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短編小説:スライムきょうだい

みんなが布団部屋とか魔窟とか呼んでいる3畳ほどの広さの納戸に2人が入ったところを見計らって扉を閉め、かちりと手早くカギを掛けて中に閉じ込めてしまったのはナナだった。

「ねねね、なんか納戸に何かいるみたい、この前ベランダからうちに入ってきてた猫かもしれへん」
「まじか、あのキジトラ?どこどこどこ?」
「ネコチャン?だいすき、みたーい!」

まえに、お隣からベランダ伝いでこの家に侵入してきた猫がいるかもしれないよ。

ナナの言葉に、ナナの兄のケンケンと、妹であるリリは6年前の家族旅行でたった1回使ったきりのバーベキューコンロとか貰い物の防災セットとか地震の時にパパが大量に買ってきたミネラルウォーターとカップ麺なんかが所狭しと積まれている納戸に飛び込んだ、その2人の背中を確認してナナは納戸の扉を閉めた。

ナナとケンケンとリリ、3人が両親と暮らしている自宅は築45年のUR賃貸住宅で、とにかくなにもかもが全て古い。お風呂はカチカチ音のするボイラー式で追い炊きができないし、トイレはタイルがひどくくすんだ灰色で換気用の小窓には刑務所みたいな鉄格子がはまっている、子どもが3人もいるのに居室は居間と食堂を兼ねた8畳間を入れても3部屋だけだ。中3のケンケンが6畳の部屋を自分の部屋にして、ナナとリリはふたりでもうひとつの6畳の部屋を使っている。ナナは小学6年生でリリは幼稚園の年長さんだ、今小学校入学に向けて平仮名の練習をしているリリはナナが学校の宿題をしていると平仮名の『な』とか『は』が大きく書かれているひらがなドリルを持ってきては「ねーこれなんて読むの?」といちいち聞いてくる。

「ママ、もうあとひと部屋あるお家に引っ越そうよ、あたしもひとり部屋がいい、だいたいウチって5人家族やのに3DKって、ちょっと狭すぎやと思うねん」
「えー、でもそこの納戸もお部屋にカウントしたら、うちは4DKやんか」
「納戸なんかいま荷物でパンパンやん、あんなんお部屋ちゃうもん」
「でも綺麗に片付けたら割と広いのやで、ウチの幻のあとひと部屋」

そんな幻のお部屋であるところの納戸には、小学校のトイレの個室にあるような掛け金式の鍵がなぜだか外側に取り付けられている、一体何を目的にして取付られたのか、ナナにもケンケンにも、もちろんリリにもよくわからないこの鍵は、どうやら前の住人が勝手に取り付けてそのままにしていったものらしい。

その掛け金を使ってナナが兄と妹を納戸に閉じ込めた直後、ふたりは自分達をだまし討ちにしたナナへの怒りの咆哮を上げていた、でもしばらく経つと妙にシンとして、ケンケンとリリの声も息遣いも、微かな物音も聞こえなくなってしまった。

心配になったナナが納戸の扉をそっと開くと、ケンケンとリリはドロドロとしたゲル状になっていた。その姿はついこの前、ママとナナとリリの3人で出かけた駅前のダイソーでリリが「アレがほしいんやもんッ!買ってよーッ!」とお店の床にひっくり返って暴れてママに買わせた、赤と黄色のスライムにそっくりだった。

「ケンケン?リリ?」

手足も目鼻もすべてどろりとしたなにかに包まれてそれとまったく同化してしまっているらしいナナの兄と妹は、ナナが呼びかけるとそれに反応したのか納戸のドアの隙間からずるずると這い出して徐々に廊下にはみ出してゆき、長い月日を経てすっかり日焼けしてささくれ立っている廊下の床板にゆっくりと沁み込んでいく。

