遺産相続2

☞1

その大きなバックパックと発泡スチロールの容器を抱えた人は名前を陽介君と言い、23歳で職業は大学の5年生だと言った。大学の5年生って?もしかして医学部とか薬学部に通っているんですか、それとも大学院生なんですかと私が聞くと、陽介君は少し恥ずかしそうに笑ってから

「えっと…授業にあんまり行かないでいたら留年しちゃって…」

そう言って頭を掻いた。それほど高くない身長と細身というよりは若干痩せすぎなんじゃないかという印象のある細い体つきで、少しくせ毛の艶の無い髪、それとほんの少し下がり眉の優しそうな表情の人は、本来であれば彼の家庭にとっては忌むべき存在であるはずの父親の愛人の子である私の顔をもう一度なんだかやたらと嬉しそうに眺めて

「俺一人っ子だったからきょうだいって初めてだなあ、なんか変な感じだね」

と言って今度はうんと優しい表情で笑った。いや表情が優しいんじゃない、この人はとても優しい人だ。纏っている雰囲気と言葉の中に悪意のようなものが全然含まれていない。私には昔から、人の言葉の中にある小さな悪意や蔑みみたいなものを過剰に感じ取ってしまう所がある。それは超能力とか霊感とかそういう類のものでは全然なくて、人の言葉に少し過敏すぎるのだと自分では思っている。誰かが誰かに発する言葉には、それが賞賛でも励ましでも雑談でも人が人を貶めようとして意図してか意図せずか利己心みたいなものが含まれる事がある、もしくは形が分からない程研磨されたちいさな悪意。それが分かってしまうのだ。だから学校でクラスの子達のちょっとしたからかいの標的になった時にもとても過剰に反応した。他人の無垢な悪意みたいなものを冗談と呼ばれる物の中にどんなに巧妙に混ぜ込んで攪拌してもそれを聞き分けて、私は、その悪意に対して足がすくんでしまう。

クラス担任の先生はそんな私の事を

「気にしすぎよ、みんなそんなつもりじゃないのよ、貴方はもっと前向きな子だと思っていたわ」

そんな風に言ったけれど、それに対して祖父は私にこう言った

「美月はとても感性が鋭い、他人の言葉の中のほんの僅かな悪意を聞き分けて抽出してしまう能力は思春期の今の内は辛いだろうが、この先君の人生の大きな糧になる。例え己は満身創痍だとしても無駄に人の心を傷つけずに済むだろう?人間は心が鈍重になってしまったら終わりだ、そんなものは最早人間じゃない、美月はそれでいいんだ」

祖父のお墨付きを貰っているから言い切る訳ではないのだけれど、この人はきっととても優しい人だ。だからいい加減な事を言って母の事を適当に誤魔化してはいけない、そんなことをしたらこの優しい人を無駄に、余計に傷つけてしまう。私は「母、陽子は死にました」という言葉をどうもまだ冗談だと思って全然信じてくれていないまま屈託のない笑顔を私達に向けている陽介君にもう一度、今度は友達に話すようにして説明した。

「あのね、陽介君、お母さんは死んじゃったんだよ、私達嘘なんかついてないよ、陽介君がお母さんに最後に会ったのがいつ頃かは分からないけど、今年の夏の終わり頃にお母さんはなんだか腰が痛いって言い出して、私、病院に行こうよって散々言ってたんだけど、お母さんはただの腰痛だし自分は病院があんまり好きじゃないからってなかなか行ってくれなくて、そしたら9月の初め頃お店の開店準備中に倒れちゃって、それをここのお店の上の階のお姉さん達が見つけてくれて、そこのお店のママのあけみちゃんが担いで病院に運んでくれたの。そうしたらね、なんだか知らないうちに悪い病気が体中に広がってて、もうどうにもなりませんて」

そう言われたんだよ、それでついこの前お母さんは死んじゃったの。という言葉の最後の部分を私はちゃんと陽介君に伝える事が出来なかった、私は母の死の経緯を説明している時に突然あの日、母が冗談みたいな口調と顔で私に

「美月、やばい、お母さん余命3ヶ月だって!」

自らの命の尽きる日の事を私に伝えた言葉と声を思い出して、口から言葉ではなく嗚咽が漏れ出してしまったからだ。言葉は記憶だ。あの世界が暗転した日の事を、私はまだ生々しい記憶として脳内に留めたままだった。忘れようと思っても忘れられる筈なんかない。

「えっ…だって俺、去年色々あって家から出て…それで今年の夏頃まで寝泊りさせてくれてたバイト先がさ、大学の近所のカレー屋さんなんだけどそこのオーナーさんが突然、給料払ってくれないまま夜逃げしちゃって困ってて、それで腹減らしてここの駅の裏に座ってたら、陽子さんがアンタどうしたのよって声かけてくれて、それで仲良くなって…でもその頃は凄い元気に見えたし秋頃まで俺、飯食べさせて貰う代わりに店の手伝いしてたんだよ。それで俺がここで雇ってもらえないですかねって、ここにずっといたいからって言ったら陽子さんが俺に『じゃあ今からあたしが陽介ちゃんにひとつ目的をあげるからまずはそれをクリアしてきなさいよ』って言ったんだよ、だからこれ」

陽介君は、私と月子さんに両手に下げた発泡スチロールの四角い容器を差し出した。私は母の余命宣告のあの言葉が脳内に何度も繰り替えされてしまって、それを自分の意思で止める事が出来ないまま月子さんから百合の花の刺繍のハンカチを借りて涙を必死に拭いていたので、私と陽介君の会話は月子さんが引き継いでくれた。

「これは何でしょうか」

「カニ!陽子さんが、俺がこう…無目的なダメ人間で、じいちゃんとかばあちゃんから、お前がいずれお父さんの跡を継ぐんだぞとか言われて、それがもう絶対に無理だし嫌だし、そもそも俺頭悪すぎて新聞3行読んだだけで眠くなる人間なのに周りが勝手になんでも決めて、なんかもう嫌だ死にたいって陽子さんに言ったら、じゃあアンタにアンタだけの目的をあげるからって言ったんだよ、だから」

「陽子が貴方に提示した『人生の目的』というものが、こちらの蟹だったのでしょうか」

「そう!陽子さんがヒッチハイクでも徒歩でもなんでもいいから飛行機と新幹線以外の陸路で北海道まで行って私にカニ買って来てって言ったんだよ『ここから自力で北海道まで行って戻ってくる間に季節が秋から冬にはなるんじゃない、そしたらカニの季節よね、カニ代払うから北海道でカニ買って来てよ、それでこの店に届けて。そうしたら雇ってあげる。夜の店で調理と店番やってもいいし昼にここ開けて別のお店やるのもいいかもね、陽介ちゃん夜眠たくなっちゃう子だから』って」

「それは、自身の死期を知った陽子が、そんな自分の元に貴方を置いておく事を忍びなく思って貴方を物理的に遠ざけた、という事ではないでしょうか。本人と周囲に心の準備をする時間を与えずに突然訪れる死というものは一種の暴力です。貴方の事を先程から拝見していますと、人間の病や死と言う類の人生の中で起こる強いうねりのようなものに巻き込まれるとひどく落ち込んでそのまま溺れて沈んでしまう方のようにお見受けします。死んだ陽子はそのような優しく、反面脆い性質の人間をかなり的確に見抜く事ができる人でした。そしてそのような人に惜しげもなく自分自身を与える人でした。お陰で貴方のお父様には騙された訳ですが」

「…陽子さん、本気で死んじゃったの?」

「ハイ、死にました。残念ですが事実です」

陽介君が月子さんの容赦ない人物評と何より、留保も躊躇もなく繰り返される『死』という言葉に段々顔色を失っていくのが涙で曇った私に視界からもはっきりと分かった。

「じゃあ俺、これからどうしよう、カニ…」

陽介君は泣きそうな、違う、少しだけ泣きながら行き場を失ったカニを両手に下げたまま肩を落として地面を見つめていた。足元のアスファルトにはほんの少しだけ水滴の跡。今、母の為に静かに涙する私の兄を名乗るこの人は一体、母の何で誰だったんだろう。本来なら私も含めてあまり交わってはいけない関係性の人の筈だ。年の離れた友達?まさか恋人という事はないだろうし。でも分からないな、母はとても男の人に人気があったから。と言っても主に近所のおじさんやおじいさんに達にだけど、そしてそれは自分のお店のママとしてなのだけれど。私がそんなことを思いながらこの優しい人に今どんな声をかけるべきなのか、自分の涙を止める事に努めながら逡巡していたら、月子さんが突然こんなことを言った。

「陽介さん、本日これからお時間はありますか、我が家の夕飯は今夜鍋なのですが、よろしければいらっしゃいませんか。陽子の遺骨はまだ自宅です。いわば亡骸ですがその亡骸になら陽子自身に対面していただく事もできますし、発注者の陽子が死んでしまった事で行き場を失ったとは言え蟹は出来るだけ早く食べてしまわないと悪くなってしまいますから、貴方さえよければ自宅で調理させていただきますが」

この箱2つ分の蟹となると結構な量です、もし構わなければ今からあけみさんもお誘いしましょう、もう2階のお店にいらっしゃる時間だと思いますのでお聞きしてきます。月子さんはそう言うと迷いのない足取りで1階の店舗の奥にある階段を登って行ってしまった。月子さんの行動はいつも私の予測の範囲外だ。私と陽介君は母の、今は私の物になった4階建てのビルの前に取り残されて、改めてお互いの顔をよく見た。そうしたら陽介君の顔の特に目元なんかは何となく私のものと似ているような気がした。

