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短編小説:10年後のしし座流星群の日に。

☞1

しし座流星群が極大を迎える明日未明、ある私鉄駅の上り線のホームで、反対側の下り線のホームに背を向けて3つ数えてから振り向くとそこにあなたの会いたい人が立っています。
詳細はこちら☞http:~

「そのURL絶対踏まない方が良いぞ」
「スパムメールっスかねコレ」
「そういうのちゃんとはじめからブロックする設定にしとけよ、情弱か」
「俺そういうの苦手なんスよ」

普段ほとんど使う事の無いスマホのメールアドレスに届いたメールを覗き込んで来た先輩が、こういうのは消しとけよ、というそれもう一度よく見返したのは、その全く見覚えの無いアドレスからきたメールに添付されていた駅らしき写真に見覚えがあったからだ。

「あ、でも俺ここ知ってます大学付属病院前駅ちゃうかな。多分」
「大学病院?誰か入院してたん」
「ハイ。俺が」
「何で?いつ?骨とか折?」
「10年前に、がんです」
「うせやん。そんなおもんないボケいらんねん」
「いて」

「いやほんまですって」そう言う前に先輩が律の頭を砂だらけのスポーツバッグで軽く小突いて、俺先に帰るし部室閉めとけよと言って出て行ってしまったので、それ以上、俺は先輩に何の説明もできなかった。

うそちゃいますって、俺ホンマに10年前に半年ここに入院してたんですって。

☞2

「菫の手術の日、しし座流星群が見えるよ、柊也と僕は病室の窓から見られるかな」

2010年の事だ。丁度今から10年前、俺が7歳で、菫も同じ7歳、そして樹はいくつだっけ、たしか俺より1つ上だった気がするから8歳か。

普段は風邪ひとつひかない俺が突然高熱を出して、それが1週間以上全く解熱する気配すらないのはいくら何でも異常だと、近所の小児科からの紹介状を持って普段は足を向けた事すらない巨大な大学病院に両親が俺を連れて駆け込んだ。その時に医者の割に説明というか、言葉遣いの雑な血液の専門医だという小児科医者にぼそっと伝えられた言葉が

「白血球値がかなり危険な数値です…よう生きてるなコレ」

というもので、俺は40度近い高熱で息も絶え絶えになりながら、朦朧とした意識の中でこう思った

患者の前で「良く生きてるな」とかよく言うな。ヤブ医者か。

医者の言う死にかけの俺は小児急性リンパ性白血病、血液のがんだった。そこから始まった治療、とにかく強い薬を使ってガンを徹底的に叩く、強すぎる薬剤を継続的に注入し続けながら一方で、できる限りそれを体内に留めず外に流し続ける、そのための24時間点滴、薬で抵抗力が急激に落ちた身体を守るために外気を避ける入院生活、気の遠くなる程途方もない時間に感じられた半年、俺は病棟で仲良くなった菫と樹と何となくいつも一緒だった。

菫の病気の詳しいことはよく覚えていない、心臓がどうとか、生まれつき形と機能のおかしな心臓を、少しずつ何度も手術して普通の形にしていくという途方もなく細かな作業を重ねて、7歳のあの時、やっと最終段階、最後の手術に耐えられる身体になり、全部を正常に近い形に作りなおすのだと言っていた。

「知ってる?心臓の外科手術はねえ、胸のど真ん中にメスを入れた後に、胸骨を切るの、がりがりって」

俺の顔を真っ直ぐ見て不敵に笑いながら恐怖の心臓手術の手順についての詳細を面白そうに語るサディスト気質の菫と、特注の子供用の車いすにいつも乗って、分厚いレンズの眼鏡をかけ、天文の星や惑星の本を読みながら

「僕も心臓だけど、それは菫と違って今すぐ手術では治せないやつなんだ、形じゃ無くて機能的な問題で心臓の力が少しずつ弱って来ちゃうんだ、今は薬を調整して何とかやってるんだけど」

先の事は分からないなあ、もしかしたら10年後の僕はもうこの世界にはいないかもしれないし、これっていう解決策があんまり無い病気なんだよ、原因も不明。いつも優しい笑顔で穏やかに俺に話す樹。俺の対する態度がとても対照的なこの2人は、青天の霹靂の白血病で、入院当初採血の針ひとつ刺されるのにさえ大あばれして処置室に看護師を5人投入した挙句、研修医の顎を力任せに蹴り上げて負傷させてオカンに尻を引っぱたかれた俺に比べて、病気というか己の運命のようなものに対して、とにかく根性が座っていた。

