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スイセイのこと 2

☞4

2年生になって僕の生活にはふたつの変化があった。

まず、お母さんが僕のことを病院に連れて行ったこと。

僕は小学2年生になってから、今度は出来るだけ、「何も話さないし自分からは行動しない」という方法で何とか僕とその周りにある世界との均衡を保とうと考えた。1年生の時に起こしてしまった「水撒き喧嘩仲裁事件」の時のように、周囲に合わせるために、みんなが望んでいるだろうことを僕なりに考えて行動した事が、結果的にみんなを困惑させて、僕と同級生、というよりは、僕と学校的なものの間にある溝をどんどん深くしてしまう結果を招くという事に気がついたからだ。だから僕は、僕にとっては凄く難しい『ふつう』を演じないといけない場所では、極力なにもしない方が安全なのではないかと考えた。

そうすると、今度は2年生になって担任になったお母さんより少し若い男の先生が、そのことをとても気にするようになった。

「カイセイ君は、学校でほとんど会話をしてくれません、というより、授業で指名してもハイかイイエしか発言がありません、休み時間も1人で本を読んでいて、校庭に出て遊ぼうと言っても反応がありません、子どもらしい活発さや快活さが一切ないんです、ご家庭ではどんな感じでしょうか、一度しかるべき機関に相談に行かれた方が…」

学校からのその電話を受けた時、お母さんは少し困惑しながら「はあ、そうですか…」と言い、先生からの電話を切ったその後すぐに

「カイセイ、学校で何か困ってる?」

と聞いてきたので

「特に」

と僕は答えた、僕はふつうの真似が上手くできないからその代替策として黙っているだけで、もし僕がクラスの中で、思った事を思ったように話して、自分の自然な考えに従って行動したら困るのはこれまでの経験則から推測すると多分先生の方なんだけれど、うまく行かないものだなと思った。そういう意味では、強いて言うなら今、この瞬間を少し「困った」と言うのかもしれない、だから少し考えて

「今、少し困っているのかもしれない」

そう言いなおした。それで、僕とお母さんは少し話しあって、サカイさんの紹介してくれた小児科のお医者さんのところに話を聞きに行ってみることにした。サカイさんが昔、子どもの発達障害とか療育についての本の編集に携わった時にお世話になった先生で、とても良い人だからと。

サカイさんは毎日大勢の人と会って、人と人との間をつなぐ、巨大なサーバーのような仕事をしている人だから、本当に沢山の『ちょっとした知り合い』がいるのだけど、その大体の人をいい人だと表現する。サカイさんの世界では、サカイさんの元の夫と僕の生物学上の父のような種類の人間以外は、全人類が皆「いい人」なになるらしく、そこには僕も含まれているらしい。

それで、サカイさんにその人の所属先の病院を紹介してもらい、病院に連絡を取り、サカイさんの言うところの「いい人」の1人であるお医者さんに会う事が出来たのは、その先生と初めて連絡を取った3ヶ月後の平日の午前中の事だった、担任の先生が「僕が終始黙りこくっている」という事を問題にしたのが1学期の初めだったので、季節はもう夏休みの直前になっていた。そこに発生したタイムラグをお母さんは

「予約して3ヶ月待ちなんて、なんだか大変なところねえ」

と言って感心していたけど、僕はそういう事には特に興味が無くて、その先生がいる大学病院の廊下という廊下に人間があふれ、そしてその人間たちが一様にのろのろと歩き、その隙間を白い服を着ている人が、ある人は大股で、ある人は神経質そうに速足で、あとはその白い服の人たちが緑色のガスボンベみたいなものを積んだベッドの上にピクリとも動かない人間を乗せて、のろのろと流れる人間の川みたいな場所のわずかな空間をすり抜けている様子をずっと観察していた。

そして、僕に割り振られた受付番号が診察室前のモニターに白い文字で点灯し、名前を呼ばれて入室した小さな診察室の中で僕とお母さんを待っていたのは、普通の服を着た普通のおじさんだった。僕は母子家庭の家の子だし、僕がお母さんの仕事が終わるまでの学校と家までの時間と時間の隙間を過ごしているサカイさんの事務所のスタッフは皆女の人ばかりなので、僕は大人の男の人というものの生態をあまりよく知らなかった、だから正確な事はよくわからないけど、その人はお母さんよりは年上に見えた。あとは少しおなかが出ていて、ぼんやりとしか記憶にない生物学上の父を比較対象にすると、あの人の持っていた自分以外の人間をすべて否定してバカにすることに使命感すら持っている、あの卑屈でイライラとした空気を一切纏っていない人だと思った、それから眼鏡をかけている、そういう人だった。