「あの…なんかごめんね、哀しい事何回も説明させて」

「ううん、あの、お母さんがごめんね、変な事言って。北海道まで本当に行って来ちゃったんでしょ?蟹だけのために。大変だったよね寒いし遠いもんね北海道」

私がそう言うと陽介君は、涙で充血した目をこすってから少し笑ってこう話してくれた。

「そうでもなかったよ、どっちかと言うと結構楽しかったかな。俺、長距離トラックとか、とにかく遠くに行きそうな車狙ってヒッチハイクしてずうっと北上していく事にしたんだけど、生まれて初めて12トントラックっていうのに乗せてもらってさ、車高が高速道路のどの車より高いから他の車が全部視界の下で凄い気分いいの。それで途中、降ろして貰ったサービスエリアのベンチで寝てたらおばあちゃんがお供えみたいにおにぎり置いてくれたり、道の駅で農家のおじさんに『にいちゃん今暇か?ちょっと頼むわ』っていきなり頼まれて野菜売るバイトしたり、あと俺全然知らなかったけど青函トンネルってさ、基本的に電車しか通れないんだね、知ってた?俺知らなかった。トンネルだから人間も歩けんのかなーって思って新青森駅に行って駅の人に聞いたらそういう人たまにいるんですよね、でも絶対止めてくださいって怒られたの。だから本州と北海道の間はフェリーに乗ったんだよ、その津軽海峡フェリーの中で知り合ったおじさんに蟹なら稚内まで行くのかって聞かれてさ、俺、稚内がどこだがわかんなくてそれってどこですか、日本?て聞いたら北海道馬鹿にすんなって怒られたりして、でもその人の知り合いの人の車に途中まで乗せてもらって稚内まで行って、そんでとりあえずその日は駅か公園で寝ようと思って通りすがりのおばさんにどっか野宿出来る場所無いすかねって聞いたら「何言ってんの?アンタ凍死するよ?」ってまた怒られて。それがカニの卸しやってる会社の奥さんでさ、暫くカニの卸しの業者さんの所でお世話になって…ほんとに楽しかったんだよ、日本広いなーって思ったし、自分の悩みとかかなりどうでもいいなって思った。だから陽子さんがとりあえず北海道まで行けって言ったのはさっきのあの、月子さん?が言った通り陽子さんの俺への気遣いだったんだとは思うけど、きっとそれだけじゃないんだと思う、なんか旅して外の世界を見て来いって事だったんだと思う、俺なんか元気なったもん。今はちょっと突然落ち込んでるけど」

この話、したかったんだよ陽子さんに。俺いろんな人に会ったんだよって。そう言って今度は泣き笑いしているみたいな顔になったので私も多分それと同じ顔をして笑った。陽介君は笑うと目元が私の目元にもっと似ていた。そうして微笑んでいる私たちの所に突然お店の中から、何かが猛スピードで飛び出してきて私はびっくりしてその場に固まった。山の奥から突進してくる猪みたいなそれは

「あけみちゃん!?」

2階の店の主であるあけみちゃんだった。それを見た陽介君は

「え、ええ?何?」

と怯えた声を出し、ほぼ猪の様相を呈したあけみちゃんは

「陽介ちゃんアンタ色々遅いわよ!この薄情者!陽子もう死んじゃったわよ!」

そう叫んでそのまま陽介君に抱き着くというよりも飛びついた、いや違う、タックルだ。あけみちゃんは昔、聞けば大体の人が知っているような強豪校のラグビー部のフォワード、その中でもプロップというポジションの選手だったそうで、それは「パワーが最も重要視されるのよ」と去年の年の瀬に家のこたつで私と母と祖父みんなで一緒に高校ラグビー選手権の決勝を見ている時にあけみちゃんが教えてくれた。陽介君はそのあけみちゃんの低い位置からのかなり圧のあるタックルを正面から受けて吹っ飛び、アスファルトの上にあお向けにひっくり返った。あけみちゃんから数秒遅れてビルから出てきた月子さんはそれを見て少しだけ驚いたような表情をしてこう言った。

「あけみさん、それは違います。陽介さんは陽子の指示で、北海道まで蟹を買いに出かけていて一切の事情を何もご存じなかったそうです。いわば陽子が自分の死に際して陽介さんの心情に配慮してあえて陽介さんを遠ざけていたのであって、情の薄いに任せて陽子の病床と葬儀に顔を出さなかった訳ではありません」

「ヤダ!そうなの?」

「ウン、そうなの。あとさ…あけみちゃん痛い…」

「ヤダ!ヤダヤダヤダ!ごめーん」

「陽介さんお怪我は」

「ちょっと…腰がやばいです…」

あけみちゃんは陽介君を力強く抱き起し、月子さんはあけみちゃんのタックルの勢いで吹っ飛んだ陽介君の手荷物や蟹の入った箱を拾った。その様子をぼんやりと眺めながら私は、そうか、陽介君は母の店に出入りして店の手伝いをしていたのだから、当然母の店に毎日出入りしていたあけみちゃんとも面識があるんだと、そんな事を考えていた。私は自分の出生の時の事同様そんなことは全然知らなかったし知らされてもいなかった。あけみちゃんと母の間にこんな不思議な共通の友人、友人で良いんだろうか、とにかく若い友達がいたと言うことも。

☞2

私達が突然家に連れてきた母の年若い友達で、私の異母兄で、北海道から蟹を抱えて戻って来たばかりで、人生と路頭に迷っている大学5年生の陽介君を見た祖父は、腕組みしながら感心したような呆れたような、何とも言えない表情をした。

「何だろうなあ、陽子は母親に似て、軛と重荷を負う人間に手を差し伸べる事に一切の迷いも躊躇も無い娘だと思っていたが、よもやあの時のあの男のご子息とはなあ。うんいや失礼、君にとっては我々こそが君の家庭の不和の原因であり諸悪の根源だな、いてはならない人間達だ。本当に、色々と申し訳ない、故人の父としてこの通りお詫びする」

「それはお父さんが頭を下げる事でしょうか、そもそも陽子に独身であると身分を偽って近づいたのは先方です」

「月子ちゃんも悟朗さんもなに玄関先でごちゃごちゃ面倒くさい事言ってんのよ、悟朗さん蟹よ、陽子が死ぬ前に蟹代払って陽介ちゃんに買ってきなさいって言ったんですって、だからコレは陽子のおごりよ、あの世から蟹のプレゼントよ!」

あけみちゃんはタックルされて腰を打ったという陽介君の結構な量の荷物を全部持って玄関の三和土の上で祖父と挨拶を交わす陽介君を押し出すように中に入って来た、ホラもたもたしないで中に入りなさいよ。陽介君は上がり框の上で自分に頭を下げる祖父に対して、私達はそこまで謙って自身を卑下する存在ではありませんと主張する月子さんの間に立つような格好になり、おずおずと隣の私の顔を見た。その顔には「どうしよう」という困惑がとても分かりやすく書いてあった。

「陽介君大丈夫だよ、おじいちゃんは元々お客さんが好きなの、大学の先生だった時には陽介君みたいなお兄さんとお姉さんたちが沢山遊びに来てたし、今でもよくあけみちゃんとか近所の人とかいろんな人が来るんだよ。あと月子さんは私も最近一緒に暮らし始めたばっかりだからよくわからない事もあるけど、今ここに石油王とか総理大臣が来ても多分同じような態度だと思う。別に機嫌が悪いとかここに来て陽介君への怒りが湧いてきてるとかそういう事じゃないから、ね」

「勿論です。私は人間は本質的には皆同じと思っています。言い換えると神の前に平等であるという事です。職業や立場や来し方による貴賤などは私の中には存在しません。さ、陽介さんどうぞ遠慮なくお入り下さい」

「もぉ~!そういう話は食卓に蟹が乗ってからにしてよ!悟朗さん、タラバガニだって!かなり大きいからアレ、納戸から伊万里の大皿出してこなくちゃ!」

月子さんが陽介君に来客用のスリッパを勧め、更に背後からあけみちゃんに押し出されるような形で私に腕を引っ張られて、陽介君はおずおずと上がり框の上のスリッパを履いて家の中に入って来た。その後が大騒ぎで、陽介君が実は2日間ほとんどまともに食べていないとか、あと5日位お風呂に入っていないとかそんな空恐ろしい事を言いだして、月子さんがそれではまずはお風呂ですねと言ってお風呂を沸かし始め、あけみちゃんが陽介ちゃんこのリュックの中に着替えなんかあるの?まさか全部汚れ物じゃないでしょうねと聞いたそれが、果たして全部

「いつ洗ったか全然分からない」

という、見るのも触るのも恐ろしい洗濯物達だったので、祖父がそれなら今俺が全部洗ってあげるから出しなさいと言った。

「そうか1人で長い旅をして来たのか、うん、昔はそういう学生がふらりと何ヶ月も居なくなってあの子はどうしたのかと思っていたらある時極限まで汚れた身なりで突然現れたりしていたなあ。あての無い1人旅は若い者の特権だ。そこに入っている汚れ物を今洗濯機で洗うから出しなさい、これは俺がやった方が良いだろう、今この場にいるのは俺以外あけみさんも月子も美月も皆女性ばかりだからな」

祖父はこういう事をさらりと言う。それであけみちゃんのお店でとても人気があった。変り者だけれどその一方で紳士で、たまにあけみちゃんに引っ張られてお店に行くと、皆女性なんだからと言って、お店の姉さん達に対して徹底してドアは必ず自ら開けてお姉さん達を先に通し、一緒に食事をする時には椅子を引いて座らせ、一緒に車に乗る機会があれば必ずドアを開けて乗せていて、あけみちゃんやお姉さん達は「悟朗さんの前だとあたし達はお姫様よね」と言ってその祖父の態度をとても喜んでいた。でもそれは