「菫と樹は怖くないの、病気の事とか、その…死ぬのとか」

俺がいつだかそう聞いた時だって2人は顔を見合わせて、俺にこんな事を言った。

「僕と菫は普段から瀬戸際の命だからなあ、僕はもう長い間入院しているし、菫は細切れに入院しながらオペの回数10回以上だし」

「にわか病児とは『格』が違うのよ」

それを聞いた俺は、なんやその謎のマウントはと思ったけれど、確かに2人は自分の命についてどこか達観しているような、諦めているような雰囲気があった。だってたとえこの先の命を保証されても、どうせできない事だらけだし、病気が完全に自分達の体から消えてなくなる日は来ないんだから。

『いくらお金があっても、どんな幸運がやって来てもきっと完全には治らない』というおおよそ子供どもらしくない諦観。

その2人に初めて遭ったのは、俺が緊急入院して1週間程してから、高熱が治まり治療の方針が確定、かなり長い時間この病院の中に閉じ込められる事が決まったからとオカンが

「柊也、暫くここの学校、院内学級に転校するしね。体調が許す限り毎日通おうね」

他の病気の子もみんなちゃんと頑張ってはるんやからあんたも頑張らないと。そう言った日の事だ。自分も含めて点滴の管だらけ、そして体に謎のビニールパックをぶら下げていたり、妙に傾斜のついた車椅子に乗っていたりと、これまで俺が通っていた普通の子の、普通の子による、普通の子の為の普通の小学校とは雰囲気の全く違う子どもが集まる教室に俺は少し戸惑いながら、その中で比較的話しやすそうで大体同じ歳くらいに見えた樹に、なあなあ、オマエ何で入院してんの、俺白血病。ここの飯不味いよなと言って話しかけたのが最初だった。樹は俺の「めしがまずい」の言葉に小首を傾げて少し考えてから、最近入院した子?白血病だと薬のせいで食欲がなくなってるのかもしれないよ。もし食事が食べられないとか口の中に口内炎があって辛いとかなら看護師さんにちゃんと言った方が良いよと、俺に言った。

物慣れていて大人びていてものすごく親切な眼鏡の小学2年生。

対して菫は

「ねえちょっと、そこ私の席なんだけど」

樹と話をしている最中に、俺の座っている席を思い切り蹴り上げてきた女子だった。少し癖のある長い髪を横にして束ねて、ピンクのキャラクターもののパジャマ、その上にふわふわとした白いカーディガンを着ている見た目だけはクラスの女子と比較してもかなり可愛い、ピアノの上のフランス人形みたいな女の子、それなのに。アンタどきなさいよ、新入り?ふうんあっちの長期療養のチームの方ね、ウチらは循環器だからアンタとは違うチームだもん、ちょっと、その点滴台じゃまなんだけど、どけてよ、ホラあんた立てるんでしょ?あっち行きなさいよ。そいう事を、立て板に水、そして見も知らない場所で心細さに駆られて友達を求めていた俺の心をへし折るような険と棘のある口調で、あっちに行け邪魔だと一気にまくしたて、俺を座席から退かしてどっかりと席に座り、巻き舌のフランス人形に驚いて固まる俺にこう言った。

「ねえ、アンタ何年生?」

「…い、いちねん」

俺はそのころから少年ラグビーチームに入っていて、転校前の小学校のクラスの中では一番背が高くて、足も速かった。チームではフォワードで、喧嘩だって強かった。でも菫のほぼタンカに近いあの物言いには全く勝てる気がしなくてごく小さい声で、自分の学年と名前を告げてしまい、この菫の威圧感と気合に初回で大敗した俺は、この日から菫の子分になった。

というより、この病院で生まれ、入院手術延べ回数では他の病児の追随を許さないと言われていた菫は、医師からも看護師からも『小児病棟の女王』と呼ばれていて、幼児期に採血を失敗した研修医の顔面を拳で殴りつけたとか、新人の看護師は必ず1回は菫に泣かされるとか、直近では教授回診で菫の病態について質問されて全然答えられなかった医学生をその場で「アンタ医者向いてない」と言って追い出したとか、恐ろしい逸話を山のように持っていた。そんな菫は俺よりかなり小さくて折れそうな位細い体の癖に、年季の入った上から目線で