「大変、ケンケンとリリが乾いて消えちゃう」

ナナは慌てて赤と黄色のゲル状の液体になった2人を両手で掬い上げようとしたけれど、それは砂に水が沁み込むようにするさらと吸収速度を増して床板に吸い込まれ、床板の上に鮮やかな赤と黄色だけを残して、まるでもともと何もなかったようにして消えてしまった。

「どうしよう…」

午後の光が廊下に舞う埃をきらきらと照らす廊下の隅でナナは途方に暮れた。でもどうしようもない、消えてしまったものはもう戻らない、多分。



ナナの通っているしのやま台小学校でインフルエンザが猛威をふるい始めたのは、風の冷たい2月の上旬のことだった。

まず1年1組の学級閉鎖が朝に確定になり、次いで4年1組が午後にひとりが早退して学級閉鎖が決定し、建て増しと改築をくり返してまるで迷路のような不思議な構造になった校舎の1階と2階にあるふたつの教室が、子ども達の机だけを残してすっかり空になった。

それが火曜日のことで、6時間目を終えたナナがランドセルをガチャガチャ言わせて日向の匂いのする外階段を駆け上がって帰宅したのとほぼ同時に、1年1組と4年1組、ふたつのクラスの学級閉鎖を学校からの『緊急お知らせメール』で知ったナナのママは深いため息をついた。

「みんなマスクももうあんまりつけてへんしね…ナナちゃん知ってる?そこの中谷小児科医院な、今ぜんぜん予約が取れへんねんで、ネット予約が予約開始の朝7時1分で30番まで埋まるってちょっとやばいと思わへん?」

数年前、どこからともなくやってきた感染症が豪雨の前の黒雲のようにすっぽりとひとびとの生活を覆っている間、ずっと子ども達をそれから守ろうと奮闘し続けてきたナナのママは、コロナの大流行の間にナリをひそめていたインフルエンザが年明けから猛然とその存在を世界に誇示しはじめたことに心底うんざりしているようだった。

それは、ナナの妹のリリが産まれつきの心臓病で、そのせいでインフルエンザも肺炎もそれに罹患するとたちどころに悪化して大変なことになってしまうからだ。リリはインフルエンザや肺炎どころか、よくある普通の風邪でさえ病院の先生から

「なるべくひかせないでほしい」

と言われている。でも子どもを成人させるまで、ただの一度も風邪をひかせないで育てるなんてことは、その子を病院のクリーンルームから一歩も出さずに育てでもしない限り、とても難しい、というより不可能だ。

それでもママは家族5人が暮らしている古くて狭いUR賃貸の中にインフルエンザもコロナも、リリの命を脅かすウイルスをなにひとつ持ち込ませまいとリリが産まれてから今日まで6年間、真冬でも窓を開け離して換気を怠らず、手がひび割れて血がでるほど日に何度も手を洗い、真夏でも外出時はマスクを欠かさず着用し、誰かが帰って来るたびに家中のドアノブをせっせと消毒しながら暮らしてきた。人ごみを避けるために旅行もしないし、リリが産まれる前は年に2回、春と夏に遊びに行っていた鯖江のおばあちゃんの家にもずっと行ってない。ケンケンなんてそんなママのことを、

「ママは、アレやな、ちょっと気が狂っとる」

なんて言って笑うけれど、ママの狂気じみたウイルス対策のお影か、この数年ナナの家に学校や巷で流行している感染症が入り込むことは殆ど無かった。ママはここ数年、ずっと子どもの体調にも目を光らせ続けていた。

だからナナの通っているしのやま台小学校の1年1組、4年1組に続いて「6年2組と3年3組が学級閉鎖になりました」とメールが送られてきた木曜日の朝、普段から酷く寝起きの悪いナナがお布団からのっそり這い出して来た時の動きがいつもの倍は緩慢で、その上食卓についても普段の活気がひとつも感じられず、食の細い妹のリリが残した分も「あたしが食べるよ!」と言って食べてしまう大好物のフレンチトーストを