「お母さんがそういう人だったからなあ、帰国子女だったからなのかお嬢様育ちだったからか、一緒に食事に行くとそれが近所のうどん屋でも俺が店の戸を開けるまでニコニコしながら戸の前で待ってるんだよ『アナタ、開けてくださる?』って。俺も一応留学は経験しているが、現地ではただの貧乏学生で女性と食事に出かけるなんて機会はついぞなかったし、こういうのは結婚してから随分苦労して身に着けたんだぞ」

という事らしい。その祖母仕込みの紳士は、その昔、今は亡き娘を騙して傷つけた人の息子の汚れ物を全て洗濯機に放り込んで洗い、月子さんと私は台所でその人の食べる鍋の材料の野菜を切って豚バラや豆腐をお皿に盛りつけて、あけみちゃんは家の奥の納戸にその人が苦労して買ってきた蟹をのせる為の大皿を取りに行って、その蟹を綺麗にお皿に並べた。私が生まれた頃からこの家に親戚みたいに出入りしているあけみちゃんはこの家の事を私よりよくずっとよく知っている。

「美月ちゃん、猫ちゃんがお風呂場の前で俺の事待ってくれてたよ」

そう言って嬉しそうにすももに先導されて台所に現れた陽介君は祖父が

「今、洗濯機に君の衣類をあるだけ全部放り込んでしまったら君の着替えがひとつも無いな、じゃあこれを着ておきなさい」

と言って自分の箪笥から出して来た祖父の寝間着と袢纏を着ていた。なんだか若いおじいちゃんみたいだ。陽介君はお風呂に入れない間、とりあえず石鹸と水で顔と一緒に頭を洗っていたらしくて、そのせいなのか髪の毛がやけに艶の無い古い毛糸みたいになっていたけれど、その髪の毛をかなり入念に洗髪してきたらしく、初めて会った時の2倍位に髪がふわふわと膨張して綺麗な艶を取り戻し、石鹸で入念に表れてよく温められた鼻の頭はピカピカに光っていた。

「お、青年は出てきたか。じゃあ美月、陽子の所に連れてってやりなさい、青年は…陽介君だったかな、陽子に蟹の現着報告をしてやってくれ、君をそそのかして北海道までやった挙句、君の事を待たずにさっさと彼岸に渡ったあの娘に文句のひとつも言ってやると良い。すまなかったね、あの娘、陽子は優しい良い娘なんだが、昔からどうも口八丁というか調子の良いところがあるんだよ」

陽介君は『自分の父親の元愛人の父親』と言う、どう考えても互いに険悪にしかならない関係性の祖父が、自分が5年生として在籍している大学でかつて教鞭を取っていた教員だと分かった時に祖父から

「それなら君は俺の教え子も同然ということか。しかも美月の異母兄という事は、俺にとっては孫みたいなもんだ」

そんな風に言われた事や、陽介君が下宿していた場所が祖父もよく知っている店で

「あそこ潰れたのか、それであの人の良い店主は逃げたか、盛りも人も良すぎたんだよ彼は、タチの良くない所からの借り入れなんかもあったのかも知れないな。君も大変だっただろう」

そう言って労われた事で、この家に上がった時にはかなり緊張して強張っていた表情がすっかり柔らかくなっていた。そして多分、普段からそういう人なのだろう、とても人懐っこい笑顔で「そうします」と言ってそのまま素直に祖父の言葉に従った。月子さんは祖父が陽介君を自分にごく近しい人間であると言う旨の発言をした時、台所で鍋の出汁を取りながら

「陽介さんがお父さんの教え子であり孫と同義の人物であるという主張は、少々拡大解釈が過ぎませんか。大体お父さんが教鞭を取っていたのは文学部で、陽介さんが在籍しているのは先ほどお聞きしたところによると経済学部だそうです。学部が全く異なりますし、お父さんと陽介さんは血縁上も姻戚関係上も陽介さんとは全くの他人です」

そう言って淡々と異論を呈していた。もう慣れたけれど月子さんの異論と反論の言葉は誰に対しても容赦というものが無い。何についても白黒はっきりさせたい性格なのだろうと思う。あけみちゃんはそんな親子の会話を聞いて笑いながら

「月子、アンタそんな事ばっかり言ってよく44歳の今日まで無事に生きてきたわねぇ、それじゃ世の中とも人様とも折り合いがつかないでしょうよ、適当に流すって事出来ない訳?」

そう言った。でも、だからこそ月子さんは修道院という特殊な環境で暮せていたんだろう。それは月子さんが言う己の理想の探求で、同時にある種の退避だ。そこも飛び出してきてしまった人ではあるのだけれど。私がそう言う事を、月子さんが『陽子さん』の双子の妹ではあるのだけれど性格、思考回路、多分趣味嗜好全てにおいて『陽子さん』とは全く真逆の人間で、自分の考える『愛』について真剣に真摯に考えるあまり修道院で15年の間暮らし、つい最近この家に帰って来たばかりなのだという事を小さな声で陽介君に教えると、陽介君はちょっと驚いていた。俺そんな人初めて見た、そんな人生もあるんだねと言って。

そして私の案内で、台所から廊下をひとつ挟んだ和室の、母のお骨の置かれた床の間の前に座った時、陽介君は母のお骨の入った白い包みをじっと睨むように見つめてから、哀しいような寂しいようなそれでいて居心地が悪いような不思議な表情をした。理由は『こういう時、どんな顔をしたらいいのかが分からない』から。

「俺ね、今、哀しいのは哀しいんだけど、でも陽子さんが死んでこんな小さい包みになりましたよって突然言われても全然実感がわかなくて、陽子さんはまだあのお店にいるような気がするんだ。大事な人が死んじゃうなんて、俺の人生史上初めての事なんだよ」

そう言ってすっかり乾いて毛足の長い仔犬みたいにフワフワになった髪の毛をかき回すようにして頭を掻いた。

「なんかさあ、急に『あの人は死んだからもう二度と会えませんよ』って言われても凄く理不尽な感じがするよね。俺は陽子さんに言われた通り北海道まで行ってカニ買って帰って来て、あの日、陽子さんと約束した事は実はふたつあるんだけどね、そのふたつの内ひとつはもう叶って完結しちゃったけど、もうひとつはまだ守ってもらってないんだよ、それなのに陽子さんはもうこの世のどこにも居ないってどういうことなのかなあ」

陽介君は、母の死に納得していないんだ。そうだよね。つい数ヶ月前まで元気な姿でお店のカウンターの中で歌って笑っていた年上の友達が、次に会った時には骨でしたって言われたら私だってちょっと納得できない。母の、人の死という大きな物語にまつわる感情の主な成分は哀しみだけれど、そこには実は結構な量の怒りも含まれると感じたのはごく最近の事だ。何故母は死なないといけなかったのか、どうして母なのか、誰がそんな事を決めたのか。

「カニ、買って戻って来たら、あの店で雇ってもらうのとあと、陽子さんの娘に、俺の妹に会わせてくれるって約束してたんだよ」

『妹に会わせる』

それが母が蟹を条件にして陽介君に交わしたもうひとつの約束だったらしい。私はその『妹』という言葉を陽介君が母との会話の中で使っていた事に驚いて、母が私の事を陽介君の妹だと言ったのかと聞いた、母が『妹』に会わせてあげるとそう言ったのかと、そうしたら陽介君は首を横に振った。

「違うよ、俺が会いたいって言ったんだよ。その時に『陽子さんの娘なら俺の妹だよね』って俺が言ったんだ。俺のお父さんが美月ちゃんを正式に認めてなくても俺と父親が一緒なら、俺がそう思うならそれって俺の妹だって事だよねって」

「…お母さん、その『妹』って陽介君が言ったの聞いてどんな顔してた」

「ちょっとびっくりしてたかもしれない。でも陽介ちゃんがこの先、娘の美月を助けてくれる沢山の人の内の1人になってくれるのならそう呼んでくれても構わない、美月本人がそれをどう思うかは分からないけどねって言ってた。その時は陽子さんがどうしてそんな事言うのか全然分からなかったけど、陽子さんはその頃もう自分がそう遠くない将来にこうなるって知ってたんだね」

そう言って私の方を見てえへへと笑って、その笑った表情のまま、大粒の涙をこぼした。

私は、成人している男の人と言えば、普段はあの感情に起伏の無い冷静過ぎる祖父ばかり見てきたせいで、泣き顔を私に一切隠さずに、自分によく似た二重瞼の内側の瞳から涙をこぼす陽介君の姿にひどく驚いた。大人の男の人も人前で涙を隠さずに泣いたりするんだ。そう思いながら私も笑って、少しだけ泣いた。

☞3

陽介君が北海道から運んで来た大きなタラバガニは4ハイもあって、それはあけみちゃんが納戸から掘り出して来たふたつの藍色の絵付けの大皿から思い切りはみ出し、ウチにある古いイタリア製のダイニングテーブルの半分を占領した。普段はテーブルに絶対上がったりしないお行儀の良いすももは、生まれて初めて見る巨大な蟹が珍しいのか、それとも匂いにつられたのか前足だけ食卓にのせてフンフンと蟹の匂いを嗅ぎに来た。

「お父さん、すももさんは蟹を食べても良いのでしょうか」

「どんなもんだろうなあ、すももは腹を壊しやすいから蟹はちょっとなあ。すもも、冷蔵庫にある茹でたささみで手を打ちなさい。いやしかしこれは立派な蟹だな」

「蟹食べてると人間てどうして無言になるのかしらねぇ、美月ちゃんコレ何本か鍋に放り込む?いい出汁がでるんじゃない?」

「あけみちゃん、蟹が鍋からはみ出しちゃうよ」

巨大な蟹は、普段は静寂、というより一方的に自分の興味関心事について論じる祖父と、修道院にいた15年の間食事の間は沈黙が常であり、そもそも元々食事をしながら会話をする事が不得手だという月子さんと、その2人に挟まれている私、会話の弾みにくい3人の我が家の食卓にちょっとした騒ぎを運んで来た。ついさっき、母の遺骨の前で大粒の涙を流していた陽介君は、今は目の前で上手に蟹の身を殻から剥がしては私の目の前の取り皿にどんどん置いてくれている、美月ちゃん沢山食べなと言って、それを横目で見ていたあけみちゃんは