「同じ1年なら、仲良くしてあげる」

と言った。

俺に拒否権は無かった。

☞3

「菫の手術の日にしし座流星群が見えるよ」と樹が言ったのは、俺の退院に目処が付いた日の事だ。

それは俺が入院して半年が経過した頃の事、俺の体に薬の効果が表れて血液検査を見ても数値は安定してきたし、今入れているお薬を最後に一旦退院してその後は通院して経過を見ましょう。そう言われた事が俺はとても嬉しくて、あの時のやぶ医者、もとい主治医とオカンと俺とで話をしていた面談室を「話、もういい?」と退室の許諾を取るか取らないかのタイミングで点滴台ごと飛び出して病棟の廊下を走り抜け、デイルームにいた菫と樹にその事を話した。

留保も躊躇も抜きにして。

「なあ、俺、退院できるんやって」

樹はそれをとても喜んでくれた。よかったねえ柊也、半年がんばったもんねえ。樹は、17歳になった今俺が思い出してみてもかなり精神年齢の高い8歳児だった。自分の心臓の機能が段々と弱っていっている中、傍らの元々身体が健常でむしろかなり頑健な俺が健康を取り戻して外の世界にもう一度出て行くという事を一緒に喜んでくれたあの笑顔は、小さな子供は心が美しい、無辜で無垢だとかそういう事ではなくて、樹がとても大人だったという事なんだと思う。それか実は人生3回目とか。思えば俺はこの時、相当子どもでかつ無神経だった。まだ退院の目処の立たない樹と、その翌日に人生最大規模の手術に臨む菫の前で意気揚々と自分の退院の報告したのだから。

「私、明日手術なんですけど?」

そして菫はこの手の話題にとても敏感だった、何しろ、病棟の主で女王だ。それは

「これまで、先に完治したり根治したりして退院する子を山のように見送ってきた」

という事だと、いつだったか菫本人も言っていた。完全に元気になって退院する子はね、もう病棟に来れないの、まあ実際もう来ない方が良いんだけど、でも私はねそういうの、よかったねえ、今度は外来で会おうねとか絶対言わない。私、ココロが狭いから。もう会えないなら会えないで2度と会わなくていい。健康になって私の事をすっかり忘れちゃう子なんか私、大嫌い。

「柊也も、健康でもう病気じゃない子の世界に行く訳ね。それでもうアタシたちとは全く関係がなくなってここの事も全部忘れる訳ね、やれやれって」

菫の普段ぱっちりとしている筈の少し色の薄い栗色の大きな瞳が眉間の皺と共に細く吊り上がる時、それは菫が本気でブチ切れている証だ。

「アンタが感染症厳禁で病室から一歩も出られなくなった時に散々糸電話で会話してあげたり、手紙もイッパイ書いてあげたのに。だからにわか病児は嫌なの、元気になったらアタシの事なんか忘れちゃうんでしょ」

いちゃもんのような、言いがかりのような事を言う菫は、俺に悪態をついているうちに途中でぽろぽろと泣き出してしまった。菫があまり泣いたり激高したりすると息が切れて苦しくなるのを知っていた俺は、それを見て物凄く不安になった。菫は明日が手術だ。ついさっきも菫の先生達が

「菫ちゃん、風邪ひくなよ熱出すなよハラ下すなよ頼むからな」
「すーちゃん、切開箇所掻いたらだめだよ、そこ荒らしたら切開できないから」
「オペの日の朝うっかり水飲まないでね」

菫の前に現れては消えて、アレをするなコレもするなと普段より少しピリピリした空気を醸していた。ねえ看護師さん呼ぶ?そうしたら菫の指先で取っている心臓の数字、菫はバイタルと呼んでいたそれが結構な数値だったらしくて看護師がナースステーションから飛んで来た、すーちゃん大丈夫?そうして菫はそのまま病室に回収されて行ってしまった。

俺が知る限り、あらゆる検査、身体の拘束、処置後の高熱、各種穿刺に対してそのすべてに暴力で応戦する事はあっても涙で屈することの無かった菫が泣くのを見たのは入院中これが最初で最後だったと思う。俺は驚いて、樹の顔を見た、どうしよう樹あの菫が泣いてるぞ。

「柊也、菫は寂しいんだ、病院で誰と仲良くなっても結局みんなここから居なくなるからね。あと菫は手術の直前だからかなり緊張してるんだよ、大丈夫だとか、怖くないって口では言っても、10時間以上かかる心臓の手術は大人だって怖いよ、さっきのは半分は柊也とお別れするのが寂しいからで、半分は手術が怖いっていう気持ち、多分八つ当たりだ」

そして樹はこう続けた。だって菫がどんなに意思堅強でも手術は怖い、一歩間違えれば死ぬかもしれないんだ。菫みたいな子は、そういう恐ろしい目に何度もあってる上に、普段からずっとしんどい体を引きずって生きてるからさ