「カイセイ君ね、こんにちは。あのね、君がこの前受けてくれたテストの結果見たよ、君さあ、賢いよね、言語のスコアとか凄いわ、僕、こんなの見た事ないもん」

僕はこの先生、タチバナと名乗る児童精神科の先生に会う前に何回か病院に来て、何種類かのテストを受けていた。この形と同じ形のものは次のページにありますか、この言葉と同じ意味の言葉は?この出来事について、あなたの次取る行動はA?B?、知能テストのようなものだったそれの結果をまず、タチバナ先生は僕に簡単に報告し、次にお母さんに向かって、こう言った

「お母さん、初めまして、タチバナです。すみませんね、診察の時期を長くお待たせしちゃって。それでね、事前にいただいたお母さんのアンケートと、それから学校の方の先生に依頼したカイセイ君に関するレポート、拝見しました。僕これ見て面白いなあと思ったんだけど、学校の先生はカイセイ君に困ってるんですよね、喋らないとか、反応が薄いとか…でも逆に話して動くと今度はそこに色々問題がある、と。先生は彼をどう扱っていいのか少し困惑しているみたいだねえ、でもお母さんはカイセイ君に困ってる事はあまりない、と。」

僕がこの診察の数ヶ月前に、知能テストのようなものを受けに来た時、お母さんも別の部屋で、分厚い紙の束のアンケートのようなものに答えていた。「お子さんは落ち着きが、ある・ない」「お子さんは癇癪を起して泣いたりすることが、ある・ない」「お子さんは睡眠を十分にとって、いる・いない」そういう類の膨大な量の質問に答え、事前に小学校には僕が普段どんな様子で過ごしているのかを簡単に文書にするように依頼していた。

「そうですねえ、確かにカイセイは普通の子かと言われたら少し違うのかもしれませんけど、私にとってはせいぜいゴハンをあまり食べてくれないなあ位が困った事で、あとは優しい子だと思っています」

お母さんは僕の事を「優しい子」だと言う。でも僕にはお母さんがそう断言する時の理由と根拠がよく分からない、僕はお母さんが困らないように毎日を注意深く過ごしているだけで、お母さんからそんな風に評価されることを何かしているのだろうか、でもお母さんが僕を「優しい」と表現すると、僕はいつも何故だか背中がかゆくなる。

「お母さんは、カイセイ君のどこが優しいと思う?理由というか具体的な出来事というか…」

すると、タチバナ先生はお母さんに僕の『優しさ』の根拠を求めてきた、そうしたらお母さんはずいぶん昔の僕の話しを持ち出してきた。

「私、今は離婚してこの子と2人で暮しているんですけど、昔、まだ結婚していた頃に、あれはDVって言うんでしょうね、夫だった人から生活費を貰うのに土下座しろって言われてたんですよね、それが凄く辛いなあって思っていたんですけど、ある日、この子が土下座する私の目の前にいた夫を、殴ったんです」

「へえ、殴った?素手で?」

「いいえ、ゴルフクラブで」

それを聞いたタチバナ先生は噴きだした、え?その時この子いくつ?3歳?それで元旦那さんどうなったの?怪我しなかったの?いくら3歳でもゴルフクラブだよね?それってアイアン?パター?ドライバーだった?そりゃ痛いわ、5針縫った?まあ、そうだろうねえ、そう言って、ちょっと身を乗り出して、お母さんにその当時の出来事の詳細を聞き取りながら、手元の白い紙に手早くボールペンで何かを書き込んで

「君はなかなか思い切りが良い子だなあ」

と言って僕に向かって微笑んだ。僕は昔から僕はお母さん以外の周囲の大人に「予測のつかない行動をする子供」だと評価されていて、その評価は決して好意的な表現ではないという事は最近、理解した。だからこんな風に笑顔を向けられる事の理由が僕にはよくわからなかった。

「それで夫は、ああ元・夫ですけど、彼は結構な怪我をしたので、それは絶対にしてはいけないとその時に伝えました。そうするとこの子は、それをちゃんと学習して、武器になるようなもので誰かを殴るとかそういう事を一切しなくなりました。確かにふつうに考えて分かるとか…あの空気を読むとか?そういう事はとても苦手なんですが、禁止事項を学ぶとそれ以後は、決してそれを忘れないので、同じ事を二度とやりませんし、それに、ゴルフクラブで夫を殴ったあの時、多分カイセイは私を助けようとしてくれたんです、そういう事、今でもよくあるんです。目的を達成する為に取る手段がちょっと過激なだけなんだと私は思っています」