「ちょっと陽介ちゃんアタシにも剥いて頂戴よ!」

ちょっとだけ陽介君に文句を言った。あけみちゃんは寂しがりやでやきもち焼きだ、祖父はあけみちゃんを評してよく

「彼女は情が深いんだよ、怒りっぽくて寂しがり屋なのは情のある人間の証拠だよ」

そんなことを言う。要はちょっとしたことで直ぐに膨れてしまうのだ。私も自分よりうんと年上のあけみちゃんのそういうところを少し可愛いと思っている。私が陽介君に蟹なら自分で剥けるし、陽介君も食べないとあけみちゃんは見た目通りだけど、おじいちゃんも実はすごく食べるんだよ、陽介君の分がなくなっちゃうよと言うと陽介君は笑って

「でも、ほら、俺お兄ちゃんだから」

と言った。それに俺、北海道で蟹はもう一生分食べたんだよ。陽介君は大皿の上から、その中でもとりわけ太くて大きな蟹の足を1本選んでまた器用に剥き、私の前に差し出した。

「君は、陽子と今年の夏ごろ『たまたま偶然』知り合ったと言っていたが、それは嘘だな」

祖父が突然そんなことを言い出したのは、その賑やかな夕餉の途中、あけみちゃんが蟹を鍋の中に放り込んだ瞬間だった。

「陽介君、君は今年の夏に食い詰めてここの最寄り駅で座り込んでいる所を陽子にたまたま拾われたと言っていたが、君の家も君の大学も、ええと何だ、最近は家から出て大学の近くのカレー屋で住み込みのアルバイトをしていたんだよな、でもその君の下宿だった場所ともここは結構距離がある、ここまで来ようとすると電車の乗り換えも割と面倒で複雑だ、それなのに『たまたま』ウチと陽子の店の最寄り駅で座り込んでいた、それはどうしてだろう」

イヤ、責めているんじゃないんだ、俺はちょっとでも疑問に思った事は白黒はっきりさせないと気が済まない性格なんだよ。祖父がまるでいたずらな小学生を諭すように優しくそう言ったので私は、お鍋の中にあけみちゃんが無理に押し込んだ蟹をつついていた菜箸を一旦食卓に置いて、祖父に聞いた。

「おじいちゃん、何でそんな風に思うの」

「うん、あのな、この陽介君は昔、今から15年前か、月子が彼の自宅に灯油を持って乗り込んだ時に自宅にいたと言う事は、俺も月子から聞いてる。その騒ぎが一体何だったのか、当時8歳か7歳位だった君には理解できていなかったかもしれないが、記憶には確実に残っただろう、そうじゃないかな」

陽介君は蟹を剥く手を止めて、なんだかお母さんに叱られている小さな子どもみたいな顔をした。そしてちょっとだけ、ちらりと私の顔を見てからこう答えた。

「…それは、よく覚えています、お父さんが何か大声で叫んでいたのでどうしたのかなと思って玄関に行ったら、赤い灯油のポリタンクを持って、ライターを父の目の前に突き出してる女の人がいて」

「月子ちゃん、アンタ人様の家に乗り込んでそんな事したの?」

「昔の事です」

「うん、それでな、その後に俺も君に会っているんだ、それは覚えているかな」

「え?」

祖父が言うには、月子さんが私の父であり、陽介君の父でもある人の家に乗り込んで、父である人を脅迫するような形で高額の養育費を一括で支払うという念書を取り交わした後、その額面が高額である事と

「陽介君のお父さんという人はな、割と名の知れた政治家先生の家のご子息なんだよ、大事な跡取り息子が外に子どもを拵えたと知って、後々ややこしい事になると困るとあちらも踏んだんだろう、弁護士を寄越してきたんだ。それでこちらも弁護士を立てた、対抗しようとした訳じゃあないが、俺はその手の交渉ごとは不得手だし、かと言ってまた月子を出すと今度こそ相手を刺すか撃つかとにかく碌な事が起きないだろうと思ったもんだから」

とりあえず月子さんをこれ以上、母を巡るこの一連の出来事に関わらせると多分恐ろしい事になると考えた祖父の判断で、知人の弁護士を頼って自身がその後の交渉に臨むことにした祖父は、実際に先方の弁護士に会う段になって小学生の陽介君と陽介君のお母さんに会ったのだと言った。

「当初の予定では直接交渉相手に会うどころか、妻の立場にある人が出てくる筈じゃなかったし、そんな事は思ってもみなかったんだ。大体夫側が妻側に全てを秘匿する為に認知を避けての養育費一括支払いだと聞いていた訳だしな。それが最終的な文書を取り交わす席に突然現れたんだ。場所はどこかのホテルのラウンジだったかな、君は苺の乗ったケーキを大人しく食べていたよ、可愛らしい男の子だと思ったのを覚えてる。君のご母堂はこの度は申し訳ありませんと言って俺に頭を下げてから、これはお見舞いだと言って分厚い封筒を俺の目の前に差し出して来た、慰謝料と口止め料だ。その時、俺は未来の議員の妻というものはこんな事までしないといけないのかと思って驚いたんだ、それが俺にはなんだか気の毒に思えた。だから貴方に罪や咎がある訳じゃなし、本来なら貴方だってとても傷ついたはずの立場の方なんだからこういう事はやめましょうと言って、丁重に封筒をお返しした。ただ、養育費だとか弁護士だとか妻の立場の人が出て来て、その人からの慰謝料だとかその流れがあまりにも手馴れすぎていてつい聞いてしまったんだよ、こう言った事はこれまでも何度もあったんですかって」

「悟朗さんてさあ…普段インテリジェントなジェントルマンでウチの子達にも大人気なのにどうしてそう…」

私がさっき大皿の上に置いた菜箸を取って鍋の中の蟹や豚肉の煮え具合を見ていてくれたあけみちゃんが、心底呆れた顔をして祖父にため息交じりに言った。どうしてそう他人様の心にそっと埋まる地雷をあえて探し回って掘りおこした挙句思いっきり踏みつけるような事言うのよ。

「イヤ、ちょっと気になったもんだから」

「そんなの、常習犯に決まってるでしょ。既婚者で、ちゃんとした所にお勤めでちゃんとした出自で、お金に特に困ってなくて、職業的結婚詐欺師でもない、そんな男が何でわざわざ独身だって身分詐称してその辺の女に『結婚しよう』なんて言って歩くと思うのよ。ただ遊びたいだけなら既婚者だって明かした上で不倫でも何でもすればいいのよ、それなのにそうしないのはねぇ、もうそれが病気みたいなモンだからなのよ、いつまでも純粋で少年のような自分のまま、まだ世間をよく知らないもの知らずな若い女と恋人ゴッコがしたいの、それで面倒な事になったらそこからとっとと逃げて、逃げきれずにこじれたら金銭でカタをつける。そういう贅沢な遊びなの、そんな男、結構その辺にいるわよ」

「そうなんですか、陽介さん」

「月子ちゃんもそういう事を、直接関係者に聞かないの!」

「あけみちゃんもあからさまに言いすぎだと思う」

「いえ、大体当たってます」

陽介君は相変わらず蟹の身をむしりながら、今度は少しだけ困ったような、はにかんだような顔をした。自分の父親はいくつになっても下半身が無邪気というかバカというかその手の問題を頻発させる類の人で、その謝罪と火消しの為に最終的に母が出て行く事が、特に自分が小学生の時分にはよくあったのだと言った。それはその頃丁度父が勤めていた会社を辞めて祖父の地盤を継いで選挙に出る事になっていたからだと。

「政治家ってそう言うのはある程度なら許容の範囲内だけど、かと言って大体的にかつ具体的に世間に知られちゃうとかなりヤバイからって。でも子どもまで出来たって言うのは多分、あの時が初めてで僕が知っている限りは美月ちゃんだけだと思います。それで母もその時ちょっと慌てたみたいで、僕を連れて交渉の場に出たんだと言ってました。こっちにも子どもがいるって目に見えて分かった方が良いって思ったって。だから先生の言う通り僕は陽子さんの事も美月ちゃんの存在もかなり以前から知ってました。ホテルのラウンジで苺のショートケーキを食べさせて貰った日の事も覚えてます、その時に会った男の人が目の前にいる先生だったっていうのは、今初めて知ったけど」

陽介君は祖父を『先生』と呼ぶ事にしたらしい。

「それで、どうして君は今になって陽子に会いに来たんだろう」

「うーん…どうして?どうしてだろう?なんかね先生、去年の秋頃なんですけどお父さんが凄く偉くなったらしくて、一族の悲願達成!みたいな感じ?それでおじいちゃんもおばあちゃんも一族郎党大騒ぎしてた時、お母さんが突然、何の前置きもなく出て行っちゃったんです。身の回りのほんの少しの物だけ持って朝起きたら家から居なくなってました。ひとことだけ便箋に書き置きして、それがリビングのテーブルに置いてあって」

「お母様は、何とお書きになっていたのでしょうか」

「『すべてむなしい』って」

すべてむなしい

陽介君の父で私の父でもある人は、国会議員という仕事をしているらしい。そして去年の秋に、ある省庁の大臣に任命された。それはずっと昔、一国の宰相を輩出した事もあるという一族の末にある陽介君のお家の悲願だったらしい。私はそれを聞いてなんだかとても不思議な感じがした、そんなに偉い人が自分の父なのか。それで、その偉い人である夫の立場と面子を保つ為に、糟糠の妻として選挙区と有権者の間を駆けまわって愛人の後始末までつけて来た陽介君のお母さんは、入閣の電話を受けて人事が確定し、父である人にとうとう念願の大臣の椅子が回って来て、その周囲が狂喜と狂乱に沸いている日の翌日に突然姿を消した。陽介君のお母さんという人はきっと