「だんだん口が悪くなるんだ」

「口が悪くなる?」

「そう。自分の考えている事とか訴えたい事を沢山言葉を使って柔らかく修飾して繕うより、ぶっきらぼうに言い切った方が楽だから。ああいう子が話をするのってそれだけで胆力がいるんだ、循環器系疾患の子はね、いつも何となく息苦しいから」

「でも、樹はそんな事ないやんか、いつも優しいし。俺が薬のせいで口内炎だらけになってもう何も食えへんてなった時も、俺から色々聞き出して『どん兵衛なら食べられる』って言ったら、菫と下のコンビニまで買いに行ってくれたし」

「あのどん兵衛、結局、塩気が口に沁みるからって食べられなかったよね」

「ああ、あん時ごめんな。じゃあ樹はさ、菫みたい手術とか処置とか怖くないの、それでもうここからイチ抜けする俺のこと嫌だなって思わないの」

俺はめっちゃ怖かったで、薬のせいで相当気持ち悪い時期も、骨髄穿刺も、おれはもうアカンって走って逃げようって思ったもん。そう言うと樹は、

「思わない。大体僕は今満足に歩けないから逃げようがないんだもの。それに柊也だって、あと5年か10年は再発の可能性があるから要経過観察の筈だろ、先生にそう言われなかった?人間は一度病に憑りつかれたら、多少の差はあってもみんな一緒だよ、命の境界線みたいな所を長い間、たった1人で歩くんだ。そういう意味では生まれつき病気の菫も、後から突然病気になった柊也も同じだよ」

樹は本気でこういう坊さんみたいなもの言いをする8歳だった。今思えば恐ろしい。解脱した小学生。相当徳が高い。

「樹はなんでそんなに冷静なん」

「僕?なんかちょっと諦めちゃったんだ」

アキラメチャッタンダ。俺はその時咄嗟に思った、それは、あかん。

「諦めんなや!ラグビーの試合やって最後の1分まで諦めたらアカンねんぞ。ホラあの、明日一緒に見ようって言ってたしし座流星群、アレ毎年来るんやろ。だったら来年も、再来年も10年後も俺は見るぞって言え、ほんで俺も見る、10年後も樹と一緒に」

俺は「アキラメチャッタンダ」の言葉の響きが、その時の俺にとっては何だかとても寂しくて、俺は突然そんな提案をした。あきらめるな、俺たちは絶対に長生きする。

「10年後は、柊也は再発の可能性から無罪放免、本当に元気になる年の事だね。その時、僕も生きてるといいんだけど」

「10年後だって俺たちは生きてるぞ、俺はもう再発の心配なしってなって、菫は手術が全部終わって元気になって、樹は…樹は物凄く元気にはならへんかもしれないけど、生きてる」

樹は「流星群」と書かれた本を膝に乗せたまま、そうかな、そうだと良いな、と言って少しだけ笑った。樹の笑顔はいつも特別優しい。それはあの病棟で何人も友達を『退院ではない状態』で見送ってきた樹の人生とか命へのとても冷静な諦観の微笑みだったのだと、今は思う。それに対して、あの時の俺の言葉は元々身体頑健に生まれ、突然我が身に降りかかった病気の山をひとまず乗り越えようとしていた健常な人間の奢りだ、それも今になって分かる。でも、当時7歳の俺にはそんな事は全然分からなかった。

「じゃあ、じゃあさ10年後のしし座流星群の日に、この病院のすぐそこの駅、そこで待ち合わせしよう。その頃俺たち何歳?17歳と18歳?俺も菫も元気になってる、樹の心臓はこれ以上絶対悪くなってない」

俺はそう言って、樹にしし座流星群がその10年後はいつ、何時ごろにこの辺りで観測できるのかそれを聞いた、それから病室に走って戻り、そしてそれをノートの切れ端に掻いた。

「2020年11月17日、みめい、ふぞく病いん前えきで、全いんしゅう合」

そしてそれを、菫の病室のカーテンの隙間に自分の腕ごと差し込んだ、なんかごめんなさっき、でも俺、明日の菫の手術の時に、樹としし座流星群に菫が手術室から無事に帰って来られるように全力でお祈りするし。

「…わかった」

カーテンの中で、菫の手が俺の手の中のノートの切れ端を乱暴にひったくった。

「約束ね」

菫は翌日の朝8時50分、自分を乗せたストレッチャーに看護師3人研修医1人、あと菫のお母さんを従えて病棟を出発した。俺と樹が廊下に出て来て「菫、頑張れよ」と言うと、菫は

