き、着替え、生活に関わる基本的なことをなにも躾けられてこなかった陸は、いずみ学園でこれまで知らなかった生活の色々と、読み書きや、計算、これまで全く通ったことのなかった小学校の教育課程をいちから学んで、中学3年生になる頃にはすっかり人間らしくなった。世の中の簡単な仕組みや、自分がすこしおかしな生まれ育ちであることをちゃんと理解し、海斗が自分の血縁上の異母兄であって、でも書類の上では全く無関係な人だということも理解できるようになった。
海斗は陸がどんなに
「兄ちゃんは学校が忙しいだろ、それに戸籍上、俺達は赤の他人なんだって」
と言って海斗の来訪を遠慮してもそれを辞めることはせず、面会の日に持参するお手製の弁当をいつも、まるで赤ちゃんにするように、自分の箸で陸に食べさせていた。
「ほら、陸、唐揚げだよ、あーんして」
「兄ちゃんさあ、俺、箸くらいもう自分でもてるんだぜ」
「いいじゃん、陸は僕の弟なんだから、ほら、キンピラも作ったんだよ、陸ってほうれん草とかレタスは昔からキライだけど、根菜は食べられるようになったんだよな」
「ほうれん草はもう食べられるよ、あとこんなのさあ…もう、俺が赤ちゃんみたいじゃん」
海斗は、陸の身長が年々伸びて、仔犬のような面立ちが面長の大型犬のようになっても、初めて会った春の晩のあの日とひとつも変わることなく陸を可愛いがった。そして海斗が自分を仔犬のように扱うことを、ほんの少し戸惑いながらそれでも受け入れていた。陸の口の中でごぼうとニンジンがしゃきしゃきと元気な音を立てた。
海斗と陸の関係は、途切れずにずっと、ずっと続いた。
陸がいずみ学園のすぐ近くにある工業高校を卒業して、そのままいずみ学園のある町の工務店に就職し、重たい資材を軽々運ぶ頑健な体とその気真面目な仕事ぶりが工務店の社長に気にすっかり入られて、しょっちゅう家に「ひとりモンだろ?俺ん家に飯食いに来いよ」と、夕飯の席に呼ばれるようになり、そこでしょっちゅう顔を合わせるようになった社長の一人娘とひとより少し早い結婚を決めた。そしてそのことを真っ先に海斗に報告をした。
「兄ちゃん、俺、結婚することになったんだ」
「ほんと?陸が?嘘だろー?えーっ相手はどんな子?」
「今俺、工務店に勤めてるだろ、そこの娘さん。ミクちゃんて言うんだ、俺のふたつ下」
「はぁ…そっかあ、びっくりするなあ、でも陸が選んだんだからきっといい子なんだろうな」
「あの…それでもうひとつ報告があるんだけどさ、ミクちゃん今妊娠してるんだ、春には生まれる。それで兄ちゃんに会ってほしくて、今日ここに呼んでるんだ、ね、会ってくれる?」
「エッ、今ここに来るの?どうしよう、僕こんなフツーのトレーナーとデニムで来ちゃったよ、そんなことなら、ネクタイくらい締めて来るべきだったなあ、言ってよー」
「別に兄ちゃんがめかし込んで来ることないじゃんか、大体兄ちゃんまだ学生なんだしさあ」
待ち合わせをしたファミレスのボックス席で、海斗が陸の婚約者がやってくると聞き、慌てて少し跳ねている髪の毛を撫でつけている様子を見てアハハと笑う陸の隣に、入り口から躊躇なく真っ直ぐ歩いて来た金色のロングヘアの女の子がすとんと腰を下ろした。
「こんにちわ、ミクでーす」
「あ…こ、こんにちは、初めまして、陸の兄の海斗です」
「はじめましてー。この人が、陸の医学部に通ってるお兄ちゃん?ホントだったんだあ、えー、なんかすっごい頭よさそう」
「いや…別にそんなことないよ、とにかくこの度はいろいろとおめでとう、身体の調子はどうかな、つわりとか辛くない?」
「えーやさしーい。うん、ぜんぜん大丈夫だよ。むしろ食欲バクハツしてもう3㎏太ったの、デブまっしぐら、超やばい」
「そっかあ良かった。うれしいなあ、陸がパパになるのかあ。君は小柄だけどとても健康そうだし、陸は健康で骨格がとてもいいんだ、きっと元気で可愛い仔犬が産まれるよ」
「えっ…仔犬?」
「ウン」
陸とミクと海斗、3人の間にほんの少しだけ不思議な空気が流れた。お腹の中に胎児を抱えたミクの目の前にいる、温厚そうな眼鏡の青年にはふざけているような感じは微塵もなかった。
「じゃあ、結婚式の招待状はちゃんと出すからね」
「ウン、何がなんでも行くよ、ミクちゃん、身体、大切にして」
「ありがとーばいばーい」
ファミレスを出て、一緒に暮らしている賃貸マンションに帰るために駅を目指す陸とミクは手を繋いで歩いていた。妊娠してから少し太ったとは言え、元々とても華奢な体格をしていた小柄なミクは、マタニティマークがなければ全く妊婦には見えない。
「なんかさあ、陸のお兄ちゃんって、一見まともそうだけど、なんかすこし変じゃない?うちらの子のこと、仔犬とか言ってたし」
「あー…なんか兄ちゃんてさあ、今も昔も俺と違ってちょう賢いんだけど、中学生の頃、あれって勉強のしすぎだったのかなあ、家がごたごたしてたせいなのかなあ、なんか俺のこと本気で犬だと思いこんでた時期があんだよなー」
「は?なにそれやばくない?あのひと、今は医大生で将来はお医者さんになるんでしょ?」
「いや、今はフツーだと思うよ。でもさ俺が母ちゃんに置き去りにされて、ほぼ初対面の父ちゃんの家に引き取られた時もその後も、兄ちゃんて俺のことホントに大事にしてくれたんだよな、俺が児童支援施設にいた時なんか、大学受験の直前でも弁当持って面会にきてくれた、俺が本気の犯罪者にならずに今生きてるのは、絶対兄ちゃんのお影だよ」
「フーン…でもあの人、本気であたしのお腹から犬が産まれると思ってんのかなあ」
「まさか、アレはただの冗談だよ。でも…仮にそうだとしたら、犬種はゴールデンレトリバーだな。昔どうしても欲しいからって、父親に頼み込んでた時期があるらしいよ、そこにやって来たのが当時金色に髪を染めてた言葉も碌に喋らない野生児の俺」
「あはは」
陸とその婚約者のミクと別れ、大学に向って歩いていた海斗の足取りは軽く、それこそ宙に浮いてしまいそうなほど軽快に弾んでいた。陸が自分の元から離れていってしまった10年前、海斗は涙が枯れる程泣いて、まるで半身が捥がれたような状態になった、今もある部分はずっと空洞のままだ。でも10年辛抱して待っていたら、陸はつがいのメスを見つけて来てくれた。その上春には仔犬まで生まれるんだって、何匹生まれるんだろう、また離れを綺麗に掃除しておかないといけないな。
「うれしいなあ」
陸は僕の大切な金色の犬だ、いまもむかしも、ずっとずっとそうだ、陸がいてくれたら僕は友達なんかいなくてもちっとも淋しくなんかない。
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