「くたびれちゃったんだね」

私は、ついそんな感想を言った。だってそんなの、私なら凄くしんどい。私は今のところまともに恋なんかした事はないし、どう言った経緯で陽介君のお父さんとお母さんが結婚したのかは一切知らないけれど、それが例え形だけのものだったとしても、夫として共に暮らしている男の人が自分じゃない別の女の人に気持ちをずっと向けているのに、何十年もひとつの家でその人の妻として一緒に暮らすなんて、そんな事をしていたら普通の人間ならきっと心がすり切れてしまう。

「そうかもしれない。結婚して確か今年で25年だったと思うけど、特にお父さんが選挙に出るって話になってからはもう自分がどこにも無いような生活だったと思う。お母さんにとってはアレがひとつの区切りだったのかな、それ以来お母さんとは会えてない。お父さんは、政治家としてはそれなりに優秀な人らしいんだけど、反面今あけみちゃんが言った通りの人だから、俺、中学に入った頃からお父さんとはほとんど会話した事ないんだ。それに俺は昔から勉強が全然ダメで、難しい漢字は読めないし四則計算は怪しいしとにかくバカだからあっちも呆れて俺の事見ないフリしてる感じ。だからあのだだっ広い、お父さんだけがたまに帰って来るだけの家にいても、もう仕方ないと思って俺も家から出たんだ。ここにずっといたら周りに言われて、いずれお父さんのカバン持ちとか秘書見習いとか、とにかく家から出られなくなる、だから自立しないといけないと思って。まあ自立しようとしてバイトしてる間に留年しちゃったんだけど。それで俺の家は外側だけ残して中身の一家は解散、その後お世話になってたバイト先のカレー屋さんのオーナーがお店潰して給料払ってくれないまま夜逃げして、俺が食い詰めて途方に暮れてたのが今年の夏頃」

「なんか悲惨な感じだねえ」

私はついそんな感想を言った、そういう家も大変なんだね。

「うん、まあまあ悲惨な感じだった。でもさ、その時に突然、あの時俺が8歳の時にもうすぐ生まれるって聞いてた俺の妹か弟はどうしてるのかなって思ったんだ。今中学生くらいになってるんじゃないかなって、俺の家は一家離散状態になっちゃったけど、その子は家族と上手くいってるのかな、もしかしたら俺なんかよりずっと大変な目に遭ってるんじゃないかなって」

ちょっと心配になったんだよ、陽介君はそう言った。それであのショートケーキを食べた時、ちらっと見た書類に書かれていた住所の断片的な記憶を頼りにして、特にあても無いのにその住所の最寄り駅に行ってみて、そこで母に偶然出会った。それは本当に偶然の出来事だったらしい。でも母にしたらかつて自分を騙した元婚約者にそっくりな顔の男の子が毎日歩いている駅裏の路地に青い顔をして座り込んでいたら、きっと声をかけてしまうだろう「アンタどうしたのよ」って。母はそう言う人だ、だから必然だったと言えばそうなのかもしれない。

「そうか、美月の事を心配してここまで来てくれたのか」

すももを膝に乗せて、蟹の身をほぐしていた祖父が穏やかな声で言った。

「君は優しい青年だ、そして想像力というものがある、だから自分の事を『バカだ』と卑下する事はやめた方がいいな。それに留年したって言ったってなあ、今この時代に学生が自分の食い扶持を自分で稼ぎながら学ぶのは本当に大変な事だよ。一般的に普及している奨学金は『奨学金』とは名ばかりの借金だし、賃金はここ何十年も上がっていない。それなのに学費は私立も国公立も値上げ続きで、折角勉強するために大学に入った子ども達は皆寝る間も惜しんでアルバイトに勤しんで結果、大学に来られなくなり、挙句留年して退学する始末だ。俺が学生の頃の方がその点ではずうっと楽だったよ、大学生がそう多くない時代で周囲も苦学生みたいな者に親切だったし、何しろ学費が安かった。君は、両親の庇護を離れ、自力で食い扶持と学費を稼いでみようとしたものの、それがうまく行かず生まれて初めて食い詰めて、ひもじさとか孤独なんかを目の当たりにして世の中を呪い親を呪う前に自分の会った事も無い弟か妹が今どうしているのか、自分のように食い詰めてないか、肉親の愛情に飢えていないか、それが気になった、そういう事だな」

きみはやさしい。そう言われて陽介君は少し恥ずかしそうにしていたけれど、でもそれだけじゃないんですけどねと言って、その一言に続けて

「でもそれが8割くらいの理由で、あと2割は、その、お父さんの実質浮気相手になっちゃった人である陽子さんが美人かどうか気になったんです」

そう言った。だから優しいとかじゃなくてちょっとした火事場の野次馬みたいなもんなんです。陽介君は、祖父に突然褒められて少し照れているみたいだった。

「何故、父親の愛人の美醜が陽介さんの興味の対象になるのでしょうか」

「まあ、分からなくは無いわね、アタシなら見に行くわ」

「そういうものでしょうか」

「そうなの陽介君?」

『父親の愛人の美醜が気になる』という微妙な発言を糾弾されるようにして陽介君は月子さんと私に矢継ぎ早の質問を受けた。そういうものなの?なんで?どうして?

「うーん、興味も勿論あったんだけど、あのお母さんの『すべてむなしい』の理由のひとつがそれかもしれないって思ったから…かなあ?俺のお母さんブスなんだ、イヤ俺がそう思ってるんじゃなくてさ、お母さんが自分でいつもそう言ってて、そんな事ないよって俺は言ってたんだよ、でもお父さんはその点は本気で容赦なくて、いつも『お前は不細工だ、良くてオカメだな』って言うんだ。お父さんは昔から顔だけは俳優みたいに良いんだよ、それが選挙でも盛大な追い風になってるんだと思う、最近の政治家は顔らしいから。でもお母さんは一般的に美人て言えるような顔じゃなくてどちらかというと太ってて、普通のおばさんて感じの人なんだよ、それに対してお父さんの、ここ数年半年に1回のペースで発覚してきた愛人みたいな立場の女の人達はみんなびっくりするくらい美人でさ、じゃあ昔お父さんが唯一子どもまで作ったって言う人も美人なのかなあ、それで母さんはむなしいのかもしれないって思って」

「それで、君は実際に陽子に会ってどう思った」

陽介君の話を聞いて、祖父は興味深そうに陽介君の顔を覗き込みながら自分の娘の美醜についての評価を聞いた。こういう時、自身の内なる好奇心の声に絶対に逆らわないのが祖父だ。

「何ていうか…美人なのは後から気が付きました。初めはひとりサンバカーニバルって言う印象の、全体的に原色の存在感の激しい人が遠くから大声出して突進してきたって感じだったし。それでその原色の人がアンタどうしたのよ?お腹すいてんの?学生?今から時間ある?って早口で聞きてきてびっくりして、俺が『ウン』とか『ハイ』しか言ってないのに気が付いたら、出会って30分後に陽子さんの店で山盛りのコロッケとおにぎりと豚汁ご馳走になってました。それでその後、お礼に店の手伝いしますって俺から申し出て、奥のキッチンでずっとビールついだりハイボール作ったりしてたんです。陽子さんが一般的に結構美人だって言える顔だなって思ったのはその3日後くらいかな、俺が行くとこ無いって言ったらお店のあるビルの4階が空いてるから、次の行き先が決まるまでそこにいて良いって言ってくれて、そこに寝泊まりさせてもらってたんですけど、3日目の夕方にお店で陽子さんと一緒に焼きそば食べてたんです、そしたら急に俺の顔じいっと見てからニコって笑って、こう言ったんです」

『アンタ光太郎の息子でしょ、そっくりだもん、直ぐ分かった。一体何しに来たのよ』

「陽子さんは初めから俺がどこの誰で、そして何か目的をもって自分の前に現れたんだって分かっていたんだそうです」

その時初めて正面から母の顔を凝視した陽介君は、母をきれいな人だなと思ったらしい。祖父はそれを聞いて

「そうだな、人間の美醜なんてそんなもんだ。実際、美しい造作をしている顔というものは確かに美しいが、そのように装わなければその造作が隠れて見えない事なんかいくらでもある。それに、初めは特に美しいと思っていなくても、何年も見ている間にある日突然その人の美しさに気づく事もある。歳を取ればそれはもっと顕著になるぞ、若さって言うものが褪せて消えて、自分が長年育ててきた自分自身が顔面やその末端ににじみ出てきてしまうんだから。俺が昔見た君のご母堂は、オカメでもブスでもない、きっと元々気丈で思慮深い人なんだろう、その気質から来る静かな佇まいと強さ、そういう美しさのある人だったよ。ご夫君、君のお父さんは残念ながら若干目が節穴だな」

そう言ってフフフと笑ったので、あけみちゃんも私も笑った。月子さんだけは特に笑わずに鍋の豆腐を小さくして口に運んでいた。陽介君も、お母さんに会えたら先生がそう言ってたって言っときますと嬉しそうに笑った。

「そう言えば俺、今年の夏に初めて陽子さんに会った時、陽子さんの顔と15年前に俺の家に灯油のポリタンク持参で突撃して来た月子さんの顔が似てるなんて、その時は全然思わなかったし双子だなんて全く気が付かなかったんですよ、それに月子さんがきれいだなあって15年前のあの日は全然思わなかった。でも今、俺の目の前にいる月子さんは美人ですよね、先生が今言った事ってそういう事なのかな」