「うっさい、バーカ」

と言った。マジで口が悪い。

病棟の看護師に後から聞いた手術時間は13時間。そして手術後のICUでは胸の水、胸水がなかなか抜けず、容態が安定するまでかなり長い間、小児病棟に帰って来ることが出来なかったらしい。

「らしい」というのはその間に俺は退院してしまったからだ。それから月日は瞬く間に過ぎて、あの2人に合う機会もないまま10年が経っていた。入院していた大学病院も退院して暫くしてから近所の市立病院に転院してしまって、この10年間、俺はあの大学病院には近づいたこともない。

だから俺はあの約束をこの10年の間、本気ですっかり全部きれいに忘れていた。いや無意識に忘れようとしようとしていたのかもしれない。あの半年は楽しい事ばかりではなかったし、人の死の手触りのする場所の空気はそれを訓練されていない健康な人間には割とキツい。あの夜どおし病棟に響くバイタルサインのピッピッピッという乾いた電子音を俺は今でも嫌いだ。だからその記憶を俺はあの約束ごとトリミングして頭の中の普段は全然触らないフォルダに放り込んでしまっていたのだと思う。実際俺は7歳のあの頃のことを、あまりよく覚えてない。

薄情者とは、俺の名前だ。

☞4

『もしかして菫か、樹ですか』

先輩からブロックしろよと言われたメールのアドレスに俺は返信をしてみた。怪しいDMにしか見えないこのメールがもし菫か樹の仕業なら何か反応があるかもしれないと、俺はそれに賭けた。退院してもう10年、あの大学病院に個人としてはもう何のかかわりも無い今、2人の事を調べる術は無い。ネットで氏名を検索してみると言う手もあったけど、俺は2人の苗字を記憶していなかった。というより当時から、2人を菫と樹とだけ呼んでいて、苗字で読んだ記憶が無かった。

10年前の俺はあの日、ストレッチャーに乗った菫が放った言葉の通り、本当にバカだ。2人のフルネーム位聞いてどこかに書いておくべきだった。

あの怪しいメールに返信して1時間、スポーツバッグを玄関に放り投げ、飯を食って、風呂に入り、それから自分の部屋の乱雑な机の上に置いた課題をやりたくないから教科書を凝視して「こうすることで完成してへんやろか」とそこから軽く逃避していたらオカンが俺を呼んだ

「柊也!メール!女の子から?」

「携帯勝手に見んなや」

「アンタがその辺に置いとくからやろ」

廊下の奥から顔を出したオカンが振りかぶって投げて俺によこして来た携帯の画面には、こうメッセージが表示されていた。

Re:忘れてたでしょ、バーカ

菫だ。俺は携帯をタップしてその返信に更に返信した。

⇒菫?

➡教えない。2020年11月17日の約束の事覚える?

⇒さっき思い出した

➡薄情者

⇒ごめん、で、菫か?

➡教えない。大体こんなメールによく返信するよね、情弱って言われてるでしょ、最弱ネットリテラシー。

絶対、菫だ。でも菫かどうかを本人が認めないのでとりあえず俺はこいつを菫(仮)として会話を続けた。

菫(仮)は、俺の事、この普段は全く使っていないメールアドレスについて、記憶していた俺の誕生日と氏名を組み合わせたアドレスを適当にいくつか打って探し出したと言っていたけど本気だろうか、何か怪しい裏技とか裏ルートがあるんじゃないか、そう聞いても全部『教えない』の一点張りだった。それでひとつだけ菫(仮)が俺に質問してきたのは「アンタ生きてんの」だ。変なやつ、生きてるから返信してるんやろ。それで俺も菫(仮)に同じような事を質問した、あの後、菫(仮)は元気だったの。今はどうしてんの。俺と同じ歳だから高校生やんな。でもその答えは

➡教えない、でもあの後、3回急変して3回死にかけてから病棟に生還した。奇跡だって言われた。

⇒しし座流星群の日に、あの駅に言ったら会える?

➡教えない、行きたかったら行けば。

菫(仮)はやっぱり菫だ、このぶっきらぼうな口調。サイアクに口が悪いこの感じ。

⇒わかった、俺、現場で待ってるから。

最後に「忘れててほんまにごめんな」と打った。それから菫(仮)から返信はなかった。ところでしし座流星群て17日の何時だ?未明っていつよ、深夜?明け方?大学病院のあの駅って家からどれくらいかかるんやろ?俺は階下のオカンに向かって叫んだ。

