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こんにちは、あかちゃん。

10歳の娘の担任の先生のお腹に赤ちゃんがやってきたそうで、体育の授業など副教科担当を『負担軽減のため他の先生に代わります』という簡素なお知らせが彼女のピンクのランドセルに、一昨日やったかな、ひらりと舞い込んだのでした。

これは嘘偽りなくたいへんに嬉しいことです。どんなに殺伐とした世界、ひとのこころがさみしく閑散として、そして明日へのひとすじの灯りがなにやらぼんやりとして微かにしか見えない今日にあっても、あなたはわたしのそして世界の希望のひかり。本当に、大変にめでたいことですね。

さて、わたしは自分で男女女、3人の子を産んで現在進行形で育てていて、それはわたしの人生の中では最高の僥倖というか一番の幸福であると、そのことを自分ではまったく疑ってはいないのだけれど、それでも病気のある子をひとり産みその子をとりまくもろもろの制度や社会、さらにそういう二次的でないもっと根本的な、人はこの世界に生まれて生きることはたして幸せかしら、当人が全く自分の意思では選択しない出生というものから、生も死もほとんど自分では自由にならない命を与えられることを心から幸福であるとすることは、はたして可能なのかしらんという問いを結局、3人の子を産むことで抱えることとなり、それをこれからずうっと考えていくことにしているひとりです。

そんなわたしであるので世界に命を産みおとすというこの出産、生殖ですねその行為を、自分の産んだ2人の娘にもガンガン推奨しますかと聞かれると少し考えてしまうかもしれない。だいたいわたしの産んだ娘のうちひとりは心臓に病気があって、未だ治療の途中、そもそも出産なんてそんなことが可能なのかそれ自体はまだまったくの未知数だし仮に将来そういうお年頃になって「厳密な健康管理のもとであれば実現可能です!」などと言われても、私は親なのだから孫より子、とにかく体のことがとても心配だから「そんなんええねんあなたが幸福でさえあればそれで」と言うてしまうかも。そしてもうひとりはお陰様で身体頑健、ここ1年は風邪もひいたこともなくほんとうに元気な娘のだけれど、それにしたって

「女が子どもを持つ」

ということは、普段なんとなく『こうのとりのオシゴト』やとか『自然の理』なんて言ってそれを神の幕屋の内側に覆い隠してあるものやけど、実際にそこに辿り着いてみるとさてそれはたった一晩にしてひとりの女性の人生をがらりと変えてしまう社会的行為であると、ひとによっては元々持っていたものががらがらと音をたてて瓦解してしまう程の問答無用のメタモルフォーゼなのだよと、ひとはあまりおおっぴらはには言わないものだけれど、でも意外とそういうものだったりもするのですよね。

『おかあさんになる』ということ自体は学歴不問、職歴無用、ひとりの女のひとがこれまでの人生にせっせと積み上げて来たものとはあまり関係のない別世界のものだったりするし、出産のそのあと、相当に瓦解してしまった自分の世界で、もともと積み上げて来たものの全てを取り返すことはなかなかどうして難しい。大体の場合は自分の経験も含めて、これまであった世界ががらりと姿を変えてしまう不可逆的なものであるのだよと思うと、もう老婆心と言う言葉のしっくりくるような年頃になったわたしは

「その覚悟があるのであれば」

という、本来なら慶事であるこの出来事を、武士が白装束で戦場に向かうかのごとき、なにそれ『きけわだつみのこえ』かよと自分で自分に突っ込みたくなるようなものであると捉えてしまっていて、ほんとうにねえ、誠に生きづらい世の中よなと思わざるを得ないというか。

そしてもうひとつ、前述の通りに『女が子どもを持つ』と言うことが生命の理以外の部分で、例えば社会的行為だとしたときに、なんて言うのかな、ひとつのパターナリズムの、まあ女は黙って家事しとけ子育てしとけ働きたかったらそれも良いけど家事育児、何なら介護もケア業務のだいたいは君が担当するのが僕はいちばんいいと思うんだ、君もそう思うよねと世間様からじわじわともしくははっきりと言われてしまうアレですね、そういうものの中に組み込まれてしまっていて、それに対して

「いえわたしはぜんぜんそうは思わないですけれどね、というかそんなん良いわけないやろこのアホが」

と言い切って戦う覚悟が、これの界隈にはいまだに必要なわけでして『そんな殺伐とした戦場、避けられるのなら避けた方が良いのでは』と思ってしまうわたくしこそが、娘達の生きる明日の社会を形成してきたうちのひとりであると思うと何か