「うん、そうだろうねえ、あのね、この子はとても頭が良いよ、お母さんこの子に文字とか数字とか取り立てて教えたことなんか無いのになんでも先に覚えちゃってたでしょう、そういうタイプの子なんだけど、感情と言葉が上手く結びついてない、というより知能の発達に情緒が全然追い付いてないんだね、凄くアンバランス。何かが平均値をはるかに超えているという事は極論で言うと一種の奇形なんだよ、でも彼には感情が無いわけじゃない、それと行動のパターンが凄く独特だ、でも彼の中でそれはちゃんと整合性が取れている」

「だからね、『障害』として診断名はつけようと思えば付けられるけど、彼の場合、こう…本人が困っているというより、周りの、主に学校が困ってるんだよねえ、だったら、例えば彼にそれらしい診断名をつけても突然向こうが問題だと思っている事が一挙解決する訳じゃない、カイセイ君自身が周りと自分の今の在り方との齟齬とか軋轢で二次障害的に学校にいけないとか鬱っぽくなってるとかそういう事が今、起きているなら話は別なんだけど、彼、なかなか工夫して外の世界と折り合いをつけようとしているみたいだ、ねえ、そうだろう?」

タチバナ先生は僕にそう聞いてきたので、僕は首を縦に振って答えた、僕のふつうへの挑戦は今のところことごとく失敗はしているのだけれど。

「君はね、感情や表情が無いんじゃあない、世界の捉え方が少し個性的なだけだよ。君にはちゃんと感情があってそれは君の中で君の感知しないところで機能してる。一番身近にいるお母さんがそれを分かってる。もう少し時間が経てば君にもきっと分かる事が沢山あるよ」

もう少しというのはどれくらいの期間を示しているのだろうか、僕はそういう「もう少し」とか「だいたいこのくらい」という抽象的な長さの表現を好まないので、先生に

「それはいつですか、明日ですか」

と聞いてみて、あ、しまった、これはふつうの聞き方では無かったかなと思った。けど先生は特に表情を変えずに、そしてちょっと考えてから

「うーん、明日か明後日か、もしかしたら10年後かもしれないけど…それなら、これから1ヶ月に1回、先生のところに来て、君が発見したり経験したりしたことを先生に話してくれないかな、先生はそうしたいんだけど、君はどうだろう?」

そういう提案をしてきた、僕は別に構わないと答えた、そうすると先生は

「お母さん、診断とか服薬とかそれ以前にまずこの子の経過をしばらくの間、見守りたいと思うんだけどいいですか。何しろ世界への感覚が少し人と違うだけで、学習に支障のない、それと自傷も他害もしない子みたいですし、ああ、1年生の時の放水の件はセーフという事で。あとは…味覚過敏…は僕よりお母さんのフィールドですね。うん、僕は君をとてもいい子だと思うよ。僕は好きだな」

僕はこの時まで、先生と名前の付く職業の人に「いい子」だと言われた事がなかった。それで、タチバナ先生が僕を「いい子」と言った時に、僕はほんの少しの間、脳が何かを考えたり記憶したりする機能が一瞬停止したような気がした。

もしかしたらこれが「驚く」という感情の事なのかもしれない。そうして、お母さんは手帳を見ながら僕の次の診察の日の予約を取って、診察室を出た時に僕にこう言った。

「カイセイ、サカイさんの言う通りだね、先生、凄くいい人だったね」

僕は、サカイさんからしたら大体の人はいい人だという法則があるのになと思ったけれど、でもそのとは言わずに僕は「そうだね」とだけ言った。

そして、ふたつ目の変化は、サカイさんの事務所に不思議な人が出入りするようになったことだ。

サカイさんが代表を務める、編集プロダクションは、はじめの内は、本や雑誌記事を作る為の会社だったけれど、事務所を作ってから数年たった今は地方の珍しい食べ物を紹介するとか、無農薬で野菜を作っている人の野菜を特別なルートで主にレストランや飲食店に販売するとか、その飲食店のメニューやホームページの制作とか、そういう色々な事を、サカイさんから言わせると「食べる事にまつわるなんでも屋」のようなことをしているので、いつもその関係の人達が沢山の人が出たり入ったりしていた。

僕は、いつもその人が出たり入ったりする事務所の隅に座って本を読んだり、宿題をしたりしているのだけれど、その日、夏の日差しがまだ道路の上に僕の濃い影を作っていた9月の初め、学校を出て、真っ直ぐ事務所に向かうとそこに黒い服の大男が立っていて、そしてコーンビーフを塊のまま齧っていてそれで