「あたし、いらない…」

そう言って自分用の水色のお皿を指ではじくように机の端に寄せた時、ママは体温計なんか持ち出さなくてもナナに熱があるとすぐに分かった。

そうなるとぼんやりとはしていられない、ママはスマホを手に取ると、6年生にしては小柄でその分体重も軽いナナを横抱きにして近所の中谷小児科医院に走って向った。普段その体に見合わず食欲旺盛なナナが食事を拒否するのは高熱の時に限られるからだ。

ママはナナを抱えて中谷小児科医院に駆けこんだ。呑気そうなキリンのイラストが扉に描かれた診察室の中、待ち構えていた看護師さんはナナの鼻の奥に検査用の細い綿棒を突っ込んだ。「痛くないよー」と言って迫って来る看護師を目の前にして、ナナは抵抗する元気も気力も残っていないようだった。

「インフルエンザB型だって…」
「ごめんね、ママ」
「別にナナが謝ることと違うやん…あ、ゼリーとかは、あとで買ってくるしね、ナナ大丈夫?」
「しんどい…」
「やろうなァ、お熱が39度もあるのやもん、ホラ早よ帰ろ」

ママはナナを気遣いながら、それでも少し落胆したような、困ったような、なにやら難しい顔をしていた。

それは、ナナのインフルエンザ罹患が判ったのが木曜日で、その翌日の金曜日がリリの1泊での検査入院の予定だったからだ。リリの受ける検査は本来一泊なんてしなくていい本当に簡単な検査だったけれど、リリは産まれて即、自分のことを取り上げてくれた助産師さんをその拳で殴りつけたという逸話を持つ乱暴者であり、そのくせすこし前に6歳になってからは新しいことに対して妙に怖がりで、それなのに生来頑固なとても性格をしていて、だからひとたび採血とか予防接種とか、そういう嫌なことが目の前にあると梃でも動かなくなってしまう子だった。

そこでもし無理に腕を引っ張って診察室につれて行こうなどしようものなら、リリは泣いてその辺にある柱でも観葉植物でも何なら姉であるナナの髪の毛でもとにかく掴めるものはなんでも掴んで

「ヤダーッ!絶対イヤーッ!」

なんて、まるで野犬のようにぎゃんぎゃん吠えて暴れてそれは大変なことになる。だからちょっと持病のことでCTを撮るとか、血液検査をするとか、6歳ならそろそろひとりでも頑張れそうなこともすべてママが付き添って、場合によっては入院しないとけないのだった。

我儘で怖がりで甘えん坊の末っ子のリリはいつもママと一緒で、その姉と兄のナナとケンケンはいつも留守番だ、リリが0歳の時から6歳の今日までずっと。

そして更にまずいことにこの時、ナナの3つ上の兄であるケンケンの高校入試が土曜日に迫っていた。ただでさえ今回のリリの入院が決まった時

「ああ、ケンケンの入試の日のお弁当どうしよう、明け方家に戻って来て作るしかないかなァ…」

なんて頭を抱えていたママは、熱でフラフラしているナナをおんぶして帰宅した後、疲れのせいか落胆のためかスライムのようにテーブルの上にぐんにゃりと倒れ込んでしまった。

「ケンケンの高校入試の前日にリリの入院と、ナナのインフルエンザが被るてなんやろな、アレかな、大殺界?」
「なにそれ…」
「ママもよう知らんねんけど、なんかの占いの、あんまりよくないヤツらしいねん」
「フーン」
「まあママの大殺界はいいから、ナナはホラ、パジャマ着て寝ておきなさい、ケンケンが今日は早く帰って来るし」
「ケンケン、明後日受験やもんね…」

高校入試を直前に控えたナナの兄、ケンケンは産まれた時から癇癪持ちで何をするのもさせるのもとにかくとても大変な男の子だった。小学生の頃から、水筒の蓋が上手く締められないとか、今日は水色のトレーナーを着たくなかったとか、使おうと思っていたグラウンド整地用のトンボを隣のクラスの子が使っていたとか、とにかくほんの些細な小さなことでカッとなって癇癪を起すタイプの子で、そうなると誰も止められない暴走特急だった。