「陽介ちゃん、そりゃあ、突然家に来た押し込み強盗みたいな女の顔見て、例えそれがどんな美人だろうと『お美しいですね』なんて思える人間はいないわよ」

あけみちゃんが可笑しそうにそう言うと、美人ですよねとさらりと陽介君にその化粧気の無い顔を突然褒められた月子さんは別段表情を変えずに

「私は美しくありません」

そう言った。でもそうしたら、月子さんにそっくりな双子の姉のお母さんも『美しくない』って事になるよと私が言うと、月子さんは無表情のまま少しだけ考えて

「それは違います、陽子は美しい人でした、内面に持っているものが私とは全く違います。私にとっては『他者に惜しみなくすべてを与える事の出来る人間』それが、美しい人の唯一で最大の条件です。陽子はそういう人でしたから。そういう意味では、夫である人の為に四半世紀もの間、己を棄ててひたすら努力なさった陽介さんのお母様もとても美しい方という事になると思います。不実な夫に長年沈黙したまま従うことが女性の正しい生き方だとは正直、思いませんが。それと、お話の途中で大変申し訳ないのですがそろそろ7時30分になりますので、私は就寝の準備を致します。あけみさんも、お店の方は大丈夫でしょうか」

「アラ!そうね、そろそろ込みだす時間だしお暇しないと、陽介ちゃん悟朗さん月子ちゃん美月ちゃん、ご馳走様でした。あと月子ちゃんさあアンタ今から寝るの?一体何時間寝る気なのよ」

「朝は3時の少し前に起きますので7時間という所です」

「ハァ?何でそんな真夜中に起きるのよ、朝じゃないわよそれ」

「修道院での15年間は、そういう時間枠の中で生きていたものですから。3時には朝の祈りがありましたし、私にとっては今でもその時間は黙想と祈りの時間です。そういう訳で陽介さん、先ほどからお聞きした話を総合すると貴方には今夜行くところが無いのではないかと思いますし、よろしければ今日は1階の奥の昔母が使っていた部屋にお泊りになってはいかがしょう。お父さん、美月さん構いませんか」

「そうだな、そうしなさい、路頭に迷っている若者をこの寒空に放り出す訳にはいかん、君の洗濯物もまだ乾いていないしな。美月、ここ俺が片付けておくから、陽介君と納戸からお客さん用の布団、運んできなさい」

「おじいちゃん、奥の洋室って、おばあちゃんのピアノがバーンと真ん中にあるし、あと最近はおじいちゃんの本だらけで畳1畳分くらいしか隙間ないよ」

「人間は起きて半畳寝て一畳、なに大丈夫だ」

「陽介君、そんな所でも大丈夫?」

陽介君は、えっ?あっ?ウンだいじょうぶだと思うと言ってかなり驚いている様子だった。ウチでは、おじいちゃんの元教え子とか、お母さんが『今日友達になった』人とか、その日にウチにきた人が突然ウチに長逗留するという事が昔から普通によくあって、それは祖母が生きていた頃からの我が家の伝統なんだよ、みんな慣れているのと私が言うと、陽介君は口をもぐもぐさせながら、でもいいのかなあとつぶやいて、それでも奥の納戸に布団を取りに行く私の後ろをすももと一緒についてきた。

「また明日、話をしよう、朝はゆっくり起きておいで」

祖父はそう言い、私は祖父の部屋の、昔は祖母のピアノ教室として使われていた洋室に、兄である人の今日の宿を設えた。陽介君は、私が絨毯の上に布団を敷いて、その布団にシーツを掛けている間に歯を磨きに行ったはずなのに、先生がビールくれたよと言いながら缶ビールと柿の種とすももを抱えて部屋に戻って来て、それでもまだ

「いいのかなあ、この家の関係者の人達ってみんな俺に対して恐ろしい程親切なんだけど、俺のお父さんて、この家にとっては宿敵みたいなモンだったんじゃなかったっけ、それにもし俺が変質者とかだったらどうするのかなあ」

そんな風に言ってこの『父の元愛人の実家に宿泊する』という不測の事態に戸惑っていたので

「陽介君、変質者なの?」

私は自分を自ら変質者だと名乗る変質者はあまりいないと思うよ、違う?と聞いてみた。それに逆に私達一家が猟奇殺人犯で陽介君が夜中に襲われたりするのかもしれないじゃんと陽介君に言った、そういう怖い話とか映画とかよくあるよね、勿論冗談だけど。

「そうか、やばいね」

「そうだよ、やばいよ」

私達は笑い、そしてこの、母と自分達にまつわる出来事を少しだけ2人で一緒に反芻した。私は陽介君に、母が死んでしまってからとにかくおかしなことが沢山起こるんだよという話をした。私は普段人と直ぐに打ち解ける事が出来ない性格なのだけれど、兄だと自ら名乗ってくれたこの人にはとても気安く話をする事が出来た。私が、3週間前の母の葬儀の日に叔母である月子さんが突然家に帰って来て、その月子さんがその昔、母と私の為に父である人を灯油とライターを持って脅していた事が発覚し、今日は当時その現場に居合わせた陽介君が私の兄だと自ら名乗り蟹を持ってお店の前に現れて、父は陽介君曰く『下半身がやんちゃでバカな』国会議員だと言う。だからこの後は私の周りで一体何が起きるんだろうなって思っていると言ったら、私の話を静かに聞いていた陽介君は

「人間って死んでしまったら死んだ本人の体も、その周辺にあったものも何もかもが消えて無くなるだけなんだと思ってたんだけど、全然そんなこと無いんだね。消えて無くなるのはその人の体だけで本当はいろんなものが消えずに残るんだ、陽子さんなんか本人の写しみたいな月子さんがいるから、面影さえ、ある意味無くしてないし」

腕組みして、私に少しだけ難しそうな顔をして見せた。

「陽子さんはお店とか蟹とか美月ちゃんとか月子さんとか先生とか、いろんなものを記号や暗号みたいにして俺にも残したんだ。そういうの、俺もまだまだ沢山出てくるような気がするな」

だってあの陽子さんだよ。陽介君はそう言って、それから

「なんかさ、さっきご飯食べてる時にさ、俺と、実感ないかもしれないけど美月ちゃんのお父さんの事、結構ろくでもない人間みたいに言っちゃったけど大丈夫?まあ、事実なんだけど」

そう聞いてきたから私は、元々死んだ母から散々碌でもない男だって聞いてきたからそこは大丈夫なんだけど、と前置きしてから

「陽介君のお母さんには、凄く申し訳ないなって思った、私が存在している事自体が」

そう言って陽介君の事を見た。そうしたら、それは美月ちゃんが気にするような事じゃないよ、全然違うよ。そう言って陽介君は少しだけ困った顔をした。

☞4

「俺ね、昨日先生と話してからずっと考えてたんですけど、あの、結婚て一体何なんすかね」

翌朝、私が起きると、もともと異様に早起きの月子さんは既に起きていて、あの日の、母のお葬式の日のような空気の乾燥した冬の青空の下で、昨日祖父が洗った陽介君の大量の洗濯物を庭に全部干していた。そして月子さんの次に早起きしたと言う陽介君は昨日の鍋の出汁の残りで雑炊を作ってくれていた。祖父は台所に立つ陽介君の手際の良さを見てしきりに感心し

「君は、ああいうお宅のご子息で、この手の事は何も出来ないのかと思っていたが、台所仕事が出来るんだな、なかなか立派なもんだ」

そんな風に言って陽介君の事を褒めた。陽介君は、祖父母は近くに住んではいたけど同じ家には住んでいなかったし、小学生の頃から母親も含めて自分以外の家族は選挙とか有権者との集いとかの事で皆留守がちだったから、早くから自分の事は自分で出来るようになりなさいと母親に躾けられて、料理なんかも小さいころから割と自分でやっていたのだと言った。そういう点では、同じ一人っ子という境遇で育ってはいても、私の方が祖父と母と近所の人達に散々甘やかされて育っていて、家の事は掃除くらいしか出来ないちょっと不出来な子どもだ、料理なんかほとんど出来ない。

陽介君が結婚とは一体何なのかと言い出したのは、人間4人と猫1匹の全員が揃った朝食の席で、その問いを受けた祖父は、昨日あらかた食べつくされた蟹の身がすこしだけ漂っている雑炊を口に運びながら、

「うん?俺は昨日、結婚について何か講義していたか?」

と言って少し首を傾げると横から月子さんが口を挟んだ。

「それは、お母様が『すべてむなしい』と一言書置きをしてご自宅を出ていかれた事についてでしょう」

昨日の晩、すももが布団の上に乗って来たのをそのままじっとして好きにさせていたらすっかり懐かれたらしい陽介君が、1杯目の雑炊をふうふう言いながら3口で口に全部放り込み、すももを膝に乗せた状態で土鍋から2杯目の雑炊を自分でよそってから、首をせわしなく縦に振った。

「あのね、俺の両親て、お見合いみたいなので結婚してるんですよね。何せああいう家なんで、結婚なんて将来選挙を共に戦う人間のキャスティングみたいなもんだから。妻っていう人間にあの手の家が求めるのは、好みとか顔とか愛とかそういうんじゃなくて、まずは頭が切れて地味で辛抱強そうでとにかく頑丈な人間、それと選挙の時にそれなりに資金も出せる、そういう実家がついてる人だったっていうのは俺でも何となくわかるんです。お母さんの実家はちょっとした事業やってて、元々は長野の田舎の方の出なんですけどそっちにも結構な広さの山林とか土地を持ってるんです。それでお母さんはおじいちゃんとおばあちゃんの厳しい人選を通過してお父さんと結婚したんですよ。でもね、どういう縁でも一応は双方の合意があって結婚して、お互い毎日毎日顔合わせてるのに妻の顔見ては『ブス』って言い続ける夫が、他の女の人と浮気しまくってそれでも実家と妻の後押しを受けて着々と出世してって、お母さんは何が嬉しくてお父さんと25年も一緒にいたのかなあ、確かにお金には困らずに暮らせてたけどそれって幸せだったのかなあって、今更だけどそう思ったんです。先生、結婚て何なんすかね、お母さんは何で25年も我慢できたんでしょうね」