「ヤダ、スイセイそれなんでそれそのまま食べてるの、しょっぱくないの?せめてパンにはさむとかしないさいよ」

サカイさんに後ろからお尻を資料の入った青いファイルでひっぱたかれていた。その人は『スイセイ』という名前の人らしい。普段から人の出入りがとても多いこの事務所で、僕は特にそこにいる大人に自分から話しかけたりしないし、周りの大人も僕を気にして話しかけたりすることはまずない、というよりも、僕は一言も言葉を発さず静かにしているし、周りの大人は作業に没頭したり、何かの会議に夢中になっているのでみんなあまり僕に気が付かない、僕はここのそういう空気がとても好きだった、だから

「放課後は学童とか習い事の教室とかそういう場所に行く方が良くない?ここは大人しかいないでしょう」

というお母さんの言い分を退けて、1年生の時からこの事務所の一角に小さな自分の居場所を作ってもらっていた。この場所の代表者であるサカイさんは、僕がいつも大人しくしているし、たまに人がいない時に宅配の人から荷物を受け取ったり、コーヒーメーカで上手にコーヒーを淹れたりできるので、全然構わないわよ、ウチのナマクラな娘達よりよっぽど役に立つわと言って僕が事務所にいる事を容認してくれていた。

それでその日、僕にとっての幸福な静謐である事務所の隅の小さな机に僕が座ると、そのスイセイという大きな男は、どずどずと大きな足音を立てて僕に近づいてきて

「子どもおる!こんにちは!君誰?サカイさんの子?」

そんな風に大声で聞いてきた。片手にはかじりかけのコーンビーフを持ったままだ、何だろうこの人は、そう思った僕がスイセイという人をぼんやりと見上げたままその質問に答えずにいたら、後ろからサカイさんが

「ちがうちがう!ウチのは娘2人、その子はカイセイ君、マリちゃんの息子さんよ」

「へえ、マリさんて子どもおるんや」

『マリさん』というのは、僕のお母さんの名前だ。僕はいつも自分がお母さんとしか呼んでいないお母さんの名前を、このスイセイという人の口から聞くとお母さんの名前がまるで別の人の名前のように聞こえた。理由はわからない。そのスイセイという人はお母さんに子どもがいて、それが僕だという事実に少し驚いて、そして、年はいくつだとか、何年生なのかとか、いつもこの場所にいるのかとか、コンビーフ食う?とかそいう事を質問してきたので、僕は出来るだけ短い言葉で簡潔にその質問に答えた。

「7歳、小学2年生、放課後はいつもここにいます、僕はコンビーフは食べられない」

こういう風に答えておくと大体の大人も子どもも、思いつくだけの質問事項が途切れたら僕のそばから離れていくからだ、その方がお互いの為だ。

それなのにそのスイセイと言う人は、僕から全然離れようとしないで、その大きな体を折り曲げるようにして僕の机の前にしゃがみ込んで質問を続けるというよりは、今度は1人で喋り出した。

「あんなあ、おっちゃんなあ、この前まで、外国に行っててんけど、帰って来たら家が無くなっててん、ほんでここの事務所に今いるもんと自分の事置かせてもらってんねん、まあ、居候やな」

このスイセイというよく喋る大人は、関西なまりの言葉で自分の事を「オジサン」と表現した。でも僕の目にこの人はそんなに年を取っているようには見えなかった。というより僕は他人の年齢みたいなものにあまり興味が無かった。もっと言うと自分の年にもあんまり興味がなかった。そして、そのスイセイという人は、仕事で外国に渡航している間に自宅にしていた古い賃貸住宅の上の階の水道管が壊れ自室の中が大量にまんべんなく水に浸かり、家財道具一式全部が水浸しになって、持っていた家電製品はすべて壊れ、置いてあった本とか寝具とか衣類の殆どがふやけて使い物にならなくなった上に、そもそもその建物自体がとても老朽化していたところにその漏水が起きてしまった事で、その住宅自体が人間の住める所ではなくなってしまって「ここはもう取り壊すから申し訳ないけど出て行って欲しい」と帰国して自宅の鍵を開ける前に家主さんから突然そう言われたと言う。

「もう踏んだり蹴ったりや、でも家主さんも相当なおじいちゃんやし、イヤや、何とかせえって言われても向こうも困るわな」

まあ季節がまだ夏でよかったわ、そう言ってその人は頭をがしがし掻いた。スイセイと言う人の髪は固そうな癖毛で、あまり散髪をしていないのか、そういう髪型なのか、僕が普段見ている大人の男の人、学校の先生とか病院のお医者さんとかのような短くて清潔そうなものよりは幾分長くてなんだか適当に作った鳥の巣みたいな頭をしていた。そして、それを更にくしゃくしゃにしながらまだ3割程残っていたコーンビーフを全部口に入れた、食べるか喋るかどちらかにした方がいいんじゃないかと僕は思ったけれど、僕はそういう事は言わないでおいた。