ケンケンが同級生と揉めごとを起こさない日は学校が休みの土日だけで、トンボの奪い合いになった時なんかはそれを力づくで奪い取って柄の部分で相手の背中を思い切り叩いたりもした。当然ケンケンはそういうことをするたびに担任教師に酷く叱られるのだけれど、そんな時、頭と口をフル回転させてあるだけの言葉で反論するのがケンケンであって、整地用のトンボで同級生の背中を叩いたことを咎めた担任教師を「いや、そもそも向こうが悪いのやないか」と言ってそこから30分、若い担任教師を理詰めにして泣かせたこともある。

ママはケンケンがあんまりに粗暴で野性的で衝動性のカタマリで、そのくせ妙に頭の回る口八丁な子どもなので、一体どうしてケンケンはこうなのか、そしてなんとかならないのかと小学4年生の時、児童精神科を探してケンケンをそこに連れて行った。

汗っかきで下がり眉の優しそうな児童精神科の先生は、ケンケンにクイズのようなテスト問題をいくつも解かせて、その結果をじっと眺めてからこう言ったのだった。

「堅太郎君ねぇ、あ、ケンケンて呼ぶんだっけ、確かに育ててると色々大変というか、困ったとこは多かっただろうけど…なんて言うかなァ、ワーキングメモリの数値が抜群に高いねえ」
「ワー…?何ですかそれ」
「ウンだからね、例えばねえこの子、なんでもよく覚えてそのことをずーっとお母さんに話し続けるでしょう?お母さんの興味のあるなしに関わらず」
「はあ、確かに、どうでもいいことはホンマによく覚えて、ずーっと喋ってますけど」
「だろうねえ、そういうことだよ」

先生は、にやりと笑った。

確かにケンケンは興味の湧かないことは鼻くそをほじって見向きもしないくせに、電車図鑑に恐竜図鑑、それから鉱物図鑑、やばい生き物図鑑に円周率など、興味を持ったものはぜんぶ隅から隅まで丸覚えしてひたすらそれについて話し続ける、スピーカー機能付き大容量のハードディスクドライブみたいな男の子だった。それなのに興味の持てないモノゴトは何を聞いても一切覚えない。

それだからなのか、小学生の頃のケンケンの授業態度はそれは酷いもので、自分がつまらないと感じる授業はすべてうろうろ自由に立ち歩くし、勝手にどこかにいくし、仮に座っていたとしても例えば国語の時間に突然目に入る数字を全部足して遊んだりする、そんな要注意児童だった。

中学に入ってからケンケンは普段の授業態度こそあまり変わらなかったものの、定期テストや学力テストの得点が異様に高かった。その結果小学校時代にはただの粗暴で口八丁の問題児だったケンケンは、中学校から「言動にやや問題はあるが勉強は出来る子」に周囲からの印象がアップデートされたのだった。

たとえケンケンが授業中机に突っ伏してぐうぐう寝ていたとしても教師から黒板に書かれた問題の答えを聞かれると、むっくり起き上がって即座に正解を答えられる、そんなケンケンに誰もあまり文句が言えなかった。ケンケンは赤ん坊の頃から妙に勘もいいのだ、それでママは言った。

「ケンケンはあの野生の勘とひとよりちょっと記憶容量がおっきくて高性能にできてるらしい脳みそを生かして生きていくほかに術はない」

それまでどちらかというと自由放任主義の子育てをしていたママは、ひところ狂犬とさえ呼ばれていたケンケンが明るい未来に向けて縋ることのできるひとすじの藁を見つけたような気持ちになったのか、中1からケンケンを厳しいことで有名な駅前の学習塾に放り込んで、日曜特訓とか、統一模試とか、公立特訓とか、そういうものを全て受けさせてケンケンをせっせと勉強させた。