「オカン!俺が昔入院してたあの大学病院てウチからどれくらいかかる?」

「車で大体1時間」

「まじか」

深夜、未明となると電車はもう止まっている。10年間の俺はめっちゃアホ、何で自宅とあの駅の距離関係を考えなかったんだろう、いや仕方ないか、当時の俺は7歳だ。

「自転車やな」

☞5

あの後オカンに、俺が昔入院している時期に仲良くしていた2人の事を覚えてるかと聞いてみた。オカンはあの頃も仕事をしていたからそうも病棟で俺にべったりくっついていた訳ではなかったけれど、それでも俺と仲良くしていた菫と樹の事をよく覚えていた。あの可愛い2人ね、あの子らのお母さんともたまにお話したわ、上の名前まではお母さんも覚えてへんけど。

「菫ちゃんは手術を乗り越えたらあとはまあまあ大丈夫なんやってお母さんが言ってはったけど、樹君は、これ以上状態が悪くなるなら移植がどうとか…そんなん言うてたのお母さん覚えてる。すごくびっくりしたから。結局あの子、どうなったんやろうね」

「移植て何の?」

「だから心臓よ」

約束の17日の深夜、街灯の少ない国道を車のテールランプの灯りを見ながら、俺はその事を何度も反芻した、移植ってアレか、テレビなんかで見た事ある。小さい子どもが心臓に付けてる機械ごと飛行機に乗ってアメリカに行って受けるやつか、確か3億円くらいかかるヤツ。樹、そんなに具合が悪かったのか、俺はあの時樹が「たった1人で命の境界線を歩くんだ」そう言っていた事を思い出した。

俺はホンマに何も知らんかったし分かってなかったんやな。

俺が自転車をこぎ続けて1時間超、遠くに10年前と全然変わらない大学病院の姿が見えた時、時間は深夜の0時を越えていた、駅は昔のままだ、でもあの時にあったモスがマクドになっている、微細な変化。深夜0時を過ぎた駅前は整然と静かで、酔っ払いのおっさんが駅のベンチで静かに寝息を立て、あとは終電を逃したらしい若いサラリーマンがひとり、ふたりとタクシーを待っていた。

菫、来るのかな。

でもよく考えてみたら、菫は俺と同じ年の高校生だ、しかも女子。俺はあの当時菫の横に付き添っていた菫のお母さんを思い出した。菫とは対照的に優しくて穏やかでとても心配性のお母さん。あの人が、そもそも先天的に滅法体の弱い17歳の菫をこの時間に外出なんかさせるだろうか、風邪をひいたら一発アウトだと菫本人も言っていたような気がする。

俺はここまで来て物凄い猜疑心に苛まれた。アイツ、10年俺が何もかも忘れてたからって、俺を騙してるんじゃないか、まあ忘れてた俺が何より悪いんだけど。そう思いながらも、終電が行ってしまったホームに線路側から何食わぬ顔で潜り込んだ。小さな駅だ、道路と線路を隔てている金網を乗り越えるのなんか17歳の今の自分には造作もない。あの頃、大学病院に幽閉されて抗がん剤由来の抜け毛で泣いていた7歳の俺とはもう全然違う。でもこれは多分軽犯罪法違反だ、分かってる。それであの怪しいメールにあった通り、上りのホームに上に立つと、しんとした秋の夜の寒さと静寂の中、そこには、予想はしていたけれど誰も居なかった

⇒菫、俺ちゃんと駅に来たで

一応俺はあのアドレスに現着報告をした。またバーカとか言われるかな、そう思ったけれど返事は無かった。だから俺は続けてこう送ってみた。

⇒菫は今元気?俺はめっちゃ元気、再発なしで10年、これで快癒、完治。

俺のスマホは、暗いホームの上でひとつだけ小さな灯りを灯して、沈黙したままだ。

⇒菫、やっぱ怒ってんの。

そこまで送ったら、背後で誰かの声がした。もしかしたら見回りの駅員がまだいたのか、俺はホームに飛び降りて遁走するべきかどうか一瞬考えてからちょっとある事に気づいた。

女の子の声。

「菫?」

「ちょっと!金網が高すぎて越えられないんだけど」

菫だ。

俺は即、ホームの裏側とその反対側の道路を仕切る金網の方に向かって走った。そうしたら街灯がうすぼんやりと照らす、枯草がところどころ生えたままになっている手入れの悪い金網の向こうの細い小道、そこに小柄な女の子が仁王立ちになっていた。菫だ、菫だけど、何というか想像していたよりも割と小さい。あの時から10年経った菫は勿論成長して大きくなってはいるんだけど、その体躯が何というか、全然高校生に見えない。小学生みたいに華奢だ。