陽介君は腕組みをして殊更難しい顔をして祖父にそう聞いた。

「それはまあ、一人息子である君を何不自由なく育ててやりたいという気持ちがまずあった。そこだろうが、それ以外にも夫婦の関係や愛情の形というものにはそれぞれ色々なものがあるからな。双方の家同士の事情もあって、本人の性格がやたらと辛抱強いとかそういう事もあるだろう。その辺の、女の人の心の機微みたいなモノは俺の専門外も甚だしい、俺には何とも分からないなあ」

「そうだよ陽介君、おじいちゃんはね、おばあちゃんに一目惚れして、それで大恋愛の末に元は超お嬢様だったおばあちゃんと駆け落ちして結婚したんだよ、それでおばあちゃんが死んでからもずっと独身のまま、今日までずっとおばあちゃん一筋なんだから、私達のお父さんとは全然違う種類の男の人なんだよ」

私は、一晩で遠慮という感情を捨てたらしい陽介君が丼一杯の雑炊の2杯目にとりかかるのを見ながらそう言った。祖父と祖母の結婚の経緯は、祖父から詳細に語ってもらった事はないけれど、生前母が私によく話してくれていた。あたし、おばあちゃんから耳にタコが出来る位聞かされたのよ『あの』お父さん、アンタのおじいちゃんがいかに素敵だったかっていう話をさあ。

「それは、母から陽子へ、陽子から美月さんへと話が伝聞されている間に若干事実が拡大して歪曲されている気がします。父と母は一応お見合いのような形で出会っている筈です」

月子さんが雑炊を食べている手を止めて、私達の会話に入って来た。母は父をそれこそ盲目的に愛していましたので、そのあたりの事実が全て真実、史実のようなものと合致しているとは言い難いのですがと。

「えっ?そうなの?」

「はい、私が記憶している話では。父と母は双方の親戚の手配したお見合いが初めての出会いだった筈です。ただ母は父より7歳年上で、その当時男性に対して女性の年齢が10歳近く年上である縁組というのは女性側に少々事情のある場合が多かったのですけれど、私立高校の臨時講師でまだ大学院の博士課程の学生でもあった父はそれを全く気に留めることなく、と言うよりお世話になっている方に進められるまま、忙しさにかまけて釣書も写真も碌に見ないで見合いの席に臨み、当日になって初めて見た母をとても気に入ったという事でした。でも母はその縁談をその場で自分から父に直接断っている筈です。自分は結婚など望まないと。当時母はピアノ教室の教師をしていましたので、子ども達を相手にピアノ教師をしながら1人で静かに暮らしたいと言って、両親にもそう伝えていたのだと、私はそのように聞いています」

「そうなの?おばあちゃんは、おじいちゃんの何が嫌だったのかなあ?貧乏だったから?年下すぎるから?見た目が好きじゃなかったとか?でもおじいちゃんて昔は結構ハンサムだったよね」

祖父は昔から、あまり自分の身なりや見た目に凝るような人ではないけれど若い頃はとても端正な顔立ちをしていて、それは母と月子さん姉妹にそのまま遺伝していた。それに祖父はそれなりに老いた今でも背がすらりと高くて、三つ揃えの背広を着こなすその姿はちょっと往年の俳優のようだし、少し前まで大学で教えていた頃には、祖母の仕込んだ紳士的な立ち居振る舞いも手伝って結構女子学生に人気があったらしい。

「いえ、そういう事ではありません、父が当時経済的に豊かでなかったという事はこの場合全く問題ではありませんでした。何しろ母の実家は資産家であり当時は大変に裕福でしたし、母は持参金付きの花嫁でした。父には母と縁組が整えば直近では留学の為の資金であるとか、先は大学の講師職であるとか、そういった厚遇が用意されていたと聞いています。母が生涯独身を貫きたいと思っていたのはそれとは全く別の理由です」

「じゃあ何?」

「あと、その月子さんと陽子さんのお母さんて、美人だったんですか」

陽介君も私の質問に続けてこんなことを聞いてきた。夫である人に『ブス』と言われ続けた人の息子である陽介君は、二夫ならぬ『二婦に見えず』を地でいく祖父の最愛の妻がどんな容姿のどんな人だったのかを知りたいと言った。そうしたら、全員分のお茶を急須で慎重に均等になるように淹れていた祖父が少しはにかみながらこう答えてくれた。

「お母さん、俺の妻な、いづみさんと言うんだが、いづみさんには生まれつきなのか何なのか俺はついぞ聞かなかったが傷みたいなものがあったんだよ、それは子どもの頃に手術を何回かして直しているんだが、まあ何しろ昔だから今ほど綺麗には出来なくて、本人もそれをとても気にしていた。昔、俺が若かった頃はそういうものが結婚、と言うよりこの場合は家同士の縁組だな、そういうものの障りになる時代だったんだよ。それでいづみさんは俺と見合いをする以前に散々縁談を断られていた、当時いづみさんはもう30歳をいくつか過ぎていたからあの時代の感覚で言うとかなりの晩婚だ。いづみさんの両親はそろそろ観念していづみさんを手元に置いておこうと思っていたらしいが、いづみさんはね、あの時代には珍しく帰国子女で英語とドイツ語が少し出来たんだ。それで、俺の遠縁にあたる人が間に立って、身内に学者を目指してる若いのがいてそちらのお嬢さんと同じようにほんの少しの期間だが外国で学んだことがあるらしい、それなら語学の出来る嫁さんがいいのじゃないか、しかもそいつはちょっと変り者で縁談に口を出しくるような親はもう鬼籍に入っていないし、金にも困ってる。そいつにとっても渡りに船かもしれん。それで一度引き合わせてみたらどうだろうという話になったんだよ。資産家の1人娘であの時代に私費留学までさせて掌中の珠の如くに育てられたいづみさんとは何一つ釣り合う所の無い学者もどきの若造との縁談、まさに背水の陣だ、いづみさんからしたら失礼な話だよ」

「でも、おじいちゃんは、おばあちゃんが好きになったんだ」

「まあそういう事だ。でもさっき月子も言ったが、初めていづみさんに会った見合いの席で、いづみさんは付き添いの親と親戚、とにかくうるさい連中が席を立った瞬間に手元の桜湯に手もつけずに、この縁談はお断りしたいと思っていますと言ったんだよ。『貴方のような前途ある若い方に私は相応しくありませんし、貴方みたいに素敵な方はいくらでも良い方と巡り会えます』って。取りつく島も無いとはあの事だ。それなのにその言葉に続けて、次にいづみさんは俺になんて言ったと思う」

祖父は自分で淹れたお番茶を一口飲んでから、陽介君を見て少し笑いながら聞いた。

「謝った…ですかね。お見合いその場で断るって、気まずいでしょやっぱり」

「それがなあ『ところで貴方とてもお痩せになっているけれど、ちゃんと召し上がっていらっしゃる?』って言ったんだよ。それでおもむろに立ち上がると俺の背広の袖をホラホラ早くって引っ張って、アレは何だったかなあ、立派な黒板塀に囲まれた古い料亭を出て、そのまま近くの普通の蕎麦屋に入ってかつ丼をふたつ頼んだんだ。それでそこの店の親父さんが運んで来た蓋から中身がはみ出すぐらい威勢のいい大盛のかつ丼に先に箸をつけて『私、とてもお腹がすいていたんです、よろしかったら貴方もお付き合いくださいね』って、加賀友禅だったかな、桜色の訪問着姿でそれを食べ始めたんだよ。俺はあの頃高校の講師をしながらまだ博士論文を書いていたから毎日時間も金もなくて、当日も確かに空腹だった。いづみさんはそういう事に物凄く勘が働くんだ、相手が何に困っていて何を求めているのかが自然と分かる人だった。あの時のかつ丼は、7つも年下の学生と教師を兼業しているらしい男がお腹を空かせていると思ってついやってしまった事なんだと、それはずっと後から本人に聞いたよ。でも俺は未だかつてあんなに相手に与える事に躊躇と、それによってどうしても生まれてしまう相手に対する奢りというか力関係みたいなものを生み出さない人を見た事が無かったんだ。分かるかなあ、下々への施しじゃあないんだよ。それで俺もかつ丼に箸をつけて、うまいですねって言ったら、いづみさんはそうでしょうって言って笑ったんだ。それで、結婚した」

「おじいちゃん、最後物凄く端折ったね」

「先生、そこが一番肝心なとこじゃないですか」

いやもう、いいじゃないかこの話は、そう言って祖父は笑ったけれど、私と陽介君はなんだか納得できなくて、今度は月子さんに聞いてみた、月子さんはこのお見合いの日から結婚に至る迄の経緯みたいなものを知ってるのと。

「私が知っているのは生前母が私と陽子に自分から語っていた事です。多少脚色がされているかもしれません」

その人にとっての大切な思い出は殊更美化されるものですから、月子さんはそう言ったけど、全然構わないしむしろ私は祖母にとっての祖父との思い出の断片みたいなものを聞きたいと言った。祖母ってそんなに面白い人だったのか、苦労知らずの超お嬢様でピアノが得意で人に闇雲に親切で、とにかくそういう人だとばかり思っていた。