「いろいろと碌でもなくて、そして何もかもの刷新がひとつも間に合わずに本当にすまん」

と思ってしまうのですよ。ひとりの赤ちゃんがこの世に生を受けて誰かのお腹の中で確実に育っているというただそれだけの本来とても嬉しい事実を巡って。


しかし、10歳はいま、先生の赤ちゃんが教卓の向こうの先生の体の中あってそれが

「春にはねぇ、赤ちゃんがうまれるんやって、だから3学期の途中に先生が交代するの」

担任の先生が暫く、1年くらいかな、お休みしてしまうことはたいへんに寂しいのだけれど、赤ちゃんが世界にひとりやってくることはこの上なく楽しみであると、何やらうきうきしている様子。

「先生は重たいものは持たない方が良いよね」

「先生は気持ち悪くなったり、眠たくなったりせえへんのかな」

「妹がおなかにいたときにお母さんは泣いてばかりいたけどニンシンて哀しくなるもんなん?」

この10歳は妹が、あと1ヶ月もしない内に4歳になる子なのだけれど、その子がわたしのお腹の膨らみであったころ、10歳は10歳ではなく幼稚園の年長さんであって、妊娠の21週目におなかの中の胎児が

「お豆にしかみえないね!」

という小さな影であったのが女の子だと分かった頃からなぜだかよく、何ならこの豆もとい女の子が心臓の病気で、その全容が今ならわかると思うから、おかあさん病棟の方のええエコーの機械(エコーの機械にええのと悪いのがあるのかと言うのは未だに私の密やかなそしてかなりどうでもいい謎)で見てみましょうと言われて予定外の土曜日、産婦人科外来の診察室ではない、病棟にエコー検査を受けに行ってそこで「ハイ、難病確定です」の宣告をうけた運命の日にさえ預け先がないという理由でわたしに帯同し、その存在によりなかなかに厳しいこの先を言い渡されたわたしを、ドトールでミルクレープを食べながらやけど、その糸目の笑顔で慰めてくれた娘で、本人にその気はなかったのかもしれないけれど、実のところとても頼りにしているのです。

それでもまあ当時6歳で現在10歳の娘には妹がいったいどういう病気で、どれくらいの命の危うさで、毎日をそしてこの先を生きる事になるのかとか、そういうことはあまりにもすべての諸々が日常の中に溶けて普通のことになってしまっていて、あまりよくわかっていないのだろうなと思っていた。

でもちょうど担任の先生の、妊娠のお知らせというか、妊娠していてあまり無理ができませんので体育は隣のクラスと合同になりますよという冒頭のお知らせ、それを貰って来て、先生の最近の様子などをわたしに話してくれている時、春には生まれるらしい赤ちゃんのことを10歳は

「ねえ、でもねえ、生きて生まれてくるといいねえ、かわいい名前をつけてもらえるといいねえ」

そうしみじみと言ったのは、それはなんていうのか、聞きようによってはたいへんに悲観的な、そしてその先生の赤ちゃんは何か実は危機的状況にでもあんのかと聞きたくなるような恐ろしいひとことではあったのだけれど、この10歳の妹がそれこそ本当に

「生きて生まれてさえくれたら」

と親に切に祈られながら生まれて来た子であるということ、そして今、わたしの目の前でおむつまる出してひっくり返って遊んでいる様子からはあまり、と言うか全然想像できないのだけれど何度も死線を越えて来た子であるということ

10歳はそういうの、みんな全部わかっていて、世界の中の赤ちゃんが全て元気で生まれてくるわけではないよねと、ひとによっては名前を与えられる前に天国に行くことすらあるのだよねと、妹と、その妹と同じように病気である妹のお友達のことなどを見聞きして来たこの4年間でよくわかっているのだねえ、知っていたのだねえ、そうなんだよ、皆が無事に生まれて元気に空を見上げて、お空が青いとか、冬の風はつめたいとか、雨の音はやさしいとか、そういうことを見て聴いて触れて、ずっと長い命を生きられるわけではないのだもの。

女が子どもを持つということは、出生ということは、それはとても難しい、それが幸いであるのか不幸であるのか堂々巡りでうすぼんやりとして未だ皆目分からないことではあるのだけれど、命それじたいは世のひかりであることよと、それだけはわたしも、ほんとうにそう思うのです。

うちの10歳がそう思っているのと同じようにして。

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