「…なんか、菫、今でも結構ちいせえな」

「アンタが無駄にでかいのよ」

「口調が全然変わってねぇ」

俺は笑った。あの日、ストレッチャーに乗せられたまま「うっさい、バーカ」と俺たちに悪態をついた菫がそのままそこに居る。俺は物凄く嬉しくなった。

「ホラ持ち上げなさいよ、私、結局『体育万年見学』の人間に仕上がって、本気で体力も筋力も全然ないんだから」

「いいけど、菫、こんな時間にこんなとこ来てて大丈夫なん」

そう言いながら、小さい子供を抱き上げるみたいにして金網を途中まで登って来た菫を抱き上げてホーム側に降ろしてやった。「意外とちいせえな」とは言っても、あの日よりは背が伸びて、どこかの学校の制服を着て一応高校生に見える菫は、驚く程軽かった。

「大丈夫よ、ウチすぐそこだもん」

菫はアンタどこからどうやってここまで来たのと言うので、俺は自分の家の最寄り駅を答えた、それでこの流星群が極大を迎える『未明』はもう終電が終わっている。だから

「チャリで来た」

と言うと、菫はおかしそうに笑った。あんなとこからチャリで来たの?アンタ体力やばくない?今でもラグビーやってんの?そう言ってひとしきり笑ってから俺に一言

「ざまあ」

と言った。本当に口が悪い。

☞6
「流星群ていうのはね、その軌跡が天球上のある一点を中心に放射状に広がるように現れる流れ星の群れのことを言うんだよ」

10年前、樹がいつも大切そうに抱えていた星の本を見ながら説明してくれた流星群の概要を俺は17歳の今でもよく理解できていない。でも、あの10年前の今日も2人でしし座流星群を見ていたあの時、しし座流星群は決まった周期、大体1年毎に活動する周期性の流星群なんだと言っていた。

大体11月の半ばから末にかけて観測できるけど、極大、一番肉眼で観測可能な日は毎年大体11月17日くらいなんだよ。

「僕の誕生日なんだ」

樹、今日18歳になったのか。もし今日もこの世界に生きているのなら。

俺は10年ぶりに再会したあの日のまま超絶口の悪い菫と、何となく近況を報告し合った。菫がその後、高校入学前にまた大きな手術をする羽目になって1年留年したから今は俺とは同級生じゃない高校1年生で、高校の同級生にさん付けで呼ばれていてそれがかなりイタイとか、それについては俺が「それはお前がただ単に怖いからでは」と言ったら俺の腹に菫の拳が飛んだ。あと俺が高校にスポーツ推薦で入学したらそこは男子校で今俺は女子のいない世界に生きているだとか。逆に菫は中学から女子校に通っているから、ラグビーをやっていて横にも縦にも平均を超えて大きい目の前の男の俺が巨人に見えるとか。

でも、菫の生存や健康を確認した今、次に俺が聞きたかったのは樹の事だった。

「今日、樹は?」

俺は目線だけ、流星が一体どこに現れるのかと、あまり澄み切っているとは言い難い墨色の夜空を仰ぎながら、意識を菫に向けてこう聞いた

「樹は今日来れないの?そもそも樹ってさ」

「樹ってさ」のその後の言葉を続ける勇気が、この時の俺に微妙に無かった。おかしなもので10年も意識的になのか無意識的になのかすっかり俺の意識の外にいた樹がもし今、菫の口から「星になった」なんて言われるような事があったら俺は、その場で膝から崩れ落ちてしまうんじゃないかとこの時思っていたから。

「死んだ」

「…え!」

って言ったらどうする?そう言いなおして菫が笑ったので俺はため息をついた。「死んだ」ってもう少し叙情的で柔らかい言い方ないすか菫さんと俺が言うと、菫は悪戯なというか邪悪な顔をして笑い、樹が今どうしているのか教えてあげるから俺に下りホームに背中を向けろと、それでゆっくり3つ数えてから振り返ってと言った。俺は唯々諾々とそれに従って反対側のホームに背を向けて小声でカウントした。

3カウント。

「いーち、にーい」

さん!で振り向いたその下りホームは真っ暗で、そこに誰かがいるような気配は全然無い。俺は困惑した。なあ菫、樹は結局来れないの、やっぱりアイツってさ。

「ねえ、ほら、星、ほんとに流れてる!樹、見て見て!」

そう聞いた俺を無視して菫は、携帯を空にかざしていた。自由か。でも待て樹って言った?言ったよな。俺は菫が空にかざしている携帯を上から覗き込んだ。そうしたら、そこには樹がいた。