「なあ、おっちゃん、ちょっと前までどこに行ってたと思う?当ててみ?寒いとこや、オーロラが見えるくらいな、ほんで変な鳥がおる、パフィンて知ってる?めっちゃおもろい顔してるヤツ」

僕はあまり大人、というよりは人間と会話をするという事を得意としていないのだけれど、このスイセイと言う人が問いかけた質問、その中にヒントとしてあった『パフィン』のことを知っていた。北極付近に生息する鳥で、エトピリカともよばれる不思議な見た目の鳥だ、ペンギンのような白黒の体、それなのにやたらと目立つ黄色いくちばし、僕はよく家で野生動物の本や動画を見ているのだけれど、そのパフィンをタブレットで見ていた時にお母さんがそれを横から覗いてきて「何この困り顔の鳥!かわいい!」と言って笑い転げていた、そういう顔をしている。鳥は生きていて何かに困ったりすることがあるんだろうか、そのあたりは僕にはよくわからないけど。それで僕は、そのパフィンが生息していて、オーロラの見える国に僕は一つ心当たりがあった。

「…アイスランド?」

そう答えた時、スイセイと言う人は、サカイさんから「だから!パンにはさみなさいよ、さっき食べてたコンビーフは?ハァ?もう食べたの?」と言われながら投げて渡された6枚切りの袋入りの食パンを2枚まとめてかじっていて、僕の回答を聞くと、無精ひげが生えている顔面を全面笑顔にして

「正解」

と言った。君、物知りやなあ。

その時、どうしてなのか僕は、自分にしてはとても珍しく、このスイセイという人に今度は自分からひとつ質問をした。

「アイスランドで、何してたの」

この人がサカイさんの事務所に暫く荷物と自分の体を居候させてもらうというからには、多分サカイさんの仕事に関係する人なのだとは思ったけれど、この人は本を編集をするとか文章を書くとかその手の思慮深い種類の人には全然見えなかったし、かと言ってさっきからコンビーフの缶詰をそのまま齧ってその挙句、何もつけていない食パンを2枚まとめて口に放り込むような人は、お母さんと同じ料理を研究したりする職業の人だとも思えない。僕はこの人の生態が少し気になった、何種目、何科に属する生き物なのだろうか。

「写真撮りに行ってた。おっちゃん、カメラやってんねん。今回はなあ、旅行記書く人に付いて行って、海とか、苔とか、パフィンとか、あと羊、羊めっちゃおったな、そんなん撮って来てん。あの国は人間が少ない、国の大きさがな10万…何やったかな、北海道と四国ふたつ足した位の面積しかないねけどんな、あ、北海道って行ったことある?」

ない、と僕は答えた、僕はこれまで、あまり旅行をしたことがなかった。

「あ、そう。ほんでなあ、それ位の広さで国としては狭いっちゃ狭いんやけど、人口が35万位やったかな、めっちゃ少ないねん、人。首都のレイキャビクにも日本みたいにギュウギュウに人がいる感じが全然ないねん、ほんでもな」

静かで寂しくてええとこやったで。そうスイセイという人は言った。この声も表情も何もかも、存在自体が煩い人が、静かで寂しい場所を良いところだと思うのか、僕はそれを少しだけ不思議だなと思った。

「その内おっちゃんと一緒に行く?ええとこやでアイスランド。あとなあ、君の名前の『カイセイ』って、海の星って書く?ええ名前やなあ。おっちゃんはなあ、彗星が来た年に生まれたからスイセイっていう名前なんや」

この人は質問事項をひとつの会話の中にまとめるのが癖なのかもしれない、僕はよく知らない人とアイスランドにはいかない、あとカイセイは海の星と書く、それは正解、名前の意味は『聖母』、僕が色々な悪い事から守られるようにとお母さんが付けた。そしてこのスイセイという人が彗星が来た年に生まれたという事は。

「1986年生まれ?」

そう聞いた。ハレー彗星は大体75年の周期で地球にやって来る、直近でそれは確か1986年だ。

「正解」

「スイセイさん!ずっと携帯鳴ってますよ!」と奥から事務所の人に呼ばれてそのスイセイという人は僕の前からやっと離れて行ったけれど、会話の最後「俺暫く、ここにおるし、また何か喋ろな、おっちゃんのことはスイセイでええから」と言って、また大きな足音を立てて向こうに大股で歩いて行った、凄い足音を立てて、それでフロアの向こう側で電話に出たその時の声もまた大きかった。

その日、そのスイセイの事を僕はお母さんに話した。今日、サカイさんの事務所に、黒い服を着て、コンビーフを齧りながら大声で話す鳥の巣みたいな頭のとても大きな男の人がいたと。そうしたらお母さんは