「母は父が大盛のかつ丼を食べている時に突然『先ほど、自分は縁談を断られたと記憶してはいるが、それを今この場で考え直していただけないか、貴方を逃すと自分にはもう貴方のような人を生涯で二度と見つけられないと思うので』と言い出して、母は驚いてお米を喉に詰まらせたそうです。それでこの若い人は一体何を言っているのかと、母は普段子どもにピアノを教えていましたから、今度は小さな子どもにバイエルを教えている時のように父を懇々と諭したそうです『いいですか、私のような者との縁談を承服したとなると、貴方はお金や職位欲しさに自分を売った、お金に釣られて妻を娶った人間だと後々まで言われることになるんですよ。それに貴方はとりわけ優秀な方だと父から聞いています、それならあと数年辛抱すればちゃんと学位をお取りになって、思うような研究が出来る立場を得る事が出来る筈です、何もこんな』」

そこまで言ってから月子さんは少しだけ黙って考え込んでしまった、そうしたら祖父がそのまま月子さんに続けて

「『醜い人間と一緒になる必要はないんですよ』とこう言ったんだ。俺はこの人は何を言っているんだろうと思って、一体誰が醜い人間なのかと聞き直した。そしたら貴方の目の前の自分の事だと、顔に傷があってその痕が醜く残って見えるだろうって、だから俺は『貴方は自分にはとても美しい方に見えるが』って言ったんだ。そしたら今度は怒りだした。今まで自分はこの傷や姿かたちが美しくないと散々世間様に言われて実際縁談も今日までずっと断られてきたんだからって、何をどう努力してもこの傷で他の色々な事もダメになって来たんだって。それで俺は言い返してやったんだ『自分は学術の徒として世間よりも何なら神仏よりも自身の主観というものを信じている、皆がそう言っているからなんて言う世間の視座というものを徹底的に疑って生きているんだ、俺が美しいと感じたものは美しい、だからそう言った。俺がかつ丼を食べている貴方を美しいと思ったんだからそれでいいんだ、それを何故貴方が怒るんだ』って。そうしたら、泣かれた」

祖父は、その後食べかけのかつ丼を目の前に置いて子どものように泣き出した祖母に泣き止んでもらうのに大汗をかいたと言って笑っていた。その日は勝手に料亭から抜け出した2人を探して祖母の家から迎えが来て、そのおかしな昼餐はお開きになったけれど、祖父はそれから仕事の帰り、研究室に通う途中、時間を見つけては祖母の家に立ち寄って

「考え直して欲しい」

と祖母に言い続けたらしい。陽介君は

「先生、それ一歩間違えたらストーカーですよ」

と真顔で言ったけれど、祖父は

「イヤ、でも行ったら行ったで、屋敷の中には入れて貰えたし何だかんだとご馳走してくれるもんだから、心底嫌がられている訳じゃないとは思っていたんだ、と言うより通いの野良猫みたいに思われていたフシがあるな。いづみさんの家にいたお手伝いさんみたいな人は俺の事を『深草少将』って呼んで面白がっていたし、まあその人にも珍獣の類だと思われていたのかもしれないな。深草少将って言うのは、昔々小野小町から自分の所に100日通えと言われてその通りにした男のことだよ。それで俺が毎回、いづみさんの事を俺の主観では美しいと思うと言い続けるのを聞いて、ある時あちらの両親が、君はそれを本気で言っているのかと聞いてきた。だから自分は本気だ、じゃああなた方は自分の娘をそう思えないのかと逆に聞いたんだ。そうしたら押し黙ってしまって、少ししてからあちらのお父さんが、自分の娘とは言え一般的には美しいとは言えないだろう、何しろこの傷だと、そう言ったんだ。当の本人の目の前でだぞ。それで俺は、ここにいづみさんが暮らし続けるのは彼女の精神衛生上物凄く悪い事なんじゃないだろうかと思って、その場でいづみさんに今日このままウチに来ませんかって言ったんだ、この屋敷と比較したら犬小屋程度の家だがそれでも部屋なら余ってるからって」

祖父は、顔の傷の事以外は何もかもに恵まれて育った祖母が、何故人の心の機微にあれほど敏感で、与える事に躊躇なく、それなのにあんなに謙遜でいられるのか、この時初めて分かったんだと言った。親に憐れまれて育つというのはなかなか堪らない事だぞ、憐れみというのは蔑みにとてもよく似た感情なんだ。それを知っている人間は他人に決して同じ眼差しを向けないものだ。それで、俺が『家に来ませんか』と言った時、いづみさんは暫く黙っていたが、立ち上がってそっと俺の手を取った、だからそのまま連れて帰ったんだと祖父は言った。

「先生、それ一歩間違えたら誘拐ですよ」

「いえ、母はそれを『駆け落ち』だと表現していました。自分の両親はいつも自分に望むものを何でも与えてくれたけれど、その理由が自分への愛情ではなく憐憫の情だといつの頃からか理解していてずっと苦しかったのだと、それであの日、この家から出ようと言った父の手を思わず取ったのだと言っていました。母は若かった父の向こう見ずな言葉と態度がとても嬉しかったのだそうです」

さっきは多分、祖母の事を本人がそう言ったとは言え『醜い』と言いたくなかった、自分は自分が思っていない事は一切口にしたくない、それで黙ってしまったのだと月子さんが言って、祖母の駆け落ちの日の気持ちを私達に教えてくれた。そして祖父の一途過ぎる祖母への感情は、たちまち祖母を物凄く朗らかな性格に変貌させ、同時に相手に与える事に躊躇しない性質に拍車をかけた。結婚にあたって、身の回りのものを、舶来のピアノも含めて全て実家から山盛り持ち込んだ祖母はその後、祖父も賛同しているからと実家からの援助やその手のものを全て断わって、そのくせ、よそ様がお金に困っていると聞くと結婚の際に持参して来た着物や装飾品の類を質屋に抱えて行ってはお金に換え、返って来るアテもないのにそれをそっくりそのまま人に渡し、そうやって最後に残ったのは今も家にあるピアノだけだったと祖父は笑った。そして本当はもっともっと長生きしてほしかったんだが、50歳を前に亡くなる直前、自分は結婚してからはとても幸せな人生を送れたと言ってくれたのだと、そう言った。

「結婚がそういうモンだったら、ウチのお母さんも幸せだったんですかね」

陽介君が食卓に頬杖をついてしみじみとそんな事を言うので、私も昨日から考えていたことを陽介君に聞いてみた。

「そうだ、あのね、陽介君はお母さんに連絡してるの?『すべてむなしい』って書き置きしてお母さんがいなくなったのって、去年の秋なんだよね、それでそれ以来会えていないって、その後、連絡とかは?誰かに心配して探しに来て欲しいから一言『辛かった』みたいな事、書いて出て行ったんじゃないの」

「あれってそう言う意味?」

「そういう意味だよ!」

「イヤ、長野の実家にいるらしいことはお父さんの秘書の人から聞いてて、無事なのは無事らしいし、なんかお母さんて屈強っていうか、怖いって言うか、他殺はしても自殺はしないタイプというか、元々お父さんと碌に会話もない俺が家出してることについてはともかく、留年した事知られたら怒られる事必至って言うか」

陽介君は頭を掻いた、実は携帯止まってる時期もあったし、その後は北海道だし、それどころじゃないと思ってる間に時間があっという間に過ぎたもんだからと言いながら。

「でもお母さんは25年かけてじわじわ完膚なきまで傷ついたんじゃないかって陽介君は思って、昨日一晩結婚について考えたんでしょ、お母さんの25年間は不幸だったんじゃないかって、陽介君のお母さんの不幸の最大の原因の筈の私が言うのも、なんかおかしいんだけど。それで更に息子から心配してますの一言もなかったら更に不幸に拍車がかかるよ、これも、私が言うのはなんかおかしいんだけど」

「そうか、やばいね」

「そうだよ、やばいよ」

陽介君は、手元の携帯を手に取ると

「待って、それよりもっとヤバイ事が。時間。俺今日はイベントの撤収の単発のバイトがあったんだ、日払いのヤツ。先生すみません、俺バイト行ってから今日またここに戻ってきていいですか」

そう言って慌てて立ち上がったので、月子さんが、陽介さんのジャージのようなものは先に乾かしてありますから多分乾いていると思いますし、それを着て行かないと、今貴方が着ているそれはお父さんの寝間着ですと言って庭に干してある着替えを取りに席を立った。

「月子さんすみません。あの、それで先生俺18時すぎには帰って来ると思います。美月ちゃん、俺駅前の屋台のたい焼き、バイト代で帰りに買って来てあげるから、陽子さんが前に美月ちゃんがアレが好きだって言ってたからさ、それで休み時間にお母さんにもちゃんと電話してみるから」

「本当?じゃあカスタードのやつが良い」

私はいつも祖父がその存在を忘れて買って来てくれないカスタードクリームのたい焼きを陽介君に頼んだ。私達はたった一晩でどうしてだか15年前から兄と妹だったみたいな言葉を交わすようになっていた。血縁て、そういうものなんだろうか。陽介君は部屋を出て行って、その後ろをすももが追いかけて行き、そして陽介君が3秒くらいで服を着替えて玄関に走っていく背中に向かって祖父は

「ここに暫く居てもらうのは全く構わないよ。陽介君の分の夕飯は作っておくからな、気を付けて行って来なさい」

そう言って自分の孫を送り出すみたいに声をかけて、陽介君はまるで私とずっと一緒にここで育った祖父の孫みたいな口調でいってきます!と元気に叫んで出て行った。



そして、その日、朝の予告通りに駅前の商店街のたい焼き屋さんの紙袋をぶら下げて帰って来た陽介君は、玄関に出てきた私とすももを見て一言

「俺今日、人生史上一番怒られたと思う、お母さんに」

そう言って力なく笑った。

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