「いや画面が暗すぎて何にも見えないよ」

「樹!俺、俺!」

この時、画面越しとは言え俺と樹は10年ぶりの邂逅だったはずなのに、巷の詐欺グループみたいな再会の挨拶をしてしまった事は返す返すも残念だ。でも樹は生きていてそれで菫の携帯の画面越しに流星の夜空を仰ごうとしてその画面の暗さに「無理、見えない」と言って笑っていた。眼鏡に下がり眉の穏やかな笑顔、全然変わってない、樹だ。お前どうしてんの、どこにおるん、今元気か、俺は元気や、結局再発はしなかったぞ。

俺の矢継ぎ早の質問に、樹は今はとても元気だと笑顔で応えてくれた。もう命の瀬戸際は歩いてないよと。

俺が退院したその後、樹は俺が想像していたのとは違って、外国に行かずに国内で心臓移植に臨んだのだと言う。「凄く幸運だった」と樹は言った。いくつもの細かい条件をクリアして当時の樹のような年齢の子どもに移植の順番が巡って来るという事は僥倖と言って良い、とても珍しい事なんだと。

当時の樹は、あと少し時間を置いて、まず機械設置の順番が回ってきたら体に外付けの心臓の代わりをしてくれる機械、補助人工心臓をつけて移植の順番を待つと言うもう瀬戸際のギリギリの状態だったらしい。でもそれで移植の待機列に着いたとしてもその順番が回って来るのが先かそれとも間に合わずに全部が終わるか、そして仮に順番が巡って来ても条件がすべて合致してくれるのか、それはどれをとっても宝くじの勝率のような状況で、だからこそあの時

「アキラメチャッタンダ」

本気で思っていたんだと言う。樹は8歳のあの時にもう人生を諦観して、死を受け入れるつもりでいたらしい。

「僕はもう『見るべきものは見つ』みたいな気持ちでいたんだけどね、でもあの時柊也が凄く怒っただろう、あきらめるなって、試合は終了1分前まで勝敗はわからないんやぞって。僕はそれまでスポーツなんてほとんどやった事が無かった上に柊也みたいな元々健康な体の友達が全然いなかったから、そう言う考え方に触れた事が無かったんだ。それで柊也がそう言うなら、あんまり諦観しなくていいのかなって思った、少しは期待して待ってみてもいいのかなって」

そうしたら、その後に色々な幸運が巡って来たんだと樹は言った。

「あのさ、俺今、樹に再会できてスゴイ嬉しいんやけど、そこどこ?外?でもなんかえらく明るくない?」

「ボストン」

外国か!俺が思わず画面に突っ込んだら、そのはずみで菫が携帯を取り落としてしまって、その事に軽くキレた菫に尻を連続して蹴られた。それを地面に落とされたままの画面越しに見ていた樹は笑った、菫は変わらないね、それどころか昔よりずっと元気だと言って。やめて、笑ってないで止めて。

俺たちは、流れ星を見に来たはずなのにそのまま小さな画面、海の向こうに繋がっているそこに向かって会話をし続けた。樹は留学中なんだと言った。だから約束の事は覚えてたんだけど、そのためだけの数日の帰国はできないし、それでこの事を菫に頼んだんだと言う。そうしたら、菫に俺が完全にこの約束を忘れていたことを暴露された。樹は笑って、いいんだ、柊也がこの10年病気と無縁で元気に過ごしていた証拠だよと言って許してくれた。相変わらず本当に物言いが大人だ、お父さんか。

俺達は、お互い言いたい事聞きたい事、あと10年前の約束を言い出しっぺの俺が完全失念していた事、その謝罪他本当に色々言葉にするべきことはあったけれど、俺は一番言わないといけない事を忘れてはいけないから、互いの近況報告に割り込むようにして、少し早口でこのことを樹に伝えた。

「樹も菫も俺もみんな生きててよかった。あと樹、誕生日おめでとう」

俺はちゃんと誕生日は覚えてたというか思い出したぞ、そう言うと樹はありがとうと嬉しそうに言い、菫は日付もう変わりましたけど、と悪態をついた、お前はいちいちうるせえな。

樹は来年の秋に帰国するらしい。あの時諦めずに、待って、待って、そして心臓を切って取り換えて1人でどこにでも行けるようになった今、行きたいところが沢山あって忙しいと言った。でも来年は必ず会いに行くから。未来の約束が出来るのっていいよね。樹はそう言ったので、その感覚だけは俺も分かると思った。命が続く確信がなければ未来の約束なんかできない。

来年の同じ日にここでまた会おうね。菫も言った、この口の悪いフランス人形も未来の約束を切望した仲間の1人だ。

俺たちは来年の約束をした

2021年11月17日

今度は3人で、ここで会おう。


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