「ああ、カメラマンの人ね、スイセイさんでしょう、面白いひとよね、この前ね、お母さんの料理の本の写真をお願いしたら撮影が終わるそばから全部料理食べちゃってね、面白かったのよ『凄い、何食うても大体うまい』って言って」

クスクス笑って、ああいう大きな人は凄く食べるのねえ、身長が190㎝もあるんだって、何だかいつもおなかがすいてるみたいと言った。

やっぱりあのスイセイは、お母さんの、ふつうの人の目から見ても変な人だったみたいだ。

☞5

毎月1回、僕は児童精神科医のタチバナ先生と会うことになっている。

それは一応診察という名前がついているけれど、大体いつも僕とタチバナ先生が30分程度雑談をして終わるもので、一体僕の何を診察しているのかは僕にはよくわからない。ただタチバナ先生は、僕が思っていることを思っているように話しても、突然怒りだしたり、嫌な顔をしたり、呆れたりしない珍しい種類の人で、僕には貴重な人間だ、というより今まではお母さんとタチバナ先生くらいしかそういう特殊な人間が僕の周りにはいなかった。

10月の定期の診察のその日、僕は先生に色々な事を話した。

学校ではこれまで通り、あまり言葉を発しない事にしている事。最近何故だか、前の日の下校時にきちんと靴箱に収めた筈の僕の上履きが靴箱の地点から約3メートル程離れた廊下に転がっている事が多いとか、あとは昨日、クラスに置いてある水槽の中で金魚が1匹死んで、それを網ですくい取った同級生がにこにことしながら僕の机にその金魚の死骸を乗せてきたので、僕は「生き物の死骸というものは、机の上に置くのではなく土に埋めるのが順当だと思う」と言って、机の上のそれを手に取ってその子の手のひらに返してあげたら、その子は妙な奇声を発したとか。そいう事をお母さんの隣でタチバナ先生に報告した。

お母さんは、この話を

「ええ?それお母さん初耳よ、それっていつの事、上履きはちゃんとあるの、金魚はどうなったの、カイセイはそれで大丈夫だったの?」

と慌てていたけど、僕はそれよりその日、先生に話さなければ事があった、これは僕の生活の中ではとても珍しい事だから。

「タチバナ先生、サカイさんの事務所、それはお母さんが所属している編集プロダクションの事務所なんですけど、そのフロアに9月から変な男の人が住みつきました。スイセイという人です、ハレー彗星が地球に来た1986年に生まれた体の大きな男の人で、カメラマンをやっているそうです。その人は僕と会話しても怒ったり呆れたりしません、むしろどちらかというと僕が呆れたりしています、怒ったりはしませんが」

僕はあまり何かに怒ったり腹を立てたりしない、というよりはそういう感情を持ったことが自分の記憶にある範囲では、多分ない。

僕はスイセイがあの日、9月のはじめ頃にサカイさんの事務所に現れてから、学校が終わって家に帰るまでの隙間を過ごすためにサカイさんの事務所にある僕の場所に行くと、スイセイは大体僕の机の近くの床に直に座って誰かに貰った何かを食べていた。サカイさんの事務所にはお客さんからの差し入れだとか、仕事のためのサンプルだとか、撮影用の食材だとか、とにかくいつも食べ物が沢山ある。スイセイが食べているそれは日によって全然違うもので、その時は大きなトマトだったけど、ある日は誰かのお土産の人気店のカレーパンだったり、別の日は袋にはいったままのソーセージだったりする。僕の顔を見るとスイセイは

「カイセイ、おかえり。これ食う?トマトやけど」

僕が絶対に食べないと知っていて、必ず自分が持っているものを食べるかどうかを聞いてきて、そして僕は毎回

「いらない」

と答える。それで僕はランドセルから宿題を出して、宿題をしたり、本を読んだりするのだけど、スイセイはいつもその横にしゃがみ込んで1人でずっと喋り続けていた。

「今日、撮影で犬撮ってんけどな、それがまためっちゃ言う事聞けへん犬やってん、撮影用のモデル犬ちゃうんかと思って現場のアシスタントの子に聞いたら、予算の都合で僕の実家の犬なんですとか言いよる、アホか、ちゃんと訓練したヤツ連れてこい言うたら、犬、俺んとこ飛んできて、顔中めっちゃ舐め回されたしカメラは踏まれるし、ええかげんにせえって言うたら、犬ってかまってやると喜ぶもんなんやなあ、エライ懐いてきて、しゃあないから小一時間ボール投げて遊んだった、黒いラブラドールや、凄いでっかいヤツ、ほんで俺、今ちょっと犬くさない?」