次の土曜日はそうやって満を持して迎えた高校受験の日だった。

結局ママは、ナナのパパを恫喝に近い形で説得して、金曜日の仕事を休ませてナナと一緒に家で留守番をさせることにした。

「あんな、いくらナナがもう12歳で、うちにいる子の中では一番しっかりしてるって言っても、なにせインフルエンザなんやから、いるだけでもいいからパパが一緒にいてあげて、な?」
「えーでも俺、いまちょっと仕事の予定がパンパンやしなァ…」
「ハァ?娘と仕事とどっちが大事なんよ、アンタは鬼かッ!」

仕事が忙しい、そう言って全日有給を取ることを渋るパパに、ママはテーブルを拳で叩いて吠えた、そんなママの気迫に気圧されたパパは仕事を休んで留守番をすることになった。

ママは予定通りリリの検査入院に付き添い、そうして入院1日目の夜にナナにうどんを、ケンケンとパパにカレーを作るために病院から戻り、それから次の日の明け方も、ケンケンのお弁当を作るために家に戻って来た。朝焼けを背にして坂道を電動自転車で駆け下りるママは目が血走っていた、それを見たケンケンはやっぱり「ママは、アレやな、ちょっと気が狂っとる」と言って面白そうに笑っていた。

「ナナ、大丈夫?しんどい?」
「ウーン…まだちょっとしんどい…」
「インフルエンザって2,3日は高熱が出て下がらんのよ、でもそれがすんだらあっという間に治るからな、あとちょっと頑張ったら楽になるから、あとひと晩くらいの辛抱やから、ね?」
「リリは…?」
「リリ?もう暴れて大変やった、結局沢山お薬使って寝かして検査したから、今はまだぐうぐう寝てるけど、目が覚めたら大変よ。ご飯作ったらママもういっぺん病院に戻るしね、リリの退院の手続きして、それでお昼前には帰って来るから」

いまリリが入院している子ども病棟にインフルエンザを持ち込むことだけはできないからと、ナナの部屋に入らずにドア越しにナナに話しかけるママにナナは「はあい」と答え、そのあと向かいのケンケンの部屋で「ケンケン、これ受験票やで、これお弁当、おにぎりは鮭とたらこ、落ち着いて、がんばるんやで」と言って、ケンケンのリュックサックにあれこれ詰め込んでいるママの声を聞いていた。

そうしたらナナはなんだかおもしろくないような、寂しいような、それでいて腹立たしいような気持ちになった。

3人きょうだいの真ん中は損だ。ケンケンはいちいちやることが予想外で規格外でそれだけに普通の子の倍は手がかかるし、リリは我儘で生まれつきの病気もあって兄よりもさらに手がかかる。そのふたりに挟まれている丈夫で聞き分けの良い自分はきっととても損をしている。

「あたし、ひとりっ子が良かったな…」

熱で脳みそに薄い膜のかかったようにぼんやりする頭でそんなことをくり返し考えていたせいなのかもしれない、ケンケンとリリはその後、ナナのほんのささやかな悪戯のせいでスライムになり、日に焼けた床板のシミになって忽然と消えた。

(これって事故とかそういうことになるのかな、もしくは行方不明事件?)

ナナはとても怖って、慌ててママを呼んだ。

「ママーッ!どうしよう、リリとケンケンがスライムになって消えてしもた!」
「え、え?なに、スライムが?どうしたんナナ」
「だ、か、ら、リリとケンケンが消えてしもたのッ!」
「リリとケンケンて何?ナナ、またぬいぐるみの名前変えたん?」
「違うよ、ケンケンとリリっていうのはあたしの…あたしの何だっけ、ケンケンとリリっていうのは…えっと、えーと…」
「ヘンなこと言うてへんと、ホラ、一緒にお買物行く?帰りにミスドでドーナツ買うけど」

うちにそんな子はいないの、あんたはひとりっ子。

ママは笑ってナナの頭を優しく撫でた。

ママの掌の体温をつむじに感じながら、ナナは存在が矮小化し収縮してついにはなかったこととして記憶から消えかけているスライムになった誰かのことを自分の脳の奥底から引っ張り出そうと焦って、口をパクパク動かした。

でも言葉が少しも出てこない、焦ると今度は指先がじんと痺れるような感覚になる、一体どうしたんだろう、そうしてナナがしばらくもがいていると、今度はおでこの辺りがひんやりと冷たく感じられた、でも妙にべたべたする。

(え、なにこれ?)