「あー請求書作るのイヤやなあ、撮影料なんか現場でホイって払ってくれへんやろかとっぱらいで。なあカイセイってPDFで請求書って作れへん?」

スイセイはいつも僕の横に張り付いてそういう9割くらいは意味がなさそうな事を話しているんだけど、それに対して僕は一応返事をするし、たまに質問もする。

「犬の匂いはしない、請求書は作れない、スイセイはいつもは何を撮ってるの」

スイセイは「頼まれればなんでも撮るで、食べ物でも、景色でも犬でも猫でもサカナでも、ハダカのおねえさんでも、重機でも、なんせ全然売れてへん写真家やからな」と言ったけれど、本当に自分が取りたくて撮っているのは、人間の顔だと言った。

「だって、あんなおもろいモンないやろ。相手と普通に顔見て話してる時は、よう分からへんねんけど、俺はファインダーを通したらなーんでなんか、何となくわかんねん。そいつがどんなやつで何考えてんのか、人のええフリして他人のこと小馬鹿にしとるヤツもおるし、笑ってんのんに実は泣いてる人もおるし、冷たそうな顔して神様かくらいに優しい人もおる、カイセイは…そうやな、俺は今んとこ、たまーにすこし笑ってんのが分かる、カイセイは普段は大体黙ってるからものすごブッキラボーに見えるけどな。」

そう言いながらスイセイは、事務所にいる間はだいたい手に持って、レンズを着けたり、取り外したり、それから細かい部品を分解して磨いたりしている、大きくて重たいニコンのカメラを僕に向かって構え、電子音を鳴らした。

スイセイは勝手に僕の顔をよく写真に撮った、それについて僕は特に何の感慨も無い、特に不快でもないし嬉しくもない。それでその撮影データを「ホラ、ええ顔に取れてるで」とスイセイに見せられても、それらはすべて僕の顔で、たとえば昨日の僕と今日の僕では、着ている服が違うとか、あと寝ぐせが微妙についているとか、それ位が違う所で、僕には僕の表情は大体全部同じに見えた。だけどカイセイには僕の表情が一枚一枚違って見えるらしい。。

「ホラこれ、今、この35㎜で撮ったカイセイ、俺にはちょっと笑って見えんねんけどな」

そういう事は僕には分からない。でも、そういう風に相手が本当は何を考えているのか分かるアイテムがあると便利そうだねとスイセイに言うと、スイセイは

「せやなあ、でも例えば100万枚撮っても、俺が思ったような絵が撮れるなんて事はホンマに稀やからなあ、ほんまに少ない、俺が下手なだけかもしれんけど、辛い、歯がゆい、全然あかん。あとこいつ、カメラとかレンズとか機材がなあ、もの凄い金食い虫やねん、お陰で俺は毎日人から貰ったもんしか食われへん上に今は家も無い寝るとこは床や」

そう言って笑っていた、僕はスイセイがそんなに大変なのに何故その写真を続けるのか、よくわからなかった、イヤな事はやめればいのに、だからその日、僕にしてはとても珍しくスイセイにふたつ目の質問をした

「それって、楽しい?」

スイセイは僕の質問に対して、床に座ったまま僕の机に顎だけ乗せ、ニヤリと笑って

「楽しい」

そう言った。そうやって僕が事務所の定位置に座ってしばらくどうでもいい会話をすると、スイセイはまたカメラと機材をまとめて大きな箱に放り込む。

「ヤバイ、時間や。これから今度はおっさん撮りに行くねん、全然知らん人やけど、ほなな、カイセイ、また明日」

ひらひらと手を振って、その長身の体に大きな箱を括りつけるように背負って、足早に事務所から出て行く。僕とスイセイとの毎日はこんな感じだ、1日どこにいるのか全く姿を見せない日もあるけど、そういう時は次の日、スノーピークの寝袋の中からはみ出した状態で大型犬みたいに事務所の床で寝ている。

僕にはお母さん以外に毎日会話をする人ができた。

そのことを、定期健診のこの日、僕はタチバナ先生に伝えた、僕が普段過ごしている場所に今、不思議な男の人が住み着いていてその人とは比較的普通に会話が出来るという事を。タチバナ先生は、はじめ話した最近の学校での出来事については、あまり表情を変えずにいつものようにパソコンで僕のカルテに何かを打ち込んで、小声でお母さんに「お母さん、今カイセイ君が言った事、学校に確認した方がいいね」とだけ言ったけれど、スイセイの話になると、パソコンから手を放して腕組みしながら大笑いして僕の話を聞いていた、その人何、写真撮る人なの?面白いなあ。1986年生まれなら今30半ば位か、それなのに子どもみたいな人だなあと言って。