それから暗闇の遠くからママの怒号が聞こえた。

「リリッ!あんたお姉ちゃんになにしてるの!」
「ナナのおでこ、これで冷やしてる」
「え、冷やしてるってなに、ひえピタ?ウソ、それこの前買ってあげたスライム?」
「ウン、そーやで、これ冷たいし」
「やめなさい!髪の毛に着いたらそれ取れへんのよ、リリもそれでこの前髪切ることになったやろ」
「エッ、なになに、リリ?リリがあたしに一体なにしてんの」
「ナナ、動いたらあかん、今ママが洗面所からタオル持ってくるから!リリ、絶対やめなさいよそれ以上お姉ちゃんにスライム乗せるの」

朝、解熱剤を2錠飲んだあと、布団の中でうとうとまどろんでいたナナがふと額の上の妙な冷たさに気付いて目を覚ますと、1泊入院していたリリが元気に病院から戻ってきていて、高熱のせいで赤い顔をしてふうふういっているナナを心配したらしいリリが自分のおもちゃ箱から、ついこの前ダイソーで買ってもらったスライムを取り出してナナの額に乗っけていた。

「これで冷やすのー」

ナナは予想外の出来事が自分の額の上で起きていることで「ぐえっ」と潰れたカエルのような悲鳴を上げ、リリはその後ママに酷く叱られた。

「あんたね、お熱のあるお姉ちゃんになんてことするのッ!」

ナナの髪の毛には赤と黄色、両方のスライムがべたべたと絡みついて、ママは何度も蒸しタオルを作ってはそれを拭きとる羽目になり、どうしてもスライムを取り除けなかった前髪の一部は残念ながらハサミでちょきんと切り取られてしまった。

「リリは、どうして退院早々いらんことばっかりするの…」

ママはリリのやや迷惑な『思いやり』に肩を落としていたが、ナナはリリのことを叱らなかった、今回ばかりはどちらかというと少し安堵していた。

(リリとケンケンがスライムになってなくてよかった…)

ナナはリリとママがいなくなった後、布団の中から人の顔のように見えるからと、普段は見ないようにしている天井のシミをひとつひとつ数えながらそんなことを呟いた。

リリがナナの部屋に入らないようにきつく言い渡されて暫くすると、今度は玄関の方で誰かの声がした、どうやらケンケンが帰って来たらしい。玄関でケンケンとママがぼそぼそと話している単語と単語を繋いで大体を想像すると、試験はまあまあうまくいったようだ。ケンケンは上機嫌で廊下を軽くスキップしながらナナの所にやって来て、今度は外気を纏ってひんやりとしている桃色の小さな箱をナナの額にぽんと乗せた。

「え、なにこれ」
「なにこれて、赤福」
「は?なんで赤福?」
「おまえ知らんの?アホやなァ、わざわざ伊勢に行かへんでも、近鉄の大きい駅の売店には結構おいてあるのやで、赤福」
「いやそうじゃなくて、なんで受験の帰りに赤福なん?」
「おれが食いたいから」
「へー…」

それは普段のケンケンらしい奇行であると言えばそうだけれど、それと同時に病身の妹へのとても解りにくい気遣いでもあるらしかった。さっきスライムを乗せられたリリの額に乗せられた赤福は、絶妙なバランスでちゃんと水平を保っている。

「この赤福8個入りのうち2個ナナにやるから、ヒトのこともうスライムにしようとすんな」

ケンケンは赤福をナナの額の上に置いたまま立ち上がると、驚いて目をまん丸にしているナナのことを見てにやりと笑った。

 

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