「ファインダーを通したら、相手がどういう人か分かるというのは羨ましいなあ、先生にもそういう力があったらもの凄い名医になれるんだろうけどな。そのええと、スイセイさん?は世界を写真を媒体にして捉えているんだろうね、そういう意味では君とよく似ているタイブの人なのかもしれないよ、君は世界の捉え方が少しひとと違う、そのスイセイさんは世界を捉える方法が独特だ。だから気が合うんだろう。少なくとも向こうは君のことを気の合う仲間だと思ってると思うよ」

そうだろうか、僕はあんなになんでも食べられないし、あんなに四六時中喋っていないし、床でぐうぐう寝たりもしないんだけど。

「今日はひとついい話が聞けた、君に、君の事を理解してくれる人がまた1人増えた。友達というのとは違うけどね、相手は子どもみたいな人物だと言えどもちゃんとした大人だ、大人には君にはない力があるからね、まあその辺は実は弁えている人のように思えるけど。それとは別に心配な話も聞いた、学校の事だ。君は目の前で起きる事日常的な柄についての解釈がとても独特だけれども、学校でこれから君の周辺で起きる事で、もし君にとって少しでも不快だと思う事があったら、とりあえず、それがどういうタイミングでも一旦教室から出なさい」

タチバナ先生は僕にふたつ不思議な事を言った、まずはスイセイが大人としての弁えのある人物だということ、これは僕にはあまり理解できない、僕が見ている限り、あの人は体の大きさ以外は完全に子どもだと思う。それともう一つ、僕が不快だと思う事が学校で起こったら教室から一旦出なさいという指示、タチバナ先生に「それは授業中でもですか」と聞くと、タチバナ先生はそうだよと言う。学校の決まりでは、授業中は担任の先生指示がなければ外には出られませんというと、その件については、君の主治医である僕の方針に従ってほしいな、ダメかなと言ったので、僕は担任の先生とタチバナ先生、どちらの言い分が妥当なのかを暫く考える事にした。

「お母さん、僕、今、カイセイ君に凄く勝手な指示を出しましたけどいいですか?お母さんの前で脅すような事を言うのはとても心苦しいんですが、子どもの集団というのは、大人もそうかもしれませんが、少し自分たちと違うと感知したものを排除したがる傾向にあるんですよ、小学校みたいな閉鎖空間に同じ年ごろの子をぎゅっと詰め込んだ場所だと特に」

「もしそういう現象の標的に、今、カイセイ君がなっているという事なら、この子の場合、その状況によっては、相手にどんな対応をするのか僕にも少し予測がつかない、実際、武器を取って戦ったことのある子ですから、ひとまずその場から離れなさい、と言っておく事が彼にとっては安全かと思います。タチバナ先生はお母さんにそう言い、お母さんは黙って頷いていた。僕が武器というかゴルフクラブで生物学上の父を殴ったのはもうずいぶん前で、あれ以来武器で人なんか殴っていないのになと僕は思ったけれど、僕は、そうすることでお母さんが困らないというのなら、タチバナ先生の提案した「不快」に対しての対処の「退避」を受け入れる事にした。

検診の帰り道、お母さんは僕が診察のはじめに話した学校の出来事、上履きと金魚の死骸についての事を詳しく聞きたがった。でも、タチバナ先生に話した事が全部だから特にそれ以上のことはないんだと言うと、今度は黙って考えこんでしまって、もしかしたらまたお母さんを困らせたのかと僕は思った。それは、僕の生活の中で最も避けるべき事だ。

「お母さん、一度学校に連絡してみるね、カイセイは事務所の方に行っててくれる?今日は今から他所で打ち合わせがあるからそれが終わったら事務所に迎えに行くし、それからこれ」

そう言ってお母さんは手に持っていた大きなカバンの中から、紙袋を取り出した

「これサカイさんに渡して、サンプルとして焼いたベーグルだから、とりあえず確認してくださいって、それでサカイさんに確認してもらったら、あとはカイセイが食べてもいいからね。」

新しいレシピで作ったベーグルだ、僕は、炭水化物が割と食べられる、紙袋の中には、何も入っていない表面がつるっとしたベーグルと、クルミで表面がごつごつしたのと、それから、ドライフルーツが練り込んであるものとクリームチーズが入っているもの、最後のひとつはゴマ、5種類のベーグルが入っていて、僕はそれを見た時に、真っ先にスイセイの事が思い浮かんだ、カメラのせいでお金の無いスイセイは今日も撮影と撮影の合間にお腹をすかせているかもしれない。だから僕は

「スイセイにもあげてもいい?」

と聞いた。お母さんは嬉しそうにもちろんよと言った、カイセイがお友達…でもないけれど、誰かに何かを分けてあげたいなんて言うのは生まれて初めてかもしれないね。

3に続きます(近日公開です)

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